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卒業生が書いた記事──翼・リレートーク59 |
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神奈川の竹内さんからご紹介を受けました沖縄県の宮城です。竹内さんとは全通研の代議員会や全通研の集会などでお会いすることが多くいつも元気な彼女には、いろいろお世話になっています。はるか遠く(?)の沖縄の私にこのリレートークがまわってくるなんて夢にも思わなかったので、かなり戸惑っています。何を書こうか考えているうちにだんだん〆切が迫ってきました。そろそろ書き始めなければ・・・。唐突ですが、手話講座などでよく聞かれる質問に、手話を学んだきっかけは?というのがありますよね。そのあたりのことから書いてみたいと思います。 私が手話を学んだのは大学を卒業してからです。大学が福祉関係だったわけでもなく、ボランティア活動をしていたわけでもないフツーの大学で国文学専攻だった私は、将来は教師になろうかと漠然と考えていました。ある時、祖父が脳出血で倒れ、左半身麻痺、言語障害になりました。倒れたのはちょうど大学の夏休み前だったので、東京の大学に通っていた私は夏休みを利用して帰省し、祖父のリハビリに一ヶ月ほどつきあいました。その時、声が出せないもどかしそうな祖父の姿をみて、言語訓練のてだてはないものかと思い、言語療法士の資格が取れる養成機関を探しました。大学を卒業する年に養成機関を受験しましたが、勉強不足、力不足、倍率も高いと三拍子がそろい(?)、結局1年目は不合格。あきらめきれない私はもう一年頑張ろうと決意し、もう一度試験を受けました。その時、同じ養成機関に手話通訳の職員を養成するコースがあったので、これ以上、親に心配をかけられない・・・と滑り止めのつもりでそこも受験したのが運のツキです。第一目標の言語療法士のコースには落ちたものの、捨てる神あれば拾う神あり(?)で、手話のコースにはなんとか合格しました。今思えば、言語療法士と手話通訳はある意味で対極の部分にあるものなので、それからすると私の手話を学んだ動機はかなり曖昧なものなのです。 というわけで、その時から言語療法士ではなく、私の手話通訳者目指す道が始まったというわけです。とは言っても、「手話」はぜんぜんできなかったので本当に一からのスタートでした。ただ、「手話」をまったく見たことも聞いたこともないという事ではなく、私の2つ上の年代あたりに風疹という病気が流行し、その影響で聴覚を失った方々が大勢いて、同じ中学にも部活動の先輩に補聴器をしていた方がいました。また、その風疹が流行するまでは、沖縄には県立のろう学校が一つしかなかったため、風疹の影響で聴力を失った子どものためのろう学校が新設され、北城ろう学校とよばれていました。そこは昭和40年頃に生まれた、いわゆる風疹児の呼ばれる子どもたちだけで構成されるろう学校で、先輩後輩の学年がない単一の学年のみの学校でした。北城ろう学校の宮古分校で勤めていた母親が、自宅でテレビや本で手話を勉強していましたので、そういう姿は記憶のかたすみにあったように思います。ここまで読んだ方は気付いたと思いますが、手話を始めたのはこれだ!というきっかけが話せない私ですから、手話講座でよく聞かれる「手話を始めるきっかけは?」という質問に答えるのはちょっと面倒だなぁ〜と思うこともしばしばです。(すみません) ちなみに祖父の言語障害は完治し、今では元気に過ごしています。 さて、そろそろ沖縄の話をしたいと思います。こちらには手話通訳士が7人います。今年なりたてほやほやの1名を加えての人数です。少数なのでお互いの顔と名前が一致し仲良くやっています。定期的に手話通訳士が集まるということはしていませんが、2年ほど前から、全通研沖縄支部会員の呼びかけで通訳士試験の学習会を行っていて、一次試験対策は支部会員の通訳士が講師を担当し、お互いに学習しながら助け合いながらやっています。その時にみんながそろうという感じです。各集会に参加するほうも少数なので、アットホームな感じでわきあいあいとすすめています。沖縄の県民性なのか何をするにものんびりしていて、おだやかです。時にはそれが困ることもありますが、日頃の通訳業務や、あくせくした人間関係に疲れた時など、こういうアットホームな集まりはホッとさせられます。まだまだ人数的には足りないので、もっともっと通訳士が増えていくように、あせらずみんなで頑張っていこうと思います。 この原稿が掲載されるのは5月号です。5月と言えば6月の一ヶ月前(あたりまえですね)。6月と言えば・・・そうです、第50回全国ろうあ者大会が沖縄で開催されます。すでにお手元には案内書・申込書が届き、参加申込を済ませた方もいらっしゃると思います。いくらのんびりゆったりのおおらかな県民性でも、大会開催に向け、準備や調整に余念がありません。私も実行委員の一人として週に一度の実行委員会に参加し、担当班の班会議をするなど、大会本番に向けて徐々に緊張感が高まりつつあるのを感じています。沖縄でこのような全国規模の大会が開催されるのは生きている間には、もう二度とないのではと思います。(かなりオーバーですが)。実行委員の一人として悔いの残らないよう、また全国から参加されれ方に喜んでいただけるような大会の成功をめざしてプレッシャーを感じながら6月を迎えます。そのころの沖縄は梅雨も明け、もしかしたら夏本番に突入しているかもしれません。木々の濃い緑が大会を、盛り上げてくれるでしょうか。それとも、ジリジリと暑い太陽光線でしょうか。沖縄の公共交通機関といえばバスです。こちらには電車がありませんので、移動手段はタクシーかバスか自家用車です。小さい島ですからそれほど時間はかかりませんが、交通渋滞が心配です。全国から参加される皆さんが、リラックスした気分で大会を楽しんでいただけるよう、私も笑顔で6月を乗り切りたいです。 さてそろそろ次の方にタスキを渡します。年明けに沖縄でお会いしましたね。いつも愛らしい笑顔を絶やさない、キラキラした瞳のお人形さんのような、岐阜の松野令子さんにお願いします。 (日本手話通訳士協会機関紙『翼』124号・2002年5月1日発行より。日本手話通訳士協会の許可を得て転載。明らかな誤字脱字については修正した) |
