1868年(慶応4年)1月11日の夜、大阪にいるはずだった将軍(正しくは元将軍か?)徳川慶喜が突如、品川に現れた。鳥羽伏見での敗報に接するや、反撃に出るどころか、極秘裏に大坂城を抜け出し、幕府軍艦開陽でわずかな側近とともに江戸に逃げ戻ったのである。このときの慶喜一行は、皆顔面蒼白、口も聞けないほどの狼狽振りであったという。大坂にいた幕府軍は総大将不在となり統制もとれず総崩れ、江戸へ落ちていった。
その後、2月15日、官軍は有栖川宮を東征大総督に、錦の御旗を先頭にして東海道、東山道、北陸道に分かれ東進を開始した。
当然、幕府内でも対応をめぐって議論があった。
抗戦論
幕府はまだ充分戦える。戦法としては、
先ず、幕府海軍の艦隊を駿河湾に派遣し、艦砲射撃で官軍を攻撃し、輸送路を断つ。次に、別の艦隊を大坂湾に配置し、大坂を攻撃し、後方を撹乱する。
そして、官軍が江戸城に迫ったときは、江戸城下を全て焼き払う。これは、官軍に城下を利用されないためであり、籠城戦の常套手段である。しかし、江戸町民にとってはたまったものではない。
戦いは長引くだろうが、フランスも軍事面の協力を申し出ているし、その間に徳川に味方する藩も参陣し、充分勝算はあるといったものである。
恭順論
戦うことはできるだろうが、戦いは長引く。戦いが長引けば、イギリスが薩摩藩を後押しし、日本は英仏の代理戦争の場となる。どちらが勝っても、日本は外国の支配するところとなる。ここは、恭順の意を示し江戸城は明け渡す。しかし、徳川家は存続させる。万が一、慶喜断罪などになった場合には、徳川の親藩譜代が黙ってはいない。これが新たな火種となる。
日本の国内分裂を避けるため、江戸城は明け渡し、徳川家の存続を図ったものである。
結局、恭順論がとられ、徳川慶喜は江戸城から上野寛永寺へ身を移し、謹慎した。
官軍は抵抗らしい抵抗も受けず江戸に迫り、大総督府参謀西郷隆盛は江戸城総攻撃の日を3月15日と決めた。
会談
官軍の攻撃が目前に迫った3月13日、江戸開城をめぐって、幕府と官軍との間で会談が持たれた。官軍の代表は西郷隆盛。幕府の代表は勝海舟。勝海舟は薩摩藩、西郷隆盛との親交があったため、鳥羽伏見の敗戦後、急遽、海軍奉行並となり、さらには陸軍総裁となり、江戸開城という幕府最後の難局に立ち向かうことになったのである。
場所は薩摩藩邸。会談は2日にわたり、3月14日、両者の合意がなり、西郷隆盛は翌日に迫った江戸城総攻撃の中止命令を出し、江戸城は無血開城となった。
実際に江戸城が明け渡されたのは、4月11日のことであった。
江戸に迫った官軍は、徳川家の武力討伐、徳川家の断絶を方針としていた。これは、徳川家の存在は後顧の憂いとなるとの判断であろう。その官軍の方針がなぜ転換したのだろうか。
天璋院篤姫と皇女和宮
江戸無血開城が成功した裏には、天璋院篤姫と皇女和宮のはたらきがあったという。
天璋院篤姫は、薩摩出身の第13代将軍徳川家定の御台所である。その天璋院篤姫が大総督府参謀西郷隆盛宛てに徳川家の存続を切に願った嘆願書を書いたのである。
皇女和宮は孝明天皇の妹で、第14代将軍徳川家茂の御台所である。この和宮も徳川家の存続を願った手紙を、沼津にいた東海道先鋒総督橋本実簗と蕨にいた東山道先鋒総督岩倉具定に書いたのである。
この二人の未亡人のはたらきが江戸の街を戦禍から救ったといわれているが、はたしてそうだったのだろうか。官軍の方針が情に訴えた手紙だけで変更になったとは思えない。もっと実利的な原因があったのではなかろうか。
勝海舟の策
当時、日本は開国し諸外国との貿易が始まっていたが、日本のおもな輸出品は生糸であった。そしてその貿易相手国としては最も先進的な資本主義国であるイギリスが圧倒的優位に立ち、貿易額の大部分を占めていた。そのイギリスは薩摩藩と近い関係にあった。
勝海舟はそこに目をつけた。勝は先ずイギリスに日本の内乱回避の重要性を説いたのである。日本に内乱が発生すれば貿易が停止し、イギリスの国益が損なわれる。フランスなど他国が介入してくれば、イギリスの現在の優位性も保証されない。むしろ、日本の内乱を事前に抑え、新政権発足後もイギリスの優位性を保ったほうがよいのではと。
イギリスは江戸無血開城に向けて動いた。イギリス公使パークスが江戸無血開城に向けて西郷隆盛に働きかけたのである。
このことが、西郷・勝会談に大きく作用したことではなかろうか。勿論、西郷と勝は旧知の仲であり、互いが相手を尊敬していたという信頼関係がプラスに作用したことであろうし、前述の篤姫と和宮の手紙も影響したことは確かだろう。
その後……
この交渉では大筋で合意したものの細部については未決定な部分もあった。徳川家の所領がどれくらいになるかなどである。このことがはっきり決まらない限り、武装解除には応じられないとして、榎本武揚などは幕府艦隊を率いて江戸湾を脱出した。そして、後に、北海道函館へと向かうのである。
徳川慶喜はいったん水戸へ蟄居。その後静岡へ移り、歴史の表舞台へ二度と出ることなく、その余生を送った。
江戸無血開城というと江戸の町民を戦禍から守ったということが先ず思いつく。それはそれで非常に大事なことであるが、その裏にはやはり外国の影響や経済が絡んでいたということは興味深いことである。

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