修禅寺物語





 伊豆修禅寺の宝物殿には真二つに割れた能面が所蔵されている。作家、岡本綺堂はこれを題材にして、源頼家の死にまつわる戯曲を書いた。「修禅寺物語」である。

 修禅寺物語 粗筋
 伊豆・修善寺に幽閉されていた頼家は、自分の顔を後世に残すべく面作りの名人夜叉王に自分の顔の面を作るように命じた。しかし、半年も経って出来あがらないので、ある秋の晩、夜叉王のところへ催促に行った。夜叉王は何度作ってもその面に死相が現われるので納得できず作品を渡せなかった旨を頼家に言うと、頼家は怒って夜叉王を斬ろうとした。これを止めに入った夜叉王の娘かつらがその死相の現れている面を頼家に献上した。見事な出来映えに頼家は感銘しこの面を受け取り、そして娘かつらを御殿に出仕させ側女とした。しかし、その夜、北条の暗殺団に襲われた頼家は殺され、面をかぶって頼家の身代わりとなって戦ったかつらは瀕死の身で実家に落ち延びた。父夜叉王は自作の面が将軍の運命を暗示するほどの作であることを知り満足の笑みを浮かべた。そして今まさに死なんとする娘、かつらの断末魔の面を写しとろうと筆を走らせるのだった。

 合議政治
 1199年(建久10年)1月13日、頼朝が死ぬと、その後を継いで二代将軍になったのは頼家。このとき、17歳。
 その年の4月、政子は頼家の将軍親裁を制して13人による合議政治をすると決めた。
 13人のメンバーは、
   北条時政、北条義時、大江広元、三善康信、中原親能、三浦義澄、八田知家、
   和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時、二階堂行政  である。
 理由は、頼家が暗愚であったということである。これで形式上の将軍となってしまったわけである。
 そしてさらに、失脚、修善寺への、追放、暗殺へとつながっていく。

 
頼家失脚の理由は……
 頼家の不行跡
 将軍頼家は評判の美女瑠璃葉(盛長の子・景盛の妾)を景盛から横取りし、さらに、時政に頼家の非を訴えた景盛の父・盛長に無礼討ちの兵を向けようとした。安達館でも迎え撃つ準備をするが、政子が安達館へ駆けつけ、頼家を諌める書状送りつけた。こうして騒動は治まった。
 頼家の政治
 将軍頼家は、恩賞地を再配分しようとした。父・頼朝が御家人に恩賞としてあたえた土地について500町歩を超える分については幕府に召し上げ、忠勤無禄の士に分け与えようとしたのである。 
 「一所懸命」という言葉があるほど何よりも土地を大事に思う御家人たちにとってはまさに一大事である。幕府に対する武士の信頼を根底から覆すことになり、猛反対を受けた。
 勢力争い
 頼家は比企一族との結びつきが強い。頼家は比企の館で産まれ、比企の尼の娘が頼家の乳母となった。さらに、頼家の妻、若狭の局は比企の尼の孫である。当然、幕府内での比企一族の発言力は増し、これまで頼朝の黒幕として幕府の実権を握ってきた北条氏とぶつかることになる。

 失脚から暗殺へ
 1203年(建仁3)7月、頼家が病に罹り危篤状態となった。この間に事が進んだ。
 8月、頼家の子・一幡(6歳)は関東28カ国の地頭職と総守護職、頼家の弟・千幡(12歳)は関西38カ国の地頭職と決まった。
 9月2日、北条の軍勢は比企の館を急襲し、一幡を始め比企一族を皆殺しにした。
 この直後、頼家は奇跡的に昏迷からさめ、妻子の死、比企一族の壊滅を知る。頼家は北条時政暗殺を和田義盛、仁田四郎忠常らに命じるが、拒否されて失敗。
 9月7日、頼家の弟・千幡は従五位の下、征夷大将軍に補せられ、名を実朝と賜り元服した。この時、北条時政は将軍後見の役として執権となった。
   ( 朝廷にはすでに、9月1日に頼家が死亡したとの報告がされていた。 )
 9月末、頼家は伊豆修禅寺に幽閉された。
  そして、
 1204年(元久元年)7月18日、頼家は、修善寺温泉で湯浴み中、北条の刺客団に襲われ惨殺された。

 
疑 問 1
 頼家が将軍に就任するとすぐに合議制が導入されたが、これは最初からの計画か。
 暗愚な頼家を将軍にし、合議制を持ち込もうとした……。
 合議制、あるいは執権制を持ち込もうとすると、将軍は暗愚か、若ければ若いほど都合がいい。頼家は暗愚(実際にどれほどのだったのかも疑問であろう)で、子の一幡、弟の千幡はまだ子供。合議制導入の絶好の機会だったわけである。
 もし、頼朝がもう少し存命していたら……。
 頼家、一幡、実朝ももう少し成長していたことであろう。その場合、果たして合議制、あるいは執権制が採られたかどうか……。
 そうすると、頼朝暗殺説にも理由がついてくる。

 
疑 問 2
 頼家の子・一幡が関東28カ国の地頭職と総守護職に決まってから殺されるまでの時間が短すぎる。最初から殺す気で官職を与えたのか、あるいはこの間に比企一族を皆殺しにしなくてはならない何か引き金になるようなことが起こったのか。


 何とも凄いものである。骨肉の争いとはまさにこのこと。政子から見れば、自分の実家と息子との争いとなる。その結果、自分の息子と孫を殺す結果となった。血のつながった身内を殺すしか解決できなかった当時の状況……、背筋の凍る思いがする。
 保元・平治の乱でも骨肉の争いはあったが……。




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