義高と大姫




 木曽と鎌倉の和議
 1180年(治承4年)、以仁王は源頼政とともに平家打倒の兵を挙げたが、宇治川であえなく敗死。しかし、令旨は諸国の源氏にもたらされ、それを受け、源頼朝と木曽義仲が相次いで伊豆と木曽で挙兵した。頼朝は石橋山で敗退したものの房総に逃れ鎌倉入りし、その後は勢力を順調に伸ばした。義仲の方も木曽で破竹の勢いで勢力を伸ばし、この両者の勢力は、千曲川を巡ってにらみ合いの状況となった。
 源頼朝と木曽義仲は従兄弟同士の同族ではあったが、父親の代からの宿怨もあり、対立する宿命にあったのである。
 義仲は西からの平家軍、南からの頼朝軍の両面からの圧力を受け、その打開策として頼朝との和議の道を結んだ。和議の条件は、義仲の嫡子、清水冠者義高(当時11歳)を人質として鎌倉に渡すというものであった。表面上は、頼朝の子として養育し、将来は頼朝の娘大姫(当時5歳)を義高に娶わせるというものであった。
 1183年(寿永2年)3月のことである。

 義仲敗死
 頼朝と義仲の講和ではそれぞれの思惑があったであろう。
 義仲の腹とすれば、平家を討ち、先に入京すれば、頼朝とは言え、自分に従うはず。
 頼朝の腹とすれば、平家と義仲を戦わせ、両者の勢力を削ぐ。義仲が勝った場合には、和議を無視し、義仲を攻め、義高も始末する。と言ったものだったのだろう。
 その後、義仲は倶利伽羅峠などの華々しい戦勝の後、入京。しかし、状況は義仲に味方しなかった。折からの飢饉で、兵糧の調達に苦しんだ木曽軍は略奪に走り、暴徒と化した。後白河院の要請を受けた頼朝は、義仲に従うどころか、この要請を利用し、範頼、義経の二人を大将とする義仲追討軍を派遣した。
 そして、ついに、1184年(寿永3年)1月、義仲は大津・粟津ヶ原で討ち取られた。
 このとき、義仲の正妻であり、義高の産みの親でもある巴御前は和田義盛の手勢により生け捕られたのである。

 義高殺害
 鎌倉に送られた義高は、粗略には扱われず、頼朝夫妻のもとで養育された。特に、許嫁でもある大姫は義高を慕い、仲の良さは兄妹のようであったという。
  しかし、木曽滅亡のあと、頼朝にとって義高の存在価値はなくなり、義高の処刑の断を下した。この決定が漏れ伝わり、身の危険を察知した義高は鎌倉を脱出、逃亡した。これを聞いた頼朝は激怒し、堀藤太親家に義高の捜索を命じた。親家の郎党の一人、藤内光澄は手勢30〜40名を率いて鎌倉街道から武蔵野国を探索し、ついに5日目、入間川の畔で義高を見つけ、惨殺した。義高の首級は藤内光澄の手により鎌倉に持ち帰られ、頼朝の実検に添えられたという。1184年(寿永3年)5月のことであった。

 大姫のその後
 義高の死を知った大姫は半狂乱になったという。食事ものどを通らず、ついに病床に臥してしまった。頼朝夫妻は、大姫の病気平癒のためにはありとあらゆることをした。
 頼朝夫妻は、大姫をなだめるため、義高を討ち取った藤内光澄を首にして差し出すよう堀藤太親家に命じた。藤内光澄は因果を含められて切腹し、その首は頼朝夫妻に示されたという。
 義経の愛妾静御前も大姫を慰めるため、勝長寿院で大姫のために舞っている。また、頼朝は、霊験あらたかといわれる伊勢原の日向薬師に自ら出向いて大姫の病気平癒を祈願している。
 しかし、大姫の状態は一向に良くならず、病床に臥してから14年目、頼朝の死のわずか2年前、1197年(建久8年)の秋、この世を去った。

 巴は……
 義高の母、巴御前が生け捕りにされたのは、義高の命乞いをするためとも言われている。それはありえることである。巴は生け捕りにされたあと、鎌倉の和田義盛のもとへ預けられていた。義高が殺された1184年(寿永3年)5月頃には、巴はすでに鎌倉にいたと思われる。しかし、巴は義高に会えることはなかったであろう。そして、義高の死を知ることになる。巴はこの年の1月には、夫の義仲や実の兄の今井兼平、樋口兼光を戦で失い、今ここで一人息子の義高を失ったことになる。
 巴はいつしか鎌倉から姿を消したとのことである。天涯孤独となった巴がどこを目指して旅立っていたのか誰も知らない……

 この事件は頼朝の性格の一面(冷淡さ)をよく表していると思う。娘の最愛の遊び相手さえ、用がなくなると始末する。その結果、自分の娘も殺したと同様な結果になってしまったのであるが……。
 頼朝が平治の乱で生け捕られたのが、14歳のとき。このときの義高の歳とあまり変わらない。身寄りのない少年であろうと、生かしておけば後々の災いになる。そして、情けほど危険なものはないと言うことは、頼朝が身をもって習得した人生訓だったかもしれない。



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