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「歌、上手いね」 奈津美は、羨ましそうに言っていた。 頭上の花 下手糞な歌が聞こえる。 深夜どころか朝まで続いた残業を終え、日曜の昼近くになってから地元の駅に辿り着いた。タクシーを拾おうとして、フラつきながら駅前広場へ下りる。汚い階段を下りきったとき、目の前には安っぽい舞台があった。 詰めれば五十人は上がれそうな舞台の上に、三十人ほどの人影が見える。彼らは、音楽にあわせて歌っているようだった。 舞台に天井はなく、段上に上がるための階段もない。上り下りは、全て舞台の両端についている緩やかな坂で行うらしい。 舞台の前には観客のために用意されたパイプ椅子が三十脚ほど並べられていた。しかし、座っている人間は少ない。観客は大勢いるのだが、誰も腰掛けようとしないのだ。 演劇でも手品ショーでもない。たかが合唱団の発表如きを、腰を据えて聞こうとする人間は多くないのかもしれない。 合唱団のくせに歌は下手糞に聞こえた。当然だ。彼らは合唱団でも何でもなく、ただの素人なのだから。 いや、”ただの”でもない。舞台上の人間はそれぞれ異質だ。腕のない老人、杖を片手にようやく立っている少女、決して目を開かない男、車椅子に座っている女、少し頭の足りなさそうな奴らと、それに付き添うように立っている暇そうな奴ら。 舞台上にいる人間のほとんどが身体、知的を問わずに障害者で、数少ない健常者はボランティアの人間なのだろう。 (懐かしいな) 俺は、二年前にあそこで歌ったことを思い出して、パイプ椅子に腰掛けた。一曲だけ聞きたかった。 昔から健常者である俺は、当時はボランティアとして歌った。かといって、何も社会福祉の精神を持っているわけではない。付き合っていた女がボランティアに熱心で、歌の得意な俺が無理やり付き合わされたのだ。 奈津美は驚くほど音痴で、並んで歌っていた俺のことを、心底羨ましそうに見ていた。 ――アイツの顔を思い出すと、今でも胸が痛む。 曲が終わった。眠りかけていた意識を取り戻して、顔をあげた。そのまま舞台の上の人間を一瞥する。その俺の視線の先に、信じられないものがあった。 「奈津美」 見間違いではなかった。舞台の上には、確かに奈津美がいる。 二年前とは、段上でのいるべき位置が変わっていた。 奈津美と別れてから、一年が経っている。 アイツは顔も性格もスタイルも申し分のない、俺には勿体無いほどイイ女だった。 別れる二ヶ月前、ドライブに出かけた。俺はカーステレオで奈津美の好きなビートルズの曲を流しながら、好きな曲になると口ずさんだ。 「歌、上手いね」 口癖になった言葉を奈津美が繰り返すたびに、「学生ン時、ヴォーカルやってたからな」と無表情に答えた。 丁度、ステレオからジョン・レノンの「イマジン」が流れ始めた頃だったと思う。 俺達二人が乗っていた車に、左から居眠り運転の車が突っ込んできたのは。 助手席に乗っていた奈津美の足は、「イマジン」を垂れ流すカーステレオと一緒に、粉々になる程ぶっ壊れた。 運転席にいた俺は軽傷ですんだが、奈津美は大量の血を流していたらしい。車内が、赤く染まって見えた。 俺は夢中で「大丈夫か」と叫んだ。叫びながら奈津美の肩を掴んだ。奈津美はその手に自分の手を添えて「平気」と言った。 それから少し笑って、何故か「ごめんね」と泣いた。 助け出されたとき、担架の上に投げ出された奈津美の足は、グロテスクな物体にしか見えなかった。 それでも、俺は奈津美を愛していた。毎日見舞いに行き続けたが、そのたびに変わってしまった奈津美の体が怖くなった。 「別れよう」と言ったとき、奈津美は「そうだね」と笑った。 俺が言葉を継ごうとする前に、また少し笑って「ごめんね」と泣いた。 初めて、自分を憎いと思った。 愛している女を、簡単に捨ててしまえる自分の卑しさを知った。 そうして、俺は車と奈津美を捨てた。 奈津美が困った顔で、控えめに俺を見つめている。その姿は、思い出の中のそれよりも、少し小さく、ずっと綺麗に見えた。 帰るに帰れなくなった俺は、奈津美に少しだけ笑い返した。俺の反応を見た奈津美は、咲くような笑顔を見せた。 今でも好きだ、と思った。変わらずに愛していると思えた。あの女を、今すぐに抱きしめたかった。 その欲求を、嫌になるほどの現実主義が否定する。 ――奈津美は、二度と立てない。 一年前に聞かされた言葉が、脳内で蘇っている。 だいたい、自分から無責任に捨てた相手になんて、どの面下げて接していいのか分からない。 コンサートは進んでいく。どうやらプログラムの曲目は、二年前と全く変わっていないようだった。 それならば、曲は全部で五つだろう。五曲目は観客の希望者を舞台に上げての合唱になる。 それは、聞きたくない。 何度も帰ろうとしたが、俺が立ち上がろうとするたびに辛そうな笑顔を浮かべる奈津美に負けた。 本当に、自分の馬鹿さには愛想が尽きる。 さっさとふっ切らなきゃならないと思いつつ、あれからずっと他の女との接触を避け続けている。 曲の合間にすまなそうに手を振ってくる奈津美の顔は、綺麗だった。切なさに気分を乱されつつも、俺は奈津美の意識が逸れるチャンスを静かに待った。 四曲目が終わると、司会者がマイクで五曲目の参加者を募り始めた。 その声が広場に響いたとき、奈津美の意識が俺から逸れた。 俺はその隙に大急ぎで立ち上がって、後ろを向いた。 視界からは、奈津美が消えている。 罪悪感が胸を突く。切なそうに笑っている奈津美の顔が頭に浮かぶ。 それでも、俺は振り返らなかった。 自分は変な顔をしているだろうなと、頭の隅で思った。 そのまま広場を抜けようとしたとき、ドスンと何かがぶつかってきた。軽い衝撃に、俺は少しよろめいた。 何がぶつかってきたのかなど、少しも気にならなかった。ただ、早くこの場から立ち去りたくて仕方がない。 構わずに足を出そうとすると、何か違和感があることに気付いた。見ると、小学校低学年くらいの子供が、俺の足元で足を投げ出した格好で転んでいる。衝撃の正体はこれだろう。 その手にはジュースの缶があった。違和感はジュースの中身がズボンを濡らしたものか。 軽く謝って、起こしてやろうと手を差し伸べた。泣きそうになっていた子供は無理に笑って俺の手を掴んだ。 小さな唇から、「ごめんなさい」と言葉が漏れる。 ――吐き気がした。 悪いことに、ジュースの中身は朱色の液体だったらしい。その嫌な色が、白かった子供の服を染めている。 赤、衝撃、投げ出された足、赤、笑顔、ごめん、赤。 俺はしばらく呆然とした。ひどく感傷的になっていたせいで、ささいな光景がフラッシュバックを引き起こしたらしい。 子供が不信そうに俺の顔を覗き込んでから、お辞儀をして去っていった。 俺は、忌まわしい記憶のリフレインのせいで、それどころではない。 頭の中は、奈津美で一杯になっている。 五曲目のイントロが流れ出したとき、ようやく我に返った。 イントロだけで何の曲か分かってしまう。不覚にも、少しだけ視界が滲んでいた。 おそるおそる振り返ると、舞台に飛び入りの参加者が何人か乗っているが見えた。 奈津美はその中で、周りと同じように、しっかり笑っていた。最後の曲を聞きながら、ちゃんと笑っていた。 一瞬で、奈津美との思い出と、涙が、滝のように溢れ出した。 危なっかしい奈津美の笑顔を見ると、もう俺は止まれなかった。好きだと思った。愛してると思った。 みっともなくて恥ずかしいと思った。けど、涙は少しも止まってくれない。 「チクショウ」 俺は舞台に足を向けた。 「くそ、くそ、チクショウ」 ズンズン歩きながら、袖でめちゃくちゃに顔を拭いた。 「ああ、もう、くそ、くそ」 安物の上着を脱ぎ捨て、ネクタイを緩めた。 「くそ、チクショウ」 泣き顔のまま舞台に上り、奈津美の後ろに立った。 「ダメだ、チクショウ、くそったれだ」 泣きながら、五つ目の曲を歌った。 曲名は、「イマジン」。 曲が終わると、奈津美を車椅子から抱き上げて、キスをした。 奈津美は真っ赤になって「馬鹿」と言ったが、顔は笑っていた。 さっきまで俺の前で必死に歌っていた奈津美は、相変わらずひどい音痴だった。 俺の自慢の歌声も、込み上げてくる嗚咽のせいで、ロクなもんじゃなかった。 それでも、抱き上げられた姿勢のまま、奈津美は言った。 「歌、上手いね」 俺は、崩れるように泣いた。 吹きさらしの天井の上には、雲ひとつない青空が広がっている。 |