| 戦後アマチュア無線の夜明け(1) |
| JA1BC 作間 澄久 |
JA1BC局 作間澄久様にご無理をお願いして書いて戴きました。
氏は戦後ハムの第一号です。現在NTVハムクラブを主宰しておられます。
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戦前は短波を受信するだけでも政府の許可を必要とし、更に1941年の日米開戦によって短波受信は全面禁止されました。しかし1945年の終戦と同時にこの制約は廃止され、誰でも自由に短波を受信出来るようになりました。
我々は早速古い並4ラジオを改造したり、神田で怪しげな真空管を購入したりして真空管2〜3本の短波受信機を制作し、空腹を忘れてハワイやメルボルンからの短波放送を胸躍らせて聞き入ったものです。(注1)
当時はまだ秋葉原のラジオ街はなく、須田町から小川町にかけての歩道に露店がずらりと並んで、日本の軍用無線機の部品などを売っていたので、"アキハバラ"ではなく"カンダ"と呼んでいたのです。
最初の受信機は0−V−1と呼ばれた再生検波と低周波一段増幅の簡単なものでした。コイルのボビンは、反物の芯のボール紙の筒(直径3センチくらい)に呼鈴のコイルをバラしたエナメル線を7〜8回巻いただけのものでした。 これに数メートルの針金アンテナをつないだだけで、強力な短波放送は十分に楽しめました。
メルボルンのラジオオーストラリアのクーカバラ鳥(笑いかわせみ)の鳴き声とワルティングマチルダのメロディー、ロンドンのBBCのビッグべンの荘重な響きなど特徴あるインターバルシグナルの音はまだ耳に残っています。
1947年頃から神田の露店にも米軍関係のジャンクや、米軍の軍用番号を塗りつぶしたメタル真空管(アメダマと呼んでいた)などが登場し、自作の受信機も少しづつ向上して、スーパーヘテロダインになってきた頃、7MHzのアマチュアバンドでアメリカのハムのCW電波が強力に聞こえるのを知りました。
それからは専ら14MHzCWを中心にハムバンドばかり聞いて、SWLカードを送り、100カントリー以上のQSLカードを集めて悦に入っていたものです。
その後1950年6月に現在の電波法が施行され、「アマチュア無線」という言葉が初めて正式に法律の条文に登場して戦後のハムの第一歩が踏み出されました。
なお戦前の無線電信法には「アマチュア無線」という言葉はなく、「私設無線実験局」という名称で出力は10ワット以下、運用時間にも制約があるという悪い条件の中で、OTの皆さんは健闘しておられたのです。(注2)
法律は出来ても、1952年7月29日、実際に初めての予備免許が下ろされるまでにはいろいろと紆余曲折があり、当時のOM方の大変なご苦労があるのですが、金さえ出せば何でも手に入る現在の便利で自由な世の中から振りかえってみると、すべてを工夫と情熱と手作りで賄ったその頃が妙に懐かしく思い出されるのは、自分が年をとったせいでしょうか。
戦後アマチュア無線の夜明け(1)−終わり−
(C)作間澄久1999
編集部
注1:終戦後、「食糧難」で老若男女みんなひもじい思いをしていました。
注2:OT(Old Timer)アマチュア無線の草分け的存在の人を指す敬称。
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文京タウン アマチュア無線 145.20MHzグループ