Aファンタジーの話型

A)行きて帰りし物語


この型のストーリーは最も数が多いですね。
ここで云う「行きて帰りし」とは、現実世界で挫けたり希望を無くした子どもたちが、
異世界(または異体験)を経験することによって、現実世界に立ち向かう勇気を抱いて帰って来るという意味です。

ここで、ファンタジーに寄せられる批判のひとつに、「ファンタジーは逃避の文学である」というものがあります。
確かに、現実世界に行き詰まったときの現実世界からの逃げ場としては、
全くの異空間のファンタジーは格好の舞台装置となり得ます。

しかし、「ファンタジーが逃避」という批判はそもそも、「逃避の否定」を前提とした意見であるし、
現実のつらさに耐えられなくなった時に、時に逃避は解決手段の一つともいえるのではないでしょうか。

もちろん、異世界・異空間へ行きっぱなし、逃避しっぱなしということは、やはりいけません。
いくら目をそむけても、私たちは最後には現実という世界に帰らねばならない、
という常にシビアで現実的な面が、この物語の型を読むに当っては始終ついてまわるのです。

最もファンタジー文学らしい魅力に満ちた物語の形ではあるのですが、
逆に現実と表裏一体の世界のために妙に緊張した一面も見せるのが、
この型の特徴であるともいえるでしょう。

そしてこの「行きて帰りし」物語の重要なポイントは、
現実との直面を避けて異世界へ入ったとしても、
最後にはその異世界で、現実に立ち向かう勇気と元気を取り戻して、
そして現実へと帰って来るという点であります。
簡単にいえば勉強の合間に運動をしてリフレッシュするといった感じでしょうか。

だから、言葉を厳密に使うならば、問題の直面を「逃避」したのではなく「回避」して、
やがて再び挑戦していくのです。

そしてその物語の主人公たちの姿をみて、私たち読者もまた、
現実に立ち向かう勇気を分けてもらうのですね。

 では、具体例を見てみましょう。


<行きて帰りし物語>
作品名 著者 あらすじ
『はてしない物語』 エンデ 最も有名な行きて帰りし物語。コンプレックスの固まりのバスチアン少年が、
いつしか読んでいた本の世界に引き込まれて勇者となりファンタージエンを救い、
やがては父の愛を素直に受け止められる青年へと成長して帰還する。
『ネシャン・サーガ』 ラルフ・イーザウ ドイツ版「胡蝶の夢」的物語。足が不自由な少年ジョナサンが、
自分の分身ヨナタンがネシャン国を救う夢を断続的に見続けるが、
やがて夢と現実世界の区別が曖昧になる。
『ハリー・ポッター』
シリーズ
ローリング 人間界で育てられたハリー少年が実は魔法使いで、一年間魔法学校で過ごして、
夏の休暇期間は嫌な人間界で再び過ごす。
『九年目の魔法』 ダイアナ・W・ジョーンズ 失われた過去をめぐって大学生のポーリーが過去を回想する。
実際に異世界を体感する訳ではないが、
過去という異空間から現在の失われた記憶を取り戻して、現在と対峙する。
『裏庭』 梨木果歩 言葉に導かれて異世界へと引き込まれた照美が、そこで昔起こった事件と罪を清算する形で、
裏庭という死の世界を彷徨い帰還する。魂の悲鳴の物語。




などなど。
このパターンは、本当に挙げたらきりがなく、

他に例えば『きらめきのサフィール』(澤田徳子)、
『扉の向こうの物語』『二分間の冒険』(岡田淳)、
『小惑星美術館』(寮美千子)、
『カエルの城』(ゴルデル)、
『クレストマンシー』シリーズ(ダイアナ・W・ジョーンズ)、
『レイチェル』シリーズ(マクニシュ)、
『アルケミスト』(パウロ・コエーリョ)、
『ライラの冒険』三部作(プルマン)

……など本当に現実と異世界を交錯させた物語は多いです。

私が例に挙げている物語は比較的最近の物語が多いですが、
児童文学の古典名作といわれている物語にも、このパターンは実に多く適用されていますね。
(『不思議の国のアリス』『オズの魔法使い』『ニルスの不思議な旅』『ピーターパン』……)

 これだけ物語の種類がありながら、しかしこれらの物語全てに共通する認識としては、
「一度は現実から逃げた(もしくは弾かれた)少年少女が、
異世界や異体験を通じて再び勇気と元気を取り戻して、現実世界に帰って来る」
という話のパターンそれのみなのです。

古今東西、このテーマがファンタジー文学に繰り返し繰り返し用いられてきた理由は、
まさにファンタジーという土台が現実回避のうってつけの場であり、
且つ、勇気を奮い起こすために最も適した空間であったことに他なりません。

「本を読んで異世界体験をして元気になる」このことは、
私が前述した三つのどの話型にも関わらず(「異世界」「行きて帰りし」「解放」)、
本を書く者全体としての共通認識であるし、
ましてや異空間を舞台としたファンタジー文学にとっては真骨頂といっても過言ではないでしょう。