穴掘り
いつのことだったかわからない。覚えているのは、白い半袖シャツからのぞくシャベルを持った男の腕と、そばに立っているいかにも暑苦しそうな警官の紺の制服だ。二人は一見なごやかに言葉を交わしていて、その間もシャベルの男は地面に穴を掘り続けた。そのうちに警官の声が張りつめた調子になって、制服の手が制するように相手の腕をつかんだ。
「なんの権利があって……」
甲高い警官の声がよみがえってくる。目を吊り上げたその顔も。しかし、あの表情は何かを恐れていたようだと思う。男は静かに警官の手を振りきると、さらに穴を掘り続けた。
どのくらいたったのだろう。別の日だったかもしれない。人の背丈よりはるかに深い穴の縁から、中をのぞきこんでいた。暗くて底までは見えなかったが、誰かが動いている気配がした。胸をどきどきさせながら、爪先立って、おそるおそる見下ろした。
はるか下から、「おお、おお」と声がした。その叫びは穴の中で反響して長く響いた。思わず背伸びして、何があったのか確かめようとした。そのとき、突然足元が崩れはじめた。あわてて後ずさりすると、土のかたまりが次々に音を立てて穴に落ちこんだ。手で押さえようとしても、止めようがなかった。引きずりこまれないようにはって逃げるのがやっとだった。ようやく振り向いたとき、そこには穴はなかった。
泣き声をあげながら夕暮れの街を走った。早く人を呼んで、あの男を助けなければ。だが、誰にも出会わなかった。いくら走っても、大声を上げても、誰も答えてくれなかった。
暗いオフィスのソファで、小高安基は目を覚ました。コンピュータの画面が闇の中にぼおっと光っている。しばらく天井を見つめながら、今の夢を思い返していた。幼いころの唯一の鮮明な記憶。だが、誰にきいてもあったはずのない記憶。
こんなことをしている場合ではない。
安基はあわてて身を起こした。部屋の照明を灯し、端末の前に坐って、もう何百回見たかわからないプログラムをもう一度にらみつけた。
三日前のことだった。安基が責任者となって開発し、納品したシステムが、現場で突然停止した。額に青筋を立てた人々が右往左往するのを、安基は人ごとのように見ていた。そんなことが起こるはずがない、きっと何か簡単な間違いだという気がした。
現場でのチェックの結果、責任がプログラムにあることが明白になったと、顧客担当者は声を荒立てた。安基は眠りもせず、ずっと画面の前に張りついて、自分が設計したコードの列を追っていた。それは突然、知らない国の言葉で書かれているように見えた。
原因がわからないまま三日が過ぎた。初めは蜂の巣のようにぶんぶんいっていた周囲が、しだいに静かになって、張りつめた空気だけが無言の中に漂っていた。「億単位の損害だ」というささやきがどこからか聞こえた。自分に注がれる周囲の視線が、もう終わった人間を見る目に感じられた。
こんなことをしている場合ではない。
端末を前にしても、その気持ちは胸につきまとって離れなかった。一人の人間が穴の中に埋まっている。自分が救わなければならない。だが、もう手遅れだ……
気がつくと、バスに揺られていた。
朝食を買いに外に出たのは覚えている。ずっと雨模様だった空が、いつのまにか晴れ上がっていて、まぶしい朝日が目を射た。
そして、バスの窓から知らない街の景色を見つめている。
日はすっかり高くなっていた。オフィスには人々が集まりはじめているだろう。安基の姿がないのを見て、彼らはなんと言うだろう。
ちょっと胸が締めつけられる気がしたが、意外なほど落ち着いていた。
終点のターミナル駅で降りると、安基は駅前広場をゆっくりと歩いた。鳩の群が足元でせわしく左右に分かれた。ベンチに腰を下ろし、そのまま寝転がった。
心臓の鼓動が聞こえる。ひどくゆっくりしているみたいだ。このままどんどん遅くなって、やがて止まってしまうのではないかと思った。
こんなことをしている場合ではないのかもしれない。
しかし、安基はそこで眠った。長い時間眠って、ふと気づくと、同じ場所で、夕焼けの空を見上げていた。
すぐ隣のベンチに坐って、やはり空を見ている男がいる。
「腹が減りませんか」と男はふいにこちらを見て言った。「私はたいへん腹が減った。なにしろ、朝からずっと、ここに坐ってあんたを見ていたんでね」
「僕を?」
「さよう」男は重々しくうなずいた。「まことに、昼寝にはうってつけの天気でしたな」
安基は身を起こした。体中の骨がごきごきいった。
「行きましょう」男は立ち上がった。「夕飯をおごります。ご心配なく、あんたの良心の負担になるような大したもんじゃありません」
「あなた、誰ですか」安基は歩きだそうとする男の背中に尋ねた。
男は振り向くと、にやりと不思議な笑い方をした。
「奇談収集家、ミスター六軒」
それだけ言うと、また歩き出した。相手がついてくることを少しも疑っていないようすだった。
「人に認められない記憶を持った人間というのは、驚くほど多いんです」
ミスター六軒と名乗る男は、焼き鳥の串を振り回しながら力説した。
「話しても馬鹿にされるだけだから、みんな黙ってますけどね。私みたいな聞き手を得ると、シャンパンの栓を抜いたみたいに、あふれ出てくるんです」
安基はジョッキを傾けながら、あいまいな表情でうなずいた。なぜこの男が自分をつかまえてこんな話をしているのかわからなかった。
「たとえばあなた、十五年ほど前の大不況のときに、公立の学校がたくさん財政難のために閉鎖されたことをご記憶ですか」
「えっ、そんなことがあったんですか?」と安基は驚いて聞き返した。
「いや、なかったんです」
「……はあ?」
「そもそも十五年前にそんな大不況なんてありませんでしたからね。ところが、このなかったはずの事件を、はっきり記憶にとどめている人が、私の知ってるだけで十何人かいる。それも全国各地に散らばった、互いに何のつながりもない人たちです。人に言うと嘘つき扱いされるから、みんな黙ってたんです。小学生や中学生だった彼らは、ある日突然学校から追い出されてしまった。何しろ大不況だから、親が失業してたりして、彼らも家計を助けるために道路工事や農家の手伝いをしたり、かっぱらいや物貰いをやったり、いろいろ苦労したそうです。でも、一人としていやな思い出だと言った人はいません。ある人が言うには、自分だけがこんな経験を持ってるなんてわくわくする、もしかしたら神様のプレゼントじゃなかろうかと」
「はあ」安基はよくわからないままうなずいた。
「それから、ある若い女性は、この国が空飛ぶ円盤の攻撃を受けて壊滅寸前になったときの思い出を、詳しく語ってくれましたよ」
「そんな、ばかな!」
「そう思いますか」
「それこそ、大嘘つきだ」
「そういう解釈もある」
「それとも、妄想か」
「そういう解釈もある」
「でなきゃ、何なのです」
「ほんとにあったことかもしれない。いや、怒っちゃいけない。たしかに、そんなことは記録に残ってないですよ。でも、記録にないことが起こっていたって、別にかまわないでしょう。この国が円盤に侵略されたことがあったら、あなた、なにか不都合ですか」
「別に、不都合じゃないけど」
「なら、一人の人間の記憶をむげに否定する必要もない。事実がいくつあったって、いいじゃないですか」
「そうなんですかねえ……」
「だから、あなたのまわりにもきっと、認められない記憶を持った人が一人や二人いるはずなんです」
「僕のまわりに?」
「あなた自身かもしれない」
安基の脳裏に、穴掘り男の記憶がよみがえった。何度話しても、両親や近所の人たちは笑って相手にしなかった。そんな事件があったら、自分たちが覚えていないはずはないというのだ。
安基はその話をした。
すると、ミスター六軒は軽くうなずいて、「ああ、その人なら、知ってます」
「知ってる?」安基は驚きのあまり口を開けた。「その、男の人をですか?」
「私は本人に会っちゃいないんですがね。奥さんから話を聞きました。確かに、穴を掘りに行くと言って出たまま、行方不明になったそうです」
「なんのために、穴を掘りに行ったんです」
「それははっきりわかりません。でも、奥さんはこう言いました。あの人は、私をどうしても救えないのがわかって、苦しむ私を見ていられなくて、それで穴を掘りに行ったのだと」
「でも、それって、無意味じゃないですか!」自分でも驚くほど大きな声が出た。妻のためと自分に言い聞かせながら無用の穴を掘る男の姿に、成功と名声を夢見て仕事に打ちこむ自分の姿が重なった。どんな未来が待ち受けているかも知らずに……
「無意味かどうかは、本人たちにしかわかりません」とミスター六軒は静かに言った。「奥さんは最後にこう言いました。私はいま、幸せです。それは、あの人が穴の中で何かを見つけてくれたからだと信じています、と」
穴の中から聞こえた「おお、おお」という叫び声が、安基の耳によみがえった。あのとき男は何を見つけたのだろう。そして、いま自分がいるこの深い穴の底で、何かが見つかるときは来るのだろうか。
ふと気づくと、隣の席は空っぽになっていた。
「亜由美さん」
男の声が高くなった。旗野亜由美はうつむいたまま身じろぎした。
「亜由美さん、これだけ言っても聞いてもらえないんですか。僕は一生あなたを守りたいと思っている。信じてくれませんか」
亜由美は小さな声で、
「すみません、やっぱり、どうしても、私、おこたえできないんです」
「そんなに、その人のことが忘れられないんですか」
「……」
「目の前の僕より、亡くなった人のほうが大事だというんですか」
亜由美は黙っていた。何を言ってもわかってもらえないと思った。
「僕は」男はつばを飲みこんだ。「僕は、あなたがいなければ、生きる甲斐なんてないから」
「そんなことを、おっしゃらないでください」
「もう一度ききます。僕に、すべてを預けてくれませんか」
「どうしても……」
「そうですか」男はもう一度つばを飲みこんだ。「では、お別れしましょう。もしかしたら、永遠のお別れになるかもしれない」
「そんな……」
「僕が死んだと聞いても、あなたは涙も流さないでしょうね」と男は抑えた調子で言った。
「……」
「さよなら」
男は身を翻して歩み去った。
亜由美は立ちつくしていた。泣けたらいいのにと思った。でも、涙は出なかった。亜由美は大人になってから一度も泣いたことがなかった。
しばらくして、亜由美は静かに歩きだした。そのとき、街灯の陰に隠れるようにたたずんでいた人と目が合った。ひょろりとした感じの、三十代くらいの男だった。たまたま通りかかって、二人の会話を聞いてしまったために、出ていきにくくなったのかもしれない。
相手の顔には深い悲しみの表情が浮かんでいた。どうしてあんなに悲しい顔をするのだろう。亜由美は何かから逃げるように足を早めた。
真っ暗な部屋で、亜由美は我に返った。信一のことを思い出していたような気がした。熱で上気した顔で、大切なことを打ち明けるように、「僕、もうすぐいいところへ行くんだ」と言った信一。
「私も行く」
「だめだよ。選ばれたものしか行けないんだから」
なぜ信一だけが選ばれたのだろう。なぜ自分は行けなかったのだろう。取り残されて、生き長らえて、罪を重ねるため?
亜由美は両手で顔を覆い、深いため息をついた。なぜいつも自分は、望まないのに人を傷つけてしまうのだろう。
遠慮がちな音で電話が鳴った。やがて留守番電話になり、相手の声が聞こえた。
「亜由美ちゃん、みんな心配しています。あしたは出てきてくださいね。それと、今日新人さんが見えました。あした紹介してあげるね」
「夏江叔母さん」と亜由美はつぶやいた。叔母さんは優しい人だった。亜由美が無断で会社を休んでもとがめたことはなく、親身に心配してくれた。それがかえって重荷に感じられることもある。自分にはそんなによくしてもらう価値はないのだと思う。
とにかく、叔母さんをこれ以上心配させないためにも、あしたの朝までには立ち直っておきたかった。亜由美は眠ろうとした。
「おはようございます」
オフィスの入口で小高安基がつぶやくと、部屋にいた五、六人の男女が、口々に「おはようございます」と大声で返事した。なんだか奇異な感じがした。前の会社では、目が合えば軽く会釈を交わすくらいで、大声で挨拶する人など一人もいなかった。
応接室を兼ねた社長室から、オレンジ色のスーツを着た木原夏江が姿を現し、「ごくろうさま」とほほえんだ。夏江は安基の父が定年前に勤めていた会社の元社員で、今は独立してこの編集会社を経営している。安基はきのうからここで働かせてもらうことになったのだ。
「どう、感じがつかめましたか」
「ええ。ちょっと勝手が違いますが、すぐ慣れるでしょう」
「そうですね」
夏江は軽く会釈すると、足早に安基のそばをすり抜けた。振り向くと、入口に灰色の服を着た小柄な若い女が立っていた。夏江が肩を抱くようにして何か言うと、女はしきりに頭を下げた。首筋のあたりでまっすぐに切りそろえた髪が、そのたびに風鈴のように揺れ動いた。
夏江が女の手をとって、安基の前に導いた。
「庶務をやってもらってる旗野亜由美ちゃん。きのうはちょっと具合が悪くてお休みしてたの。こちらきのうから来てもらってる小高安基さん……」
夏江はふと言葉を切った。二人は見つめ合ってぼんやりしている。夏江は軽く首を傾げた。
「あのときは失礼しました」と安基は言った。「立ち聞きするつもりはなかったんですが」
安基と亜由美がはじめて会った日から、すでに三か月以上過ぎていた。それまでに安基は何度か亜由美と二人で話していたし、亜由美が木原夏江の姪にあたることも本人の口から聞いていた。
「そうでなかったら、私、とっくに首になってると思います」と亜由美はそのとき言った。「仕事は不器用だし、しょっちゅう無断で休むし」
「でも、木原さんはとてもあなたのことを大事になさってるようですが」
「ええ。叔母さまは優しいかたです。包容力があって、それに強いかた。あの会社だって、叔母さまそのものでしょう」
「みんな、生き生きと働いてますね」
「そうなんです。みなさん、いいかたばかり。でも」亜由美は首を縮めて、ささやくように言った。「私、ときどきつらくなるんです。みなさん、あんまり立派なかただから。私みたいなのがここにいちゃ、いけないんじゃないかって思って」
安基は、最初に彼らの挨拶を聞いたときの違和感を思い出した。それは一種の威圧となって、いまでもときどき安基をたじろがせていた。
あの夜のことを言いだしたのは、亜由美のほうからだった。
「恥ずかしいところを、見られてしまいました」と亜由美は消え入りそうな声で言った。
安基は首を振った。「そんなことはないです」
「もう、忘れてくださいね」
「もちろんです。実際、言われるまで忘れてました」
「世の中って、不思議ですね。どこか、引かれるところのあるかたにかぎって、いつも何かの理由でお別れしなきゃならなくなるんです」
その次に二人だけになったとき、亜由美はなんでもない話の途中で、突然こんなことを言いだした。
「小高さん、人間って、進歩しなきゃいけないんでしょうか」
「え?」安基は目を見開いて、「進歩?」
「ええ。母も、友だちも、夏江叔母さまも、いつも言うんです。亜由美はいつまでたっても子供だから、もっと進歩しなきゃいけないって」
「ただの決まり文句ですよ」
「でも、ほかの人がそんなこと言われてるの、見たことないし……。もしかしたら、私、なにかが根本的に欠けてるんじゃないでしょうか」
安基はつくづくと相手をながめた。うつむくと、まっすぐな髪がふわりと守るように小さな顔を包みこむ。もともと、どこか陰のある人だと思っていたが、今日はとりわけやつれて見えた。眠れなかったのか、目のまわりに隈ができている。
「あの、こんな話、お聞かせしていいのかどうかわかりませんけど……」
「なんでも、聞きますよ」安基は促した。
「ご迷惑でしたら、聞き流してくださいね。私には、信一さんという五つ年上の幼なじみがいたんです。私は父を早く亡くしたので、信一さんは私にとって兄と父を合わせたような人でした。でも信一さんは二十歳のときに悪い病気になって、二年後に亡くなってしまったんです」
「そうだったんですか」
「信一さんが亡くなる前、半年くらい、私は毎日そばについていたんです。十七歳のときでした」
「ええ」
「私、そのとき、自分が生まれてきた意味はこれだったんだって、思ったんです。熱のためにうとうとしている信一さんを見守ってあげて、目を覚ましたらほほえんで元気づけてあげて、気分のいいときは話し相手になってあげて……そんなことが、自分が生きている意味なんだって信じられたんです」
安基は黙ってうなずいた。
「それが、私の一生でいちばん幸せなときでした」
「そんなに、愛してらしたんですか、その人のことを」
「そうじゃないんです。いえ、愛してなかったというんじゃなくて、世間の人が愛っていう、男の人と女の人のあいだの気持ちとは、違ってたと思うんです」
「なるほど」
「自分が必要なんだって確信、私がいて、彼がいて、それで何もかも満ち足りているという気持ち」
「わかります」
「私、信一さんのそばで、このまま時間が止まればいいって願ってたんです。いまでも、どうしてあのとき時間が止まらなかったんだろうって、ずっとずっと思い続けてます。彼がいなくなったあと、自分がどうしてここにいるのか、なんのために生きてるのか、どうしてもわからないんです。私にはほんとになんの取り柄もなくて、誰の役にも立たず、誰にも必要とされず、ただまわりに迷惑をかけながら、毎日年を取っていくだけで、進歩しようにも、何を目標にして、何を支えにしたらいいのか、全くわからないんです」
「そうだったんですか」
「こんなに苦しみながらこれからも生きていかなきゃいけないって思うと、消えてしまいたくなるんです。ボタン一つで自分を消せるスイッチはないかって、真剣に思うんです」
「かわいそうに」安基はつぶやいた。
「ごめんなさいね、つまらないことをお聞かせして。でも、小高さんには、わかっていただける気がしたんです」
安基は黙りこんだ。わかるとも、わからないとも言えない。しかし、ここに助けを必要としている人がいる。そのことだけは、はっきりと理解できた。
ある夜、安基は締めきりまぎわの仕事のために遅くまでコンピュータに向かっていた。気がつくと、他の社員たちはみな帰り、部屋の中は森閑としていた。安基がワイシャツの袖をまくり上げて伸びをしたとき、社長室の戸口からひょいと木原夏江の顔がのぞいて、おいでおいでをした。
安基がのぞきこむと、夏江は応接テーブルの上にグラスを二つ並べて、ウイスキーをついでいた。
「ちょっと、気分転換」と夏江はささやいた。「残念ながら氷はないから、水だけで我慢してね」
安基は恐縮しながら夏江の向かいに坐った。社長室は暖房がきいていて、夏江は上着を脱いでブラウス姿になっていた。明るい電灯に照らされて、夏江の肌は健康そうにつやつやと光っていた。
しばらく世間話などをしたあと、夏江は何気なく言った。
「亜由美ちゃんと、仲良くしてるみたいね」
安基はグラスを運ぶ手を止めて、
「ええ、ときどき、いっしょにお茶を飲んだりしてますけど」
「かわいい子でしょ」
「ええ」安基は照れたように顔をぬぐった。
「あの子は、小さいころから私のお気に入りなの。姉は体が弱いし、旦那さんは早くに亡くなってしまったから、自然に私があの子の世話をしてあげることが多くなって」夏江はほほえんだ。「でも、いつまでも子供で、目が離せないの」
「そうですか」安基は軽い反発を覚えた。「でも、木原さんが思ってらっしゃるより、あの人はずっと大人だと思いますよ。自分のことよくわかってるし。ただ控えめな性格だから、なかなか人に理解されないだけで」
「そうかしら?」
夏江はしばらく黙っていた。安基はわけもなく不安を感じた。
やがて夏江はソファから身を起こすと、手にしたグラスをテーブルに置いた。
「小高さん、亜由美ちゃんのこと、どう思う?」
「どうって、いいますと?」
「男性として、あの子のこと、好き?」
安基はうつむいて黙った。鼓動が速くなっているのがわかった。
「僕に、お世話してくださるとでも?」安基は軽口のように言った。
今度は夏江が黙った。そっと目を上げると、夏江は口を結んでじっとこちらを見つめていた。
「小高さん」
「はい」
「お嫁さんがほしいなら、私がいいかたを紹介するわ」
「え?」
「だから、亜由美ちゃんをそっとしておいてあげて」
「そんな、僕は」安基が抗議しかけるのを制して、
「小高さん、亜由美ちゃんから信一くんのこと、聞いたでしょう」
「……ええ、聞きました」
「やっぱり」夏江はため息をついた。「困ったわ」
「困ることはないでしょう」安基はふいに腹が立って、声を高めた。「亜由美さんの気持ちはもっともだと思います。でも、いつまでもあのままではいられないでしょう。木原さんはあの人をずっと思い出の中に閉じこめておきたいんですか」
夏江は弱々しく言った。「あの子は言葉遣いが大げさだから……」
「そんな言いかたはないでしょう。あの人はなんとか自分の体験を乗り越えようとしてるんですよ。それが理解されなくて、あんなに孤独で、苦しんでる。まわりの人たちが、もうちょっとあの人のことを思いやってあげれば」
「私は思いやってるつもりなんだけど」
「亜由美さんがいつか言ってましたよ。叔母さまは強いかただから、自分のような弱い者の気持ちは永遠にわからないんじゃないかって」
「そんなことを……」
「僕も弱い人間だから、わかる気がする。優しいだけじゃだめなんです。誰かが、本気であの人を愛しないと」
頬に血がのぼった。ここまで言うつもりはなかった。でも、それは正直な気持ちだった。
しばらく沈黙が続いた。やがて、夏江はため息をついて、体の力を抜いた。
「小高さん」
「はい」
「そこまで亜由美ちゃんのこと思ってくれるのはうれしい。でも、あなたの知らないことがあるの」
「知らないこと?」
「ええ」夏江はほんのしばらく言いよどんだ。「実は、信一くんは死んでないのよ」
「え?」
「信一くんは病気から立ち直って元気になって、亜由美ちゃんが十八のときに二人は結婚したの。でも、一年で別れた。理由は私にもわかりません。信一くんはほかのかたと再婚して、いまは子供もいるらしいわ」
安基は何かを言おうとしたが、頭に霧がかかったようで、言葉が出てこなかった。
「誤解しないで。亜由美ちゃんはあなたをだまそうとしてるわけじゃない。それどころか、本人には嘘をついてるという意識もないんだと思うの。あの子は何かの理由で、信一くんがあの病気で死んだ、そのあとのことはなかったんだって信じたがってるの。二人のあいだに何があったのか、私は知らないけれど」
安基は非現実的な気持ちのまま、相手の顔を見つめ続けた。置き時計の振り子の音が、ひどく耳障りに感じられた。
「小高さん、私は、亜由美ちゃんのこと、自分の子供のように大事に思ってる。でも、あの子は、あなたが見ているとおりの人間ではないの。だから、あの子のためにも、あなたのためにも、そっとしておいてあげてほしいの。言いたくなかったけど、あなたみたいに、同情からはじまって、あの子を好きになったばかりに、ずいぶん苦しんだ男の人を、私は少なくとも三人知ってるから」
安基は自分の部屋の冷たい床に寝転がった。心が空っぽになったようで、考えがまとまらなかった。
亜由美と過ごしたこの何か月か、安基は幸せだった。亜由美の苦しみを受け止めてあげることが、生きている意味であるような気がした。こういう幸せがあるということをいままで知らなかった。
だが、木原夏江の話を聞いたあと、いままでの亜由美の後ろに、得体のしれないもう一つの顔が現れた。それは、いつもの寂しげなほほえみの下に、かすかな薄笑いを浮かべていた。安基はぞっとした。
「聞かなければよかったな」冷たい床に頬を当てて、安基は独り言を言った。そのうちに気持ちがぼんやりとしてきて、何もかも面倒になってしまった。
「あきらめようか」とつぶやいた。
亜由美に何も約束したわけではない。今ならば、どちらも傷つかずにすむ。ときどきは、友だちとして話を聞いてもいい。でも、それ以上近づくのはやめよう。
そう決めて、眠ろうとした。だが、眠られなかった。気持ちがどうしようもなく落ちこんでいた。あしたの朝普通に起きて仕事に行く、それだけのことが、耐えられないくらいいとわしく思われた。
自分のほうこそ、亜由美に支えられていたのだ。だが、あの話を聞いたあとでは、もう二度と前のようなひたむきな気持ちに戻れそうもない。
安基はだんだん絶望に誘われてゆくのを感じた。何もかも終わりにして、消えてしまいたいと思った。
「また、穴の底か」と安基はつぶやいた。
そのとき、ある記憶がよみがえってきた。それは、奇談収集家を名乗る人物、ミスター六軒から聞かされた言葉だった。
――事実がいくつあったって、いいじゃないですか。
安基は目を見開いて考え続けた。あのときは聞き流していたが、いまはその言葉にまったく新しい意味が感じられた。
空飛ぶ円盤の侵略などという話を聞いても、ミスター六軒は動じなかった。だまされるとか、ばかにされるとか、いっさい考えなかった。解釈や説明もつけなかった。ただ受け入れた。
まして、自分は亜由美を愛している。自分にできない理由があるだろうか。
ようやく気持ちが落ちついた。「そうだ、亜由美さんがどんな人であろうと、僕はそのまま受け入れよう」そうつぶやいて、眠りに落ちた。
「お話って、何ですか」と亜由美は尋ねた。
「あのね……」
安基はちょっと口ごもってから、
「突然だけど、僕は、あなたを、幸せにしてあげたいんです。僕といっしょに、これからの人生を歩いてくれませんか」
亜由美はうつむいてしまった。やがて小さな声で「私、そんなつもりじゃなかったんです」と答えた。
「……そうか」
安基は笑おうとしたが、顔がこわばってうまくいかなかった。
「勘違いしてごめん。君には好きな人だっているんだろうし。いい年をして、何を考えてるんだろ。忘れてください。僕も忘れるから」
「そうじゃないんです」と亜由美は慌てたように、「小高さんのこときらいだとか、ほかに好きな人がいるとかじゃないんです。私、そういうこと考えたくないんです。人を好きになったり、誰かに自分を預けたり、そういうことをしなきゃいけないのが、とてもつらいんです」
「しなきゃいけないなんて、そんなのさびしいじゃないか」
「そうですね。普通の人は、自然にそうやって幸せになるのかもしれないけど、私はだめなんです。考えただけで、心が重たくなるんです」
「うん」
「ごめんなさい。私、きっと小高さんに近づいちゃいけなかったんですね」
次の日から、小高安基は会社に姿を見せなくなった。一週間後、亜由美に手紙が届いた。
「僕は穴を掘っています」と手紙には書いてあった。「あなたのために何もできないのがつらいから、穴を掘ることにしました。何かが見つかるかもしれない。何も見つからないかもしれない。でも、僕はこれに意味があると信じている。どこまでも掘っていけば、いつかあなたを救えると信じている」
夢を見ていた。恐い顔をした、体の大きな男が、亜由美のほうを指さして、たくさんの人々を苦しめたと弾劾していた。亜由美は泣いて抗議しようとしたが、涙が出なかった。男はあざ笑って、涙が出ないのは悪い女の証拠だといった。亜由美は大声でなにかを叫んだが、叫べば叫ぶほど悪い女の顔になってゆくのがわかった……
電話が鳴っていた。亜由美は泥沼からはいあがるように身を起こし、暗闇の中で受話器を取った。
「もしもし」
「旗野さん。僕はとうとう見つけました」
「小高さん」亜由美ははっとして受話器を握り直した。
「穴のむこうは、ただの暗闇じゃなかった」
「小高さん、どこにおられるんですか」
「来てください。あなたに見せてあげたい。誰も知らないもう一つの世界があるんです。あなたの苦しみも、僕の苦しみも、そこでなら報われるんです。いっしょに行きましょう」
亜由美はアパートを出て、夜の道を走った。空気は叩けば音がするくらい冷たくて、空は一面の星だった。しばらく行くと、雑木林に囲まれた空き地があった。亜由美は落ち葉を踏みしだきながら闇の中に分け入った。
「小高さん」亜由美は低い声で呼んだ。「小高さん、どこですか」
目が慣れると、空き地の反対側の端に、人が一人入るくらいの穴が掘られているのがわかった。闇の中を手探りしながらすり足で穴に近づき、のぞきこんだ。
穴はまわりの闇よりもなお暗く、何も見えなかった。「小高さん」亜由美はもう一度呼んだ。「小高さん」さらに声を高めたが、答えはなかった。
亜由美はそのままじっとしていた。気がつくと寒さで体が震えていた。それでも待ち続けた。黙って、歯をかちかち鳴らしながら、ずっと待ち続けた。いつまででも待つつもりだった。
ふいに、風もないのに、穴の縁が崩れはじめた。亜由美は小さな叫びを上げて手を伸ばした。その手の下で、土は大きくひび割れ、勢いよく穴へなだれこんだ。亜由美は足を取られ、這って逃れた。ようやく立ち上がって振り向くと、そこにはもう穴はなかった。
小高安基の消息はそのまま絶えた。亜由美の訴えを受けて警察が空き地の土を掘り返したが、何も見つからなかった。
「一人で行ってしまったんですね」と亜由美はつぶやいた。
「きっと、どこかで生きていますよ」後ろにいた警官が慰めた。「何か身を隠す理由でもあったんでしょう」
「お巡りさん」亜由美は突然振り返った。「死にたいって思ったこと、あります?」
「いや」警官は用心深い表情で、「私はさいわいありませんけどね。お嬢さん、めったなことを考えちゃいけませんよ」
「私、きのうまでずっと、死にたい死にたいって思ってたんです」
「ほう。で、今は?」
「もうそんな気はなくなりました」
「それはよかった」初老の警官はほっとした表情になった。
「だって、私、思うんです」
亜由美の顔にひさしぶりの笑みが浮かんだ。
「いつか、私にだって来るかもしれませんよね。誰かのために穴を掘る日が。そうでしょ、お巡りさん」
そして、軽い足取りでどこかへ去っていった。
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