「不死」(前編)
濁った水面を亀が泳ぐ。岸辺に立って俺は眺めた。ここ何か月か、この公園に来るたび必ずこの亀を見る。浅い池にほかに生き物らしい生き物はいない。亀がいつどこから来たのかはわからない。
浅瀬に乗り上げた亀は、のろりと首を振って動かなくなった。真夏の日差しを浴びて俺は見下ろした。自分も泥の上で甲羅干しするように、首を伸ばしてじっとしていた。
できればここに小屋でも建てて、亀を見守りながら暮らしたい。でもそうしたら、いつかは亀がいなくなるところに立ち会わなきゃいけない。それを思えば、むしろ通りすがりでいる方がいいのかもしれない。
最後の一瞥を亀に投げてから、俺は歩きだした。なるべく長くここにいてくれ、そして消えるときは、まるで最初からいなかったように、跡も残さずに完全に消えてくれと、心の中で亀に呼びかけた。
日差しを避けて木陰の遊歩道に入った。蟻の行列が地面に複雑な模様を描いている。俺は屈みこんでそれを見つめた。やがて心が蟻の動きに同期し始め、もう少しでその秘密が解けると思ったとき、一枚の枯葉が落ちて、精妙な運動はたちまち無秩序に変じた。俺は溜め息をついた。
この春初めてこの公園に来たときは、ベンチで参考書を広げたりもした。浪人したばかりで雪辱に燃えていたのだ。今はとてもそんな気にならない。今年の俺も来年の俺もおそらくは同じ俺だろう。それなら同じく不合格するのが理の当然と、達観した気になっている。
だが、いくら頭で達観しても、胸の重しは少しも軽くならぬ。これを取り除くには、どうしても来年試験に合格する必要がある。しかし、たとえ合格しても、すぐまた次の重しが待っているだけだろう。なんとつまらない人生かと思った。
桜の木の下でいつもの茶色の猫が、暑さをやり過ごすように目を閉じてじっとしていた。近づくと薄目を開けた。俺は二メートルほど離れたところにうずくまり、その目に視線を引っかけた。猫の目の奥はどこまでも深い。俺はその中に踊りこんで猫と心を溶け合わせたい。そうしたら胸の重しも憂いも全部忘れられるだろう。でも、猫のつり上がったまなじりは、俺の侵入を厳しく拒んでいた。俺が根負けして目をそらすまで、それはいささかも緩まなかった。
ごみ箱の上には大きなカラスがいた。そっと近寄ると、まるで俺など目に入っていないことを誇示するように、しきりにあらぬかたを見回した。さらに近づくと、突然ぐわあと絶叫して飛び立った。門前払いかと俺は苦笑した。
そのとき、すぐそばのベンチに人がいるのに気づいた。向かいの灌木の茂みにめりこむように、チェーンの外れた自転車が置き捨てられてある。それと向き合うように、軽く背筋を伸ばして坐っていた。ちらりと顔を見て、鼓動が速くなった。普段なら、知り合いとわかったとたん目を合わせないように急いで行き過ぎるのだが、このときは近づいて目礼した。
相手は少し驚いたような顔で、ベンチの上で体をずらした。俺は空いたところに腰掛けて、「お久しぶりです」と言った。
高校の部活動の先輩で、三年上だから直接のつながりはないが、OGとして来ていたので知っている。ふみかさんと呼ばれていた。あやのさんという同じ学年のOGといつも一緒だった。あやのさんは大柄な美人で、話しながらこちらの背中を叩いたりするので、一年生の俺には気後れがした。それに比べてふみかさんは地味だったけど、ふっくらとした優しげな様子が俺には好ましかった。いつも話の輪から外れて一人でぼんやりしているようなところも、自分に似ていて親しみが湧いた。
ちょうどこんな夏の暑い日に、河原でバーベキューをしたことがある。俺は自然にふみかさんと二人きりになり、いろいろととりとめのない話をした。そのとき、ふみかさんが屈んだ拍子にシャツの襟元から中が見えて、俺の体中に衝撃が走った。その光景がそのあと何週間か頭から離れなかった。
そのときから、俺は心の中でふみかさんに「風船」というあだ名を付けた。丸っこい顔の輪郭や、襟元から覗いたものの記憶や、それから、いつもどこか「浮いている」ような感じがすることがその理由だった。二人で話していても、心の大半は別の場所にあるような気がした。まるで、普段は俺たちの頭の上を漂っていて、こっちがひっぱればそのときだけ降りてくるけれど、手をゆるめるとすぐまた上に行ってしまうようだった。俺は、ふみかさんともっと親しくなり、面と向かってそのあだ名で呼ぶことを空想したりしたが、二人のOGはその後だんだんと部活動に姿を見せなくなり、こちらも受験で忙しくなったので、いつの間にか忘れていたのだった。
「この公園にはよく来るんですか」と俺は尋ねた。「うん」ふみかさんはちらりとこちらを見て答えると、すぐ視線を正面に戻した。
「ほんとに久しぶりですね。おととしの春以来かな」
「さあ」
「……あやのさんもお元気ですか」俺は尋ねた。すると彼女は首を傾げて、「知らない。もう二年くらい話してないから」と答えた。俺の頭の中であやのさんとふみかさんは二人で一組だったので、ちょっと驚いた。
ふみかさんの「浮いている」感じはますます強くなり、よそよそしささえ感じられた。特に、何を話しかけても、返事をする一瞬の間しかこちらを見ないのがこたえた。俺は軽はずみに綱渡りを始めてしまったような気がして、怪我をしないうちに早く降りたいと思った。
そのとき、どこからか蠅が飛んできて俺の左肩に止まった。俺はそっと首をねじ曲げると、蠅を驚かさないように息を殺してじっと眺めた。蠅は「ここにいてもいいのかな」と問いたげに首を傾げながら、しきりに前足をこすりあわせる。俺は安心させるようにほほえみながらその目をじっと見つめたが、蠅の自問はやまなかった。俺たちはずいぶん長く互いに見合っていた。やがて蠅は、解けない疑問の重さに耐えかねたようにどこかへ飛び去った。
気が付くと、ふみかさんが俺のほうをじっと見ていた。
「蠅、好きなの?」
「え?」
「だって普通なら、肩に蠅が止まったら反射的に払いのけるでしょう。なんだかうれしそうに見てたから」
「ああ、いや……特に蠅がってわけじゃなくて……」
俺はしばらく頭の中で説明をまとめた。
「俺、何でも生き物を見ると、引き込まれちゃうんです。子供の頃から、犬でも猫でも鳥でも虫でも、目が合うと立ち止まって眺めずにいられないんです。やつらに呼ばれてるような気がするんですよ」
「呼ばれてる?」
「そう。やつら、絶対俺に何かを伝えたがってる気がする。だから、何とかやつらの気持ちを読みとろうと毎回努力するんだけど、どうしてもうまくいかない。実は俺、ときどき思うんです。俺は間違って人間に生まれてきたんじゃないかって」
「どういうこと?」
「ほんとは俺、鳥か虫に生まれて、何にも考えずにそこらを自由に飛び回ってるはずだったんじゃないか。だから、やつらが俺を哀れんで、目を覚ませよ、おまえはほんとは俺たちの仲間なんだぞって言ってるんじゃないか。だからやつらを見てるとこんなに親しみを感じるんじゃないかって。でも、気が付けば俺はやっぱり小ずるい人間の仲間で、毎日こせこせと生きてる。こんなはずじゃない、これは何かの間違いだって、心が爆発しそうになることがあるんです」
話しているうちに、胸が迫って言葉が続かなくなった。ふみかさんは今度は一度も目をそらさなかった。
しばらくして俺は言った。
「変ですよね、俺」
「変じゃないと思うよ」ふみかさんは首を振った。「甘利君、そのまま変わらずにいてほしいな」
その言葉は思いがけないご褒美のようにうれしかった。俺はとっさにこう誘った。
「アイス食べに行きませんか」
ふみかさんは少しためらってから承知した。俺が立ち上がったとき、彼女はまた正面を向いて、口の中で何か呟いていた。
約束したわけではないが、それから何度か公園のその場所で俺はふみかさんに会った。池の亀を眺めてから、ふみかさんがベンチにいるかなと探しに行くのが俺の日課になった。ふみかさんは午前中用事がない日はたいていそこに来ているらしかった。いつも同じような格子縞のシャツを着て、捨てられた自転車の向かいにじっと坐っていた。二人でいても、最初のときと同様、彼女はいつも正面を向いていて、たまにちらりとしかこちらを見ない。そこで俺は別の場所に彼女を連れ出そうとした。どこか向かい合って話せる場所に。それは二回に一回くらいは成功した。
俺たちは近くのコーヒーショップやアイス屋で話をした。彼女はたいていほほえんで聞いているだけで、俺も人と話すのは苦手だから、話は途切れがちだったが、それでも楽しかった。
ふみかさんは一年半ほど前に、理由は知らないが親元を出て、仕事をしながらアパート暮らしを始めたのだという。俺はそれを聞いて少し臆した。おまえなんかまだ子供だと言われたような気がした。
そのころから、俺はますます勉強から遠ざかった。机に向かって形だけ参考書を開いても、目の焦点が合わなかった。予備校の夏期講習はほとんどさぼった。地下街やデパートをうろついたり、ショッピングセンターの中庭のベンチに坐って、鳩や雀や通り過ぎる犬を眺めながら過ごしたりした。そんなとき俺はぼうっとするほど幸せだった。鳩がいて、雀がいて、犬がいる。そして同じ空の下のどこかにふみかさんがいる。なんてすてきなんだろうと思った。
しかし、実際には俺たちの間に少しも進展はなかった。それどころか、日がたつほど俺はふみかさんのことがわからなくなっていった。
公園のベンチで俺の方をほとんど見ないのはいつものことだが、一緒に道を歩いていても、同じテーブルについていても、突然彼女は何かに気を取られることがある。そうなると、こちらの言うことは全く耳に入らないらしい。誰もいない場所に向かって何か呟いていることもある。まるでこの世の外の何かと交信しているようで、いくぶん気味が悪かった。そんなときの彼女は、俺には一度も見せたことのないはしゃいだ表情をしていることがあって、見えない相手に俺は嫉妬した。何を考えていたのかとあとで尋ねても、笑って答えなかった。
あるとき、コーヒーショップでコーヒーを飲み終わったあと、俺は考えごとをしながら無意識にプラスティックのカップを握りつぶした。あっと押し殺した叫びが聞こえたので顔を上げると、ふみかさんが険しい目で俺の手元を見ていた。彼女のそんな表情は初めて見たので、少し驚いた。
「だめ」と彼女は言った。
「何ですか」俺は気を飲まれて、小声で問い返した。
彼女は手を伸ばすと、つぶれたカップを俺の手から取り、いとおしむような手つきで元の形に広げた。
「こんなことをしてはだめ」
「だめなんですか」俺にはわけがわからなかった。
「カップは飲み物を入れるためにこの形に作られたんだよ。勝手にその形を崩したらかわいそうでしょう」
「でも、どうせすぐ捨てるんですよ」
「捨てるのはしかたがない。初めからそのように作られたんだから。でも、いまここであなたが握りつぶす理由はないでしょう」
それきり、彼女は口をきかなかった。俺たちは店を出て気まずく歩いた。
よほどたってから彼女は立ち止まり、俺に横顔を見せながらこう言った。
「甘利君、うまく言えないけど、もし誰かが蝉を捕まえて、どうせあと何日かの命だって言って、あなたの目の前で握りつぶしたら、どう思う?」
俺は衝撃を受けた。ふみかさんはそっぽを向いて「ごめん」と言うと、そのまま行ってしまった。
八月半ばのある日、ふみかさんを誘って公園から出る途中で、遊歩道の脇に一人の男がうずくまっているのを見た。男は後ろ姿でさえ人目を引いた。頭を丸刈りにして、坊さんが着るような青い作務衣を着ている。坊さんでない証拠に、作務衣にはとぐろを巻いた蛇の図柄が染め出してあった。
「困ったなあ」としきりに呟いている。俺たちが後ろまで来ると、男はひょいと振り向いた。
丸い顔に昔の書生のようなまんまるな眼鏡を掛けて、大きく目を見張っている。話しかけずにいられないような愛嬌があった。「どうしたんですか」と俺は尋ねた。
「草履の紐がね、ほら、切れちゃったんですよ」
男は右足を指さした。ぼろぼろに履き古したプラスティックの草履の紐が、なるほどぷっつりとちぎれている。
「これじゃ歩けないから、どうしようかと思って」
「こよりでつないだらどうでしょう」俺は小説か何かで仕入れた知識を口にした。
「こよりですか。あなた、持ってます?」
「持ってません」
「それじゃ、しょうがないですねえ」
男は途方にくれた顔で足下を見下ろした。そのとき、何気なくふみかさんの方を見て、俺は驚いた。ふみかさんは大きく目を見張って男の横顔を見つめていた。それは俺がついぞ向けてもらった覚えのない熱のこもった視線だった。男が顔を上げると、ふみかさんはすぐ目をそらした。頬が赤らんでいるように見えた。
「接着剤で貼り付けたらどうでしょう」俺は上の空で言った。
「接着剤ですか。あなた、持ってます?」
「持ってません」
「それじゃ、しょうがないですねえ」
俺はいらいらしてきた。そっぽを向いたままのふみかさんの様子がひどく気にかかった。なぜこんな男にかかずらったんだろうと後悔した。
「じゃ、いっそはだしになったら」俺は乱暴に言った。
「それだ」男は指を鳴らした。「なぜそんな簡単なことに気付かなかったんだろう」
男は右足の草履を遠くへ蹴り飛ばすと、ついでに左足のも邪魔だとばかりにむしり取った。「これで清々した」と言うと、ぽかんとしている俺に笑いかけた。
「的確な助言ありがとう。お礼にコーヒーおごります。そちらのお嬢さんも。さあご遠慮なく」
俺は断ろうと思った。だが、いつの間にかふみかさんは男と並んで歩きだしていた。しかも、親しげに言葉まで交わしている。俺はついていくしかなかった。
男は日に照らされた舗道を裸足のまま平気で歩いて、裏通りの細長いビルに俺たちを案内した。「本格炭火焼珈琲 因果亭」と看板の出た狭い階段を二階まで昇り、ガラスのはまった木のドアを押し開けると、カウンターの中から半白髪のマスターが親しげに男に挨拶した。店内にほかに客はいない。男は窓際の木のテーブルに俺たちを導いた。
俺はこんな店は初めてだった。わざと中を暗くしてあるのが落ち着かない感じだった。男の勧めに従って、俺たちは「ハイパーストロングブレンド」というのを頼んだ。運ばれてきたそれは、真っ黒などろりとした液体で、俺の知っているコーヒーとはだいぶ違う味がした。
男は「ゲンマロ」と名乗った。本名だろうかと俺はいぶかった。ふみかさんは目を伏せて黙り込んでいるので、ゲンマロの話し相手はもっぱら俺がつとめた。高校生? ふーん浪人か。そいつは大変、などという話のあとで、「甘利君、何で大学行くの」とゲンマロは突然尋ねてきた。
「何で、と言われても……特にないです」
「ないの?」ゲンマロは目を丸くした。
「ないです」
「そいつは困るなあ」
「困りますか」
「困る。だって、世の中には、大学に行きたくても行けない人が大勢いるわけだ」
「俺だって、まだ行けてないですよ」
「そりゃそうだが、まあ高望みしなきゃどっかへは行けるだろう。ということは、君は目的もなしに誰かの貴重なチャンスを奪っていることになる」
「そうなんですか」
「そうなんだよ。それに、そもそも、大学に行く目的がないということは、人生の目的もないということじゃないか」
「何でそうなるんですか」
「だって、大学に行くことが人生の目的につながってるなら、大学に行く目的はあるわけだし、つながってないなら、大学に行こうとすること自体無意味じゃないか」
見かけによらず小難しい議論をする男だと思った。俺は面倒になって、「別に人生の目的とか、ないです」と答えた。
「そりゃあ、いかんなあ」ゲンマロは天井を仰いだ。
「じゃ、ゲンマロさんには人生の目的があるんですか」
「あるさ」
「どんなことです」
「たとえばだね」ゲンマロは腕を組んでそっくり返り、目を細めた。「こないだ朝起きたら、アパートの部屋がどうにも暑くてたまらん。居ても立ってもいられんくらいだ。そこで俺は、この暑さから逃れる手段を発明することを、今日の人生の目的と決めた」
俺はあきれて、とっさに応対ができなかった。
「エアコンを買うとか、扇風機を買うとか、そういうのはなしだ。金がないし、第一買っちまったら問題が解決して、人生の目的も終わっちまう。そこで、まずすべきこと、それは何だ、甘利君」
俺は不意を打たれて、「え? わかりません」と答えた。
「決まってるじゃないか。なぜこんなに暑いのか、その理由を究明することだ。そこで俺は床上に結跏趺坐し、心頭滅却して観照に没入した。その結果、深遠なる真理が明らかになった。何だと思うね」
「さあ」
「風がないのだよ。部屋の中では空気がそよとも動かない。坐っている間に俺は、顔の周りの空気分子と仲良しになってしまったくらいだ。しかし、外には常に風が吹いている。何しろ人が歩いても蝶が飛んでも風は起きるんだからな。したがって、外と内で空気の通りをつけてやればいいんだが、この部屋に一つしかない窓はそのための役に立たない。入っても出る道がないからだ。こんなとき、君ならどうする、甘利君」
「え? ドアを開けるとか」
「偉い」ゲンマロは俺を指さして大声を出した。「偉いぞ甘利君。ようやく自分の頭で考えるようになったね。しかし、この場合それはだめなんだ。なぜというに、俺の隣にはとても陽気なお姉さんが住んでいて、ドアが開いているのを見られたら最後、ああらゲンマロさん、おひさ、とか何とか言いながら上がり込まれて、部屋中の酒を全部飲まれちまう。まあ君がそんなこと知るわけないんだけどね。だからその手は使えない。そこで俺は考えた。壁に穴を開けよう」
「壁に、穴?」
「そうだ。これ以上直截簡明な方法はない。もちろん大家には内緒だ。しかし、壁を蜂の巣みたいにするわけにはいかんので、どこに穴を開ければ最も効果的かを知る必要がある。そこで俺は測定装置を開発した」
「測定装置、ですか」
「そうさ。古新聞を取り出して、一センチ幅くらいに細く裂いた奴を百本ばかりこしらえる。その端を天井に糊で貼り付けて、蠅取り紙の売り出しみたいに部屋中にずらずらぶら下げる。そして窓のところからうちわで風を送り、帯の動きを観察して、空気がいちばん行きたがってる場所に鋸で穴を開けたんだ。効果は覿面。深山幽谷のごとくに涼しくなったよ。おまけに日暮れまで退屈せずに過ごせた。そういうのが、俺の人生の目的なのさ」
「それはまた」くだらない、と言いそうになって、俺は言葉を選びながら言い直した。「ささやかな目的ですね」
「ささやかでいいんだよ。でかい目的なら達成感も大きいけど、その代わり小さい目的なら毎日満足が味わえる。人生なんて工夫しだいでいくらでも楽しくなるもんさ」
半時間ほどいて俺たちは席を立った。ゲンマロは勘定を済ませ、先に立って階段を降りると、俺たちの方をろくろく見もせずに、「じゃ」と手を上げて早足で去っていった。幾分がにまた気味のその後ろ姿を見送りながら、俺は毒気に当てられたようにたたずんでいた。ふとふみかさんを見ると、またさっきのような熱っぽい目でゲンマロの後ろ姿を見送っていた。一緒にいるときはほとんど顔も見なかったくせにと思って、俺はなんだか不安になった。
次の日、いつものベンチの近くまで来ると、角の向こうから話し声が聞こえた。一人はふみかさんで、もう一人は聞き覚えのある男の声だった。俺は嫌な気がした。とりわけ、ふみかさんの方から何か尋ねていて、男が答えているらしいのが心を乱した。俺はしばらく躊躇したあと、角を曲がった。
いつも俺がいるふみかさんの隣の場所に、作務衣の袖を肩までまくりあげたゲンマロが坐っている。二人は何やら楽しげに話していた。俺が近づくと、彼らはほぼ同時に気付いて話をやめた。俺は軽く会釈をした。
「やあ、いらっしゃい」ゲンマロは形ばかり体をずらした。「さっきそこで偶然会ってね」
言い訳するなよ、と俺は心の中で毒づいた。ゲンマロが空けてくれたベンチの端に俺は腰掛けたが、三人では窮屈だった。それにゲンマロのむっちりした肌がときどきこちらの腕に触れるのも気味が悪かった。俺は黙って立ち上がった。するとゲンマロが言った。
「ところで甘利君、君の今日の人生の目的は何だ」
「は? 別にないです」
「嘆かわしいなあ。いい若い者が二人も、昼間っから公園でぶらぶらして」
「ゲンマロさんはどうなんです」俺は逆襲した。「昼間っから公園でぶらぶらして。何か仕事とか、しないんですか」
「俺かい? 俺は金があるときは休み、なくなれば働く。いまは少々余裕があるから、無理に仕事をしなくてもいいのさ」
「俺も、いまは少々余裕があるんで、無理に勉強しなくてもいいんです」
「嘘つけ」ゲンマロは笑った。「そうだ、いいことを思いついたぞ。今日の人生の目的だ」
ゲンマロはいきなり立ち上がると、どこかへ駆けていった。ふみかさんを見ると、普段に似合わぬ張りつめた表情をしていた。俺は何も言えなかった。
まもなく戻ってきたゲンマロは、ランドセルをしょった小学生らしい男の子を連れていた。
「これはコージくん。ふみかさんは、コージが退屈しないように相手をしてやってくれ。甘利君は俺と一緒に来て」
「何するんですか」
「下校途中の子供たちを集めるんだよ。どうせうちに帰ったって、塾かなんかに行かされるだけだろ。ここでみんなで遊べば、彼らにも俺たちにも人生の目的ができる」
「集まりますか、いまどきの子供が」俺は疑問を呈した。
「集まりますか、じゃない。集めるの。さあ、来た来た」
俺は公園の外の道までゲンマロにひっぱられていった。向こうから野球帽の男の子が歩いてくる。ゲンマロは俺の背中を押した。
「ほら、誘ってきな」
「何て言うんです」
「それくらい考えろよ、情けない」
俺はとぼとぼと男の子に近づくと、「ねえ君」と声をかけた。男の子はびくりと足を止めて、不安そうな目でこちらを見た。
「君、名前何ていうの」俺は上ずった声で尋ねた。男の子は黙って後ずさりした。
「ねえ、あっちで僕たちと遊ばない? きっと楽しいよ」
「いいです」男の子は小声で言うと、一目散に駆け去った。
後ろからゲンマロが俺の背中をこづいた。
「だめだよ甘利君。目が据わってるよ。それじゃまるで誘拐魔だ」
「俺、苦手なんです、こういうの」
「しょうがないなあ。見ててごらん」
ゲンマロは歩道の敷石にどっかり腰を下ろすと、通りかかった別の子供たちに向かって、「おい、君たち、そこの小学生」と大声で呼びかけた。
子供たちが寄ってくると、ゲンマロは手招きしてさらに近くまで呼び寄せ、内緒話でもするように頭を寄せた。子供たちは自然にゲンマロのそばに近寄った。ゲンマロは何か長広舌をふるっている。彼らはうなずきながら聞いている。やがてゲンマロは公園の中を指さして大げさな身振りをした。すると子供たちは、ゲンマロが示した方向に一斉に駆けだした。その間、ゲンマロは一度もその場を立たなかった。
「見たかい」俺が行くとゲンマロは言った。「押しつけちゃだめなんだ。やつらに自分から興味を持たせるのさ」
俺には到底できないと思ったので、勧誘はゲンマロに任せて、俺はふみかさんと一緒に子供たちの相手を務めた。
まもなく、男女取り混ぜて十人くらいの子が集まった。ゲンマロの発案で、公園の中にある二本の大木を陣地にして、二組に別れて戦争ごっこをした。ゲンマロが一方の組の参謀で、俺とふみかさんはもう一方の組だった。
初めは単純な肉弾戦だったが、何か不都合が起きると即座にゲンマロはルールを変更した。子供が「話が違うやん」というと、ゲンマロはぎょろりと目を剥いて、「ルールなんて道具だ。楽しくなかったらすぐ変えるんだ」と言い放った。それから子供たちは、何か疑問が起きると「ゲンマロさーん」と呼んで彼に確認した。
俺もふみかさんも、本気になって子供たちと一緒に駆け回った。途中で敵の男の子がふみかさんに正面から抱きついたので、俺は笑顔半分、青筋半分でその子を羽交い締めにして引き離した。それを見た別の子が「アマリが妬いてるぞー」と叫んだので、かっとなって全力で追いかけた。つかまえて頭を殴りかけてかろうじて自制し、自陣に連れ帰った。
日暮れ近くに子供たちを帰してから、俺たちはくたくたになった体をベンチにもたせかけた。
「いつもこんなことやってるんですか」と俺は息を切らしながらゲンマロに尋ねた。
「いや、きょう初めてだ。でも、楽しかったな」と彼は笑った。
その晩、俺はあちこち痛む体をベッドに横たえて、天井を見つめた。気持ちが高ぶったままで、今日のいろんな場面が頭の中で明滅した。いちばんよく現れたのは、上気した顔で笑いながら走るふみかさんと、大声で周囲に指示を出しているゲンマロの姿だった。ふみかさんを思うと体が熱くなり、ゲンマロを思うと気持ちが沈んだ。
「楽しかったな」というゲンマロの言葉に思わずうなずいてしまったが、俺の心は妙に重たかった。ゲンマロにいいところを全部持って行かれたような気がした。今日の俺の価値はいったいどこにあったのだろう。ゲンマロの指図のままに走り回り、子供にまで馬鹿にされた。そもそも、俺に価値などあるのか。今日もふみかさんが折りに触れて意味ありげな視線をゲンマロに向けていたことを俺は思い出した。
ふみかさんと二人で時間をかけて作り上げてきた居心地のいい世界が、一瞬で蹴散らされたような気がした。しかし、それは俺だけの思いこみで、ふみかさんの方は、俺相手に退屈していたところに愉快な男が現れて喜んでいるのかもしれない。俺は胸が詰まって苦しくなった。彼女の気持ちが知りたかった。
次に公園に行くとき、俺は意識して早めの時間を選んだ。ふみかさんは一人でベンチにいた。俺はさりげなく彼女を別の場所に連れ出そうとしたが、彼女はほほえむばかりで立つ気配がない。俺は足摺りしたくなった。そのうちに曲がり角からゲンマロの坊主頭がひょいと覗いた。
「やあ、早いね」
何が「早いね」だと俺は心で悪態をついた。
「君たち迷える小羊は、相変わらず目的もなく日々を過ごしおるか」ゲンマロは俺たちに笑いかけた。「しょうがないなあ。俺についておいで」
彼は背を向けて歩きだした。こちらが従うことを疑わない様子だった。ふみかさんも当然のように立ち上がった。待っていたのだな、と俺は思った。
俺は一人だけ遅れた。前の二人は睦まじく何か話している。二人が並ぶと似合いの一対に見えた。どちらも丸っこい体つきをしている。大風船と小風船だと思った。
前との距離はしだいに開いた。二人は振り向かない。邪魔ですか、と俺は心で呟いた。俺の足はのろのろと止まった。二人の姿がだんだん小さくなった。俺は横の路地に飛び込んだ。
自分の部屋のベッドに倒れ込むと、「食わせものめ」と俺は声に出して言った。
ゲンマロが頭のてっぺんから爪先まで演技で固めていることを俺は疑わなかった。あの人目を引く格好、愛嬌のある笑顔、大胆な行動、ものにこだわらない様子、風変わりな呼び名、すべて、こうすれば一目置かれるだろうと奴が頭の中で描いた設計図なのだ。あの絢爛豪華な皮を剥けば、中身がどうなってるかしれたものではない。
しかし、それをどうふみかさんに伝えたらいいのか。いや、そもそもそれ自体がいらぬお節介ではないか。たとえ作り物でも、ゲンマロの皮は奴にぴたりと合っている。俺には皮すらない。初めから空っぽだ。ふみかさんのシャツの中を見て興奮したり、ほかの男と話すのを見て嫉妬したりしている単なる馬鹿だ。
俺は枕に顔を埋めた。完全な敗北だった。しばらくうめいたり手足をばたばたさせたりしていたが、そのうちに疲れてきた。
ぼうっとしていると気が変わった。ゲンマロのことばかり考えていたが、大事なのはふみかさんである。俺がほんとに敗北するなら、審判はふみかさんでなければならない。彼女の心を確かめるのが先だ。そう考えると、少し気が楽になった。
明日はふみかさんに俺の気持ちを話そうと決めた。ゲンマロがいなければ、こんな決心はいつまでも付かなかったかもしれない。そう考えれば、悪いことばかりではないと思った。
翌日、俺はここ何年か覚えがないくらい早い時間に起きて、公園に向かった。ラジオ体操帰りの小学生や、ジョギングしている中年の男女とすれ違って、こういう人たちも世の中には生息していたんだなあと思った。
ベンチには誰もいなかった。俺は腰掛けて深呼吸をした。ふみかさんが現れるまで一時間か二時間はあるはずだ。その間に言うべきことをまとめておこうと思った。
しかし、ゆうべ眠れなかった上に早起きしたので、頭の中に霧がかかったようで、考えがまとまらない。目の前の捨てられた自転車をぼんやり眺めた。それはずっと片づけられもせずにそこに置かれていた。最初に見たころに比べるとずいぶん錆や汚れが目立つようになった。チェーンが外れただけだから直せばまだ使えたはずだが、こうなってはもうだめだ。もったいないことをするもんだと思った。
そのうち俺は、誰かの声を聞いたような気がした。そいつはひどく怒っていて、何度も俺をどなりつけた。俺はむっとして、俺に八つ当たりするのはお門違いだと言おうとしたが、どうせ夢なんだからばかばかしいと思い直した。
気が付くと、俺は誰かの柔らかな肩にもたれていた。はっとして身を起こすと、懐かしい笑顔が見えた。
「ふみかさん」と俺は呟いた。
「寝てていいよ」と彼女は言った。
俺は夢の続きを見るようにもう一度彼女の肩に寄りかかった。「俺、ふみかさんが好きです」とうわごとのように口にした。ふみかさんはうなずいたようだった。俺は深い幸せに包まれた。
どれくらいたったのか、不意に心の中にさわやかな風が流れ込んで、俺は目を開いた。日はもう高く、あたりはまぶしいくらいに明るかった。空気の中にも活気がみなぎっていた。俺は背筋を伸ばしてふみかさんを見た。
「行きましょう。話があるんです」
ふみかさんはほほえみながら首を振った。
「なぜですか」
彼女は答えない。
「誰かを待ってるんですか」
彼女は口を結んでいる。
「あいつはまやかしもんです」俺はついに爆発した。「見せかけだけです。全部演技なんです。正体は陰険で腹黒い奴に決まってるんです。最初に会ったときだって、草履の紐、わざと切ったのかもしれない。俺が言い出さなければ、自分で思いついたようなふりして裸足になったかもしれない。こっちが驚いてるのを見て心の中で快哉を叫んでたに違いないんです。子供たちを集めたのだって、賛美者がほしかったからに決まってます。俺を子供扱いして、自分独りいいかっこして……」
「甘利君、甘利君」ふみかさんは俺の腕に触れた。「私はあの人と話さなきゃいけないの。わかって」
「わかりません」俺は首を振った。「ふみかさんは俺と同じ世界にいて同じものを見てる人だって、俺は信じてた。でもあいつは全然違う。ふみかさんがあいつに興味を持ったんなら、もうふみかさんは俺の世界の人じゃない」俺はふみかさんをぐっとねめつけた。「ふみかさん、あいつと俺と、どっちを選びますか」
ふみかさんは恐ろしい決断を迫られたように蒼白になった。ややあって彼女は弱々しく答えた。
「選べないよ」
「なぜです。そんなにあいつが好きなんですか」
ふみかさんは何度も首を振った。何を否定しているのか俺にはわからなかった。俺は声を和らげた。
「それじゃ、これだけ教えてください。俺が嫌いですか」
「嫌いじゃないよ」
「ほんとですか」
「ほんとだよ」
「じゃ、今すぐ俺をふみかさんの部屋に連れてってください」
ふみかさんはうつむいた。俺は畳み掛けた。
「俺、はっきりした証拠がほしいんです。言葉だけじゃ満足できないんです。部屋に連れてってくれたら、ふみかさんがあいつと会っても何しても我慢します。このままじゃ俺、宙ぶらりんで拷問されてるみたいです。一生のお願いです。一度だけでいいんです。連れてってくれないなら、今すぐ海に飛び込みます」
そのへんに海なんてないのである。夢中のように見せかけていたが、強く迫ればふみかさんは断れる人じゃないという計算が心で働いていた。自分の望みを遂げることしか俺は考えていなかった。
ふみかさんは顔を上げた。そのときの彼女の表情を思い出して、俺はその後の人生で何度も後悔に胸を焼かれることになる。
「わかった。ついてきて」彼女は言うと、立ち上がって歩きだした。
公園を出て駅前の商店街を抜け、さらに十分ほど歩くと、住宅街の中に白いモルタル壁の二階建てのアパートがあった。ふみかさんは横手の階段を昇り、二階の廊下を歩いて、いちばん奥のドアの前で立ち止まった。
彼女は鍵を回してドアを開けた。俺は一歩引いて呼吸を整えながら待っていた。すぐに中から「どうぞ」と声がした。
俺はドアを開けて暗い室内に入った。雨戸が閉めてあるらしい。靴の紐を解いているとき、得体のしれない違和感を覚えた。
ふみかさんが雨戸を開けて、外の光が部屋に流れ込んだ。俺は中腰のまま部屋の中を見て惘然とした。
手前が狭い台所、奥が六畳の畳敷きだった。突き当たりが窓で、外の景色がじかに見えた。カーテンがなかったからだ。それどころか、部屋の中は一面にがらんとしていて、ベッドも机も、本棚も衣装棚も、テレビもラジオも、冷蔵庫も洗濯機も、文字どおり何もない。天井には電灯すらついていなかった。その空っぽの部屋の真ん中に、ふみかさんがこちらを向いて立っていた。
俺は初め、ふみかさんが俺をかついだのだと思った。俺があんまり無理を言うから、適当な空き部屋に案内したのだと。しかし、考えてみれば、そんな適当な空き部屋が都合よく存在するはずがなかった。
「どうぞ、上がって」とふみかさんが促した。俺はそろそろと靴を脱いで上がると、畳の上に正座した。畳には塵一つ落ちていなかった。
ふみかさんが立って台所に向かった。振り向くと、彼女は流しの上にある作り付けの戸棚を開けていた。そこには湯呑みが一個と小さな皿が一枚だけ置いてあった。彼女は湯呑みを取り上げると、一度ゆすいでから水道の水を入れた。こちらに戻ってくると、彼女は湯呑みを両手で俺に差し出した。
「水しかなくてごめんなさい。湯呑みも一個しかないの」
俺は湯呑みを受け取って、生ぬるい水をすすった。頭の中で疑問が渦巻いていたが、どう切り出してよいかわからなかった。
「夏でよかった」とふみかさんは笑った。「冬はね、ほんとに寒いの。普通の人はとてもいられないくらい。私は慣れたけど」
「ふみかさん」と俺は言った。「ほんとに、この部屋で暮らしてるんですか」
「そうだよ」
「食べ物はどうしてるんです。冷蔵庫も鍋もなしで」
「食べ物はね」ふみかさんは落ち着いて説明した。「そのまま食べられる、トマトとかリンゴとかを、毎日食べる分だけ買ってくるの」
「電灯もないのに、夜はどうやって過ごすんです」
「窓の外に街灯があるから、真っ暗にはならないんだよ」
「寝るときはどうするんです」
「このまま、畳の上に寝るの」
「枕も蒲団もなしで?」
ふみかさんはうなずいた。
「着るものは? 洗濯は?」
ふみかさんはうつむいて早口に言った。「お風呂に入るとき一緒に洗って、部屋の中に干すの。乾くまで外に出られない」
「なぜ、そんなことするんです。そんなにお金に困ってるんですか?」
ふみかさんは首を振った。
「私はこういう生き方しかできないの。それが私の運命なの」
俺は思わずふみかさんの顔を見つめた。彼女は笑顔でこちらを見返したが、その頬は紅潮して、今にもはじけそうなものを精神の緊張だけで支えているように見えた。それを見ているうちに、強い罪悪感が沸き上がってきた。俺は取り返しのつかないことをした。見てはいけないものを見、語らせてはいけないことを語らせてしまった。俺はひどく狼狽した。いきなり立ち上がり、「どうもすみませんでした」と頭を下げると、大急ぎで靴をつっかけて外に飛び出した。
翌日から何日か続けて雨が降った。俺はむしろそれを口実にして公園に行かなかった。ふみかさんにどう対したらいいのか、俺にはもう確信が持てなかった。
これまで漠然とした幸福感を伴うあこがれだったものは、にわかに正体のわからぬ重荷を背負い込む負担に変わった。俺はそれを負いきれるかどうかに悩んだ。ふみかさんにあんな暮らしを強いる「運命」とは何か。それを知ったら、俺ごときはやすやすと押しつぶされそうな気がした。
「かわいそうなふみかさん」と俺は呟いた。あの格子縞のシャツは、同じようなものじゃなくて、ほんとにいつも同じだったんだな。道理でひどく着古したように見えたはずだ。そういう身なりにこだわらないところも、俺にはふみかさんの美点に見えていたのだ。
不意に、「乾くまで外に出られない」というあのときの言葉の意味が腑に落ちた。一組しかない服を洗濯したら、裸でいるしかないではないか。とたんに俺は猛烈に興奮した。それから一時間ばかり、その光景を思い描きながら何度も何度もベッドの上で身をよじった。やがて俺はぐったりとシーツにつっぷした。
また罪悪感が心に満ちてきた。あれを言うとき、彼女はどれほど恥ずかしかったろう。それでも、彼女は俺を部屋に入れ、そんなことまで打ち明けてくれたのだ。それなのに俺は、彼女を蹴飛ばすように逃げ出してきてしまった。俺は枕に顔を埋めた。ふみかさんの温もりが恋しかった。でも彼女ははるかに遠く感じられた。
どんな運命であろうと、とにかくその正体を見届けよう、そう決心がついたのは、雨がやんで西の空が鮮やかに赤らんだ夕方のことだった。明日晴れたら公園に行って、ふみかさんに詳しいことを尋ねようと俺は心に決めた。
だが俺は公園に行けなかった。翌朝、父親が出勤途中に車と接触して病院に運ばれたという知らせがあった。母親と俺は電車に乗って会社近くの病院に駆けつけた。行ってみると怪我は大したことはなく、父親は自分で立って俺たちを迎えた。急いでいたために横断歩道のないところを渡ろうとしたのがまずかった、と父親は言った。「焦っちゃだめだ、焦っちゃ」自分に言い聞かせるように何度も繰り返した。
念のために一日かけて全身を検査することになった。自分がついていると母親が言うので、俺は帰ることにした。
家の近くの駅に着いたのはもう午後も遅い時間だった。昼を食べていないが腹も減らない。神経がむやみに興奮して、このまま家に帰る気がしなかった。俺はあてもなくそのへんを歩き回った。
不意に俺は立ち止まった。見慣れた二つの姿が前を歩いている。濃紺の作務衣と格子縞のシャツだ。二人は腕と腕を絡ませ、体を密着させていた。
そのときから俺は、照準をロックされたミサイルのように、二人の後を追うしかなくなっていた。二人は自分たちだけの世界に没入しているらしく、俺がついていっても全く気付かない。ときおり男の手が女の背中を撫で回す。そのたび俺はナイフで胸をかき回されるように感じる。
二人はビルの地下にある居酒屋に入っていった。俺はその前に立ってじっと待ち続けた。ときおり通行人がいぶかしげにこちらを見たが、全く気にならなかった。これを最後まで見届けない限り、俺は二度と普通の生活に戻れないような気がした。
一時間ほどで二人は出てきた。俺は隠れもせずに立っていたのだが、暗くなっていたので二人とも気付かなかった。ふみかさんはふらつきながらゲンマロにもたれかかった。ゲンマロはその肩を抱いて耳元に何かささやいた。ふみかさんの楽しげな笑い声が聞こえた。
俺の頭の中で、ギロチンが落ちるか、金庫の扉が閉まるか、何かそんな重たい音がした。俺はこれから一つの事態の終末を経験する。明日の俺はもう今日の俺ではあるまいという予感がした。
二人はぶらぶらと商店街を抜けて、俺の知らない方角に歩いていった。しばらくして、古びた平屋が立ち並ぶ一角に入った。年代ものの木造アパートの前で立ち止まると、ゲンマロは建物を指さし、ふみかさんの耳元に口を寄せて何か囁いた。ふみかさんがくすりと笑う。建物の側面に付いた蛍光灯の薄ら寒い光に照らされながら、二人は入口があるらしい向こう側へと回っていった。
やがて左端の部屋に明かりがついた。俺はその窓に近づけるだけ近づいた。カーテンが閉まっているので中の様子はわからない。話し声も聞こえなかった。
窓は体当たりすれば簡単に破れそうだった。部屋の中に飛び込んでゲンマロをめちゃくちゃに殴り付けるところを思い描いた。でもそんなことをしても意味がないのはわかっていた。
こおろぎの声がしきりに耳に付いた。それに混じって、蛍光灯にこがね虫がカン、カンとぶつかる音が間欠的に響いた。ほかには何の音もしなかった。
そろそろ潮時か、と思った。覗きに堕する前に、さっさと家に帰ってすべてを忘れるのだ。そして明日からちゃんと勉強しよう、両親を早く安心させてやろう、そんなことまで考えた。
「さよなら、ふみかさん」と俺は心で呟いた。そして窓に背を向けた。
とたんに、部屋の中で恐ろしい叫び声がした。俺はその場に凍り付いた。ほんの一瞬だったが、正常な状態の人間から出る声とは到底思えなかった。そのあと何かが倒れるような音がした。あたりは再び静かになった。
それはゲンマロの声だった。ふみかさんの声だったら部屋に飛び込んでいただろう。俺はどうしたらいいかわからなかった。そのうち部屋の明かりが消えた。
俺は壁に身を寄せた。やがて建物の向こう側からふみかさんの姿が現れた。髪の毛が少し乱れていた。蛍光灯に照らされた顔には、上気した笑みが浮かんでいた。彼女は暗い道を音を立てずに早足で歩み去った。
俺はその場にじっとしていた。動くのが怖かった。少しでも動けば何かに肩を掴まれそうな気がした。
よほどたってから、俺は死にものぐるいで走ってその場を離れた。
ようやく家にたどり着くと、両親はもう戻っていた。話しかけようとする母親に黙って手を振り、自分の部屋に入ると、投げ出すようにベッドに身を横たえた。そのままじっと天井を見ていると、しばらくして母親が電話だと呼んだ。
電話の向こうの声は微かだったが、すぐふみかさんだとわかった。部屋に電話はなかったから、公衆電話からかけているのだろう。
彼女はひどく疲れた声で「遅くにごめんなさい」と言った。
「悪いんだけど、お願いしたいことがあるから、あした朝九時に、私の部屋に来てくれないかな」
「わかりました」と俺は答えた。
「ありがとう。九時ね、早くも、遅くもなく」と彼女は念を押した。
翌朝八時過ぎに俺は家を出た。秋の空気はもう肌寒かった。しばらくあたりを歩き回ったあと、九時ちょうどにふみかさんの部屋の前に立った。ベルを鳴らしたが、返事はなかった。念のためドアを強くノックしてみたが、同じだった。
試しにドアの取っ手を回すと、簡単に開いた。ドアの隙間から「ふみかさん」と呼んだ。答えはなかった。部屋の中は静まり返っていた。
思い切ってドアを開けて中に入った。雨戸は開いていて、がらんとした部屋の中が隅々まで見通せた。ふみかさんはどこにもいなかった。
窓の下の畳に、紙袋が一つ置いてあった。近づいてみると、上に鉛筆でこう書いてあった。
「甘利君、申し訳ないけど、この中のものを当分預かってください」
ふみかさんの字を初めて見ることに気づいた。子供っぽいが丁寧な字だった。俺は袋の中を覗き込んだ。
この前見た湯呑みと皿、それに歯ブラシと櫛とタオルが入っていた。歯ブラシは毛が擦り切れ、タオルは糸の間に隙間ができていたが、どれにも少しも汚れはなくて、長い間大事に使われていたことを物語っていた。
俺は日が暮れるまでその部屋で過ごした。ふみかさんは姿を現さなかった。翌日も、その翌日も、俺は朝からその部屋に行ってふみかさんを待った。しかし心の底では、ふみかさんが永遠に去ってしまったことを感じていた。俺は一日中部屋の中に横たわり、ふみかさんが吸っていた空気を吸い、ふみかさんの体が触れた畳に頬を押し当てて涙を流した。
三日目の午後、俺は公園に行こうと思い立った。ふみかさんに会えると期待したわけではない。沈みこむばかりの心を切り替える、何かのきっかけがほしかったのだ。
紙袋を大事に抱えて俺は部屋を出た。平日の午後の公園は人が少ない。まず池のほとりに行ったが、あの亀の姿はどこにも見えなかった。一回りしてもっとよく探そうかと思ったが、やめた。心の中に少しでも望みを残しておきたかったからだ。
いつものベンチの前に行った俺は、驚きで立ちすくんだ。あの自転車がめちゃくちゃに壊されていた。フレームもスポークも籠も、何かでめった打ちされたように折れ曲がり、片方の車輪は外れて遠くに転がっていた。あたりにはビールの缶や酒のカップが散乱していた。複数の人間がここで酒盛りをやり、何かの鬱憤をたまたまそこにあった自転車にぶつけたらしかった。
真っ暗な気持ちで俺は家に帰った。ふと郵便受けを見ると、ひどく分厚い封書が入っていた。表書きを見ただけで、ふみかさんからだとわかった。玄関の鍵を開けるのももどかしく、階段を一気に駆け上がり、椅子に坐ると同時に封を切った。
(後編に続く)
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