「初恋」(前編)
序章 出会い
大学をやめようと思った。入学して初めてのクラスコンパで、周りの馬鹿騒ぎを私は冷然と眺めていたが、そのうち座敷の隅で数人かたまって話す成り行きとなり、いつのまにか自分の生い立ちなど語らされていて、そのとき隣の男子学生がふと漏らした一言に胸がじんとなり、いきなり彼の腕にすがりつくと「そう、そうなんですよ。どうしてわかるんですか。初めてです。わかってくれる人に会ったの」と号泣したのだ。
翌日、その場にいた同級生と顔を合わせると、「ゆうべはずいぶん語ったねえ」と冷やかされた。私は教室を飛び出し、そのまま授業にも出ず、自己嫌悪に浸りながら構内をうろついた。なにより悪いのは、私がしらふだったことだ。他の連中はみな程良く酔っていて、ちょっと人生など語ってみたい気分だったにすぎない。私だけが大まじめだった。もっともらしい顔でうなずきながら、内心皆はくすくす笑っていたに違いない。私は今すぐ死にたくなった。
またいつか、同じことを繰り返すだろう。私という病気は死ぬまで治らない。勝手に信じて、勝手に裏切られた気になって、勝手に落ち込む。その繰り返し。ああもう私は、人跡未踏の山の中で、野菜でも作りながら独りで一生を終えよう。そうすれば大好きなとろろ汁がいつでも食べられるし、大嫌いな調子のいい人間たちに二度と会わないですむ。
そんなことを考えているうちに、ふと、さっきから一人の人物の後ろ姿がずっと目の前にあるのに気づいた。その間中私は歩いていたのだから、向こうも同じ方向に歩いていたことになる。それも私と同じ速さで。そう思うとなんだか変な気がした。そこで、わざと少し足取りを遅くしてみた。すると、向こうも全く自然に、まるで疲れた足が自然にそうさせるというふうに歩調を緩めた。
私は足を速めた。すると、向こうも急に元気になって早足で歩きだした。私は前世からの因縁のようなものを感じた。この人と私とは、同じ場所で同じように動き、同じことを感じるように運命づけられているのじゃないか。
そのとき、突然その人は向きを変えて生協の喫茶部に入っていった。そんな運命は承知していない。私は慌てて、つんのめるように自分も飛び込んだ。
その人はカウンターでホットココアを受け取って、空いているテーブルに向かっていた。私も急いで同じものを頼み、後を追った。
その人はカップをテーブルに置いて椅子に坐ると、両手を組んで大きく伸びをした。私も向かいの席に坐り、両手を組んで伸びをした。
私を見てその人は言った。
「なぜ、真似するんですか」
私は少し心外だったが、小さな声で「ごめんなさい」と言って頭を下げた。
「いや、怒ってはいませんよ。ちょっと変な気がしたから……でもきっと、同じものが飲みたくなって、同じときに伸びをしたくなるのも、前世からの因縁なのかもしれませんね」
「そうそう、そうなんですよ。どうしてわかるんですか……」と言いかけて、私は口をつぐんだ。
上目遣いに私はその人を観察した。小柄な男性で、顔立ちは若々しいが、口調からは見かけより年を取っているように思われる。学生という感じではない。しかし、着ているベージュの上着がぼろぼろで、あちこち穴があきかけているところなどは、先生のようでもない。どうも正体の分からない人であると私は考えた。
「学生さんですか」
いきなり聞かれて、私は慌てて答えた。
「ええ。でもやめることにしたんです」
「ははあ」
「とろろ汁が好きなんで」言ってしまってから、これでは到底通じないと思い、私は唇を噛んだ。
するとその人は、にやっという感じで笑み崩れた。「僕も好きです、とろろ汁」
「え、ほんとに」
「あの、口の中でのとっと持ち上がってくる感じが」
「そうそう、のとっと持ち上がってくる感じが」
「ああいう幸せを味わうと、大学なんてつまらんという気になってもおかしくないですね」その人は真顔で言った。
私はなんとなくほっとして、泣き笑いのような顔になった。相手はまじめな表情のまま続けた。
「しかしいかんせん、とろろもあれば大学もあるのが人生です。それに、とろろだって初手からとろろだったわけじゃない。子供の頃は嫌いだったとろろが、あるとき急に美味に感じられて、なにやら大人になったような気がする。それを思えば、大学だっていつかとろろに変じないとも限らんです」
私は心地よく聞いていた。その人ののんびりした口調と、私が愛読する昔の小説にでも出てきそうな言葉遣いに、心の中の後悔やいらだちが溶かされていく気がした。私に必要なのは、こういう話し相手なんだと思った。このまま別れてしまうのは残念すぎる。
「お名前、なんておっしゃるんですか」私は衝動的に尋ねた。「私は宇藤みゆきです」
「私ですか。私はローケンといいます」
「老犬?」
とっさに頭に浮かんだ文字を口にしたつもりだったが、相手に通じるはずもない。その人は目をぱちぱちさせて、「そう、ローケンです」と繰り返した。
「また、お会いできるでしょうか」
「それは、もちろん。なにせ前世からの因縁ですから」ローケンさんは笑った。「私に会いたいときは、いつでもこの席に坐ってください。ココアも忘れずに。そうすれば、やがてきっと現れます。では、また」
立ち上がると、私の目をのぞき込んで、「もう少し、我慢なさい。もう少し、ね」
そして、ゆったりとした足取りで出ていった。
私はしばらくぼんやりと坐っていた。あんな約束の言葉を聞けたのが、信じられない幸運のような気がした。その余韻にずっと浸っていたかった。
後ろから誰かが両手で肩をつかんだ。「みゆきちゃん、元気?」と脳天気な声がした。私は二階から突き落とされたような気分になった。
猪俣登の長い顔が、見越し入道のように背後から現れた。知り合ってからひと月しかたたないのが信じられないくらい、私にとって不愉快な顔だった。ぎらぎらと脂光りした縮れ毛と、ぽってり厚く締まりのない唇を見ていると、生まれる前から仇同士だったような気がする。同じクラスだが、浪人しているので私より一つ上だ。あらゆる事柄について人に教えたがる男で、そのくせ中学生ほどの知識もない。
そしてなお悪いことに、昨日私がすがりついて泣いた当の相手がこれなのだ。
「だめだなあ、みゆきちゃんは」許しも得ず私の隣に彼は腰をおろした。「入学早々、知らない男となれなれしく話したりして」
「知らない男? ああ……」
「純真な女子学生をカモにしようと、悪いやつらが狙ってるんだからさ」
「あの人はそんな人じゃないよ」
「それが危ないんだってば。第一、今日会ったばかりだろ」
「でも、いい人と悪い人はすぐわかるもん」
「危ねえよ、ぜったい危ねえよ」彼は唇を噛んで、いっそう意地悪げな表情になった。「それにおれ、あいつ見たことあるぜ。すんげえ怪しい奴だよ」
「ローケンさんが?」
「ローケン? どんな字書くんだ」
「さあ……オランダ人なのかも」私はでまかせを言った。
「名前まで怪しい奴だな。おれこないだ実験棟の前歩いてたらさ、あいつが目の前をひょこひょこ歩いてくんだよ。それが、窓や扉のそば通るたびにしげしげと中のぞき込んで、すげえうさんくさいの」
私は自分もときどきそんなことをするので、なんだかお尻がもぞもぞしたが、黙っていた。
「それだけじゃないぜ。建物の角のとこ来たら、あたりを見回して、地面に指で数字みたいなもの書いてやんの。あいつ絶対スパイかなんかだよ」
それは私が子供のころよく独りでしていた遊びと全く同じなので、ますますどきりとした。
「いいじゃない、別に窓のぞいたって地面に字書いたって」私は精一杯反論した。「他人に迷惑かけるわけじゃなし」
相手がたばこに火をつけたので、私はむせそうになってにらみつけた。彼は無神経に私の顔に煙を吹きかけた。
「それだけじゃないと思うぜ。あいつきっと何かたくらんでるよ」
「ばかばかしいよ、そんなの」
彼はそっぽを向いて、煙がしみるような目つきで、たばこをくわえたまま口の横から言った。
「まあ、見てなって。そのうちきっとしっぽをつかんでやるから」
第一話 しっぽ
それからしばらく私は、授業に出たり出なかったりして暮らしていた。五月半ばというのにうすら寒い日が続く。がらんとした大教室に独り坐って、鬱陶しく曇った窓の外を眺めていると、骨までこごえるような気がした。私はたまらなくなって教室を飛び出した。こんな日は、温かいココアと浮き世離れした会話を楽しみたい。私の足はひとりでに喫茶部に向かった。
いきなり、横から出てきた人と突き当たりそうになった。「ごめんなさい」と言いかけると、相手は私の手を強くつかんだ。
「みゆきちゃん! 奇遇奇遇」
私は露骨に嫌な顔をしたに違いない。猪俣登は気にもせず、「ほんと、ちょうどよかった。探してたんだよ。マジで捕まえたんだ、しっぽを」
「しっぽ?」
「ともかく、おいでよ」
相手は有無を言わせず私の手をひっぱって、大学の正門を出た。すぐに駅前の商店街にさしかかる。その手前で、彼は首を伸ばして向こうのほうをうかがった。
「あ、いた」小声で言って指さす。
午後のまばらな人足の中を、所在なげにぶらぶらと歩く人物がいた。小柄な後ろ姿、ベージュの上着。私にはすぐ誰だかわかった。
「ローケンさんだ」
「だろ」登は得意げだった。「見てな、すんごい怪しいこと始めるから」
ローケンさんはしばらく左右を見回しながら歩いていたが、やがて、金物屋の店先にぼんやり立っている中年女性の背後に何気なく歩み寄った。
自分も金物屋にちょっと気を引かれたように、女性の背中すれすれまでローケンさんは近づいて、すぐに興味を失ったようすで遠ざかった。女性は全く気づかない。
ローケンさんの背中をぼんやり見送っていると、私の肩を登がつついた。
「ほら、あのおばさんのお尻」
私は目を疑った。いつのまにか、女性の地味な上着とスカートの間から、ひどく目立つ異様な物体が垂れ下がっている。巨大なすすきの穂を思わせる、柔らかそうな毛が密生した長いもので、何か小さな光る物がたくさん付いているらしく、わずかな動きに応じてきらきらと輝く。
「しっぽだ」私は思わず言った。
「さっきから、この道を行ったり来たりして、あんなのをそこらじゅうの人に付けて回ってるんだぜ。やっぱりあいつ、くわせもんだよ」
登は私の手を引いてぐんぐん歩きだそうとした。
「どこ行くの」
「交番。お巡りさんにあいつのこと注意して、捕まえてもらう」
「だめだよ、そんなこと」私は胸がどきどきして、懸命に反対した。「証拠もなしに人を悪者扱いしちゃいけないよ」
「あの行動が立派な証拠じゃねえかよ」
「でも、何か理由があるかもしれないじゃない。本人たちにしかわからない理由がさ。権力の介入を求める前に、まず当事者の話を聞くべきだよ。自助努力だよ」
登はしばらく唇を噛んで私の顔を見つめたあと、金物屋の前の女性につかつかと近づいて、大声で話しかけた。
「こんなもん、付いてますよ」
女性は首をねじ曲げて、自分のお尻から垂れ下がっているものを目にし、手に取ってじっくりながめたあと、こう言った。
「まあ、きれい」
登はよろめいたが、体勢を立て直して、「さっき怪しい男があなたに近づいて、付けていったんです」
「なんてすてきなプレゼントでしょう」女性は夢見るような表情になった。「これで今日一日幸せな気分で過ごせそうだわ」
そして、しっぽをひらめかせながら楽しそうに去っていった。
登は顔を真っ赤にして、「ぜってえ変だよ、あのおばさん」
「自分の思い通りにならないからって、人を変人扱いするのはよくないな」と私は批評した。
「あっ、あそこにもいるぞ」
漢方薬店の店先に、骸骨のように痩せた長身の若い男が立って、飾り窓の中を猫背でじっとながめている。そのお尻にもしっぽがぶら下がっていた。
登は大股に近づいて、声をかけた。
「もしもし、変な物が付いてますよ」
男は、どんよりと濁った死人のような目を、剥製のアルマジロからゆっくりと登に移し、その指先をたどって自分のしっぽを見た。
とたんに、男の目が生き返ったように輝いた。「これはしたり! その手があったか!」男は吠えるように叫ぶと、いきなり走りだした。短距離走者のように両手を振り、しっぽを背後になびかせながら、みるみるうちに遠ざかった。
「……なんだ、あいつは」登は呆然と呟いた。
「ねえ、やっぱり誰も迷惑してないみたいじゃない」
「誰もって、まだ二人だけじゃねえか」彼は腹立たしげに言うと、あたりをぐるぐる見回した。
「ねえねえ」私は彼の肩を叩いた。「あそこにもいるよ」
登は勢い込んで駆けだそうとして、たたらを踏んだ。本屋の店先で雑誌を立ち読みしている並外れた大男がいる。真っ赤な背広の背中がほぼ真四角で、岩のように肩が盛り上がっていた。背広の裾から、ひときわ太くて立派なしっぽが悠然と垂れ下がっている。それは風もないのにぴくぴく震えているように見えた。
「ねえ、行かないの」私は催促した。
登は唾を飲み込み、爪先立ちで男に近づくと、おずおずと呼びかけた。
「あの、もしもし」
男は無言で振り返った。細い目にすごみがある。登は二、三歩後ずさった。
「何か御用?」男は低い声で言った。
「ええと、その、変な物が……」
「俺のどこが変?」男の目が殺気を帯びた。
登は慌てて、「いやその、あなたじゃなくて、お尻に変な物が」
男はゆっくりと振り返り、そこに垂れ下がっているものをつまみ上げた。
「これのこと?」
「そうです」
「かわいいじゃないの」
登はがっくりと頭を垂れ、それでも蚊の鳴くような声で、「あの、迷惑じゃないんすか、そんなもの付けられて」
「迷惑?」男はいきなりふしくれ立った手を突き出すと、登の鼻をつかんでぐいとひっぱり上げた。「迷惑ってのは、君みたいに、見境なく人のことに口を出すことじゃないの? 違う?」
登は声も出せず、手だけをカマキリのように宙に動かしている。男は登を放り出すと、肩を揺すりながら大股に立ち去った。
登は鼻を押さえてうずくまっていた。私はちょっと気の毒になって、そばにかがみ込んだ。
「だいじょうぶ?」
「なんで俺がこんな目にあうんだよう」登は情けない声を出した。「みんなで俺を馬鹿にして」
「別に馬鹿にしてないと思うよ」
「俺はあたりまえのことしただけじゃねえか。なんでみんなあいつの肩持つんだ。みゆきちゃんまで……」
私が答えないでいると、彼は立ち上がってすたすたと歩きだした。
「どこ行くの」
「知らねえよ」
私は黙ってついていった。別についていきたくはなかったのだが、気が弱いので、こんな形で別れるのが不安だったのだ。登がいつもの調子に戻ってくれたら、安心して置いていくつもりだった。
登はずんずん歩いていった。ずいぶん歩いて、あたりは見慣れない景色になった。ひょっとしたら、登は止まるタイミングをつかみ損ねたのかもしれないと思った。だとしたら、私たちはいつまでも歩き続けて、そのままざぶざぶと海へ入ってしまうのじゃないか。
そんな馬鹿なことを考えていると、不意に登の足が止まった。住宅街の中の小さな公園である。ピンクの象の鼻が滑り台になった遊具や、毒々しい緑色に塗ったベンチが置いてある。そのベンチに何人かの人々がたむろしていた。まず目に付いたのは、見覚えのある真っ赤な背広と人並みはずれた巨体だ。その隣に坐っているのは、よく見ると、私たちが最初にしっぽをぶら下げているのを見つけたおばさんではないか。おばさんはしきりに何か話しており、それを大男がうなずきながら聞いている。
「私、今日も夫と大喧嘩して、『おまえのような奴は死ね、いますぐ死ね』と言われて、『ああ死んでやる、今日これから死んでやる。その代わり、私が死んだらあなたもただじゃ済まないから』って言って、家を飛び出してきたんです。それで、どうやって死ねばいちばん夫を苦しめられるだろうって、ずっと考え続けてたんです」
「かわいそうに」男は満腔の同情を表してうなずいた。
「でも、これ見たら、そんなこと全部どうでもよくなったの。もう死ななくていい、夫も憎まなくていい、試練は終わったんだって、憑き物が落ちたようにすっとわかったんです」いとしげにしっぽを撫でながらおばさんは呟いた。
「俺もね、人には言わないけど、ずいぶん悩みがあるよ」大男が言いだした。「人には言わないけど。なめられるの嫌だから。でも、ときどきは何もかも放り出したくなるよ。でも、やっぱりこれ見るとね、今までがんばってきてよかったと思うよ。これ見るとね」男は自分のしっぽを持ち上げてつくづくと眺めた。
「僕が残念なのはね」と別の声がした。見ると、アルマジロと睨めくらをしていた青年である。「何で自分でこれを思いつかなかったのかってことなんです。物心付いたころから僕、ずっとこういうのを探してたんですよ。でも見つからなかった。こんな手があったなんてなあ。後から思うと、いいところまで行ってたんだ。なのにだめだと思って絶望してた。返す返すも惜しい」
「あんたのせいじゃないよ」と別の老婦人が大声で言った。「こんなことは、誰かが思いついたりするもんじゃないよ。神様の贈り物みたいなものじゃないか」よく見ると、老婦人のお尻にも同じしっぽが下がっている。
「どうしたんだ」いきなり後ろから肩を叩かれたので、私は飛び上がるほどびっくりした。振り返ると、頭の薄くなったジャージ姿の中年男性がにこにこ笑っている。「二人とも、そんなとこに立ってないで、仲間に入ったらいいじゃないか」
「いやあ」登は尻込みした。
「遠慮することないよ」と男性は腕を振り回しながら言った。「しっぽがないからって、仲間はずれになんかしないからさ」見ると、この男性にも立派なしっぽが付いているではないか。
私たちは押されるようにしてベンチに近づいた。人々が体を動かして、二人分の空間ができた。
「ども」挨拶のつもりか登は、鶏が餌をつつくように首を前後に動かした。
「さっきはすまなかったね」と大男。
「いやあ」登は頭に手をやって、曖昧な返事をした。
「俺もね、いけないと思うんだけどさ。気が短いもんだから。納得がいかないことがあるとね、つい手が出ちゃうんだよ。気が短いもんだから」
「あんたのせいじゃないよ」と老婦人。「そりゃ、相手がわからずやのおたんちんなんだよ」
「おれのことすか」登はショックを受けた表情になった。
「あんたとは言わないけどさ。自分にしっぽがないからって、人のしっぽを悪く言うなんて、そりゃ、わからずやのおたんちんに決まってるよ」
「そういうこと言っちゃいけないよ」中年男性が注意した。「しっぽのない人を差別しちゃだめだ」
「あの」登が意を決したように口を出した。「さっきから聞いてると、なんかしっぽがあるのがずいぶん立派なことみたいですが……」
「立派じゃないか」と老婦人。
「そうすか」登はだらしなく口をつぐんだ。
「気にするこたないよ」中年男性が慰めるように言った。「しっぽがないからって、だめと決まったわけじゃないさ」
「そうそう、たまたま運が悪かっただけ」とアルマジロ男。
「運ばかりじゃなくて、行いもずいぶん悪かったんだろうけどね」と老婦人。
「な、何でそんなこと言われなきゃなんないんですか」登は顔を紅潮させた。「そんなの、ただのいたずらじゃないですか。ばかばかしい」
「なんだと」大男が登の鼻めがけて手を伸ばした。
「まあまあまあ」中年男性が腕を振り回してさえぎった。「勘弁してあげなよ。何にも知らないんだからさ」
「知ってますよ、何もかも」登は興奮した口調で、「ローケンていう怪しい奴が付けたんですよ、それ」
「ローケンて誰だ」と大男。
「怪しい奴です」
「職業は何だ。何丁目何番地に住んでるんだ」
登はぐっと詰まったが、「とにかく、怪しい奴なんです」と結論付けた。
「誰が付けたんだって、私はいいの」とおばさんが遠い目をして言った。「これのおかげで、私は地獄から救われたんだもの」
「そうそう。大事なのは気持ちだよ。それがわからないなんて、かわいそうなおたんちんだねえ」と老婦人。
「じゃ、教えてくださいよ!」登は爆発した。「いますぐわかるように説明してください。そんなもんに何の意味があるのか」
みんなは顔を見合わせた。おばさんが悲しそうな目をして首を振った。
「兄さん、もううち帰って休みなよ」中年男性がなだめるように言った。「俺たちはいつでも待っててやるからさ」
「教えてくれないんすか。さんざ馬鹿にしといて、それはないじゃないすか」
「まあまあ」男性は登の肩を抱くようにして立たせた。「今日はゆっくり風呂でも入って、うまいもん食って、早く寝な」
「元気出せよ。そのうちいいこともあるよ、そのうちさ」大男が後ろから声をかけた。
「あんたのせいじゃないんだよ」老婦人が投げやりに言った。
戻る間、登はずっとふさぎ込んでいた。一度だけ顔を上げて何か私に尋ねたそうにしたが、思い直したようにまた頭を垂れて、黙って歩きだした。
駅前まで来たので、私は立ち止まって、「じゃ」と言った。「ああ」登は曖昧に答え、顔を上げて私の方を見ると、いきなり頓狂な声を出した。
「みゆきちゃん、お尻!」
振り向くと、知らぬまに大きなしっぽがそこにぶら下がっていた。登は目を剥いて振り向いた。彼のお尻にもやはり、白くて柔らかそうなしっぽが生えていた。彼はそれをつかみ、真っ赤な顔で引きちぎろうとしたが、ちょっとためらって、そのまま固まってしまった。
「何を考えているんですか」
声をかけられて私は我に返り、霧雨に濡れた窓ガラスから喫茶部の中に視線を戻した。テーブルの向こうから穏やかな目がこちらを見つめている。私は笑顔になった。
「別に。あと少しで梅雨が終わって、そしたらいよいよ夏なんだなあと思って」
ローケンさんはほほえんだ。その優しそうな表情を見ていると、この間あんな奇妙ないたずらをして私と猪俣登を煙に巻いたのと同一人物だとは、どうしても信じられない。
「それはそうと、大学をやめるという話はどうなったんですか」ローケンさんは尋ねた。
わたしは少し恥じらいながら、「ええと、当面保留にしました。いろいろ気になることもあるし……」
気になることとは何かとローケンさんは聞かず、ただうなずいた。
「そうですか。それじゃ、まだしばらくはここにおられるんですね」
「ええ、当分」あなたのことがもっとよくわかるまではと、心の中で私は付け加えた。
第二話 ネジ
梅雨が明けたとたんに猛烈な日差しが降り注いだ。その日私は、出かける前に一時間ほども迷ったあげく、一枚しかないノースリーブのシャツを着て家を出た。電車に乗っているあいだ中、なんとなく落ち着かなくて、よせばよかったかなあとずっと考えていた。
大学の門を入ったとたん、向こうからマンガのTシャツを来た男が両手を広げてふらふら近づいてきた。「みゆきちゃん! 奇遇奇遇」
私は決定的に後悔した。最初に会うのが猪俣登とわかっていれば、金輪際こんな格好はしてくるのじゃなかった。登は鼻の頭に汗を浮かべながら、私の方を見てにやにやした。
「いいねえ、夏だねえ」
「何か御用?」私は冷たく言った。
「そうそう。急がないとあいつが行っちゃう」
「あいつ?」
登は遠慮会釈もなく私の手を引いて、裏門の方角へぐんぐん歩きだした。「今日こそこないだの借りを返してやる」と呟くのが聞こえた。
裏門を出ると、登は横道に入り、いきなり電信柱に身を隠した。私の方を向いて唇に指を当て、向こうのほうを指さす。
ブロック塀の間の細い道をゆっくりと歩いていく人物がいた。この暑いのに、膝まであるベージュ色の上着を着込んでいる。ローケンさん以外ではあり得ない。
「見てろよ、きっと何か怪しいこと始めるから」登がささやいた。
ローケンさんはあたりを見回して人気のないことを確かめると、道ばたにかがみ込んで、ポケットから何か棒のようなものを取り出した。それを側溝の縁石に押し当てて、しきりにひねくっている。しばらく一心不乱にそうしていたが、やがて満足が行ったらしく、立ち上がってうんと伸びをすると、またぶらりぶらりと歩きだした。
ローケンさんの姿が見えなくなると、彼がかがみ込んでいたあたりに私たちは走り寄って、のぞき込んだ。縁石の真ん中に、直径一センチばかりのネジの頭が見えた。何かを留めているふうでもない。ただそこにネジだけがはまっている。さっきローケンさんがポケットから取り出したのは、あれはネジ回しだったのだなと私は気づいた。
「こんなところにネジがあるなんて、怪しいな」と登は言った。「回してみよう」
彼は背負っていたデイパックのポケットから千手観音みたいな万能ナイフを取り出すと、「紳士のたしなみだよ」と自慢して、中からネジ回しをひっぱり出した。それを縁石のネジの頭にあてがい、力を込めて回そうとした。
いきなり後ろから頭をはたかれ、登は尻餅をついてぶざまに転倒した。振り向くと、作業服のようなものを着た五十代くらいのがっちりした男が、腕を組んで立っている。
「何するんですか!」登はようやく起き上がると、男に抗議した。
「勝手にいじるんじゃない」男は腕組みをしたまま言った。
「いじっちゃいけないものなんですか。なんなんですか、このネジ」
「あんたには関係ないよ」男は冷たく答えた。
「教えてくれたっていいじゃないですか。あ、そうだ」登はにわかに興奮の体で、「さっき、勝手にいじってる奴がいましたよ。すんげえ怪しい奴。あいつ捕まえた方がいいですよ」
男の顔に蔑みの表情が浮かんだ。
「いじってたんなら、そりゃ、いじる権利のある人なんだろうさ。知りもしないことに首をつっこむお節介が、そうあちこちにいてたまるものかね。ちょっとは分をわきまえてほしいものだな」
男は振り返り、ゆっくりと立ち去った。登はその背中をにらみつけて吐き出すように、
「なんだ、あいつ。何様だと思ってやがるんだ。どこの作業員だか知らないけど、自分こそ分をわきまえろよ。会社がわかれば苦情を言ってやるんだけどな。あんな奴、即刻首だ……」
歩きながら登は口汚く憤懣をぶちまけ続けた。私はいやいや聞いていたが、ふと前を見て思わず呟いた。
「あ、ローケンさん」
登は物も言わずに私を物陰に押し込むと、目を光らせてそちらを見た。ローケンさんは相変わらずのんびりした足取りで歩いていた。やがて、ポケットから出したハンカチでいかにも暑そうに顔を拭うと、道ばたに生えている大きな銀杏の木陰に吸い込まれるように入っていった。
そこでしばらくローケンさんは木の方を向いて立っていた。こちらからはよく見えないが、何かをしているらしくときどき手が動く。
「あっ、怪しい。あっ、怪しい」耳元で登がうわごとのように呟いた。
やがてローケンさんは、十分涼んだという顔で木陰から出て行った。フライパンのように熱せられたブロック塀に体を押しつけて、肉汁のように汗を滴らせながら見ていた私たちは、大急ぎで木陰に飛び込んだ。
「あっ、やっぱり」登が叫んだ。
銀杏の太い幹の、目の高さより少し下に、さっき見たのと全く同じネジがはまっていた。やはり何を留めているわけでもなく、幹の皺の間から銀色の頭だけをちょこんとのぞかせている。
登は注意深くあたりを見回し、万能ナイフを取り出すと、「みゆきちゃん、邪魔が入らないように見張ってて」と私に言って、ネジ回しをひっぱり出した。
木に背中を向けて私が道を眺めていると、「ん、なんかおかしな感触」と背後で登が呟くのが聞こえた。
「どんな」私は思わず振り返って、登の手元を覗き込んだ。
とたんに、「馬鹿野郎」と罵声が飛んで、登が道路に叩き付けられた。さっきの作業服の男が、肩を怒らせて登をにらみつけていた。「とうとう、回しちまいやがった」
「なんだよう」登は地面に転がったまま叫んだ。「あんた、いったいなんなんだ。何の権利があって……」
「うるさい」男は憤怒の形相になった。「きさま、これを調整するのがどれだけ大変かわかってるのか。何人もの貴重な努力が、きさまの気まぐれ一つで無駄になったんだぞ」
男は木の方に向き直ると、ポケットから大きなネジ回しを取り出し、ネジにあてがって慎重に左右に回し始めた。登が何か言いかけると、男は振り向きもせず「黙れ、穀潰し」と決めつけた。
しばらくして男は手を止めて額の汗を拭うと、「完全じゃないが、最悪の事態だけは防いだ」と呟いて、もう一度登をにらみつけた。
「若いの、たいがいにしておくんだな。世の中には、泥靴で踏み込んじゃならない場所があるんだ。それがわからない未熟者なら、それらしく隅っこに引っ込んでおれ。でかい面してそこらを汚して歩くんじゃない。わかったか」
そして、肩をそびやかして歩み去った。
それから私は、怒り狂った登に近くの喫茶店に連れ込まれ、一時間以上も文句を聞かされるはめになった。
登はどういうわけか、あの男がどこかの役所から来たと決め込んでいて、「公僕精神を忘れた役人の害」について滔々と弁じ立てた。「あいつらの高い給料はみんな俺たちの税金なのに……」と言われたときは、いったいいくら税金を払っているのと尋ねたくなった。
しかし私はほとんど聞いていなかった。私の心の中には、さっきあの男が言った「何人もの貴重な努力」という言葉が繰り返し響いていた。その「何人も」の中には、きっとローケンさんも入っているのだ。やはりあの人は特別な人だったのだ。私は何となくうれしかった。
喫茶店を出たときはもう夕方だった。夏の最初の素敵な一日はこうして空費されたのだ。私はすっかり憂鬱になった。登も怒り疲れたらしく、無言で歩いていた。
不意に登が喉の詰まったような声を立てて、私をブロック塀に押しつけた。またかと私はうんざりした。
住宅街の一角に、古びた瓦葺きの木造の小屋が建っていた。元は離れか何かだったのだろうか。今ではすっかり土埃に覆われ、ガラス窓には穴が開いて、人が住んでいる様子もない。その壁に向かって、見慣れたベージュの上着がかがみ込み、手を動かして何かやっていた。やがてローケンさんは立ち上がると、肩こりをほぐすように首をぐりぐりと回し、歩み去った。
登は飛びつくように小屋に駆け寄った。私は何があるかだいたい見当が付いていたので、渋々と歩いていった。
「あー、やっぱりこれだ」壁に向かってかがみ込んだ登が言った。
のぞき込むと案の定、煤けた木肌を見せた壁面に、あのネジが無意味にはまっていた。ネジの頭は妙にぴかぴかしていて、古びた壁と不釣り合いだった。
登はさっそく万能ナイフを取り出した。「やめときなよ」と私は口を出した。「さわらぬ神に祟りなしだよ」
「いや、これは男の誇りを賭けた戦いなんだ」登は真剣な顔で大げさなことを言うと、慎重にネジ回しをあてがった。
作業服の男の鉄拳がいつ飛んでくるかと、あたりを見回しながら私は気が気でなかった。登は何かぶつぶつ呟きながら、ずいぶん長いこと取り組んでいた。もういい加減にしてくれと、私は心の中で何度も悪態をついた。
不意に「あー、ああー」という間の抜けた叫びが上がった。振り向くと、古釘を引き抜くような嫌な音を立てて、小屋の壁が向こうへ傾いていった。登はひょろひょろと手を伸ばしたが、壁は容赦なく倒れ込み、轟音とともにもうもうと土煙を立てた。ついで柱がめきめきと曲がりだし、屋根板がばりばりと裂け、木片や土塊や割れ瓦が組んずほぐれつしながら地面へとなだれ落ちた。こうして瞬く間に、さっきまで小屋だったものは、塵埃を巻き上げる廃材の山と化していたのである。
「あああああああ……」ぽっかり口を開けたまま登は茫然自失していた。そのときの登ほど打ちのめされた表情を、私は見たことがなかった。たっぷり一分間彼はそのまま固まっていたが、やがてごくりと唾を飲んで、何か言おうとしてもう一度唾を飲んで、ようやく「どうしよう」と言った。
私も唖然としていて、とても答える余裕がなかった。「ねえ、みゆきちゃん、どうしよう」登は弱々しく言った。私は黙って首を振った。「みゆきちゃんどうしよう」と登は半泣きで言った。私は首を振った。そんなことをあと二、三回繰り返したような気がする。
隣の平屋の玄関に電灯がつき、引き戸ががらがらと開いて、ランニングシャツ姿の男の人が出てきた。小屋の残骸を見て男は眉を潜め、「壊しやがったな」と呟いて、登をにらみ付けた。「おまえがやったんか」
「はい」登は蚊の鳴くような声で答えた。
「なんちゅう馬鹿ないたずらをするんだ。大学生か」
「はい」
「近頃の大学生は、やっていいことと悪いことの区別も付かんのか。たわけ者が」
それから十分間くらい油を絞られ、住所と名前を書き取られて、ようやく私たちは放免された。大学に戻る道すがら、平屋の男性の悪口をいやというほど聞かされるものと、私は覚悟していた。ところが登は、うなだれて無言で歩いているだけだった。あの小屋といっしょに、登の中の何かも壊れてしまったようだった。
構内で別れるとき、私は思わず登の顔をのぞき込んで言った。
「元気出しなよ。そのうちいいこともあるよ」
登の顔にようやく弱々しい笑みが浮かんだ。
(後編に続く)
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