「初恋」(後編)

 

第三話 黒手袋の男

 

 夏休みのあいだ私は実家に帰り、かまわれるうれしさと煩わしさを久しぶりに味わっていた。気楽な一人暮らしがそろそろ懐かしくなったころ、大学に戻るときが来た。

 戻ってみると、休みのあいだに周囲はますますよそよそしくなったように思われた。私は授業に出る気もしなくて、涼しい風が吹き始めた構内の並木道をぼんやりと歩いていた。

 こんなことではいけない。再会した故郷の友人たちは、それぞれ自分の道を着実に歩いていた。私ももっとしっかりしなければ。そう思いながら、何を目指して進めばいいのか見当が付かなかった。

 自然に喫茶部に足が向かった。ローケンさんなら、何か手がかりを与えてくれそうな気がした。甘えた気持ちだとは思ったが、自分でもどうしようもなかった。

 ココアのカップを受け取っていつもの席に着き、両手で胸を抱え込んで溜め息をついた。そのまま私は憂鬱な考えに沈み込んでいった。

 向かいの席に人の気配がした。自然に笑顔になって顔を上げた。いつもの幸福感にほんのしばらく包まれたあと、水を浴びたような気持ちになった。違う。年格好は似ているけど別の人だった。詰め襟の黒い上着を着て、黒い帽子を被って、骨張った蒼白い顔ににやにや笑いを浮かべながらこっちを見ている。テーブルに載せた両手には黒い革手袋がはまっていた。

 私が失望して目をそらそうとしたとき、

 「はじめまして」と向かいの男が言った。

 私はどう考えてよいかわからず、黙っていた。今のは私に向かって言ったのだろうか。男はますますにやにやを強めて、こう言った。

 「あなたのことはローケン氏からよく聞いていますよ、宇籐みゆきさん」

 私ははっとして尋ねた。

 「ローケンさんのお知り合いなんですか」

 「そりゃあもう」何がおかしいのか、男は体をよじるようにして笑った。「ローケン氏とは因縁浅からぬ間柄で……そうそう」男は上着のポケットを探ると、しわくちゃになった名刺を取り出した。「私はこういう者です」

 住所も肩書きもなく、「権田原 仁」とだけある。

 「ローケン氏からあなたのことをよろしく頼まれましてね」

 「私のこと?」

 「そう」男は真顔になった。「ローケン氏はあなたのことをとても心配しています。このままでは、あなたは人生に絶望するか、あるいは悪い男の餌食になってしまうんじゃないかと。何とかしてあなたを助けてやりたい。しかし、ローケンという男はそういうことが大の苦手なんです。根っからの傍観者だから、人を助けるなんてことには体がすくんじまうんですな。それがきゃつの弱点です。だから私が頼まれたんです。どうか自分に代わって、あの子をいい方向に導いてやってくれないか、人生に意味を見いだせるようにしてやってくれないかとね。ローケン氏の頼みじゃ嫌とは言えません」

 「ローケンさんが、そんなことを」私はぼんやりするほど驚いてしまった。同時に心のどこかがうれしさでじんとした。それにしても、この男のにやにや笑いはどうしてこんなに気に障るのだろう。

 「そこで私はいろいろ考えた。結局行き着いたのは、今までたくさんの若い人に効果があった方法です。つまり、私がやっているボランティア活動を手伝ってもらったらどうかと思うんです」

 「どんなボランティア活動ですか」

 「それはね、記憶を失った人たちが記憶を取り戻す手助けをするという、そういう活動なんです」

 そんなボランティア活動があるとは聞いたこともなかったので、私はなんと言ってよいかわからなかった。

 「まあ、詳しいことはいずれ現場で。どうです、明日にでもさっそく来てみませんか」

 何をするあてもなかったので、私は承知した。実際には、いちばん利いたのは「ローケン氏も来ますよ」という男の一言だったかもしれない。

 

 翌日の朝、男に言われた場所で私は待っていた。それは大学の最寄り駅の、いつもと反対側の出口の前だった。改札から出てくる人たちを見ていると、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、昨日と同じ格好で男がにやにやと笑っていた。

 「行きましょう」

 男は私の前に立ってずんずん歩いていった。坂の多い住宅街の細い道を幾曲がりもし、何度か犬に吠えられた。私はすっかり方角がわからなくなった。

 やがて男はある建物の前で立ち止まった。それはコンクリート造りの、さいころを不規則に積み上げたような不思議な形の二階建てで、住宅とはちょっと思えなかったが、さりとてなんの建物という見当も着かなかった。男は「ここです」と言って、地下へ降りる階段を指さした。地下には地上とは別の入口があるようだった。階段には石やコンクリートの塊が散乱していて、しばらく人が通っていないのではないかと思われた。私はちょっと躊躇した。

 男はかまわずどんどん階段を降りていった。私も結局従った。降りきったところにガラスのはまった鉄の扉があった。男はそれを重そうに押し開けた。

 中は暗くて、ひんやりとしていた。男は手を伸ばして電灯のスイッチを入れた。寒々とした青白い光が室内を照らし出した。

 その部屋は元はバーか何かだったようで、右手にカウンターがあり、その前にいくつかのスツールがコンクリートの床に造り付けになっていた。カウンターの後ろの棚は空っぽだった。床のあちこちに埃の塊が遊弋している。

 男は部屋の真ん中まで進んであたりを見回し、「まだ誰も来てないな」と呟いて、こちらを向いた。

 「ちょっとここで待っていてください。すぐ戻りますから」

 返事も待たずに男は入口の扉を引き開けると、階段を早足で上っていった。そのあとで扉がずしんと重い音を立てて閉まった。

 誰もいない空間で私はしばらく立ちすくんだ。こんなに身の置きどころのない不安な気持ちになったのは初めてだった。心臓の中まできりきりと空虚が押し入ってくるようだ。よほどたってから、そっと左右を見回してみたが、安心させてくれる何物もそこには見つからなかった。

 足音を立てるのを恐れるように私はそっとカウンターに歩み寄り、手をついて向こう側をのぞき込んだ。がらんとして何もなかったが、左手の隅に拳ほどの大きさの灰色のものが転がっている。暗いのでよくわからないが、何となくよくないもののように思われて、私は身震いした。

 水の中を歩くような気持ちで扉に向かった。外の空気が吸いたかった。取っ手を引いたが、動かなかった。何度やってもだめだった。鍵がかかっているらしい。

 そのとき私は、故郷の両親のことを思った。下半身が重く痺れていた。横になりたかったが、場所がない。スツールに腰をおろして、胸を抱え込んだ。

 「なんでこんなことになるの」と自分の体を撫でながら私は呟いた。

 どれくらいたっただろう。何かがきしむような音を聞いて、びくりと顔を上げた。扉が細く開いて、誰かの顔がそっとのぞき込んだ。やがて全身が現れ、するりと室内に滑り込むと、すたすたとこちらへ歩いてきた。

 「みゆきちゃん! 奇遇奇遇」

 「なぜあなたがここに」猪俣登の顔を見上げて、私は呆然と呟いた。

 「いやー、驚いたなー。きのう俺、あのローケンの野郎を見つけたから、あと付けてたんだよ。今度は何やらかすつもりかと思ってさ。そしたら踏切渡って見慣れない道通って、住宅街の中ぐるぐる歩いて、しまいに変な形の家の地下へ降りてくから、外でぼーっと待ってたら、しばらくして出てきたときは、黒い服に着替えて、黒手袋なんかはめてやんの」

 「違うよ」私は急いで口を挟んだ。「それ、ローケンさんじゃないよ」

 「うん、俺もつけてるうちになんだか違うような気がして、迷ってる間に奴はふっといなくなっちゃった。しょうがないからそのまま帰ったんだけど、考えてみるとどうもこの建物が怪しいような気がしてきたから、調べてみようと思って今日出直してきたんだ。まさかみゆきちゃんに会えるなんてなー」

 昨日喫茶部で初めて見たとき、自分もあの男をローケンさんと見間違えたことを思い出して、私は何となく嫌な気分になった。

 そのとき突然、重大なことに私は気づいた。

 「ねえ、あなたいったいどうやってその扉を開けたの?」

 「どうやってって、普通に押したら開いたぜ」

 私は扉のところへ飛んでいって、引いてみた。さっきと同じように全く開かなかった。登も力を合わせて引いたが、だめだった。登は首を傾げた。

 「おかしいな。向こうからしか開かないようになってるのかな。てことは、俺たち閉じ込められたってこと?」

 そのとき、階段を降りてくる足音が聞こえた。私は登の耳にささやいた。

 「来るよ、黒手袋の男が」

 「ええっ」登は狼狽してあたりを見回した。「みゆきちゃん、俺は来なかったことに」言いおいて、カウンターの向こうに身を隠した。

 扉が開いて、男が入ってきた。手には大きな紙袋をさげている。しばらく探るような目でこちらを見ていたが、やがて紙袋を床に置いてすたすたと近づいてきた。

 「失礼。退屈しませんでしたか」

 私は黙って首を振った。男は黒手袋をはめた両手を私の肩に置いた。私は身震いして後ずさりした。

 「ああ、恐がらないで」男はささやいて、さらに前進してきた。「これから、とっても楽しいことが始まりますよ……」

 すぐ後ろで息を殺しているはずの猪俣登のことを私は考えた。登が派手な隈取りをして、極彩色の衣装を身にまとって、「しばらく、しばらく」と大見得を切りながら花道を駆けてくるところが頭に浮かんだ。その姿は悲しいほど似合わなかった。幻はたちまち雲散霧消した。

 「かわいい子だ」男は手袋のままの両手で私の頬を挟んだ。男の蒼白い顔にかすかな赤みが差した。

 「もう愛を知っているのか? それともまだ、白百合のように純潔なのか?」

 「ひゃあ、きもわりい!」突然背後で大声がした。

 さあっとシャッターが閉まるように男の顔が無表情になった。カウンターの後ろから、頭を抱えて猪俣登が転がり出た。

 「鼠のミイラがあるじゃねえかよう。勘弁してくれよう」

 男はじっと登を見た。

 「なんだ、君は」

 「なんでもないっす」

 「どうしてここに入った」

 「ちょっと入りたかっただけっす。さよならっす」

 登は扉のほうに駆け出した。男が伸ばした手を避けた拍子に、登の足が床の紙袋にふれて、袋が倒れた。中から太いロープの束と、ぴかぴか光る大きな斧が転がり出した。

 この禍々しいものを見て、登は泣き笑いのような表情になった。こちらを見て一瞬躊躇したが、すぐに私を見捨てることを決めたらしく、勢いよく扉の取っ手を引いた。

 うかつな男である。扉が開かないことを、そのときまで失念していたと見える。取っ手をがちゃがちゃいわせている登の後ろから、男が近づいて肩に手をかけた。

 「さわるなよ」登は身をよじった。「俺は関係ないんだ。出してくれ」

 「勝手なお兄さんだな」と男は不気味に落ち着いた声で言った。「関係ないのに入ってきたのは君だろ。これから二人だけの濃密な愛の時間が始まるところだったのに」

 「笑わせないでくれよ」逆上した登はやけ気味に叫んだ。「こんなもんで女の子が喜ぶと思ってんのかよ。ロープと斧? 感覚が六百年ばかり古いよ。ちっとはいまどきのナンパのしかたでも研究したら? ほかに何があるのさ」

 登は紙袋を取り上げて、中身を出そうとした。「やめろ」男が脅すような声を出した。

 「やめませんよ。どんな時代遅れの道具を用意してるのか、とっくりと見てやるんだから」

 「やめろと言うのに」男は歯をむき出した。

 「へへんだ。恐くなんかないよ、カラスみたいなかっこしてさ。おっと、こりゃなんだ」登は妙な顔をして、袋の中から鰹節を一本つかみ出した。「なんに使うんだ、こんなもん」

 登はもう一度袋に手をつっこんだ。今度は河豚提灯が出てきた。それから、亀の子たわしが出た、蚊取り線香が出た、漢字練習帳が出た、金太郎飴が出た、豚の貯金箱が出た、真鍮のドアノッカーが出た、アンモナイトの化石が出た、ピングーのマグカップが出た、金比羅様のお札が出た、東京タワーの模型が出た。登はとうとう、袋を逆さにして中身を床にぶちまけた。おびただしい数のがらくたがそこら中に散らばった。

 「ああ? こりゃいったいなんだ?」登は呆れた表情であたりを見回した。

 男はぶるぶると肩をふるわせた。「俺の心の、深奥の秘密を……」

 「これが秘密?」登は首を傾げた。「ぶっ飛びすぎてて、意味がわかんねえぞ」

 男はつかつかと登に近づくと、手袋を脱いで相手の頬に叩き付けた。

 「決闘だ」

 登は頬を押さえて、上目遣いに相手を見た。「あれえ、マジになっちゃって。やめましょうよ」

 「うるさい」男は声をはげますと、登の胸倉をつかんだ。

 「暴力はいけません。落ち着いて」登の声が震えた。

 「だまれ、若造。人を愚弄するとどんな目にあうか、思い知らせてやる」

 男の右手が高く上がった。登は悲鳴を上げて両手を突き出した。それが男の胸に当たり、男はよろよろと後ずさった。

 「やったな」男は体勢を立て直すと、拳を固めて殴りかかった。登が身動きもしないのに、その拳は登の顔の二十センチばかり横を通り抜けた。登が反射的に出した手が、男の鼻を真向から打った。帽子が吹っ飛び、男は仰向けに倒れた。

 登は肩で息をしている。男は動かない。鼻から血が一筋流れている。登はおそるおそる近づいて、のぞき込んだ。

 「あの……大丈夫っすか」

 「まだまだ」男はいきなり立ちあがると、登に組み付いた。「やめてくれよう」登は相手の体を横にひねった。男はころころと床を転がり、壁にぶつかって止まった。

 しばらくして男はむっくり起きあがると、「いや、なかなかいい勝負だった」と言って、扉を引き開け、すたすたと階段を上って行ってしまった。

 登はしばらく放心していたが、やがて扉に近づいて取っ手に手をかけ、こちらを向いて、「開くよ、開くよ」と言った。

 私たちは無言で歩いた。別れるとき、私は振り向いて、まだ茫としている登に言った。

 「ともかく、助けてくれてありがとう」

 それを聞いて登は、世にも情けない笑いを浮かべた。

 

 

第四話 天使の気紛れ

 

 短い秋はあっというまに終わって冬が来た。今日はクリスマスイブだそうだが、私には関係ない。午前中に買い物をすませたあと、大学に行って食堂で昼食をとり、正月に読む本を借りようと図書館に寄った。

 そのあと、葉の落ちた銀杏並木の間を歩きながら、今年起きたことを振り返ってみた。ずいぶんいろいろなことがあった。こんな経験ができただけでも、大学に来た意味があったかもしれない。ほかの意味があったかどうかは別にして。

 「みゆきちゃん! 奇遇奇遇」

 その声を聞いても、私はさほど驚かなかった。これもある意味で私の人生の一部になってしまったと、私は諦念とともに考えた。

 分厚い白のコートで雪だるまのように着膨れた猪俣登が駆けてきた。口から煙突のように湯気を吐いている。開口一番彼は言った。

 「あれえ、イブなのに、独り?」

 「あなたも独りみたいね」

 「そうだよ。でも独りと独りが出会ったら、もう独りじゃないよ」

 「私は独りで十分」言い捨てて私はすたすた歩きだした。

 「みゆきちゃーん」情けない声を出して登が追ってきた。「つれないなあ。ちょっとは俺の気持ちにも気づいてよ」

 私は黙って歩き続けた。そんなことを言われても、どう応じていいかわからなかった。登もそれ以上何も言わなかった。

 私たちはあてもなく構外に出た。思い返せば、こうして何度も二人で黙って歩いたことがある。それは自分でも本当とは思えないような冒険の数々だった。そして、今日また偶然に登と出会ったからには、きっとまた何か新しい冒険が始まるに違いないという気が私にはしていた。

 不意に登が、喉の詰まったような声を立てて私の腕をつかんだ。見ると、傍らにある公民館のような建物の玄関に、背丈ほどの模造紙の看板を立てて、「世紀の大魔術師ミスター・ローケン! 鬼惑のマジックショー 入場無料」とフェルトペンで書いてある。「鬼惑」は「魅惑」のつもりだろう。私と登は顔を見合わせ、先を争うように中に飛び込んだ。

 入ってみると、小学校の教室二つ分くらいの板張りの部屋に、パイプ椅子を並べて客席とし、奥の壁際に木の台を置いて舞台がしつらえてある。舞台の前には継ぎの当たった古布の幕がかかっていた。

 客席はほとんど空で、子供が二人喚声を上げて駆け回っている。赤いダウンジャケットを着た母親らしい女性が、椅子からずり落ちそうになって眠っていた。あとは、最前列で髪の長いほっそりした若い女がじっと舞台を見つめているだけで、ほかに客はなかった。

 私たちはできるだけ舞台から見えない暗い隅っこに坐った。ほとんど同時に幕が開いて、舞台が明るく照らし出された。そこには、紛うかたなきローケンさんが、にこにこしながら立っていた。いつものぼろぼろのベージュの上着に、ステッキを持ってシルクハットを被ったところが、全く不釣り合いだった。

 テンポの速い勇壮な音楽が始まった。ローケンさんはまずステッキの両端を持って「やっ」と気合いを入れた。するとべきっといってステッキが二つに折れた。

 彼はそれを放り出すと、そばのテーブルに置いてあった水差しを取り、シルクハットを脱いで水をそそぎ込んだ。「はっ」と叫んでそれを被ると、ざあと水があふれだして彼はびしょ濡れになった。

 ローケンさんは表情も変えずに、上着のポケットからボールを取り出してお手玉を始めた。五回、六回、七回、顔つきが真剣になる。額に脂汗がにじみだした。こちらも手に汗握って見ていると、登が耳にささやいた。

 「なあ、あのお手玉、二個だよな」

 「え? あ、ほんとだ」

 「普通、三個とかでやらないか?」

 言われてみればそうである。ローケンさんの奮闘ぶりがあまりめざましいので、ぜんぜん気がつかなかった。

 とうとうローケンさんは玉を二個とも取り落としてしまい、肩で息をしていたが、やがて再びにっこり笑って、テーブルからロープの束を取り上げた。手でひっぱって切れないことを示すと、客席で口を開けて見ている二人の子供を手招きした。

 二人が舞台に上がると、ローケンさんは言った。

 「このロープで私を縛ってごらん」

 「ほんと?」大きい方の男の子が、邪悪と言いたいような表情で目を輝かせた。「おもいっきしやっちゃっていい?」

 「おもいっきしやっちゃっていいよ」ローケンさんは大きくうなずいた。

 二人の子供は目配せしあって、ロープを手にローケンさんの周りを駆け巡り始めた。あっというまにローケンさんは、蜘蛛の巣にかかった虫のように頭のてっぺんまでぐるぐる巻きにされてしまった。子供たちは「きゃはは」と笑って舞台から駆け下りた。十秒、二十秒、ローケンさんは動かない。固唾を飲んで見ていると、不意に縄の中から「助けてくれー」とくぐもった声がして、あわただしく幕が閉まった。幕の向こうで何人かがどたどたと駆け回る気配がした。

 幕は閉まったままだ。眠っていた母親が目を覚ましてあたりを見回し、子供たちを追い立てて出ていった。

 私たちは割り切れない顔を見合わせた。「行こうか」登が促して、私たちは外に出た。最前列の女はいつのまにかいなくなっていた。

 もう日が傾いて薄暗い。建物の裏に回ると、戸口から罵声に送られて威風堂々とローケンさんが出てきた。あとからやかんが飛んできて頭に当たった。

 物陰から誰かが駆け寄った。髪が長く、すらりと背が高い。さっき最前列にいた女に違いない。

 二人はしばらく何か話している。やがてローケンさんは断るように手を振ると、歩きだした。相手は立ち止まったまま見送っている。

 「怪しいな」隣で登が呟くと、女に近づいて呼びかけた。

 我に返ったように女は振り向いた。長い睫毛が街灯の光にきらめいて、潤んだ目が私たちをまっすぐに見た。卵のようになめらかな曲線を描く顎の真ん中で、形のいい唇が真一文字に結ばれている。私ですら息を飲むような美しい女性だった。隣にいる登の息づかいがふいごのように速くなった。

 「振られてしまいました」女は自分からそう言い、肩をすくめて微かに笑った。「あの方だけが頼りだったのに」

 それから彼女は腕で体を抱いて「寒い」と呟いた。見ると、あちこち穴の開いた薄いセーターを一枚着ているだけだ。均整のとれた体の線がくっきり見えるのが、かえって痛々しかった。

 「どこか暖かいところで、話を聞いていただけませんか」

 私たちは手近なファミリーレストランに席を取った。落ち着くと女は、微笑みを浮かべながら、「なんだか、信じてはいただけないような話なんですけど……」と切り出した。

 「しばらく前から、とても不思議なことが私の身に起こり始めたんです。どうしていいかわからずに困っていたら、ある方から、そういうことなら専門家がいる、ローケンという人を探しなさいと教えられて、あちこち尋ね回ってようやく今日見つけたんです。それなのに……」

 「あいつはなんて言ったんですか」と登が尋ねた。

 「確かに不思議なことは専門だが、解決することはできない、それは自分の役割ではないと」

 「なんてひどい」登は鼻を膨らませた。「困っている女性を見殺しにするなんて」本人を前にして「見殺し」はないだろうと私は思った。

 「あんな怪しい奴を頼らなくても、僕たちが立派にお役に立ちますよ」

 その言い方がおかしかったのか、彼女は一瞬子供のような笑みを浮かべた。

 「ありがとうございます。お言葉に甘えてご相談しようかしら」

 「そうしてくださいよ。頼みますよ」登はセールスマンのような口調になった。

 「不思議なことというのは、これなんです」彼女はハンドバッグを開けて紙束を取り出した。「これは全部、私宛ての手紙です。差出人はわかりません。いちばん上のが最初で、ひと月ほど前に突然来たんです。とにかく、順番に読んでみていただけませんか」

 登が紙束を受け取って開いた。私は顔を寄せてのぞき込んだ。

 A4判の紙のいちばん上に、小さな字で一行だけ印字してある。機械のことがよくわからない人が、何も考えずに打ち出したような感じだ。こんな内容だった。

 ――あなたのような美しい人が困っているのを見ていられない。近い内に大金を用意します――

 「どういう意味なんだろう」登は首を傾げた。

 「確かに、お金に困っていることは事実です」彼女は顔を赤らめて早口に言った。「父は亡くなって、母は体が丈夫じゃないし。でも、知らない方から施しを受ける理由はありません」

 「こんなことを言いだしそうな人の心当たりはないんですか」

 「ぜんぜん……親戚とは連絡が途絶えているし、親しい知り合いもないし……で、あとを読んでいただけばわかるんですけど、ますます変なことになっていくんです」

 登は紙をめくった。二枚目も全く同じ形式だが、今度の方が長かった。

 ――いよいよお金のめどが立ちました。かなり危ない橋を渡ってしまった。私はもう無事ではいられないかもしれない。でも、あなたさえ幸せになれれば、私はどうなってもいいんです――

 「穏やかじゃないですね、これは」私は思わず呟いた。

 「でしょう? それを見て、私は本当に困ってしまいました。で、その次が二週間ほど前に来たものです」

 ――見張られている。どうやら感づかれたらしい。うかつに動いたら、金も命も取られてしまう。でも、これだけはどうしてもあなたに渡さなければならない。もう少し待っていてください。きっと何か方法を考えます――

 私は胸がどきどきしてきた。顔のない人物が、札束を抱いて窓から外を窺っている情景が目に浮かんだ。通りには執念深い追跡者の姿が見え隠れしている……

 「それから二週間、音沙汰がありませんでした。私はずいぶん気をもみました……そしたら昨日、新しい手紙が来たんです。今度は郵便じゃなくて、誰かの手で郵便受けに直接投げ込んでありました」

 私たちは最後の手紙を見た。これは手書きで、急いだらしくずいぶん乱れた手跡だった。

 ――時が来ました。私からのクリスマスプレゼントを受け取ってください。ある空き家の一室に、一億円の入ったトランクが置いてあります。明日のイブの晩、私の使いがあなたをそこへ案内します。トランクの中身はすべてあなたのものです。あなたに幸せが訪れますように。

 追伸 あなたが贈り物を受け取るころ、私はもうこの世の者ではないでしょう――

 私たちはほおっと溜め息をついた。「なんか、信じられないっすね」と登が呟いた。

 「でしょう?」彼女は寂しげな笑みを浮かべた。「今までに私が相談した人たちも、みんな本気にはしませんでした。でも、私にとっては大問題なんです。だって、私のために誰かが命を失うかもしれないんですから」

 「そうっすね」登は大きくうなずいた。「で、手紙にある使いというのは?」

 「それが……」彼女はちょっと言い淀んで、傍らの窓から外に視線を投げた。「どうも、もう来ているらしいんです」

 私たちは反射的に外を見た。彼女の視線は道路の向こうにある電柱の下に向けられている。暗くてよくわからないが、なんだか赤っぽい服を着た人影がうずくまっているようだ。背中のあたりに大きな袋のようなものが見える。

 「サンタ?」と私は言った。

 女はうなずいた。「あのサンタは、今朝私が家を出たときから、気がつくと必ずそばにいるんです。見覚えのない男の人ですが、なんだか意味ありげに私の顔を見て、誘うようなそぶりをします。それでいて何も言わない。ひょっとしたらあれが手紙に言う使いなのかと思って、でもついていっていいものかどうか……」

 「もしかしたら、敵側の人間かも」私は思いつきを口にした。その言葉は口から出たとたんに現実感のない薄っぺらなものに聞こえたので、私はちょっと後悔した。

 「そうですよね」彼女は私の方を見て真顔でうなずいた。

 「いや、それはもう行くっきゃないっしょう」と登が言いだした。「サンタといえばプレゼントじゃないですか。もう決まりっすよ」

 彼女はしばらくぼんやりと外を見ていたが、やがて私たちの方を向くと、何かを吹っ切ったような晴れやかな笑みを浮かべた。

 「それじゃ、行ってみましょう」

 私たちは外に出て、通りの向こう側へ渡った。赤い服を着た人影がゆっくりと腰を上げ、袋を背負って歩きだした。街灯の明かりに一瞬照らし出された横顔は、白い付け髭の奥に深い皺を刻んでいた。真っ赤な衣装も背中の袋も、ぼろぼろに傷んでいる。「雪は降る、サンタは来ない……」と、しわがれた歌声が流れてきた。

 私たちはサンタと同じ歩調で、付かず離れずに歩いた。なんだか、気の合った友達同士でのんびりと夜の散歩を楽しんでいるような気がした。サンタは一度も振り向かなかった。

 途中で踏切を渡り、畑の中を通って住宅街に入った。何度か坂を上り下りし、細い道に踏み込んでいくと、あちこちで犬が吠えた。

 登が何かぶつぶつ呟いている。私は小声で尋ねた。

 「どうしたの」

 「俺、この道通ったことがある気がする」

 「奇遇ねえ。私もそうなの」

 「なんかすごく嫌なことを思い出しそうな予感がするぞ」

 そのとき、前を歩いていた女が四辻で立ち止まった。「どうしたんですか」と尋ねると、首を傾げて、

 「見失ってしまいました」

 確かに、サンタの姿が見えない。あたりはしんとして、急に寒さが身に沁みた。私は登にささやいた。

 「あなたが気を散らすからよ」

 「そんなこと言われても」

 しかたがないので、とにかくまっすぐ行ってみると、急に道が石ころだらけになって、行き止まりだった。引き返して、今度は右へ行く。

 「ここだよ。やっぱりここだよ」登がしきりに呟いた。「もうすぐだ。そこの角を回ると見える。ほらあった」

 さいころを不規則に積み上げたような、見覚えのある建物の前に私たちは立っていた。玄関の前にぼろぼろの袋が置かれている。サンタの姿はない。

 「ここへ入れというんでしょうか」女が心細げに言った。

 登がうなった。「入るんすか? この家へ? でも今度は地下じゃないみたいだな……」

 私たちはしばらくお互いの顔を見合っていた。誰も入ろうと言わない。そのうちしんしんと冷えてきた。薄着の女は小刻みに震えている。

 「入って、みましょうか」とうとう観念した表情で登が言った。

 地下と違って、玄関の扉は厚い木の板である。登が取っ手を引くと、きいと微かな音がして開いた。中にはわずかな明かりがある。広々として天井が高い。上がりかまちはなく、靴のまま入る構造らしい。

 床は板張りで、歩くたびに微かにきしんだ。部屋の中はがらんとして、家具調度のたぐいは見あたらない。左手に階段があって、明かりはその上から漏れてくる。

 とにかく明るい方へ進むしかない。登を先頭に階段を上った。上がりきったところは四畳半くらいの真四角な空間である。壁も天井もコンクリートが剥き出しで、裸電球が下がっている。これはさいころの一つの中なのかもしれない。

 ここから先へ進むには、反対側にある狭い急な階段を降りるしかない。人を馬鹿にした造りだなあと登が呟いた。登のあとについて私が降りようとすると、不意に女が割り込むように前に出た。私はちょっと鼻白んだ。階段を降りながら女は登の背中にぴったりと寄り添って、何事かささやいた。登は驚いたように振り返ったが、すぐ笑顔になって安心させるようにうなずいた。「あなたがいてくださって、ほんとにどれほど心強いか……」という女の声が聞こえた。

 何となく中途半端な気分で私は立ちすくんでいた。二人は階段を降りきって姿が見えなくなった。そのとき部屋の明かりが消えた。私はおびえて叫ぼうとした。すると、後ろでささやく声がした。

 「静かに。こちらをご覧なさい」

 「誰?」私はあたりを見回した。わずかな明かりにぼうと人影が浮かび上がった。

 「ここから覗いてみてください」一方の壁の床に近いあたりを人影は指さした。見るとそこに、細い窓のようなものが開いている。かがんで覗くと、目の下に別の部屋の中がぼんやりと見渡せた。この窓は下の部屋の天井近くに開いているらしい。

 「これから下で起こることを、しっかりと見ていてください」後ろから人影がささやいた。

 そのとき下が明るくなった。部屋の壁には紅白の布を張り巡らして、金銀の星、綿の雪、色とりどりのリースなどが飾られている。真ん中に背丈くらいのクリスマスツリーが立っていて、その根元に真新しい灰色のトランクが置かれていた。

 左手の扉が開いて、登と女が連れ立って入ってきた。女は登の腕にしがみついている。登の動きはどことなくぎごちない。

 二人は部屋の中を見回して驚いた表情になった。登がトランクを見つけ、叫び声をあげて駆け寄った。二人はトランクのそばにしゃがみ込んだ。

 「本当にありましたね」と女が言った。

 「はやく開けましょう」と登。

 女はトランクの蓋に手をかけて躊躇し、登の方を見た。

 「あなた、開けてくれませんか」

 登はおそるおそる手を伸ばし、トランクの留め金を外した。とたんに、びっくり箱のように蓋が開いて、中からおびただしい札があふれ出た。登は尻餅をついて「わああああー!」と叫んだ。

 女は息を飲み、そっと手を伸ばして、床に散らばった札に触れた。

 「夢みたい」

 登は口を開けたまま、金と女の顔を交互に見ている。実に間抜けである。せめて口を閉めればいいのにと私は思った。

 二人はしばらく床に坐り込んで、札にさわったり、にやにやしたりしていたが、やがて区切りをつけるように女が言った。

 「警察に届けなきゃいけませんよね」

 登は初めて気づいたように、「ああ、そうか。そうっすね。どんな金かわからないんだから」

 女はいとおしむように札の山を撫でていたが、不意にその中から一つかみの札を取ると、ハンドバッグにねじ込んだ。登は驚いたようすで相手の顔を見た。

 「ここに元々いくらあったかなんて、誰にもわかるはずがありません」女は自分を納得させるように言った。「それに、なんといっても私がもらったお金なんだし」

 「そんなことして大丈夫かなあ」と登。

 「だめかしら」女は恨むような目で登を見た。「これだけあれば、暖かいコートも買えるし、おいしいものも食べられるし、ディズニーランドだって行けるかもしれない。私、行ったことないんです、ディズニーランド」

 「いや、だめじゃないっす」登は自信なげに言った。「たぶん大丈夫でしょう」

 「そうだ」女はさらに何枚かの札をつかんで、登に差し出した。「これ、私からのプレゼント」

 「ええっ」と登。

 「あなたには、見ず知らずの私にこんなによくしていただいて、お礼の申しようもありません。せめてこれだけでも受け取ってください」

 「でも……」

 「受け取ってくれないんですか」女は目を伏せた。「私の気持ち、気づいてもらえないのかしら。やっぱりあの子の方がいいのかしら」

 「いただきます!」登はひったくるように札を受け取ってポケットに入れた。

 「よかった」女は手をたたいて喜んだ。「これでもう、あなたは私から離れられないのよ。だって私たちの運命は一蓮托生なんだもの」それから登の手を取って、「いっしょにディズニーランド、行きましょうね」

 登は上気した顔で、「本気っすか。俺、信じられないっす」

 「本気よ」

 「俺みたいなので、ほんとにいいんすか」

 女は微笑んでうなずいた。

 「ああ、俺、うれしすぎて夢みたいっす。今夜は天使が気紛れ起こして、そこらじゅうに幸せばらまいてるんじゃないかしら」

 「そうだ」女は真顔になった。「一つだけ、お願いがあるの」

 「なんすか。なんでも言ってください」

 「あの子のこと。いま限りで、彼女を忘れてほしいんです」

 「あたりまえじゃないっすか」登は胸をたたいた。「あんなの、とっくに忘れました」

 「聞きましたか」私の後ろでささやく声がした。

 私は口をへの字にして、じっと前を見ていた。その瞬間私は、明日からでも山にこもり、とろろ汁だけを友として一生を送る決心を固めたのだ。

 「踊りましょうよ」下では女が立ち上がり、登の手を取って踊り始めた。ほっそりしたしなやかな体が滑るように動いて、見とれるほどに優美だった。それに比べて登は、よだれを垂らさんばかりの阿呆面で、どたどたと足をもつれさせて、まるで操り人形だ。なんてみっともないでくの坊だろうと、私はむやみに腹が立った。

 そのとき突然扉が開いて、黒いコートの男が二人どやどやと入ってきた。一人が登の腕を乱暴につかんだ。

 「警察だ。遺失物横領の現行犯で逮捕する」

 手首に手錠をはめられ、登は真っ青になって悲鳴をあげた。もう一人の男が女を引きずって扉から出ていった。「勘弁してくださいよう。そんなつもりじゃなかったんですよう」登の悲惨な声が響いた。

 下の部屋の明かりがだしぬけに消えた。ついで、こちらの部屋が明るくなった。痛む腰を伸ばして私は立ち上がり、あたりを見回した。人影はどこかへ消えていた。

 そろそろと私は階段を降りた。狭い廊下を鍵の手に二回曲がると、扉があった。私はそれを押し開けた。

 部屋の中は暗い。戸口の脇を手で探るとスイッチらしきものがある。押してみると明かりがついた。

 部屋の真ん中に登が倒れている。ツリーもトランクも飾り付けもなくなって、部屋はがらんとしていた。私は登のそばにかがみ込んだ。

 手錠はプラスティックのおもちゃで、ひっぱるとすぐに外れた。体を揺さぶると、登はうっすらと目を開けた。

 「パーティーはお開きみたいだよ」と私は言った。

 登は起き上がると、目をしばたたいた。

 「みゆきちゃん」

 「なんだ、まだ覚えてたの、私のこと」

 登は殴られたような顔になった。

 「馬鹿だったよ、俺」小声で言うと、あたりを見回した。

 「何にもなくなっちゃった。まるで夢を見てたみたいだ」

 「夢を見てたのかもよ、私たち」

 登はしばらく手で顔を撫で回していたが、不意にポケットに手をつっこむと、くしゃくしゃになった数枚の札をひっぱりだした。

 「あった。夢じゃなかったんだ」

 おそるおそる彼はそれを広げ、指で皺を伸ばした。そこには大きな文字で「よいこ銀行券」と印刷してあった。

 登は両手で顔を覆ってむせび泣いた。肩が激しく震えていた。

 「おれ、ほんとうに、だめだなあ」としゃくりあげながら呟いた。

 

 

終章 別れ

 

 正月休みが明けて、大学に戻るときが来た。周りは相変わらずよそよそしかったけれど、前ほど憂鬱な気持ちにはならなかった。なんとなく、胸の中に小さな灯が燃えているような気がした。風が吹けばすぐにでも消えそうな、頼りない灯ではあったけれど。

 人を好きになるということは、予想していたのとずいぶん違っていた。もっと、雷に打たれるような、突然で晴れがましい出来事だと思っていたのだ。実際は、知らないうちにじりじりと近づいてきて、いつのまにか足をびしょ濡れにする満ち潮みたいなものだった。

 クリスマスイブの晩、ぼろぼろになった登を残して別れてきたときも、私は自分の気持ちにはっきりと気づいていなかった。今でもうまく説明できない。彼に対する反発も嫌悪も消えていないのに、いつのまにか彼のことを考えずにいられなくなっている。あのときの彼の仕打ちを思い出せば胸が煮えくり返るようだけど、私のいないところで独りしょんぼりしているかもしれないと思うと、すぐにでも駆けて行きたくなる。遠く離れた実家で私は、気が付けばいつも心の中で、彼をひっぱたいたり、小突き回したり、胸に顔を埋めて泣いたりする場面を思い描いていた。私はいったいどうしちゃったんだろう。

 ほかのことに没頭しようと三日ほど努力した。結局諦め、空想に身を任せることにした。その内容はどんどん甘いものになっていった。

 しょうがないなあ、と私は呟いた。これが私の初恋なら、それも運命だ、しかたがない。

 そして休みが明けて、私は登と再会した。会えば会ったで腹の立つことも多いけど、別れればすぐまた会いたくなる。あしたは会えると思うと心の中が暖かくなる。この気持ちはそんなに悪いものではない。

 このことをどうしても報告したい人がいた。考えてみれば、私と登との関わりはいつもあの人なしにあり得なかった。あの人の目的はとうとう謎のままだったけれど、私はなんだか、私たちを結びつけるためにあの人が奔走してくれたような気がして、一言お礼が言いたかったのだ。

 喫茶部に入り、いつものようにホットココアを注文して待っていると、ほどなくローケンさんが現れた。懐かしい笑顔は少しも変わっていなかった。

 私はうつむいて、つっかえながら自分の気持ちを語った。話しているうちにだんだん現実感がなくなって、うまく伝わったかどうか心配になった。私は上目遣いに相手を見た。

 ローケンさんはもう笑っていなかった。むしろ悲しそうだった。私はなんだか、大事なものを不注意で壊してしまったような気がした。

 ローケンさんは口を開いた。

 「あなたは、彼といっしょにいくつかの冒険をしましたね」

 「はい」

 「彼はそのとき、強さや、優しさや、聡明さを示しましたか。違うでしょう。むしろ、弱さ、身勝手さ、愚かさばかり見せていた。そうじゃないんですか」

 「その通りです」私はしかたなくうなずいた。

 「それなのに、なぜあなたは彼を愛せるんですか。あんなつまらない男を!」

 私は悲しかった。登が悪く言われたことよりも、ローケンさんがそんな言葉を口にしたことが悲しかった。こんな一方的な非難はこの人に似つかわしくなかった。

 「確かに、彼は欠点だらけです」私は懸命に考えながら言った。「でも、彼の欠点は私も全部持ってます。彼は隠さないだけです。私は人に弱みを見せるのが恐いから、あんな冒険の中に独りでは絶対入って行けなかった。自分の弱さをさらけ出しながら彼がひっぱってくれたから、行けたんです。だから、私には彼が必要なんです」

 「……そうですか」しばらく黙ったあと、ローケンさんは言った。いつもの笑顔が戻っていた。

 「あなたがそこまでわかっているなら、私の容喙すべきことではない。思う通りになさればよろしい。それにしても、こんな結末をいったい誰が予想したでしょう。まことに、この世界は奇談でいっぱい。そんなことを、この私があらためて思い知らされることになろうとは。修行のやり直しですな」ローケンさんは肩をすくめて、立ち上がった。「それでは、ごきげんよう、さようなら」

 「もう、行ってしまわれるんですか」私は嘆願するように言った。「また、お会いできますよね」

 ローケンさんは首を振った。「未来のことは、わかりません」

 そして、私を置いてローケンさんは行ってしまった。今までにローケンさんが私に語ってくれたこと、そしてさっきのローケンさんの言葉を心の中で繰り返しながら、私はじっと坐っていた。

 誰かが騒々しく喫茶部に入ってきた。目を上げると、頬を押さえて悪態をつきながら猪俣登が近づいてくる。「どうしたの」と私は尋ねた。

 「いまそこで、いきなり殴られた」

 「誰に」

 「ローケンの野郎だよ!」登は爆発した。「何考えてんだ、あいつ。出会い頭に人の顔思い切り叩いて、『君には過ぎた宝物だが、しかたがない。いつか値打ちがわかるときまで、なくさないよう大事にしろよ』だって。宝物って何だ?」

 私は席を蹴って駆け出した。いま初めて、ローケンさんの思いが胸に沁みた。私はなんて鈍感で残酷だったことか。できるなら、すがりついてでも引き留めて謝りたかった。

 はるか向こうを、見慣れたベージュの上着が足早に歩いて行く。その後ろ姿はひどく孤独で寂しげに見えた。もう呼んでも届きそうにない。私はじっと見送るしかなかった。その姿はしだいに小さくなり、やがて消えた。

 そしてそれから、二度と私たちはローケンさんを見なかった。

 

 

 

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