消された声
「何だ、この歌は」部長は水割りを飲む手を止めて顔をしかめた。
「覚えてませんか。二十年くらい前にはやった曲ですけどね」課長が答えた。
「変な声だな」
「当時、エレクトリック・ボイス、つまりエレキの声なんて言われてましたね。ほら、エレキギターに感じが似てるでしょう」
部長は課長の顔をまじまじと見た。「意外だね。あんたがそんなに音楽に詳しいなんて」
「ファンだったんです、若いころ」課長は照れたように答えた。
そのときは、それだけだった。だが翌日から、課長の頭の中でその歌声が鳴り響いてやまなくなった。同じ年代の同僚たちにそれとなく聞いてみたが、誰もその歌手の名前を覚えていなかった。
久しぶりにレコード屋というものに入ってみた。いまはレコード屋などとは言わないらしい。昔とあまりようすが違うので、とまどってしまった。昔のレコード屋というのは、こんなきらきらした明るいところじゃなくて、もっと隠微な雰囲気が漂っていたような気がした。
探したが、その歌手の名前はどこの棚にもなかった。どうせ気まぐれだ、このまま帰ってしまってもよかったのだが、なんとなく気持ちが納まらなかった。思い切ってレジで尋ねてみたが、若い店員は首を傾げるだけだった。分厚いカタログを出してもらっが、その名前はどこにも載っていなかった。
記憶違いのはずはない。あのころあんなに夢中だったのだ。それにしても人間というのはなんて忘れっぽいものだろう。あのころ夢中だったのはけっして自分だけではなかったはずなのに。
今日も、エレキの声が頭の中に鳴り響く。今時のどんな歌手も、あの力強さ、あの微妙な響きをまねすることはできない。
「課長!」と誰かが呼んでいる。あのころ俺は「課長」などというわけのわからないものではなかった。ちゃんと名前があったのだ。
「パパ!」と誰かが呼んでいる。
妻が、娘が、刺すような目で自分を見つめている。
「失格だね」という声が聞こえる。誰が言ったのだろう。部下か、妻か、娘か。あるいは自分か。
もう一度、あの晩部長と飲んだ店に行ってみようと思った。思いついたとたん矢も盾もたまらず、まだ終業時間まで十五分あったが、会社を飛び出した。
だが、その店はもうなかった。火事があったらしく、無残に焼けただれた廃ビルがあるばかりで、何人かの暇そうな人々が立ち止まってながめていた。
課長はラジオ番組にリクエストの葉書を出した。放送の晩は走って家に帰り、ラジオの前に正座して待った。妻や娘の刺すような視線も、もう気にならなかった。
だが、いつまで待ってもその曲はかからなかった。
課長はラジオ局に電話をかけた。最初の四、五回は、丁重にわびを言われた。それでもかけ続けると、とうとう担当者が出てきて、丁寧に、しかしどこか気のない調子でこう言った。
「申しわけありませんが、お望みの曲がどうしてもこちらには見あたりません。何かのお間違いではないでしょうか?」
「そんな馬鹿な。あんた、いったいいくつだ」
「はあ。私は三十五ですが」
「じゃ、当時は十五くらいじゃないか。絶対、覚えているはずだ。あんたくらいの年代なら、あのエレクトリック・ボイスに夢中にならなかったはずはない」
「残念ながら、まったく覚えていませんし、局の記録にもないんです。あしからず」
課長はしだいにおかしいと思いはじめた。いくらなんでも忘れっぽすぎる。たった二十年前のことではないか。まるで誰かがあの歌手に関するすべてを修正液で消し去ってしまったみたいだ。
そこまで考えて課長はぞっとした。あの店はなぜ燃えたのだろう。誰かが、あの店が存在しては都合が悪いと考えたからではないのか。
課長は会社を休み、妻がむかし買ってくれたのだがなんとなく気恥ずかしくて一度も着たことのない若草色のダブルの上着をひっぱり出して着こみ、街で二千円のサングラスを買ってかけた。これがあのまじめな課長だとは誰も気づくまいと課長は思った。
その格好で課長は図書館に行って、二十年前の新聞の縮刷版を閲覧した。当時、テレビ欄には毎日のようにあの歌手の名前が出ていたはずだ。課長は記憶にある歌番組を捜し、その出演者たちの名前を見た。当然のように、あの歌手の名前はなかった。翌週、その次の週と、一年分の番組欄を見てみたが、やはり彼の名前はなかった。
そのとき、課長はふとあることに気づいた。何度も出てくる出演者たちの中に、まったく記憶にない名前が一つ混じっている。もちろん、すべての歌手の名を覚えているはずはないのだが、これだけ頻繁に出てくる以上、相当な人気歌手だと思わねばならない。だとすれば、あの歌手を目当てに毎週歌番組を欠かさず見ていた自分がまったく覚えてないというのは不自然だ。
これは、もしかしたら、彼の身代わりではないのか。そういえば、ちょうど名前の字数も同じである。
課長は大事なことを思い出した。一度だけ、この新聞が文化欄であの歌手のことを取り上げたことがある。それが、いつも権威主義だと思っていた大新聞にしては意外に好意的な評だったので、彼はうれしくなって、夕食の席でそのことを話題にした。すると、母親がからかうように、あした試験なのにそんなこと考えてていいの、と言ったのだ。そう、それは彼の大学入試の前日であった。しかも試験当日は、二十年ぶりとかいう大雪になったのだ。
さっそく課長はその年の二月下旬の大雪の記事を捜した。それは容易に見つかった。「受験生らの足乱れる」とある。自分も足を乱された受験生の一人だった。その前日の夕刊の文化欄を、課長はどきどきしながら開いた。課長の記憶では、その記事は紙面の真ん中近くに写真入りで大きく載っていたはずだ。
課長はのけぞった。記憶の中で憧れの歌手の姿が占めていた位置には、巨大なキノコの写真があった。
――直径百八十七センチの巨大椎茸。某県某郡某村の農業某山某作さん(五一)が、このほど直径百八十七センチの巨大椎茸の栽培に成功した。某作さんは盆倉藩主の十九代目の子孫にあたり、もっとも先鋭的な椎茸作りと世界的に認められている。このたびの百八十七センチ椎茸は某作さんが一昨年パリで開かれた国際アバンギャルド茸展に出品し、審査員特別賞を受賞した百七十四センチ椎茸『キュクロプスの黎明』をも超える大きさのもので、批評家たちからは早くも今年茸界最大の話題作という声が上がっている。なお現在作られている百七、八十センチ級の茸はほとんどが放射性トリウムを注射して人為的に巨大化したもので、手にとって観賞していると人体の熱により核分裂を起こして危険である。現に、昨年のロンドンにおけるある巡回茸展会場においてアメリカの栽培家が出品した百七十二センチのベニガサテングダケが突然爆発し、百八十一人が死亡するという大惨事を招いたのは記憶に新しい。某作さんの作る茸はすべて有機栄養を用いて時間をかけて肥培しているため、手にとるのはもちろん口に入れても安全である。某作さんはこの百八十七センチ椎茸を『湯浴みせるアフロディテ』と名づけ、四月ごろ全欧州で展示すべく現在スポンサーを募集中とのことである――
「パパ、どこ行っちゃったのかな」と娘が食卓でつぶやいた。
「ほんとね。もう一週間も聡子やママのことほっといて、悪いパパね。聡子、パパがいなくてもママがいるから、寂しくないでしょ」
「うん」娘はうなずいて、ふとテレビを見ると、叫んだ。「あ、パパ」
画面いっぱいに、行方不明の父親の緊張した顔が映っていた。母と娘は、声もなくその顔を見つめた。重々しいナレーションが入った。
「このように、現実と異なる記憶を持つ人々は、われわれが想像する以上に多い。この人もまた、ありえない記憶に悩まされる一人である。彼の頭の中には、かつて存在したことのない歌手の声が、執拗に鳴り響いているという……」
「では、その歌手は確かに二十年前に絶大な人気を誇ってたというんですね」と司会者が尋ねた。見たことのない若いタレントだった。本番中だというのに、ずいぶんみっともない格好をしていた。ぼろぼろに着古した丈長なベージュ色の上着。
「その通りです」父親は決然とうなずいた。家族の前では一度も見せたことのない表情だった。「誰かが彼に関する記録をみんな消してしまったんだと、私は信じています」
「何のために、そんなことをしたんでしょう」司会者が意地悪そうな表情で尋ねた。
父親はやや躊躇したようだったが、やがて思い切ったように答えた。
「それは、彼の歌声があまりに魅力的だからだと思います。現に私は、彼のことを思い出したために、社会人として失格してしまいました」
ぼろぼろの上着を着た司会者は、おおげさに両手を上げて見せた。
「それほどに魅力的な声が私たちの記憶から失われてしまったのは、残念というしかないですね。あなたの頭の中には、はっきり残っているんですか」
「ええ」
「どんな細かいところも全部」
「その通りです」
とたんに、司会者の顔が邪悪といいたいような喜びに輝いた。
「どうでしょう。いまここで、ご自身の声でそれを再現していただくわけにはいかないでしょうか」
「え」父親は絶句した。
「そんなに細かく覚えておられるのなら、再現だってできるはずです。ねえ皆さん。ぜひ聞いてみたいと思われますよね」
観客から盛大な拍手が起こった。
「しかし、私は、そんなこと、やったことがないし」
「だいじょうぶです」司会者は押しかぶせるように言った。「ほんとに覚えているなら、何とかなるはずです。それともなんですか。やっぱりあれは作り話だったと認められるんですか」
「作り話なんかじゃありません」父親は大声を上げた。
「では、どうぞ」司会者は父親の手を取ってセットの中央に導くと、彼の手にマイクを握らせ、拍手した。
観客からも拍手が起こった。
父親はしばらくとまどった表情をしていたが、やがて決心したようにマイクを口元へ持っていった。会場は静まり返った。テレビの前の母娘も、息を飲んで画面を見守った。
はじめ彼の口から出たのは、調子外れの唸り声のようなものだった。どうしても思うようにならないらしく、苦しげな表情で何度もやり直した。しだいに、彼の地声の後ろに別の声が形を取りはじめた。それはだんだん力強くなり、輝かしく響きはじめた。
観客の顔に奇妙な表情が浮かんだ。それは、何か心にひっかかるものがあるのに、どうしても思い出せないといった表情だった。テレビの前の母親もまったく同じ表情をしていた。
「ママ、どうしたの」娘が不安げに尋ねた。
「ううん、何でもないの」母親は上の空で答えた。
テレビ局を出たときには、すでに深夜に近く、あたりに人影はまばらだった。彼は呆然と魂を抜かれたような足取りで歩いた。とうとうやってしまった。誰だか知らないが、大きな力を持ったものたちが、手段を選ばずに消し去ろうとしたあの声、それを、こともあろうに俺は、テレビを通じて何千万という人々の前で再現してしまった。無事に済むはずがない。彼らはいますぐにでも俺を抹殺しようと動きだすだろう。俺には自分を守るどんな武器もない。
しかし考えてみれば、俺にはもう守るべきものなんてないのだ。もう俺は課長ではない。家族も俺のことを忘れただろう。いまここで俺の存在が消えたとしても、悲しむ人は誰もいない。
たかが一人の歌手のために。それも、誰も覚えていないような歌手のために。でも、これも何かの縁かもしれない。ただ一人彼を覚えている人間として俺が選ばれたのは。少なくとも、彼の声に夢中になった俺の気持ちは嘘じゃなかった。ひょっとしたら、俺の人生でいちばん価値あるものがそれだったのかもしれない。
それなら、いまここで彼のために死ぬのも、意味のないことじゃない。いや、もう俺にはそれしかないのかもしれないぞ。だとしたら、笑って死んでやるさ。
彼は道端のベンチに坐りこむと、斬首を待つ罪人のように首をさしのべた。
さあこい。抵抗なんてしないよ。そのかわり、うんと派手に殺してくれ。
彼の姿は、東の空が明るむまで、そのまま動かなかった。
玄関のドアに小さなノックの音がした。彼女はそれを聞かなかったが、娘が気づいて飛んでいった。
ドアの鍵が外される音がして、娘が「パパ」と叫んだ。
行ってみると、ぼろぼろになった若草色の上着に身を包んだ夫が、玄関の土間にひざまずくような格好でうずくまっていた。髪をぼうぼうに伸ばして、体からは異臭を放っていた。娘は、その臭いも気にならないように、父親の体にしがみついて、「パパおかえり」と言っていた。
夫が顔を上げて、彼女のほうを見た。一面にこわい髭で覆われたその顔に、照れたような笑いが浮かんだ。
「お帰りなさい」と彼女は優しく言った。
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