虚空の目

 

 当時、駅の裏手にある一軒の本屋が、私の気に入りの場所だった。間口がひどく狭く、中は深くて暗いので、まるで洞窟のようだ。新刊書や売れ筋の雑誌などももちろんあるが、それよりも妙にマニアックな本やよそでは見かけないマイナーな雑誌がたくさん置いてあるのが面白い。

 いちばん奥で、一人の青年が店番をしている。いつも世の中の何にも興味を失ったような無表情な顔をしているので、この人は生涯の恋に破れて抜け殻になってしまったのではないかなどと無責任な想像をしてみたくなる。

 場所が悪いのか、たいていお客は私一人で、そばには廃人同様の青年がいるだけだから、ちょっと人に見られるのをはばかるような書物をのぞいてみることも、気兼ねなくできるのだ。

 ある夕方、大学からの帰りにいつものようにこの店に足を踏み入れると、思いがけない人物が熱心に一冊の雑誌に見入っているのが目に入った。私は怠惰な学生で朝が遅いので、たいてい十時過ぎに駅前を通りかかると、この初老の男とすれ違う。鼠色のジャンパーを着て、何に使うのかいつも段ボールの大きな束を脇に抱えて、のんびりのんびり歩いている。髪はぼうぼうに乱れているのに、髭のそり跡が青々しているのが奇妙である。これも本屋の青年と同じくらい興味深い人物だと思っていたが、まさか本屋でお目にかかるとは思わなかった。

 彼はいつもと同じ格好だったが、段ボールは抱えていなかった。私が入っていくと、彼はすばやく読んでいた雑誌を棚に返し、私のほうはちらっとも見ずに、あののんびりした足取りで出ていった。私は好奇心に駆られて、何気なく彼のいたあたりに近づくと、その雑誌の表紙を確かめた。それは、『虚空の目』という名前の、見たことのない雑誌だった。紙質の悪い表紙に、何の飾りもなく誌名だけが古めかしい字体で印刷されている。何とも愛想のない雑誌である。私の好奇心は限界まで燃え上がり、その雑誌を取り上げて中を見ずにはいられなかった。手に触れた紙に男の手のぬくもりが残っていて、私は思わず身震いした。

 ページをめくってみて、私は肩すかしを食らったような気分になった。そこには、何の説明もなくただ白黒の写真が延々と並んでいるだけだった。公園の砂場で子供が遊んでいるところとか、どこかの団地の一室で鏡に向かってお化粧を直している主婦とか、何でもない風景ばかりだ。それぞれの写真の下に、T四七〇だのH八八二だのといった番号が何の規則性もなくついているのだけが、妙に意味ありげである。

 見ているうちに、私はふと気味が悪くなった。写真の中の人々はあまりに無防備な表情で、撮られているという意識がどこにも感じられない。それは写真家の腕と解釈するとしても、この写真には撮り手の意志とか表現とかがまったく欠けているようだ。それはまるで、目に見えないカメラが独りで空中を漂っていて、そこらじゅうでめちゃくちゃにシャッターを押しまくったような具合なのだ。ひょっとしたら、次のページにはここでこうして雑誌をめくっている私自身の姿が写っているのではないか。私はぞくりとして、雑誌を棚に戻すと、足早に本屋を出た。

 それから一週間ほどたって、また大学の帰りの同じくらいの時刻に、私は例の初老の男を見つけた。買い物帰りの主婦たちや集団で笑い声を上げながら歩いている中学生たちのあいだを、彼はあいかわらずの悠揚迫らぬ足取りで歩いていた。このあいだの本屋での出会い以来、彼のことが妙に気になっていた私は、思わずあとについて歩きだした。彼は背後のことなどまるで気にしていないので、私にも特に跡をつけているという意識はなかった。ただ彼の行く方向に足が向くだけ、そんな感じだった。

 商店街の外れ近くで、彼はあるビルの地下への階段を下りていった。近づいてのぞきこむと、そこには喫茶店の入り口があった。こんなところに喫茶店があるなんて知らなかった。入り口はすすけた木の一枚板で、中がのぞけないようになっているのが、妙に秘密めいていた。

 前は本屋で、今度は喫茶店である。どちらも日頃のあの男からは想像しにくい場所だ。私はますます興味が湧いてきて、どうにもならなくなった。好奇心の強さは、私の昔からの性分である。中学のころ、子供が近づいてはいけないといわれている場所に怖いもの見たさで立ち入って、ちょっと危ない目にあった。女の子がなんてことをするんだと母親に泣きながら叱られて、それ以来表向きはあまり思い切ったことをしないようにしているが、奇妙なものを見ると心がうずく性格はまったく変わっていない。

 今回はさほどの危険はありそうにない。私は思い切って階段を下りると、板製の重い扉を少しだけ引き開けて、中をのぞいてみた。

 あの男は、うまい具合にこちらに背を向けて、奥のほうのテーブルについている。意外なことに、何人か連れがいるようだ。私はなるべく目立たないように店の中に滑りこむと、男から見えない位置で、話し声が何とか聞き取れるところに陣取った。

 男と同じテーブルにいるのは、格子縞のジャケットを着た四十代くらいのちょっと先生ふうの男と、白いセーターの学生らしい青年、それに毛玉だらけの茶色のカーディガンを着て眼鏡をかけた小柄なおばさんだった。この四人が並んださまは、何の集まりなのか想像しにくい。私は気づかれないように耳をそばだてた。

 「今年のベストワンはもう決まったね」と先生ふうの男が声高に言った。

 「おいおい、まだ二月だよ」と白いセーターの青年。

 「T四九九が?」とおばさんがあきれたような表情で尋ねた。

 「そうだよ。あのよさがわからないようじゃ、まともな話はできないな」と先生ふうの男は威圧するように眉を上げてみせた。

 「ありゃ。批評は自分と違う感性の持ち主にも納得できるものでなければならないといったのは誰だったかな」と青年。

 「確かに、いまの言いかたは問答無用だったわね」とおばさん。

 「わかった、わかった。謝る」と先生ふうの男は両手を上げてみせた。「しかしね、僕らは、最低限ある程度の感性の一致があるからこそこうして集まっているわけで、T四九九がわからないなんて言われたら、その前提自体が崩れてしまって、うち帰って寝てたほうがましということになる」

 「わからないなんて言ってないわよ。ただ、ちょっとあざとすぎる気がして」

 「確かに、裏から仕掛けが透けてみえるような感じはするよな」と青年。

 「だからどうだって? 仕掛けが嫌いなら、高校野球でも見るがいいや」

 「そりゃそうだけどさ。でも僕は、あんまり仕掛けに表に出てきてほしくないんだよ。少なくとも、見ている最中に仕掛けを意識させるようなものはどうも」

 「まあ、あんたの好みは、U三一五だからな」と先生がからかうように言った。

 青年はちょっと顔を赤くして、困ったように、「昔のことだよ」

 「今でも好きなんだろ」

 「いまはやっぱり、R六六四とかだな」と青年は照れ隠しのように言った。

 「やっぱり同じ傾向だよ。あんたはT四九九をあざといといって批判するけど……」

 「ちょっと待った」と青年。「あざといといったのは俺じゃなくてばあさんだから、お間違いなく」

 「ちょっと待った」とおばさん。「誰がばあさんだって?」

 「いいからいいから」と先生は手で二人を制して、「俺に言わせりゃ、U三一五だのR六六四だののほうがよっぽどあざといぜ」

 「なんで」と青年。

 「要するに、純粋ぶってるって言いたいんでしょう」とおばさん。

 「そんなことないさ」青年は猛反発した。「いや、そうかもしれないけど、それはお互い承知のはずだろ。その上で、どれだけいいものを見せてくれるかというのが肝腎なんで」

 「俺もそれを言いたかったんだけど」と先生。

 「じゃあ、純粋ぶってるなんて言いかたすることないだろ」

 「ちょっと待った。純粋ぶってるって言ったのは俺じゃなくてばあさんで……」

 「誰がばあさんだって」

 そのとき、ふいに初老の男が咳払いをしたので、皆はしんとなって、いっせいに男の口元を見た。

 「やっぱりね」男はしわがれた声で、ためらいがちに言いだした。「俺くらい年を取るとね、枯れてくるというかね、その、それなりに人生の重みがないと、納得しないというかね」

 「おじさんは、何が好みなのさ」と青年が興味深げに尋ねた。

 「俺か。俺はね、それはやっぱり、X一〇一とか……」

 そのとたん、皆はいっせいに飛び上がり、先生などはコーヒーカップをひっくり返してしまった。

 「あ、失敬」先生はうろたえて言った。「しかし、X一〇一とは……」

 そのとき、うっかり私は先生と目を合わせてしまった。悟られた、と私は思った。とたんに、先生はよそよそしい表情になり、ポケットから硬貨をつまみだしてテーブルに置くと、まるで今まで他人と相席でもしていたように知らん顔をして去っていった。次にすばやかったのはあの初老の男で、これは金も置かずに例の悠揚迫らぬ足取りで出ていった。学生はわざとらしく大きな伸びをすると、「ああ、よく寝た」とつぶやきながら、これも急いで出ていった。

 取り残されたおばさんは、ちょっと悔しそうな表情を浮かべたが、すぐに取り澄ました顔つきになって、「お勘定、お願い」と声をかけた。私のそばを通りすぎるとき、彼女は一瞬、私のほうに憎悪に満ちた視線を投げて、つんとした顔つきで出ていった。私は思わず身震いした。

 それからまもなく、あの本屋は壊されてゲームセンターになってしまった。その後私は二度とあの雑誌を目にしていない。あれからもう十年近くになるのだが、今でも初めての町で見捨てられたような小さな本屋を見つけると、ついふらふらと立ち寄って、薄暗い棚にあの素っ気ない表紙を探してしまうのである。

 

 

 

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