また会う日まで
変わった知り合いといえば葛原くんである。葛原くんは私の勤め先で経理をしている二十一歳の青年だ。口数が少なく、仕事ぶりはまじめだが、女性社員のあいだではしょっちゅう冗談の種になっている。女の人を極端に苦手としていて、仕事のことで話しかけられたりすると、とたんにこちこちになって口ごもってしまうからなのだ。
変わっているというのはそのことではない。実を言うと私は偶然彼の秘密を知ってしまったのだ。あるとき私は繁華街のデパートへ買い物に出かけた。日曜の午後のデパートは通勤時刻の駅のホームのようにこみあっていて、人にぶつからないで歩くのがやっとだった。ふと気づくと、私の二、三人前を灰色のセーターを着て歩いていくのは葛原くんのようである。それほど親しい間柄でもなかったので、私は声をかけるのをためらった。休日のゆったりした気分のときに、仕事場の知り合いと言葉を交わすのがなんとなく気が重かったせいもある。
葛原くんはきょろきょろとあたりを見回しながら歩いていく。それが買い物というより人でも探しているようだったので、私はなんとなく興味を引かれた。女性が苦手の葛原くんが日曜日のデパートで待ち合わせているのはどんな相手か、そんな好奇心もあった。
ふいに、葛原くんはちょっと跳びはねるような格好をすると、人ごみをかきわけて走り出した。そのあわてぶりがいつもの物静かなようすとあまりにかけはなれていたので、私はどきりとしておもわず立ちすくんだ。葛原くんが駆けよった相手は、丈の長い真っ赤なコートを着て、同じような色の口紅を鮮やかに光らせた若い女だった。葛原くんは彼女の前に立ちふさがるようにして何か言っていた。相手は葛原くんより背が高い。なんだかひどく意外そうな、困惑した顔をしている。葛原くんはさらに何かを言いつのった。そのときちらりと見えた横顔は、目を大きく見開いて、うれしくてしょうがないという表情だった。釣り師が大きな獲物を釣り上げたところを私は連想した。
それに対して、相手はいよいよ困惑したようすで、短く何か言ったかとおもうと、葛原くんを押しのけて歩きだした。あらら、と私は口の中でつぶやいた。ところが、葛原くんは落胆するようすもなく、相手を見送りながらにやりにやりとうれしそうな笑いを浮かべている。これがほんとに、あのまじめで女ぎらいの葛原くんだろうか、と私は疑った。日頃あまり人のことにはかかわらないようにしているのだが、これは不思議すぎる。ここで事実を確かめておかないと、夢でうなされそうだ。
私は後ろからそっと近づくと、いきなり「ふられちゃったね、葛原くん」と声をかけた。今から思えば、ずいぶん思いやりのない言いかたをしたものだが、そのときは好奇心で我を忘れていて、是が非でも相手に逃げ口上を言わせまいと思ったのだ。
そのときの相手の表情を見て、私は声をかけたことを後悔した。あの、天が落ちてくることを気にやんでいた杞の国の人が、本当に天が落ちてくるのを見たとしたら、こんな顔をするだろうと思った。彼は死人のような表情のまま「相田さん」と私の名を呼んだが、それ以上どうしたらいいかわからないようすで立ちすくんでしまった。私も気をのまれ、二人ともしばらく黙ってお互いの顔を見つめていた。
ややあって私は気を取り直すと、彼をお茶に誘った。そのときまでに彼は覚悟を決めていたらしく、席につくとすぐ、ためらいがちにではあったが、今日の不思議な行いのわけを話してくれた。
十代のはじめごろから、葛原くんに不思議なことが起こりはじめた。それは、道ですれ違ったり、電車で向かい側の席に坐っていた女性が、たまたま彼の気に入るような美しい人だと、その表情やしぐさや何やかやが、ずっと記憶の中に残って消えなくなるのである。日がたつにつれて、彼の心の中には何百という美しい面影が刻まれていったが、どんなにその数が多くなっても、相変わらずその一つ一つを、出会ったときのどんなに細かい状況も含めて、生き生きと思い出すことができるのだった。その思い出に圧倒されて、葛原くんはだんだん現実の女性に近づくことができなくなった。ほんのいっときすれ違っただけの記憶がこれだけ強い感情を呼び起こすなら、身近な女性と親しい間柄になったりすれば、自分はその経験に押しつぶされてしまうに違いないと思ったという。
十代も終わりに近くなったころ、忘れられないことが起きた。当時専門学校にかよっていた葛原くんは、ある日電車の中で、思い出の中のとりわけ美しい一人と再会したのだ。それは、十四歳のときに、美術館の前の噴水越しに冷たい風に吹かれながら立っているのを見て、強い印象を受けた人だった。むろん相手は葛原くんのことを覚えているはずがない。しかし葛原くんは、あまりの感激にそんなことは忘れて、ついその人に話しかけてしまった。
普通なら、冷たくあしらわれるか、痴漢扱いされてもしかたがないところである。だが、その人は葛原くんの話を聞くと、大きな目を見開いて、「へえ、すごい、そんなことってあるんだ」と素直に喜んでくれたのである。私はそれを聞いて、その人の優しさに感動した。「で、その人とはどうなったの」と私は尋ねた。
「それだけです」と葛原くんは答えた。「それに、その人とはもう会わないように、通学のコースを変えました」
「なんで」私は思わず口を開けた。
「だって、三度目に会ったら、もう知り合いでしょ。知り合いってどうするのかわからないから」と葛原くんは恥ずかしげに目を伏せながら語った。
私は気を取り直して、先を促した。
「それから、僕にはひそかな楽しみができました」と葛原くんは続けた。「はじめは、道を歩いているときにたまたま思い出の中の人に出会わないかと気をつけてあたりを見回すくらいでしたが、そのうちにそれだけが目的で街を歩き回るようになりました。就職してからは、友達と会うこともなくなって、気がまぎれる機会が減ったので、それが僕のただ一つの生きがいになったんです。休みの日になると街に出て、すれ違う人たちの顔をのぞきこみながらあてもなくさまよいました。そうするとよくしたもので、二、三ヶ月にいっぺんは、記憶にある顔に出会うんです。僕は我を忘れて、つい『あなたは五年前の七月二十三日、どこそこのデパートの前の広場で、白いノースリーブの服を着て、茶色のハンドバッグを持って、人待ち顔に立っていたでしょう。二、三分に一度くらい時計をのぞいて、そのたびに時計の文字盤のデザインがひどく気に入っているんだと言いたげな顔をして、そのくせハイヒールの爪先が花壇の縁石にかんかんと小さな音を立てていて、それがとってもかわいくて……』などと話しかけてしまうんです」
「はあ」私はため息をついた。
「たいていは、気味悪がられます」と葛原くんは冷静に言った。「ハンドバッグの角で殴られたこともありました。そのときはほっぺたに二センチくらいの傷ができました。相手にごつい男の連れがあって、首を絞められたこともあります。それでもやめられないんです。記憶の中の美しい顔を、もう一度現実に目にしたときの喜び、それはもう何といったらいいか、それこそ、生きててよかったとか、そんな言葉が全然恥ずかしくなく言えるくらいで、そんな喜びを一人で心にしまっておくことにはとても耐えられないんです。いやがられようが何だろうが、どうしても相手と分かちあいたくなるんです。
それでも、心のどこかから、こんなことをしていてはいけない、いつかは取り返しのつかないことになると警告する声が聞こえてきます。だから、さっき相田さんに声をかけられたとき、とうとうそのときが来たと思ったんです。会社でこんなことを言いふらされたら、僕は破滅です。でも、思いきって話してみたらなんだか落ちつきました。今は話してよかったと思ってます」それから彼は上目使いに私を見て、「僕、別に悪いこと、してませんよね」
私は返事に困ってしまった。たしかに、葛原くんの気持ちはわからないでもない。だが、こういう人間がそこらじゅうにうようよしていたら、いくぶん気味が悪いことも事実である。
私は言葉を選びながら、こう言った。
「うん、葛原くんの気持ちは、たしかに純粋で、うらやましいくらいだけど……でも、もう少し現実の女性と、その、触れ合う努力をしたほうがいいんじゃない。葛原くんだって、ずっとこのままでいいとは、思ってないんでしょう」
「このままじゃ、いけないんでしょうか」
正面から反撃されて、私はしどろもどろになった。「いや、その、いけなくないこともない、こともないか……」
「僕、実をいうと、すごく幸せなんです。こうやって、思い出を探して街を歩き回るのが、とても楽しくて、たとえばだれか好きな人ができて、結婚なんかしちゃったりしたとしても、とてもこれだけ充実した時間は持てないだろうと思うんです」
「うん、まあ、幸せなんて人それぞれだからね……」
「だから、今は、そっとしておいていただけませんか。僕、絶対人に迷惑かけたり、そんなつもりないんです。つきまとったりもしませんし」
「まあ、葛原くんがそれでいいというんなら、いいのかもしれないけど……」
まことにだらしない結果となり、私はそのまま葛原くんと別れて家に帰った。その後私はこの話を誰にもしなかったが、葛原くんのことはずっと気にかかっていた。
二、三週間前、たまたま私は若い女性社員たちの噂話を漏れ聞いた。
「それがね、すごいおしゃれしてるのよ」と一人が言った。
「あれで?」と別のが口をはさんだ。
「本人はそのつもりなのよ」
「今までぜんぜん身なりなんてかまってなかったじゃない。どうしたんだろう」
「きまってんでしょ」と最初のが含み笑いをした。
私は関心がないふりをしていたが、誰のことを言っているかはすぐにわかったので、耳を傾けずにいられなかった。
どうしたのだろう。思い出にしか心を動かさず、現実の女性とつきあうことには怖気を振るっていた葛原くんなのに。彼の心を変えるようなすてきな人が現れたのだろうか。
気になってはいたが、ちょうど仕事が忙しい時期だったので、葛原くんのようすを見にいくこともなしにすぎてしまった。
ひと月ほどたって、またしても私は偶然に葛原くんを街で見かけた。噂にたがわず、格子縞の派手なジャケットを着ていたが、悲惨なくらい似合っていなかった。このまえ見たときにくらべて、後ろ姿に元気がない。十一月の冷たい風に吹き倒されそうにひょろひょろと歩いている。若い女性とすれ違うたびに、相手が気味悪がってよけるくらいしげしげと顔をのぞきこむが、すぐにため息をつき、肩を落として歩きだす。あれではさぞ気味が悪かろうと、私は相手の女性たちに同情した。
しばらくすると、彼は道ばたの敷石に坐りこみ、頭を垂れてしまった。そのようすがあまりに哀れだったので、私は近づいて声をかけずにいられなかった。
「葛原くん」
葛原くんは頭をあげ、私を認めるとこう言った。
「あ、相田さん。あとをつけてらしたんですか」
私は気分を害した。
「ばかね。そんなことするわけないでしょ。偶然通りかかったの」
「よく偶然に通りかかる人ですね。水戸黄門みたいだ」
「ずいぶんからむじゃないの」私は彼のそばに腰をおろした。「どうしたの。元気がないよ」
「僕は、もうどうしていいかわからない……」葛原くんは頭を抱えこんでしまった。
彼を近くの喫茶店にひっぱりこみ、熱いカフェオレをあてがっておいて、私は話を促した。
「恋を、してるんです」と彼はせつなげに言った。
「そんなことだろうと思った」私は笑った。「誰だって恋くらいするよ。それなら、一人で街を歩き回ってため息ついたりしてないで、その人に会いに行けばいいじゃないか」
「でも、どこに会いに行ったらいいのか……」
私は悪い予感がした。
「それって、ひょっとして、道ですれちがっただけの人じゃないだろうね」
「いや、違います」葛原くんは力説した。
「それならいいけど」私は少しほっとした。
「道ですれちがったんじゃなくて、パスタ屋のカウンターでたまたま隣り合わせたんです」
私はずっこけそうになった。
「それじゃ、おんなじだよ」
「天使みたいに、かわいい人でした……」葛原くんは夢見るような表情になった。「横にいたから、顔は見えなかったんですけど。でも、その人が隣の席についたとたん、衣擦れの音、軽く息を弾ませた気配、それに十センチの空間をへだてて伝わってくる体温を感じて、僕はもうめろめろになってたんです。そしてなにより、彼女がトマトのスパゲティを注文したその声! ウニやタラコでなくてほんとによかった。パスタはやっぱりトマトですよね」
「そんなことは、どうでもいいから」
「僕は、もういっぺんで、虜になってしまったんです」
「で、そのときは黙って帰ってきたわけね」
「よくわかりますね」
私はため息をついた。
「それから、もう昼も夜も、その人の声が耳について離れないんです。あの人はいまごろどこでどうしているんだろう。ひょっとしたら、あの天使の声で、誰かの耳に愛の言葉をささやいてるんじゃないか、なんて思うと、もう夜中でも飛び起きて、外に走り出たくなる……」
「それで、その人を探して、歩き回っているわけね」私は少し意地の悪い気分になった。「でもさ、声しか知らないんでしょう。ひょっとしてそこらですれちがっても、わからないんじゃない」
「そうなんですよ」葛原くんの顔がゆがんだ。「それを思うと、僕は心臓が止まりそうな気がするんです。もう一度あのパスタ屋のカウンターで隣に坐ってくれたら、絶対わかる自信があるんですけど、すれちがっただけじゃ、ひょっとすると見逃しちゃうかもしれない。もしあの人が僕の十センチ横を通っていったのに、気がつかないなんてことがあったら! たまたま与えられた貴重なチャンスをそんなふうに無駄にしてしまったら、もう一生会えないかもしれないですよね」
「その可能性のほうが高いと思うけど」私はますます意地悪く言った。
「ああ、どうしよう……そうだ、すれちがう人にかたっぱしから抱きついて悲鳴をあげさせたら、わかるかもしれない」
「やめなさい!」
「実はもうひとつ、悩みがあるんです」
「もう、何を聞いても驚かないわ」と私。
「もし、うまく彼女と出会えたら、僕はどうしたらいいんでしょう」
「そんなことも考えてないの?」私はあきれて言った。「せめて、愛の告白の言葉くらい、用意しておきなよ」
「そんな、恐ろしい」葛原くんはぶんぶん首を振って、「僕は、ただあの声をもう一度聞けるだけで、十分なんです……でも、それから先、どうしたらいいんでしょう」
「それから先?」
「だって、今の僕は、あの人と再会する、その瞬間の感動だけを楽しみに生きてるんですよ。それなのに、一度再会してしまったら、もう二度と再会できないじゃないですか。ぼくは、何を目標にして残りの人生を送ったらいいんです?」
私はしばらく口を開けたまま、相手の顔を見つめていた。葛原くんはそんな私を見て、ひどくおびえた表情になった。きっと、いまにも食いつきそうに見えたに違いない。実を言えば、そのとき私は心の中で、この馬鹿者を殴るべきか抱きしめるべきか、どちらとも決めかねていたのだった。
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