目覚めよと呼ぶ声

 

 遠くでサイレンが鳴っている。枕に頭をつけたまま旭堂は耳を澄ました。 意識がこの世のものになってから、ずっとその音を聞いていたような気がした。

 隣にいる妻を見ると、何も気づかずに安らかに眠っている。旭堂はしばらくそれを珍しいもののように眺めた。

 そのうち、サイレンは次第に近く迫ってきた。何が起きたかと旭堂は少し案ずる気になった。時とともにその音はじわじわと高まり、ついに耳を痛めるほどの咆哮となって、夜の空間を強い圧迫で満たした。旭堂は激しい恐怖を感じて、床の中で手足を縮めた。

 それでも妻は寝息を立てていた。その静かな寝顔を見つめながら、鳴りやまぬサイレンに押さえつけられ、刃が落ちてくるのを待つ罪人のように、歯を食いしばって旭堂は耐え続けた。

 

 翌朝目が覚めると、隣の部屋で計算機のキーを叩く音がした。旭堂が起きていくと、食卓には朝食の支度が整い、妻は机に向かってもう仕事を始めていた。

 旭堂が洗顔を済ますと、妻は机を離れて食卓に着いた。そこで二人はいつものように寡黙に朝食を取った。

 顔を洗っている間、旭堂はゆうべの恐怖について妻に話そうと思っていたのだが、鰯の丸干しを頭からばりばり噛んでいる、現実と同じくらい強固な妻の口元を見ると、言う気がなくなった。言っても理解されないだろうと思った。

 どうしてこの女と暮らすようになったのか、旭堂には今以てうまく説明できない。何だか、大きな爪を持った猛禽にいきなりひっとらえられたような心地がする。自分が結婚というものをするときが来るなんて、昔は思ってもみなかった。自分のような自己中心的な者が結婚などすれば、相手も自分も破滅するだけだと信じていた。しかし、その自己中心性に何の掣肘も受けないまま、自分はいま至極平穏に生きている。それどころか、もし妻がいなければその日の暮らしにも困るはずだから、事実は捕らわれたというより拾われたというほうが適切であった。

 朝食が済むと妻は、津波のような水しぶきを立てて洗い物を済ませ、再び嵐のようにキーを叩き始めた。旭堂は食卓を丁寧に拭いて、昨日来た手紙をその上に広げた。

 それは大学時代の友人の女性からだった。五年前に結婚したが、夫と子供と義母の世話に追われる生活に、すっかり疲れ果てているらしかった。毎日の瑣末な現実を超えた高い場所に旭堂を祭り上げて、その高さへむりやり自分をひっぱり上げようとしているような筆致だった。「いつか旭堂さんのような生き方ができるようになりたい、そう考えることが、今の私のただ一つの慰めであり、希望なのです」と手紙は結ばれていた。

 こういう手紙が、いろいろな相手から月に一度や二度は必ず来る。旭堂は、妻を数に入れても恋愛というものを一度もした覚えがないが、女の知り合いには事欠かなかった。

 相手を失望させないよう、しかも誠実さを失わないよう、長い時間をかけて返事を練り上げた。それが済むと、床に寝ころんで、よく晴れた空をカーテン越しに眺めた。

 自分のような何の取り柄もない者を、昔の知り合いがいつまでも覚えていてくれるのは、有り難いが不思議なことであると旭堂は考えた。それどころか、何か特別な人物のように扱ってくれる。妻にしてもそうだ。あれほど生活力のある実際的な女が、全く無為無能の自分を伴侶に選び、仕事もせずに毎日ぶらぶらしていても嫌な顔一つせず、衣食住すべての面倒を見てくれる。妻自身は本にも音楽にも映画にも演劇にも全く関心がないが、そういったものを旭堂が毎日享楽するための資金はすべて妻から出ていた。これではまるで、旭堂に安楽な暮らしをさせるために妻はこの世に存在するようである。幸運と呼ぶにはあまりに理解しがたい事態であった。

 ひょっとすると、旭堂などという大層な名前が、周りの目を眩ませているのではないか。母が自分を生むとき、朝日が腹に飛び込む幻を見たことから、この名が付けられたと聞いている。幼い頃の自分は、将来どんな人物になるかと瞠目させられるほど利発な子であったと、これは親戚に会うたびに聞かされる話である。母の夢も名前も親戚の期待も裏切って、旭堂はただの怠け者になった。しかし、周囲の目には幻影の光輝がまだ揺曳しているようである。旭堂にはそれが不可解だった。

 不可解にしろなんにしろ、旭堂にはこの生活が気に入っている。これがいつまでも続けばよいがと思う。さっきのような手紙を読んだあとではなおさらである。しかし、手紙の主のことを思えば、自分が送っているのは生活と言えるのだろうか。苦しむことがない代わりに、何かを達成することもない。毎日があの雲のように何も残さずに流れていく。だが、ほかの生き方というのは旭堂には想像がつかなかった。自分の坐る場所を力ずくで押し開くような真似が自分にできるとは思えない。また、坐る場所は自然に与えられているのだからそうする必要もなかった。そのことに疚しさを感じる謂われはない。これが自分のありのままなのだ。その言葉は、心中の波立ちを鎮める旭堂の切り札であった。そのうち、日の光に暖められて、気持ちよく心が空っぽになっていった。

 気が付くと、誰かの話し声がずっと耳の底を流れていた。かなり年を取った婦人らしい、落ち着いた声だった。半睡半醒のまま旭堂はその言葉に耳を傾けた。

 それはなんだか不思議な話だった。どこか遠い、我々の知らない場所に、途方もなく古い文明がある。何万年という歴史と成熟した文化を持つその文明が、文明の老衰ともいうべき現象のために、いま滅亡の危機にあった。それを防ぐには、ある特別な資質を持つ指導者が必要だが、あらゆる場所を尋ね回ったにもかかわらずそれは見つからなかった。あちらの世界には。しかし、我々の住むこちら側の世界に、それを持った者が一人だけ見いだされた。その者はまだそのことに気づいていないが、ただちに自分の使命に目覚めさせ、あちらの世界に連れ帰って、滅亡を阻止しなければならない。

 旭堂は夢うつつの中で、笑止な話だと考えた。たった一人で世界を救うなど、妄想に属する。そんな人間がこの世に存在するはずがない。

 すると、まるで旭堂の心中を読み取ったように、不意に話し手が声を励ました。

 「それはあなたのことです。目を覚ましなさい!」

 旭堂はびっくりして飛び起きた。気が付くと、さっきから流れていたのは、妻が仕事をしながらつけていたラジオの声だった。旭堂はのそのそと仕事場に入ると、妻に向かって尋ねた。

 「いま、ラジオが何か変なこと言ってなかった?」

 妻はキーボードに手を載せたまま頭だけこちらに向け、「さあ? ぜんぜん聞いてなかった」と首を傾げた。

 

 午後、旭堂は妻と買い物に出た。アパートの階段を降りたところで、近所でよく見かける年輩の男性が、毛のふさふさした茶色の大きな犬を散歩させているのに行き会った。すれ違うとき、いつもおとなしいその犬が、不意に旭堂たちに向かって吠えついた。飼い主は慌てて紐を引いたが、犬はひどく興奮して、後足で立ち上がって吠え立てた。大きく開けた口がこちらの顔すれすれまで来たとき、

 「来い」

 とはっきりした人間の言葉で犬が言うのを旭堂は聞いた。犬はすぐに引き戻された。飼い主は何度も詫びの言葉を呟きながら、犬を引きずって去っていった。

 旭堂は黙ってじっと妻の顔を見た。何もなかったかのような顔つきである。犬が人語を発するのを聞いたら、いくら何でもこう平然としてはいないだろう。自分の気のせいだったのだと旭堂は思うことにした。

 近くのどぶ川はいつになく流れが速かった。橋の上から何気なく下を見ると、不意に流れが二つに割れて、長い髪の毛のような水草が一筋水面から踊り出た。その先が人の指そっくりに分かれて、こちらに向かっておいでおいでをした。旭堂は思わず後ずさった。

 「何してるの。落ちるわよ」と妻が注意した。何も気づいていないらしかった。

 駅前に向かう途中で突風が吹いて、ものすごい勢いで紙屑が飛んできた。妻は器用に首を動かしてよけたが、旭堂はぼんやりしていたので、紙切れがまともに顔に貼り付いた。

 引きはがしてみると、白い紙の真ん中に大きな字で「おまえの使命を知れ」と書かれてあった。旭堂は隠すようにそれをポケットに入れた。

 歩きながら旭堂は考え込んだ。偶然が三つも続くということがあるだろうか。しかもそれが、その日の朝うたた寝に見た夢の内容と連関しているなどということがあるだろうか。だが、偶然でないとするとどういうことになるのか、旭堂には想像がつかなかった。いや、想像は心の奥にあるのだが、はっきりと言葉にしてみる勇気がなかった。

 駅前のスーパーマーケットに入ろうとしたとき、「旭堂」と呼ぶ声を聞いた。振り向くと、赤いチェックのシャツを着た、髭面の太った男がこちらに笑顔を向けていた。頭の中でその髭を剃り落としてしまって、そこに高校時代の同級生の顔を旭堂は認めた。

 「久しぶりだな」と旭堂は言った。顔を合わせるのはほとんど卒業以来である。

 彼らはしばらくそこで立ち話をした。今はこの近所でバイク屋をやっていると相手は言った。バイクに縁のない旭堂が知らないわけである。旭堂は自分のことを、ただぶらぶらしていると形容した。相手は当たり前のことを聞いたようにうなずいた。

 「奥さん」と彼は旭堂の妻に話しかけた。「こいつ、偉い奴でしょう」

 「ええ」と妻は簡潔に肯定した。

 「昔から、こいつは将来大偉業を成し遂げて、歴史の教科書に載るに違いないって、みんな言ってたんです」

 「とんだお門違いだったな」と旭堂は口を挟んだ。

 「いやいや」相手は首を振った。

 「大偉業どころか、働きもせずに毎日のらくらしている」

 「それくらいじゃなくちゃ、大偉業は成し遂げられないさ。奥さん」彼は再び旭堂の妻に向かって、「こんな奴につまらない日銭稼ぎをさせてたら、それこそ歴史的損失ですよ。頼みますよ、旭堂のこと。思うようにさせてやってください」

 旭堂は顔から火が出る思いで、自分は本当に無為に過ごしているだけなのだと説明しようとしたが、そのとき相手は「じゃ、いずれまたゆっくり」と言って背を向けた。少し歩んでから彼は足を止めた。もう一度振り向いたとき、その唇は真一文字に結ばれ、異様に強く光る目がこちらをじっと見た。

 「目を覚ませ。来るんだ」さっきとは全く違う深い声音で彼は言った。

 旭堂は殴られたようによろめいた。「何だ、どういう意味だ」うろたえた声で彼は尋ねた。そのとき相手はすでに元の様子に戻っていた。

 「ん? 俺何か言ったか? ともかく、また連絡する」

 彼は手を振って去った。

 あとを見送って、「いい人ね」と妻は言った。旭堂は黙って動悸を静めていた。今のは断じて偶然ではなかった。

 

 スーパーマーケットの三階にあるコーヒーショップのテーブルを挟んで二人は坐っていた。妻の寡黙さをいつもは旭堂は有り難く感じていたが、今日は物足りない気がした。つまらないことでもいいから何かしゃべって、気持ちを紛らしてほしかった。日常の世界に自分を引き戻してほしかった。それほどに非現実的な不安に旭堂は捕らわれていた。

 誰かが自分を呼んでいるのは間違いない。今朝のうたた寝に聞いた言葉が夢でないなら、それは途方もない使命であるはずだった。しかし、そんなことが現実にあるとは旭堂には信じられなかったし、自分がそのために選ばれたということはなおさら信じられなかった。

 その信じられないことが、有無を言わせず自分の前に迫りつつある。何より不安なのは、その使命の内容が具体的に何一つわからないことだった。それは本当に自分の力の及ぶことなのか。もし失敗したらどのような目に遭うのか。

 人がどのように持ち上げようと、自分では完全に自惚れを捨て去ったつもりでいたが、それは事実でなかったと旭堂は認めざるを得なかった。無為無能を以て任じながら今日まで平気で暮らしてこられたのは、自分はただの人間でないという自負が心のどこかにあったからなのだ。いざというときが来たら、それは一生来ないかもしれないが、もし来たら、そのときこそ自分の真価が発揮されるのだと、のんきにも考えていた。

 いま実際にそれが来て、足元が掘り崩されたような思いを旭堂は味わった。選ばれた人物にふさわしい気概も底力も自分の中から湧いては来ず、ただ背を向けて逃げたい気持ちだけが勝っていた。自分は正真正銘の腑抜けだったのだと旭堂は自嘲した。そしてその腑抜けに、運命は一つの世界の命運をゆだねようとしている。

 「ねえ」と旭堂は口を開いた。妻は先を促すように旭堂の目を見た。

 旭堂は言葉を選びながら語った。

 「もし、何かどうしてもやらなきゃいけないことがあって、でも自分にそれができそうもないと思ったら、どうすればいいかしら」

 「やらなきゃいけないことは真っ先に済ませるの」妻はほほえんだ。「洗い物でも掃除でも。それが私のやりかた」

 「そりゃ、洗い物くらいならね。でも、もっととんでもない、到底実行不可能な仕事だったら?」

 妻は首を傾げて、「それなら、ほんとにやらなきゃいけなくなるまでほっとく」

 「ほっとく?」

 「うん。だって、差し迫ってもいないのに手をつけて失敗するの、ばからしいじゃない。それに、ほっとけば結局やらなくて済むかもしれないし」

 「そうだな」旭堂は急に元気が湧いてくるような気がした。「結局やらなくて済むかもしれないよな。その通りだ」あんなばかげた話が事実であるはずがない、何もかも取り越し苦労だったのだと思った。

 買い物袋を手に二人はスーパーマーケットを出た。空は日暮れ前の深い青さで、地平線近くに一筋の雲が見えた。

 不意に遠雷に似た音がして、その雲が噴煙のように膨れ上がった。旭堂は目を奪われて立ちすくんだ。みるみるうちにそれは西の空いっぱいに広がり、やがて紛うかたなき人の顔の形になった。その巨大な顔は、眉間に深い皺を寄せ、目のない眼窩でこちらをじっと見つめ、大きく口を開けて声のない呼び声を上げた。

 旭堂はかすれた悲鳴とともにその場にうずくまった。妻が振り返り、不思議そうな顔をして駆け寄った。旭堂は意味のない喘ぎを立て、しきりに空を指さした。妻が見上げたとき、そこには風で散り散りにされた雲のかけらがあるだけだった。

 

 机の上に広げた『ローマ帝国衰亡史』から旭堂は顔を上げた。窓の外で何か音がしたような気がした。見ると、黒光りする大きなカラスが、ベランダの鉄柵に留まってこちらをのぞき込んでいた。

 「来う」とカラスが鳴いた。

 旭堂は表情も変えずに立つと、さっとカーテンを引いた。

 いつの間にか後ろに妻が来ていて、「ご飯にしましょう」と言った。

 山盛りのチャーハンをスプーンで無心に口に運んでいる妻を、旭堂は目の端で眺めた。ここ何日かの間に、急に妻が今まで以上に遠い存在になったような気がした。いずれ近いうちに彼女を置いて行かねばならぬという思いがそうさせているのかもしれなかった。

 旭堂が生まれつき持っている、そして心の奥で何よりも大切にしている繊細な感覚とは無縁な女だったが、結句、伴侶としてはよい相手だったと旭堂は考えた。あらゆる必要を過不足なく満たしてくれた上で、こちらの領域には一歩も踏み込もうとしなかった。この女と結婚しなければならないとわかったとき、旭堂は自分の人生に幕を引く思いであったが、振り返ってみればこの四年間は不思議に静謐で幸せな時間だった。今後、自分の運命がどうなるとしても、この女と暮らした年月を忘れることは決してあるまいと旭堂は思った。

 自分がいなくなったあと、この女はどうするだろう。生活に困らないことは言うに及ばない。少しは寂しいとか悲しいとか思うだろうか。この女の感情について旭堂は何一つわからなかった。旭堂といても特に嬉しそうな様子を見せたことはない。もっとも相手を喜ばせるようなことを旭堂がしたわけでもない。一度くらい彼女のために何かしてやればよかったと旭堂は後悔した。しかしもう遅すぎた。

 異世界からの招請は日々ますます急になっていた。一日の間に幾度も、窓の埃や、洗面台の水滴や、シーツの皺が「使命に目覚めよ」などという文字を描き出した。道を歩けば、すれ違う人や動物たちが「早く来い」とささやいた。ショパンのピアノ曲をかけようとしたら、いきなり合唱団が「来たれ、汝の務めを果たせ」と歌いだしたこともある。あるときなど、珍しく旭堂が夕食の支度を買って出たら、裂いた魚の腹から「世界を救え」と書いた紙が出てきた。

 初めのうち旭堂は、妻によけいな心配をさせたくなくて、なるべく気づかれないようにしていたのだが、そのうちどうでもよくなってきた。いずれにせよ妻は感づく気遣いはなかった。このような幻想的な出来事は、妻の精神の活動範囲から完全に外れていた。

 旭堂の心は一種の麻痺状態に陥っていた。それを覚悟が固まったのだと旭堂は解釈した。これほど強引な方法を取る以上、どのような結果になろうとそれは向こうの責任と言うしかない。自分はただ悠然と構えて、到来する事態に対処するだけである。そう決めると、なんだか面白いような気がしてきた。

 もうそろそろ、決定的な誘いが来る頃だと旭堂は考えた。実際、事の重大さを思えば、このようなまどろっこしいやり方をいつまでも向こうが続けているのは不思議と言えた。こちらの覚悟がとっくに決まっていることを知らないのかもしれない。

 昼食のあと何気なく新聞を広げて、旭堂は目を剥いた。社会面のあるはずのところが全面広告になっている。そこには、「今夜零時RKNラジオ。最終的な返事を求む」と大きな字で記してあった。

 瞬時に旭堂の心は水のように澄み切った。ほかの家に配達された新聞には、おそらくこの広告は掲載されていないだろう。自分に向けたメッセージであることは疑いない。返事はもう決まっていた。たとえ相手の思い通りの返事であろうと、自分の意志でそれを言えることを旭堂は誇りに感じた。

 仕事をしている妻の後ろに静かに歩み寄って、「今夜、外に食べに行かないか」と旭堂は声を掛けた。

 「ん、いいけど?」

 「僕が御馳走するよ」

 「そう? ありがと」

 こんなことは結婚以来初めてだったが、妻は別に何も感じていないようだった。旭堂は黙ってその場を離れた。

 身辺を整理するといっても、特に何もすることがなかった。旭堂自身の持ち物はごく少なく、妻を除いて気に掛ける係累もなかった。こういう生き方をしてきたことも、運命のしからしむるところであったのかと、旭堂は得心が行く思いであった。

 その晩二人は、駅前の小さなレストランで食事を取った。妻はいつも通りによく食べた。今日と同じ一日が明日も続くことを疑っていない様子だった。旭堂は、特に別れをほのめかすようなことは何も言わなかった。言わなくても、後になってみれば自分の気持ちは通じるだろうと思った。よし通じなくてもしかたがないと思った。もともと、違う世界に住む二人が仮初めに出会っただけなのだ。いま実際に違う世界に別れて行くのは、当然の成り行きであると言えた。

 「まだ、何か食べたいものはない?」と旭堂は優しく尋ねた。

 「ん、もうたくさん」妻は口の周りをソースだらけにして笑った。

 うちに帰った妻は、シャワーを浴びて歯を磨き、大あくびをすると「今日はごちそうさま」と言ってさっさと蒲団に入った。旭堂は仕事場の明かりを暗くし、椅子に坐って背筋を伸ばした。

 時間はゆっくりと過ぎた。落ち着いているつもりだったが、いつの間にか鼓動が速くなっていた。「選ばれたものの恍惚と不安」という言葉がふと心に浮かんだ。どこで読んだか忘れたが、いまの自分にぴったりの言葉であると思った。

 零時三十分前にラジオをつけた。眠りを誘うような音楽が流れてきた。隣の部屋で寝ている妻を気遣って音量を下げたが、妻が目を覚ますことは決してないだろうとも確信していた。

 音楽は長々と続いた。同じ旋律が幾度も幾度も繰り返された。催眠術に掛かったような気持ちの中で旭堂は、もしこの音楽が永遠に終わらなかったらどうしようと微かな焦燥を感じていた。

 零時五分前、音楽がフェードアウトし、男性アナウンサーの緩やかな語りが聞こえてきた。

 「みなさんは、奇談収集家というものをご存じでしょうか。おそらくご存じないと思います。そもそも奇談など収集の対象になるのでしょうか。しかし、実はこの世の中には、私たちが考える以上に、信じられないような不思議な話がたくさんあるのだそうです」

 旭堂は大きくうなずきたい気分だった。

 「そんな不思議な話を集めて回るのが、奇談収集家の仕事です。実は、今夜ゲストにお招きしたのは、世界でただ一人、奇談収集を専業にしておられる方なのです。それではご紹介しましょう……」

 そのとき、微かな雑音とともにラジオは沈黙し、やがて全く違った調子の声が流れてきた。

 「そこにいますか」

 それはかつて夢うつつに聞いたのと同じ老婦人の声だった。旭堂は居住まいを正した。

 「います」

 「もう目覚めていますか」

 「目覚めています」

 「では、すぐに来ますね」

 有無を言わせぬ調子だった。旭堂の心に反発が湧き起こった。

 「すぐにと言っても、こちらにも都合があります。なぜもっと尋常な手続きを取らないんですか」

 「時間を無駄にはできないのです」と声は静かに言った。

 「しかし、御大層なこけおどしの数々には、あれほど時間を掛けたじゃないですか」旭堂は激した調子になった。「言葉で言えばわかるんですよ、大人なんだから。それを、頑是ない子供でも相手にするみたいに、さんざん人の不安を煽り立てて……」

 「どうしたの、独りで大声出して」

 振り向くと、寝巻き姿の妻が不思議そうな顔で立っていた。旭堂は声を落ち着けて「いい機会だ。君も聞いておきなさい」とそばの椅子を指さした。

 妻が椅子に腰を下ろすと、旭堂はラジオに向かって詰問する調子で言った。

 「さあ、ちゃんと説明してください」

 「私たちの住む世界、それは大変に古く、大変に美しい世界ですが、悲しいことに滅亡を目前にしています」ラジオの声は相変わらず平静だった。「それは時間そのものの働きによるもので、人間の力では止めることも逆戻りさせることもできません。ただ、非常に稀少なある天分を持った人間だけが、その進行を多少遅らせることができる。多少といっても、それで数百年の時間が稼げます。過去に何度か現れたそのような人々の働きで、私たちの文明は何万年という時を長らえてきたのです。あなたがたの世界にはその天分を表す言葉がないので説明できませんが、それを備えた人は私たちにはすぐわかります。どれほど長く私たちはそれを探し回ったことか。そして、それを持つ人をこちらの世界でようやく見つけたとき、どれほど喜んだか。それがあなたです。二つの世界を通じて、ただ一人あなただけが私たちの文明を救えるのです。是が非でも、どんな手段を使ってでも、あなたを連れ帰らなければなりません。しかし、私たちの世界の存在すら知らないあなたに、ただ言葉で説いても、到底信じてはいただけないでしょう。目の当たりにさまざまな不思議を見せるよりほかに、納得していただく方法があったでしょうか。まして、これほど鈍感な人が相手では……」

 「鈍感」旭堂はひどく傷ついたが、強いて心を静めて、こう言った。

 「そういうことなら、最後に一つだけ確認させてください」

 「何ですか」

 旭堂は声を強めた。

 「あなたはさっき、必要な天分を備えた人はすぐわかるとおっしゃった。しかし、焦るがゆえの早とちりということもあるでしょう。行ってしまったあとで、間違いでしたでは困ります。もう一度、しっかりと確かめて返答してください。あなたは責任を持って断言できますか。この僕が、その資格を持つ人間であると」

 声はしばらく沈黙し、やがて少し調子を変えた。

 「あなたではありませんよ。あなたの、隣にいる人です」

 旭堂は隣を見た。妻がきょとんとした顔で坐っていた。

 「私?」と妻は言った。

 「そうです。私たちはずっとあなたに呼び掛けていたのです。なのにあなたは気づく様子すらなかった。どれほど私たちは気を揉んだことか……でも、ようやく意思を伝えることができました。あなたが必要なのです。来ていただけるでしょうね」

 「でも、私には仕事があるし」

 「どんな仕事よりも、はるかに重要な仕事です」

 「何の準備もしてないし」

 「準備はいりません。私たちがすべて引き受けます」

 「私がいなかったら、旭堂さんも困るだろうし」

 「あなたが来なければ、困るのは一人ではすみません。何十万という人々が悲惨な境遇に落ちるのです」

 旭堂はテニスのラリーでも見るように、妻とラジオとの間で機械的に頭を往復させていた。話はもはや完全に彼を置き去りにしていた。最後に妻は念を押すように尋ねた。

 「どうしても、必要なんですか」

 「どうしてもです」

 「じゃ、行きます」買い物に行くのと同じ平静さで妻は言った。

 「明日の夜、迎えを出します」勝ち誇ったようにラジオの声は宣言した。

 

 床に寝転がって、カーテン越しに旭堂は窓の外を眺めていた。今日も空が青い。雲のかけらがいくつもいくつも流れていく。そのあいだも旭堂はじっと動かなかった。

 妻が静かに部屋に入ってきて、傍らに坐った。

 「旭堂さんのこと、父に頼んでおきました」と妻は言った。「もちろん私が行くことは話してないけど。ただ、旭堂さんが働き口を探しているとだけ言っておきました。父は喜んでたわ」

 旭堂はぽっかりと目を開けて、ただ空を見上げている。

 「当座のお金は、銀行にある分で間に合うと思うの。念のため、暗証番号を紙に書いて置いときましたから。キャッシュカードと一緒に持ち歩いちゃだめよ」

 それでも旭堂は返事をしない。

 「旭堂さん……起きて、旭堂さん」

 妻は旭堂の肩に手を掛けて、抱え起こした。旭堂は何とか起きあがったが、ふらふらして重心が定まらないようであった。

 妻はそんな旭堂をじっと見ていたが、やがて言い聞かせるような調子で、

 「旭堂さん、何もする気がしないときはね、ご飯を食べることだけに集中して。ご飯さえ食べていれば死ぬことはないから。ご飯作るの、旭堂さん得意でしょう」

 聞いているのかいないのか、旭堂は薄笑いのようなものを浮かべて、相変わらずふらふらしている。目には目やにがいっぱい溜まっていた。

 「旭堂さん」

 妻は顔を近づけて相手の目を覗き込んだ。

 「私が帰ってくるまで、きっと帰ってくるから、そのときまで必ず元気でいてね。約束よ」

 旭堂はかすかにうなずきかけた。が、すぐに力無くだらりと首を垂れてしまった。妻は思わず溜め息をついた。

 「ああ、どうしよう。私、本当に行っていいのかしら」

 その途端、旭堂の背筋が延びた。その顔には昨日までの、使命に目覚めた者の誇りが戻ってきた。

 旭堂は黙って手を上げると、妻の額の真ん中を指で押した。

 

 

 

目次へ
Copyright (C) 2001 Shuho