お味方さま
気がつくと夕暮れになっていた。独り遊びの帰り道、綾香は背後にぱたぱたという足音を聞いた。恐ろしさに振り向くことができず、足を早めると、足音も早足になってついてくる。綾香はわっと泣き出して駆けた。とたんに膝の裏に石つぶてが当たり、綾香はその場に倒れた。濡れて腐りかけた段ボールが体に覆いかぶさった。「埋めろ、埋めろ」と声がした。「ごみ処理だ」と別のかん高い声が聞こえた。誰かがうっかり綾香の体に触れ、「汚ね」と騒いで隣の奴に手をこすりつけた。別の奴は棒を探し出してきて、綾香の両足のあいだに突っこんだ。その棒の先で誰彼かまわずつつこうとすると、「汚ね、汚ね」とはしゃいで逃げ回る。段ボールの上から二、三度強く踏みつける奴がいて、綾香は息が止まった。
ふと体が軽くなり、おそるおそる見上げると、男の子たちは算を乱して逃げてゆくところだった。誰かの手が綾香を助け起こして、泥を払ってくれた。優しそうな顔をした、和服姿の老婦人だった。「大丈夫?」と老婦人は心配そうに尋ねた。
綾香がうなずくと、老婦人は綾香の手を引いて近くの公園の手洗い場に連れてゆき、布きれを水で濡らして、顔や手足をきれいに拭いてくれた。綾香は「ありがとう」とはじめて礼を言った。
手当てが済むと、老婦人はかがみこんで綾香の目をのぞきこんだ。
「いいことを教えてあげる。今度から、何か困ったことがあったり、危ない目にあったときは、こうしなさい」
それから、綾香の手を取って不思議な動作をさせた。左手で小さな輪を作り、その中に右手の手首を入れてすばやくこするような動作だった。何度か繰り返して、綾香が自分でその動作ができるようになると、老婦人はうなずいて、
「それからね、目をつぶって、お味方さまお味方さま、お助けくださいって言うの」
「お味方さまって、なに」
「お味方さまはね、あなたのことをいつも見守ってくれて、危ないことや嫌なことから救ってくれるのよ。誰にでも必ず、お味方さまがついているの」
「ふうん」
「忘れないようにね。これを覚えていれば、きっといいことがあるから」
綾香は忘れなかった。次の日学校で、汚水で一杯のバケツを持った男の子に追いかけられたとき、お味方さまお味方さまをやると、男の子はころんで汚水まみれになった。大嫌いな音楽教師は、お味方さまにお願いすると、産休になった。代わりの先生はひどく意地の悪い中年女だったので、みんなはぶつぶつ文句を言ったが、綾香は独りでほくそえんでいた。前の先生と違って、今度の先生は綾香だけでなくみんなに平等に意地悪だった。それに、彼女は前の先生のように定規の先で綾香をぶったりしなかった。ちゃんと自分の手で叩いてくれたのだ。
毎晩布団に入ってから、綾香は目を閉じて、お味方さまに今日一日の恩を感謝した。実際、お味方さまのおかげで、綾香の生活は前よりずっと楽になっていた。夜寝る前に二度と朝が来ませんようにと祈ることも、最近はなくなった。
五年生のとき、綾香ははじめて恋をした。耕作くんという、坊主頭の、野球の好きな男の子だった。ある日耕作くんの打ったボールが、下校途中で校庭を歩いていた綾香の背中に当たった。綾香はばったりと倒れた。
「大丈夫か」耕作くんは綾香を助け起こすと、ぶっきらぼうに尋ねた。
「うん」綾香は脅えて、耕作くんから懸命に目をそらした。
「うちまで送ってってやるよ」と耕作くんはあいかわらずぶっきらぼうに言った。
「バイキン」とも、「死ね」とも言われなかった。男の子からこんなに優しくされたのははじめてだった。
耕作くんには久美ちゃんという幼なじみがいた。あるとき廊下で、耕作くんと同級生の男の子が久美ちゃんとすれ違った。とたんに、男の子は耕作くんの後ろに隠れると、耕作くんの顔を両手でむりやり久美ちゃんのほうに向けさせ、腹話術の人形みたいな変な声で、
「久美ちゃん、キスしようよ」と叫んだ。耕作くんは「何すんだよ」と言って相手に殴りかかったが、その顔はまんざらでもなさそうに笑っていた。久美ちゃんは真っ赤な顔をして逃げ出した。
綾香は教室の中からそれを見ていて、石になってしまった。
その日、家に帰った綾香は、引き出しの中に隠してあった小さな手鏡を取り出した。毎朝顔を洗うときも、なるべく見ないようにしている自分の顔が映っていた。考えることを避けていた事実。久美ちゃんは、自分よりずっとかわいい。
いや、自分が普通の人よりずっとかわいくないのだ。
綾香は手鏡を引き出しに放りこむと、痛くなるくらいにきつく目をつぶり、両手をせわしなく動かして、「お味方さまお味方さま」と心の中でつぶやいた。
「どうか私をかわいくしてください。そしてできれば、久美ちゃんを私のような顔にしてください」
翌朝、綾香は体がだるくて、熱があった。母親は、「念のために一日休んでみたら」と言って、学校に電話をかけたあと、勤めに出ていった。綾香はしばらく布団の中でうとうとした。目がさめたとき、部屋は薄暗くなっていた。起き上がろうとしたが、足がふらついた。妙に顔が熱い。転ばないようにそろりそろりと洗面所に行って、鏡の前で電灯をつけたとたん、綾香は悲鳴を上げた。顔中が真っ赤なぶつぶつに覆われた怪物がそこにいた。綾香は気を失って倒れ、後頭部に大きなこぶを作った。
医者は、ただの「みずぼうそう」だといった。だが綾香は、お味方さまの罰だと信じて疑わなかった。一週間ほどでどうにか顔は元に戻ったが、綾香は二度と顔のことをお味方さまに頼まなかった。
やがて耕作くんは、ほかの男の子と同じように、廊下で綾香とすれ違うと遠回りしてよけるようになった。その顔は、間違って一度でも親切にしてやったことをひどく悔やんでいるように見えた。
「綾香はしあわせよねー」と絹子は大声で言って、煙草の煙といっしょにため息を吐き出した。
「そんなことないよ。絹子のほうが幸せだと思うけど」綾香は控え目に反論した。
「ばか言ってんじゃないよ。あたしなんてお先真っ暗よ。親に三百万も借金あんのよ。このままじゃ結婚式だってまともにできないよ」
結婚なんて考えられるだけ幸せよ、と綾香は言いそうになって、口をつぐむ。
「綾香はいいわよねー。いっぱい貯めこんでんでしょう」
「そんなことないよ」
「隠すなって。ほんとにうらやましいよ。あとは見合いでもしてさっさと結婚しちまえば、一生安泰じゃん。あたしもどうして綾香みたいな性格に生まれなかったんだろう」
綾香は黙ってにこにこしていた。絹子は数少ない友だちの一人だった。時には殺したくなることがあるにしても、やっぱり大事な友だちだった。
綾香はにこにこしたまま伝票を取り上げると、「あたし、もう行かなくちゃ」
「なによ、デート?」絹子の目が細くなった。
綾香は黙って手を振った。「じゃ、またあした」
店を出ると、綾香は急ぎ足で駅に向かった。走りながら両手をせわしなく動かして、軽く目をつぶり、「お味方さまお味方さま、どうか遅れませんように、それから絹子が機嫌を悪くしませんように。光一さんと楽しくすごせますように。今夜もよく眠れますように」とつぶやいた。目をつぶっていたので人にぶつかりそうになり、「ごめんなさい」と小声で言って、思わずくすりと笑った。
結局、絹子の言う通り、私は幸せなのかもしれない。
待ちあわせには二分しか遅れずにすんだ。光一はいつものように優しくて、綾香は夢のような時をすごした。コンサートホールの薄明かりの中で、綾香は密かに手首をこすり、お味方さまにお礼を言った。
コンサートが終わってから、二人は海岸沿いの散歩道を歩いた。夜の潮風が綾香の心を不思議な感覚で満たした。それは、ずっと前からここでこうしている瞬間を何度も何度も懐かしく思い出していたような感じだった。
「そうだ」と光一はふいに言った。「綾香さんにおめでとうを言ってもらわなくちゃ」
「え?」綾香は夢見心地のまま相手の顔を見上げた。
「実は、来月から海外に留学することになったんだ。とりあえず二年間だけど、たぶんそのままずっとむこうで働くことになると思う」
綾香は黙ってにこにこしていた。光一の言葉はお役所からの通達のように現実感がなかった。彼が海外で働きたがっているなんて、綾香は一度として聞いた覚えがなかったのだ。
「ほんとにうれしいよ。子供のころから憧れてたんだ。あっちでは、この国と違って、何もかも自由なんだよ。誰でもその気になれば自分の夢を実現できるんだ」
「そうですか」と綾香は上の空で答えた。
「綾香さんには、いろいろお世話になったね。いっしょにコンサートにいったり、絵を見にいってくれたりしてありがとう。とても楽しかったよ」
「って、それだけですか」と綾香は反射的に言ってしまった。
「え?」
「ひとつ、聞いていいですか」
「なに?」
「どうして、海外に行こうと思ってるって、一度も教えてくれなかったんですか」
光一は少しうろたえた表情になった。
「あれ、言わなかったっけ?」
「決まるまでに手続きとか試験とか、いろいろあったはずですよね。私たち何度も会ってたのに、私そんなこと一言も聞いた覚えないですよ。どうして話してくれなかったんですか」
「そりゃ、あのね」
「ひどいじゃないですか。私、はじめから言ってくれれば、きっと光一さん励ましてあげたのに。いっしょになって心配したり、どきどきしたり、喜んだりしてあげたのに。私じゃそんな話できないって言うんですか。夢を語りあう価値のない相手なんですか。ひどい、あんまりです」
「綾香さん、泣かないでよ。困ったなあ。綾香さんとは、そんなつもりじゃなかったんだけど」
綾香は涙に濡れた顔を上げて、
「じゃ、どんなつもりだったんです。はじめから似合わないのわかってて、気晴らしのつもりで誘ったんですか。どうせ遊びだから、うるさいこと言わずに別れてくれってことですか」
「そんな、別れるとか別れないとか……」
「最初からそんな関係じゃないって? わかってますよ、そんなこと! 私が泣いて連れてってくれと頼むとでも思ったんですか」
「頼んでるじゃないか、ほとんど」
「頼んでません! あなたが悪いんじゃないですか。私をさんざんおもちゃにして……」
「いつ僕が綾香さんをおもちゃにしました」
「だって、わたし……」
「綾香さん、落ち着いて」光一はため息をついた。「何だか、僕の態度がよくなくて、誤解させてしまったみたいで、もうしわけない。でも、僕はいま、恋愛とか、結婚とか、そういうことはあんまり興味がないんです」
「それは、相手が私だからでしょう」
「そんなことはないよ」
「それじゃ、もし私が美人で、魅力的で、誰に紹介しても恥ずかしくない相手だったら、それでも光一さん、私を置いて外国に行きますか」
「それだって、おんなじだよ」光一は断言した。
綾香は蒼白な顔で、
「ありがとう、光一さん。私がほんとはどう見られてるのか教えてくれて」
「え?」光一はきょとんとした。
「私はブスで魅力がなくて、恥ずかしくてだれにも紹介できないということね。そんなことわかってます。子供のころから、ずっとずっとわかってました。でも、誰も面と向かってそうは言わない。黙って同情の目で見るだけ。はっきり教えてくれたのは光一さんがはじめてです」
「そんな」光一はひどくうろたえて、「僕はそんなつもりじゃ……」
「うっそ」
綾香は突然舌を出した。
「ごめんなさい。光一さんがあんまりうれしそうだから、ちょっとからかってみたくなっただけ。今のはぜんぶ冗談。よかったですね、夢がかなって。私もすごくうれしいです。がんばってくださいね。応援してますから」
綾香は右手を出した。光一はほっとした様子で、左手で額の汗をぬぐいながら、右手で綾香の手を握った。握手が済むと、綾香はほほえみながら無言でバイバイをして、振り向くと小走りに駆け出した。
光一の姿が見えないところまで来ると、綾香は海沿いの手すりにもたれて、声をひそめて泣き出した。泣きながら両手をこすりあわせて、「お味方さまお味方さま」と心の中で呼びかけた。「しばらくでも幸せをくださって、ありがとうございました。光一さんを恨まずにすむようにしてください。そして、せめて今夜だけは静かに眠らせてください。ほかに何にも欲しくありません。何もかも忘れて、ぐっすり眠れるようにしてください……」
「おやすい御用だよ」と耳のそばで太い声がした。
綾香はびくりとして振り向いた。無精髭をはやしてにやにやと笑う中年男の顔が目の前にあった。額はてっぺん近くまで禿げ上がり、大きな口の中の黒ずんだ歯のあいだから、腐ったような臭気が漂ってくる。綾香はあとずさりした。
「来いよ」男は黒いコートに包まれた右腕を伸ばしてきた。「眠りたいんだろ。ぐっすり眠れるように、思う存分かわいがってやるから」
「やめてください」綾香は叫んで、逃げ出そうとした。
「冷てえなあ。おめえの願いはちゃんとかなえてやったじゃないか。光一と楽しいひとときをすごせたし、絹子だってべつに怒っちゃいねえぜ」
綾香は立ち止まって、呆然とした表情で男のほうを振り返った。
「何ぽけっとしてるんだよ」男は歯をむき出して笑った。「いつものように礼を言わねえのかよ。見捨てちゃうぜ。俺なしじゃ一日だっていられねえくせに」
「あなた、いったい、誰」
「だから、俺がおめえのお味方さまだよ」
「うそ」
「うそじゃねえよ。もう十五年間も、おめえのために一生懸命働いてきてやったじゃねえか。はじめての時はびっくりしたぜ。麻雀やってたら、いきなり頭の中に見ず知らずの女の子が現れて、お願いですからいじめっ子を追っ払ってくださいなんて言いやがる。でもあのころのおめえは陰気な子だったな。誰でもいじめたくなるよ、あれじゃ。それから何とかいう男の子の気を引いてくれってお願いされたこともあったっけ。あの時はちょっとうまくいかなかったけどな。そのご面相じゃ贅沢は言えねえよな。でもだいたいいつもおめえの望むようにしてやったろ。お味方さまのおかげで人生こんなに明るくなりましたって泣いて感謝してたじゃないか」
「うそ!」綾香は蒼白になって、がたがた震えだした。
「なんて顔するんだよ。恩人にお目にかかって、うれしくねえのかよ」
「うそ! うそ!」
「強情な奴だね」男はため息をついた。「まだ納得しないのか。俺がお味方さまだという証拠に、俺はおめえのこと何でも知ってるぜ。おめえが例の両手をすりすりやって、目をつぶってお味方さまを呼ぶたびに、おめえの心の中は筒抜けで俺に見えちまうんだから。こっちが仕事中だろうが女とやってる最中だろうが、おかまいなしにおめえの心が入りこんでくるんだから、迷惑な話よ。そのおかげで、おめえの秘密は全部俺にはお見通しだ。たとえば……」
それから男は、綾香が心のいちばん奥にしまっていた、だれにも知られたくない秘密の数々を、容赦なく暴き出していった。綾香は、「やめて、もうやめて」と叫んだ。
「わかっただろう。俺が確かにおめえのお味方さまだということが」
「わかった」綾香は虚脱したようにつぶやいた。
「それじゃ、このへんで十五年間の感謝の気持ちを、形にして見せてほしいもんだな。朝までベッドの中で、思い出話でもしようじゃないか」
「いや!」綾香は身震いした。「あっちへ行って!」
「いやだと?」男の顔がゆがんだ。「そんなことが言えるタマか、おめえは。誰がおめえみたいなのを相手にしてくれると思ってるんだよ。鏡を見て物を言え、ブス!」
「死んでやる」綾香は震えながらつぶやいた。「みんな私のこと、好きなようにコケにして。もう思い通りにさせてやるもんか。死ぬんだ」
「死ねるもんか」男はあざ笑った。「おめえみたいな意地汚い奴が、この世の未練を断ち切れるはずがないよ。あしたの朝になったらまた、お味方さまお味方さま、今日も一日楽しく過ごさせてください、いい男にめぐりあわせてくださいってけろっとした顔で言うに決まってるんだ。おめえはそういう奴だよ」
「死んでやる。絶対死んでやる」綾香は叫ぶと、男を突き飛ばして駆け出した。男はちょっとよろめいたが、すぐに高らかに笑いだした。その笑い声はどこまでも綾香のあとをついてきた。
泣き疲れてベッドの上に起き直り、綾香はじっと闇の中を見つめた。ミッキーマウスの夜光時計が、かすかな音で規則正しく時を刻み続けている。六畳一間のアパートの部屋はひどく寒かった。
「本当に死ぬの?」と綾香はつぶやいた。どこかに、まだ逃げ道がありそうな気がした。ひとつひとつ、綾香はその望みをつぶしていった。光一はいまごろ、何とか円満に自分との縁を切れてほっとしているだろう。綾香ははじめから気づいていた。まじめすぎる光一は、ほかの女に相手にされず、さびしさを紛らすためにたまたま手近にいた綾香を相手にしただけだったのだ。留学も決まり、前途が開けてきたいまでは、何の取り柄もない綾香のような女は邪魔になるだけだっただろう。でも、まじめな光一は、自分のそんな身勝手さを認められず、ずいぶん悩んだはずだ。そのあげくに、綾香とはべつに何でもなかった、互いに尊重しあえるいい友だちだったと思いこもうとした光一の気持ちが、綾香には手にとるようにわかった。
絹子は? 絹子は、綾香が苦しんでいると知ったら、大喜びであざ笑い、すかっとした表情でバイバイを言うだろう。あの子は、綾香が自分よりも幸せになるんじゃないかと、それだけが心配で付きあっているのだ。なんとか綾香に不幸になってほしい気持ちが、言葉の端々に見え隠れする。それでも、絹子のような美人で華やかな友だちを持って、綾香は楽しかった。あの子は最後には幸福をつかむだろう。自分とは違うのだ。
それから? 両親は陰気でかわいくない綾香を心の底では嫌っていた。兄が結婚して、美人で気立てのいいお嫁さんが家にやってきたときの父と母の手放しの喜びようで、綾香はそれを思い知らされた。もう両親と兄一家の住む家に綾香のための場所はない。
それから? それから? 綾香には何も残っていなかった。誰も彼女を愛せず、誰も彼女を気にかけなかった。どうして今まで生きてこられたのだろうと綾香は不思議に思った。自分のようなものは、とっくにこの世から消えていなければならなかったのだ。
思わず目をつぶり、両手をこすりあわせそうになって、綾香はぞっと身震いした。最後の、最悪の裏切り。子供のころから、ずっと変わらず自分を支えてくれた、まわりからどんなにひどい扱いをされても、最後にただ一人残る味方だった、そのお味方さまが、あんな奴だったなんて! あんな奴に自分のすべてを打ち明けて頼りきっていたなんて! それを思うと、綾香は屈辱感で体が震えた。できることなら、十五年前にさかのぼって、それからのすべての出来事をひとまとめにくしゃくしゃにして火をつけてやりたかった。
綾香はもう一度まわりを見回した。逃げ道はなかった。それがわかったら、決断しなければならなかった。綾香は暗闇の中で目を見開いたまま、じっと考え続けた。
真っ暗なアパートの部屋の窓を見上げて、男はじっとたたずんでいた。「明かりを消したんだから、ともかく今夜は何もしねえだろう」と男はつぶやいた。それでも、彼は耳を澄ませて、部屋の中の気配をうかがっていた。
一時間ほどすると、男は表情をゆるめて、「どうやら、泣き寝入りしたみたいだな」とつぶやいた。彼はコートのポケットから取り出した新聞紙を地面に敷き、その上に坐りこんだ。
やがて、彼は頭を垂れ、目をつぶって、右手で左手をこすりはじめた。
「お味方さま、もし俺にお味方さまがいるなら、俺の一度だけの願いを聞いてください。あの子を助けてやってください。俺は十五年間あの子にいろんなことをお願いされて、実はひとつもかなえてやったことはないんです。俺はただの人間で、不思議な力なんて何もないんです。それでも、あの子が俺に対してだけは明るくなっていくのを見て、なんだか自分が役に立ってるみたいな気になってたんだ。周りのやつらはみんな俺のことを穀潰しだと言いやがる。どこへ行っても厄介者扱いだ。あの子だけが俺を頼りにしてくれたんだ。
俺は、絶対あの子の前に出ていかないつもりだった。あの子と話がしたくてたまらないときもあったけど、じっと我慢してた。出ていけば全部終わりになるとわかってたからだ。でも、あの光一という最低の野郎に裏切られて、あの子が傷ついてるのを見て、どうしても我慢できなくなった。なぐさめてやりたかった。なぐさめるつもりだったんだ。あんなことを言っちまうなんて。俺はろくでなしだ。あの子をもっと傷つけちまった。おまけに、俺はもうお味方さまになれないんだ。あの子の最後の支えまで奪っちまった。なんてことをしたんだ、まったく。
俺はいい。あきらめればいいんだ。十五年前の、あの子を知る前の俺に戻るだけだ。でも、あの子はどうすればいいんだ。これからどうやって生きていくんだ。俺はもう何もしてやれない。いや、今までだって何もしてやれなかったのか。それじゃ、俺がやったことは何だったんだ。ただ、あの子をどん底に突き落としただけじゃないか。いったい、なんでこんなことになったんだ。どうして、あの子と俺をそっとしておいてくれなかったんだ。出会ったことに何の意味があったんだ。教えてくれ。納得の行くように説明してくれよ」
男の姿はその場にじっとしたまま、いつまでも動かなかった。真っ暗なアパートの部屋は静まり返っていた。夜は更けていった。
目次へ
Copyright (C) 1998 Shuho