鬼のいる街

 

 私は大学生でしたが、面接というものが苦手で、その場になると足が震えて一言もものが言えなくなるというくせがあり、就職試験にすべて失敗して、都会暮らしがいやになり、田舎を放浪していました。

 あるとき、大きな農家に逗留して、農作業を手伝いなどしているうち、二十二歳になるそこの娘さんが大好きになってしまいました。丸顔に目がくりっとして、大きな声で笑う、上等のシーツのようにさらさらした肌の持ち主でした。娘の両親も私を気に入ってくれているような気がしました。

 そこで、結婚を申しこもうと思い、川べりの道で二人きりになったとき、こっそりと打ち明けました。すると、彼女はふいによそよそしい目つきになり、黙って後ずさりすると、くるりと振り返って足早に去ってゆきました。私は川風に吹かれながらぼんやりと立っていました。いまさらながら、自分の低い鼻や、半白髪の髪や、しまりのない口元が思い浮かびました。外国の映画スターや歌手の写真がいっぱい飾られた部屋に暮らす彼女の目に、自分の姿がどのように映っていたのか、身にしみてわかりました。自分は一生、王子様にはなれない。わたしはその家を出ました。

 都会に戻っても働く気にならず、しばらくぼろアパートに逼塞していました。食べ物がなくなると、水道の蛇口から直接水を飲んで腹をふくらましました。

 そのうち、だんだん体が動かなくなってきたので、このままでは死ぬと思い、畳から体を引っぺがすように起き上がって、昔の同級生を訪ねました。そこで話をして服と金を借り、拾った新聞に載っていた求人広告の中から適当に一つを選び出しました。それは繁華街のビルの五階にある小さな教材販売会社でした。

 事務所の片隅で待たされているあいだに、奥の部屋から大きな怒鳴り声が聞こえました。私は早くも足ががくがくして、来なければよかったと心から思いました。若い女の人が奥の部屋から出てきて、席に着くとうつむいてしきりに目のあたりを指でいじっていました。

 そのうちに、奥の部屋の扉が開いて、一人の男が現れました。絵本に出てくる悪魔のような三角のあごひげをはやして、つやつや光る真っ黒な髪をした長い顔の男でした。その場にいた人たちは、いっせいに目をふせて机の上を見ているふりをしました。男はみなのようすを見渡すと、大声で何かしゃべりだしました。

 私はたいへんな衝撃を受けました。男が言ったことにではありません。男の言うことが全然わからなかったことにです。それは確かに聞きなれた言葉なのに、外国語のように一言も理解できなかったのです。

 男は長々としゃべり続けていました。まわりの人たちはじっとうつむいたままです。しばらくして、その中にいた中年の男性が呼ばれたらしく、顔を上げて小さな声で「それはわかっておりますが……」と言いかけました。すると、男が押しかぶせるようにしゃべり出したので、その人はまたうつむいてしまいました。

 私は驚きでくらくらしていました。この人たちには男の言うことが理解できるらしい。これはどうしたことだろう。

 そのとき、男が私に目をとめました。しばらく疑わしげに私のほうをながめたあと、そばにいた女の人に相変わらずわけのわからない言葉で話しかけました。女の人が「そうです。さっきからお待ちです」と答えると、男は私に向かって何か言いました。私は口をあけたままぼおっとしています。男はいらだったような身振りをして、奥の部屋に入ってゆきました。女の人が私のほうを見て「どうぞ、社長室へ」とうながしました。

 奥の部屋に入ると、さっきの男が机のむこうに腰かけていました。私がソファにかけるかかけないかのうちに、男はやつぎばやに何かを言いかけました。私がぽかんとしていると、男は目をつり上げて声を高くしました。そのとき、突然、私にはわかったんです。なにがって、男が人間じゃないことがです。こいつは人間の姿をして、まわりの人たちを魔術でたぶらかしているけれど、初めて会った私にだけは魔術がきかなかったんですね。だから言うことがわからなかったんです。人間の言葉じゃないんだから、あたりまえですね。

 とたんに足の震えが止まりました。相手が人間だから恐いので、人間じゃなければどうということはない。しかし、私が気づいたことをやつに知られてはいけません。私はほほえみながら立ち上がって、男に握手の手を差し出しました。男は汚いものでも見るようにじっとながめているだけでした。そこで私はあっはっはと笑いながら、そこを出てきてしまいました。我ながら上出来だったと思います。

 それから夕方まで、街中をあてもなく歩きながら、あいつをとっちめる方法を考えました。あいつが大あわてでばけものの世界に逃げかえって、二度と戻ってこられなくなるくらい、そしてまた、話を聞いた同類のばけものたちが、金輪際こっちの世界に来ようという気をなくすくらい、うんとあくどく残酷にこらしめてやろうと思いました。そう決めると、心がうきうきしてきたので、レストランに入って千八百円のステーキ定食を食べました。

 夕方になると、私はさっきのビルの前へ行って、目立たないようにして待っていました。男が出てきたのは、もう暗くなってからでした。私は男のあとをつけて電車に乗り、郊外の駅でおりました。そのあと気づかれないように自宅までついていきました。男の家は庭つきの二階建てでした。奥さんに迎えられて男が中に入ると、私は庭に忍びこみました。幸い犬はいませんでした。窓ごしにようすをうかがうと、男は奥さんと二人で夕食を取っています。まだ少女のようにあどけなく、夢のようにきれいな奥さんでした。もちろん魔法でだまして手に入れたに違いないのです。私の口は憎しみのために自然にゆがんでいました。

 それから、男を監視する毎日がはじまりました。男の家の前は小高い丘になっていて、その斜面にはびっしりと木が生えています。私はその中に少し窪みになったちょうどよい場所を見つけました。そこにいれば道を通る人に気づかれることもなく、木々の枝ごしに男の家の玄関を見はることができるのです。午前中などは暖かい日差しが射し込んで、とても気持ちのよいところでした。私は毎朝暗いうちに起きてコンビニでおにぎりとお茶を買いこみ、人目を避けて林の中に入りこみました。背の高い木々に囲まれて、頭の上にぽっかりと丸く見える藍色の空をながめていると、自分だけの城にいるような気がしました。そこから、男が会社に行ったあとも、私はずっと男の家を見はっていました。ときどき奥さんが買い物に出たり、近所の人がたずねてきたりしましたが、そのほかに変わったことはありませんでした。

 正直言って、どうするというあてもなかったのです。こうして見はっていれば、そのうち何かいい機会があるだろうと思っていました。とにかく、誰も気づいていないばけものを、自分一人で退治しようというのですから、毎日楽しくてしかたがありませんでした。なんですか。そんなことを本気で信じていたのかって。……そう言われてもねえ。とにかく、私は一生懸命だったんです。

 ある日の昼すぎになって、突然奥さんが、念入りに化粧して、りっぱな服を着て、大きなかばんをさげて、玄関から出て行きました。どう見ても、近所に買い物にいくという姿ではありません。私はしばらくぽかんとしていましたが、そのうちにこれは願ってもない事態かもしれないと気づきました。あの格好では、奥さんはしばらく戻らないに違いない。ひょっとすると泊まりがけの旅行かもしれない。だとすると、今日こそ男をやっつける絶好の機会じゃないか。

 私は用心深く林の中からはい出して、家の庭にもぐりこみました。あちこちの窓を試してみましたが、もちろん鍵がかかっています。そのとき、ふと、二階の北側に面した小さな窓が目に入りました。その部屋は物置か何かになっているらしく、ガラスのむこうにはダンボールらしきものが積み上げてあるのが見えます。ああいうところの戸締まりは、忘れがちなものじゃないだろうか。私は苦労して屋根によじ登ると、窓に手をかけてみました。

 開いたんです。気づいたとき、私はダンボールの山を突きくずしながら部屋に転がりこんでいました。

 私は立ち上がると、胸をどきどきさせながら、足音を忍ばせて階段を下りました。よその家に入ったときに感じる、その家特有のなじみのない匂い。それがとても刺激的に感じられました。

 台所には、シチューのなべが用意され、一人分の食器に布巾がかけられていました。これで、女は少なくとも今夜は帰らない予定だとわかりました。

 さあ、これで私は、男に対して圧倒的な優位に立ったわけです。夜になって家に帰ってきた男は、扉を開けたとたん、魂が消し飛ぶような思いをすることでしょう。なぜならそこには……そこには……そこから先は考えていませんでした。日が暮れるまではまだ十分時間があるから、ゆっくりと計画を立てればいい。私はとりあえず家の中を見て回ることにしました。

 寝室に入ったとたん、化粧品のいい匂いがしました。目の前に大きな洋服だんすが置いてあります。私は引きつけられるように歩み寄って、ひきだしを開けました。

 目玉が飛び出すかと思いました。そこには女の下着がいっぱいに詰めこんであったのです。私はしばらく固まっていましたが、突然頭が爆発したようになって、火でもついたように着ているものを全部脱ぎ捨てました。下着を一枚手にとって、下半身をその中にねじ込みました。柔らかな布にふれた肌が焼かれたようにちりちりして、うめき声を上げながら床に体をこすりつけました。

 私はかたっぱしからひきだしを開けて、そこにあったものをかわるがわる身につけました。冷たい布が肌をこするたびに、全身が快感で総毛立ち、声を上げてすすり泣きました。もう死んでもいいと思ったのを覚えています。気がついたら暗くなっていて、私は散乱する下着類の中に半裸でぐったりと横たわっているのでした。

 そのとき、玄関のほうで音がしました。はっとして窓からのぞいてみると、あの男が鍵を取り出して、扉を開けようとしています。私は自分の姿を見おろして、半泣きになりました。なにもかも終わりだと思いました。

 そのとき、ふいに男は振り向きました。後ろの暗がりから誰かが声をかけたようでした。そいつはゆっくりと男のそばによってきました。真っ白な長いひげをはやし、杖をついて腰をかがめた老人でした。

 老人は小声でなにか男に話しかけました。男は相手を知らないらしく、いぶかしげな顔をしています。やがて、老人はよたよたと歩き出し、ふりかえって招くような動作をしました。男がためらっていると、老人はさらに大きく手招きしました。

 とうとう男は老人について歩き出しました。二人の姿はすぐに闇の中に消えました。

 男はそのまま帰りませんでした。翌朝夜が明けるまで、私は居間のソファの上でぼんやりしていました。なんだかひどく体がだるくて、どうなってもいいような気分でした。

 翌日もずっと、男の帰りを待っていました。もう一度女の下着をひっぱり出して着てみましたが、昨日ほど気持ちよくなりませんでした。三時ごろテレビをつけると、興奮した表情のアナウンサーが大声でしゃべっていました。あの男の長い顔が画面いっぱいに映りました。デパートの屋上にあるおもちゃの木馬に、ランニングシャツ一枚の姿でまたがっていたそうです。いつまでも動かないので、不審に思った警備員が近づいて、肩に手を置いたら、首がポロリと落ちた。

 その老人の顔ですか。はっきり覚えていますよ。でも教えてあげません。なぜって、私がやるべきだったことを、私よりずっとみごとにやってくれたからです。私はこんなに間抜けで、家の中に指紋やら体液やらべたべた残して簡単につかまってしまいましたが、あの老人は違います。男を連れ出したあざやかな手際。あれは、あなたがた警察なんかより何倍もりこうな、悪の天才に違いありません。そう簡単につかまえさせてあげませんよ。だいたい、あなたがた、私の話なんて信じてないでしょう。本当は私がやったんだと、そう思ってるでしょう。私は別にかまいませんけどね。どうせ惜しいような命でもないし。

 でも、老人は本当にいるんですよ。いまも次の獲物を探してうろつき回っているに違いないんです。あなたがたも用心しなさい。あまり弱いものばかりいじめていると、今度はきっと、あの老人があなたの首を取りにきますからね。

 

 

 

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