旅支度
初めてのバイト代が出た。喜久夫はコートのポケットを押さえながら手近のコーヒーショップに入り、テーブルに頬杖をついて何を買おうかと思案した。家賃を払って友達に借金を返してもまだ残る。ずっと前から、金が入ったらあれをしようこれをしようと考えていた気がするのに、いざとなると何も思い浮かばない。まあいい、何にしろ金はもうポケットにあるのだからと思うと、ひとりでに笑みがこぼれた。
ゆっくりとコーヒーを飲み終えて、おもむろに店を出た。風は冷たいが日差しは暖かい。街は人だらけで、にぎやかな音楽が流れている。喜久夫はよしと呟いて、出陣でもするように一歩を踏み出した。
目の前を三人の若い女が話しながら通った。どれも華やかで美しかった。喜久夫は立ち止まってじっとその横顔を眺めた。通り過ぎてからは後ろ姿を眺めた。それが点のように小さくなって消えても、まだしばらく見送っていた。
ややあって、喜久夫は何となしに武者震いのようなものをすると、近くにあったデパートの入口に飛び込んだ。
エスカレーターで一階ずつ昇りながら、なめるように見ていった。何を見ても胸がときめいた。暖かそうなカシミアのコートをちょっと手でつまんでみた。化け物のように大きなテレビを横目で眺めて通った。贈る相手もないのにダイヤの指輪を食い入るように見つめ、「ご婚約ですか」と店員に声をかけられて赤面して逃げ出した。
何も買わずに、それでも豊かな気持ちで屋上まで来て、そこにあったクレーンゲームに初めて百円玉を入れた。クレーンはキューンと音を立てて発進し、何も取らずに戻ってきた。
「まあ、ここはまだ手始めだから」と呟いて、喜久夫は再び通りに出た。
それからデパートを三軒回った。最後には少し頭がくらくらした。それでも買うものは決まらなかった。こんなはずではないのにと喜久夫は思い始めた。気が付けばもう日が暮れかけている。このままでは何も戦果を持たずに寒々としたアパートの部屋に戻らなければならない。喜久夫は少し焦った。
あちこちよそ見をしながら歩いていたせいで、雑貨店のショーウインドーを覗いていた小柄な男にぶつかりそうになった。「失礼」と呟くと、男はにっこりして、「いや、こちらこそ」と答え、それから途切れた話の続きでもするように「ちょっと、相談にのってもらえませんかね」と言った。
「え?」戸惑う喜久夫の手を引いて、男はいそいそと店の中に入った。
「知り合いの女の人に贈り物をしたいんですが……最近の若い女性って、どんなものをほしがるんでしょうね」
そんなことならもっと適当な相談相手がいるだろうにと思いながら、喜久夫は「そうですねえ……」と曖昧に答えた。
「彼女、大学生なんですよ。見かけは高校生みたいだけど、結構難しい言葉を使ったりするんです……こんなの、子供っぽすぎるかなあ」ベージュ色の上着を着た男は、棚いっぱいに並んでいる極彩色のぬいぐるみを見回して呟いた。
「どんなもんでしょうね」喜久夫は相変わらず要領を得ない答えをした。
「女の人に贈り物するなんて初めてだからなあ。下手なもの贈ったら、嫌われちゃうかもしれないですよね」
「どうですかね」
「こんなの、どうかなあ」男はゴム製の大きなトカゲのしっぽをつまんでぶらぶらさせた。
喜久夫は上の空で見ていた。男の様子が、喜久夫の記憶を呼び起こした。もうずいぶん前、こんなふうに自分も贈り物を探し歩いたことがある。さんざん迷って選んだその贈り物は、しかし結局渡されずに終わってしまった……
「ええい、やめたやめた」不意に男が大声を出したので、喜久夫は驚いて我に返った。店中の人たちがこちらを見ていた。
「やっぱり、よします。贈り物なんて私の柄じゃない」男は喜久夫を見てにっこりした。「どうも、ありがとう。とても参考になりました」
去っていく男の後ろ姿をぼんやりと見送った喜久夫は、やがてのろのろと夜の街へ歩み出た。
初めて会ったとき幸絵は十九歳、喜久夫はまだ高校生だった。二人はよく公園のベンチに並んで腰掛け、途切れ途切れに何時間も取り留めのない話をした。世の中や他人に対する幸絵の見方はひどく大人びていて、喜久夫はいつも気圧されるような気がしたが、そのくせ幸絵はしょっちゅう左右不揃いの靴下をはいたり、金勘定を間違えたりしていた。自分が知らないことを言われると何でも信じてしまうので、始終人に騙されていた。あるとき「クレジットカードがあったら、お金がなくても生きていけるわよね」と言われたときは、さすがに少し相手の将来を危惧した。大人になったら、いつも幸絵のそばにいて守ってやりたいと喜久夫は考えていた。しかし、幸絵の前では喜久夫はいつも聞き役で、自分の気持ちなど言い出す折りがなかった。せっかく苦心して贈り物に選んだイギリスのピアニストのCDも、幸絵が風呂上がりにバスタオル一枚で本を読んでいて風邪を引いたために渡しそこね、結局そのままになってしまった。
喜久夫が大学に入った年に、幸絵は二十二歳年上の男と結婚した。喜久夫は式の後までそのことを知らなかった。幸絵から送られてきた写真には、いつもと同じまじめくさった表情の幸絵と、にやにや顔の夫とが並んでいた。これは絶対に細君を食い物にする顔だと喜久夫は確信した。
誰も知らない傷は誰にも知られずに癒え、喜久夫はいつかそのことを忘れていた。あのおかしな男のせいでそれを思い出したとたん、急に大きな穴が心にあいたように感じられた。幸絵に何か買ってやれるなら、バイト代だって有効に使えるのに。幸絵は大まじめな顔で礼を言い、一生それを大切にするだろう。喜久夫は無くしたものの大きさを思った。
アパートの暗い軒下に入り、郵便受けを覗くと、葉書が一枚入っていた。喜久夫はそれを取り上げて部屋に入り、とりあえずストーブに火を入れてから、明かりをつけて葉書を見た。
初めは誰だかわからなかった。名字が変わっているせいだと気づいたのは数秒たってからだ。幸絵からだった。結婚の知らせからあと一度も連絡がなかったのに、相手のことを思い出したちょうどその日に葉書が来るなんて、なんだかひどく非現実的に感じられた。
葉書にはこれといった内容がなかった。何度か読み返してみたが、いっこうに要領を得なかった。ただ最後に「近いうちに私は遠くへ行ってしまうかもしれません」とあるのが、妙に不吉だった。
幸絵が助けを呼んでいるような気がした。あんな助平顔の中年男に幸絵を幸せにできるはずがない。大人になったら幸絵を守ってやると自分は心に誓った。幸絵が不幸なら、行って救ってやらなければならない。
蒲団にくるまって喜久夫は独り熱くなった。その夜は明け方まで眠れなかった。
喜久夫が何となく思い描いていたのと全く同じ姿で、がらんとした公園のベンチに幸絵は坐っていた。喜久夫が前に立つと、顔を上げて「来てくれたの」とさほど嬉しそうでもなく言った。
喜久夫は幸絵の隣に腰を下ろした。予定では「君を救いに来たんだ」と颯爽と宣言するはずだったが、実際にはただ「どう?」と言っただけだった。
「元気よ」
「ほんと?」
「ほんとよ」
「じゃ、どうして葉書なんてくれたの」喜久夫は思い切って尋ねた。
少し寂しそうに幸絵はほほえんだ。
「もう、会えなくなるかもしれないから」
「なんで」喜久夫は急きこんで尋ねた。
幸絵はしばらく喜久夫の肩ごしに遠くを見ていたが、不意にこんなことを言いだした。
「この間、テレビを見てたらね」
「うん」
「年の離れた夫婦が出てきてね、私たちみたいに」
「うん」
「それがあるとき、頭が禿げてでっぷり太った、棒縞の背広を来た男がベンツに乗ってやってきて、奥さんをむりやり連れてっちゃうの」
「へえ」喜久夫は探るように相槌を打った。
「実はね、旦那さんがお金に困って、奥さんを興行師に売っちゃったの」
「……で、奥さんはどうなるの」
「シベリアに連れていかれて、虎といっしょに見せ物にされるの。でも、そこで人気が出て、やがて世界一のダンサーになるの」
「ははあ」喜久夫は呆気にとられた。
「それがね、そっくりなのよ」
「なにが」
「それに出てくる旦那さんが、私の夫に」
「ということは、額が薄くなりかけて、鼻の下がぷっくり膨れた助平顔……」
「いや、顔じゃなくてね」幸絵は真顔でかぶりを振った。「その、様子が。変に優しくなったかと思うと、不意に他人を見るような目で見たり。タオルがどこにしまってあるかとか、灯油はどこから買ってるかとか、今まで構い付けなかった家の中の細かいことを急に気にしだしたり」
喜久夫は黙っていた。こういう驚きは初めてではなかった。幸絵のことだから、自分が本当に売られると信じていても不思議はない。
「で、幸絵の旦那も金に困ってるわけ?」
「そうみたいなの」
「さっさと愛想尽かしちまえよ、そんな旦那」喜久夫は激しい口調になった。
「違うのよ」幸絵の表情が不意に大人びた。昔の気圧されるような気持ちが戻ってきた。「あの人は優しいし、立派な人よ。でも、立派だからこそ、お金には恵まれないの」
「立派な人が奥さん売ったりするのか」
「だって、あの人にとって今切実に必要なのが私よりお金だとしたら、私をお金に換えようとするのは自然なことでしょう」
喜久夫は言葉に詰まった。幸絵と話しているといつもこんなふうに、どこかおかしいと思いながら、そのおかしさを的確に難ずるすべがなくて、やりこめられた形になってしまう。
「で、幸絵は、もし売られるとしたら、おとなしく売られるつもりなの」
「それが私の務めならね」
喜久夫は心の中で溜め息をついた。 たぶん、何かちょっとした行き違いがあっただけなのだ。幸絵の気持ちは夫から離れていない。助けを求めてるなんて、完全に自分の思い込みに過ぎなかった。
しかし、幸絵が今の暮らしに満足しているとも思えない。満足していないからこそ、売られるなんて妄想を抱くのだ。それでも、自分で選んだ夫を幸絵が捨てる気遣いは決してないだろう。俺は幸絵を救うために何もできないのだと、喜久夫はうつろな気持ちで考えた。
二人はしばらく黙っていた。幸絵は暑さ寒さを決して口にしない質だったから、喜久夫も昔と同じようにやせ我慢して震えを抑えながら坐っていた。
適当なところで切り上げて帰ろうかなあと喜久夫が考え始めたとき、幸絵がぽつりと言った。
「シベリアって、寒いんだろうなあ」
それを聞いて、喜久夫は怒りに似た衝動を感じた。昔の幸絵はこんな弱音を決して吐かなかった。どんなに世間知らずでも、感覚がずれていても、幸絵のそんなところは尊敬していたのに。大切なものを、知らない間に傷つけられていたような気がした。
「来なよ」喜久夫は勢いを付けて立ち上がった。
「どこへ?」
「シベリアへ行くんだろ。支度をしなきゃ」
幸絵の手をひっぱって駅前のデパートへ行き、まず婦人服売場で分厚い毛皮のコートを出してもらった。
「どうするの、これ」ふかふかの毛に顎まで埋まった幸絵は心細げに尋ねた。
「買ってやるよ」
「こんな高いもの!」
「心配するなって」喜久夫はポケットを叩いて鷹揚に言った。「シベリアは寒いんだぞ。これくらいの備えは常識だよ」
それから帽子売場で、耳まで覆う毛皮の帽子を買った。次に毛糸の厚い手袋と真っ赤な毛織りのマフラーを買った。幸絵は顔以外どこも見えなくなった。
「今度は靴だ」
「お願い、もう勘弁して」幸絵はか細い声で懇願した。
「いやいや。シベリアはそんな生易しいところじゃないぞ」喜久夫は脅すように言った。結婚の知らせを見たときの自分の気持ちを思えば、そう簡単に許してなるかという気がした。
イタリア製の革のブーツは幸絵の細い足によく似合った。少し離れたところに幸絵を立たせてみて、「これなら世界一のダンサーにだってなれるぞ」と喜久夫は満足げに言った。
次に喜久夫は幸絵を宝飾品売場に連れていった。
「だめよ、そんなの」幸絵はショーケースの前で言った。
「いや、いざというときには、金より宝石が役に立つんだ。シベリアあたりじゃ何があるかわからないからな」喜久夫はもっともらしく説明した。
さすがに喜久夫のバイト代では太刀打ちできなかった。なるべく見かけが大きくて値が張らないものを選び、店員を脇にひっぱっていって月賦の相談をした。
相談がまとまると、喜久夫は汗を拭きながら戻ってきて、大きな青い石のついた指輪を幸絵の指にはめた。そのとき喜久夫は涙が出そうになった。
「俺からの最初で最後のプレゼントだよ」としかつめ顔を作って言った。
「ありがとう。一生大事にするわ」幸絵もまじめな顔で答えた。
デパートを出ると、近くで見つかったいちばん立派そうなレストランに入り、メニューにあるものを片っ端から注文した。テーブル一杯に並んだ皿を指さして、「シベリアに行ったら、こんな御馳走もう食べられないぞ」と喜久夫は言った。
「こんなにいろいろしてもらったの、生まれて初めて」と幸絵は慎ましい喜びの表情を浮かべた。「なんだか、お姫様になったみたい」
喜久夫は心から、来てよかったと思った。
それから二人は黙々と食事に取り組んだ。半分も行かないうちに頼みすぎたと思ったが、二人とも貧乏性なので残すことができなかった。こみ上げてくるおくびを抑え、ときどき幸絵と目を見合わせてほほえみながら、二時間近くかけてようやく全部の料理を食べ終えた。
店を出たときは夜が更けていた。刺すような星空の下を並んで歩きながら、これから幸絵がどんな運命に遭うにせよ、消えない思い出を幸絵の心に残せたのだと喜久夫は考えていた。
家の前で幸絵は喜久夫の方を向いて言った。「今日は本当にありがとう」そして付け加えた。「喜久夫君、なんだか少し変わったわね。たくましくなったみたい」
「俺だって、年を取るさ」喜久夫は照れ隠しに言って、後ろを向いた。その勢いで、話すことが尽きて気まずくなる前に一気に立ち去ってしまおうと、喜久夫はすたすた歩きだした。
しかし、幸絵の姿が見えなくなる前にもう一度喜久夫は振り返らずにいられなかった。幸絵はちょうど家のドアを開けようとするところだった。そのときドアが内側から開いて、トレーナー姿の中年男が顔を出した。
「どこ行ってたんだ、こんな遅くまで!」幸絵の夫は大声を出した。
「ごめんなさい」幸絵が小さな声で謝ると、夫は押しかぶせるように、
「心配したんだぞ。何度も公園まで見に行って、近所を探し回って、知り合いにみんな電話をかけて……あと三十分して戻らなかったら、警察に知らせようと思ってた」
「本当にごめんなさい」吸い込まれるように幸絵は夫の腕の中に入った。夫は柔らかく幸絵を抱いた。
「もう、黙ってどこかへ行っちゃだめだぞ」幸絵の髪を撫でながら夫は諭すように言った。
喜久夫は目をそらした。一日だけの王子様だったな、と心の中で呟いた。家賃と借金を遣い込んだ上、ローンまで背負ってしまった。でもいいんだ。きっと、ほかの何よりも自分にとっては意味のある使い方だったんだから。
振り向いて去ろうとした。そのとき、道を塞ぐように目の前に大きな車が止まった。
喜久夫が逡巡していると、車のドアが開いて、でっぷり太った禿頭の男が出てきた。棒縞の派手な背広を着ている。男はにたにた笑いながら、目を細めて幸絵の家の方を見た。
喜久夫は振り返った。幸絵を抱いたまま夫は、大きく目を見開いて禿げ頭の男を見つめていた。
夫の肩が激しく震えだすのを喜久夫は見た。
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