旅に病んで

 

 「高倉紀子さんじゃないですか」

 ふいに声をかけられて、紀子はびっくりして振り返った。混みあう休日のデパートの人ごみの中で、そこだけ時間が止まったようにじっと立って、にこにこほほえんでいる背の高い男がいた。誰だかわからぬまま、紀子はつられたように曖昧な笑みを浮かべた。男はつかつかと近づいてくると、

 「懐かしいな、七年ぶりくらいかな。去年のクラス会、来なかったでしょう」

 それで紀子はあっと思い出した。

 「岩永君? ほんとに?」

 「そうですよ。見違えちゃったかな、こんな頭になって」男は照れたように、半白のぼさぼさ頭に手をやった。

 そこで紀子は、手持ち無沙汰そうに立っていた夫のほうをちょっと振り返ると、「高校のときのお友だち。岩永君」とささやき、男のほうにむかって、「あの、これ、主人です」

 「ああ、ご結婚なさった」岩永は目をぱちぱちさせた。

 「ええ、いま、小谷っていいます」

 「岩永です。紀子さんにはいろいろお世話になりました」男は頭を下げた。

 「いや、こちらこそ」と紀子の夫はあたりさわりなくつぶやいた。

 「それにしても、ほんとに懐かしいな。高校時代はあんなに毎日会ってたのが嘘みたいだ」

 「ほんとね。月日のたつのは早いもの」

 「紀子さんは、男子生徒たちの憧れの的だったんですよ」と岩永は紀子の夫のほうを見ていたずらっぽく笑った。

 「そんなことないわよ」

 「へえ、それは知らなかった」夫は軽く皮肉めいた笑みを浮かべた。

 「本当に。みんな、紀子さんと高校時代を過ごせたことをいい思い出にしているはずですよ」

 「あんなこと言って。何も出ないわよ」紀子は華やかに笑った。

 「僕にとってもです。いや、僕にとっては特に、というべきか。僕は、本当に紀子さんにはいくらお礼を言っても言い足りないと思ってる」

 紀子は曖昧にほほえんだ。

 「あんないい思い出を残してもらって」

 「いい思い出って?」紀子は気軽に尋ねようとしたが、妙に舌がこわばったようになって、言いだせなかった。

 「あれからあと、僕の寂しい人生でたった一つの救いが、あのときの記憶だったんです。あの夜のことを思うたびに、間近に見た紀子さんのしぐさ、耳元でささやかれた声の一つ一つが、僕を慰め、励ましてくれるんです」

 紀子は喉がからからになった。それでも、きっと自分は何か勘違いしているに違いないと思い、無理に笑顔を作ろうとした。

 岩永は夢見るような表情で続けた。

 「本当に、僕にとってただ一つの誇りであり、慰めなんです。紀子さんのような人を、たった一度でもこの腕に抱いて寝ることができたというのは……」

 

 勤めに出る夫を送り出したあと、紀子はリビングの絨毯に坐りこんで、宙を見つめた。けっして自分のほうを見ようとしない、夫の取りつくろったような表情が、頭の中にいつまでも残っていた。

 岩永と別れたあと、彼女は夫の袖を引いて、「ねえ、あれ、でたらめよ」と言ったが、夫は上の空の笑みを浮かべて、「どっちでもいいよ、そんなこと」と言うだけだった。もう一度念を押すのも、何だか変に思われて、それからその件には触れないまま帰ってきたが、一夜明けて今朝になっても、夫はあいかわらず上の空で、いつもの優しい表情はしているものの、それはただ自分を納得させるためのもので、ぜんぜん紀子のほうには向けられていないのがはっきりわかった。紀子はため息をついた。

 一体全体、何がどうしてあんなふうになってしまったのか。高校時代の岩永武雄は、硬式テニス部に所属していたが、運動選手の汗臭さは少しも感じさせなかった。背の高い二枚目だったから、女生徒たちの中には憧れている者も少なからずいたが、本人、あまりにもあくのない好青年でありすぎて、かえって浮いた噂はあまり聞かなかった。紀子も、学園祭のことなどで岩永とよく話していた記憶はあるが、その思い出には友だちに対する漠然とした懐かしさはあるものの、異性への胸のときめきは感じられない。

 紀子は、きのう会った岩永のことを思い出した。あくのない好青年という印象はわずかに残っていたものの、やせこけて、どことなく不健康な感じで、着ているものもひどくみすぼらしかった。「僕の寂しい人生」なんて自分で言っていたが、しばらく会わないあいだにいろいろと苦労があったのかもしれない。

 「それにしても、何があったにしたって、あんなでたらめを言っていいはずがないわ。しかも、夫の目の前で!」紀子はそうつぶやいて、また腹が立ってきた。何度かいらいらと電話の前を行ったり来たりしたが、どうしても自分から彼と接触する気にはならなかった。そんなことをすれば、あいつの言ったとんでもない嘘が、現実のことになってしまいそうな気がした。かといって、このままほっておくのも気持ちが納まらない。あいつのおかげで、こちらは家庭崩壊の危機にさらされているのだ。

 「そうだ」紀子は手を叩いた。「和美に相談しよう」

 紀子はさっそく電話にむかった。もう一年くらいかけていなかったが、指が番号を覚えていた。独身時代、何か愚痴や相談ごとがあるたびに、かならずかけた番号だった。

 「よう、久しぶりだねえ」あいかわらずの声を聞いて、紀子は心の鬱屈が一気に溶けていくような思いを味わった。「どう、元気? ん? また相談ごと? じゃさ、悪いけど、今ちょっと忙しいから、一時間ほどしたらこっちからかけるわ。気にするなって。どうせろくでもない仕事なんだから。一時間したら嘘みたいに暇になるからさ」

 背後のざわめきの中で、「ろくでもない仕事、はないよな」と誰かが声高に言うのが聞こえた。紀子は恐縮しながら電話を切った。

 きっかり一時間して、和美から電話がかかってきた。事情を話すと、和美は烈火のごとく怒りはじめた。

 「あの岩永の野郎が? まじかよ? あいつ、もうちょっと見どころのある奴だと思ってたんだがな。さいてーだな。わかった。私が話つけてやる。心配するな。旦那の前で、あいつに土下座して謝らせてやるから」

 そこまでする必要はないのだと紀子は言おうとしたが、和美は聞こうとせず、一方的に怒りまくって電話を切ってしまった。

 二日後、あいかわらず上の空の夫を送り出したあとで、和美から電話がかかってきた。

 「あのな」和美は、先日とはうって変わった歯切れの悪い調子であった。「このあいだの話な」

 「うん、うん」紀子は悪い予感にとらわれながら、電話の前でうなずいた。

 「言いにくいんだけど、紀子、ほんとに、岩永と何にもなかったの?」

 紀子は、ぴこぴこハンマーで頭を叩かれたような気がした。

 「ちょっと、それって、どういうことよ」思わず大声になる。

 「だからさ」和美が電話の前でなだめるような手つきをしているのが見えるような気がした。「なかったんなら、別にいいんだよ。実は、きのう、岩永と会ったんだけどね」

 「うん、うん」

 「あいつ、ほんとに信じてるよ。紀子を抱いたって」

 紀子は、今度は本物の金槌で殴られたような気持ちになった。

 「あたしもまあ言ってみれば、嘘を見破るのが商売みたいなもんだから、九分九厘間違いないと思うね。あれは、本気だよ」

 「だって、してないもん、そんなこと」紀子は悔しくて悔しくて、涙がぽろぽろあふれだした。「ぜえったいに、してないもん」

 「だから、いいんだよ。してないんなら。あいつは何かの理由で、ありもしないことをあったと信じてるんだろうさ」

 「そんなことって、あるのかしら」

 「あるんだよ。私の知り合いに、変な人がいてさ、妙ちきりんな話ばっかり専門に集めてるんだけど、彼によると、そういう、事実と食い違った記憶を持ってる人って、びっくりするほど多いんだって。もっとも彼は、それはみんな事実なんだ、事実がいくつもあって何が悪い、なんて言ってるけど、あんたにとっちゃ、そんな迷惑な話はないよねえ」

 「あたりまえよ! それに主人は現実家だから、そんな変な話、信じるはずがないわ。ねえ和美、なんとかならないのかしら。私が潔白だって、証明できないのかしら」

 「あんたを信じてれば、それ以上の証明はいらないのさ。少なくともあたしが旦那ならね。でも、話の様子だと、そうもいかないみたいだね。だから、結婚なんてするもんじゃないって言ったろ」

 「だって、しちゃったんだもん」紀子はしゃくりあげた。

 「まあ、そんなこといまさら言ってもしょうがない。かくなる上は、もう方法は一つしかないと思うんだよ」

 「どんな方法?」

 「紀子が、自分で岩永と対決するのさ」

 「あたしが?」

 「そう。岩永は、何かの理由で、紀子に執着してる。それはあいつの勝手な思いこみだから、それを破ってやらなきゃいけない。それができるのは、紀子自身しかいないんだよ。私はあんたの女神さまになるつもりなんかないんだって、紀子の口から言って、あいつの身勝手な夢を覚ましてやらなきゃいけない」

 「そんなこと、できないよ」紀子はおじけづいた。

 「だいじょうぶ。私もついていくから。そうしないと、いつまでも、紀子はあいつの影に脅えなきゃいけなくなるよ」

 

 待ちあわせた郊外の駅の改札口に着くと、和美が大きく手を振っているのが見えた。紀子は懐かしさのあまり小走りになった。

 「変わらないねえ、和美」

 「あんたもだよ。まだまだ旦那さん一人のものにしておくのは惜しいねえ」和美は笑いながら、昔のように紀子の頭を平手でぽんと叩いた。

 「さあ、積もる話はあと。まず先に、いやな用事を片づけなきゃ」

 十分ほど歩くと、狭苦しい住宅街の中に、白いモルタル二階建てのアパートがあった。和美は、紀子の手を引いて、ハイヒールをカンカン響かせながら金属製の階段をのぼっていった。

 「岩永」という表札を前にして、和美は励ますように紀子の手を握ると、呼び鈴を押した。

 「いらっしゃい、どうぞどうぞ」扉を開けた岩永は、にこやかに二人を部屋に迎えいれた。あいかわらずぼさぼさの髪の毛をして、顔色も悪かったが、笑顔だけは高校時代のままだった。紀子は何だか、文化祭の打ちあわせでもしに来たような気持ちになった。

 狭い台所に畳敷きの六畳だけという部屋だった。独身男の部屋にしては、きれいに片づいていると思いながら、紀子はあたりを見回した。どこかに、妙な違和感がある。正面の本棚を見て、紀子ははっとした。何百冊という本が入りそうな大きな本棚が、まるで歯が抜けたようにすかすかになっている。それが、本のないところの棚に、ほこりのたまっていない空間がある。明らかに、最近、たくさんの本が抜き取られたのだ。

 そう思って見回すと、畳の上には、かつて何かが置かれていたらしい跡があちこちにあるし、台所の食器棚もひどく寂しい感じだ。部屋全体が、少しずつ必要なものを奪われて、裸にされかかっているようなのである。

 岩永と向きあって畳の上に坐ると、和美はきっとしたまなざしで岩永を見た。

 「岩永君、聞いてもらいたいことがあるの」

 岩永は、右手を上げて押しとどめるようなしぐさをした。

 「ちょっと、待ってください」

 そのまま、彼の表情が、夢見るように変わっていった。

 「今日は、すばらしい日だ」と彼はつぶやいた。「紀子さん。あなたは僕に、もう一度、素敵な思い出をくれようとするんですね」

 「ちょっと」紀子は思わず叫んだ。「何を言ってるのよ。私がいつあなたに……」

 「黙って」と岩永は叫んだ。その調子があまりに切迫していたので、紀子も、和美も、その場に凍りついてしまった。

 「あなたは、忘れてしまったかもしれない」岩永はゆっくりと言った。「でも、僕が忘れられるはずがない。あれは、今まで僕を支えてくれたただ一つのものだったんだから」

 岩永の視線が、じっと紀子のほうに向けられた。彼はまたあの邪気のない笑みを浮かべた。

 「最後です。これが最後だと思って、どうか僕のすることを黙って見ててください。けっしてあなたたちにご迷惑はかけません。ただ、僕がいいと言うまで、そこで見ていると約束してください」

 岩永は紀子にぴたりと視線を据えたまま、組んでいた両足を前に伸ばした。それから、右手をズボンのチャックにかけて、ゆっくりと引き下ろした。

 和美は大声を上げて止めようとしたが、それより早く岩永がかぼそいうめき声を上げ、部屋の中に生臭い匂いが漂いはじめた。紀子を見ると、泣き笑いのような表情でじっと岩永を見つめていた。目をそらすことができないらしい。和美は片手で紀子の目を覆い、抱えるようにして部屋から連れ出した。狭い階段でつまずきそうになったが、ぐっと踏みとどまり、外の道へと駆け出した。

 

 岩永からの絵葉書が紀子のもとに届いたのは、それからひと月ほどたってからだった。

 あのあと、一週間ほどして、和美が様子を見にいってくれたのだが、岩永はもうあのアパートにはいなかった。転居先もわからないということだった。

 和美は、忘れるようにと言ってくれた。紀子も、むろん、そのつもりだった。ただ、紀子の夫だけは、忘れる気はないようだった。彼の優しい無表情は、ひと月が過ぎても、変わる気配がなかった。

 「結局、彼は、自分専用のおもちゃがほしかっただけなのね」と紀子は、彼女にしてはずいぶんと思い切ったことを言った。

 「結婚なんて、そんなもんよ」と和美は慰めた。

 絵葉書は、東北地方の有名な観光地のものだった。細かい金細工のような波のきらめきが、一瞬紀子の心を夢心地にした。それから、紀子は葉書を裏返した。

 「僕は病気です。

 でも医者も宿の人たちも、病気なんかじゃないといいます。宿のおかみさんに至っては、ここ二週間ほどで見違えるように顔色がよくなった、きっとここの空気のせいだろうなんていうのです。

 それでも、僕は病気なのです。胸も頭も死ぬほど痛んで、夜はちっとも眠れません。きっと、あとひと月くらいしか生きられないと思います。

 さようなら。あの日のことは、しんじつ、僕の最高の思い出でした。あなたの面影を抱いて、僕は天国に旅立ちます。

 けっして、会いには来ないでください」

 紀子は葉書を手にしたまま、ぼんやりと思いをめぐらした。会いに行ったら、どうなるのだろう。彼はまた、自分を前にして、あの孤独な遊びをはじめるのだろうか。それとも、今度はほんとに、彼の記憶にあるようなことが起きるのだろうか。いや、彼にかぎってそんなことはあるまいと思うけれども、でも、人間、どうなるかわからない。ひょっとしたら、田舎の空気が、ほんとに彼を健康に変えているかもしれない。

 葉書を前に、紀子はいつまでも行こうか行くまいかと考えていた。

 

 

 

目次へ
Copyright (C) 1998 Shuho