ウンガデルの叫び

 

 「またあの声が聞こえる」坂の途中で私はつぶやいた。

 「声?」夫が振り返った。汗かきの夫は、ポケットからハンカチを取り出して、大きな丸い顔を押しぬぐった。

 「そう。何か獣が叫んでるみたい。いつもこの場所で聞こえるの。何かをこらえてるみたいな、苦しそうな声」

 夫は首をかしげて、しばらく耳をすました。

 「聞こえないぞ」

 「聞こえてるよ、はっきりと。ほら。また」

 私たちは並んで、同じ格好に首をかしげた。

 「風の音じゃないのか」

 「違うよ。ぜったい獣の声」

 「近所の犬だろ」

 「犬なんかじゃないよ。もっと、もっと大きな獣」

 夫はもう一度耳をすまし、「やっぱり聞こえないな」と確認するようにつぶやくと、背を向けてまた坂を登りはじめた。

 住宅街の中の、木々に覆われたちょっとした丘。てっぺんの小さな広場には、ベンチが一つ置いてある。今日は、頬のこけた中年男が一人、腰かけて雑誌をながめているだけだ。私たちはその前を通りすぎ、見晴らしのいい場所に立った。

 私たちの家は、左手のちょっと遠くに、隣の家に半分ほど隠れて見えた。れんが色の真新しい屋根をぼおっとながめていると、夫の手が肩にかかった。大きな、力強い、温かい手。こうして夫に肩を抱かれるたびに、なんだか不思議にせつない気持ちになる。人間ってなんて悲しいんだろうと、わけもなく思う。夫へのいとしさとその悲しみとが入り交じって、涙がこみ上げてくる。この瞬間がとっても好きだ。

 夫の肩にもたれて、長いあいだじっとしていた。やがて、冷たい風が吹いてきて、私の前髪を乱した。「帰ろうか」と夫が小声で言った。

 去りぎわに振り向くと、さっきの男はまだ同じ姿勢で雑誌をながめていた。

 

 その何日かあとに、私は一人でまた丘に登った。とりとめのないことを考えながら、ゆっくり坂を登っていくと、てっぺんの広場にこのあいだの中年男がいた。病気ではないかと思うようなやせこけた頬をして、半白の髪をぼさぼさにして、色あせた茶色の縞のポロシャツを着て、前と同じ格好で雑誌に見入っていた。

 私が足どりをゆるめると、男は顔を上げて、鼈甲縁の眼鏡の中からまっすぐこっちを見た。私は立ち止まった。

 そのとき、またあの声が聞こえた。

 声は、高くなったり低くなったりしながら、耐えがたい痛みを訴えるように、切々と続いた。何か巨大な獣が、罠にかかって苦しんでいるかのようだった。私は気持ちがしんとして、動けなくなった。男も、私の目を見つめたまま、じっと聞き入っているようだった。

 声は少しずつ弱まり、やがて消えた。私がほおっと息をつくと、男が声をかけてきた。

 「聞きましたね」

 私は無言でうなずいた。男はベンチの上で少し体をずらした。私は引き込まれるように隣に腰を下ろした。

 「あなたにも、聞こえるのですか」と私は尋ねた。

 「聞こえますとも」

 「不思議です。夫には、聞こえなかったんですよ。私よりずっと耳がいいのに」

 「ええ」男は軽くうなずいた。「先日、そうおっしゃってましたね」

 では、あのときのやり取りを、この男は聞いていたのだ。こちらにはまったく無関心に見えたのに。あれからもずっと、私たちに注目していたのだろうか。私は頬が熱くなるのを感じた。

 そのとき、なにげなく男の手元を見て、私はショックを受けた。男が手にした雑誌には、ベッドの上で体をくねらせる全裸の女が写っていた。風がページをめくると、同じような写真が次から次へと現れた。男は隠そうとするでもなく、ページを指でもてあそんでいた。

 「あなたには、きっと聞こえるだろうと思っていました」と男が独り言のように言った。

 「あれは、いったいなんの声なんですか」

 男は私の目をのぞき込むようにした。

 「それを、知りたいですか」

 私はうなずいた。

 「あなたの夫には聞こえなかった。知れば、あなたは夫の知らない世界に踏み込むことになる。それでも、知りたいですか」

 ずいぶん大げさなことを言う男だと、私はあきれた。それでも、答えるのを少しためらった。

 「今から七年前のことです……」

 「ちょ、ちょっと、待ってください」私は慌てて止めた。

 「なんですか」

 私は動悸を抑えながら、「まだお話を聞くとは言ってません」

 「そうですか」男はだしぬけに立ち上がった。「では、さようなら。ご主人と幸せに暮らしてください」

 男はそのまま坂を下りていった。私はあっけに取られて見送った。途中で男は、手にした雑誌を道ばたのゴミ箱に投げ込んだ。

 

 その翌日、私はまた一人でその場所を訪れた。坂の途中から、ベンチに男が坐っているのが見えた。私はまっすぐ歩み寄り、少し離れて腰を下ろした。

 「七年前に、何があったんです」

 男の膝には、今日も裸の女の写真があった。男はそれを指でもてあそびながら、独り言のように語りはじめた。

 「七年前、私は嫉妬に狂った者たちに迫害されました。職を奪われ、名誉を傷つけられ、裸同然で路上にほうり出されました。やつらは最愛の人まで私から引き離し、二度と近寄れぬよう遠い場所に連れ去りました。以来私は、心に深い恨みをいだいて、処々方々を放浪しました。すべてを失った私に、安住の地はありませんでした。そうして、この土地に来たとき、見つけたのです、ウンガデルを」

 男は思い入れたっぷりに言葉を切った。

 「ウンガデル?」

 「そう。ウンガデルが叫んでいたのです」

 そのとき、あの声がまた聞こえてきた。なんだか、強い恨みを込めたようにも感じられる声。私たちはしばらく言葉を止めて、綿々と続く叫びに聞き入った。

 「あれが、ウンガデルの叫びなんですか」ようやく声がとぎれたとき、私は尋ねた。

 男はうなずいた。「ウンガデルは、この世から疎外され、恨みを抱く人々の化身です。決していやされぬ傷の痛みが、ウンガデルを呼び出すのです。ウンガデルの叫びは、不幸な者の耳にしか届きません。死ぬほど人を憎むことを知らぬ幸せな者たちは、決してその声を聞くことはないのです」

 「ウンガデルはどこにいるんですか」

 「この下にいます」男は地面を指さした。「おそらく、はるか昔に、誰かがウンガデルを封じ込めるためにこの丘を築いたのでしょう。しかし、いつの時代にも、晴らされることのない恨みは無数に存在します。それがつもりつもって、ウンガデルを再び目覚めさせたのです。ウンガデルはいま、この丘の下で復活の日を待っています。ゆっくりと力を蓄えているのです」

 男は言葉を切って、私に顔を近づけた。男の視線がブラウスの胸元のすきまにちらちらと向けられるのを、私は意識した。

 「そして、いまそのことを知っているのは、世界中で私とあなただけです」

 「なぜ、あなただけがウンガデルに気づいたんですか」

 「それは、私の恨みが誰よりも深かったからです。この丘を取り巻く住宅街は、幸せな人々の根城です。小さないさかいや不幸はあっても、相手を呪い殺さねばやまぬ深い憎しみは存在しない。ウンガデルは憎悪に飢えていました。そこに私が通りかかったのです」

 男は指で眼鏡を押し上げると、背筋を伸ばした。

 「そのときから私は、ウンガデルのしもべとなったのです」

 「ウンガデルのしもべ」

 「そうです。ウンガデルが潜むこの地を守り、人々の恨みや憎しみを集めてウンガデルに届けること。それが私の使命となったのです。ウンガデルがよみがえる日まで」

 「ウンガデルがよみがえると、どうなるのです」

 「粉砕するんです!」

 ふいに男が突拍子もない声を上げたので、私は思わずベンチの上で身を引いた。

 「他人の不幸と引き換えの幸福に安住する奴らに、踏みにじられて呻吟する人々に目もくれない者どもに、憤怒の塊をぶつけるんです! ウンガデルは真っ黄色な太い悪意となって天空に噴き上げ、とぐろを巻いて地上に降り積もり、そのじっとり湿った体重で、俗物どもを押しつぶすんです。踏みつけられた者の痛みを、心の底から思い知らせてやるんです。そして、そのあと、すべてを水に流すんです。あらゆる恨み、あらゆる不公平を洗い流して、真っ白な陶器のような世の中に戻すんです」

 私はけおされて、小さな声で尋ねた。

 「そんなことが、できるんでしょうか」

 「できます。それができるのはウンガデルしかいない。この行き詰まった汚い世界、不幸な者はますます不幸になり、幸福な者はますます傲慢になる、そんな腐りきった世界を再生させるたった一つの望み、それがウンガデルなんです」

 男は私ににじり寄ると、両手で私の手を取った。

 「だから、私に力を貸してください。いっしょにウンガデルをよみがえらせましょう」

 「どうして、私が」

 「あなたにウンガデルの叫びが聞こえるからです」

 「ちょっと、待ってください」私は男の手を振りほどいて、坐り直した。「あなたはさっき、ウンガデルの声は不幸な者にしか聞こえないと言いましたよね」

 「ええ」

 「でも、私全然不幸じゃないですよ」

 「いいえ、不幸です」男は断定した。

 「不幸じゃないですよ。夫は優しいし、私は彼を愛しているし、私たちは新しい家を手に入れたばかりです。どこが不幸なんですか」

 「なぜなら、あなたにウンガデルの声が聞こえるからです。私はここで、来る日も来る日も、通りかかる人々を見つめていました。でも、あの胸を引き裂くウンガデルの叫び、あれほどはっきりと聞こえる恨みの声を、聞きつけた者は一人としてなかったのです。どいつもこいつも、ぽかんと口を開けて、阿呆の笑いを笑いながらぼんやりと行き過ぎるだけでした。この幸せ呆けの世の中で、凜とした美しい憎悪はついに亡びたのか……そこにあなたが現れたのです。私は一目見てわかりました。あなたこそ私が求める人だ、ウンガデルをよみがえらせるに足るだけの豊かで力強い憎悪を、しっかりと心に秘めた人だと。だから、あなたがご主人と叫び声のことで言い争ってたとき……」

 「言い争ってなんかいません」

 「……私は心の中で快哉を叫んだのです。やはりこの人だと。ああ、もちろんご主人に聞こえるはずがない。あんなまるまると太った俗物に」

 「太ってません! 夫は最適体重を保つためにちゃんとカロリー計算をしてるんです。意志の強い人なんですよ」

 「カロリー計算なんてすること自体が、俗物の証明です。仏陀は、孔子は、イエス・キリストは、カロリー計算をしていましたか。ともかく、あなたが俗物の夫のもとで不幸に暮らしていることは、私の目には一点の疑いもなく明らかだったのです」

 「あの、どうしても、私を不幸にしたいんですか」

 「どうしても、不幸じゃないと言いはるおつもりですか」

 「だって、本当に幸せなんですから。私みたいにだめな妻が、こんなに優しくしてもらって」

 「なぜ、だめな妻なんです」

 「実は、私たち、あの人のご両親といっしょに暮らしてたんです。でも、私、我慢できなくなっちゃったんです。いえ、ご両親はほんとにいい方たちで、私のことも親身に扱ってくださって。でも、大事にされればされるほど、自分が期待にこたえられないことがつらくなるんです。美人でもない、気だてもよくない、特別な能力もない、料理もだめ、家事もだめ、ほんとに何一つ取り柄のない妻なんだって思っちゃうんです。それで気持ちがふさいで、笑うこともできなくなって、そのために夫にもご両親にも心配かけて、そんな自分がますます嫌になって……とうとう、泣きながら夫に言ってしまったんです。これ以上やっていけないって。そしたら夫は、この機会に家を持とうって、言ってくれたんです。そこで二人だけで気兼ねなく暮らそうって。それで、ここに来たんです」

 「それだ!」いきなり男が大声を出したので、私はびくりとした。

 「それだ、それだ、それだ!」男は興奮してあたりを歩き回った。「それがあなたの不幸の原因なんだ。ご主人はあなたにとんでもない侮辱を与えたんだ」

 「侮辱?」私はわけがわからなくなって、半分泣き声で尋ねた。「なにが侮辱なんですか」

 「わかりませんか。ご主人は、あなたが自分の力で困難に立ち向かう機会を奪ったのです。優しげな顔をして、あなたを無力な奴隷の檻に閉じ込めたのです。これであなたは、生涯、『何一つ取り柄のない妻』として生きなければならない。奴にとっては、あなたが自分に頼りきってくれる方が都合がいいからです」

 「そんなこと、ありません!」否定しながら、私はふと思い出した。夫に抱かれるたびに感じる悲しみ、あれは、そういう理由なのだろうか。夫に侮辱されたことを、私自身も心の深いところで感じているからなのだろうか。でも、私は夫を愛している。あの悲しみさえ、あまずっぱい喜びなのだ。それは、心の底まで奴隷にされてしまった証拠なのだろうか……

 「あなたは、ご主人に復讐しなければなりません」と男は宣告した。

 「そんなこと、できません」

 「やるのです。そして、その過程を逐一私に報告するのです。私はそれをウンガデルに伝えます。ウンガデルはあなたの憎悪をむさぼり食って育つでしょう。そして、太く大きくなり、力強く地上へ噴出するでしょう」

 「できません、できません」私は強く首を振った。

 「最初は、ほんのささいなことでいいのです」男は調子を和らげた。「相手に害を加える必要はありません。ただ、あなたの気持ちの問題なのです。一日にひとつだけでも、なにがしかの悪意を形にすること。ただし、相手には気づかれぬようにした方がいいでしょう。その方が、あとあとやりやすい。大事なのは、どんなにつまらぬことでも、強い憎しみを込めて行うことです。その憎悪の強さが、ウンガデルを育てるのです」

 男は立ち上がって、私の肩に手を置いた。

 「あしたから、毎日ここに来て、報告してください。必ずですよ。世界の未来は、あなたの双肩にかかっているのです」

 そして男は、坂道を降りていった。途中で、また持っていた雑誌をゴミ箱にほうり込んだ。

 

 私は思い悩みながら歩いた。愛する夫を傷つけたくはない。でも、これから毎日、あの男に「悪意の印」を届けなければならないのだ。そうしないと、世界を救うことができないのだ。でも、相手を傷つけない悪意なんて、あるのだろうか……

 頭を絞ったあげく、何とかできそうなことを思いついた。ちょうど道ばたの街路樹に、小さい黄色の実がいっぱいなっている。鳥が盛んについばんでいるくらいだから、毒ではあるまい。私はそれをほんの一つまみ摘み取り、ハンカチに包んで家に持ち帰ると、丁寧につぶして、夫の味噌汁に入れた。

 夫は、「妙にうまいな、今日の味噌汁」と言って、おかわりをした。その晩夫はいつもにまして元気で、私はぐったり疲れて眠りについた。

 

 私の話を聞くと、男は大きくうなずいた。

 「そうです。その気持ちが大事なのです。ご主人は今日どうなさいました」

 「とってもさわやかな顔で会社に行きました」

 「よろしい。相手はまだ気づいてない。その調子で続けるのです」

 男は持っていた帳面に鉛筆を走らせると、目をつぶって祈るように何かをつぶやいた。

 

 その翌日、私は夫の靴の中敷きに、唐辛子を煮出した汁を塗っておいた。夫は夕方元気に帰ってきて、「今日は一日外回りだったのに、なんだか足が軽いな」と独り言を言った。

 次の日、私は夫の会社に電話をかけ、「○○さんお願いしますう」と鼻にかかった作り声で夫の名前を告げて、夫が出る前に切った。帰ってきた夫は、鼻歌など歌って妙にご機嫌であった。

 次の日、私は夫の背広の裾に、飼い犬ルンタの大好物の蜂蜜を塗っておいた。夫がドアを開けると同時に、ルンタは弾丸のように飛びついて、べろべろなめ回した。夫はうれしそうな顔で、さんざんルンタと遊んだあと、どろどろの背広のまま慌てて会社へ駆けていった。

 毎日、私は丘に登って、男に報告した。男はうなずくと、帳面に記録し、目をつぶって何かをつぶやいた。そして、「よろしい。その調子です。あしたも必ず来るのですよ。世界の未来があなたの肩に」と言うと、坂を下り、雑誌を捨てて去っていった。

 あるとき、私はふと思い立って、男のあとをつけてみた。男はすりきれたズボンのポケットに両手を突っ込み、ちょっと猫背で、振り返りもせずにゆっくりと家々のあいだを歩いていった。そして、住宅街の外れ近くにある、鉄柵を巡らせた家に歩み寄った。

 門のすぐ内側に、大柄な白髪の老婦人が、腰に手を当てて立っていた。それを見て、男の足が踊るように踏み迷った。婦人はいきなり手を伸ばして男の襟髪をつかみ、芝生の上に引き倒した。男は無言で手足をばたばたさせたが、婦人はその腰のあたりを片足で踏みつけ、手にした布団叩きでびしびしと尻を打ちはじめた。

 

 翌日、男はベンチの上で、お尻が落ち着かないように体を前後左右に揺らしていた。私が今日の「悪意」を報告すると、男はいつもと違って、口をへの字に曲げたまま黙っていた。

 男が無言で体をゆらゆらさせているので、私は手持ちぶさたになって、しばらく気まずく坐っていたが、「それじゃ」と言って立とうとした。

 「ちょっと、お待ちなさい」と、男が初めて口を開いた。

 「はあ」

 「あなた、やる気はあるのですか」

 「はあ?」

 「このあいだから聞いていれば、ご主人はどんどん元気になっていくではないですか。そんなことで、復讐がなしとげられると思いますか」

 「だって、気持ちが大事だってあなたが言うから……」

 「それは多少なりとも目標に近づいてこそです。近づくどころか、あとじさりしてるじゃないですか」それから、意地悪げな表情になって、「このままでは、やがてあなた自身がウンガデルの餌食になりかねません」

 「え、どうして私が」

 「ウンガデルの身になって考えてごらんなさい。おいしそうなごちそうを抱えたご婦人が目の前を通る。のみならず、こちらを見て艶然と笑ったりする。これはと期待していると、あにはからんや、男のところへ行って盛んにちちくりあっている」

 「ちちくりあってません! だいたい、ちちくりあうってどういう意味ですか」

 「そんな光景を毎日見せられれば、殺したくなっても無理はないでしょう。現に最近、ウンガデルの声に生々しい怒りが混じっていますよ。俺をだますのは誰だ、助けるような顔をして、裏で舌を出して笑っているのは誰だ、と」

 「そんなの、逆恨みというものです。これ以上やれと言うなら、私もうやめます」

 男の顔が蒼白になった。

 「なんということを。本気で言ってるんですか。この世の不幸な人々すべての運命が、あなたの手の中にあるんですよ。あなたの努力しだいで、人が人を踏みつけにしない、真に平等な世の中が本当に実現するんですよ。私たちの夢が、あと一歩、あとほんの一歩でかなおうとしているんですよ。それなのに、あなたは、あなたは……」

 私は顔を覆ってしまった。「それじゃいったい、どうすればいいんですか」

 「今度こそ、本物の悪意をぶつけるんです。ご主人が目を回してぶっ倒れ、そのまま再起不能になるような、強烈な奴をお見舞いするんです」

 「そんなことを、しなきゃいけないんですか」

 「絶対に、しなければなりません。それが、あなたが世界に対して負っている義務なのですから」

 「ああ、なにもかもおしまいだわ」

 「嘆くことはありません」男は私の肩に手を置いて、ゆっくりとなで回した。「世界を生まれ変わらせるための、貴い犠牲ではないですか。いずれ、すべてのしいたげられた人々が、あなたを救い主と仰ぐときが来ますよ」

 

 どうやって家に帰ったのか覚えてない。食卓の椅子で私は放心していた。日が暮れても電気もつけずにいるところへ、夫が帰ってきて、「どうしたんだよ」と肩を叩いた。

 「なんでもないの。ちょっとうとうとして」私は慌てて立ち上がった。とたんに、涙がぼろぼろ出てきたので、夫に見られないように急いで台所に駆け込んだ。

 やるしかないのだ、とそのとき私は決心した。後戻りはできない。結局、それが私の運命だったのだろう。

 以前から、空想はしたが、恐ろしくて実行できずにいたことだった。流しの下にある物入れの扉を開け、仕掛けてあったゴキブリ取りを引っぱり出した。

 中で、大きな黒い脂ぎったのが二匹、動かなくなっていた。菜箸を入れてそれをすり鉢に取り出し、すりこぎで細かくすりつぶしはじめた。

 「かわいそうなあなた……」

 また涙があふれ出て、すり鉢の中の黒い物質がもやもやとぼやけた。嗚咽が夫に聞こえないように、歯を食いしばってこらえた。それからすり鉢を持ち上げて、中身を夫のおひたしに入れようとした。

 「あまり好みじゃないな、そいつは」背後から声がした。

 私は悲鳴を上げてすり鉢を放り出した。黒い粉がそこら中に飛び散った。夫が私の肩をがっちりとつかみ、自分のほうを向かせた。

 「ん? こないだから何をこっそり遊んでるんだい? なんか愉快なことばかりだから、そっとしておいたけど……いつまでも仲間外れはひどいよな。そろそろ、俺にもわけを教えてくれないか?」

 私は大声で泣き出した。やっぱりこの人にはわかっていたのだ。私は夫の胸に顔をうずめ、泣きじゃくりながらすべてを打ち明けた。

 

 「やりましたか」

 私の顔を見るやいなや、男は身を乗り出した。私は黙ってうなずいた。

 「詳しく聞かせてください。すぐに、すぐに」

 私は語った。夫の目を盗んで、食べ物に「名前を言うのも恐ろしい猛毒」を投じたと。それを口にした夫が、椅子から転げ落ち、床の上で手足をひきつらせ、口から泡を吹いて苦しむようすを、微に入り細にわたって描写した。聞いている男の目がぎらぎらと輝きはじめた。私も妙に話に熱が入った。近くの木の陰で当の夫が聞いているのを知っているから、よけいに興奮したのかもしれない。

 話し終わると、男は私の手を握り、しばらく感きわまったように私の目を見つめていた。

 「万々歳です」ようやく男は口を開いた。「予想以上です。そこまでやってくれるとは……これでウンガデルは必ずよみがえるでしょう。ありがとう、あなたはすばらしい人だ。ありがとう」

 避ける間もなく、男は私の手に口付けした。それから、私の裸の腕にやせた頬をすりつけ、しだいに肘の方へと唇を這わせていった。

 「奥さん……」男はうわごとのようにつぶやいた。

 そのとき、がっちりした手が男の肩にかかった。男ははじかれたように立ち上がり、振り返ったとたん厚い胸板に顔をぶつけた。鼻を押さえながら二、三歩後退し、相手の顔を見上げて、驚きの叫びを上げた。

 「あ、あんたは」

 「この女の亭主だが」夫は私の手を取って、芝居がかりに名乗った。

 「おまえは泡を吹いて悶絶……」

 「あいにく、こうしてぴんぴんしてる」

 そのとき、木の陰から白髪の大柄な老婦人が姿を現した。それを見たとたん、男の口が釣り上げられた魚のようにねじ曲がった。

 「また、人さまに迷惑をかけたね」老婦人はじろりと男をにらみつけた。男は力が抜けたようにその場にくずおれると、地面に額をすりつけてしまった。

 「お母さまから全部うかがいましたよ」と夫は静かに言った。「高校の教員をなさっていたが、女生徒に恋慕して、しつこく付きまとって嫌がらせをしたので、免職になられたそうですね。それからも、いろいろな女の方にご執心なさって、あちこちでいざこざを起こされたとか。今度はまた、うちの家内にひとかたならぬご厚意をいただいたようで。でもね、あなた、女性はおもちゃではありませんよ。あなた一人の楽しい遊びのために、生身の人間の生活を台なしにするわけにはいかんのです。そういうわけで、せっかくですが、今後家内とはいっさいかかわりを持たないでください。あしからず」

 蛙がひきつぶされたようにぺちゃんこになった男を見ながら、さよなら、と私は心の中でつぶやいた。少しは、あなたを信じていたの。あなたの夢がほんとになったら、どんなにいいだろうって、ちょっとだけ思ったの。でも、私はやっぱり夫のもので、あなたの世界には行けません。最後までつきあってあげられなくて、ごめんなさい。

 夫が私の手を引いた。男に視線で別れを告げ、私は歩き出そうとした。そのとき、ふと夫が足を止めた。

 私は夫の横顔を見上げた。夫の目は、坂の下のほうをじっと見つめていた。その視線を追うと、はるかかなたに点のような人影が見えた。目を凝らしていると、それはだんだん近くなり、やがて丘を登りはじめた。しっかりした速い足どりで、まっすぐこちらを目指してくる。近づくにつれて、小柄な男性であることがわかった。ベージュ色の、ぼろぼろに着古した丈長の上着を着ていた。

 気がつくと、老婦人も私たちと並んで、いぶかしげな顔で見下ろしていた。まもなく男は丘のてっぺんに達すると、私たち三人のそばを見向きもせずに通りすぎ、倒れたままの中年男にまっすぐ歩み寄って、傍らにしゃがみ込んだ。

 「見つけたぞ」

 とたんに、中年男はうつぶせのまま三メートルばかり飛びしさった。それから、ぱっと立ち上がり、爆発したように笑いだした。私たち三人は驚きのあまり棒立ちになった。男は大声で笑いながら、振り向いて走り去ろうとした。同時に、ベージュの上着の男が鞭のような声を発した。

 「逃げるな、謎のゴンドワナ人!」

 「もう遅い」中年男は首だけ振り返り、唇をきゅうっと三日月のように曲げて笑った。「やつはよみがえってしまったよ」

 そのとき、私は気づいた。どこか近くで、あの獣の声がする。いつもよりずっと生々しく、息づかいまで感じられた。見ると、夫も老婦人も、ひどくねじくれた表情で、じっと耳を傾けている。聞こえているのだ。夫のこんなおびえた顔は、いままで見たことがなかった。私は恐怖に駆られ、大声で叫ぼうとした。だがそれは、すぐ背後からの、さらに大きな叫び声にかき消された。

 私たちはいっせいに振り向いた。

 

 

 

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