運命の呼び声
私の家の近くに雑木林があり、その奥に踏みこんでゆくと、何かの施設を囲む金網に沿ってかなり長く歩いたのち、ちょっとした丘陵の稜線に出る。初めてここに来たとき、金網沿いの道がところどころひどく狭くなって体を横にしなければ通れず、そもそもこの道はどこかに通じているのだろうかと危ぶんだあとではあり、何かとてもいいものを見つけたような気がした。それ以来、この道は私の気に入りの散歩道となった。
この丘陵の東側には、何十年もの歴史を思わせる古びた木造の家々がひっそりと建っており、隠れ里を思わせる。丘の裾近くにあるお寺の裏には、無数の小さな墓石が立ち並び、中には風雨に侵されて原形をとどめないものもある。
一方、西側は最近開かれたらしい住宅街で、一様に白っぽい外観をした新しい家々が並んでいる。私が歩いている稜線をはさんで、まったく対照的な二つの地域が存在するわけで、あるときは江戸時代の山道を行く旅人の気分になり、次の瞬間には現代に引き戻される、その変化が面白かった。
ある日曜日、私がいつものように人気のない稜線の道をぶらぶらしていると、どこからかギターの音が聞こえてきた。初めは下の住宅街でだれかが練習しているのかと思ったが、それにしては音が近いようである。あたりを見回しながら歩いていると、道の脇の小高い場所に、一人の老人が楽器を抱えて坐っていた。私がこの丘に来るようになってから、私以外の人間を見かけたのはこれが初めてだった。
はたしてこの老人は、東の古びた集落から来たのか、西の新興住宅街から来たのか、それとも私と同じ単なるよそものにすぎないのか。興味を持った私は、わざと足音を立てながら老人に近づいた。すると老人は、手を止めて私を見上げ、にっこり笑って自分のそばを指差した。どうやら坐れということらしい。
私が腰をおろすと、老人は私の耳に口を近づけるようにして、
「いま、ちょうどいいところだ。ごらんなさい」と、東側の古い集落を指差した。
見ると、お寺の墓石の間を、何か白いものが動いている。場所が場所だけに、私はどきりとして目を凝らした。何のことはない、物の怪のたぐいではなく、白い服を着た若い女である。
「見ててごらんなさい」老人は囁くと、ギターを取り上げ、静かにつま弾きはじめた。
すると、少女は首を傾げるようにして、しきりにあたりを見回しはじめた。何かを探すように、ためらいがちに足を運んでいる。
聞こえているのだろうか、と私は疑った。老人の弾くギターの音は、そばにいる私にもかろうじて聞こえるくらいかすかで、とても彼女のところまで届いているとは思われない。
老人は私の心を見透かしたように言った。
「あの子には聞こえてません。耳ではね」
「耳では」
「そう。でも心は聞いています。運命の呼ぶ声を」
私はこの芝居じみた物言いをする老人をつくづくとながめてしまった。老人は相変わらずおだやかに笑っている。小暗い木陰のことではっきりとはしなかったが、老人の眼の虹彩は青みを帯びているようだった。そういえば、老人のはおっているものも、今出来のジャンパーなどではなく、ギリシャ悲劇の舞台にでも出てきそうな由緒ありげな形の衣服なのである。
「今度は、こちらをごらんなさい」そう言うと老人は、坐ったままくるりと向きを変えた。そのとき気付いたのだが、この場所は小高いので、木々を通して東と西の両方のようすがよく見えるのである。
午後の新興住宅街は眠ったように静かだった。その中を、一人の若い男がうろうろしているのが見える。遠目にも、ひどくいらだっているのがわかった。何かを探すように、あちこちをのぞきこみながら歩いている。
「彼も探しているのです、運命の相手を」老人は静かに言うと、またかすかな音でギターを響かせはじめた。
私は住宅街の若者を見、頭をめぐらして墓場の少女を見た。そして、老人のいう意味を理解したように思った。
「すると、あの二人は」
「そう、結ばれる運命です」老人はうなずいた。「あなたは信じないかもしれないが、あの二人は、私のギターに導かれて丘に上り、お互いを見いだすことになっているのです。もちろんそのとき、私のようなものはとっくに退散して、二人きりにしてやらねばなりません。二人は同じギターに導かれてきたことを知り、自分たちの運命を悟って、恋に落ちるのです。そしてそれがきっかけで、この丘を挟んだ二つの里同士が初めて互いを意識することになるのです」
老人はふいに暗い表情になった。
「いまこの二つの里は、互いに相手の存在すら知らない。古い村はおのれのしきたりを守ることに汲々とし、新しい街はもっぱら家の正面にのみ関心を向けて背後のことなど気にもかけない。それはどちらにとっても幸せなことなのです。互いに知らない間はともかく、すぐ後ろにこんなにも違った人々がいるのを知って、安閑としていられるはずがない。二人の恋は、どちらからも歓迎されないでしょう。そのために、この丘をはさんで激しい憎しみと争いが生まれるのです。その中で、恋する二人をはじめ、多くの人々が傷つき、犠牲になるでしょう。そのすべてが、私のギターから起こるのです」
「それなら、あの二人を結び付けるのをやめるべきではないですか」私は思わず言った。
「それはできない。なぜなら、私自身もまた、運命のしもべにすぎないからです。私があの二人を結び付けることは、すでに決められている。だが、いつ、というところまでは決められていない。そこにわずかに私の意志が入る余地がある。だから私は、こんなかすかな音でギターを弾いているのです。もし運命が真に逃れがたいものなら、どんなに小さな音でも、いずれ彼らはそれを聞きつけるでしょう。いや、もう聞きつけているのかもしれない」
それっきり老人は、私のことなどまったく忘れたように、ギターに没頭しはじめた。私は静かに立ち上がると、その場を去った。しばらくはかすかな音色が聞こえていたが、やがて木の葉が風に鳴る音にまぎれて聞こえなくなってしまった。
私は不思議な感慨にとらわれていた。人の運命は、あのように見えないところで誰かに操られているものなのか。ことによると、かくいう私自身が、誰かの弾くギターに導かれて何かを探し求めているのではないだろうか。
尾根道の終点は、住宅街の外れに続いていた。私が下りていったとき、さっきの若者がちょうどこちらへ歩いてきた。相変わらず懸命に何かを探していた。彼がまだ自分の運命を知らずにいることを思い、私は感慨のあまり思わず声をかけた。
「きみ。何か探しているんですか」
「誰か、俺のバイク盗ってきやがってよ。先月買ったばっかなのによ」彼は殺気に満ちた視線を私のほうに向けた。「まさか、てめえじゃねえだろうな」
私はあわてて手を振ると、疑われないように懸命に平静な表情を作りながら、急ぎ足でその場から立ち去った。
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