喜びの神

 

 郊外にある、テーブル三つとカウンターだけの小さな喫茶店である。まだ若いマスターが一人で店をやっている。内装は白木の肌を生かした質素なもので、装飾といえば奥の壁に掛けられた小さな絵が一つきり。その絵は、厚手の紙にペン描きで、水彩絵の具の着色がしてあり、不思議な形の木と地平線を描いた風景画だった。

 さっきから、カウンターに腰かけ、首をねじ曲げるようにしてその絵をながめている男がいた。店内にはほかに客はいない。マスターが注文のコーヒーを置くと、男はにっこりしてこう言った。「ありがとう。あの絵はあなたの絵ですね、薄場影郎さん」

 マスターは目をしばたたいた。

 「そんな名前を覚えているかたがいるとは思いませんでした」

 「僕は覚えていますよ。いや、幻想漫画の好きな人はみなあなたの名前を覚えているはずだ。僕も、あなたの漫画が載る雑誌は必ず発売日に買って読んだものです。それも五年ほど前までの話ですが」

 「ごらんの通り、私はもう薄場影郎ではありません。漫画家薄場影郎は消えました」

 男はマスターの顔を見つめた。「そのいきさつを、話してもらえませんか」

 マスターはにっこりした。

 「いきさつなんて、ありませんよ。ただ、描くのがいやになっただけです」

 男は首を傾げるようにして、

 「ひょっとして、あなたは僕の名前をどこかで聞いたことがありませんか。僕はミスター六軒というものですが」

 それを聞いて、マスターの顔に驚きの表情が浮かんだ。

 「確かに、存じています。昔ある人からお名前をうかがいました。伝説的な奇談コレクター。まさか本当にお目にかかれるとは」

 「そういうわけです。ぜひ、お話がうかがいたい」と言いながら、ぼろぼろのベージュの上着を着た男は身を乗りだした。「何もないなんて言ってもだめですよ。僕はこういうことに関しては異常に勘が働くんだから」

 「わかりました」マスターはうなずいた。「ほかならぬミスター六軒の頼みなら、喜んでお話ししましょう。そもそものはじまりは、私が漫画家としてデビューした少しあと、壁にぶつかり、くさっていたころのことでした」

 

 もともと私は、小さいころから絵だけは天才といわれるくらいうまかったものの、どうしようもない怠け者で、努力とか勉強とかが大嫌い。親の頼みで大学には入ったものの、一年もたつころには授業に出なくなり、昼間っから盛り場をうろつき回るありさま。あるとき小遣いが足りなくなり、ふと思いついて、一晩で描き上げた漫画を雑誌に持ちこんだら、それが採用されて、漫画家としてデビューできました。そのときは、世の中ずいぶん甘いもんだと思いましたよ。

 しかし、いくら天才でも、努力もせずにできることは知れています。たちまち材料に詰まり、それでも世の中をなめてるから、ろくでもないもんを描き飛ばして、読者から見放されました。そうなると、編集者も手のひらを返したように冷たくなる。こっちは天才だという思いいれがあるから、強気で突っ張って、たちまち干されてしまいました。

 最後の連載を切られた日の夜、ポケットには酒を飲む金もなく、ただもうやけに歩き回って、気がつくとまったく知らない場所で、家に帰るためにひとけのない駅のホームで電車を待っていると、どうしようもない惨めさがこみ上げてきて、いっそこのまま電車に飛びこんじまおうかと思ったですよ。

 そのとき、ふいに耳元に暖かい息がかかったかと思うと、「いいえ、いけません、あなたは馬鹿で無能で才能もない最低男なんかじゃありません。いっそ電車に飛びこんで五体ばらばらになっちまったらすっきりするだろうなんて考えちゃいけません」と誰かがささやくんですよ。私は飛び上がり、タップでも踏むみたいな足取りで振り返って、「なんで僕の考えてることがわかるんですか」「だって、あなたが自分でおっしゃってましたもの、大声で」

 恥ずかしい話ですが、知らずに独り言を言ってたんですな。私は真っ赤になって、それから相手の顔をまじまじとながめました。四十代後半くらいと思われる、額の禿げ上がった男で、まあるい顔にまあるい眼鏡を掛けて、にこにこ笑ってるんですよ。普通なら気味悪がるところですが、その笑いがあんまり無邪気なんで、こっちもつられて笑いたいような気分になるんです。

 男はにこにこしたまま、「人は誰でも、弱気になることがあります。でも、それがいつまでも続くわけじゃない。信じて待つんです」

 私は、余計なおせっかいだという気持ちで、突っかかるように言い返しました。「でも、何を信じて待てばいいんです」

 「何か一つくらい、心のよりどころがあるでしょう。家族とか、恋人とか」

 男の言葉は、私の痛いところを突きました。私は、突っ張ってはいたものの、ひどく孤独な男でした。

 「それが、ないんです」私はうなだれて答えました。

 「何一つ?」

 「何一つ」

 すると、男は真顔になって、私のほうにそのまんまるな顔を寄せてきました。

 「私の顔をごらんなさい」

 「はあ」私は気をのまれて、男の顔を見つめました。

 男は、ふいに顔中を皺だらけにして笑いました。

 「楽しい顔でしょう」

 「そう思います」私は正直に答えました。

 「この顔を、覚えていてください。そして落ちこんだときには、思い出してください。きっと楽しくなるはずです。私は、世の中の孤独な人々に喜びを与えるのを使命にしている者です。寂しくなったら、訪ねてきてください」

 気がつくと、男の姿は消え、私の手の中には小さな名刺が残されていました。そこには、「大喜多万歳丸」という名前と、住所だけが記されていました。

 さあ、それからが不思議です。何かの拍子に、ふいとあの男の顔が頭に浮かぶのです。そうして、自分でもばかばかしいと思いながら、何だか楽しくて浮き立つような気分になるのです。一週間もたつうちに、私はすっかり憂鬱を忘れ、心を入れ替えて出直そうという気分になっていました。

 私は編集部に頭を下げて、また漫画を描かせてもらうことになったのですが、机にむかって描いているうちにも、ふとあの大喜多万歳丸の顔が目に浮かび、何だか彼に会いたくてたまらなくなるのです。とうとうある日、思いたって名刺の住所を訪ねることにしました。

 訪ねてみると、それは郊外を流れる大きな川のそばの崖の上に立つ、古びた木造の大きな平屋建てでした。まわりは背の高いススキが一面に生えていて、すぐ近くに来るまでそんな家があることはぜんぜんわからないのです。玄関の引き戸の前で「ごめんください」と叫ぶと、まだ若い女性が出てきました。丸顔に丸い眼鏡をかけてにこにこしたところがあの男にそっくりで、たぶん娘か何かだろうと思いました。

 「薄場影郎と申しますが」と名乗ると、「お待ちしておりました」と言って、奥へ案内してくれます。はて、連絡もせずに来たのにと不思議に思いましたが、あとで知ったところでは、ここでは訪ねてくるもの誰にでもそう言うのです。

 案内されたのは二十畳敷きくらいの家具も何もない広間で、そこに年齢も服装もさまざまな十人前後の男女が、思い思いの格好で坐っています。中心には和服姿の万歳丸があぐらをかいて、大きな口を開けて笑っています。私の姿を見つけると、万歳丸は立ち上がり、大きな声で歓迎の言葉を述べながら、私を抱くようにして自分のそばに坐らせました。

 「楽にしてください。ここにいるのは、みんな家族同然の人たちですから。むろん、あなたも含めて」

 私は、何か紹介の儀式のようなものがあるかと思っていましたが、そんなものはありませんでした。あとでわかったのですが、ここでは誰もがお互いの名前や素性を知らない、いや、そんなことをぜんぜん気にもしていないのでした。

 その日は、そこに三時間くらいもいたでしょうか。万歳丸が中心になって、皆でいろいろな話題について話すのですが、それだけのことで、ひどく心楽しい気分になるのです。私にとっては、そんなことはまったくはじめての経験でした。

 それから、私は、週に一度か二度くらいその家に通うようになりました。集まっている顔ぶれは日によって違いましたが、いつも十人前後の人々がそこにいました。その日によって、話をしたり、河原を散歩したり、あるいはゲームをしたりすることもあります。それも、普通のゲームではなく、万歳丸の発案になる特別に面白いゲームで、やっているうちに人々はおなかが痛くなるくらいに笑い転げるのが常でした。

 そのかん、私の本業の漫画のほうも進境著しいものがありました。もともと、私は不思議なこと、怪しいものには興味があったのですが、内外の幻想文学を読みあさり、神話伝説のたぐいに取材して、「独自の境地」と評されるものを描くことができるようになりました。昔の怠け者の私からは考えられないことです。あなたが私の作品を楽しみに読んでくださったというのも、たぶんこのころのことでしょう。

 それも、実のところ万歳丸のおかげでした。行き詰まったとき、気持ちが萎えたとき、以前の私なら、そのままやけになっていいかげんなものを描いていたでしょうが、万歳丸の笑顔を思い出すと、とたんに楽天的な気分になり、またやる気が出てくるのです。どうしてもペンが進まないときは、思い切って仕事を中断して万歳丸の家に出かければ、翌日は必ずすらすらと仕事が進むことが約束されているのでした。

 ある日のこと、私が夕方に万歳丸の家を辞して、ススキの原の中の細道を駅にむかって歩いていると、後ろで小走りの足音がします。振り向くと、最初の日に取り次ぎに出てくれた万歳丸の娘さんが、買い物かごを提げて駆けてくるのです。私はむろんもう彼女とは顔なじみになっていましたから、立ち止まって彼女が追いつくのを待っていました。私のそばまで来ると、彼女は上気した笑顔で、「駅までごいっしょしてよろしいですか」と尋ねました。もちろん否やはありません。私たちは野原の中の道を並んで歩きました。

 しばらくすると、娘さんはこう言いました。

 「父のところにみえるかたがたの中でも、薄場さんは特別ご熱心ですね」

 「そうですか。僕にとっては、お父さんにお目にかかるのはとても楽しみなんです」

 「父のことを、どう思っていらっしゃいますの」

 いま思うと、そう尋ねた彼女の調子には、少し奇妙なものがありました。しかし、そのときの私は、そんなことにはまったく気づかず、こう答えました。

 「お父さんは、すばらしいかただと思います。自分が喜びにあふれているだけでなく、他人にまでそれを分け与えることができる。こんな人は、めったにいません。僕は、お父さんのことを考えるたび、心が暖かくなるんです。それだけでも、お父さんがたぐいまれな存在であるという十分な証拠じゃないでしょうか」

 すると、娘さんはうつむいて歩きながら、こんなことを言いました。

 「父は、子供のころから、ああいう性格だったようです。学校でも会社でも、父は異常に人気があり、父のまわりだけに大勢の人が集まってきたそうです。それで、父はあるとき自分の使命に目覚めて、会社を辞め、名前も大北茂男という平凡なものからいまの万歳丸に変えて、孤独に悩む人々を探し出してきては救う仕事をはじめたのです」

 「そうだったんですか」私はますます感服して言いました。「やっぱり、お父さんは選ばれたかただったんですね。そんな偉大なかたと知り合えて、僕は幸せです」

 すると、ふいに娘さんは「ごめんなさい」とつぶやくように言って、もと来た道を走っていってしまいました。そこはちょうど野原が切れて街に出るところでした。買い物に行くんじゃなかったんだろうか。私がぼんやりと見送っていると、ふいに後ろから肩を叩かれました。振り返ると、それは万歳丸の家でときどき見かける男でした。年は四十代くらいでしょうか。白髪混じりの頭に、端整な顔つきをして、どことなく知的な雰囲気を持っています。私は、自分と共通するなにかをその男に感じていたので、漫画家ではないにしても、作家か、それに近い職業ではないかとにらんでいました。

 男は、どことなく皮肉な表情を浮かべて、娘さんが去っていったほうを顎で指すと、声を潜めて、

 「あの子には、気をつけたほうがいい」

 「はあ?」私はわけがわからずに聞き返しました。

 「あの子は、遺憾ながら、父親よりずっと凡庸だ。なかんずく、嫉妬という低劣な感情から脱却しきれていない」

 この言葉遣いは確実に作家だ、と私は思いました。

 「嫉妬? 何に対する嫉妬です」

 相手は答えず、首を振って、

 「十分、気をつけなさい」というと、さっと身を翻して、スパイ映画の登場人物みたいにすばやくどこかへ消えてしまいました。

 私は、すっかり狐につままれたような気分です。家に帰っていろいろ考えてみましたが、さっぱり納得がいきません。

 それから四、五日して、万歳丸の家に行くと、取り次ぎに出てくれた娘さんは、いつものように広間に案内してくれるかと思いきや、唇に指をあてて、私を横手の狭い部屋に連れこむのです。「どうしたのですか」私が言いかけると、彼女はもう一度唇に指をあてて、密やかな声で、

 「お願いです。今日は父のところには行かず、いったんお戻りください。そして、夜九時過ぎにもう一度訪ねてきてください。そのときは、父に気づかれぬよう、裏口の戸を静かに開けて入ってきてください。私、そこで待っておりますから」

 「どうして、そんなことをしなければならないんです」私が抗議しかけると、

 「お願いです。黙って私の言う通りになさってください。ぜひ、あなたにお目に掛けたいものがあるのです」

 私はわけがわからないまま、彼女のいうままに家を出ました。それから夜まで、さまざまな疑いを心に抱きながら、喫茶店やゲームセンターで時間をつぶしました。九時少し前に、私は最後に入っていたピザレストランを出ると、万歳丸の家に向かいました。幸いに月夜だったので、何とか道に迷わずにすみましたが、暗いススキの原の中を明かりも持たずに進むのは、一仕事でした。

 言われた通り、裏口の戸を静かに開けると、すぐに柔らかい手に手首をつかまれました。娘さんは、黙ったまま足音を忍ばせて私を導いてゆきます。行きついたのは、私の知らない、座布団や毛布がいっぱい積み重ねてある板敷きの狭い部屋でした。

 暗い部屋の壁から、一か所だけ細く明かりがもれています。娘さんは身振りで、私にそこに目をあてるように示しました。見ると、むこう側はいつも集まりに使われている大広間でした。昼間は大きな窓からの日の光で明るい部屋ですが、いまはその窓にも雨戸が閉め切られ、小さな裸電球が一つ灯っているだけなので、ひどく薄暗く見えます。

 部屋の真ん中には、万歳丸がいつもの着流し姿で仁王立ちになっていました。彼の顔には、神々しいような笑顔が浮かんでいます。誰でもそれを見たとたんに晴れ晴れとした気持ちにならずにいられないようなすばらしい笑顔で、私は思わず見とれてしまいました。

 万歳丸の前に、一人の男がひざまずき、頭を畳に付けてじっとしていました。白髪混じりの頭の格好から、このあいだ私に妙なことを言ったあの作家だとわかりました。男はじっと動きません。ややあって、その口から、泣くようなうめき声がもれました。「万歳丸さま」ととぎれとぎれにつぶやく声が聞こえてきます。

 「満足できないのですか」万歳丸は笑顔のまま、静かに言いました。

 「お願いです、万歳丸さま、もっと、もっと喜びを」

 万歳丸は腰を屈めると、男の顔を両手で挟んで上向かせ、そのまま自分の顔に近づけていきました。男の目がいっぱいに見開かれ、男は飢えた人間が食べ物を前にしたように万歳丸の顔を見つめました。やがて、万歳丸は男の唇を自分の唇に合わせました。男の体が細かく震え、男は万歳丸の丸々とした胴体にしがみつきました。

 「まだですか」しばらくして唇を離すと、万歳丸は尋ねました。

 「お願いです、万歳丸さま」男は息を弾ませながら答えました。「私は、あなたさまからいただく喜びがなければ生きていけないのです。もっと、もっと喜びを」

 万歳丸は静かに帯を解くと、着物を脱ぎ捨て、下帯一つになりました。それから、男の顔を両手で挟んで、生白い自分の胸にこすり付けました。男は大きく舌を出すと、万歳丸のむっちりした肌を舐めはじめました。男の目がいっぱいに開かれ、「えっ、えっ」といううめき声とともに口の端から唾液が滝のようにたらたらと流れ落ちました。

 それからのことは、私は知りません。私は手で口を押さえながら、脱兎のごとく廊下に走り出ました。あとから娘さんが追いかけてきて、息を切らしながら言いました。

 「お願いです。あなた、私を連れて逃げてください」

 「どうして、自分で逃げないんです」私は言い返しました。

 「私も、父のくれる喜びがないと生きていけないんです。でも、愛する人といっしょなら」

 「愛する人だって」私は吐き気をこらえながら叫びました。「あんたの愛する人はあっちにいるじゃないか。みんなで好き勝手に愛しあってりゃいいんだ」

 娘さんは力が抜けたように廊下に坐りこんでしまいました。私は玄関から飛びだすと、真っ暗なススキの原の中を傷だらけになりながら突っ走りました。

 ようやく街の明かりが見えてほっとしたとき、私の前に人影が立ちふさがりました。はっとして見ると、それはあの白髪頭の作家でした。私はあっけにとられました。まったく、スパイ映画を地で行くような奴で、いったいどうやって先回りしたものか、見当もつきません。

 男は沈んだ顔で、「見たね」と言いました。

 私が黙ってうなずくと、男は、

 「弁解はしないよ。しかし、あんたは物事の表側しか見ていない。あのかたのところに通う人たちは、みんな遅かれ早かれああなる。普通の喜びでは、満足できなくなるんだ。あのかたは、底知れぬ喜びの源泉だ。近づけば近づくほど、それまで知らなかった喜びが得られる。あのかたのそばにいて、ただ話を聞くだけで満足するのは、ごちそうを満載したテーブルについて、においをかぐだけで満足するようなものだ。あんたは二つの醜い肉体のからみあいを見たろう。よろしい。第三者からそう見られることを私は否定しない。だが本当は、そこにあるのは肉欲なんかじゃない。かぎりなく純粋な精神の交歓なんだ。あんたも一度は仲間となった人だから、わかるだろう。来なさい。来て、僕らの喜びを分かちあうんだ」

 男は私のほうに手を差しのべました。私は黙って男のそばをすり抜けると、街にむかって歩きだしました。そのとき、男が背後でつぶやくように言うのが耳に入りました。

 「あんただって、好きな女となら、平気であんなことするだろう」

 私はそのまま男を残して去りましたが、その言葉は家に帰ったあとも私の心に突き刺さっていました。確かに、好きな女となら何ということもない。私が嫌悪を覚えたのは、単なる偏見なんじゃないか。新しい世界の扉を、小さな了見で閉ざしてしまったのじゃないか。でも、何度考えても生理的にだめだった。そんな自分が情けなく、万歳丸の笑顔が胸にしみるほど懐かしく、私はぐるぐると考え込み、とうとう寝ついてしまいました。

 四日も物を食べずにじっとしていると、心配した親がやってきて、私は病院に入れられました。病室の天井を見つめながらぼんやりしているうちに、だんだんあきらめがついてきました。私のような凡庸な人間には、耐えられる世界じゃなかった。そう思うことにしたんです。すると、万歳丸の家でのあの楽しい語らいのようすが幻のように浮かんできて、涙があとからあとから出てきました。あおむけになったまま黙って涙を流し続けている私を、看護婦が不思議そうに見つめていました。

 退院しても、二度と万歳丸のところには行きませんでした。以来、漫画にもまったく身が入らなくなった。結局、私の才能と見えたものも、実は万歳丸からもらったものだったんですね。私はさっぱりと漫画家をあきらめ、親類の世話でこの店を持たしてもらって、いまの仕事をはじめました。

 そういうことです。あのとき万歳丸についていくことを選んでいたら、もっと面白いお話ができたかもしれません。でも、そうしていたら、ここでこんなふうに落ち着いてお話しすることもなかったでしょう。私はいまの暮らしが気に入っています。結局、それが私の分というものだったんでしょうね。

 

 ふと気づくと、マスターの前には誰もいなかった。そこに誰かがいたという証拠には、空のコーヒーカップが一つきり。しかし、その人がミスター六軒と名乗ったというのは、本当のことだったのだろうか。マスターの中で、長いあいだ閉じこめられていた物語が、語られることを求めて、ミスター六軒という伝説の人物の姿を見せたのでないと、はたして言い切れるだろうか。

 マスターは夢から醒めたように、カウンターを拭きはじめた。

 

 

 

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