夜の怪物
夜の怪物を知ってますか。
私がはじめてそれを見たのは、もうずいぶん昔、まだ学生時代のことだった。実をいうと、それは私の学生時代最後の晩だった。家庭の事情で学校をやめねばならなくなり、翌日から歓楽街の店に働きに出るというその夜のことだった。
隣で寝ている母親に聞こえぬよう、私は布団にもぐって息を殺して泣いていた。母親の前では気丈にふるまっていたものの、慣れない仕事を前にして激しい不安と絶望にとらわれていたのだ。
蒸し暑い夏の夜だった。泣き疲れて、それでも眠ることができず、私は開け放した窓に明滅するネオンサインをぼんやりと見つめていた。ふいに、風もないのにカーテンが動いた。はっとして見ると、明滅する明かりの中で、何かのっぺりとしたものの大きな影が窓の下縁に沿ってじりじりと動いているのがわかった。耳を凝らすと、かすかに獣のような低い息遣いが聞こえた。
私は金縛りにあったように動けなくなってしまった。近づいてくる影を見つめながら、来るな、いや、来るなら早く来てくれと念じ続けた。しかし、影の動きはうんざりするほどのろかった。私はしだいに、それが本当に近づいているのかどうかさえわからなくなった。脅かすような低い息遣いだけが執拗に続いていた。
いつのまにか気を失ったらしい。目が覚めると、もう暑い日差しが部屋の中に差しこんでいた。ゆうべの恐怖がよみがえってきて、慌てて窓の外を調べてみたが、何の跡も残ってはいなかった。ひどく無気味な思いだったが、あとで考えると、このできごとのために新しい環境に対する不安がずいぶん紛らされたのだ。
次に私がそいつに出会ったのは、そんな記憶もそろそろ薄れかけた、その年の冬のことだった。はじめての仕事に対する不安や緊張も、このごろはかなり薄らいで、客あしらいにもいくぶんか慣れが出てきた。
ある夜、私は店が引けたあと客に誘われて、雪の積もった道を二人で歩いていた。そんなことはまったくはじめてのことだった。それまでも何度か誘いはあったのだが、いつも断ってきたのだ。今夜の客はまだ遊び慣れぬらしい若い男だったのと、私自身の仕事に対する慣れも手伝って、ふと誘いを受け入れる気になったのだ。
とはいっても、これから二人でどうするのか、私にはまったく心構えができていなかった。その点では相手の男も同じだったらしく、私たちはいつまでも雪の中を言葉少なに歩き続けた。もしかしたらこのまま夜が明けるまで二人で歩き続けることになるのかもしれない、それでもいいと私は思った。また、相手の男が思い切ってどこかに誘うなら、素直についていこうと思っていた。
遠くの道を貨物列車が横切っていった。汽笛の音が静まり返った雪の街に響いた。それをきっかけにしたように、男は私の前に立ち止まった。一面に灰色の街の景色が、男の黒い革ジャンで真っ二つに断ち切られた。寒さのせいか、さっき飲んだ酒のせいか、男はつるりとしたきれいな顔を真っ赤にしていた。男の口から湧き出す白い湯気が、何かの機械が動作しているさまを思わせた。
私はひどく無感動に男の言葉を待っていた。男の口からどんな言葉が出ても私はうなずくつもりでいた。一面に降り積もった雪が私の心まで無機物にしてしまったようだった。
しかし、男は口を開かなかった。そのかわりに男の表情がみるみる奇妙に歪んでいった。そのとき私は背後に獣のような低い息遣いを聞いた。男は私の肩越しに後ろを見つめ、喉が詰まったような声を立てた。次の瞬間、男はわけのわからない叫びを上げながら雪の中を転げるように逃げていった。
私は振り向くことができなかった。ただじっと立ったまま、背後の気配をうかがっていた。やがて、雪の上に何かを引きずるような音とともに、獣の息遣いはしだいに遠ざかった。あたりに静寂が戻ったとき、私はようやく振り返ることができた。雪の上に奇妙な跡が目の届くかぎり続いていた。それはちょうど、手足に鋭い爪のある巨大なアザラシが雪の上を這っていったような跡だった。奇妙なことに、それは這っていった跡だけで、そこまでやってきた跡がどこにもなかった。
それからも同じようなことが何度かあった。噂が広まり、私は何とはなしに客たちから疎まれるようになった。いづらくなって私は店を辞めた。
それから私はさまざまな店を転々とした。どこも長続きしなかったのは、客とも同僚ともしっくり行かなかったからだ。面とむかってお高くとまっていると悪口を言われたこともある。私自身は、不器用とはいえ精一杯の努力をしているつもりだった。だが、私がなにか思いきったことをしようとすると、いつも背後にあの無気味な獣の息遣いが聞こえるのだ。
考えあぐねた末、私はある宗教団体の門を叩いた。そこの教主は除霊に際立った力を発揮するという話だった。私は何十畳敷きもあるような大広間に通された。教主が床の間を背にして坐り、そのまわりを老若さまざまな二十人くらいの信者たちが取り巻いていた。教主は私とそれほど違わないくらいの若い女だった。白装束からのぞいた腕がある種のウジ虫を思わせるようにむっちりと白く太っていた。
教主がうなずくと、背広を着た中年の男が私に「教主のお前へ」と促した。私は教主の面前まで膝行した。一瞬教主の顔に軽蔑の表情が浮かんだような気がして、私は顔を赤らめた。こんな所へ来るのではなかったと思った。いつものように家で自分を哀れみながら泣き寝入りしていたほうがよかった。
「悪霊じゃ」と教主は大声で言った。「お前の自堕落な生きかたが、悪い霊を呼び寄せたのじゃ。悔い改めよ。さもなければ霊がお前を食い尽くす」
それから、意味のわからない呪文が朗々と唱えられた。信者たちは頭を垂れて聞き入っていた。
ふいに呪文が止まった。部屋の中は完全な静寂になった。そのとき、私は背後に獣の声を聞いた。
顔を上げると、教主は真っ赤な顔で口をぱくぱくさせていた。その目には信じがたいものを見た恐怖の表情が宿っていた。隣にいた背広の男は、わけがわからない様子で教主と私のほうをかわるがわる見比べていた。しだいに信者たちがざわつきはじめた。
やがて教主はがっくりと肩を落とし、くずおれそうになった。背広の男が慌ててその体を支えた。
獣の息遣いはしだいに密やかになって、消えた。教主は荒い息をつきながら、「霊は去った」と投げ出すように言った。「行け、二度と来るな」
外に出て歩きだそうとすると、にこにこと笑っている一人の男と目があった。私は、さっき大広間の信者たちのあいだに彼の姿を見たのを思い出した。ぼろぼろに着古した丈の長いベージュ色の上着を着た、小柄な若い男だった。
「あなたのお話、興味深く聞かせてもらいました」と男は言った。「そいつは、悪いものではないと思います。むしろ、あなたを守ろうとしているようだ」
「守る?」私ははっとして聞き返した。そんなことはいままで考えたこともなかった。
「そうです。これは臆測だけれど、あなたはいまの自分が本来の自分ではないと思っている。そして、そいつはあなたのその思いを分かちあっているんです。だから、あなたが本来の自分を失いそうになったとき、そいつが現れる。警告のために」
「警告のために」
「そうです。だから、そいつはあなたに何もしようとはしない。ただ、あなたの心に深い印象を残して、生きかたを変えざるをえなくするんです」
「そんなこと、考えてもみませんでした」私はぼんやりと言った。
「そうでしょう。それを知っていれば、あなたのそいつへの対しかたもおのずと変わるはずです」それからその男は、つと私の耳に口を寄せて、「あの教主が言ったことを信じる必要はありませんよ。人に見えないものを見る力はあっても、見たものを理解する力がない」とささやくと、すたすたと行ってしまった。
いまでも不思議なのは、あの男がなぜあの広間にいたのかということだ。信者以外の者がそんなに簡単に入りこめる場所ではない。ひょっとしたら、と私は空想する。あの男は自分の姿を見えなくする方法を知っているのじゃないか。あのぼろぼろの上着は昔話の隠れ蓑のようなもので、彼はあれを着ていつでも好きな場所にもぐりこむことができるのじゃないか。
それから私は少し生きかたを変えた。自分を哀れむのをやめ、客に対しても同僚に対しても自信を持って接するように心がけた。気が進まないことは堂々と断った。そのうち、同僚たちも私に一目おくようになった。あの獣はもう現れなかった。
夢のように十年が過ぎた。そのあいだに、暮らしのすべてを私に頼っていた病身の母は亡くなっていた。ある日、私の容色が昔と同じでないのを思い知らせるできごとが起きた。私は店を辞め、その足で近くの見晴らしのいい丘に登った。
私が青春のすべてを過ごした歓楽街が、足元に広がっていた。昼間の光では、そこはなんだか薄汚く見えた。まだ数年は、習い覚えた手管で仕事を続けることができるだろう。でも私にはその気はなかった。あすからの暮らしのあてはなかったが、私はひどくさっぱりした気持ちだった。
それから夜まで、私は木枯らしの吹く街を一人であてもなく歩き回った。もう深夜に近い時刻、独りぼっちの部屋に帰ると、私は石油ストーブに火をつけ、冷たい布団の上に冷えきった体を投げ出した。
そのとき、思いがけず、涙があとからあとからあふれだした。悲しいことなんてないはずだと自分に言い聞かせても、涙は少しも止まらなかった。それまでの人生で一度も経験したことがないような底知れぬ深い悲しみだった。私は身をよじって泣いた。
それからどうしたのか、記憶がない。はっと気づくと、周りは見渡すかぎり炎の海だった。そこには何一つ生きたものの姿はなく、すべてが赤い炎となって燃え上がっていた。世界が破滅したのだ。そう私は思った。とたんに、圧倒的な解放感が私を包んだ。私は踊りだしたいような気分になった。そうか。世界は破滅したんだ。
ふと気づくと、足元に奇妙な形のものが横たわっていた。それは魚の腹子のような白いのっぺりした胴体に、鋭い爪のある手足を持ち、澄んだ小さな目で私を見上げていた。聞き慣れたあの獣の息遣いを、私は耳にした。
「そうなの。あなたなのね。来てくれたのね」
私はひどくいとおしい気分になって、身を屈めるとそいつの頭を抱きしめた。そいつは猫が抱かれたときのようなごろごろいう音を出した。
「お前だけが、最後まで私についてきてくれるのね」
夜の怪物はうなずいたようにみえた。私はふと、ずっと前に宗教団体の門前で奇妙な男から言われたことを思い出した。そいつは、あなたの心に深い印象を残し、生きかたを変えざるをえなくする。
「ごめんね」私はそいつの耳と思われるあたりにささやいた。「お前のせっかくの好意を無にしてしまって。私は生きかたを変えることができなかった」
怪物は澄んだ目で私を見上げていた。
「でも私は後悔しない。どんな人生でも私の人生だもの。それは最後になってはじめてわかることなのね」
怪物はもう一度うなずいたようにみえた。それは私の勝手な思いこみだったかもしれない。でも、彼には何もかもわかっているのだと私は感じた。たった一人でも、それが人生の最後であろうとも、すべてをわかってくれる相手に出会えるなんて、何と幸せなことだろう。私はもう一度怪物を強く抱きしめた。
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