憂鬼
勤め帰りに、家の近くの路地で、一匹の憂鬼を見た。犬くらいの大きさの体を前かがみにして、ひたいに皺をよせ、とぼとぼと歩いてゆく。
ドアを開けると、あんのじょう、妻はソファにうつぶせて、両手で顔を覆っていた。肩に憂鬼が乗って、苦しむ人の戯画のような顔をこちらに向けている。私は物も言わず、そいつのぶよぶよした腕をつかむと、窓を開けて外に放り出した。
「あいつらに甘い顔を見せちゃいけないって言っただろう」
「だって、しょうがないでしょう」妻は顔を覆ったまま、のろのろと答えた。
もう一年近くも奴らの姿を見ていなかったから、ひょっとしたらこのまま縁が切れるのじゃないかと期待していたが、甘かったようだ。一度あいつらに取りつかれたら、妻には自分で追い払う力がない。またしばらくのあいだ、忍耐の日々が続きそうだ。
私は台所の電灯をつけて、換気扇を回した。かび臭いような憂鬼の体臭があたりにこもっていた。冷蔵庫を開けて食べるものを探した。もやしとベーコンがあったので、野菜炒めを作ることにした。
妻はソファの上でかすかなうめき声を上げている。憂鬼に付きまとわれる苦しさは、誰より私自身がいちばんよく知っている。だからといって、どうしてやることもできない。私にできるのは、気力を失った妻が飢え死にしないように面倒を見ることだけだ。
妻と私は学生時代に知り合った。私たちは同じ学年で、同じサークルに所属していた。社会問題に関する本や雑誌の記事などを輪読するサークルだった。当時の妻――理恵子は、小柄だが、物言いがはっきりして、よく目立った。四年生の元部長が酒の勢いで口説いてきっぱりとふられたとか、その手の噂がときどき耳に入った。内気で口下手だった私は、いつもまぶしくながめているだけだった。
彼女はときどき、二週間ばかりのあいだ、いっさい学校に姿を見せず、電話にも出ず、消息を絶ってしまうことがあった。それがたびかさなるので、いつか「天の岩戸」という言いかたができた。
「理恵子さんは?」
「天の岩戸」
そこで、もっともらしくみなうなずくのだ。そのくせ、誰もその理由を知らなかった。岩戸ごもりが明けて再び姿を現すとき、彼女はいつも青い顔でひどく憔悴した様子だったので、冗談めかして理由を聞くのもはばかられた。誰もがそこに何かの秘密を感じ取って、触れるのを恐れていたのだろう。
十一月はじめの、冷たい雨の降る日のこと、生協の二階の喫茶室でぼんやり考え込んでいると、机の向こうに人の気配がした。顔を上げると、そこに理恵子が立っていた。雨の中を傘もささずに来たらしく、あざやかな赤の毛のコートに、細かい水滴が一面に光っていた。「坐っていいですか」と彼女は尋ねた。
ちょうどそのとき、私は彼女のことを考えていた。彼女は岩戸ごもりの最中で、遠目にも姿を見ることのできない寂しさに、その日の雨の風景が似合っているように思われた。その人が突然目の前に現れたので、私は妙に非現実的な気分になった。
彼女は私の向かいに腰を下ろした。こんなに近くで彼女の姿を見たのは初めてだった。ひどくやつれて、ウエーブのかかった髪が五、六本、長く乱れて、かさかさに荒れた唇に貼りついていた。彼女は痛々しいようなほほえみを浮かべ、こう言った。
「高原さん、経済学概論は取っておられますよね」
「ええ」
「お願い、ノート貸してくれません」
私は喜んで、求めに応じた。できるなら、西洋史概説も、文系数学も、お手伝いしたいところだったが、私たちが共通に取っている科目は一つしかなかった。私にはそれがひどく残念だった。
でもそれがきっかけとなって、私はときどき彼女と冗談を言いあったりできるようになった。冬が過ぎ、春の気配が訪れるまでのあいだ、私はとても幸せだった。そして、三月の試験を前にして、彼女は突然また学校に来なくなってしまった。
そのとき私は何の前ぶれもつかむことができなかった。ほかの皆は、少なくとも表向きは、またかという顔をしているだけだったが、ここ数か月の間にずいぶん彼女のことを理解できたようにうぬぼれていた私は、ひどい衝撃を受けた。
雪解け水が流れる道を、私は彼女のアパートの方角へ歩いた。特にはっきりした目的があるわけではなかった。ただ、なんとなくそちらへ足を向けずにいられない気持ちだった。
遠くからアパートの窓を見上げただけで、訪ねてゆく勇気は出なかった。しばらく未練がましくそのへんをうろうろしてから、もと来た道を戻った。
ふいに、後ろから誰かが早足で追い越していった。「公園に妙なものがいたな」という独り言を聞いたような気がした。
その人はたちまち角を曲がって見えなくなってしまった。ぼろぼろのベージュ色の上着だけが目に残った。
私は引き返して、公園に歩み入った。
高い木立に、雀が鳴いていた。雪解けのしずくが枝からしたたり落ちる響きがあたりに満ちていた。日に照らされたベンチの上に、私は彼女の姿を見つけた。やっぱりそうだ、と私は思った。やっぱり、私たちは出会うことになっていたんだ。
黙って隣に腰をおろすと、彼女は物憂げに顔を上げてこちらを見た。はじめは、私が誰だかわからないようだった。私はほほえもうとしたが、彼女のやつれはてた姿に衝撃を受けた。
そのとき、彼女の背後に、私は憂鬼の姿を見た。
私はあっと叫んだ。その叫びに、彼女ははじめて気づいたように、「高原さん」とつぶやいた。彼女は私の表情を見、私の視線を追って、はっとした様子になった。
「見えるの、高原さん」
「見える」私はうなずいた。「子供のころ、よく悩まされた。こいつらがくると、どうしようもなく気持ちが沈んで、何をする気も起きなくなる。両親やほかの人たちには見えなかったから、うそをついてずる休みをするといって、さんざん叱られた。でも、一度こいつらに付きまとわれたら、自分でもどうしようもなかった」
「そうなんです」彼女は私にすがりつくような格好になった。「いやなことや悲しいことばかりが心に浮かんできて、食事をとる気にもなれなくて。でも誰も信じてくれないんです。高原さんには見えるんですね。本当に見えるんですね」
私は何度もうなずいた。自分でそのつらさを経験しているだけに、私は彼女に深い同情を覚えた。同時に、彼女を救えるのは自分しかいないと思った。いつしか、私は泣きじゃくる彼女の肩を抱きしめていた。
妻は重症だった。ここ一年ほど奴らから遠ざかっていたのが、かえって悪かったようだ。私たちの七年におよぶ結婚生活のあいだでも、これほどひどい妻の姿を見るのははじめてだった。夜寝る前に、力を失ってゴム人形のようになった妻の体を毛布でくるみ、家じゅうの窓にしっかりと鍵をかける。それも気休めにすぎない。朝になると、毛布に包まれた妻の体が見えなくなるくらい、一面に奴らが取りついている。私は、羽化する前のセミの幼虫のような奴らのぶよぶよした茶色の体を一つ一つ妻から引き離し、窓の外に放り投げる。そして、せめて失われた生気のいくぶんかでも補ってやろうと、妻の体を抱きしめ、さすってやる。
私は会社を休んで妻のそばにいてやった。それでも、少しでも目を離すと、どこからともなく憂鬼たちが現れて、憂いに満ちた、だがなんの意志も持たない目で、こちらを見つめている。私は馬鹿にされているような気がして、手荒く奴らをつかみ上げ、窓の外の地面にたたきつける。気がつくと、妻がおびえた目でこちらを見上げている。私は妻のそばにひざまずき、「ごめんね」と言って頭を抱きしめる。妻にはもう返事をする力がない。
夕方、妻の様子が少し落ちついたのを見はからって、家を出た。さっき、妻が寝ている隣の部屋から、会社に電話しておいた。妻には聞こえないし、聞こえたとしても理解する力はないだろう。
駅前の喫茶店で、田宮愛子はもう待っていた。「奥さんのお具合、いかがですか」と尋ねる。私はあたりさわりなく答えておく。妻の病気の本当の理由は、もちろん誰にも言っていない。
半時間ほどかけて、愛子から仕事の進み具合を聞く。そんなに時間のかかる内容ではないが、あれこれ冗談を言ったりして引きのばす。愛子もそんな時間を楽しんでいるらしく、なかなか切り上げようとはしない。それでもとうとう時計を見て、「奥さんのそばにいてあげなきゃ」と言った。
私はなごり惜しい気持ちで立ち上がった。「今日はありがとう」と言うと、愛子は「高いよー」と答えて、大きく口を開けて笑った。妻が決して見せたことのない表情だった。
家に戻ると、意外にも妻はソファに坐っており、こちらを見て「おかえりなさい」とほほえんだ。いつのまに回復していたのだろうと私は思った。さっきの電話を、聞いていたのだろうか。
二年前に体を悪くするまで、妻は予備校で英語を教えていた。ここしばらくは翻訳など家でできる仕事だけにしていたのだが、「予備校の仕事、またはじめようと思うの」と言いだした。
「無理しないようにね」と私は答えた。
妻はいつのまにか昔の知り合いと連絡を取って、話を進めていたらしい。翌月から、毎週土曜と日曜に講壇に立つことになった。
仕事を再開すると、やはり体が疲れるらしく、妻は朝寝することが多くなった。私の休日には仕事に出ているので、いっしょにいる時間が減った。
妻が家にいたあいだ、休みの日は二人でゆっくり朝食を取って、時間をかけて部屋の掃除をして、そのあとのんびり本など読みながら過ごすのが常だった。一人になってみると、そんなこともなんとなく張りあいがなく思われた。私は外に出ることが多くなった。
妻は外出すると疲れやすいたちなので、最近私は好きな観劇からも遠ざかっていた。思い切って田宮愛子を誘うと、ころころと喜んでついてきた。
昼食のとき、愛子はいきなりスパゲティの大盛りと茸のグラタンと山盛りのサラダを注文し、あっというまに全部たいらげて、さらにチョコレートケーキとアイスクリームを追加した。
「こんなに遠慮なく物を食う女は、はじめて見たな」と私はあきれて言った。
「やだなあ。払うのが惜しいならそう言ってくださいよ。言っても遠慮しませんけど」と愛子は答えた。
おなかがいっぱいになったせいか、愛子は劇場でほとんどの時間を寝て過ごした。私は彼女の長い髪が自分の肩に振りかかるのをそのままにしておいた。
「今日はごちそうさま」と別れぎわに愛子は笑った。人形のように端整な顔が、笑ったときだけ見事に崩れて福笑いのようになるのだった。あまり笑わないほうがいいよと忠告しようかと思ったが、別れたあといちばん心に残っているのは、盛大に崩れたその笑顔だった。
ある日曜日、愛子と別れて家に帰る途中で、私はまた憂鬼の姿を見た。少し日が長くなりはじめた夕暮れの薄明かりの中を、右に左に体を揺らしながら歩いていた。地面に影を落とさないその小さな姿を見送りながら、私は思わず舌打ちした。
妻がどんな姿でいるか、ドアを開けなくてもわかっていた。たぶん、予備校の授業は途中で放り出してきたのだろう。あとでわびの電話を入れておかなければならない。仕事をするなら自分の状態くらい把握しておけよと、私は心の中だけでつぶやいた。そんなことを妻にむかっては言えなかった。
言えば、今までの七年間が全部むだになってしまう気がする。
その夜、いつものように憂鬼たちを追い出し、妻を毛布にくるんで寝かしつけ、厳重に家じゅうの戸締まりをしてから、私はどうにもたまらない気持ちになり、電話にむかって田宮愛子の番号を押した。
「どうしたんですか、珍しい」と愛子は眠そうな声で言った。背後にテレビから流れてくるらしい騒がしい笑い声が響いていた。
「なんでもない」と私は声をひそめていった。でも、その上何を言ったらいいのかわからなかった。
すると愛子は、今まで一度も聞いたことのないような優しい声で、
「あした、また、会社でね」と言った。
「うん」と私は子供のようにうなずいた。それ以上言うと、泣き声になりそうだった。
憂鬼の群れは疲れを知らなかった。私がいくら力をこめて引きはがし、たたきつけても、一時間もたてばまたびっしりと妻のまわりを取り囲んでいるのだった。ほっておけば、家の中は奴らの体で足の踏み場もなくなりそうだった。
ふらつく足で玄関に出ると、そこにも一匹の憂鬼が、まるでいま訪ねてきたお客さんとでもいうように、ちょこんと立ってこちらを見上げていた。私は壁にもたれたまま、奴とにらみあった。いくら力をこめてにらみつけても、奴の意志のない瞳は震えすらしなかった。
「奥さん、大丈夫なんですか」と愛子は探るような目つきでこちらを見た。
「もう大丈夫。もともと体が弱いだけで、別に病気とかそういうわけじゃないんだ。無理さえしなきゃなんでもない」
「そうなんですか」愛子はたちまち邪気のない笑顔になって、「じゃ今日はまたたんとごちそうしてくれますね」
「当然。でも、昼は少し控えたほうがいいかもしれない。夜にもっと豪華なのが待ってるから」
「もう感激。一生ついてきます」愛子は私の腕にすがりつく真似をした。
三月だというのに、夜風は冷たかった。久しぶりに飲み過ぎて、頭が自分のものでないような気がした。最後に入ったカラオケスナックで、マイクをつかんで大げさな身振りで歌っている愛子の姿が記憶の中に焼きついていた。まわりで知らない若い男たちがやかましい喝采を送っていた。歌い終わると、愛子は私のテーブルに戻ってきて、そのまま私の胸に倒れこんだ。酔ってよろけたのか、よろけたふりをしたのか、よろけたふりをしたと思わせたかったのか……
ドアを開けると、家の中は真っ暗だった。なんだか妙に冷え冷えとした感じがした。気がつくと、今朝がたまでもう生活の一部のようになっていた憂鬼のかび臭い体臭が、すっかり消えていた。ドアを閉めて、電灯をつけた。妻はいつものように、ソファの上にいるはずだった。
ソファの上に残っていたのは、妻の首だけだった。体はどこにもなかった。憂鬼の群れが、食いつくしてしまったのだ。
私はひざまずいて、妻の虚ろな目をのぞきこんだ。たぶん、こうなることを私は予期していた。まるで蟻にたかられた昆虫の死骸のように、びっしりと憂鬼どもに取り巻かれた妻を残して、家を出てきたときすでに。
「私、知っていたのよ」
唇を動かさずに、妻が言った気がした。
「あなたに好きな人ができたこと。だから、お休みの日は一人にしてあげたでしょう」
「そうやって、おれを責めるのか」と私はつぶやいた。
「おれはおまえを救いたかった。今だって、もしおれの力で救えるなら、どんなことだってする……。でも、人は、毎日の暮らしに耐えていかなきゃいけないんだ。なんの支えもなしには、生きられないんだよ」
「さよなら」と妻はささやいた。そしてそれきり、何も言わなかった。
私は愛子と結婚し、一年後にはまるまると太った息子ができた。今でもときどき憂鬼の姿を見る。テーブルの下や、カーテンの陰から、ぼんやりとした目でこちらをうかがっている。
今になって、妻が憂鬼たちに抵抗できなかったわけがわかった。奴らの視線には、不思議な引力がある。ときどき、家族も仕事も、地位も責任も、何もかも放り出して、何も感じず、何も考えず、ただ奴らに身をまかせてしまいたくなる。
幸いなことに、愛子たちには憂鬼の姿は見えないようだ。私は――今のところは、愛子や息子の笑顔が、私を引き止めてくれる。だが、いつの日か、心が弱ったときには、奴らの誘惑に負けてしまうかもしれない。そのとき私は、妻の――私が愛した理恵子のもとに帰るのだろう。
今日も、憂鬼は私を見つめている。
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