| 功績 − 人物 |
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| 毛沢東 |
| (1893年12月26日 ― 1976年9月9日) 湖南省湘潭県韶山村生まれ。中国の軍人、思想家、政治家 中華人民共和国初代主席(1954年 ― 1959年4月27日) 有名な言葉 『政権は銃口から生まれる』 |
| 1928年から1933年の5年間、毛沢東率いる紅軍により資本家階級の消滅を目的に支配地区の10万人とも言われる農村の地主などを即時処刑し財産を没収した。 |
| 1949年、毛沢東率いる中国共産党軍は蒋介石の国民政府軍との内戦に勝利し、政権樹立をしたが、翌年の1950年初頭から『土地改革』として農村地主などの即時処刑と財産没収を全国規模で行い200万人が命を落としたと言われている。 |
| 1951年、毛沢東の命令による全国規模の『反革命分子鎮圧運動』が行われ、1年間で71万人の罪状、真偽不確かな「反革命分子」とされる人々が一定地区ごとのノルマ制で選別され、人民裁判にかけられて即時銃殺された。 |
| 近代的な共産主義社会を作る目的で1958年から1960年まで行われた、農工業の大増産政策である『大躍進政策』の失敗で1958年から1961年までに少なくとも2,000万人の餓死者を出した。この人災では4,000万人の餓死者が出たとする説もある。 |
| 毛沢東らが引き起こした『文化大革命』という1960年代後半から1970年代前半まで続いた封建文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しようという運動であるが、その実態は権力闘争であり、中華人民共和国の人民の大粛清が行われ1,000万人以上の死亡被害者を出したと総合的判断ではされている。 しかし、現在でも完全には行方不明、死亡者数は判明しておらず、「数百万人説」や「3千万人説」もある。 また、この文化大革命中の被害者には1968年4月から1970年春にかけて、内モンゴル自治区で起こった非常に残虐な方法での殺害が行われた『内人党冤罪・虐殺事件』などもある。 |
| ケ小平 |
| (1904年8月22日 ― 1997年2月19日) 四川省広安県客家系地主の家系生まれ。16歳でフランスに留学。生涯に3度失脚し復活。中華人民共和国の政治家 中国共産党中央軍事委員会主席(1981年 ― 1989年) 有名な言葉 『白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である』 (「白い猫」ではなく「黄色い猫」との説もある)。 『豊かになれる人から先に豊かになれば良い』 |
| 1989年6月4日の『第二次天安門事件』(六四天安門事件)で学生運動の武力弾圧を行った。 |
| 第二次天安門事件での死傷者数は 中国共産党の遅浩田国防部部長が1996年にアメリカを訪れた際に、「天安門広場では1人も殺されなかった」と発言し世界から反発を受けた経緯もあるが、その後、中国共産党政府の発表では、事件による死者は319人とされた。 |
| この事件による死傷者については数百人から数万人の間で複数の説があり、デモ隊放逐後、人民解放軍により死体はその場で焼却されたという情報、共産党政府により死体が隠匿されたという報道などがある。 |
| また、国際アムネスティその他の人権擁護団体では北京で死者1万人、負傷者2万人。北京以外では死者2万人、負傷者4万人の被害と推定している。 |
| 事件から現在に至るまで政府ぐるみで事件の隠匿が行われている為、実際の被害は不明である。 |
| 第一列島線、第二列島線の策定 |
| 戦力展開目標ラインであり、対米防衛線である第一列島線、第二列島線という人民解放軍近代化計画のなかの概念を1982年、当時の中央軍事委員会副主席ケ小平の意向を受け劉華清提督が作成したもの。 |
| 江沢民 |
| (1926年8月17日 ― ) 江蘇省揚州市出身。中華人民共和国の政治家 中華人民共和国主席(1993年3月27日 ― 2003年3月15日) 有名な言葉 『日本に対しては歴史問題を終始強調し、永遠に口にしろ』 |
| 1996年、中華民国総統選挙に圧力をかける為、台湾海峡にミサイルを撃ち込み米軍の緊急展開を招く緊迫情況を作った。 1996年、CTBT(包括的核実験禁止条約)採択直前に駆け込み核実験を強行し、世界中から非難を受ける。 |
| 1992年、今上天皇訪中の際、「わが国が中国国民に対して多大な苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」と最大限のお詫びの言葉を述べられている。 にも係わらず、江沢民来日の1998年(平成10年)11月26日の天皇・皇后両陛下主催の宮中晩餐会の際、執拗に過去の中国側の歴史観に基づいての日本を非難する演説を行い、翌27日の当時の小渕恵三首相主催の晩餐会でも非礼な演説を行っている。それに対しては日本側各方面から強く反発された。 そして、日本政府からは経済援助として3,900億円もの円借款をお土産として持ち帰っている。 |
| 1990年代半ばからの日中関係悪化の最大原因は、江沢民政権による大規模な「反日愛国主義」の教育宣伝にある。 |
| 歴史教育は日清戦争以来の日本との戦争の歴史に重点を置いているが、江沢民政権は更に、日本軍の残虐行為とされているものを強調した教科書を作成、教師にも「日本帝国主義に対する大きな恨みを生徒の心にしっかり刻み込まなければならない」(教師用指導書)と指導した。 |
| また、大半は1990年代からの「南京大虐殺記念館」のような抗日戦争記念館を北京では「中国人民抗日戦争記念館」を、「9・18歴史博物館」を瀋陽など全国各地に約百ヵ所新設したり、改築・拡充したりした。 国民への歴史教育を徹底するため、小学生にも参観を義務付けている地方も多い。 |
| この「南京大虐殺記念館」は2007年12月13日に敷地面積は7・4ヘクタールと3倍強、展示面積も9,800平方メートルと12倍に拡張、広大な空間を使い日本軍の残虐性を強調する多数の写真やパネルを付け加え拡張再開館した。 |
| 中華人民共和国が表面的には日中友好を口にしながら、大規模な「反日愛国主義」を続けてきている事に日中間の関係改善がされない大きな一因があると言いわれるが、これは江沢民時代から始まった1つの特徴でもある。 |
| 胡錦濤 |
| (1942年12月21日 ― ) 江蘇省姜堰(祖籍は安徽省績渓)生まれ。中国共産主義青年団出身。中華人民共和国の政治家。 中華人民共和国国家主席(2003年3月15日 ― ) 有名な言葉 |
| 1989年1月、チベット自治区の共産党書記に就任。 同月の先代パンチェン・ラマの急死に関与疑惑がある。 |
| 1989年2月6日、正月の重要行事モンラム(大祈祷祭)を中止させた。これに対し、僧侶や市民が抗議のため集結し出し、胡錦濤は3月7日、共産党中央の基本政策に積極的且つ忠実に従い、ラサに戒厳令を布告してチベットの民族独立運動を武力弾圧し、ケ小平など党指導部に高く評価される。 この時、虐殺されたチベット人は数百人〜千人以上と言われている。 |
| また、別のアメリカサイドの情報では二十万人という未確認情報もある。 |
| 1989年6月の天安門事件勃発の際も民主化運動のチベットへの波及防止の為、ラサを戒厳令下に置いた。 |
| チベット自治区の最高責任者時代の4年間には分離主義者弾圧と主に漢族の為の経済建設の推進政策を実行し成果を上げた。 これらチベット自治区でのチベット人弾圧の成果が国家主席への道に繋がっている。 |
| 2008年現在、今までの中国人の大量移住政策の結果、チベット人、人口600万人に対して中国人、人口は700万人以上と構成比の逆転が成されてしまった。 |
| 2005年春からの愛国団体ウェブサイトの復活。江沢民以来の愛国反日教育の施設である記念館、博物館などの増設を行う。 |
| 2005年4月には北京で反日デモが発生し、一時中国政府による制御が不能となる。 これらの愛国教育の充実、愛国運動への緩和政策を行っていることが結果として反日活動を煽ることとなっている。 |
| 中国国内においても江沢民時代から続く、「法輪功」弾圧も継承している。 |
| 蒋介石 |
| (1887年10月31日 ― 1975年4月5日) 中国浙江省奉化県渓口鎮生まれ。日本の陸軍士官学校へ留学。辛亥革命に加わる。中華民国の政治家、軍人。国民政府主席、初代総統。中華民国元首 |
| 中華民国総統(1948年4月 ― 1949年1月・1950年3月 ― 1975年4月) |
| 黄河決壊事件(花?口决堤事件) |
| 1938年(昭和13年)6月、日本軍の武漢への侵攻阻止の為、蒋介石の中国軍は、河南省の花園口付近で堤防を爆破し、黄河を決壊させた。濁流は河南省東部全域、さらには遠く安徽省北西部までをも冠水させた。これにより1945年12月の「河南省戦時損失調査報告」では民衆の死者数について、約32万人、離郷者数約63万人という数値を提示している。 他研究では総合的に見てこの洪水による被害は、水が引いた後の伝染病の蔓延などを含め50万〜100万の人命が失われたともいわれている。 |
| 二・二八事件 |
| 1945年の日本敗戦後、中国大陸から台湾には蒋介石率いる中国国民党政府の官僚や軍人がやってきて行政を引き継いでいたが、その様な中、1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった外省人(中国人)と本省人(台湾人)との抗争である。 蒋介石により大陸から応援の軍、憲兵隊が派遣された後に大弾圧が行われ、台湾人約28,000人が殺害・処刑され、財産没収などされた。 しかもその後、1987年まで継続した戒厳令下に於いて白色テロと呼ばれる恐怖政治が続き、多くの被害が出たとされるが、暗黒裁判で処刑された人数は今でも不明である。 |
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