02771/02771 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第1回

(20)   98/04/07 14:01

                                    

       *******《風雪のアナトリア》******

       ろまねすくのトルコ紀行 第一回

 

 ヨーロッパに偏執していた私が、「トルコに行こう」と思い立って、関西国際空港からトルコ航

空との共同運行の日航JL439便で飛び立ったのは、つい先日、1998323日のこと。

 

 もうすぐ満71歳の誕生日を迎える私には、重いスーツケースをごろごろ引っ張って移動する個人

旅行は無理。例によって、某旅行会社のパッケージツァーに参加してのことだが、ここ十年来使い

慣れた会社なのでかなり気に入っている。そのモットーが出来るだけ一カ国、多くとも近接する二、

三カ国にしぼって、じっくり見て回れ、自由行動の時間も多い…という点がいい。

 

 まあ、言い訳めいたことわりはこの位にしてすぐ本文に入りたいところだが、時々、あるいは頻

繁に横道にそれたり、頭にふとよぎった感想などにも迷い込むかも知れないが、どうかご容赦願い

たい。

 

 

 

   ●旅立ち・・・アンカラまでの飛行(1)

 

〔空路について〕

 

 広島、高知、長崎など未だ頑張って市電を残している都市は別として、東京、大阪、それに私の

住まっている京都などでは、モータリゼーションの世に邪魔だと浅はかにも市電を廃止してしまっ

たが、以前は母親が泥靴でシートを汚さないかを気にしても子供たちは市電に乗ると、座席に這い

上がって窓に額をくっつけて流れていく景色に見とれている風景が日常にあった。

 

 私も、海外旅行を始めてから十五年以上、今でもこの幼児的好奇心がどうにも収まらない、熄ま

ない。幸いにして窓際の席を得ると、つい眠たいのを我慢して航空機の小さな窓から下界の風景に

見入ってしまう。

 

 例えば、1980年代…私が海外旅行に行き始めた頃。ヨーロッパへのルートはアンカレッジ経由で

20時間。夜更けに成田を飛び立って、8時間あまりのフライトののちアンカレッジ空港着。それま

では茫漠たる雲の絨毯の上。下界の景色が望まれるのは、1時間のトランジットの間を免税店巡り

に費やしたあと、再び登場したのちの飛行ルートだった。

 

 峻険な頂が雪に埋もれたようなアラスカの大地は、新鮮なショックだったし、グリーンランド付

近では真っ青な解氷面に砕けたガラスを撒き散らしたような氷山だろうか…一面に見えていた。

 同じルートでの帰路では、カナダからアラスカ中部を貫流してベーリング海峡に流れ込むユーコ

ン川が、網の目のように幾筋かに分かれて、奔放な蛇行を見せ、傾く陽光にまるで金糸のように輝

いていた。

 

 初めて海外旅行に行き始めの頃で、日本にすっこんでいては見ることの出来ない自然の荒々しい

姿に呆然としていたもの。

 

 ソ連上空の空路が開かれたあとは、モスクワ・シェレメチェボ空港2経由に、あるいは欧州各地

の空港への直行便に変わり、こんどは、新潟あたりで日本海に出て長い時間北極圏のソ連上空を飛

ぶようになった。何時間経過してもタイガに覆われた大地。レナ川、エニセイ川、オビ川など、北

極圏のラプテフ海、カラ海に注ぐ大河を、どのくらい飛行したのかの目印に、額を窓ガラスにくっ

つけながら、追い求めていたもの。

 

 ウラル山脈を越えるとき、ちょっとした乱気流で揺れを感じただけの平穏な飛行を続けたのち、

モスクワ・シェレメチェボ2空港が近づいたとき、初めて地上に人間の生活の営みを現す直線道路

が見えたが、下がり始めた機内から見えた景色は無数の湖沼群。縮尺の大きい世界地図では単なる

平原を表す緑色にしか示されていないが、無数の湖沼がかなりの広さに分布していた。これも旅

なければ見えてこない風景なのだ。

 

……と、これまでに経験してきた二つのルートの印象を書いてみた。

 

 ところで、今回の飛行ルートはどんなものだろうか?

 旅行会社からもらった資料には、飛行ルートを類推できる資料がない。頼みは、機内誌に載って

いる空路図しかない。

   予定表では、関空発 12:00

   実際には、搭乗…  12:10

     テイクオフ…  13:00

 

 舞い上がって淡路島を眼下に高度を上げて行き、兵庫・岡山県境あたりから中国地方を横断、出

雲付近で日本海へ。ほぼ上昇し終わると、一番に機内誌をチェック。

 日航・トルコ航空の共同運行だが、機体はトルコ航空のA300-400

 それで、機内誌は日航のものとトルコ航空のものと二冊あった。

 

 …で、飛行ルートを見ると、韓国の中程、遼東半島、北京ねゴビ砂漠の南部、アルタイ山脈の南

…あるいは天山山脈の辺り、アルマアタ、タシケント、とシルクロードに沿って西へ、カザフ、ウ

ズベク、トルクメンのソ連崩壊後に成立した新しい各共和国の上空を飛行、カスピ海を横断して戦

前から油田で名を知られたバクーを通って、トルコの黒海沿岸を通過、イスタンブールに入るルー

ト。

 

 ブラボー…初めてのルートだ。アルマアタからタシケント付近では相当にヒマラヤの屋根に近づ

くようだった。果たして、世界の屋根と称されている神の棲む山々が眺められるだろうか?

 少年の日々のようにわくわくしてくる。

 

                          【第1回おわり】

 

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-**-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

おことわり●

 第24回まで書きつづってきた「まだらボケ風…旅風景」は、旧西満の開通から延吉に向かう時

点まで書き進めてきましたが、延吉の資料が近々入手できる目途がつきましたので、それまで一時

休筆します。

 遠からず再開しますので、何卒ご了解を。           ろまねすく

 

 

       98/04/07() 11:03 ろまねすく(HAC01341)

       http://member.nifty.ne.jp/romanesque/

 

 

 

 

 

 

 

02800/02800 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第2回

(20)   98/04/09 16:41

                                    

             *******《風雪のアナトリア》******

       ろまねすくのトルコ紀行 第二回 

 

 

   旅だち…アンカラまでの飛行(2)

 

〔下界の眺め〕

 

 とかく海に囲まれた日本周辺は、いつも、べたーっとした雲の絨毯だったことが多い。夏には層雲の絨毯を

やぶって、薄気味悪いほどの入道雲がもくもくと立ち上がり、ああ、ひどい雨の日はこの雲の底をみているの

だなあ、と思っていた。飛び立ったばかりの時は、真綿を広げたような雲。半分、今日も駄目かなあ…と諦め

ながらも、ひょつとしたら…という希望も。

 

 しかし、飽きもせず小さな窓に額をくっつけていると、見えた!雲の切れ目から出雲らしい平地、やがて青

い水面を見せる日本海。だんだん雲量も少なくなって行くようだった。

 

 再び陸地。たしか韓国の真ん中あたりを横切っているはず。飛行機の進行方向の左手の席(喫煙席の一番前

35番K、かなり後部なので視野がかなり広く主翼には邪魔されないのでラッキー)という位置を頭に置き、

膝の上に置いた機内誌と眼下の風景を見比べる。再び海上に出た。すぐ、山東半島と旧満州の遼東半島が視認

できる。

 

 天津と北京の間を飛ぶはずだが…。

このあたりまで、ドリンクとそれに続く昼食で忙しい。天津も北京もひょっとすると見逃したのかも知れない。

 が、明の十三陵らしいものは認められた。円墳らしい緑の小山につづく大きな通り…見間違いかも知れない

が、まあ見たことにしておこう。

 

 黄土高原にはいったてしばらくすると、眼下には一面の石ころだらけに見える黄褐色の世界。砂漠?中国の

内蒙古だろうか、あるいはモンゴルの南端をかすめているのだろうか?

 

 1万メートル上空から見下ろす単調なデザートの風景がしばらく続いたのち、全山が雪に覆われた山脈が現

れる。天山山脈だろうか。いや、そうではあるまい。北緯四〇度付近を西に向かっているのでから、きっと、

祁連山脈だろう。天山山脈なら北側になる右手に見えるはず。とルート図と首っ引きで考えるのも、十三時間

余におよぶフライトタイムをやり過ごす絶好の手段。

 

 ここで、気付いた。カザフスタンのアルマトイ(アルマアタ)に近づいている頃で、かなりパミール高原、

ムカラコルム山脈に接近してきている筈だ。ひょっとすると、エヴェレストは見えなくても、七千メートルか

八千メートル級の雪嶺が望めるかも知れない。

 

 俄然、額にくっつれた窓の彼方に眼を凝らした。すると、再び厚さを増してきた雲の向こうに頭を影のよう

に出したギザギサとした山が!高い!

 九州の、やまなみハイウエイを南に走ってきて阿蘇外輪山にたどり着き、望見した高岳か根子岳かにそっく

りの山容だ。…これも、世界の屋根の一端を見たことにしておこう。

 

 カザフスタン共和国、キルギスタン共和国、ウズベキスタン共和国あたりも通過したいる筈だが、地名を推

定できるような目標物が見えない。とすると、次に視認できるのはカスピ海しかないだろう。

 現れた!

 地形からしてトルクメニスタン領を通過して、西岸のアゼルバイジャン共和国の昔から油田で有名なバクー

に向かっているに相違ない。すぐ南にイランがあり、西隣は査察でもめていたイラクか…。

 

 午後五時、夕食。日航・トルコ航空共同運行の食事は、チキンと鮭のソテーとのチョイス。可もなく不可

もない。もう二時間足らずで到着するため、乗務員の動きが慌ただしい。早々と食食器の回収に廻っていた。

 

 飛行十二時間余。トルコ領に入り黒海南のところをアンカラを経てイスタンブールに近づいている。残念な

ことには、左側の窓からは黒海を見ることは出来ない。

 一睡もせず、二本の映画を見ることもなく七時間の時差で、イスタンブールの空港へ。高度を下げ初めてし

ばらくすると、ちりめん皺のような細波をたてている真っ青なマルマラ海を横切る。思ったより舟影は少ない。

 

 黄昏の気配が忍び寄ってきているイスタンブール空港に無事着陸。ショックの少ないスムースな着地に拍手

。ソ連時代のアエロフロートは、乗務員は無愛想で食事も最低だったが、空軍からの転身だといわれるパイロ

ットの操縦だけは見事だった…などと思い出していた。ボーディング・ブリッジには着かなかったので、タラ

ップを降りてシャトルバスでターミナルに向かい、1時間ほどの時間待ちでトコル航空の国内線、ボーイ

ング727でアンカラへ。

 

 20時出発のTK146便は、漆黒の夜空に舞い上がる。もう窓の外は何も見えない。イスタンブールを遠

ざかると、地上の明かりもほんのわずかだった。

 午後9時。日本で言えば地方都市くらいの明かりが見えて、青く光る誘導灯のまんなかにTK146便は滑

り降りた。行政の中心…首都の空港だというのに、バゲージクレームにも到着ロビーにも我々一行以外は人影

も少なくガランとしていて淋しい。

 

 バゲージが出てくるまでに両替を済ませる。窓口でT/Cは両替できるかと訊いてみたが、キャッシュのみ

だとのこと。とりあえず2万円をトルコリラに替える。レートは1円=0.0055トルコリラ。インフレは

まだ進行しているらしい。

 

 外に出ると、肌を刺すような寒風に震え上がった。家を出る前に、インターネットでイスタンブールの向こ

う1週間の天候と、気温のデータを取ってみると、天候はあまり良くなく、最低気温は連日マイナス、最高気

温も京都の真冬より低い…とのことで、慌ててミラノで買った厚手の眼の詰んだセーターと、中綿入りのブル

ゾンをトランクに入れたが、日本からは真冬装束ではと、薄手のセーターに薄い方のブルゾンだったので、ウ

ーッ寒い。

 

 迎えの専用バスでホテルに向かった。運転手と現地のスルーガイドのムラートさん、それに何かとガイドさ

んの助手のようにこまめに走り回って用足しをしている若いムラート君。バスもこのメンバーも11日間…私

たちがイスタンブール空港を飛び立つまで変わらなかった。ちょっとユニークなガイドさんなので、次回にそ

の風貌・個性的なところを是非、紹介したい。

 

 初めてのホテル、ビューイック・スルメリ・ホテルに到着したのは、もう11時近くになっていた。キーを

貰って部屋にたどり着いたときには、もうくたくた。バスに浸って疲れを癒し、ベッドに入ったのは深夜2時。

 

       98/04/09() 16:35 ろまねすく(HAC01341)

       URU= http://member.nifty.ne/jp/romanesque/

 

 

 

 

 

02826/02826 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第3回

(20)   98/04/10 18:15

 

                                   

       *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第三回

 

 

 

    雪化粧のアナトリア大地の旅(1)

 

〔アンカラの市内観光〕

 

 昨夜は深夜2時の就寝になったが、ぐっすり寝込んだお陰で、7時のモーニングコールを待たず

に、起き出してしまった。6時半にレストランで朝食を済ませたのち、7時15分にスーツケース

をドアの外に出し、8時半に市内観光に出発。

 

 今朝はしっかり冬装束でバスへ。昨夜ね空港にわれわれを出迎えてくれたバスドライバーのジャ

ンさんと、ガイドの大ムラートさん、アシスタントの小ムラートさんの三人が揃って迎えてくた。

昨晩、寝る前にしっかりスーツケースから取り出して準備していた厚手のセーターと中綿入りのブ

ルゾンを着込んでいたが、吹き付ける風が滅法冷たい。あわてて車中へ。

 

 〔バスドライバーとガイドさんたちの紹介〕

 

 ここで、現地スタッフ三人を紹介しておこう。

 

 バスドライバーのジャンさんは、よく締まった体躯を持つ中肉、中背の40年輩で、日本語を解

しないためか、いつも柔和な表情だが私たちとの会話や交流は少なかった。

 だが、ガイドのムラーノさんとは気が合うようで、ルートの親しげにお喋りしていた。

 

 なんと言っても愉快で楽しかったのが、大ムラートさん事ガイドのムラート・オズデミル氏。

 風貌を皆さんに伝えようと思えば、週間朝日の人気ページ「似顔絵塾」の塾長、山藤章二さん描

くところの大関武蔵丸。太い眉、くりっとした眼、立ち会っているときの気迫の入ったときではな

く、機嫌のいいときのリラックスした時の顔を思い浮かべて頂ければ、間違いない。

 背は165センチほどか、あまり高くないが、見事な太鼓腹で、本人いわく。

 「うまい物を食べるのが、一番しあわせ。健康に気を使って食べ物を制限してまで、長生きした

くない」という彼は、またイスラム教に帰依するトルコ人として、「何事もアラーの決められた運

命のまま」との信念をもっているらしい。

 彼の言い分を聞くと、

 「トルコ人が自動車で踏切にさしかかると、ちょうど列車が通りかかっていて警笛が鳴っている

でしょう。でも、遮断機が下りる直前に渡っても、自分の運命がここで死ぬと定まっていれば死ぬ

し、そうでなければ無事通過できる」…と、例えを持ち出す。

 自分が何時、どこで死ぬかは定められた運命だという。ぶるぶる。我々が乗っているこのバス

だけは、運命論を持ち出さないで欲しい。

 

 彼は35歳くらい。

 日本にも留学したことがあるという。となれば、どうやら関西で過ごしたらしく、コテコテの関

西弁である。

 「そうでっしゃろ」とか「美しいところでっせ」という風。

 また、彼の日本語はどこでどう習ったのか、あるいはガイドを続けているうちに拾得したのか語

彙は驚くほど豊富なのに、言い回しに独特の癖があった。

 次の説明に移る前に、

 「いま、言います」あるいは「すぐ、言いまっせ」

 などという、間投詞めいた言葉が頻繁に挟まれる。これは馴れるまで、ちょっと異様な風に感じ

られたものだ。

 

 また彼はタバコ好きで、走行中は絶対に吸わないものの、1時間半あるいは2時間毎のトイレ休

憩で給油所に併設されたレストランに立ち寄るたびに一服つけ、発車間際にもう一服。

 

 と同時に、トルコ人らしくチャイ好きで、チャイなしには1時間と持たない。で、トイレ休憩に

立ち寄るたびでは追いつかず、走行中にもこまめな小ムラートさんが、指定席のバス最後尾の席で

何かゴソゴソやっているなと思うと、大ムラート氏の、〈飲みたくなった頃合い〉を見計らって、

お盆にチャイをいれたガラスの小さなティーカップを、最前席にどっかと巨体を占めている大ムラ

ート氏に届けるのだ。

 1日に一度は全員にもチャイが振る舞われ、お相伴にあずかる。

 

 さて、残るはまめまめしく動き回る小ムラートさん。年の頃は20台前半だろう。バス会社の従

業員なのか、大ムラート氏の子分なのか最後まで分からなかった。背丈は160センチほどでやせ

形。大ムラート氏とは際だって対照的。いつも控えめだが少々は日本語を解するらしい。

 

  仕事は車内の雑用係…といったところ。二日に1回は、トイレ休憩15分から20分のとき、給

油所の職員を督励してバスの車体を洗浄させる。ヨーロッパ旅行の際に乗る専用バスの窓がきれい

だったためしはない。いつも汚れっ放しで、走行中のバスで窓越しにメモ代わりに風景を撮ってお

こうと思っても、ろくな写真になるまいと諦める始末だったが、われわれがトルコ旅行で乗ったバ

スの窓は、いつも美しく磨かれていた。前代未聞!

 

  さて、大ムラート氏のことで思い出したことは、追々お伝えすることにして半日アンカラ観光に

出た場面に戻ろう。今日の予定は、今日のトルコ建国の父とトルコ国民にいまでも慕われて

いるアタチュルク(「トルコの父」という意味)廟とアナトリア考古学博物館である。

 

      98/04/10() 18:09 ろまねすく(HAC01341)

     URL= http://member.nifty.ne.jp./romansque/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

02974/02974 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第四回

(20)   98/04/25 16:03

  

       *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第四回

 

 

 

  ● 雪化粧のアナトリア大地の旅(2)

 

〔アナトリア考古学博物館〕

 

3月24日。

 

 アンカラはただ1泊だけなので、スーツケースもドアの外に出して置いて朝食に行く。

 出発の前に、周辺の様子だけは見ておこうとホテルの外に出てみる。寒い。 冷たい。冷え切った

空気はようしゃなく肌を刺す。見上げると、ホテルの建 物のあちこちから氷柱が下がっているでは

ないか。内陸のアンカラは寒暖の 差が大きいとは聞いていたが、これほどとは。

 

 襟を立ててアタチュルクブルバルの大通りまで出てみた。五叉路になった 角に「ヒッタイト鹿」

の像が立っていた。ねじった太い輪の中に三頭の鹿 の像。大きな角のある真中の牡鹿は、両脇に小

鹿を従えている。ヒッタイト古王国はBC1700年頃に興り、BC1350まで。ヒッタイト帝国はBC13

50年からBC1180年まで、新ヒッタイト帝国はBC1180年からBC700年まで、…彼らの歴史は、

1906年に発掘された多数の粘土板文書によって、かなり判明しているが、後 期青銅器時代に小ジ

ア地方に勢力をもっていた民族だったとのこと。

 

 エジプトやメソポタミアとも対抗できるほどの、政治的、軍事的、文化 な力を持っていたとう。

 

 この像が、ヒッタイトをこの地域の先達として誇りにしているのか、ある いはたくさん発掘れ、

そのための博物館まで建てているヒッタイト文化を 誇りにしているのかは、わからない。

 

 トルコ観光第一日目の、今日の予定は、バスでホテルを出発し、午前中に 考古学博物館とアタチ

ュルク廟の見学をして、そのままカッパドキアに向か うので、移動・出発のつもりでバスに乗り込む。

 

 午前8時30分ホテルを出発し、まるでハイウエイのインターチェンジの ようにくるくる回って

方角を変え、8時50分アンカラ考古学博物館に到着。 かなり山道を登ってきたので、町のほうの

眺望はよい。この博物館はガイド 書によって名称がさまざま。アナトリア文明博物館、アナトリア

考古学博物 館、アンカラ考古学博物館…どうして、こんな様々な名称になるのだろう。

 

 このあたりにも、消え残った…というより、消えない雪がある。日本なれ ばとっくに溶けている

ような薄雪。

 入口で添乗員の嶋田さんからチケットをもらって入場。玄関ホールを右に行くと第1室。もっとも

年代の古い旧石器時代の様々な石器が、大小の区別、 用途の区別ごとに、まるで蝶々の標本のよう

に箱の中に整然と並べられていた。

 

 第1室の上はドーム。だが、イスラム教のモスクの天井と違って、幅のあ る木板を渦巻状にしあ

り、間からやわらかな外光が降り注いでいた。なん ともモダンなドームの装飾だ。

 

 私たちは、主要な収蔵品を見逃さないため、現地ガイドの大ムラートさん について歩く。パリの

ルーブル美術館には何回か訪れたが、主にロマン派、 印象派など日本人好みの有名画家の作品を見

逃すまいとして、1階の古代エ ジプトを始めとする遺跡からの発掘品は、たとえどんなに有名なも

のであっ ても、通りすがりにチラッと眼の端にとめるほどで、じっくり鑑賞したことがない。

 

 よほど考古学、あるいは古代史に関心のある人以外は、素通りが多いので はあるまいか。それが

証拠に絵画の陳列されているところに比べ、極端に人影が少ない。

 もし、ムラートさんの案内がなく、それぞれが勝手に見て回ったなれば、 30分で出てきてしま

っただろうと思う。膨大なコレクションには、これは 見逃せないものだというポイントがあり、ム

ラート氏は上手に私たちを誘導 しながら、説明してくれ、退屈を覚える暇もなかった。

 

 もし、個人旅行で来ていたらどうだろう。書いてある説明も読めないとす れば、果たして何が得

られただろうか。仮に、現地に考古学に詳しい、日本 語の喋れる友人でもいた場合は別だか。

 

 時計と反対廻りに、年代を追って展示品を見て歩いた。新石器時代の素朴 な表現の石像、銅・石

器時代のレリーフと彫刻。

 青銅器時代にはいると、ホテルの近くで見た三頭の鹿の像の現物があった。 三頭の鹿ではなくて、

真中の一頭は長い角を持った牡鹿で、左右の二頭は水 牛だった。これは墓から出土した葬式用の

遺物で、ねじれた輪っかは地球を あらわしている。中央の鹿は平和の象徴、両脇の水牛は力の象

徴とか。

 通路の真中にはガラスケースがあって、一振りの立派な短剣があった。ま たほっそりとした女

性像も。

 

 アッシリア殖民時代、新ヒッタイト時代、フリギア、ウラルトゥ時代と説 明を聞きながら回る。

時代を下るごとに精巧な彫刻となり、技法的にも進化 が伺える。信仰的なもののほかに、精巧な装

飾品なども多くなってくる。

 最後に中央の広い部屋に入った。今までの回廊式の部屋に収めきれない大 型の出土品が展示され

ていた。

 

 見終わって表に出ると、忘れていた寒さがもどってくる。博物館の前庭に もいくつかの石像が置

かれていた。

 早速のように、頭に載せた板にドーナッツのような揚げパンを積み上げた 子供が寄ってきた。

「いらない」と身振りで伝えると「フォト、フォト」写 真を撮れとしつこい。

 2枚ほどシャッターを切ると、案の定「1ドル、1ドル」と擦り寄ってく る。つまり、モデル代

を寄越せ。120円かぁー、まあ、いいかと1ドル渡 すと他の同行者を標的に擦り寄っていった。

 

 

       98/04/25() 15:55 ろまねすく(HAC01341)

      HP ULR  http://member.nifty.ne.jp/romanesque/

 

 

 

 

 

 

 

 

03052/03052 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第5回

(20)   98/04/29 22:39

 

       *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第 五回

 

 

   雪化粧のアナトリア大地の旅(3

 

 配られた簡単な地図で見ると、この辺りにはアンカラ城址、民俗学博物館 などの見所がそろっているが、午前中

だけの市内観光。次の目的はアタチュ ルク廟。イスタンブールの空港もアチタュルク空港なら、この度のツァの 途

中で幾度アタチュルクの銅像やら肖像画を見たことだろう。

 

 アタチュルク、本名ケマル・パシャは、1881年現在ギリシャ領のサロニカ 生まれ。イスタンブール陸軍大学を出

て、191213年のバルカン戦争に将校 として従軍、頭角を現し、第一次世界大戦では英仏連合軍を撃退し1922年 に独立戦争の結果、オスマン帝国を崩壊、近代的なトルコ共和国の建国に導 いて「トルコの父」つまりアタチュルクと呼ばれるようになった、という。

 

 44日に帰国して、溜まっていた新聞、書簡を片付けているとき、329日(日)の朝日新聞日曜版のトップに「

ケマル・パシャ」アタチュルク が特集されていた。「正しい独裁者」あるいは「純粋に国民思いの頑固者」 という葉

を含むリード記事に継ぎ、第3面には「頑固おやじが女性解放」 との副題つきで、いかに国民に敬愛されていを

書いていた。

 

 1938年に死去して今年はちょうど60年。現代の政府を牛耳る政治家に、 一人でも「純粋に国民思いの頑固と

して敬愛されるような人物がいる だろうか。

 

 余談につい力が入ってしまった。

 アナトリア考古学博物館の前からバスに乗り込むと、添乗員のムラートさんは、

「今回の皆さんは立派な写真機をもっている人が多いので、カメラ屋さんの ために、これからちょいちょい写真スッ

プをしましょう。これからアタチ ュルク廟に行く前に、アンカラ城で写真を撮りましょうか」

といい、バスはムラートさんの指示で坂道をあがっていった。

 

 あとで、カッパドキアに向かう長いみちのりで、ムラートさんは大の写真 好き、といおうか写真機好きと言おか、

暇があるとカメラを持ってあちこ ち撮りあるいているとのこと。一人の同行者が300mmの望遠レンズを持っ ての

を見ると、たちまち欲しそうな顔をして、 「この旅が終わったら、早速イスタンブールの写真屋で探そう」 とつぶく。

また、今回、「カメラを持ってこなかったことが残念だった。」とも。

 

 そんなカメラ・マニアのおかげで、夕方のホテル到着がいつも1〜2時間 遅くなったが、何十回となく通ったルト

だけに、観光地以外の撮影ポイン トも良くわきまえていて、臨時カメラ・ストップの時間をとってくれたのは、 もっけの 幸いだった。

 

 さて、本題に戻ろう。

 視界が開けると、うっすら雪に覆われた市街が見えてくる。どんよりとし た空の下、屋根も瓦もくすんだ茶色の建

物がおおい。遠くに山並みが横たわ り、市街地の中にも盛り上がった小山がいくつも。

 アンカラは谷底を意味するアンキュラが語源であるとおり、一目で地形が 京都のように盆地だということが納得

できた。さっき見たばかりの考古学博 物館もアンカラ城も、ウルス地区の周辺にある。

 

 ゲンチリッキ公園の中の整備された坂道を登ると、石垣に突き当たる。ア ンカラ城は内外二重の城壁に囲まけた 城砦で、内側の城壁は7世紀にアラブ の侵攻に備えてピザンチン帝国が造営したという。

 かっちりとした城壁から、何度かシャッターを切って、あわててバスに戻るおー寒む。

 

  〔アタチュルク廟〕

 

 アンカラ城を早々に出発すると、バスは先ほどの坂道を下り、チャンクル 大通りをアンカラ駅に出て、鉄道の下をく ぐってロータリーからゲンチリッ キ大通りへ。そこから右折すると木立の深い道にはいった。

 

 バスを降りると、両側が針葉樹の濃い緑の割石の石畳みの広い道が、遥か 彼方にまっすぐ続いている。日本の

神苑に似た神々しい雰囲気を持っている。 トルコの人々が、近代トルコを開いたアマル・ケシャに対する尊敬の念を、 せいいっぱい表現したもののように感じられる。

 

 参道の両側にはヒッタイト時代を象徴するライオン像がずらりと。歴史上 の多くの国々の支配者は、己の力を

誇示するための象徴としてライオン像を愛 好しているように見える。参道が勝利の広場に行き着くと、広い石段があり、 日本流にいうといよいよ神域に入る気分。

 

 7、8段石段を上がったところの両側に、似たようなシンプルな建物。右側 の建物の前には3人の男性像、左には 3人の女性像。

 3人の男性像は、向かって左から学生〔将来の近代的なトルコの発展を象徴 しているのか〕、昔ながらの羊飼い〔

民族の歴史の象徴か〕、軍人〔トルコ防衛 の象徴〕となっていて、相対する向かい側の3人の女性像は、真中の女

性は顔 を手で覆い、アタチュルクの死を悼んでいる。

 

 石段に対して右手の建物が、案内書か展示室のようだったので入ってみた。 しばらく展示を眺めていると、窓か

ら隊列を組んで歩いてくる兵士に気がつい た。時間は11時過ぎ。衛兵の交代かピンとくるものがあったので、熱心に 展示に見入っている同行者たちに声をかけた。

 みんな、わらわらと飛び出す。小銃を荷った8人ほどの兵士が、引率者らし い銃をもたない下士官を先頭に近づいてくる。

 濃紺の制服、白いヘルメットとベルトに靴カバー。

 

 石段をあがると、横一列に並んで点呼。やがて、石段の両脇に塑像のように 微塵も身揺るぎせず立っていた〔同 行者たちは勝手に立哨の兵士の傍らに立っ て記念写真の写しっこしていた〕兵士が、膝をまっすぐ蹴り上げる歩き 方で中 央にゆっくり進み出、衛兵交代の儀式が始まる。

 近衛兵のような特別の兵士だろうか。「異常なし」なんて報告しているのだ ろう。やがて、交代を済ませ、新しい兵 士が膝を伸ばした、ゆっくりとした歩 調で持ち場につく。観光シーズンには早いせいか、儀式を眺めていたのはわれ われの他には数人しかいなかった。

 

 衛兵交代は立哨している数カ所で繰り返すのだろうが、私たちはそれをしお に、いよいよアタチュルク廟に向う。

参道の数倍は広い広場はT字形をして いる。進んで行くと、左手にまんなかが吹き抜けになっている大きな廟、T字 の横棒にはいくつかの長屋のような建物。

 

 その頃から俄かに雪が舞い出した。初めチラチラしていた程度だったが、廟 に近づく頃には、吹き降りのように激 しくなってきた。みるみる視界は遠くの 景色を白い幕に塗りこめてしまうが、なんと廟の中は素通しの吹き抜け。雪を巻き込んだ風がまともに通りぬ けて行く。寒いっ。たちまち手袋を持 ってこなかった私の手が、ちぢかむ。冷 たいっ。黒御影石の台に、黒御影の長方形の石棺が鎮座していた。

 

 そのうち、端から吹き込む雪で白くなってくる。かじかんだ手でようやくシ ャッターを一度切るのがせいぜい。ほうほ うの態で集合場所になってる所へ。

  「はい、こんどは12時にトイレの所に集まりましょう」と、確かに大ムラ ート氏が言ったっけ、と覚えていたものの、吹き付けてくる風雪に耐えられな くて、トイレを済ませた者は、われがちにバスが待っているという裏手のほう に逃げていってしまった。私ももちろん後を追った。

 

 バスの中は暖房が効いていて天国。生き返ったような気分だったが、全員が 揃っても、添乗員の嶋田さんとムラ ート氏が姿を現さない。12時を20分過 ぎてから嶋田さんとムラート氏が、雪の幕の中を走ってくるのが見えた。

 流石のムラートさんもムッとしたようだった。開口一番。

 「皆さんは決まりを守るいい日本人だと思っていました。私たちは時間が来 ても誰一人現れないので、集合場所

を間違えたのかと、下車した勝利の広場に いってみたり、トイレをのぞいたり、嶋田さんと二人で探し回りました。」 とだけ言って言葉を切り、しばらく下を向いて何かを考え込むように黙り込んだ。

こたえた。

 私の胸にもづしりと応えたが、皆も一言もない。怒りの表情は現していなか ったものの、凍るような風雪の中を駆 け回った二人の辛苦が良く判っているか ら。みんなもばつが悪くて、黙り込む。

 

 ムラートさんが顔を上げたときには、晴れやかな笑顔に戻っていた。

「さあ行きましょう」と。

 やがで、バスはアタチュルク廟を後にして、カッパドキアを目指した。昼食 は途中の村のレストランで摂るという。

 

 

       98/04/29() 22:28 ろまねすく(HAC01341)

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03077/03077 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第六回

(20)   98/05/03 17:18

 

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第 六回

 

                                   

    

雪化粧のアナトリア大地の旅(4)

 

   〔アンカラからカッパドキアへ〕

 

 ほうほうの態でバスに逃げ込んだ私たちは、ムラートさんの顔がほころん だことにほっとした。

バスは市街地を抜けると、古墳を大きくしたような丸 い山が重なっている峠道を登っていった。

 雪が小熄みになって、路上の積雪はすっかり溶けているものの、うっすら 雪の積もった両側の山

は、気温が低いため消え残った雪と石くれとが、ごま 塩のような感じになっている。

 

 バスが走り出して、マイクを持ったムラート氏は例の太鼓腹をさすりながら、

 

「私たちはカッパドキアに向かいます。途中、トウズで写真休憩し、アク サライでトイレ休憩して

からカッパドキアに行きます。カッパドキアのこと については、向こうに着いてからいいます。

 皆ささんは、アンカラで立派なアタチュルクの廟を見たでしょう。これか らも皆さんは、トルコ

の父アタチュルクの像をあちらこちらで見ます。  トルコはイスラム教の国です。イスラムが偶像

崇拝を排していいることは 知っていますね。アタチュルク崇拝と矛盾していませんか。確かに外敵

をや っつけ、トルコを近代的な国家に育て上げた彼は立派だと思います。

 しかし、何処へいっても彼の肖像が飾られ、主な広場に彼の銅像が立って いるのは私も少し行

き過ぎだと感じています。今の若者たちも恐らくそう感 じているのではないでしょうか。」

 

……と、静かな声で、考え考えしながら私たちに話し掛けてきた。勘繰りか も知れないが、最近、

イスラム原理主義の台頭がうわさされ、改選された議 会もイスラム主義者によって多数を占められ

た現状への思いとは、無縁でな かろうという気がしてくる。

 

 40分ほど走ったクルという小さな町で、<マカス>というレストランに入っ て昼食。メニューは、

 

  ギョズレメというとトルコ風パイ

  チキンの串焼き

  サラダ

  フルーツ

 

 ゆっくり食べ終わって、1445分に出発。

 

 バスは相変わらず、左手に麓まで雪で白くなった丘がいつまてでも連なり、 右手は広い野が続い

ていた。

 

  ○トウーズ湖〔塩湖〕

 

 15時前からトウーズ湖が右手に現れた。トウーズという言葉自体「塩湖」 という意味。トルコで

三番目に大きな湖だとか。秋から春先にかけての雨季 には満々と湖水を湛え、琵琶湖の何倍かの湖

面になるが、夏にはすっかり干 上がってしまうとのこと。

 塩分濃度はかの有名な死海より上だという。

 

 湖岸をしばらく走ってバスの止められる場所で停車。カメラを抱えて降り た。たしかに広々と湖

水の風景は広がっているものの、天候があまり良くな いためか、もうひとつ写欲がわかない。遠く

の対岸もかすんでしまっている し、近景になるようなものもない。

 私以外の「カメラ屋さん」も途方にくれていた。

 

 10分で撮影を切り上げバスに戻る。しばらくして、景色にちょっと気にな るものが現れ出した。

時々通りすぎる小さな集落に、畑に、葉を全部ふるい 落とした糸杉状の立ち木が眼に止まり出した

のである。幹もたいして太くな い。細筆の先のように繊細な枝が、天に向かって伸びている。

 

 それが並木のように連なっているところは、全体として白のかった褐色を、 呈している。私の前

の席に坐っていた女性も気がついたようだった。ムラー ト氏に訊ねると、ポプラの樹だという。こ

の辺りでは男の子が生まれると、 畑の縁にポプラをたくさん植える慣わしで、子供が成人すると大

きく育った ポプラを切って、家を立てるのだとのこと。

 日本では、女の子が生まれると将来の嫁入り仕度に、箪笥を作るために桐 を植えるようなもの。

……納得。

 

   アクサライ

 

 1645分、アクサライという町の郊外でトイレ休憩。大きなレストラン を併設したガソリンスタンドである。気がついたがムラート氏、ちょっとし た休憩でもチャイとタバコを欠かせない。1日に何杯チャイを飲むのか、と聞く と、

「まあ15杯は飲みまんな」

と関西弁。ここまでのバス移動でも45杯は飲んでいるだろう。絶えず周 囲に気を使いながら独楽

鼠のように働いている小ムラート君は、別に言われ なくても時間を見計らって、最後尾の座席でチ

ャイの準備をして、最前列の ガイド席で巨体をもてあましているような大ムラート氏とバスドライ

バーに チャイを届けていた。

 

 2回か3回に一度は、私たち全員にもサービスしてくれる。ムラート氏は

 

「ここで皆さんに見せたいものがおまっせ。だが今日は曇っていて見えない んで、明後日、またこ

こを通るときに言いまっさ。このアクサライという町 は昔から交通の要衝だす。黒海の沿岸からア

ンカラを通って、地中海岸の町 に出る南北の幹線路と、カッパドキアの中心都市カイセリとコン

に通じ、 アナトリアの中部を東西に通じている道との交差点だす。」

 

 そのアクサライの町は、トイレ休憩が終わって走り出した10分くらいあ と車窓から眺められた。

町と言ってもビルの立ち並ぶ様子はなく、トルコ式 の住宅が広がっている程度だったが。

 

 天候が崩れそうな気配になってきた。

まだ、カッパドキア特有の風景は現れないが、

「もうすぐ、ホテルに着きまっせ」

という大ムラート氏が言い終わったころから舞い始めた雪が、だんだんひど くなってくる。寒さも

一段と厳しくなってきて、バスを降りると急いでホテルに駆け込んだ。

 

 私たちが2泊したホテル・デデマンは、アクサライからの街道がカッパドキ アに入ったところネ

ヴシェヒルから中心地ウチヒサールに向かう途中、広い道 路に面し、周りには見事なほどなぁ〜ん

にもない場所にポツンと立っていた。 自室に入って窓をあけると、テニスコートが二面あり、その

背後は風情のな い雪まみれの小山の斜面。

 

 夕食は、

 マッシュルームのクリームスープ

 マッシュルームのキャセロール焼き

 メイン・ディッシュは

    仔羊の炒め物

    ミックス・グリル

    野菜とお肉のキャセロール焼き

    チキンのグリル……の4品からチョイス

 サラダ

 

 このデデマン・ホテルは最近新しくオープンしたのだろうか。ロビーも部 屋の施設も水準以上で

気持ちがいい。さあ、明日からは本格的な観光の日程が始まる。

 

        98/05/03() 17:08 ろまねすく(HAC01341)

       HP URL= http://member.nifty.ne.jp/romsnesque/

 

 

 

 

 

 

 

03218/03218 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア (七)

(20)   98/05/13 14:39

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第 七回

 

 

   カッパドキアを巡り歩いて(1)

 

  〔ギョレ村の風景〕

 

 あいも変わらず旅にでると朝早く目覚めてしまう。身じまいをすませて、 急に思い立って風雪の

カッパドキアの太陽を撮ろうと、ホテルの扉を押し て外に出ると、ウワーッ寒い。地面に霜柱がた

ち、雪は熄んでいたものの 風が強い。何も見るものとてない平原を、広い道路だけがホテルの前を

一 直線に通っている。

 

 時折、トラックがゴーッというエンジン音を落として通りすぎるだけ。 薄い雲が全天をおおっ

ていて、とても朝陽を撮影できる状態ではなかった のでほうほうの態で部屋に逃げ帰り、レストラ

ンにブッフェの朝食を食べに行く。

 

 アンカラの厳しい寒さに懲りているので、厚手のセーターに風を通さな い新繊維の防寒着を着こ

んでバスに乗る。目指すは地下都市カイマクルだ が、カメラ狂の大ムラート氏は途中でバスをスト

ップさせる。

 窓から眺めていて気になった風景。まるで盛岡市のランドマーク、岩手 山のように、視界左から

連なる山が右の方でちょっとたピークになり、落 ち込んでいるカタチ。…ギョレ村ただという。

 

 見ると頂上近くまで斜面いっぱいに、へばりつくように白い建物が無数 に建っていた。見ると建

物の前面だけ白い壁に入口があるが、住居の本体 は岩山の斜面を掘りぬいた中にあるように見えた。

 

 もう、ここに住んでいる家族はいない廃村だとのこと。いつ頃、村人た ちはここを捨てたのだろ

う。21世紀が目前に迫っている時代に、電気・水道・ ガス、買い物にも不自由な穴居生活を続け

てはいられないだろう。

 道と平行して植えられたポプラが、か細い枝先を使い古した箒のように、 空に伸ばしているので、

葉をすべて落とした木々が前景として風趣を添え てた。構図の撮り方が難しかったが、24mm200mmのズームレンズで、いろ いろズーム比を変えながら8枚ほど撮った。

 

   〔カイマクリの地下都市〕

 

 塚が幾重にも重なっているように地形のカイマクリの地下都市には9時 45分に到着。第一印象

はテレビで見たアフリカの巨大な蟻塚に似ている、 ということ。ただし、この蟻塚には無数の穴が

開いていた。

 入口にはお土産屋…あるいはキオスクらしい建物があり、いよいよ紀元前400年から記録にあると

いう地下の世界に入った。ムラート氏の案内がな ければ、恐らく蟻の巣のように、全体が迷路のよ

うな世界からスムースに は地上に戻れなかったに違いない。

 

 入ったところはまだ広さに余裕があったが、奥の手掘りの丸い通路…そ れも通路のいたるところ

に部屋や物置の穴倉があり、一つの部屋から枝分 かれした通路をたどっても、すぐ、再び出会うこ

とになったりする。また、 穴は通路に面した横手ばかりとは限らず、上にも、下にも穴があり、うっ かりすると落ち込む危険性もあるので、危険な穴には鉄格子の蓋がしてあった。

 

 部屋には横壁に蚕棚式の寝床が掘られていたり、物置用の穴、穀類の貯 蔵庫、火を焚いた跡の残

っている台所の部屋、それにびっくりしたのは、 水道の設備まで有ったこと。雨水などを貯めてお

く大きな穴から、地下8 階までパイプのような導水管としての穴が張り巡らされていた。

 

 現在、見学できるのは地下四階までである。が、一つ階を下るたびに通 路は細く狭くなり、気つ

けなければ頭を打ってしまう。おまけに、平坦 な通路がなくなり傾斜がきつくなってくる。

 

 カッパドキアの地形の生成は、古代にカッパドキアの東の方にエルジイ ェス南の方にハサン山と

言う二つの活火山が激しく活動していて、何回と なく吹き上げた大量の火山灰や火山礫がこの地方

一帯に降り積もり、凝灰 岩や薄い泥の層、火山灰が埋め尽くし、やがて風雨に侵食されて出来上が

ったものだという。それで、青銅器、鉄器のない時代でも簡単に穴を掘る ことが出来たのだろう。

 

 トルコは幾たびも外敵の侵入を受け、いろいろな民族に蹂躙され、支配 されてきた歴史をもつ。

この地下都市にも外敵を防ぐ仕掛けがあり、丸い 石で通路を防いで外からは開かないようにしてい

た…実際、穴を塞いでい るところも見られた。

 

   〔ウチヒサール〕

 

 元きた道を引き返して、ウチヒサールの鳩の谷展望台へ。私たちのカッ パドキア観光の1日半は、 見覚えの有る地点を何度も通った。百科事典で 調べるとカッパドキアという地域は、南は地中海と 内陸を隔てるトロス山 脈から、北は黒海沿岸まで、東はアルメニアおよびユーフラティス川から、 西 はトゥズ(塩湖)にわたるアナトリア高原地域。…という途方もなく広 い地域を指していた。

 

 私たちのイメージでは、例の奇岩にょきにょきが見られる範囲と受け止 めている。その中で、私

たちが廻ったのは、北は陶器の産地として知られ るアバノス、南はカイマクルの地下都市、東はユ

ルギュップ、西はネヴェ シェヒールまでの区域だった。

 何度もバスでその界隈を走るうちに、奇岩の親玉のような巨大な姿を見た。

 

   〔鳩の谷展望台〕

 

 走っていたバスが道路わきの空き地にクルマを寄せた。そこが「鳩の谷」 と呼ばれる奇観の入口

だいとう。崖っぷちまで行くと今まで見たことのな い、奇観としか言いようのない景色が眼前いっ

ぱいに広がっていた。

 まさしく峡谷。

 

 私の貧弱な脳裏に浮かんできた言葉は「壮年期台地」。スケールは全然 違っていたが、アメリカ

の国立公園の中でも最もポピュラーなグランドキ ャニンを頭に浮かんでくる。果てもない大平原を

川が侵食してゆき、深く 切れんだ峡谷を形成する。それで、峡谷の向こうにも起伏のない平原が広

がっいる。…

 

  …ここも、谷の向こうには平坦地が、遥か彼方のエルジェス火山の麓まで 広がっている。地殻変 動による割れ目のようにも感じられた。ただ、向こ うに見える崖を埋めるように、丸く膨らんだ円 錐形が黄色く密集している。

 良く似たものは徳島県の阿波郡にある土柱だが、規模が雲泥の差。

 眼を転じると、谷のカーヴする辺りの谷の奥に、岸壁を掘って作った住ー 居跡がまるで土砂に埋

もれたビルのように見えた。

 

 なんと不思議な光景。

 

 谷という言葉で、日本人の私がすぐ脳裏に浮かんでくる景色は、幾重に も重なって打ち寄せてく

る波のような山々、その間に深く切れこんだV字 谷。岩を噛んで流れる急流…。

 

 だが世界は広いものだ。谷…と言っても、オーストリアのインスブルク 辺りを流れているイン川、 これをインタール、イン谷というが広すぎて 「谷」という気がしない。もっと想像に困るのは、ア メリカのサンフラン シスコの遥か東に有るシェラネバダ山脈と海岸山脈とのあいだに広がって いるセントラル谷…広大な広がりを持つ平原を私たちは「谷」と受け止め られるだろうか。

 

 また、スイスのラウターブルンネンの雄大なU字谷や、スコットランド のハイランズのグレンコ

ーの巨大なU字谷などは強烈な印象でした。とく にグレンコーはマクドナルド一族が、イグランド

に忠誠を誓う文書が遅れ たため、キャンベル軍により悲惨な大虐殺に遭った事件を聞くと、谷に吹

きつのってくる風にさえ凄惨な気分を覚える。

 

 谷…というところから、連想がとめどなく広がってしまった。

 

 展望台から、薄っすらとではあったが、この辺りの山河を火山灰で埋め 尽くしたエルジイェス山

が認められた。

 

             98/05/13() 14:20 ろまねすく(HAC01341)

      HP URL http://member.nifty.ne.jp/romsnesque/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

03218/03218 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア (八)

(20)   98/05/13 14:39

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第 八回

 

 

  

   カッパドキアを巡り歩いて(2

 

  〔ユルギュップ辺りにて…妖精の煙突〕

 

ユルギュップから15分ほどでパシャバにやってきた。ここは鳩の谷の ように深く切れこんだ谷を

見下ろすという景観とは違って、間近ににょき にょき突っ立っている土の柱を眺められるところ。 それも「妖精の煙突」と称せられている上に硬い石が傘のように乗っか った柱がたくさん見られる所だと のこと。少し斜面を登ったところには、 典型的な妖精の煙突が立っていた。左右に大き目の傘をかぶった岩が立ち あいだに小さなものがあるところは、妖精の煙突というよりは、傘をかぶ った子供連れの夫婦といった印象だった。

典型的な「妖精の煙突」がいくつかのグループで見られたほか、なりそ こないっていうか、傘が痕跡ほど小さいもの、傘ではなくて大きな岩を乗 っけた格好…いろいろ。

 

眼前は谷ではなく、遥か彼方に雪をまとったエルジイェス火山の、富士 山のように秀麗な姿、…手前に雪で白く化粧した台地の連なりまで視界が 広がっているところであった。

私たちが立っているところから彼方へ、無数の低い土柱が寡黙な人間の 集まりのように風景の中を埋め尽くしている。これも偉観、奇観だ。

また古代の住居跡か、窓らしい穴のあいたものも。

 

  〔ギョレメの野外博物館〕

 

 ウヒチサールから7kmほどのところにあるギョレメ村には、9世紀以降 に岩山を掘って造られたた

くさんの教会遺構が固まっている。ぽこぽこと 筍のように生えた…という印象。だが、どの山も穴

だらけ。

 

  入口の広場からも、谷を隔てた崖いちめんに、シロアリが食い散らした ような穴があいていて、小さな穴は鳩を飼うためのものだという。ローマ 時代から異教徒の迫害から逃れるため、洞窟に住みついたキリスト教徒が 造ったもので、小さな窪地にほぼ円形の周回見学路が作られ、見学コース になっていた。沢山の遺構のうち整備された幾つかが見学できるが、まず 私の眼にとまったのはクズラル・キルセン、「乙女の教会」という入口ちか くにあった、やや大ぶりの教会。

 

 入口で買ったガイドブックを見ると、中は4層になっていて二つの礼拝 堂がある…と。てっぺんは

双耳峰のミニチュアのように、二つのとがった ピーク。裾にはロマネスク風の丸いアーチが三つ並

んだエントランスがあ るが、大きな岩が入口を塞いでいるように見えた。ここは見学の予定外。

 

 自分でもデブだと言っているガイドのムラーノさんは、30代で体力充分 なのか、緩やかな起伏の

有る見学コースを、私たちの先頭にたってひょこ ひょこと身軽に歩いて行く。

 

   〔リンゴ教会〕

 

  最初に見学したのは「リンゴ教会」…エルマル・キルセ。南の丘陵の横 腹を掘って造られたもの。名前は、当時周辺に林檎の樹があったことに由 来するとのこと。中は狭いながらに縦・横同じのギリシャ十字の構造で、 中央のやや大きなドーム天井、周りの小さなドーム、円柱、アーチ部分、 壁面には隙間無くイエス・キリストの生涯の物語の場が描かれていた。

 

 

アブラハムと三人のヘブライ人、キリストの降誕、東方三博士の礼拝、 ラザロの蘇生、キリストの変容、エルサレム入城、最後の晩餐、ユダの裏り、十字架を担いでゴルゴダの丘を登るキリスト、

キリスト架刑、キリ ストの埋葬、キリストの昇天。

 

アプシス(奥陣)の半円ドームには、キリスト、マリア、洗礼者ヨハ ネの姿が見られる。 鉱物性の岩彩のためか、全体が赤っぽく、彩色されている。剥落している部分もあるが11世紀に描かれ、かつオスマン・トルコ時代を経ている にしては驚くほど保存がいいと言ってイイだろう。

 

 

   〔聖バーバラ教会〕

 

  聖バーバラ教会=バルバラ・キルセシは先に見たリンゴ教会の裏手に入 口があった。名前の由来は聖バルバラの肖像が、入口に描かれていることよるが、リンゴ教会の絢爛華麗なフレスコ画の氾濫とはうってかわり、 天蓋、円柱の装飾も簡素なもので、ギリシャ十字の回廊の壁にはあまり際 立ったものもなく、アプシスには聖テオドロスと聖ジョージの像があるのみ。

 

   〔へび教会=ユランル・キルセ〕

 

へび教会へは、聖バルバラ教会を出るとゆるやかな斜面を登った突き当 たりにあった。この教会は、今までに見たギリシャ十字の構造とは異なり 長方形に蒲鉾型の天井。壁面に「蛇の教会」と呼ばれる所以となった馬に またがった聖ジョージと聖テオドロスが大きな蛇を退治している図柄が描かれていた。

 

奥の蒲鉾型天井にはキリスト、東側の壁にはディーシス(祈祷)の図、 東側の天井にはオネシムス、聖テオドロス、コンスタンティヌスとヘレネ、 西側には聖オヌフォリアス、聖トマス、聖バシリウスを表している。 この教会のフレスコ画には、一面に石をぶつけたような細かい傷があり、 異なる宗教間の争いからだったのではないか、と想像された。

 

   〔サンダルの教会=チャルルック・キルセ〕

 

  最後に内部をみたのは、サンダルの教会といういささかユニークな名前 の教会。訳を聞いて見れば床にサンダルの跡がついていた…という気抜け するような簡単な理由。

 

この教会が今まで見てきた三つの教会と違ったところは、2層になった 構造の1階に食事をするところがあったこと。左手の部屋は岩を割り抜い て作ったテーブルとベンチ型椅子があり、壁には「最後の晩餐」を描かれ たフレスコ画。きまっているぅー。この教会の受胎告知、キリストの変容、 エルサレム入城、ゴルゴダの丘のキリスト、十字架上のキリスト、キリス トの復活、空の墓をみつける少女、キリストの昇天などは、色彩がはっきりしていた。 蛇の教会はキリストの昇天のフレスコ画の下部に書かれた碑文により、

11世紀末から12世紀初頭にかけて建造されたらしい、とされている。

 

  一応の見学予定を終えて、ぶらぷら写真を撮りながら出口に向かった。 目に付いた暗闇の教会(カランルック・キリセ)は、外壁が崩れ落ちてし まったようで、1、2層とも大きく内部が露出していた。アーチを連ねた ような壁面や、2層目の大きなアーチなども目に付いた。

 

この暗闇の教会は、内部の暗さが名づけの由来だとか。見学予定に入っ ていなかったので素通りしたが、後でガイドブックを見ると、一番しっか りとした壁画がたくさん残されていて、見逃してしまったのは残念とホゾ を噛む思いだった。

 

長い間、出版物でカッパドキアの大地の奇観を見て、機会があれば一度 は訪れてみたいと思っていた念願が、ほぼ今日いちにちで叶ったが、いろ いろな感想が湧き上がってくる。 この地で、異教徒の迫害から逃れて人目につきにくい穴居生活を強いら れ、地下8層の都市をつくり、洞窟を掘って教会を建造した時代的、社会的背景はぼんやり判ってきたつもりだが。…

 

穴を穿ってつくった教会でも、ギリシャ十字の様式をまもるために、掘 る際に円柱やドームを掘り残し、文字を読むことの出来ない人たち相手に 教義を伝えるためにキリストの一代記や聖書物語をフレスコ画にしている。 こうした、技術、壁画の像などはどのようにして伝播したのだろうか。 おおかたは徒歩による移動。長距離でもせいぜい馬にしか頼れない交通手段。…

理屈により説明されれば、なるほどと納得せざるを得ないが、推測、文 字、文献では情熱までは伝わってこない。

 

15時10分、見学の予定を終わったが、大ムラートさんが、

「もう見学は終わりましたが、ホテルに帰るまでに有名な絨毯工場があ るので、案内しましょう。見たくない人はバスでまっすぐホテルに届けます。」

…とのこと。まっすぐホテルへ、と言う人は一人も無く、全員で絨毯工場に立ち寄ることになった。

 

 

 

 

 

 

 

03549/03549 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第九回

(20)   98/06/07 18:01

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第 九回

 

 

カッパドキアを巡り歩いて(3)…… 1998.3.25

 

  〔前回の追補〕

 

 前回の終わりに、ギョレメの野外博物館を見終わったところで、次は絨 毯工場と書いたが、ギョレメの谷の上からの展望とゼルヴェで見た景色を 書き忘れていたので、遅まきながら、ここに追加して書かせていただく。

 

  〔ギョレメの谷の上からの展望〕……書き忘れ1.

 

 カッパドキアに来て、狭い地域をあちこち移動し、鳩の谷の入口からの 展望、ウチヒサールのポイントからの「妖精の煙突」の展望…と、特徴の ある光景さまざまを眺めてきたが、ギョレメの谷の上からの展望では、カ ッパドキアの地形形成のもととなった火山の一つ、エルジィエス山が富士 山そっくりの裾を長く引いた神々しいまでに真っ白な姿で見られた。

 

 近景は、少し崩れ気味の紡錘形の石柱の群像。中景は荒地のような広が り。古くから交通の要衝として知られたカイセリの町の南方に聳えるエル ジィエス山は標高3916mと、富士山より高く、一年中雪で真っ白だと言う。

 

 ところで、アンカラに着いた初っ端から雪に見まわれた、文字通り「風 雪のアナトリア」の旅になったが、三月下旬にしては日中の気温も低く、 いったん薄っすらと地上に積もった雪は、決して融けず、小さな石ころ混 じりの土と、まるで胡麻塩のように見えていた。

 エルジィエス山の裾野は下に行くほどに、白味が少なく土色勝ちとなっ て、見事なまでのグラデーションを呈していた。

 

  〔ゼルベの谷〕……書き忘れ2.

 

 この日、最後の観光ポイントとして案内されたゼルベの谷。ここは谷と 言っても、むしろ細長い盆地とでも表現したほうが、感じとしては理解し やすいのではないか。

 幾重にも重なりつつ、低い山脈が道路のかなたに続いていた。或ところ は土柱の生成期のように重なって崖をなし、或ところは山の間が小さな谷 のように奥から開けたところに出てくる、といった様子。

 

 バスを入口でおり、歩きながら景色の移り変わりを楽しむことが出来る ところ。「ラクダ岩」有り、「マリア像」に似た岩もある。和歌山県の那 智勝浦町で紀伊松島めぐりをすると「ラクダ岩」という岩礁があり、細長 い岩が突っ立っていると「観音像」と見たてるのと、同じ発想。

 

 歩きつかれてバスに戻ったところで、「絨毯工場を見学しませんか」と いう現地スルーガイドの大ムラート氏の言葉につながるのである。

                    アーア、ヤットモトニモドレタ (;^_^;)

  〔絨毯工場〕

 

 「○○の歩き方」の「イスタンブールとトルコの大地」編には、トルコ絨毯について、

『カーペットなしにトルコのお土産は語れない』という見出しで、 「牧畜の民だったトルコの生活と切っても切れない関係だったじゅうたん。 文化遺産ともいえる、その高い技術と芸術性を見てみよう」と書き出してい る。私たちは絨毯というと、すぐ脳裏に「ペルシャ絨毯」と「天津段通」と いう名称が反射的に浮かんでくる。それも前者の印象が強く記憶にインプットされている。

 

 ということは、本場はイラク、イラン辺りじゃあないかと思ってしまう。 本来、通商するために、砂漠の船と称されてきたラクダの背に、荷物をつん で道標もない砂丘を旅する隊商が、野営するときのテントには、地に敷く絨 毯は必需品。(思わず「月の砂漠をとぼとぼと旅のラクダが…」なんて歌が 浮かんでくる「ろまねすく」!!)

 

 …という訳で、絨毯工場へ。

 絨毯工場は、さてどの辺りか。後で地図を広げても確かめ様がない。こ の日は何度も同じようなところを通り、ランドマークのようにそそり立つ ウチヒサール城を眼にし、ネブシュヒール、カイマクル、ギョレメ、ユル ギュツプと、比較的狭い地域を走り回ったが、いづこでも、この地方独特 の昔ながらの家屋だけを見ていたように思う。

 

 しかし、バスで案内されたところは、いずこにも似通っていなかった。 突然現れた絨毯工場は、外観からはとてもトルコの匂いは感じられなかった。

 生垣に囲まれた中は、広い敷地に近代的な生産工場を思わせる、白壁の 建物があり、誇張してえば芝生を敷き詰めた中の、公園の小徑をたどる ように玄関に向かった。

予め大ムラート氏が連絡していたのだろう。恰幅のいいトルコ人が出迎 えてくれ、私たちを工場の中に誘ってくれる。

 

 大きな体育館のような建物を、幾つもに仕切って部屋にしてある。入口 を入ったところには、大きな織り上がりの絨毯が丸められてたくさん壁に 立てかけてある。そこで工場長から、挨拶かたがた概略の説明を聞き、 路に沿って、蚕の繭から生糸をとり、撚って絹糸とし、絨毯にするまでの 工程を見学することになった。

 

 ぐつぐつ煮えている鍋から、すばやく繭の糸口を探して引き揚げ、何本 か束ねて撚り機にかける様子は、日本のやり方と変わったところはないし、 絹の産地がある国の人にとっては別に珍しい光景でもない。

 が、幅の広い縦糸にすばやく染めた絹糸の束をくくり、左手に持った刃 物で断ち、京都の手織りの帯地製造に使われる、方眼紙に模様を写し取っ たデザイン(意匠紋紙)を読み、手早く色糸を選んで括り付けるさまは、 テレビでは何度も見ていても、実際の作業を見るのとは大違い。

 

 何台かの台で絨毯を織っているのは、絨毯織りの作業を習いに来ている 実習生だという。30代に見える婦人もいたが、大方は10代後半の嫁入り 前の娘さんだとのこと。

 腕に職をつけると故郷に帰って、生家の仕事を手伝ったり、またその技 術を身につけると嫁入りにも役立つのだろう。

 

 この工場は…工場と言うより施設は、近郷近在の家内工業で絨毯を作っ ている人々から製品を集め、販売のルートに乗せる会社のようだった。 それが証拠に、見学のコースを終えると、一室に案内され製品の披露と 同時にトルコ人らしい販売戦略が始まった。テニスコートくらいはある部 屋に案内されて、壁際の椅子にめいめい腰を下ろすと、まず丁重にチャイの接待。

 

 と見る間に、沢山の若い従業員が次々と絨毯を担いできて、勢い良く床 に広げる。先ほどの工場長が、なめらかな日本語で広げられたものの材質、 トルコ特有の模様について解説し、

「今日は、遠い遠い日本からはるばる来ていただいたので、工場出し価格 の二割引きでサービスさせていただきます」

と抜け目がない。

 

 初めのうちは羊の毛で織ったもので、実用的なもの。価格も三畳大、四 畳半くらいから、六畳敷きほどまでが、30万〜60万円ほどか。次々に広 げては捲き、捲いては広げ、何枚も上に広げしていたが、次には、

「これからは、緻密な打ち込みといい色彩と言い、美術品のようなものです。」

と言いながら、絹で織った絨毯を広げ出す。艶といい、くっきりとした模 様と言い、今までのものと丸っきり違った世界が、目の前一杯に広げられ る。ただし、値段も別格。玄関敷きほどのものが最も安くて60万円。200万、300万から、上はウン千万まで。

 

 もとより、こんな高価なもの、手の出るはずはない。

「まず、家から建てなおさないと」

「ごちゃごちゃ要らんものばかり積んである私の部屋じゃあ似合わないな」

こんなひそひそ話がもざわざわ広がる。

 

「お届けは私の社の東京支店からお届けしますし、お支払いも後日支店 からご相談に上がります」

と抜け目はない。

 まさか誰も買うまい、との予想に反して、夫婦で湘南から参加していた夫婦が大枚60万円はたいて、買うという。皆が注目。本日の主役…という のも大袈裟かな。

 

 三々五々工場を出て、バスに乗り、1915分ホテルに戻った。夕食は ホテルのレストランでビュッフェスタイル。長い、長い一日、しかし日本 では見られない景色の連続で充実した観光だった。

 

 

            98/06/07() 17:53 ろまねすく(HAC01341)

      HP= http://member.nifty.ne.jp/romanesque/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

03655/03659 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第十回

(20)   98/06/16 15:17

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第 十回

 

     

カッパドキアからエイルディールまで(1…… 1998.3.26

 

 午前8時にホテルを出発すると、大ムラート氏は朝一番の挨拶をすると、

「今日は、ちょっと昨日見残したところに寄ってから、行きますね」と。

 何度も見なれたウヒチサール城が朝の光を受けて、一段と美しい。巍然と 立っている岩山の城

に向かって、白い壁の家が盛りあがっているのを再び視 界に入れつつ、鳩の谷展望台へ。

 

谷底にもか細い枝を立ててポプラの薄緑。展望台に立つと昨日にもまして 展望が鮮やか。僅15分ほどの時間だったが、一渡り展望を眺めたあと、 皆の足はカッパドキアの最後のみやげ物を求めて、店をひやかしに行く。

 

8時25分。ウチヒサール出発。一昨日たどってきた道を西に向かった。 9時頃、一昨日と同じアクサライでトイレ休憩したのち、再びまっすぐ一路 西へ。おなじみの関西弁で大ムラート氏がいう。

「これから暫くは、一番たいくつな道だっせ。ずーっと真っ直ぐな道で、あ まり見るもんもあらへんし。」

 

私はエルジェウス山とともにカッパドキアの地形を形成したと言う活火山 の、ハサン山が見えてこないかと、左側の窓…南の方角を眺めていた。アナト リアの大地と地中海沿岸を分けるトロス山脈が雪化粧した姿で、平行して続い ているが、火山らしい山容はまだ現れない。

 

      〔デシベリックハン・キャラバンサライ〕

 

9時25分。デシベリックハンというキャラバンサライで写真休憩すると きになって、初めてコニーデの特徴である富士山に似た山を見ることが出来 た。耕地ではあるが何の芽吹きも未だ見られない平坦な風景の彼方に、宝永 山を横腹に抱えた富士そっくりの山。

 荒地のような平原には、羊を追う男が一人…まるで、ジャン=フランソワ ・ミレーの世界。

 これで、念願のカッパドキアの大地を形成した二つの火山を見ることがで きた。ラッキー。

 

キャラバンサライは三つほどのアーチが辛うじて残っているだけで、うし ろ半分ほどは崩れがひどくて、原型を想像するのも困難。

全景をカメラに収め、近づいて崩れかけのアーチをいろいろな角度から撮 る。中に入ってみると、幾つかの部屋は残っているが、いかにアーチ構造 が強靭なものかを実感させるものだった。

 

      〔スルタンハーヌのキャラバンサライ〕

 

次に9時40分頃立ち寄ったスルタンハーヌのキャラバンサライは、先 ほどのように見捨てられ荒れ果てた曠野の中の廃墟とは違い、村のなか、 幹線道路に面したところにあった。

 

スルタンハーヌのキャラバンサライも、もう使用されていないものの、 内外とも完全に修復され、復元されていて、砂漠の隊商の宿がどのような 構造になっているか、が一目瞭然。長方形の外観は、ファサードがある間口で30メートルくらい(目測なのでも、かなりいい加減)、奥行きは50メートルはあるだろうか。

ファサードの扉口は、スペインのアルハンブラ宮殿で見かけたアラブ風 様式の装飾が施されている外側は尖頭アーチ、内側は丸いアーチ。壁面の アラベスク模様もスペインでお馴染みのもの。

 

中に入ると、矩形の広い中庭。左のほうは隊商の人たちが寝泊りする部 屋がずっと奥まで続いている。部屋の外側には大きな連続アーチの回廊になっていた。

左側にも、同じような部屋が奥まであるが、回廊はなく、所々に小さな 入口があるのみ。こちらには荷駄を運んできた駱駝や家畜が入れられたらしい。

外側から見ると、窓は高いところに幾つかあるが、外光を採り入れるには小さすぎる。

キャラバンサライの部屋に入ったみた。

あっけないほど、なにもなく、がらんどう。窓が小さいので真昼間でも 夕暮れのように暗い。

 

中庭には、もう一つの小さな建物があった。10メートル四方くらいの まっ四角のもの。一階は四方にアーチのある、通路のような空間。二階に 上がるには、ただ一つ奥の方の外壁につけられた石段のみ。建物の高さは周りの建物から一段高くなっていた。回教の世界を巡る隊商のための礼拝の場所…モスクだろうか。

 

スルタンハーヌのキャラバンサライから出ると、子供たちがワーッと集 まってきた。女のこ、男のこ、みなこざっぱりとした服装で、貧しい国々、 貧窮に苦しんでいる低開発国の子供たちとは違う。

だが、それぞれに「商売」しようという意気込みで、下げた袋から、ポ ケットから、いろいろな物を取り出して、口々に、

「ワン・ダラー」

と叫びながら寄ってくる。

そのど迫力!!

大ムラート氏が言っていた言葉を思い出す。

「彼らの家庭は豊かでは有りません。子供たちも学校に通えない子もいま す。しかし決して盗みなどはせえしまへん。ただなんとかして家計を助け たいと思っているだけどす」

 

キャラバンサライから道路を渡ったところに、こざっぱりした店があっ たので、トルココーヒー、チャイなどで喉を潤した後に105分出発。

 

                           (つづく)

 

              98/06/16() 15:09 ろまねすく(HAC01341)

 

 

 

 

 

 

 

 

03757/03757 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第十一回

(20)   98/06/26 16:59

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第 十一回

 

 

        

カッパドキアからエイルディールまで(2…… 1998.3.26

 

         【コンヤの町にて…1.

 

スルタンハーヌのキャラバンサライを出発して、1時間15分。コンヤの 町に入ったところで1220分。

 DUNDAR Hotel〕のレストランで昼食を取った。道路を隔てたところ に小ぶりだが、ちゃんとしたモスクが見えている。アンカラからカッパド キアまでにも、カッパドキアからここまでにも、普通の民家風の建物に、 小さなミナレットを立てた小さなモスクを至るところで見かけた。まあ、 日本でもいずこの地にも小さなお寺や稲荷、八幡、春日神社の末社などが あり、鎮守の社があるようなものだろう。

 

却って有名寺社のほうが、観光や儲け仕事にいそしみ、形式的な行事の みに流れ、衆生の魂の救済から程遠くなり果てている。それにひきかえ、津々浦々の寺社のほうが地元民の精神的なよりどころ、 地方の伝承文化の場となっているのではなかろうか。

 

このドゥンダルホテルは、まあこの町の規模からいって中流どこと言っ た所。モダンな外観の10階建て。本館の前に二階建てのレストランがあり、 私たちは二階に上がった。

 

かなり広い。

いつものように、真っ先にドリンクの注文を聞きに来るが、添乗員の嶋 田さんが、「ここの、絞りたての生ジュースはお勧めですよ」と言ったも のだから、ほとんど全員が、

「フレッシュ・オレンジジュース」と口を揃える。

 

それからと言うもの。

店員が集まってオレンジ絞りに汗だくとなる場面が始まった。山と積ん だオレンジを二つに切る役、それを片っ端から手動で絞り器にかけるもの、 絞り汁をコップに注ぎわけるもの。大汗…大騒動…しながらも、なかなか 全員に行き渡らない。

その奮闘ぶりに、遅い出来に文句をいうどころか、みんな笑い出してしまった。

 

 メニューは、

   レンズ豆のスープ

   サチボレック

   ミックス・グリル

   サラダ

   デザート

 

 〔コンヤの市内観光〕

 

ここコンヤは、1113世紀のセルジュク・トルコ時代に首都として栄え た所だとのこと。イスラム世界の政治・文化・芸術の中心として13世紀に 全盛期を迎えている。

 

また、世界的に有名なことは、メヴラーナ・ジェラレッディン・ルーミ という神学者が創始したイスラム神秘主義の一派、…メヴラーナ教である。いかなる点が人々に注目されたか…というのは、教義が、くるくる廻る 旋回運動を続けることによって、神との一体感を得る、いわばわが国の戦後 の一時期に出現した「踊る宗教」そっくりであること。

 

長い白い帽子をかぶり、裾のゆったりとした白衣を着て、音に合わせて群 舞する様子は、トルコの観光ポスターにもなり、日本でもテレビで放映され ご覧になった方も多いと思う。

 

ツァーによっては、このメヴラーナの旋回舞踊を売り物にしているものも あるが、残念ながら私たちのツァーには組まれていない。だが、メヴラーナ 博物館は見学のポイントになっていた。

 

  〔カラタイ神学校〕

 

私のまず先にメヴラーナ博物館をゆっくり見たい…という密かな期待はみ ごとに外れて、(順路の都合だろう)カラタイ神学校の見学から始められることになった。

アンカラ通りがヒュキュメット広場に突き当たり、環状道路になった附近 に見どころが集まっている感じだ。低い丘には考古学博物館の堂々とした建 物が見えているし、アンカラ通りと環状道路の交わる角にカラタイ神学校、 インジェミナーレ神学校、少し離れたところにメヴラーナ博物館…観光客に とっては便利な配置になっている。

 

最初に入ったカラタイ神学校は、フルネームをビュユック・カラタイ神学校といい、1251年にセルジュク朝のジェフーエッデン・カラタイ宰相によ って造られた物。

 

入る前にファサードを見上げる。ファサードには、美しいリレーフ(浮き 彫り)とアーチ状窪みにはスタラクタイトと呼ばれる鍾乳石状の飾りがあっ た。スペインではアルハンブラ宮殿他でお目にかかったいるものだった。

 

現在、カラタイ神学校は陶器博物館となっており、ほとんど円に近い正24角形のドームから壁面をおおうタイル装飾は、黒と紺色の陶器モザイクなの で明るく華やかな印象はない。

龕になっている壁面の窪みには、大理石で造られたような仄赤い壷が飾ら れてあり、展示室にはブルーを基調にした陶器が展示されている。染め付け のような東洋的な小品が美しかったが、これはトプカプ宮殿の陶磁器陳列室 にあるもののように、中国あるいは日本から輸入したものだろうか。

 

正直に言って、特別に装飾タイルや陶磁器に興味の無い人にとっては、長 居は退屈だろうと思う。観光ポイントトとしては、まあ二つ星ていどであろうか。

 

外とに出て、改めて正24角形だというドームを見上げると、温室に良く 見るガラスドームの上に八角形の上小屋を乗っけたような、あまりお目に かかれない姿だった。

 

  〔インジェ・ミナーレ神学校〕

 

手の込んだファサードになっていた。てっぺんから縦に二本のリボンのよう なものが下がってきて、入口で交差して入口の左右を包んでいる。そのリボ ンにはコーランの一節だろうか、装飾文字がアラベスク模様とからみあっている。

 

ファサード上部には、半円のドーム状くぼみがあり、大きな木の葉もよう が左右の飾りに。ここは1267年に建造された建物で、もともとは現存しているものの三倍 高さのミナレットだったが、1901年の落雷により崩れ、現在は望楼のような ミナレットになっていた。

 

ファサードで見られる通り、ここはイスラム関係の彫刻や浮き彫りの博物 館になっていた。ここは、ファサードを眺めるだけで四つ星。

 

さあ、これで見学予定の三ヶ所のうち、二ヶ所を終わり、いよいいよ本命 のメブラーナ博物館だ。

 

              98/06/26() 16:48 ろまねすく(HAC01341)

 

 追伸 私のホームページにも、写真入で「風雪のアナトリア」を載せて行きます。     

 

       http://member.nifty.ne.jp/romanesque/

 

 

 

 

 

 

 

 

03761/03773 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第十二回

(20)   98/06/28 11:53                     コメント数:1

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第 十二回

 

 

カッパドキアからエイルディールまで(3…… 1998.3.26

 

         【コンヤの町にて…2.

 

   〔メブラーナ博物館〕

 

ロータタリーから、観光案内所やPTT、ホテル、レストナン、土産物店 などが軒を並べている賑やかなヒュキュメット通りを通り、ヒュキュメット 広幅に出るとすぐの所にあるのが、楽しみにしていたメヴラーナ博物館。

 

博物館の横手の道に出ると、すぐ高いミナレットが目に入り、僧坊だろう か…入口が規則正しく並び、それぞれに小さいながらもドーム屋根と、先の とがった帽子をかぶったような煙突がずらりと並ぶ一角を歩いた。どうも裏 手から横手を表に廻ってきたたらしい。角を曲がると、二階分ほどの高さで続く大きなアーチ回廊。更に正面に出ると、青緑色の円錐形のドーム屋根。大小さまざまな円形ド

ーム屋根が視界に現れてくる。

 

トルコでは、至るところでこうしたモスクそのものを博物館に生かしている のか、ここも博物館というよりはモスクそのものの感じがする。

 

添乗員が入場券を買って、私たちは異文化の只中に入って行く心地。門を くぐって前庭に入ったときの印象が、日本のお寺の門をくぐったときに似て いるのに気づいた。

 

日本でも、本堂の前に大きな線香を焚くところがあり、手を漱ぐ手水場が あるように、ここにも礼拝の前に身を清める手水場があるが、それが何とも 大掛かりな八角堂のような建物。泉の縁は金網で囲われ、円形の石の台の周 囲にはずらっと水道のカランが並んでいた。

 

6500平方mの敷地に、創始者メブラーナの廟、モスク、修行僧の僧院、 修行場などがある。霊廟は13世紀末に造られたそうだが、その他の施設は オスマントルコ時代に、シュレンマン大帝などの寄進によるものだそうである。

メブラーナの死後1924年まではメブラーナ教団センターになっていたそうだが、1925年新しいトルコの指導者になったアタチュルクにより、修行 場が閉鎖され、教団そのものも解散。19273月に霊廟が博物館として公 開されたという。

 

まず、現地ガイド…お馴染みの大ムラート氏が、回教徒の身の清め方を解 説してくれる。(いいさか記憶が怪しいが……)

  口を漱ぎ、顔を洗う

  靴下を脱いで、手足を洗う(腕・脚まで)

…季節の良いときならいざ知らず、冬の寒さの厳しいトルコでは尻込み…。 みると、一人の老人がやってきて、丁寧に口を漱ぎ…をやっていた。

 

 【閑話休題】

 

ここで、大ムラート氏がまじめな顔をして、口を酸っぱくして私たちに 言っていたこと。巨大な太鼓腹、太い眉のしたに、くりくりした大きな目をしたムラート氏は、

「今回の旅行中に幾つかのモスクを見まっせ。だが、このうちコンヤのメ ブラーナ博物館とブルサのウルモスク、それにイスタンブールのブルーモ スクだけは、靴を履いたまま入られまへん。靴を脱いで上がるようになってます。

みなさん、その時に履いていた靴下は必ず捨ててください。みんなが裸 足で歩き回るとこどす。ずうっと敷き詰めたままの絨毯には、猛烈な水虫 菌がたんと棲みついておま。

外へ出たら、すぐ履いていた靴下は脱いで、新しい靴下に替えてくださ い。で無いと知りまへんどっせ。」

…とケッタイな関西弁を駆使して、私たちに注意していました。

 

本文に戻り…

靴脱ぎで、靴をスーパーでくれる買い物袋のようなものに入れ、靴下裸足で1歩堂内に踏み込むと、泥で汚れ磨り減るだけ磨り減った絨毯はジト ーッとしている。こりゃヤバイッ。

 

メブラーナ博物館に入ると、入口正面の部屋にはずらりと石棺が並べら れている。まず、初見参のものと言えば、どの棺にも頭のあたりに大きな 石造りのターバンが置かれていること。ヨーロッパ各地で見た教会に安置 された石棺の上には、故人の寝姿を彫刻したものが置かれているのは、何 度も見ているが。…ターバンとはね。宗教の違いを自分の眼で確かめるこ ととなった。一番奥の一際大きな棺がメブラーナのものであるとか。

 

その周りには、セルジュク時代、オスマントルコ時代の工芸品が展示さ れていた。コーランの写本、手書きの本があり、ガラスケースの中にはマ ホメットの遺物…顎鬚の入った小箱も。

 

こういった教会やモスクに入ると、私はまず天井や壁面、アーチ部分の 装飾に眼が行く。一番高いドームは中心にアラベスク模様、八つの明り取 りの小窓があり、アーチと接した五つの三角形の部分にはコーランの一節 をアラビアの装飾文字が見えていた。それが幾何学的な文様にアレンジさ れていて、いっそう神秘的な「有り難味」を添えているようだった。

 

メッカの方向を示すミフラブだろうか、まるでキリスト教会の祭壇のよ うに立派な奥陣がある。

 

片隅で目を瞑り、熱心に祈りを捧げているらしい二十歳代の女性が居た。 大ムラート氏によれば、回教国のトルコでも最近の若者の宗教離れが進ん できていて、お祈りの時間になってもモスクに行こうとしない者が増えて きているとか。(大ムラート氏自身もあまりお祈りしないらしい)

 

メブラート教団がなくなって70年にもなるが、発祥の地コンヤでは、 未だにイスラムから派生した舞踏教団を信仰している殊勝な若者がいるのだろうか。

 

添乗員の嶋田さんによると、今でもコンヤは回教徒の聖地とされ、お祈 りに来る人、石棺や聖遺物が入っているガラスケースにくちづけするトル コ人はたくさんいる、とのこと。

博物館から出ると、なんか異空間から現世に戻った気分。塀の外には信 者たちをあてこんだのか、観光客向けなのか、ずらりと土産物の屋台が並んでいた。

 

バスに戻ってコンヤを午後325分、エイルディルに向けて出発。途中1730分頃トイレ休憩(街道沿いに素焼きの大小さまざまな甕を並べ ている炭焼き小屋のような店があった)。

 

この辺りには南北に平行に幾筋もの山脈があり、小さな峠をいくつか越 え、大きな湖に沿って走ったが、町らしいものには出遭わない。山脈はさ して標高があるとも思えないほどのものだが、全山、雪に覆われていた。 私にとっての《風雪のアナトリアの旅》は続いていた。

 天候は次第に怪しくなってきていた。バスに飽きた頃、エイルディール 湖畔に出たが、対岸の山々は麓まで雲に閉ざされていた。カメラ・ポイン トだという湖畔に停車したが、雲の低く垂れ込めたこんな天気じゃあね。

 

1840分、エイルディール湖の南端に位置するエイルディールという 町に到着、エイルディール・ホテルにチェックイン。コンヤを出てから3時間ほとんど走りっ放しだった。

 

一応、湖畔を巡る街道に沿った「町」だが、天候のせいかうらぶれた感 じが拭えない。明日は地中海に面したクサダシまで。 今日も内陸性気候のためか寒かったが、明日は温暖な地中海沿いの春に めぐり合えるだろうか。

 

 夕食はビュッフェ・スタイル、可も無し不可も無し。

  

                98/06/28() 11:44 ろまねすく(HAC01341)

 

 

 

 

 

 

 

 

03830/03830 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第十三回

(20)   98/07/03 10:02

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第 十三回

 

 

 

エイルディールからクサダシまで(3…… 1998.3.27

 

   〔エイルディールからパムッカレへ〕

 

昨夜の夕食のとき、添乗員の嶋田さんから、 「朝食の前にエイルディールの町を散歩しませんか」という提案があっ た。だが、一夜明けてみると、無常にも小雨が降り続いていた。 一応、揃っての散歩は中止となったが、メンバーの大方が海外旅行20回、30回以上という好奇心一杯のモサぞろいばかり。しかも「〇〇の歩 き方」にも載っていないリゾートと聞けば、じっとしていられるものではい。

 

少し小熄みになったところで、三々五々連れ立って出かけていった。四 囲を取り囲んでいる山々は、今朝も麓まで雲に隠れていた。湖岸に沿って 鄙びた宿場町のような感じがするエイルディール。

私たちの泊まった、地方のビジネス・ホテルなみにしか見えない8階建 てのエイルディール・ホテルがこの町では一番豪華に見える町。だが、 夏には避暑客の多い人気のリゾートだという。

 

よほど、湖面に映る四囲の山々が美しいに違いない。かえすがえすも残 念というしかない。私も皆には出遅れたが、小雨を縫ってエイルディール 城址くらいまでには行って見ようとホテルを出た。

 

しかし、渚に沿った道をものの三百メートルも歩いたところで、本降り になってきた。諦めて引き返しにかかると先発して城址の麓まで行ってき た連中が、小走りで帰ってくるところだった。

 

バスでの今日の行程もかなりのものであり、途中、パムッカレでの観光 予定があるため、いつもより30分早く、730分に集合・出発とのことだった。

 

途中の景色で、山の斜面に段々畑があり、アーモンドが白い花盛り。荒 地に近い景色ばかりを見てきた眼には、懐かしくも有り新鮮な風景。

9時頃、幹線道路脇のレストランでトイレ休憩。10時頃パムッカレの 有名な石灰棚の下に着いた。ちょっと様子が変。

 

道路脇から草地を隔てて白い壁のように、白い石灰で覆われた崖が見え ているが、どこか薄汚れた感じなのである。この石灰棚は台地の上の方か ら流れ出た温泉が、長い時間を経てだんだん結晶し、堆積して出来たものと聞いている。

棚には蓮の葉のような小さなプールが、幾重にも重なり、温泉を湛えて いるはず…だが、いくら春先のシーズンには早い頃といっても、観光客がごくまばら。

 

添乗員の嶋田さんが皆を集めて解説したところによると、最近は周辺の 汚染が進んだので、温泉を流していたものをストップし、保護のため観光 客の棚に脚を踏み入れることを禁止したそうなのだ。

 

フン、じゃあトルコ政府が今でも温泉を湛えたプールが段をなし、水着 姿の若い娘さんをポースターに使ったり、パンフレットに載せて客集めし ているのはサギじゃあないか、ルール違反だと…期待していた光景が見ら れない鬱憤を口にしていた。

とにかく、石灰に白くなった丘の麓まで行って見ようと、バスから降り 私たちは三々五々、草原を歩いていった。近寄れば近寄るほど石灰が薄汚 れて見える。プール状になった池を溢れ出した濃い石灰水は、氷柱のよう に垂れ下がった姿で石化していた。

 

だが、私たちの眼を楽しめてくれたのは、所々に咲いていた赤い草花。 背丈はタンポポくらいしかないが、6枚花弁の赤色が鮮やか。花びらの中 心部が白く、濃い紫をした雄蘂が花全体を引き締めている。

なんという花だろうか。(今が花時なのか、行く先々で見られた)

 

この紀行を書き出したとき「風雪の」と冠したように、トルコに脚を踏 み入れた途端に、強い寒気にびっくりし、何度か吹雪にも見まわれたし、 道すがらの山々はずっと雪をまとっていた。

だが、確実に春の迫ってくる足音が、この花で実感させられた。

 

  〔ネクロポリス〕

 

バスに戻る。

このまま石灰棚の上に行くものだとばかり思っていたが、斜面を上り詰 めたバスが停まったところで降りて見ると、壊れた遺跡らしい石材がごろ ごろあたり一面に転がっているところだった。

 

大ムラートさんの説明によると、ここは古代都市ヒエラポリスに作られ たネクロポリスだとのこと。

ネクロポリスとは、ギリシャ語で「死者の町」という意味。古代都市の 近くにある墓地をいい、特にアレクサンドリアのものがが有名であるよう に、エジプトの古代都市にたくさん見られるという。

 

道端から墓地の中に入った行くと、蓋の取れた石棺、小さな家のように 見える石材を積み上げてアーチをなしている立派な墓、高い台の上に石棺 を載せた物。崩れてしまって石材があたりに散乱しているもの。石垣で丸く大きな台を作って、墳丘のように土がかぶせられている墓。…

その、至るところに先ほど目にした赤い花が咲いていた。タンポポほど の背丈と書いたが、クロッカスにも似ているように思えた。

 

墳墓の中を歩いて行くと、墓ではない大きな遺構があった。どうやら教 会らしい。崩れてはいるが、大きなアーチが幾つもあり、復元すると立派 な教会になるのではなかろうか。

 

更に進むと、古代都市ヒエラポリスへの入り口に当たるのだろう、長方 形の広場を囲んでいる構造物があり、ネクロポリス側にも向こうのヒエラ ポリス側にも、三連のアーチ門があり、広場の両側にはアーチ回廊になっていた。

 

ここには、商家が軒を連ねていたという。バシリカに似たようなものだ ったようである。

 

バスが通ってきた道に、崖っぷちに建っていた石造の小屋は、溢れてき た濃い石灰分を含む温泉水のため、析出した石灰に飲み込まれそうに埋も れかかっている。

なだらかな山の斜面は、糸杉の林が濃い緑の枝先を天に向かって立てて た。墓地になんと良く似合う景色だろう。

 

30分ほど歩いて丘の上にあがると、紀元前190年頃に始まった古代 都市ヒエラポリスの遺跡があり、15000人を収容したと言う円形劇場やハ マム、浴場跡、石積みの壁などが見られ、出土品を収めた博物館もあるよ うだが、かなり崩れているようである。

 

 私たちはバスに戻って、石灰棚の上部展望台に向かった。

  

       98/07/02() 17:58 ろまねすく(HAC01341)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

03902/03902 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第十四回

(20)   98/07/09 17:17

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第 十四回

 

 

エイルディールからクサダシまで(4)…… 1998.3.27

 

   〔パムッカレを世界三大ガッカリに入れよう〕

 

パムッカレの石灰棚の上に着いた。崖に面して展望台になっている広場 があり、海水浴場でよく見る茶屋に似た店が並んでいる。だだっ広く感じ られるのは、観光名所にしてはあまりにも人影が少ないためかも知れない。

とりあえず、展望の利く崖っぷちまで出て見る。

 

誤って大量の白い塗料を流してしまったように、崖の下まで白くなって いた。…が、下から眺め上げたとき感じたように、ただ白っぽいだけで、 段々に鬼蓮の葉っぱを置いたようなところに温泉の水を湛えた…ポスター に出ていた写真のような状態は、どこにも見当たらない。

 

涸れ果てた崖。

もし、満々と温泉を湛えたプールが段丘の斜面に無数にあって、その一つ一つに夕陽が燃え立つような赤さで映っていたら。…まるでサギに遭ったような気分。

 

 いつまで眺めていても仕方が無いとバスに戻り、町外れのDENIZLI EVIレストランで昼食。

 メニューは、

  ズッキーニの揚げ物

  野菜サラダ

  野菜と肉のキャセロール焼き

  デザート

午後1時半になっていたので、空き腹には不味いものなし!!美味だった。

 

午後2時20分にパムッカレを出発。

午後4時トイレ休憩に立ち寄り、午後5時45分、エーゲ海に面したクサ ダシに到着した。今日は…というより、今日もずいぶん長い道のりだった。

 

   〔パイン・ベイ・ホテル〕

 

クサダシで二泊するホテル「パイン・ベイ」は、ちょっと変わっていた。 バスからエーゲ海が見えてからも、えんえんと走りつづけ、小さな岬の懐に ある小公園のようなところで下車したとき、目の前にはホテルらしい高層建 造物はみえず、案内されるまま煉瓦色の平屋建てとしか見えない玄関に向かった。

 

ところが…ところが、通路を抜けて奥に出ると、あきれ果てるほど、驚く ほど…と副詞、形容詞を知っている限り並べ立てたいほど、印象が一変する。 海側に3階ぶんほどの吹き抜け空間があり、下にはS字状になった室内プー ルが青い水を湛えていた。

そのプール。

見事な色彩でリゾート感覚を演出している。周囲には濃い緑の針葉樹や、 南国らしいパインツリーを廻らせ、明るい煉瓦色の石を床に敷き詰め、プー ルの周囲は真っ白な大理石、プールの中はブルーのタイルといったコーデネ ーション。この階は吹き抜けも、7階に数えられる入ってきた階もすべて、 真っ白な円柱が支えになっていると同時に、モダンな装飾にさえなっていた。

 

7階にはプールを囲んでL字形のフロアがあり、奥の方がレセプション、 もう一方、海に向かっているフロアには、名店街とメイン・レストランがある。

 

ブールをぐるっと周る回廊があり、部屋割りが決まってルーム・キーをも らうまでに、下にプールを見ながら一周して見た。

途中の大きな窓から眺めると、段々畑のように七段になった客室が見えて いた1段に30室くらいの客室。全室がウォーターフロント。青いエーゲ海に面していた。

 

キーをもらって自室に落ち着いた後、4階したから外に出てみると、庭の 右手の奥、ちいさな岬がみえる方に、室内プールをもっと大きくしたプール がある。やはり明るい茶色の石を敷き詰めた変形プールで、縁も白い大理石。 ただ、プールの底は、手前側の濃い群青色から、やや薄いブルー、もっと薄 い水色、白…とグラデーションになっていた。

 

外からも眺め様と、高級別荘の並ぶ小道を抜けて裏に回った。建物が途切 れてホテルの敷地が見えるところまで出ると、もう一つのプールがあった。 競泳用にも使える50メートル・プールだ。

 

夕食は、ビュッフェ・スタイルだったが、田舎町のエイルディル・ホテル とは違って、食材の種類も料理数も豊富。

 

●エフェソスの古代都市遺跡見学…(1)……1998328

 

  〔聖母マリアの家〕

 

クサダシはトルコ人にも人気の海浜リゾート。しかし、背後の山には紀元前11世紀にイオニア人によって造られた古代都市遺跡があり、その広さ 多様さは日本で騒がれている吉野ヶ里遺跡や山内丸山遺跡どころの騒ぎではない。

 

木造建築の遺跡は、残され、発掘された建造物などほとんどなく、柱跡 の穴から建造物の規模を推定しているだけ、陶器片や装身具の破片なども エフェソスから発掘された紀元前の精巧なアルテミス像や、コインや宝飾 品、さまざまな神々の姿を残した彫像などに比べると、その情報料は大変なの。

石の文化はたくさんのものを、原型がよく偲ばれるほどに残していた。

 

9時、バスでホテルを出発。昨日の道を逆に辿り、幾つか重なった山 の一つの道を登っていった。25分ほどで、幾つか建物のある広場に到着。 今までのトルコには無かった緑の多い所だった。低い石塀の彼方には田畑らしい平地。

 

皆が揃ったところで、奥に向かって歩いて行く。山腹をめぐる道を辿る と途中にマリア像が立っている。もとは商人たちが取引していたバシリカを3世紀にキリスト教徒が教会にしたもの。ここエフェソスは聖母マリア がキリスト昇天のあと、余生を過ごしたところとして知られている。

 

本当に小さな狭い教会だった。聖母が住んでいたという家は、ここから更に7km離れたブルブル山の山中にあるという。聖母は64歳でこの世を去り、1967年にローマ法王パウ六世がここでミサを執り行い、この遺跡の 存在が世に知られたとのこと。

 

バスの待つところに帰ってくると、傍らの郵便局で絵葉書を買い、マリ アの家のスタンプを押してもらって投函。

聖地だからだろうか、トルコ軍の兵士が小銃を持って警備していた。だ が、ここにはバスの便がなく、マイカーかタクシーに頼るしかない。丁度 警備兵が交代する時間になっていて、大ムラート氏が長い山道を歩いてく だるしかない彼らに同情し、

「実は、私も兵役のとき、ここを歩いて下ったことがあるさかいも、よ 判るンやけど、大変やで。皆さん良かったら下まで乗せてあげてかまへんか」

とコテコテの関西弁で提案。

 

皆も、二十歳前後の若い兵士の純朴そうな様子に異議な〜し。ムラート さんが兵士に声をかけると、嬉しそうに顔をほころばせてバスに乗りこみ 最後尾の席に収まった。

 

麓に下りたところで二人の兵士は、手を振りながら下車。私たちは、エフェソスの遺跡に向かった。

 

            98/07/09() 17:09 ろまねすく(HAC01341)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

03959/03959 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第15回

(20)   98/07/16 16:05

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第 十五回

 

                                    

 

●エフェソスの古代都市遺跡見学…(2)……1998328

 

  〔エフェソスの古代都市遺跡巡り歩き〕…(1

 

    〔国立アゴラ〕

 

1025分に土産物屋が4、5軒、軒を並べた南側出入口についた。み んなバスから下りたとたん鞄からカメラを取り出して仕度している。 南門を入って突き当たりに、だだっ広い草地があった。別「遺跡らし い建造物もなし…」と考えていると、大ムラート氏、

 「ここは国営アゴラちゅう紀元前1世紀に造られた集会場や。国家の監視のもとで政治や宗教に関する会議が開かれたところや」…

 

なーるほど。青空集会場だったのだろうか、何か建造物でもあったのだ ろうか。ところどころ石柱の破片らしいものがゴロゴロしているが、建物 を想像できるほどではない。

紀元前1世紀にアウグトゥス帝によって完成されたというが、かっては 中央にイシス神殿もあったとか。(後で博物館に行って、このアゴラから 発掘された石像群を見ることになる)

 

私たちは国営アゴラに突き当たった道を右に曲がって、遺跡の石造物の 見えている小山の方に向かった。

 

ここからは、入口の店で買い求めた経本のような、折畳みのガイドブッ クが望外に役立った。『エフェソス』日本語版。ムックのような大型のも のは記述も挿画も写真も豊富だが、まさか大きな本を開いて確かめながら 歩くのには向いていない。

折りたたみの片面には、 「エフェソス その由来と起源、歴史」…という前文に始まり、

  セルチュク

  アルテミス神殿

  アヤスルック要塞

  聖ヨハネ教会

  イサベイのモスク

  イサベイの浴場

  エフェソス博物館

  聖母マリアの家

などが、写真と解説付きで巻末はエーゲ海に沿ったとトルコ西部の地図となっている。

 

もう一方の面は、これから私たちが歩こうとしてるエフェソス古代都市 の遺跡が、順路に従って絵地図になっていた。見所の遺跡には番号がふら れて、イラストや写真が掲げられ、その歴史や由来が簡潔に記されていて、 歩きながら見比べ、確かめるのにはもってこいのガイド。

一見して、なだらかな山の斜面に沿って、神殿、オデイオン(音楽堂)、 図書館、大劇場、通りなどが…つまり街の主要部分が造られていることが良く判った。

 

元に戻ろう。

 

国立アゴラに突き当たって、右に曲がると、大きな煉瓦造りの三連アーチ が右手に見えてきた。このハマム(トルコ式浴場)の跡は、紀元前2世紀に 造られた「ヴァリウスの浴場」で、後世では体育館として使われたものとか。 …といっても、未だ部分的にしか発掘されていないので、その規模は想像できない。

 

   〔バシリカ〕

 

道はヴァリウスの浴場を右に見て左の、大通りの方に曲がる。ガイドブッ クでは、ここはアゴラに隣り合ったバシリカの跡らしい。道理で沢山の石柱 が、通りの両脇に2列に並んでいた。柱頭の残っていたのはたった三本。残 りの大部分は半分以上折れて、そこらにゴロゴロ転がっていた。

 

  〔オーディオン〕

 

その取っ掛かりの山の斜面を掘り下げて造られた、劇場風のものがある。 古代のローマ人は遠征しては勝ち取った都市ごとに、石畳の道路や競技場、 劇場、水道施設などの石造建造物を造って廻ったが、ここのは劇場にしては やや小さいな、と考えていたたたが、劇場ではなくオデイオン(オーディオ の語源)という音楽堂だとのこと。

 

   〔プリタネイオン〕

 

オーディオンのもう一つの門から出ると、崩壊のひどい遺跡があったが、 これがなんだか判らない。ガイドブックにも番号も付されていないところか ら考えると、まだ何の遺跡か特定されていないのだろうか。

 

その隣には、二本の円柱の上に梁のようなマグサ石が残っていて、奥には 部屋らしい建造物が見えている遺構がある。このプリタネイオンは市議会堂 とも呼ばれ、エフェソスの高官たちが会議を開いたり、公式ゲストを迎える 迎賓館のようなものだったらしい。

 

私たちが昼食後にエフェソス考古博物館でお目にかかることになる、有 名な豊穣の女神…たくさんの乳房をつけたアルテミス像も、ここで発見されたとのこと。

このような遺跡の姿からはちょっと想像するのは難しいが、このプリタ ネイオンの中央には、都市の存在を象徴する聖火が点されていた竈があったともいう。

漆黒の闇夜に、どんな輝きを放っていたのだろう。

 

バシリカからは、少し道幅も広がっていた。

 

   〔メミウスの碑〕

 

次には、建物として遺構がかなり残っている建造物があった。石積みの 台座に柱頭まである円柱がかなり残っていて、四段の石段を上がると、真 中には高彫りのレリーフが見えている。

後期ヘレニズム期である1世紀に、救済者スラ、その息子のガイウスと孫 のメミウスのために造られた碑。

 

正面左の彫像は半身が欠けているので、良く判らないが、右手の2体並 んだレリーフは欠損もすくなく、当時の衣装も良く残っている。

この辺りには、欠け落ちた建造物の破片、石塊が一面に散らばっていて、 アロンサスの葉の模様がある柱頭らしいもの、赤っぽい花崗岩で作られた 円柱、蛇の模様が見られるレリーフのある石碑…などが道の両側にゴロゴロしていた。

 

   〔ドミティアン神殿〕

 

メミウスの碑の真向かいに、2本の石柱が見えた。鴨居のようにマグサ 石が2本水平にかかっている。

ドミティアヌス帝は1世紀ころのローマ皇帝だが、後年は陰謀、反乱を 恐れて対立する有力者の処刑、財産没収などに明け暮れ、恐怖政治で保身 を計ったが、妻のロンギナや後継者のネルバなどが帝の側近とはかり、帝 を暗殺している。

この神殿は皇帝のために作られた最初の神殿だったが、民衆を恐怖政治 で統治とようとしたための人々の憎悪、反感がつのって、神殿は破壊され 石造からドミティアンの名が削られたと言う。

ともすると凡庸な者が権力を握ると…という警告ででもあろうか、日本 でこせこせと政争にうつつを抜かしている政治家に、聞かせたい皇帝物語。

 

早い時期に破壊されてしまっていては、2本の柱しか残っていないのも道理。

神殿は影も形もないが、すぐ脇には、いやでも目に付くアーチが高々とかかっていた。

これは、この遺跡の町に入ってきたとき、一番に眼についた広いひろい 原っぱ…国営アゴラのドミティアン広場に面した門。並びには幾つかに壁 で仕切られた建造物が残っている。石の1列だけでこのような大きなアー チが残っているもの。

 

このアーチは「ポリオの泉」と呼ばれている遺構のひとつ。貯水槽があ り、台座の上にオデッセイの活躍をテーマとした彫像群が発見されていて、 今はエフェソスの博物館に展示されているそうだ。

                       〔この項…続く〕

 

       98/07/16() 15:52 ろまねすく(HAC01341)

       http://member.nifty.ne.jp/romanesque/

                  http://www.asahi-net.or.jp/~mf6t-tkhs/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

04086/04097 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第16回

(20)   98/07/31 10:14                     コメント数:1

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第 十六回

 

 

●エフェソスの古代都市遺跡見学…(3)……1998328

 

  〔エフェソスの古代都市遺跡巡り歩き〕…(2)

 

    〔ヘラクレスの門〕

 

国立アゴラからオディオンなどに立ち寄りながら歩いてきた道は、ヘラ クレスの門に至り、ここからは道幅が広がってクレステ通りとなる。

四角い二段になった石柱が両脇に立っている。それぞれに人物像が浮き 彫りされているが、左側の石柱には毛皮を羽織ったヘラクレスの像が有る ところから「ヘラクレスの門」と名づけられているようだった。

 

ヘラクレスはギリシャ神話の中でも力持ちで知られたヒーロー。有名な 紅山雪夫氏の著作「ヨーロッパが面白い」の上巻では、「筋肉もりもり、 無骨な男の理想像」なんて、ユーモラスで判りやすいキャプションがつい ている。「節くれだった太い棍棒をもち、頭付きのライオンの毛皮を腰に 捲いていることが多い」とも。

 

ギリシャ神話で、浮気な太陽神ゼウスが、貞淑な人妻アルクメネに横恋 慕して、彼女の夫アンピトリオンそっくりに化けて、生ませた双子の一人 がヘラクレスで、ゼウスの妻ヘラが嫉妬に燃えて双子のもとへ蛇を入れて 贈ったところ、兄弟のイピクレスは泣いて逃げたが、ヘラクレス赤ん坊の ヘラクレスは蛇を絞め殺してしまったという。ウワーッすごい。

 

ところで、門を通ると石段わ4、5段下がって突き当たりのセルルス図 書館まで、両側に有名な人々の彫像が立ち並ぶクレステ通りとなる。なだ らかな下り坂なので、とても眺望がいい。

 

    〔トラヤヌスの泉〕

 

クレステ通りにはいって、ちょっと下がったところの右側…山手に遺構 の形が割合よく残った神殿風の建物が見えてきた。

二世紀に13代目のローマ皇帝トラヤヌスのために作られた泉殿であると のこと。さきほどもポリオの泉という建物の跡を見たばかりだが、この時 代、泉のような水源はそれほど貴重なものなのだったのであろうか。

 

4本の柱で支えられた建物が中央の高いところに有り、三角破風のよう なギリシャ神殿のペディメントまで残っていた。

ここで発見された2体のディオニソス像は、エフェソス博物館で保管さ れていると言う。

 

トラヤヌス帝は初代のアウグストゥスから数えて、第13代目のローマ 皇帝。五賢帝の一人に数えられているところから見ると、市民の人望も厚 かったのだろう。

 

私の無知からであるが、彼はセビリヤ近郊で生まれたスペイン出身で、 一世紀後半にライン地方のサツルニヌスの乱を平定してドミチアヌス帝に 見とめられ、次帝ネルウァの養子となり、帝位についたあとは穏健な政治 を心掛け、そとに対してはブリタニアから黒海まで、ローマ時代の最大の 版図を現出させたとか。

今でもローマのフォールムには、ドナウ辺境の平定を記念したトラヤヌ ス帝記念柱が、ぐるりにデェーシア人との戦闘の場面が螺旋状の浮き彫り で刻まれているので、眺めた人も多いことと思う。

 

泉殿からクレステ通りを隔てた反対側あたりに、クレステ通りと平行し てものの百メートルほどの通りがあった。青・赤・白・茶色の小石をモザ イク風に埋め込んで幾何学模様にした小道である。

クレステ通りが直ぐ横にあり、何のための装飾道路なんだろう?

 

さて大ムラート氏。

「ちょっとここから登ったら、眺めのいいとこおまっせ。」と、山の斜 面を登る脇道に私たちを誘う。トラヤヌスの泉殿とスコラスティカ浴場跡 の間の山道。この道の行きつくところは大劇場の客席の頂上らしいが、少 し登っただけで、スコラスティカ浴場跡、及びラトリネと呼ばれる公衆ト イレからその向こうの娼館などの石積み建造物の景色が広がってくる。

 

大ムラート氏が肥った体をゆすりゆすり…しかし元気に上って行き、立ち止まって指差した方には、エフェソス古代都市でも代表的な建造物の…セルスス図書館が俯瞰できた。

上下二層になった柱廊構造で、二世紀にジュリアス・セルスス・ポレア エマヌスの墓として、彼の息子が建てた物。

 

何枚かカメラに収めて、元の道を下った。

 

   〔スコラスティカ浴場〕

 

もとのクレステ通りに出たところに、崩れ方のひどい一角があった。大 ムラート氏によると、スコラスティカ浴場の跡だというが、もと三階建て との話だが、私の印象では見る影もない…といったところ。紀元前1〜2 世紀に作られたものらしいが、時には為政者たちが浴後の一休みに、重大 な問題について討論していた、とも。

 

戦後の日本の為政者は、赤坂などの料亭に集って、専ら飲み食いにあけ くれ、派閥次元のやりとりに終始したのに比べると、暗澹となる。彼らを 支える官僚たちや、献金・裏取引で政治家と癒着した行・証券会社・大 企業のトップたちは、品のないことにノーパン・シャブシャブとか。

 

    〔ハドリアヌス神殿〕

 

ローマ史の歴代皇帝のうちハドリアヌス帝も割合よく知られた名前だろ うと思われる。先に登場したトラヤヌス帝のまたいとこに当たり、スペイン(ヒスパニア)で元老院議員の家系の出。

軍事的経験が買われてハドリアヌス帝の後を継いだ。

 

神殿の中央入口にコリント様式の4本の柱の石柱があり、真中の二本の 上がアーチになっていて、奥の建造物の半円形のティンパヌムのレリーフ が美しく、バランスの良い建物。

二世紀に建造された神殿で、セルスス図書館と共に往時の華麗さを偲ば せる建物。当時には廻りの石柱には後代の皇帝たちの名前が刻まれていて ブロンズ像が置かれていたというが、さぞかし壮麗な景観だったことだろう。

 

     2000年前の公衆トイレ〕

 

次に案内されたところが、ハドリアヌス神殿の隣、少し奥まったところ の公衆トイレ。ゆうに中流の人々にとっても豪邸が建つくらいの広さに、 煉瓦塀に沿って一段高く作られた台に、規則正しく大きな鍵穴のような穴 が並んでいた。紀元1世紀頃に作られたとガイドブックには書いてある。

 

私も坐り心地を試してみようと、穴の一つに腰を下ろしてみた。西洋便 座よりやや小さいかな、と思えるくらいだが、小用するにはちと前の方が 狭くて、慎重にしないとこぼしそうだった。

 

穴から覗いて見ると、下の水が流れる溝はかなり深い。しかし、日本の 神代の昔の時代から、ローマ人は水洗トイレを作っていたのだ。

隣との仕切りはなくて、中国風に言えば「ニーハオ・トイレ」。 部屋の真中は何に使っていたのだろうか?ガイトブブックには、池があ ったと書いてあった。

周囲の便座の前は、ぐるりと廻れる通路だったらしく、上半分ほどが折 れてしまっている柱が並び、通路は色々な石を敷き並べたモザイクであっ たとのこと。池だった真中には石材が散らばっているばかり。

 

トイレの隣は今まで通ってきたクレステ通りが右折して大理石通りへと 名前が変わる角に位置する「娼館」だった。今は太い円柱が1本残ってい るだけで、見る影も無いが、二世紀に作られたこの娼館は、二階建てで、 床には大理石とモザイクで覆われ、壁にはフレスコ画まであり、現在、エ フェソス博物館に収蔵されているベス神のプリアポス像は、ここで発掘さ れたものだそうである。

 

             98/07/31() 10:06 ろまねすく(HAC01341)

 

 

 

 

 

 

 

04122/04123 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第十七回

(20)   98/08/08 11:35

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第 十七回

 

 

●エフェソスの古代都市遺跡見学…(4)……1998328

 

  〔エフェソスの古代都市遺跡巡り歩き〕…(3)

 

    〔セルスス図書館〕

 

ヘラクレスの門を通って彫像の立ち並ぶクレステ通りに入ったときから、だらだら坂を下った突き当たり…目路の果てに聳えているセルスス図書館が気になっていた。古代の公衆トイレ跡から出ると、もう眼の前。

 

遺跡に残された建造物で、それぞれに歴史的な、あるいは文化的な、美術上の価値があり、その優劣、順位をつけることなど素人の私に出来よう筈も無い。

が、私の独断と偏見で敢えて言わしていただければ、このセルスス図書館くらい堂々としていて威厳があり、装飾、彫像、2層になった結構の円柱に支えられたテラス状の構造の見事さは、ここエフェソス古代都市遺跡のランドマークであり、白眉であると絶賛を惜しまない。

 

…と抽象的な記述では、読んで下さっている方々には、何のイメージも伝えられない。…といって、私のつたない筆力、描写力では、どう考えてもイメージを伝えることはかなり難しい。

 

現地のガイドブックに記されている内容を紹介すると、「ローマの執政官ジュリアス・セルスス・ポレマエアヌスの墓として、117120年の間に、彼の息子が建てたものである。1904年に発掘され、1970年〜1978年にかけて修復された。建物の中は一つの大きなホールになっており、書物が収められていた。壁は二層構造で、前面の窪み(壁龕)にソフィア、エピスティム、エンノイア、アレーテの4体の女性像があり、それぞれ、セルススの徳であった智恵・美徳・学問・運命を象徴している。」…と簡潔に書かれている。

 

さて、私の眼に映じた印象は、とても図書館といった風のものではない。巨大な門。例えて言えば、風格と言い重厚さといい、大きな本山寺院の二層となった山門。

二層ともそれぞれ八本の円柱に支えられているが、一層目は端から2本づつの円柱が上のテラスの床を支えているが、二層目は両端が独立した一本の円柱が立っていて、次の2本目と3本目が上の屋根のような部分を支えている構造になっていた。ごく簡単に図解すると、柱は上から下まで通って

 

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いるが、∩∪∩∪と言うように、一層目、二層目の柱が凹凸の連続のカタチになっている。

 

一層目の二つの円柱の間にあるそれぞれの壁龕には、先ほども紹介したセルススの徳を象徴した智恵・美徳・学問・運命の4体の女神像が安置されていたが、ギリシャ風の精緻な彫像の美しさは、言葉では残念ながら到底伝えられない。(いずれ、私のホームページにカラー写真入で作っている「風雪のアナトリア」で紹介できると思う)

 

間口に比べて奥行きは極めて浅く、中に入ってみると…細い路地に立ってビルを見上げている格好。どこに本が収蔵されていたのか?石の建物は二千年の歳月にも絶えたが、羊皮紙といえども書籍は残らなかったのだろう。

 

下から垂直に見上げると、一層目と二層目の円柱が支えているテラスには、まるで格天井のように、各区画、田の字形に4ッの紋章が刻まれているのが眺められた。

 

     〔マゼウスとミトリダテスの門〕

 

セルスス図書館の右隣にまるで凱旋門のように見える、三つのアーチをもつ門があった。この奥に今では広大な草地が広がっているばかりであるが、当時には、商業アゴラという市場が開かれた広場への入口になっている。この門は、ローマの初代皇帝であったアウグストス帝の奴隷であったマゼウスとミトリダテスが、その後、皇帝の慈悲で解放されたことへの感謝のしるしとして、皇帝とその家族に捧げられたものという。

 

紀元前3世紀〜4世紀に作られたという記述であるが、歴代ローマ皇帝の在位表をみると、紀元前2714年で少し…ではない…多いに矛盾しているが、いかがなものだろう。

 

商業アゴラについては、紀元前3世紀ごろ、リシリマコス帝時代につくられた商業用の広場で、111平方メートルの正方形の建物で丸屋根に覆われていたとのこと。商店が建ち並び、青銅製品、陶器、ハーブ、葡萄酒などを商っていたと言う。現在はたくさんのアーチが連なる土塀のような石詰みの崩れかけた塀と、列柱が並んでいるのみ。「うたた荒涼」といった印象。

 

     〔大理石通り〕

 

クレステ通りがセルスス図書館の前で直角に右に曲がり、ここから通りの名前も大理石通りとなる。五世紀にこの道に大理石が敷き詰められたところからの命名。

この道は、右手に小山の斜面、左側に商業アゴラの遺跡を見ながら、大劇場まで続いていた。

 ここでは現地ガイドの大ムラート氏が、道に敷かれた大理石の一枚に、線刻で冠のような髪飾りをつけた女性の顔、すぐ隣に大きな足、その上に細かい点が刻まれたハートがあるのを指し、

「これは、さっき曲がった角にあった娼館の広告ね。」

こりゃ凄い。古代の広告だ。しかも人類最古の職業と言われたものの。

 

また、傍らの石詰みを指し、「ここの、石と石を繋ぐための金属の鎹〔かすがい〕が抜き取られた跡でっせ。こんなもんまで盗って行くもんがいるんや。」

…と言われてよく見ると、相当数、というより大部分の鎹が抜き取られている。石に穿たれた穴と金属の錆びが、金属泥棒の所業を表していた。

 

 

       98/08/08() 11:27 ろまねすく(HAC01341)

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04191/04199 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第18

(20)   98/08/16 17:51

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第 十八回

 

●エフェソスの古代都市遺跡見学…(5……1998328

 

  〔エフェソスの古代都市遺跡巡り歩き〕…(4

 

    〔大劇場〕…承前

 

紀元前3世紀頃に建設され、その後拡張されて24,000人を収容する大劇場となった。

トルコに残されているローマ風劇場で最大規模を誇り、観客席の高さは38メートル、直径158メートルの半円形。3〜4世紀にはここで猛獣と剣 士の一騎撃ちが行われたと言う。

ほぼ円形をした階段客席の、山側の円弧に舞台がしつらえられ、舞台を支 える四角い石柱が残っている。

 

ローマ人は飽きもせず、進出した異国の土地に、競技場、劇場、浴場、水 道橋など自分たちの生活様式…それも大土木工事を持ちこむもの。

大劇場の端に立つと、目の前に昔からの石畳の残る「港通り」という大通 りが一直線に続いていた。

半ばから折れた円柱が規則正しく残っている草地には、白・黄・赤の小さ な花々が絨毯をのべたように咲き盛っていた。身にしみる風雪から始まった 今回の旅も地中海沿岸まで出てくると、春の兆しが良い季節の到来を告げて いるようだった。

 

港通りを少し進んだところで、港の跡(海岸線の後退か埋め立てかで、港 は海岸線から離れて、単なる石積みの構造のみが叢の中)を見て右に曲がり、 北出入り口を出てバスに戻り、狭い農道に大きな車体を割り込ませてレストランについた。

 

野っ原のまんなかの、白い石塊と赤茶の煉瓦を交互に積み上げた塀の、小 さなアーチ門をくぐると、安っぽいレプリカ円柱が2列に並んでいる。 列柱の小道を進んで行くと、なんとレストランの名前まで「EPHESOS REPRICA  RESTAURANT」。

小さな体育館のような建物の中にテーブルが並んでいる。

 

 昼食のメニューは、

   オニオンスープ

   トルコ風スクランブル・エッグ

   魚のシシケバブ…ようするに焼き魚

   果物とプチ・ガトゥ

 

    〔エフェス考古学博物館〕

 

昼食後は、まず近くにあるエフェス考古学博物館の見学。大理石を積んだ建物の入口にEFES  MUSES との表示。

1964年に南翼、1978年に北翼が完成…という新しい建物。エフェス都 市遺跡や周辺の聖ヨハネ教会をはじめとする出土品を展示。古代、ギリシ ャ時代、ローマ時代、ピザンチン時代のものが主。オスマン・トルコ時代 のものも収蔵されていた。

 

やはり、最大の見物は青い光に満たされた仄暗い展示室に、向き合うよ うに置かれた二体のアルテミス像。ご存知の通り、豊穣の神に擬せられて いる土地母神の姿として、沢山の乳房をつけた女神として表現されている。 一体は「大アルテミス像」で、エフェソスのアルテミス神殿の礼拝像と して作られたもの。高い冠をかぶり、もう一体に比べたくさんの乳房をつけている。

もう一体のアルテミス像は、乳房の数は少ないものの、球状の立派な乳 房。表情も豊かで、全体が精緻なつくり。

 

アルテミスはもともとギリシャ神話の女神で、ゼウスとレトの娘。アポ ロンと双子で、アポロンの妹に当たる。兄アポロンが太陽神であるのに対 し、アルテミスは月の女神とされ、神話では美しい処女の狩人として西欧 絵画の題材によく現れる。

ローマ神話の「輝けるもの」の意のダイアナもアルテミスと同一視され ていて、狩の場面のダイアナ(ディアナ)が画題になっている。

 

エフエス考古学博物館は、外観からしてあまり大きいとは感じなかった が、入口から入って順路は時計廻り。

 

   住宅からの出土品の部屋

   泉からの出土品の部屋

   新しい出土品の部屋

   コインし宝物の部屋

   墓からの出土品の部屋

   アルテミスの部屋

   皇帝と肖像の部屋

 

という風になっていた。他の収蔵品で私の興味を惹いたものは、

 

 やや哀愁を帯びた表情のマルクス・アウレリウスの胸像(3世紀)天井から吊り下げられた二世紀の「プリアポス像」…小児のようか体で、大きなオチンチオンを突き出している。一世紀の「くつろぐ戦士像」…石に肘をついて横たわる戦士、素朴な表情がいい。

 

その他、エフェスの古代都市遺跡から、価値の高い壁面などの浮き彫りが たくさん展示されていたが、まだまだ崩れた建造物の復元には時間がかかりそうであった。

先刻、歩いてきた遺跡の中にも、無造作に転がされた大理石に飛天に似た 姿の女性が精巧に刻まれているのを見たし、まだまだ管理が行き届いている とは言えないようだ。

 

裏庭に出て振り返ると、博物館のペディメント(ギリシャの神殿によく見ら れるような破風の下の三角部分)には、紀元一世紀に造られたイシス神殿のポ リフェモスの群像があった。

 

    〔アルテミス神殿跡〕

 

博物館から出ると、アルテミス神殿の跡をゆっくりバスの待つところまで 歩いた。神殿跡といっても草地に囲まれた池や、遺構らしい大理石の塊が転 がっていたり、ぽつんと一本だけ残った円柱、彫像の台座らしいもの、何列 かに分布している礎石くらいのもので、往時の様子は偲ぶべくもない。

 

1610分、クサダシのパイン・ベイ・ホテルに帰着。夕食までのひとと き、ベランダに出て穏やかな地中海に沈んで行く夕陽を眺めていた。

 

夕食は、例によってビュッフェ・スタイル。この方が、自分の口に合った もののみ食べられると言う利点はあるが、反面、その国独自の料理とは程遠 いといったマイナス面が大きい。

 

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  上記のホームページには写真画像入りで「風雪のアナトリア」の最新の

 ページがあります。

  第3章 カッパドキアを巡って ()

      ギョレメの野外博物館からゼルベの谷まで

  第4章 カッパドキアを巡って ()

      絨毯工場にて

 よろしければ、ご覧下さい。

 

              98/08/16() 17:29 ろまねすく(HAC01341)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

04218/04218 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第19回

(20)   98/08/19 10:10

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第 十九回

 

 

  ●クサダシからチャナカレまで…(1)……1998329

 

  〔イズミール〕

 

午前8時にホテルを専用バスで出発。今回の観光予定には入っていなか ったが、エーゲ海観光の拠点都市として著名なところなので、トイレ休憩 がてら立ち寄ることになった。

 

イズミールはエーゲ海地方最大の工業都市で、人口も250万人とトルコ ではイスタンブール、アンカラに次ぐ大都市である。ざっと見たところの 感じでは丘の上の方が旧市街で、くねくねした狭い坂道を下りきったとこ ろには、近代的な建物が都市らしい景観をつくっていた。

 

私たちは、ガジオスマンバジャ大通りの角にあるエタップ・ホテル(これ がまあ、京都のリクルートが入っているビルのように全面ガラス張りの建物)915分到着。

西欧のホテルと寸分変わらないホテルで、とりあえず用を足したあと、つ いでに両替を頼んだり、ホテル内のショップを冷やかしたのち、海岸の通りに出た。

 

そこはジムフリエッタ広場。真ん中に例によってケマル・パシャ…騎馬の アタチュルク像が、高い台座の上にあたりを払う格好で立っていた。台座の 前の方には、戦士やアタチュルクを熱烈に指示する市民たちの群像が、先頭 の市民は銅像、続く群衆は高浮き彫りで表現されている。

 

海岸沿いの道路には、高さ1メートルほどの防潮壁が長々と続き、埠頭ら しい風景だが、見えるのは小型船舶のみ。大型の船舶はずっと南の方に岸壁があるらしい。

行き交うクルマも少なく、あたりの高級ホテルの林立する風景とはなんだ かチグハグな感じ。

まあ、イズミールの空気を吸っただけか…とバスに戻って937分に出発。滞在僅か20分あまり。

 

    〔トルコ石の専門店にてトイレ休憩〕

 

今回に限らずトイレ休憩といえば、最も多いのがガソリン・スタンドに併 設された休憩施設。レストラン、軽食、土産物売り場などがある日本のハイ ウエイのサービス・エリアに似たものだった。

が、クサダシからイズミールを経てベルガモに行く途中で、1055分に 到着して立ち寄ったところは、ちょっと様子が違っていた。「SILVERJUERY」の看板を掲げている棟と「ONIX  FACTORY SOUVENIR」とい う看板を掲げている棟が鍵形に立っているだけのところ。

 

SILVERJUERYの方でトイレを借りることになったが、中に入ってみると トルコ石の専門店のような店。現地ガイドのムラート氏いわく、

「ほんま物のトルコ石を買うのは、むつかしいおまっせ。うっかりすると偽 物を掴ませられるかもしれへん。ここなら昔からの付き合いで、信用のおける店だす」

どうやら、ムラートさんの個人的知り合いの店らしい。チャイ飲みのムラ ートさんには一番にティーカップにアツアツの茶がふるまわれたし、店の主 人らしい男と早速親しげに喋り始めた。もちろん、私たちにもぬかりなくテ ィー・サービス。

 

実際、広い店内のショーケースの中のトルコ石の装身具の品揃えはたいし たものだった。指輪、ネックレス、タイピンが、デパートのフロアのように広い場所にずらりと。…

同じようなデザインでも、大小いくつものサイズが並べられていた。

 

トイレを済ませた人から、店内の巡回が始まった。お土産用のお手ごろ価 格のものから、日本ではお目にかかれない高級品まで。20人はいる店員が 一人一人につきっきりのようにして、色合いの違いと良品の見分け方、指輪 は台の裏を見せて、石の内部のキズの有る無しの判断法などを説明してくれる。

 

私も値ごろのものを妻のために購入。バスに戻るときには、たいていの同 行者たちは店の袋を下げていた。暇をみて隣のオニッキスの店も覗いてみた が、日本の鍾乳洞近辺で売られているような大理石で作った壷、花瓶、コー ヒーセット、真円の球形に磨かれた玉の置物などで珍しくも無く、すぐ出てしまった。

1125分に出発。30分は店内をウロウロしていたことになる。

 

   〔ぺルガモンのアスクレピオンとアクロポリス…その1

 

 ベルガマの町に入るとまず、医学の神アスクレピウスに捧げられたアスク レピオンの遺跡を探訪。到着は1140分だった。

まず道の両側に石柱が並んでいる…といっても満足なものは少なく、たい ていは途中で折れているが…石畳の「聖なる道」を進む。古代都市アクロ ポリスの下町と聖域を結ぶ1kmほどの参道で、やっと遺跡らしい広場に辿りつく。

 

途中、道路の脇に転がっていたやや大きな大理石片を見ると、棟木のよ うなマグサ石らしいものに、積んだときにズレないようにするためのホゾ のような切りこみが細かく並んでいたり、精緻な模様が何段にも刻まれたりしている。

日本なら、この程度のものでも貴重な発掘物として、博物館に収まるよ うなものであるが、何と野ざらし。

 

●アスクレピオンの治療棟

 

広場に出ると、がらんと広い矩形のところ。ガイドの大ムラート氏の先 導で左手に有るテレスポロス神殿というアスクレピオンの治療棟に向かった。

 

形は相当に崩れているため、皆さんに納得できるよう説明することは難 しいが、石を積んでドーナツ状の回廊を作り、その中を患者に音楽を聞か せなが、らひたすら歩かせる…という装置のようだった。

当時の医療というものが、如何なる物だったかは詳らかでない。が、ム ラート氏の説明によると、精神疾患の治療が行われていたとか。

小さな明り取りはあっただろうが、薄暗い閉鎖空間を音楽を聞かせなが ら、ひたすら歩かせる…ということは、一種の暗示療法、あらゆる思考を 停止させた上で、夢遊状態として精神に負ったトラウマの治療を目指した のではなかろうか。

 

●聖なる泉

 

このドーナッツ型の治療棟からは地下通路が、広場の対角線を通ってい て、「聖なる泉」の辺りに出る。

聖なる泉とは、広場の北隅あたりにある伝説にも登場する泉で、3、4 段の石段を下りたところに、今でも湧水がみられる。患者たちは、ここで 体を清めて地下道を通り、治療棟に赴いたものだという。湧水は飲料には 適さないと言うことだった。

見たところ、村の共同洗濯場と言う格好。

 

劇場

 

聖なる泉からすぐ、劇場へ。矩形の広場の北辺にはイオニア式円柱がず らりと並んだ北回廊があり、直ぐ前に劇場があった。

いずこのローマ遺跡でも見られるような、典型的な階段状半円形座席の あるもの。ここでは演劇やコンサートが開かれたと言う。患者たちの憩い の場でもあったのだろう。

 

ここまでで、アスクレピオンの見学を終え、ペルガモン王国が紀元前197年から159年にかけて最盛期を迎えたエウメネス2世の時代から、アタロス 3世の時代に造られた山上都市遺跡に向かった。

 

             98/08/18() 17:30 ろまねすく(HAC01341)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

04385/04393 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第二十回

(20)   98/09/05 14:55                     コメント数:1

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第 二十回

 

      

   ●クサダシからチャナカレまで…(2)……1998329

 

   〔ぺルガモンのアスクレピオンとアクロポリス…その2〕

 

●アクロポリス

 

アスクレピオンを出るともう12時を過ぎていた。アクロポリスの見学 の前に、一見アパートのような5階建てのホテル・アスーデで昼食。外 壁 は鮮やかな朱色の建物だった。

 メニューは、

   野菜入りのクレープ

   サラダ

   ケバブ

   デザート

アクロポリスには1435分到着。遺跡の門前には、いつも観光ポイン トテントで見かけるようなテント掛けかバラック小屋とは違い、絵葉書や ガイドブック、土産物を並べているのはキオスク風の建物。

 

入口を入るとすぐ緩やかな傾斜の石段を登っていく。

アクロポリスといえばギリシャのものしか思い浮かばないが、もともと、 ギリシャ語で「高い都市」という意味らしい。古代ギリシャでポリス(都 市)の中核をなす岩山をさしていた。岩の丘の周囲は城壁で囲まれ、その 中は聖域として神殿や公共建築があり、市政にかかわる重要な祭儀が行わ れていたとのこと。

アクロポリスは、有名なアテネ以外では、テーベと並んでトルコのペル ガモンも挙げられている。

 

この地の都市名は「ベルガマ」だが、古代都市は「ペルガモン」。その歴 史はこの地方を席巻し、インドの方まで足跡をのばしたアレキサンダー大王 の死後から始まり、3世記のなかばから紀元前2世紀に最盛期を迎え、強大 な都市国家を作り上げた。

典型的なヘレニズムの都市で、その後、ローマ帝国に占領されて以後も、 繁栄を続けたと言う。

だが、8世紀にはアラブ人に、14世紀にはオスマン・トルコにより打撃を 受けて衰退していったとのこと。

 

遺跡への入口を通ると、緩やかな石段を登って行く。ペルガモンの山上 遺跡は、低いほうから「下アクロポリス」、「中アクロポリス」、「上アク ロポリス」と三つの区域に分かれていて、私たちは観光バスで城砦とも記さ れている「上アクロポリス」へ直接入ったらしい。

 

順路に沿って、エウメネス2世の王宮、アタロス1世の王宮、アタロス2 世の王宮…と眺めながら登ったが、上部構造が円柱の切れ端ていどにしか残 っておらず、ほとんど見るべきものもない。私の印象ではエフェソスの遺跡 と比べて、印象に残るようなもののないのに少しがっかりしかけていたが、 ほぼ山頂にちかいところまで来て、空に向かってそそり立つ、たくさんの列 柱に支えられたトラヤヌスの神殿の姿を見て、初めて納得した気分。

トラヤヌス神殿は、ローマ皇帝のトラヤヌス帝(98117)を称え、後継 者のハドリアヌス帝(117-138)が建立したものと考えられている。

 

あいにくの曇り空。これが白い雲を浮かべた深い青空だったら、もっと美 しく威厳もあっただろう。ローマ起源といわれるトラヤヌス神殿の傍には、 石積みで半円形に囲われたところに、頭部のない彫像があったが、あれは誰 だろう?ハドリアヌス帝の勇姿だったのだろうか。また、石で組まれた円形 の深い井戸が見られた。この山上で水を得るには、どれほどまで深く掘り下 げねばならないのか?

 

ひとしきり、周辺を歩き眺めたあと、図書館の遺跡からアテナの神域まで 降りてくる途中、トラヤヌス神殿の基盤の下に8連ほどの石で構築されたト ンネル状の穴があった。一つひとつはアーチ天井でかなり大きい。

 

アテナの聖域にも、神殿建造物の一部らしい円柱が残っているのみ。聖 域の前は傾斜のきつい崖で、そこに造られた劇場は、怖いくらいの急斜面 に一万人収容と言う客席が造られている。

現地のガイドブックには、「西アナトリアに数ある古代劇場の中でも屈 指の美しい劇場だったに違いない」と紹介されているが、上に立つだけでクワバラ桑原。

 

その代わり、眺めだけは抜群の絶景。すぐ眼下に街道が走り、中景はベ ルガマの市街。眼路遥か彼方には低い丘陵のような連山があった。

 

劇場の客席を20段ほどは降りて見たが、やはり足元がこわい。元に戻 って、ゼウスの祭壇、上のアゴラを通り、下りにかかった。ゼウスの祭壇 は5段ほどの石段と基壇だけが残っている。

ペルガモン遺跡で世界的に知られた本物は、ベルリンのペルガモン博物 館で復元展示されている。資料によると、幅120メートルの馬蹄形の腰壁 をめぐらせ、壁全体には神々と巨人族との戦いの場面の見事な浮き彫りがあるという。

…それが見られない。基壇の上は空漠々、なにもない。こうして、エジプト、 トルコなどの地から、どれほどの民族的な宝物が、いわゆる先進国に略取されたことか。

 

私たちは中アクロポリスのヘラバシレィアの神域、デメテルの神域など の遺跡を眺めながら、下って行った。

民家の建つ細い小路の脇にも、執政官の館や下のアゴラの遺跡もあった が、市街地化に飲み込まれて行く感じだった。

 地元の人々が行き交う狭い小路を抜けると、ベルガマのメインストリー トに突き当たる、激しくクルマが通るところにも、メインストリートに面 して「赤い館」と称せられるセラピス神殿の遺跡もあった。今、眼前にあ るものは、かなり大きく頑丈そうな天井が落ちた本体の部分と、その左右 に位置する大きな円筒形の建物。これは外観はかなり残っていた。

 

やや町外れだったが、軒先に絨毯を吊るした店や石積み、平屋建ての民家が軒を連ね、2000年の昔の世界から、人の生活の息吹が感じられる町に ようやく戻ったのだった。

 

迎えにきたバスに乗車。いよいよ今日の最終目的地点チャナッカレに向けて午後315分出発 した。

 

             98/09/05() 14:45 ろまねすく(HAC01341)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

04386/04393 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第二十一回

(20)   98/09/05 14:55

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第二十一回

 

 

   ●クサダシからチャナカレまで…(3……1998329

 

   〔ベルガマからチャナッカレまで〕

 

初めの予定では、この後、トロイの遺跡に立ち寄ってからチャナッカレ のホテルに向かうはずだったが、途中、遺跡見学に時間をとられて、もう 時間の余裕がなくなってきていた。

地図で確かめても、ベルガマからチャナッカレまでにはエドレミット湾 をぐるりと廻り、山脈の峠を越えて、まだ相当な道のり。ダーダネルス海 峡に面したチャナッカレはクサダシのホテルからベルガマまでより距離が 遥かに長そうだった。

 

添乗員の嶋田嬢と現地ガイドの大ムラート氏が、なにやらボソボソ鳩首 協議していたが、大ムラート氏、やおらマイクを握り、

「皆さん、もう4時近いので、とてもトロイを見てる時間おまへんわ。ト ロイの遺跡は明日、ちょっと早くホテルを出て、ブルサに向かう前に見まひょ。」

と例によって、コテコテの関西弁で説明。一路、チャナッカレを目指すことになった。

 

ベルガマを出発して45分、最初のトイレ休憩アイワルクのちょっと 小奇麗なガソリンスタンドに併設されたレストラン。このあたりから海を 隔てた大きな島影が望まれる。

まるで、トルコのエドレミト湾を蓋するように近いのに、ギリシャ領の レスボス島だった。時間が押し迫っているので、5分だけのトイレタイムで出発。

 

大きく引っ込んだエドレミト湾をぐるりと廻り、やがて街道は本格的な 登り道にかかった。アイワルクを出てほぼ一時間。海の見えない長い坂道 を上り詰めたところ、峠の頂上に何軒かの出店があり、そこでストップ。 本日、最後のトイレ休憩。

 

ちょっとした崖に面した広場があり、エーゲ海を見下ろす格好のビュー ポイントとなっている。白い突堤で囲まれた港が二つほど見え、港を囲む ように町が広がっていた。

 

トイレを済ませ、エーゲ海をしばし眺めたあと、先ほどの出店をひやか す。トルコ名産のピスタチオが、幾つもの台の上に山ほど積まれていた。 他には、ピーナッツ、アーモンドなど。添乗員の嶋田さんやガイドの大ム ラート氏は、ここのオリーブ石鹸とピスタチオは良いものですよ…とご推 奨。見ると、オリーブ石鹸はいかにも「手作りですよ」と言わんばかりに 洗濯機普及以前によく使われていた洗濯石鹸なみのトーフ形。

オリーブ石鹸は重荷になるしと敬遠して、ピスタチオとピーナッツ、ア ーモンドなどを買いこむ。

 

下りにかかり、開けた田園風景の中に降りてきても、バスはまだ延々と 走っている。小さな峠を越えてやっと再び海に出会った。もうエーゲ海と は離れてダーダネルス海峡に入ったのである。

 

チャナッカレに入って、ホテルまでのアクセスは道路工事のためか、少 し回り道をしたようだったし、ガイトブックによればこの町はトロイ観光 の基地としての役割と博物館くらいしか観光資源は無いそうで、町に入っ た印象は、なにか、がさがさしていて情緒とは縁遠い感じだった。

 

午後630分アルコ・ホテルに到着。本日は観光の時間を含めて10時 間半のバス移動だった。

夕食は、ホテルのレストランでビュッフェ・スタイルの夕食。

 

         98/09/05() 14:50 ろまねすく(HAC01341)

 

 

 

 

 

 

 

 

04472/04473 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第22回

(20)   98/09/16 18:04

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第二十二回

 

 

     ●トロイの遺跡の見学……1998330

 

   〔トロイの遺跡にて〕

 

昨日の予定だったトロイに寄りそびれたので、今日は朝一番にトロイの 見学。そのため、7時30分集合の早立ちになった。昨日のコースを途中朝 の光の中にダーダネルス海峡の風光を楽しみながら逆に辿り、810分トロイに到着。

公園のような前庭に巨大な木馬が聳えているのが、既視感をさそう。「あ の木馬に登って見たい」…というコドモに帰ったような熟年をとっくに越え た皆の期待に応え、ちょっと眺めのトイレ休憩になった。

 

元気いっぱいのこ婦人方が、らわらわと駆け寄って行く。私が木馬の下 腹の梯子に辿りつく前に、もう胴の窓どころか、背の上に積まれた小屋の 窓からも顔を出し、手を振っている同行者までいた。

私も「いい年をして」と思いながらも、階段を上って窓辺からの景観を楽しんだ。

 

地中海から黒海へのルートは、地中海〜ダーダネルス海峡〜マルマラ海 〜イスタンブールからはボスフォラス海峡へと続いているが、地中海、ダ ーダネルス海峡、マルマラ海、エドレミット湾に囲まれた地域は、古代に は「トロアス」または「トロアド」と呼ばれていたところ。

トロイという名称も、こうした地域名から来ているのか、あるいはホメ ロスの『イリアス』に登場する二人の王トロスとイロスから来ているのか、判然としない。

 

それはともかく、長い間、伝説上の…またはホメロスのフィクションの 都市として考えられ、実在の都市とは信じられていなかった所が、1873年 にトロイは実在すると信じてやまなかったドイツ人シュリーマンによって 発掘されたことにより、俄かに脚光を浴びることになった。

 

門を入ると、東の塔、東の城壁の外側を通って、トロイ遺跡の第6市に沿って進む。

因みにトロイは幾度もの戦火ゃ火災によって滅んでは、新しい城市を作ったので、第1市から第9市までが複雑に重なり、九つの時代の遺跡が重 層し複雑に絡み合っていて、1歩踏み出すたびに違った年代の上に立つこ とになる。その時代区分は、

 

【第1市】紀元前 30002600

     初期青銅器時代。小麦やオリーブの生産が主で、織物も盛んだ

     ったと言う。火災により焼失。

【第2市】紀元前 26002300

     最初の繁栄期で、陶器や金・銅製品など、高度の文明があった。

     シュリーマンが財宝を掘り当てたのは、この第2市から。侵略

     してきた外敵により滅亡。

【第3・45市】紀元前 23001900

     この期間は衰退期で、見るべきものも無い。区域もはっきりし

     ていないらしく、現地で購入した本にも記載されていなかった。

【第6市】紀元前 19001300

     区域の広さは第7市よりはるかに小さな円形をしたところだが、

     トロイとしては最盛期だったという。現在まで見事な防衛施設

     を備えていた強固な城壁が残っている。大地震で倒壊。

【第7-a市】紀元前 13001200

     この時代がトロイ戦争の時代だったといわれている。戦争敗退

     で消滅。

【第7-b市】紀元前 1200900

     フリギアの植民地時代。

【第8市】紀元前 900350

     ギリシャ人が新しい町、イリオンを築く。

【第9市】紀元前 350〜紀元400

     紀元前 334年にアレキサンダー大王が、より大きなアテナ神殿

     の造営を命じる。続くローマ時代はローマ皇帝もこの地を訪問、

     小劇場や議事堂などを建造する。

…と、トロイの歴史を概観すると、紀元前900年トロイ戦争に破れた以降は ずっと植民地であり、都市国家としてのトロイに終止符を打たれたようなものであろう。

 

東の城壁は、二つの時代の石積みの城壁が連なっていたが、ハッキリとは 区別しがたい。草地を掘り起こした下から、第6市じだいの遺構の石垣の残 骸が覗いていた。

東門から入って行くと、第8市のギリシャ人支配時代の遺跡の彼方に、田 園が広がっている。道端に無造作に転がっている石にも、植物模様が刻まれ ていたり、住居跡らしい遺構があったりする。

 

とにかく印象として、今まで見てきたエフェソスの遺跡をはじめ、ペルガ モンの古代遺跡、ヒエラポリスなどと比べると、トロイの遺跡はあまりに無残な気がする。

それが、何度も他国の侵略ゃ大火、地震による壊滅を経てきたばかりで なく、シュリーマンの発掘が財宝目当ての、所かまわぬ乱掘にあるのではなかろうか。

 

ものの本に寄る記述では、考古学者ではない彼は、闇雲に地下へと掘り 下げるばかりで、遺跡の保存と言う概念どころか、その価値にさえ無知だ ったと思われる。まあ、19世紀のこと…一般には「文化遺産」という意識も無かったのに違いないが。…

 

そしてシュリーマンは黄金や白金などたくさんの宝飾品、財宝を手にし たのである。また伝説の美女ヘレンのものといわれる「ヘレンの宝石」も 入手したが、ドイツに持ちかえった発掘品も、第二次世界大戦後に戦勝国 ソ連に持ちかえられたが、それ以来、かずかずの財宝の行方は不明になっ ているとのこと。

 

いずこの国の古代遺跡は財宝泥棒の盗掘に遭っているが、盗掘家シュリ ーマンに荒らされたお陰で、各年代の層が複雑に入り組み、歩いていてもバラバラ。

1市の住居跡からも、外界の田園風景が眺められた。振り返るとそこには第6市の住居跡が見えている…といった具合。

 

ここまでの印象をまとめて見ると、城壁(市壁)は残っているものの、 土台ばかりで「うわ物」は殆ど見られない。

例えて言うと、熾烈な爆撃を受けた廃墟…第二次世界大戦直後の東京や、 原爆攻撃を受けたヒロシマ。きれいサッパリ潰れさっている。

 

瓦礫の山のアテナ神殿からトロイ第1市のメガロン式住居跡、メガロン 式宮殿の跡を歩いて、出口に向かったとき、がっしりした大理石を敷き詰 めた坂道に差し掛かったが、トロイの中で唯一の築造物に出会ったという感じがした。第6市の市壁から外への出口でもあったのだろうか。

6市の遺跡図を見ると、ほぼ円形の城壁に囲まれた第6市からは、二 つのメインゲートがあり、ここは南部のゲートらしい。大理石の坂道の両 側の石積み具合を見ると城壁の外側には環濠でもあったのだろうか、と考えられる。

 

比較的、構造の分かりやすい第9市の聖域には、生贄を捧げる祭壇や井 戸のように円筒形の構造があり、女神の像が立っていたと言う基壇もあった。「TROIA  [/\  HEILIGTUM  SANCTUARY」という表示板も立 てられている。井戸らしい円筒形し水路は祭壇に捧げる生贄の血を洗い流 すためのものらしい。

 

出口に向かって歩いて行くと、今まで各地でさんざんお目にかかってきた 劇場から見ると、ほんのささやかな小劇場があった。音楽堂として使われて

いたものだが、客席も少なく、当時は木造の屋根で覆われていたと言う。

 

正直、元の小公園に出てきてホッとした。ギリシャ神話に登場するイダ山 の松ノ木で作られた木馬は、これこそトロイだ…という妙な実在感を覚え、 ホッとするのだ。

それと共に、バスの待っている地点まで、石壁に両側を囲まれた敷石の坂 道を降りて行くと頭だけネッカチーフで包んだトルコの女性たちが、あっけ らかんとした明るい表情でおしゃべりしながら歩いて行くのをみると、トル コは内外にいろいろな問題を抱えながらも、それなりに人々は充実した生活 をおくっているのだ…と実感したのだった。

 

坂道を下ったところに、壮大なメフメットT世のお墓、イエシルモスクが 八角形のトコルブルーの外壁を見せていた。

 

9時過ぎにバスで次ぎの宿泊地ブルサに向けて出発。

 

 

           98/09/16() 17:54 ろまねすく(HAC01341)

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04514/04514 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第二十三回

(20)   98/09/21 16:07

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第二十 三回

 

 

 ●ブルサまで……1998330

 

トロイを出ると、まず、ダーダネルス海峡を左に見ながら今朝きた道をえ んえんと走る。見覚えのある光景。チャナッカレでごみごみした市街地を抜 けて、ダーダネルス海峡からマルマラ海に沿って走り、やがて、しばらくは内陸の風景に。

 

ビガを過ぎて暫くすると、ちらっとマルマラ海に再会…すぐ海は視界から 消え去ってしまう。バンディルマの街でトイレ休憩。ここまででトロイから約二時間。

 

再び都会近郊らしいガタガタした風景の中を走りに走り、午後1時15分 やっとブルサに到着した。

正午をかなり廻っていたので、直ちに昼食に。アタチュルク通り近くの、Yuce  Hu(:)nkarというレストランで、トルコの名物料理イスケンデル・ケ バブの昼食。野菜のスープ、サラダ、デザート付き。

 

ブルサでの観光については項を改めるとて、やっと終着のイスタンブール 1歩手前の街まで辿りつき、行程の9割を消化した時点で是非書いておきたいことがある。

それは、トルコが今建設ラッシュではないかと思われるほど、大小様々な 新築工事が見られること。

 

まさかトルコの経済がバブルの真っ只中…とは考え難いのだが、特にクサ ダシを出てからは、新築工事あるいは建設中の現場が、イヤと言うほど目に 付く。特にイスタンブールに近づくに連れて、多くなっているように思えた。 殆どが煉瓦造りの工法で、四隅の柱と各階の床工事のみ終わった…という 状況なのだが、煉瓦を積んだ、あるいは鉄筋コンクリートの柱に煉瓦を捲き つけたほどのものであるが、何と細い柱であること!

 

それに比べて、各階の床の分厚く頑丈そうなこと。非常にアンバランスを 感じた。トルコも東部、東南部は地震が度々大きな災害をもたらしているが、 西部の方は、これで耐震性に遺漏はないのだろうか。

この建て方は、規模の小さな個人住宅から、十数階建てビルまで同じよう な工法。何故、建設ラッシュなのか、何故、このようなメインの支柱の細い 建て方なのか。訊ねる機会を逸したが、最後まで疑問は解けなかった。

 

ブルサ観光

 

〔イェシル・ジャミイ〕

 

さて、昼食を終えるとすぐ近くに有るイェシル・ジャミイへ。モスクの 入口は、スペイン旅行の際にグラナダのアルハンブラ宮殿ではじめて接し たイスラム様式の鍾乳洞の天井を模したような装飾が、入口の頭上に。 内部は薄暗くて色彩の状態が良く見られなかったが、天井以外はすべて グリーンに統一されている。

 

ここで目に付いたものは、堂内に噴水があり、水はモスクのミニチュア から吹き上げていた。

堂内は上の方は白い漆喰、下部はグリーンというよりは濃紺色なので暗い感じがした。

部屋の一角には高位の聖職者がメッカの方向を向いて礼拝する段がもう けられている。何段か登って礼拝するらしいが、全体は小さな尖塔のスタイル。

1424年にメフメット一世の命により建造されたモスクで、オスマント ルコ初期の傑作とされている割合には、華やかさには乏しく、却って質素なたたずまい。

 

〔ブルサで最大のウル・ジャミイ〕

 

この町の繁華街だろうか。人通りも行き交うクルマも多いアタチュルク 通りを歩いて、ブルサ最大のモスク…ウル・ジャミイに向かう。小川の橋 を渡ったところに小公園があり、ここにもアタチュルクの騎馬像が辺りを睥睨していた。

 

この辺りは、立派な構えで品ぞろいも豊富そうな店が続いていた。と、 ウル・ジャミイに隣り合って大きな広場があり、シルク・バザールがあっ た。ご婦人方はモスクより、バザールに惹かれたようだったが、先ずはモスクへ。

広場からは10メートル以上の高さには見えている塀とお汁碗をいくつ も伏せて並べたような、小ドームがある屋根、高いミナレットが見えていた。

 

40年がかりで建造され、1421年に完成したウル・ジャミイは、脱いだ 靴を手提げのビニール袋に入れて1歩踏み込むと、圧倒的なほの暗さと静 けさが<ここはお祈りの場で、観光のための場ではないのだ>…というこ とを感じさせる雰囲気だった。 幾つも有るドーム天井の一つから射し込む光が、堂内に拡散しているばか り。その上に装飾タイルが濃紺なので、祈りの場の厳粛な空気を作り出していた。

 

広い堂内いっぱいに、祈りのため膝まづくための絨毯が一面に敷かれてい た。今は祈りの時間ではないらしく、10人程度の人が静かに祈り、礼拝して いるのみだったが、ぼつぼつと祈りのために入ってくる人がいる。 見ていると、それぞれに決まった場所があるらしく、まっすぐ自分の場所 にいって、膝まづき祈りの姿勢に入っていった。

 

 〔シルク・バザール〕

 

バザールの前の広場にはプールのように広い池があり、池の中の何ヶ所か らは噴水がほとばしっていた。バザールといえば日本ではテント掛け、小屋 掛けの臨時的な施設で、夜店の屋台、地面に広げた敷物の上に持ち寄った品 物を並べるもの…という観念が出来上がっているが、ここのバザールは青白 い石を積み上げて造られた恒久的な施設で、中庭を挟んで回廊のようになっていた。

 

立派な構えの入口を入って回廊を一巡りして見る。中はどんな風に賑わっ ているのか、と期待していたが内部はまるで名店街そのまま。肩を触れ合う ような混雑も無く、むしろひっそり閑としていた。

やはり、シルク・バザールの名の通り生地屋やブティックらしい高級品を 扱うような雰囲気で、安いものを買い漁るところではないらしい。

 

トルコでの商売というと、まずチャイで一服。盆の上にチャイセットを乗 せて注文の店に届けるらしいウェイターが、行き来していた。

 

バザールの中は、中庭に面して尖頭アーチの柱廊がぐるっと廻り、廊下に 面して個人商店が連なっている、という構え。屋根には例によって小さなド ームが一列に並んでいた。中庭の真ん中には、ドーム屋根の洗礼堂に似た建物があった。1階は吹き抜けの手洗い場。

 

森閑としたシルクバザールを抜けて裏側に出てみる。ここには、私の思い 描いていたような庶民のための店が建ち並び、スカーフをかぶったトルコの 主婦たちが、食料品や日用雑貨、手ごろな値段の衣類を物色してる。 人通りも多く活気があった。壁面にシャツ、セーターなどの衣類を掛け並 べたりしている。

 

シルクバザールの裏通りのみか、そこから伸びている通りにも、公設市場 に似たような市場があり、場所によって衣類関係、食料品市場、専門店ら しい一画と、住み分けているらしい。果物屋がずらりと15軒ほども並ん でいたかと思うと、同じ数だけ花屋ばかりのところも。

 

余りに奥深く、ホテルに向かう集合場所の広場まで戻ってきたが、私た ちの同行者の姿は見えなかった。

 

この広場はアタチュルク通りから一段低くなっていて、そこにもアーチ 回廊があるので覗いて見た。こちらは、アタチュルク通りの下に広がって いる地下街。ナイトウエア、貴金属、高級シルク、テーブルウエアなどの 専門店が続いてた。

 

一時間近くバザールを巡り歩いて、午後5時に迎えのバスに戻ってホテ ルに直行。午後5時15分にキャラバンサライ・テルマルホテルに到着。

「ご希望の方は、ハマム(トルコ風呂)を体験してください」 という添乗員の嶋田嬢の声に、予約をお願いすることにした。マッサージ も受ける(別料金)ことにした。

 

  夕食は、今日もビュッフェ・スタイル。

 

      98/09/21() 15:58 ろまねすく(HAC01341)

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04525/04525 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第二十四回

(20)   98/09/22 17:55

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第二十 四回

 

 

   ブルサでのハマム初体験……1998330

 

部屋で水泳パンツに穿き替え、かねて偵察しておいた方向に廊下をたどる。 裏側に廻って外から見たところでは、近代的な建物の中庭に古色蒼然とした イスラム風のお碗を伏せたような小さなドームが幾つも並んでいる一棟があ つたので、方向には間違いがない。

 

添乗員の嶋田さんからチケットを受け取っていたので、係員らしい男に見 せると、身振りで二階に上がって準備しろ…という風。二階に幾つかの入口 があり、適当な一室にはいって鍵の残っているロッカーを開けて見ると、ガ ウンと大きな湯上がりタオル、それに水虫のうんと棲息していそうなゴムの サンダルが入っていたので、着替えてロッカーのキーを足首につけて、下に降りた。

 

右手の部屋がマッサージ・ルームらしい。突き当たりが浴場か。ウロウロ していると私を担当する男らしいものが近寄ってきて、まず浴槽に入れという身振り。

 

ガラス戸を開けて中に入ると、直径7mほどの丸い浴槽がでんと構えてい た。周囲には一段高くなったところに幾つも区切りがあり、湯上りのための 水槽があり、二十人くらいの先客が湯船の縁に腰をかけていたり、タイルの床に寝転んでいたり。…

とりあえず入って浴槽の縁の段に腰を下ろす。さあ、肩までゆっくり漬かろうか…と降りた途端足先は底につかないでぶくぶく沈んでしまった。慌 てて水を掻いて浮上し、浴槽の縁に掴まった。なんと浴槽の深さはゆうに2 メートル以上はある。

 

腰をかける段は二段になっていたので、下の段に腰をおろすとちょうど胸 の辺りまで漬かれた。ぼんやり入っていると、近くにいた浅黒いトルコ人の オッチャンが「泳げ」という振りをして、自分からドボンと飛びこんで、ク ロールの二掻き三掻きで向かい側まで。

私も銭湯で泳いだのは小学三年生くらいまで。その後は内風呂ばかりだっ たので、これは60年ぶりのことか、いい年をして…と内心ぶつぶつ言いな がらも、ええい郷にいれば郷に従え、と飛びこんだ。年寄りの冷や水ではな くて、年寄りの暖水か。

 

のぼせる1歩手前で上がり湯をいっぱいかぶり、さっきの広間に出ると、 待ち構えていた係りの男が、マッサージ室を指差す。死体検案の台のような ところに登ると、「伏せて」という身振り。粉石鹸を溶いたようなものを全 身にざぶり、と引っ掛けて手ぬぐいでごしごし。くるりとひっくり返されて オナカから脚の先まで洗ってくれた。

 

「もう一度、浴槽へ」との身振り。 そこではもまだ手荒く頭から石鹸水を掛けられて、頭を現れる。想像して いたほど手荒くはないが、日本の理髪師に洗われるほど丁寧ではなかった。 もう一度、浴槽に漬かってから広間に戻って、空いていた籐の寝椅子にガウ ンを着たまま横になる。

 

男女は別になっているが、女性用のハマムに行くには男性用の広間を通ら なければ行けないらしい。ツァー仲間の女性たちが、しきりに私の寝転んで いる前を行き来していた。

訊いてみると、先客が多くてなかなか順番が廻ってこないとのこと。

 

私が中国で八年間過ごしていた頃、中国式の銭湯には何度も利用したが、 ここでは中国式のきつい垢すりはしないらしい。中国の庶民は日本人のよう に毎日風呂に入るということは無くて、月に一回ほどだろうか。その代わり まるまる半日は銭湯でくつろぐらしい。

湯船に入り、垢をすり、寝台でうたた寝し、飲み物を取って喉を潤し、 また湯船につかる…を繰り返していたようだった。

 

北欧の旅行のときは、フィンランドのヘルシンキからスゥエーデンのスト ックホルムまでの豪華フェリー、シリア・ラインの「シンフォニー号」では フィンランドの若者三人と一緒に本場のサウナを体験し、その熱さにも平然 としているのに驚いたこともあった。

 

ハマムの寝椅子に横たわって、うつらうつら銭湯やサウナの初体験のこと を思い出していた。

明日はいよいよ最後の目的地…イスタンブールにはいる。

 

           98/09/22() 17:47 ろまねすく(HAC01341)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

04650/04667 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第二十五回

(20)   98/10/03 17:04

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第二十 五回

 

 

  

  ブルサからイスタンブールへ……1998331

 

ブルサを朝8時に発って、いよいよイスタンブールに向かう。まずバスで ヤロバに向かい、ヤロバ港からフェリーで対岸のエスキヒサール港に渡り、 陸路…高速道路を走ってボスフォラス大橋をわたってイスタンブールへ、と いう大体の行程は頭の中に思い浮かべても、第1ボスフォラス大橋を渡るの か、あるいは第2の橋なのか見当がつかない。

また、そそれが私をわくわくさせるのだ。

 

ツァーに参加するたびに、入念に下準備をするところから楽しみが始まる。 世界各地の地図を買い漁るのも、その楽しみのため。如何なるルートを辿りどのような光景がバスの車窓から眺められるのか。…

そのために海外に出るたびに、現地でしか手に入らない詳細な地図を買っ てくる。一昨年には分厚くて重いのも苦にせず、全ヨーロッパの道路地図帳 を手に入れ、爾来、座右に置いている。広範囲の図が360万分の1、道路図は100万分の1なので、かなり小さな町の名前も出ているので嬉しい。

 …とんだ横道。

 

バスがホテルを出てから暫くは、E90の道路をほぼ東北のに方向に向かっ て、ダーダネルス海峡に沿って走る。途中から内陸に入り、単調な風景に飽 きた頃、バンディルマ手前でちらっとマルマラ海が見えただけで、再び海の見えない道へ。

車窓から見える風景は、日本の都会を出外れた郊外と雰囲気が良く似てい た。軽工業地帯と言うか、ごみごみとした中小企業が両側に並んでいる街道。

 

バンディルマで20分ほどトイレ休憩。チャナッカレまでは雪を頂いた山 々を眺めたり、山に四囲をかこまれた湖畔の眺めを楽しんだり、初めて目に するエーゲ海に感慨を覚えたり楽しめたが、このルートは自然の美しい風光 が有る訳でもなく、ただ走っているのみに飽いていたので、たった20分の トイレ休憩でも、大地に足を下ろして歩き回れるのは気分転換にとても良い。

 

バンディルマからの道は、低く連なる山脈にそって走り、いたるところで 大理石の切り出しが行われており、緑の山肌があちこちで点々と切り払われ 岩肌を露出している所があった。そう言えば、これまでの道路沿線に大理石 の加工工場が多かったようだ、と思い出した。

今まで大理石と言えばイタリア、と貧弱な頭で思いこんでいたが、トルコ でもこんなにたくさんの大理石を産出するとは知らなかった。今まで、ヒエ ラポリスやエフェソスでも、トロイでも散々大理石を敷き詰めた古代の道、 宮殿、神殿それにたくさんの大理石の彫像を見てきた筈なのに。

 

午前10時、ホテルを出発して二時間でやっとヤロバ港に到着。イスタン ブールのアジアサイドに続く道は、マルマラ海が深く切れこんでいて、半島 になっているので、陸路をバスで辿るとなるとイズミットまで東に向かい、 折り返して西へ、相当な回り道になるので、フェリーで向かい側に渡ると随 分のルート短縮になる。

 

乗ったフェリーは何噸ぐらいだったろうか。日本の長距離フェリーよりは だいぶ小さかったが、2000トンくらいは有っただろうと思う。バスごと乗 り込んで、バスを出ると客室にすっこんでいるのは勿体無い。上甲板を右舷 に左舷に、舳先に船尾に場所を変えながらマルマラ海の景色を存分に眼に焼 き付けようとしていた。

 

この辺りはヨーロッパサイドとアジアサイドを結ぶ航路が多いのか、あち こちの方向に向かって航行している船舶が目に付く。貨物船が多いようだっ た。出帆後の暫くはだんだんと遠ざかって行くヤロバ港と周辺の景色を見送 り、もう対岸のエスキヒサール港に近づく頃だと見計らえば、船首にいって ゆっくりと大きく見えてくる対岸を見つめる。

 

海岸線にエスキヒサール港らしい景色が見えてからは、列車、バスなど陸 上の交通機関と違って、接岸するまで時間がかかる。バスに戻って上陸。走 り出すとすぐ地図を取り出して、どのルートだろうかと、高速道路の案内標 識を見つけては地図で確かめる。国内でも、海外でもこの癖は変わらない。

 

低い山の切通しを幾つか越えた頃から、都会の郊外らしい住宅が見え始め、 やっと第1ボスフォラス大橋だと見当がついた…と見る間に、海峡の水面が見えてきた。 ヨーロッパサイドの新市街に林立する高層ビル群が視界に現れ、旧市街に スレイマニエ・ジャミィの大きなドームと高いミナレット、その彼方にブル ー・モスクとアヤ・ソフィアのミナレットが…。これこそ写真でいやになる ほど見てきたものの実際の光景。

 

大橋は高いところにかかっているので、すぐには最短距離の海峡沿いの道 には降りられない。郊外のごみごみとした市街地を眼下に見ながら高度を下 げて、一般道路にでると、割合にガラタ橋まで時間がかかったような気がした。

私の印象にあるガラタ橋は、小魚のフライを商う店に群がる人たち…とい う猥雑な、しかし気取らずに親しみも有るところ…だったが、1992年に火 事に遭い架け換えられたガラタ橋は没個性的な、広くて交通量の多いだけの 近代的な橋になっていた。場所も昔よりやや金角湾の奥に移動しているか。

 

ガラタ橋を渡ると、人ごみで混みあうイェニ・ジャミィ、バスターミナル の前を過ぎ、海岸に沿った道を進んで行く。

「この辺りに国鉄の終着駅のシルゲジ駅があり、今、石垣に沿って走ってい ますが、有名なトプカプ宮殿の外側になります。」

と添乗員の嶋田さん。

 

やがて、鉄道線路の土手近くでバスはやっと止まり、私たちは線路の下を 潜って、狭い道の両側にお手軽な海鮮料理屋が文字通り櫛比している通りを あるいて昼食に向かった。

どの店も表に料理に使う新鮮な食材…いろんな魚介類とムール貝、海老な どを客の食欲を誘うためにディスプレイしたいた。ベルギーの首都ブリュッ セルでも、グラン・プラスから近いブシェール通りにも、こんな光景があっ たっけ、と思い出していた。

 

トノース(TONOZ  RESTAURANT)に到着したのがもう1時前。腹ペコ では、なにを出されてもおいしい。まして、この日の昼食は、

  季節のサラダ

  ムール貝のサラダ

  中華風サラダ

  海老のキャセロール焼き

  豆の煮こみ

  ポテト・サラダ

  ボレキ

  ムール貝のフライ

  石鯛のグリル

  季節のフルーツ盛り合わせ 又は 洋菓子

と、田舎ばかり巡ったきた我々にとっては、実に盛りだくさんだった。

 

さあ、これから三日間。東西世界の接点、イスタンブールはどのような 貌を私に見せてくれるのだろうか。

 

       98/10/03() 16:54 ろまねすく(HAC01341)

 

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      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第二十 六回

 

 

 

 イスタンブールにて (1)……1998331

 

昼食後、再びバスで移動…といっても、極く短距離。すくイスタンブール のランドマークといった格好の、ブルーモスクとアヤ・ソフィア寺院の間に 広がっているスルタンアフメット公園に到着。 なんと素晴らしい眺めなんだろう。左手には六本のミナレットを従える格 好で大小の白亜のドームが小山のような盛り上がりを見せるブルーモスク。 反対側には重厚な煉瓦造りのアヤ・ソフイア寺院が対峙するような姿をどっ かりと見せていた。

 

ブルーモスクの側には、作りつけのがっしりとしたベンチの列、恐らく200人は楽に坐れそう。団体の休憩所なんだろうか、何かの会合に使うものなのだろうか。

バスから私たちが降りるや否や、手に手に絵葉書を持ったり、日本語のガ イドブックを抱えたりの子供たちがわらわらと集まってきた。ガイトブックは1冊1000円、折畳式になった絵葉書は…「6冊100円、6冊1000円」と 叫んでいる。10数名の子供たちは売りこみに必死で、いささか過当競争気味。

中には「絵葉書7冊で1000円だよ」とダンピングする子供もいて、たち まち叫び声は「7冊で1000円」になってゆく。

 

初め、双方のモスクの撮影や、お互いに写真を撮りあうのに大わらわだっ た同行者たちも、群がる子供たちに閉口して1冊1000円、7冊で1000円 のガイドブック、絵葉書を買わされていた。

 

ところで、トルコに来てからずっと付きまとわれ通しだった色々な物売り の売値は判を押したように「1000円」なのである。日本語での細かい数字 をとても覚えていられないので、あらゆる値段は切り良く「1000円」にし て、冊数などの数量で押し捲ってくるのだろう。買わされる身となっては、

「そんなには要らないから、2冊ちょうだい」なんて言っても通用しないのだ。

 

〔ブルーモスク〕

 

しばしの写真撮影も一段落と見た添乗員の嶋田さんの、

「さあ、これからブルーモスクに行きましょう」 の鶴の一声で、押し売り少年の相手にかかずらわっていた人たちは、ホッと したように歩き出した。嶋田さんは歩きながら私たちに説明する。

「世界にはたくさんの回教寺院がありますが、ミナレットが六本もあるモス クは、巡礼の聖地メッカのモスクとここのブルーモスクだけと言われていま す。これには皇帝の命令の聞き違い…という逸話があって、皇帝が「黄金の (アルトゥ)ミナレットを立てよ」と言った言葉を、家来が「六本の(アル トゥン)」と勘違いして立ててしまった、という話です」

 

この世にも美しいブルーモスクは、アフメット1世がオスマン帝国の威信 を賭けて建造した皇帝のジャミィ(モスクのこと)で、落成したのは1616年、スルタンの死去した前年だった。正式名称は「スルタン・アフメット・ ジャミィ」。輝くような白いドームは本当に心に染みる優雅さだ。

 

正面のヒポドゥローム側から入ると、真ん中に身を清めるための八角形の 泉亭があるが、これはもうコンヤのメブラーナ博物館でもお目にかかってい るもの。靴を脱いで<大ムラート氏に脅かされた猛烈な水虫>を気にしながら 堂内に入る。またムラート氏はこうも言っていた。

「皆さん、持ってきた靴下のうち一番汚れてもいいのを穿いて来て、見学が 終わったら捨てて、別のに穿き替えてね。でないとひどい水虫になるさかい」

…ああ、イヤなことを思い出してしまった。

 

堂内一面に何十年か敷きっ放しの擦り切れ、色も褪せ、じめじめした湿気 を含んだ絨毯が床一面を覆い、その上にメッカの方向に向かい礼拝者がひざ まづく位置に、細長い絨毯がたくさんの平行線状に敷いてあった。

 中央の一際高い円形のドームと、弧を接するように小さなドームが囲み、 それぞれのドームの裾には、明り取りの小窓がぐるりを囲んでいた。天井か らは、鎖でぶら下げられた鉄の輪が幾つもあり、電飾のように小さな電球が ついていて堂内を明るくしていた。

 

中央の大ドームは高さが46m直径が26mもあるが、全体が大きすぎて、 高さに実感が乏しくなる。壁面のタイルはブルサから東の方にあるイズニッ クで作られたもので、糸杉やトルコが原産だと言われるチューリップなどの植物模様。

 

ドームの裾にずらりと巡らされている小さな明り取りの窓は、単純な幾何 学模様だったが、壁面の大きな窓には花柄模様、植物模様の色使いの派手な 文様のステンドグラス。しかし、堂が大きすぎて、キリスト教会のようには 目立たないものだ。

しかし、天候の加減にもよろうが、外界から入ると堂内には神秘的なほど の仄暗い雰囲気に満たされている。たくさんの小さなステンドグラスから し入る陽光だけでは、辛うじて夕闇に似た明るさしか保てない。 幾重にも釣り下げられた鉄輪につけられた無数のランタンとあいまって、 堂内に宗教的な雰囲気をつくっているようだった。

 

壮大なドームを見上げ、堂内を一巡したのち足元を気にしながら外に出た。

 

〔アヤ・ソフィア寺院〕

 

薄闇のブルーモスクから外に出ると、光の溢れる世界。空は青く晴れ上り、 未だ芽吹かない早春の木々の繊細な枝先、ミナレットの白い姿の先がくっき りと眼に映じる。

 

公園をアヤ・ソフィア寺院に向かう。通りを隔てて見えている寺院は、白い ブルーモスクと対照的な色合いの巨大なドーム。4本のミナレットを配した赤 い煉瓦の、どっしりした構えのアヤ・ソフィアである。 ぶらりぶらり、三々五々、ゲートに向かう。煉瓦塀に沿って昔装飾に使われたのか、4匹の羊らしいレリーフの刻まれた大理石の断片が置かれてあった。 あれれ、まるで遺跡のようだ。

 

イスタンブールを象徴する代表的なこの赤茶色の煉瓦造りのモスクは、東 ローマ帝国時代のピザンチン様式と、オスマン・トルコ時代にキリスト教の聖 像を塗りこめてモスクとした、二つの時代が重層的に見られるものとして、ず っと一度はこの眼で見たかったところである。

 

ローマ帝国の新しい都をこの地に築いたコンスタンチヌス大帝は、紀元325年にギリシャ正教の大本山として建造したのが最初。その後、度重なる震災で 崩壊し、再建を繰り返したが、現在の規模は537年にユスティニアヌス1世に よって、堂々とした伽藍を完成させたと言う。

 

それが、1453年に至って、オスマン・トルコのメフメット二世によりコン スタンティノーブルが陥落すると、この大聖堂はモスクに改造され、聖堂内の モザイク・タイルによるキリスト教の聖像は、すっかり漆喰で塗りこめられたも のである。その外側に4基のミナレットが立てられ、歴代スルタンの礼拝する 皇帝のモスクとなった。

 

1932年、アタチュルク大統領によってアヤ・ソフィアは博物館となり、漆 喰の下に眠っていたピザンチン時代の華麗なモザイクが蘇り、現在に至っている。

 

門を入ると、左手の方に廻って内陣に入った。皇帝の門の上に「祝福を与 えるイエス・キリスト」の金色のモザイク画がある。九世紀に作られたもの とか。イエスは玉座に腰をかけ、右手を胸の前に挙げた祝福のポーズ。その 左にフード付きの衣をまとった聖母マリア、右に大天使ガブリエルが、丸いメダルの中に。

 

内陣に入ると、ここもブルーモスクと同じように、何百年という時間がよ どんでいるような薄暗闇の支配する空間。皇帝の間のあたりからドームを見上げる。

どうしても今見てきたばかりのブルーモスクと比べてしまうが、相違点はア ヤ・ソフイアの方が混じりっ気なしのイスラムの世界の雰囲気が感じられた。 壁面の窓も大きい。二階のテラス回廊の壁面に、幾つもアラブ文字を装飾化し たメダイヨンが見られる。

 

一渡り眺めたあと、大ムラート氏のあとについて、二階のテラスへ上がり ギャラリーを進み、二つほどアーチを潜って振りかえると、「デーシス(祈 祷)」と名づけられた素晴らしいイコンがあった。中央にイエス・キリスト、左 は聖母マリア、右に洗礼者ヨハネ…という図からであるが、世界で最も素晴ら しいピザンチン時代のモザイクの一つと言われているが、残念なことにキリス トの下半身、マリアの首から下が剥げ落ちて痛ましい。13世紀に作られたと聞くが、キリストの表情が威厳に満ちていてとてもい い。しかも美男子。

 

テラスを更に進むと突き当たりの壁面に「キリストと女帝ゾエ」のモザイク が有った。皇帝の権威を示すものだろう。キリストの左には王冠を頂いたコンスタイティン4世、右にそのその妻ゾエの肖像がある。実はコンスタンティン4世はゾエの3番目の夫で、ゾエはピザンチン帝国 で唯一絶対の権力を握っていたといわれる。

 

この一画には、「聖母子と皇帝コンネナスと皇后イレーネ」という12世紀 のモザイクもみもの。 テラスから見下ろす内陣も、眼に高さで先ほど見上げたメダイヨンや周囲 の装飾もゆっくり眺められて最高。

 

1階に下り、出口の上にも「聖母子にアヤ・ソフィアをささげる」椅子に 座した聖母子の左にユスティニアヌス2世がアヤ・ソフィア寺院を捧げ、右 にコンスタンティヌス大帝がイスタンブール市街を捧げている図柄のモザイクを見た。

キリスト教世界でも、己の権威を誇示するため画家に命じて、キリストや 聖人が主題の絵画に自分の肖像を描きこませる例にはこと欠かない。

 

二つのモスクは二時間ほどかけて見学し、1550分、次の目的地、 地下宮殿に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

04838/04838 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第二十七回

(20)   98/10/17 10:30

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第二十 七回

 

 

 イスタンブールにて (2)……1998331

 

〔地下宮殿〕

 

アヤ・ソフィア寺院を出ると、すぐ近くにある地下宮殿に向かう。大きな ディワン通りとイェレバタン通りが作る鋭角の角にある、宮殿というにはと ても似つかわしくない、ごく普通のビルにその入口はあった。

 

石段を暗い地下に降りて行く。と、ちらちらする灯かりと太い石の列柱が 眼に入る。ちらちらするのは、低い位置に置いてある灯火が風も無いのに、 かすかに揺れている水面に映っていたものだ。

こういった感じは、ウイーンの森と周辺に行ったときに見た、塩鉱採掘場 の跡に出来た地底湖ゼーグロッテだった…と思い出した。

 

デジャヴまがいの感想にふけっている間に、暗さに眼も慣れてきた。何列 も円柱が立ち並んでいて、その間に火影をちらちらさせている真っ黒な水面がある。

地下宮殿、イェルバタン地下貯水池は、六世紀にユスエニアヌス帝の命に よってつくられたもの。336本のピザンチン・コリント様式の支柱によって 支えられている。かっては、ここに貯えられた用水が宮殿への給水に使われていたという。

 

板敷きの桟道を通って奥へ、奥へと歩いて行くと低い灯火の反映も動いて 行くように思えた。添乗員は私たちを一番奥の片隅に誘った。途中、中央通 路の中ほどに、変わった様式の円柱を見た。木の節のような模様が上下に幾 筋も連なっている。これが「涙目の円柱」と呼ばれているもの。

 

更に奥の隅っこへ。そこにはこの地下宮殿を有名にした二つのメデューサ の首が見られるのだ。

この宮殿を造営するために、各地の古代遺跡から円柱を調達してきたため、 大理石の円柱は長さがマチマチで、高さを揃えるため、メデューサの頭部を 台座の代わりにしたものである。

一つはまっ逆さまになって、もう一体は横向きになって円柱を支えている …というか、円柱の下敷きになって押さえつけられている風。なんとなく、 無念さうな形相に見えた。

 

メデューサは、見られると相手を石に変えるという妖怪ゴルゴン。ゼウス の子、勇士ペルセウスに密かに思いを寄せていた女神アテナの助けを借り、 三人いたゴルゴンの末娘のメデューサを退治し、首を落としたが、死しても なお、見た者を石に変える力を失わなかったと言う。

 

***** これで、イスタンブールに入ったばかりの第1日目の観光予定を終 えた。後は、これから三泊するホテル、スウィソテル・ザ・ボスフォラスに 向かいチェックインするばかりだが、添乗員の嶋田さんは、

「その前に、ちょっと繁華街を散歩しませんか」

という。

バスでガラタ橋を渡って新市街に入り、イスタンブールの銀座、イスティ クラル通りに入り、中ほどで下車。なんだ、ただっ広いだけの道じゃあない か…と思っていたら、嶋田さんは私たちを二筋ほど北の電車通りに案内した。 タルラバシ通りといい、市電の通っている狭い石畳の通りで、両側には色々 な店舗が軒を並べているところなど、一昔の銀座そっくりではないか。

 

大ムラート氏は、「ワッコ」というデパートの前まで案内してきてから、

「ここは解りやすい所やから、自由に歩いてもらったらどないだす。午後6 時にまたここへ集まりまっせ」

とケッタイな関西弁でいう。1時間あまり自由に歩けると言うこと。

 

皆は、二、三人ずつ連れ立って思い思いに散っていった。もう滞在も残り 時間が少ないので、土産物の物色や目当ての買い物もあるのだろう。私はと いえば、いい写真が撮れないかと、専らカメラ・ハントすることにした。

町並みや、変わった店構え、風格のあるトルコ人などを探してウロウロ。 ショッピングゾーンらしく人出は相当に多い。街の建物は余りトルコ風では なく、むしろ西欧風だ。

 

しかし、同じトルコ人といっても若い女性は顔色も白く、欧米系の顔立ち であるが、男性は浅黒く眉の濃いアジア系の風貌をしている者が多い。大ム ラート氏のように、お腹が腰回りよりだいぶ突き出ている小錦型の中年男性 もかなり多く見られるのは、「食べ過ぎて早く死んでも、アッラーの思し召 し」とばかりに、食いまくっているからだろうか。

 

1時間15分という自由時間は、この狭い一角ではかなり使いでがあった。 何度ウロウロ方向を変えて歩き回ったことだろう。

時間を見計らってワッコ・デパートの前に戻ると、ばらばらではあるが、 皆の姿が集まってきた。

 

〔スウィソテル・ザ・ボスフォラス〕

 

1820分にホテル着。

日本語では簡単にスイス・ホテル。タクシム広場から左手に丘の緑を見 ながら、公園地帯に入って行くような印象。やがて全館の外壁がガラス張り でレセプションなどのある中央棟の東西に、タワー式の客室棟のあるスイス・ ホテルに到着。もう空全体が夕方の青い光に変わり、上弦の細い月の出て いる西の空だけが紅に染まっている時刻だった。

 

周囲の環境は、ドルマパフチェ宮殿の彼方にボスフォラス海峡が望まれ、 公園のような緑の樹々の只中の閑静な場所。

中央棟の回転扉は、人の近づくのを感知すると自動的に回転を始める。ロ ビーに入って、嶋田さんのチェックイン手続きの済むまで、まず、フロント に置いてある資料を集める。

次に、フロントのある階を探検して見る。斜面に建っているからだろう、 フロントのあるのは九階で、西棟の九階と八階にはショッピング・ゾーンがあ り、五つ星ホテルらしく有名店も幾つか見られた。

 

キーを貰った。11階の1107号。日本流で数えれば12階。早速、出窓に 駆け寄り、海峡の眺めを確かめた。正面は第1ボスフォラス大橋から北の方 角が眺められることを確認。すぐ下はドルマパフチエ宮殿の北側が視野にある。

 

今日の夕食は、ベリーダンスやトルコの民族ダンスを鑑賞しながら…とい う予定だったが、

 「その前に、ライトアップされたモスクの夜景を見てからにしましょう」

と言うことで、午後8時30分にロビーに集合して出かけることになった。

 

 

      98/10/17() 10:14 ろまねすく(HAC01341)

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     ●この「風雪のアナトリア」は写真満載で

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04985/04985 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第二十八回

(20)   98/11/05 17:43

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第二十 八回

 

 

イスタンブールにて (3)……1998331

 

  〔オリエンタル・ハウスでの晩餐〕

 

なにしろ、不案内の土地でしかも夜のこと。どこをどう走って、どのあた りに着いたのか全く見当がつかない。…とある町の、レストラン或いはキャ バレーらしい雰囲気ではない平凡な建物の前、としか書けない。

が、入口にはそれらしい雰囲気のボーイがいて、大ムラート氏が一言、二 言、言葉を交わすと私たちは、廊下を通って入口の一つに案内された。

 

舞台照明だけが明るいこんな大きな、キャバレーに似たホールがあるなん て、表構えだけでは想像もつかなかった。

通された席は平土間を見下ろす二階席。

キャバレー・レストランらしく、下も二回も食事のためのテーブルが舞台 と直角にずらりと並べられていた。二階席は二段になっていて、下の段では あるが欧米系の観光客が早々と舞台に近い席を占めていて、舞台の眺めはあまり良くない。

 

まず客席係りが、飲み物のオーダーを取りに来る。まあ私たちはツァーな ので晩餐といっても、あまり値段の張らないツーリスト・メニューだろうと 期待しない…方が精神衛生に良いだろう。

待つほどに、舞台でショーが始まるのと同時に飲み物が運ばれ、食事も始 まった。

 

メニューは、

   トマト・スープ

   野菜サラダ

   ボレキ…(トルコ風のものだろうが、内容は覚えていない)

   ポテシ・コロッケ

   デザート

 メインデイッシュは四品からのチョイスで、

チキンのグリル

シシケバブ

魚のグリル

魚のホイル焼き

から選ぶようになっている。私は、ここまで来たからには、とシシケバブを注文。

 

最初のステージは、男女8人ずつのオスマントルコ時代のきらびやかな 刺繍飾りの民族衣装を着た踊り子たちのダンス。後ろには独特の民族楽器 を奏でる伴奏者。

 

次の舞台は、刺繍で飾った腰飾りと胸飾りに白い薄物のヴェールを持っ た踊り子のベリーダンス。エジプトや中近東では夜のエンタティーメント では定番らしいが、私は初めて。激しく腰をゆすり、お腹の筋肉を震わせ る踊りを目の前にする。

大柄なからだ、眼が大きく彫りの深いエキゾチックな顔だち。この派手 な踊り子は幕間のときに客席を廻って、客とツーショットで写真におさま る相手を探している。

私たちの席にも廻ってきたので、ボラれるのを覚悟で写真を撮られた。

 

その後は再び男女四人ずつの民族舞踊で、男四人の戦いを模した踊り、 村娘風の女性踊り子四人の踊りがあり、最後は8人が揃っての民族舞踊。 続いて、男女の昔風の結婚風俗を物語風に展開する踊り。

 

インターミッションの後に、別の女性によるベリーダンスの舞台が2ス テージあって午後1050分終演。バスでホテルに帰った。

今日一日はなんと盛りだくさんな日だったことか。朝9時にブルサを出て第1ボスフォラス大橋を渡ってイスタンブールに入り、ブルーモスク、 アヤソフィア寺院、地下宮殿を見学して最後にはベリーダンスを楽しみな がらの晩餐。…刺激が有り過ぎて疲れる暇もなかったような一日だった。

 

 

       98/11/05() 17:36 ろまねすく(HAC01341)

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05169/05179 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第二十九回

(20)   98/11/18 17:39

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第二十 九回

 

 

   イスタンブールにて (4)……1998年4月1日

 

イスタンブール第2日目…今日の予定は、午前中にスイス・ホテルの真下 に位置しているドルマパフチェ宮殿の見学と午後のフリータイム。

 

今朝の朝食は、ホテル側にとっては人手の少なくてすむ一方、客側にとっ ても好きなものだけチョイスして食べられるので、定番になっているビュッ フェ・スタイル。だが、このスイソテル・ザ・ボスフォラスが如何に日本人 団体客に好まれる御用達ホテルか…が分かるような特別メニューに遭遇した。

朝食レストランの「カフェ・スイス」に珍しくも「味噌汁」が登場。

 

とはいっても、刻んだ青ねぎ、さいの目に切った豆腐を入れたプラスチッ クの碗に、味噌汁をざーっと注ぐだけ。まさか健康のための減塩味噌ではな くて、単に汁が薄いだけ。程度から言うとインスタント・みそ汁って言うところ。

 

  〔ドルマパフチェ宮殿〕

 

目の前に眺められるドルマパフチェ宮殿へは、徒歩で出かけるものとばか り思っていたが、午前1030分という異例に遅い時間にロビーに出て見る と、ちゃんとバスが待っていた。5分もかかっていないだろう。すぐバスは ボスフォラス海峡に面した宮殿前の広場に到着。

すぐ、目の前には規模は小さいが端正な姿のモスクと、4層の四角い時計 塔が目に付いた。

時計塔はバロック様式で宮殿の見張り塔の役目もしていたと言う。気にな ったモスクは、宮殿を造営したアブデル・メジトの母后が建てたドルマパフチェ・モスク。

 

木立のある広場を歩いて行くと、壮麗な門があり身長が190cmはあろう かと思われる衛兵が、低い台の上で大またを開き、右手に持った銃を足に沿 うようにつき、左手は腰にあてて「微動だにするもんか」と言う風に突っ立 っていた。金釦の長いコート、真っ白なヘルメットと顎の下までくる白いハ イネックのシャツで身を固めた衛兵は、横に誰が来て記念写真を撮ろうと、 絶対視線を動かさない。

(宮殿を出るときに目撃したのは、同僚が立哨中の兵士の汗を拭ってやっ ているところだったが、「ご苦労さん」と声をかけるでもなし、まるで人 形のホコリを拭う態で汗を拭いてやっていた)

 

近寄って第1の門を見上げると…大きい。透かし彫りの扉がある門を入 ると、大きな噴水のある池の周りに、緑の濃い針葉樹や未だ芽吹きの気配 もない雑木のある庭園。

第2の門を入ると、がらりと趣きが変わって西洋風の庭園がひろがり、 獅子の石像が置かれていたり、海峡と反対側に白い大きな門があり、緑の 丘の上には私たちが3泊するスイサテル・ザ・ボスフォラスのガラス張り の建物も眺められた。

 

1853年にスルタン・アブデルメジトが古びたトプカプ宮殿に代わる物と して建造にとりかかり、1856年に新宮殿に入ったとのこと。トルコ語では 「ドルマ」とは満たされた、「パフチェ」は庭…つまり、海岸を埋めたてて 作った庭という意味で、中世からこの地は皇室専用の庭園となり、セリム

世がここに美しいキオスクを作り、アフメットT世は庭園を広げるため に埋めたて、息子のオスマンU世までかかって大量の石を海に投げこまれたという。

 

宮殿に1歩足を踏み入れると、まず驚かされるのが天井から吊り下げら た巨大なシャンデリアだ。どの部屋にもどの広間にも呆れるほどの大きさの ものがぶら下がっていた。大広間のシャンデリアは何と4.5トンもの重量だとか。

贅を尽くしたヨーロッパ・バロック様式の建物には、ギリシャ風の円柱、 モスクとは一味違った円形ドーム、半円ドームが広間を飾り、ヘレケ産のシ ルクやウールの絨毯が敷きつめられ、数々の絵画が壁面の美を演出していた。

 

広間から廊下づたいに入って行くと、食堂には美しく磨かれた銀器のチャ イセットが10組以上もセッティングされていたし、ハーレムに足を踏み入 れると、寵姫たちの小部屋らしい部屋が幾つもあり、スルタンのための狭い ハマムまであった。

 

見事だったのは大階段の間。どこの国の宮殿建築にも引けを取らない豪華 絢爛の趣き。ベネチァン・クリスタルで作られた手摺、真紅の絨毯が敷かれ た階段は、一段一段の踏み込みが広く、ステップが低く作られている。

階段を上がっていくと、正面のシャンデリアに迎えられる格好で、上がっ たところは柱廊が廻らされていた。

今は、各国からやってきたカジュアルな服装の観光客たちがウロウロして いるが、やはりイメージとしてはホワイトタイの紳士やシルクの裾を曳いて 優雅に歩む貴婦人…あるいはオスマン・トルコ風の正装の貴顕・淑女が似合うところ。

 

もう一つ。ハーレムの花弁形の窓からのボスフォラス海峡の眺めも強い印 象を受けた。海峡に面した庭には優雅な門があり、午前の穏やかな光を受け てたゆたう水面が見えていた。スルタンが外国の大使を迎えた「大使の間」、 バカラのシャンデリアが輝く「歓迎の広間」などのゴールドに輝く天井装飾 は言葉では伝えられない精緻なもの。

 

最後の方で入ったところは「帝位の間」という宮殿内で最も広い間の周り は、半円ドームやアーチを廻らせた最も壮麗な式典のための広間だった。中 央のドームは高さが36mもあり、イギリスのビクトリア女王から贈られたと いう世界でも最大級の巨大なシャンデリアが下がっていた。

スルタンの戴冠式もここで執り行われたという。

 

ドルマパフチェ宮殿の各部屋の時計という時計は、すべて9時5分を指し ている。この宮殿が造営されたオスマン・トルコは1923年に終焉を告げるが、 トルコ共和国を成立させ初代大統領になった建国の父アタチュルクが、19381110日に大統領官邸としたこの宮殿で、95分に息を引き取ったため、 宮殿内のすべての時計を彼の死を悼んで、止められているというのである。

 

外に出ると、先ほど2階から眺めた海峡に面した門が優美な姿を見せると ころ。黒海から地中海へ、地中海から黒海沿岸の国々に向かう客船、フェリ ー、タンカーなどが、ゆっくりと近づいては、ゆっくりと去って行く。せせ こましい日本では考えられないほどにゆったりとした時間が流れているようだった。

 

1230分に見学を終えてバスに乗り、アルマダ・ホテルのレストランで昼食。

   マカロニのオーブン焼き

   サラダ

   チキンのグリル

   デザート

と比較的簡単な昼食。午後は、本来なら自由行動なのだが、全員が添乗員の 嶋田さんのプランに乗り、バザール廻りをすることに。

 

              98/11/18() 17:24 ろまねすく(HAC01341)

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05359/05359 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第三十回

(20)   98/12/03 17:23

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第三十回

 

 

  ●イスタンブールにて (5)……1998年4月1日

 

     [エジプト・バザール]

 

イスタンブール滞在の四日間に何回ガラタ橋を渡り、何度橋の旧市街側 のたもとエミノニュ広場からシルケジ桟橋あたりをうろついたことだろう。 昼食をとったホテル・レストランからバスで連れて行かれたところは、 エミノニュ広場から目と鼻の先、ハミディエ通りに面し、イェニ・ジャミ イと隣り合ったエジプト・バザール前の人と鳩とでごった返している広場の前だった。

 

まず、バスから降りたって眼に飛び込んできたのは、イェニ・ジャミイ の門前の広い石の階段を中心に群れている無数の鳩の群れ。とかく鳩とい う鳥は神社・仏閣・公園・広場に群れるもの。…京都でも駅前の東本願寺 の門をくぐった途端、鳩の大群にさらされる。大屋根、小屋根、境内内外 の樹々など巣にするにも、塒とするにも、はたまた観光客や附近の住民か ら用意においしい餌をもらえる絶好の環境なのである。

 

海外では、伊太利亜はヴェネチアのサンマルコ広場の、観光客より多い 鳩の群れにも出会った…と、頭の片隅に蘇った。

 

エジプト・バザールといェニ・ジャミイに接している広場はものすごく 広い。しかし、うろうろしている人の数も半端じゃあない。もちろん色々 の国々からやってきた観光客たちもいるが、良く見ると、人相・風体やシ ョールをかぶった婦人など、地元の人々の姿が観光客をぐんと上回っているようだった。

 

つまり、グランド・バザールのように観光客目当ての商売ではなくて、 イスタンブールに住んでいる市民たちの生活に密着した買い物の場所だ、 と納得した。次の集合時間を約一時間後の午後3時25分と決めて解散。 思い思いに見て廻ることになった。

 

バザールの中に1歩入ると、ムンムンと香辛料の匂いと、いかにもトルコ らしい生活用品、食料品を山と積んだ風景。

トルコ人に限らず、アラブ圏あるいは中東・近東の世界で欠かすことの出 来ない香草や香辛料貿易から税金を取りたてるために、エジプトのカイロで しこたま儲けて貯めこんだスルタン・ハティジェが1660年に作らせた市場 がこのエジプト・バザール。ここに入っている店舗の賃貸料はバザールの維 持管理に使われているという。

 

円筒を縦に切ったような天井が廊下のような通路の上、高い位置にずっと 続いている。小さな一間ほどの間口の店から、二間、三間の広い間口の店ま でがひしめいている。

目に付くのが丸い容器一杯に香辛料を積み上げている店々。トウガラシ、 胡椒、ターメリック20種も30種も店頭に並べられていた。また台所用品を 半間も奥行きのない店一杯に積み上げ、あるいは高いところから吊り下げて 客の目を引いている。銅鍋や琺瑯の容器、食器の山…バザールに対してもっ ていたバザールのイメージに余りにも合致していたので、違和感や珍しさは かえって感じられないほど。

幅を利かしているそうした香辛料、食料品の店のあいだには衣料品の店も がんばっていた。

 

横丁あるいは路地のように縦横に、縦横に交差している通路を闇雲に歩き 回った挙句、裏通りにでた。

うわーっ。ここの人出の混雑模様は尋常じゃあなかった。エジプト・バザ ールの外壁にテントを引っ掛けた店やバラックまがいの店が通りの端から端 まで連なっている。肩を触れ合うどころか押し合いへしあいの人々は、ここで生活必需品を買 い求めているのだろう。バザールの中が冷やかし客半分とすれば、ここでは

冷やかし客ゃ好奇心で見て廻っている観光客は、ごく少数派だ。

黒いショールを頭に捲いた婦人たちは、店先に首を突っ込むようにして品 定めと値段の交渉に余念がない。

 

バザールの裏通りを西の角まで歩くと、今までさんざん嗅がされていたス パイス類とは違った匂いがいっぱいに漂っていた。コーヒーの香だ。このあ たりには、コーヒー豆を焙煎し挽いている店が何軒かかたまっていた。

 

同時にトルコ人の日常には欠かせない紅茶もたくさんの種類が売られてい る。あの濃厚なトルココーヒーは、エスプレッソ並みの深焙りだろう。紅茶 …チャイに至っては、あの一日に10杯以上は飲むという現地ガイドの大ム ラート氏を見ても、ちょっとした買い物でもチャイが出てきてから商談が始 まるというトルコ人の国民性…というか、生活習慣に根付いた飲み物なので 銘柄にも拘るのだろうな、と感じた。

あまり海外で土産物を買わなくなった私も、ここで、トルコティーとア ップルテイーを幾箱か買い込んだ。

 

またバザールの裏通りから南に伸びている通りが、また商店街がかなり遠 くまで続いている様子。その間にも一昔前の公設市場そっくりの集合店舗が いくつも見られた。

 

どこまで見て歩いてもキリがなさそうに見えたので、いい加減のところで エジプト・バーザールの裏口まで引き返し、今度は中を通らずに、外をぐる っと廻って表の広場にでようとした。

 

イェニ・ジャミイの塀とバザールに囲まれた一体は、衣料、繊維品、靴、 ブルゾンなどの皮革製品ばかりが集まっていた。外壁、電柱などを利用して 綱が何重にも張り渡されて、まるで洗濯物でも干ているようにTシャツや ズボンなどが吊り下げられていた。テラス回廊の柱から柱にも衣料品かぶ

ら下げられている。…この熱気。

 

時間になって、三々五々集まってきた同行者たち仲間とバスに乗りこん で、次の目的地カパル・チャルシュ…グランド・バザールに向かった。

 

            98/12/03() 17:12 ろまねすく(HAC01341)

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          『風雪のアナトリア』ろまねすくのトルコ紀行連載中

 

 

 

 

 

 

 

 

 

05769/05769 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第三十一回

(20)   98/12/22 15:51

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第三十一回

 

 

 

  ●イスタンブールにて (6)……1998年4月1日

 

     [グランド・バザール]

 

エジプト・バザールがスパイスの香りと、生活臭ふんぷんの庶民的な市場とすれば、グランド・バザールは海外からの観光客と金満家のためのショールーム…というのが第一印象。

1545分にヌヌルオスマニエ門から1歩入ると、アーチ天井の通路の両側にはずらりと貴金属・宝飾品の店が並んでいた。譬えて言えばフィレンツェのポンテ・ヴェッキオの両側に並んだ宝石・貴金属の店の並びに豪華なアーチ天井をかぶせ、延々と連ねたような具合。

どの店も、どの店も星を撒き散らしたようにたくさんの宝石をあしらった装身具を並べ、それらの宝石やゴールドが光り輝くように眩いばかりの照明をあてていた。

 

背丈もあり、それ以上に体重も関取クラスの現地スルーガイドの大ムラート氏は、私たちを案内してズンズン入って行くと、一軒の宝石店に案内し、

「では、ここで解散しみんなに自由に見てもらいまひょ。ここの店をよく覚えておいてな。午後5時にまたここに集まって帰りまひょ」

と。…親しい店のひとつだろうか、大ムラート氏は奥の椅子にどっかりと大きな体を沈めて、店のものが運んできたチャイを飲みながら店主と四方山話を始めた。

 

添乗員の嶋田さんに付いて行くグループ、この旅も最終盤にさしかかったこともあり、土産物の物色か自分の買い物の目当てを探すためか、夫婦づれはそれぞれいそいそと立ち去って行く。

私は土産にも宝飾にも縁がないので、写真になりそうなものを探しながらぶらぶらすることにした。

 

眼前に展開する景色には強いデジャー・ヴがある。テレビの旅番組で何度となく目にしたことがあるから。

エドプト・バザールとの違いは、建物の質の差が先ず上げられる。エドプト・バザールは外観からして規模はちがうものの、一頃のちょっとした公設市場なみ。グランド・バザールの方は外観も大きなアーチ回廊を持つ、宮殿風の造り。

第二には、あちらは人波でムンムンするくらいの活気と庶民らしさに溢れているのに、グランド・バザールは広いゆったりとした通路を歩いている人影がまるで少ない。歩きながら行き交う人々を観察していると、大部分が観光客だと感じる。生活臭が極めて希薄。

 

とくに宝飾品見店が軒を接している通路カルバクチュラーシュ通りはウインドウ・ショッピングしか仕様がない。高級時計ばかり並べている店を見ても、宝石で飾られたものが多く、ヒヤカシに入るのもためらわれるほど。

カマボコ型のアーチ天井は褐色がかった落ち着いたベージュ色で、頂点の左右に明り取りの窓が外光を採りいれていて明るい。

グランド・バザールには、宝飾品店472、靴屋181、製造業者154、家具・装飾品店129…などで分かる様に圧倒的に宝飾品店が多い…ということは…どうころんでも私には縁のない世界、ダッチューノ アハハッ。

 

場内はかなり広い。宝飾品ばかりのカルバクナチュラー通りから左手に幾つもの通りがあった。大きな通りはクムジュラル通り、タッケジュラル通り、ヤールクチュラル通り、などと街路のような名がつけられていて、1歩それらの通りに曲がると、雰囲気は一変する。

チャイの道具セットを並べている店、靴屋、飾り皿や厨房道具なとどの銅製品ばかりの店、壁面の上から下までTシャツを掛けた店、ハンドバッグを一面に吊るした店、陶器の専門店、と賑やか賑やか。

 

一通り一階を見廻ってから二階に上がると、ガランとして人気がなく、重いガラス戸が閉ざされた店は、オーダーメード専門の店らしい。

再び一階に下りて裏口に出てみた。グランド・バザールのすく横に有るベヤズット・ジャミイの白い建物とミナレットが間近に聳えていた。裏にも幾つもの小規模のバザールがあったが、エドプト・バザールの裏手のような人ごみはなく、家族連れが何組か歩いているだけだった。

時間となったので、大ムラート氏が居座っている<Linda>という宝飾店に戻った。

 

   [絶好のビューポイント]

 

これで今日の観光予定は全部終了し、あとはホテルに帰るものと思っていたら、一同がバスに乗りこんで、いざ出発となったとき、やおら大ムラート氏がマイクを握って言い出したことは…

「皆さんをこれから絶好の撮影ポイントに案内します。とっておきのポイントでっせ。」

 

バスはイェニチェリルの大通りからブルーモスクとアヤソフィア寺院の間を抜けて、ブルーモスクの南東あたりの小さな道に入りこんだ。典雅な屋敷町のような一画にあるホテルの前で下車。

目の前には、閑静な周辺と調和した瀟洒な7階建ての Hotel Arcadiaがあった。外壁は赤紫で窓枠の白さが印象的。日本のガイドブックには載っていないシティホテルのような感じである。もちろん日本人の団体客とは無縁の

「知る人ぞ知る」風の上品な雰囲気。

 

大ムラート氏の馴染みのホテルらしく、入口に近いエレベーターで最上階へ。ビルの屋上に作られたペントハウスのような展望喫茶室があり、ドアを出ると周囲のテラスからはイスタンブールが一望できた。

 

東北のほうには緑色の屋根越しに6本のミナレットとブルーのひときわ大きなドームが見える。ドーム屋根と6本のミナレットの見える位置関係がとてもいい。そのブルーモスクの背景にはボスフォラス海峡の海面最初にブルーモスクの西あたりにあるヒポロゥドームという古代ローマの競馬場跡でエジプトのオベリスクとコンスタンティン九世のオベリスクを見た後、アヤソフィア寺院の裏手…と言っていいのかな、トプカプ宮殿の煉瓦塀が続く一画に帝王の門という閉ざされた宮殿の門があり、その前にアフメット一世によって建てられた泉亭がある所から、続いているお屋敷町風の通りに案内された。

 

「ここはイスタンブールで一番トルコらしい建物がある町でっせ」と相変わらずコテコテの関西弁でムラート氏。

三階建ての同じような外観の家が連なっていた。ペンキで白く塗られた板壁、二階が一階より張り出している作り。石畳の道。…

トルコは初めてだったが、10日余りの旅の途中では見たこともない風景。アラブ風の匂いは微塵もないヨーロッパ風の街景色だった。

十二分に見学した気分で、午後620分にスイソテル・ザ・ホスフォラスに帰着。

 

部屋に帰ってベッドにドタリと足を投げ出してしばし休憩した後、午後7時半に再びロビーに集合。バスで何度目かのガラタ橋を渡ってまた旧市街に舞い戻り、孔府酒家(CONFUCIUS  RETAURANT)で中華料理の夕食。

 

牛肉入り中華そば

中華サラダ

春巻き

ピーマンとビーフンの炒め物

チキンとくるみの炒め物

麻婆豆腐

香港風チャーハン

チキンの手羽先の照り焼き

野菜炒め

フルーツ

と、まずまずの庶民風豪華盤。

 

今日はむやみやたらと歩いて一万三千歩を越えた。旅程も十日ともなると少し疲れが澱のように溜まってきた感じ。

 

                 98/12/22() 15:33 ろまねすく(HAC01341)

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05995/06010 HAC01341  ろまねすく       風雪のアナトリア 第三十二回

(20)   99/01/08 14:38                     コメント数:1

 

      *******《風雪のアナトリア》******

     ろまねすくのトルコ紀行 第三十二回

 

      

  ●イスタンブールにて (7)……1998年4月2日 天候:晴れ

 

     ◇いよいよ期待のトプカプ宮殿見学◇ その1

 

今日の予定はイスタンブール三日目で昨日にもまして期待のハイライト…午前中一杯オスマン・トルコ帝国栄光の残影を留めるトプカプ宮殿の見学。午後はボスフォラス海峡を北上して、ルーメリ・ヒサール(要塞)を見て、タラビアからイスタンブールまでのクルーズを楽しむという企画。

 

私が生まれて初めてイスラム文化に触れたのは、1993年のスペイン旅行に際し、グラナダのアルハンブラ宮殿を見学したとき。それまでも書籍や旅行記、写真集では早くから眼には入っていたのだが、印刷された二次元的な情報は印象が薄い…というか、感動を伴わないもの。

実際にアラブ様式、ムデハル様式の実物の前に立ったときの新鮮な驚きは一種のショックのようなものだった。

 

何時の日か、他の国々のイスラム文化、アラブ様式に触れてみたいという願望は深く沈潜していたものである。トルコにやってきて以来、既に十日は過ぎているが、回教建築あるいはそれに伴う装飾には触れてきたものの、今日予定されているトプカプ宮殿の見学は(既にドルマパフチェ宮殿の見学で、オスマントルコのスルタンたちの宮殿の豪奢な建築・装飾の数々を眼にしたが)、より素晴らしいものに触れられるのではないかという期待が高まる。

 

出かける前からジャン・ドミニック・アングルの「トルコ風呂」の図柄が頭の中に渦巻いていたような期待。また、中国あるいは日本からはるばる船で運ばれた陶磁器の銘品の数々、財宝庫に収納されている煌びやかな宝石ふんだんに使って装飾された短剣は、どんな輝きを放っているのだろうか、と期待が膨らんでくる。

 

トプカプ宮殿をゆっくり見学するために、今日の集合・出発は8時15分と何時もより早かった。

バスで宮殿に着いたのが845分。第1庭園の雑木木立の向こうに尖塔屋根を乗せた八角形の塔が二つ並び立ち、その間に城壁門がスルタンの威厳の表出のようにでんと存在していた。「中央の門」…現在の正門、または表敬の門」と呼ばれている。

狭間胸壁の城壁の上には赤いトルコ国旗が翻っている。

 

恥ずかしながら、私のトルコに関する知識はほんとうに微々たるもの。大慌てで、出発前に

  新石器時代から青銅器時代

  紀元前2000700年のヒッタイト

  紀元前900334年のペルシャによる征服された時代

  ヘレニズム・ローマ時代

  ピザンチン帝国時代

  セルジュク・トルコ時代

  オスマン・トルコ時代

  アタチュルクによって樹立された共和国

に至るまでの概観を斜め読みしただけでぁつた。今日までにアンカラ博物館から始まり、各地の遺跡めぐりと博物館見学で、文字だけの知識を幾分かは実物を見ることが出来て、私なりに実感できたものと思っている。

 

中央の門を入ると周囲を建物に囲まれた第2庭園。すべてを見尽くすには何日もかかるだろう。見学コースは添乗員の嶋田さんと現地スルーガイドの大ムラート氏に任せるしかない。

 

私たちは第2庭園の右手に長屋のように棟か続いている建物の方に向かった。と、ここは幸いなことに見たいポイントの一つ、中国・日本の陶磁器の陳列館だった。列柱回廊ように石畳が目分量で20間ほど…ホイこれは使われなくなった長さの単位…約100メートルほども続いている。陳列室はこの側には一つもなくて、ただ何ヶ所かの入口があるだけ。まるで兵舎か倉庫のような印象。

 

まず、端から順に見て行く。トプカプ宮殿に収蔵されている中国陶器は近世盛んに景徳鎮窯からは染め付けなどを中心とした磁器がオランダ商館を通じて西方に輸出されていて、中国の内乱や紛争、アヘン戦争などで景徳鎮かにの磁器が途絶えると、九州の有田などに中国風の磁器を発注し、ここにも柿右衛門をはじめ多くの日本モノが展示されていた。

 

ヨーロッパに入った東洋の陶磁器が、実用品としてではなくて王侯貴族の館の装飾品として使われていたのに対し、トルコのスルタンたちは日常のテーブルウエアとして使用していたようである。

私たちがヨーロッパに出かけたときに、リモージュやロイヤル・コペンハーゲンあるいはデルフト、ウエッジウッド、ヘレンドなどの陶磁器、あるいは繊細なヴェネチァン・グラスなどが欲しいと思っても、持ちかえるまでに壊れはしないかという危惧、または嵩張るので逡巡してしまうもの。だが、中国陶磁器は箱の中に泥を詰めて、その中に陶磁器を入れて輸送していた、と聞いた覚えがあり、なるほどと感心したもの。

 

また、輸入ばかりでなく、オスマントルコ時代には中国皇帝からの贈り物として、或いは戦利品、買収、志望・解雇された宮廷官吏の所持物の押収などで集まりも集まったり、トプカプにある陶磁器の総数は1万点を越えているとか。

ここの陶磁器館に展示されているのは、ほんの一部にしか過ぎないと言う。それでも端から見て行くうちに、これは途方もないコレクションだと感じた。素人目にも逸品だと思われるものが、えんえんと展示されていた。近世になってオランダの通商でヨーロッパが手に入れたものと違って、ここトプカプには13世紀の南宋のものから始まって、元、明、清朝のものまで収集されていたのである。17世紀の金代以降には、多色が使われた華やかな図柄のものが増えてきていた。

 

最後の方の幾室かに展示されていた日本の磁器は、1718世紀の有田とその周辺で作られた、彩色の鮮やかなものが多い。全部で730点もあるというが、陶磁器館に展示されているものはその一部に過ぎなかった。

 

陶磁器館の奥に、当時の厨房の様子が展示されていた。竈、鍋釜ほか厨房用具が配置、展示されていて、当時の様子がよく判るようになっている。この並びの一番奥には銀器の展示陳列室があった。

 

中でも精巧に出来ていたのは「アフメット三世の泉の模型」。どこかで見たような気がする…と考えて見たら、昨日の観光の終わりに大ムラート氏に案内されたトプカプ宮殿の裏門のような、長い塀の続いている所に有った帝王の門の前、交差路に似た広場にアフメット三世の泉という四阿(アズマヤ)風の建造物があった。それだ!!

 

余程の値打ち物だろう。部屋の真ん中に特別に作ったガラスケースに鎮座していた。1901年の作というから、それほど古いものではないが、素人なりに銀工藝の粋を極めたものである、と感じられた。

その他、1対の銀の壷が目に入った。よく磨かれて銀光に光っている胴につや消しになった部分があり、色絵で彩色されている。また、数が多いのは精緻な模様を彫りこんである銀の皿、菓子入れやトルコ風の水差しなど。

 

一通り見終わって第2庭園に出て休んでいると、だんだん散り散りになっていた同行者も集まってきた。