
まえがき
「自分史」がブームになったたのは、もう30年ほど前からの現象だと記憶している。(だが、 七十六歳の年の十二月に
脳梗塞で入院加療し。齢を重ね八十一歳になると、いささか記憶があやふやになっているのて゛、あてずっぽうなのだが)
。戦中・戦後に青春時代を過ごしたご同輩なら、戦中、戦後を無我夢中で送った来たわれわれも、残りの余命が乏しくなり、
かてて加えて、自分の歩んできた道を書き残して置きたいと いう思いは強くなってきている。同様の思いを心中に抱いてい
る人は多いと推察できる。私もその一人。
私は、書き残して置きたいことは、たくさいあるが、幼少期の記憶、終戦後の八年を旧満
州で過ごしてきた抑留期、戦火の真っ只中で過ごした旧制中学校での五年、終戦後の旧満州で放浪のうちに過ごした異郷での
8年。昭和28年3月に中 国から帰国して、働いてきた三十年…であるが、ホームページに載せて不特定多数の人に 興 味を持って
もらえるのは、【幼少期の記憶、終戦後の八年を旧満州で過ごしてきた抑留期、 戦火の真っ只中で過ごした旧制中学校での五
年】くらいだろうと考えている。
その内、【終戦後の八年を旧満州で過ごしてきた抑留期】は、アサヒネットのホームペー
ジに掲載したので、関心のある方は、
http://www.asahi-net.or.jp/~mf6t-tkhs/man_1.htm
「曠野を流浪って八年 旧満州残留放浪記」をご覧下さい。このページには旧制京都府立京 都第二中学校で過ごした時間を記録
したいと思います。
※なお、この一文は、

≪京都府立京都第二中学校四十四回生の記録≫ 『鳥羽原頭に草萌えて』 1988年6月1日 刊行
B5判 188ページ 3000部印刷

≪京都府立京都第二中学校四十四回生の記録≫ 『鳥羽原頭に草萌えて』第2巻 1995年6月3日 刊
B5判 276ページ 3000部印刷
私の自分史には上記2冊に載せたもので、ここに公開するに当たり、現時点から内容の一部を書き換えたり、感想を
追加したが大要は殆ど原文と変わらない。
Contents
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第1部 それでも青春の日々だった
この第1部は、私が太平洋戦争の真っ只中、昭和16年に父親の転勤により、小学校時代 から 徳島中学一年の学期末まで過ご
した徳島から京都に転居し、京都府立京都第二中学校に編入し、卒業するまでの4年間の記録。
≪京都府立京都第二中学校四十四回生の記録≫ 『鳥羽原頭に草萌えて』
1988年6月1日 刊行
に掲載したものです。とにかく食料の窮乏の日々深刻さを加えてゆく中での中学生、それで もきらりと青春のカケラもあった
きごう学校生活と、戦争末期の勤労動員の生態が中心の記録。
ЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮЮ
第1章 ぷろろおぐ
「僕らの青春は何色やったと思う?」
「そら、真っ黒や」
良くも悪くもお人よしで、つい、東勇君が四十四回生の同窓会で言い出した同窓会の記録を本にする話を請け負った形になってしまったとき、いざ、自分の文章をまとめるに当たり友人と交わした会話である。
大正末期、昭和初期と一まとめにされる我々の年代は、人生の前半をどっぷりと戦時色と戦後十年ばかりの焼け跡の色、友達が私のつぶやきに打てば響くように返してきた言葉通り
「真っ黒」な中を、なんとか生きのびてきたのである。
「私達の年代は、第二次世界大戦の前夜に京都府立京都第二中学校(以降、京二中と呼ぶ)に入学、ろくすっぽ遊ぶことも勉強することも出来ず、四年生からはときどき京都市街の外れにある大原野の農家や、南郊の祝園弾薬庫へ勤労奉仕にかり出され、五年生になった途端、今度は一年中べったり兵庫県仁川の川西航空機へ。タコ部屋並みの泊まり込みの勤労動員に駆り立てられて過ごした。
青春真っ只中は、威張りかえった古手軍人の配属将校のしごきと勤労動員で、貴重な青春の時間を費やしてしまったのだ。食べるものもなく、遊ぶ時間もない灰色に塗り込められてしまったのだ。私は「灰色」だと思ったが、友人は「真っ黒」だと感じたらしい。
私達の青春の日々に比べると、今の若者はしたい放題、好き勝手、人のことより自分中に世界が廻っているような態度に見える。昔人間になり果てた私達の感じようでは断絶、プッツンか。
それでは、私達の青春は「何もない春」だったろうか? いや、苦しかった反面、楽しいことも結構あった。今では「鯖街道」としてテレビでも時折取り上げられる、京都洛北の大原から滋賀県の朽木を経て若狭小浜に至る途中、言葉通り県境に近い峠の植林、毎年おこなわれる1万メートル競走、同級生達との校外での交友、部活動での思い出。眼をつむると苦痛としか思えなかった学校行事でさえ、一抹の懐かしさが蘇ってくるではないか。
眼をつむると、九条大路の通りからややひっ込んだところの校門。(週番の上級生が、遅 刻してくる目を光らせていたっけ。またある時、男女別学の世界に、先生に引率されて農機 具を借りに来た二条高女の何人かが、大八車を引いて校門から入ってきたときの衝撃!校門 付近に居合わせた京二中生たちのギラギラした眼。女子禁制の掟が破られた歴史的一瞬のよ うだった…とは、ちと言いすぎかな。)
校門のすぐ前にどっしりとした煉瓦づくりの本館。東に南北二列に並ぶ校舎、地下のロッ カー室、東のはずれに有った武器庫、本館の西には剣道部・柔道部の建物。私は剣道部にい たが、ときたま退屈紛れに柔道部の練習室に遊びに訪れては、情け容赦なくコテンパンに投 げ飛ばされたり、お返しに剣道部の部屋に入ってきた柔道部の面々に防具をつけさせ、飛び 上がって無防備な後頭部をしたたかに打ち据えたり、脇の下の胴の隙間を狙って息が止まり そうな一発をお見舞いしたりしたものだ。
「灰色」とばかり思い込んでいた青春の景色の中に、壊れたワイン・グラスの破片のよう
に、キラキラ虹のように輝く断片が浮かんでくるようだった。ジグソーパズルのように破片
を根気よく組み合わせてゆくと、思いがけなく青春の日々が姿を現してくるものだった。
カーキ色の制服にゲートルを捲き、市電(私は京都の来たから南の学校まで市電に乗って
通うことが多かった)七条大宮から、あるいは大石橋から学校までの二停留所は、診断書を
提出している病弱者以外は、強制的に歩かされた。始業のベルの鳴り始めない前に校門に中
に入らねばならないので、遅れそうになると肩から斜めにかけていた鞄を抱え込み、東寺の
境内を斜めに走りぬけたもの。いつも同じ顔ぶれの常習者がいたのがおかしい。勿論、遅れ
ると門の脇で見張っている上級生の週番に、こってりと絞られたものだった。
陸軍の演習場になっていた滋賀県北部の饗庭野は、琵琶湖を遥か眼下に見渡せる山腹。背
嚢を背負い、小銃を担いでの模擬戦闘訓練に、配属将校に引率されて山道を延々と行軍され
られた辛さも語り草。同窓会ではよく語られた経験。しかし、棒のようになった足を引きず
りながら山道をくだり、目路の彼方に琵琶湖の青い湖水が見えて来た時の安堵と感激、なん
と言う美しい琵琶湖だったろう。
「灰色」だとばかり思っていた青春に、ときどきキラッと光る時間もあったのだ。それな らば、今、その貴重な「青春の光るもの」を書き留めるのも悪くない。四十四回生の記録も 今をおいてはもうチャンスは無いかも知れない。
第2章 京二中での学校生活
「徳中」と呼ばれて
京二中時代の私は「徳中」と呼ばれていた。「とくなか」ではなく「とくちゅう」である。なぜ「とくちゅう」なのかと言うと、昭和16年春、父の徳島放送局から京都の局への転勤にしたがって京都に移り住み一年間通った徳島県立徳島中学校から、京都のどこかの中学に転校せざるを得ないことになり、京都中、二中、桃山中学と三校の編入試験を受けて廻り、結局、引っかかったのが京二中だけだったと言う偶然の所産。
徳島中学校から転校してきたので「とくちゅう」、因みに6年間通って卒業した小学校の卒業証書には小学校長の名前が記されていない。徳島県立女子師範学校の附属小学校なので、普通、小学校長のところに「徳島県立女子師範学校校長 なんの誰がし」と記載されていた。ついでに言えば、阿波の狸御殿で有名な助任(スケトウ)橋の近くにあり、助任尋常小学校・・・と言う別名があった。
その小学校時代の綽名が「爆裂弾」、ちょとしたことですぐ腹を立てて、突然、怒り狂うという性癖があったから。
編入試験はどことも難しかった。
第一、使用してきた教科書が違った。教科の進み方が違った。 第二、どこの中学校でも転校生を受け入れる定員が三人とか四人とかで、きわめて少なく、試験さ
えそこそこできれば良い、というのではない。一緒に編入試験を受けたのは、三校とも14名から多くて20名くらいだったろうか、その内、何名くらいが合格したのか、確かなことは一切覚えていない。
幸いにして京二中が拾ってくれたものの、今度は遠距離通学が問題。洛北と呼ばれている市街部の北大路あたりから、洛南の東寺の南側の九条通りに面した京二中までは電車通学。
イザ 合格通知をもらって、九条通りから校門を入って赤煉瓦づくりの三階建ての本館、東側に二列に並ぶ教室棟を見上げたとき、軽い胴振るいを感じた。
幸いにして編入試験で拾われたので、爾来、「徳中」と呼ばれ、後々まで親友と呼べる何人かの知
己、親友を得ることが出来た。いまでも、同窓会で四十何年ぶりかで出会うことが出来たかっての同級
生と出会うことが出来ても、頭のうすくなって皺の増えた容貌の中から、じっと見ているうちに若かった
日の面影が浮かび上がってきて、久闊を叙すことができるのも、苦楽を共にした仲だったからであろ
う。相手も高橋というありふれた姓よりも先に「徳中」が呼び名に出てくるのも面白い。
私の父親は、私の五歳のころJOBK大阪中央放送局から、新しく開局する徳島放送局に開局準備 段階から転勤となり、以降、八年間ほど技術畑で勤め上げたのち、私の徳島中学校一年修了間際に 今日と放送局に転勤となった。京都に先に赴任した父が探し出した借家は、京都市左京区下鴨芝本 町58番地。北大路通りには当時、市電が通っていて、その当時では「農林学校前」、現在は「府立大 学前」が最寄の停留所。下車すると公設市場のある通りを南に下がり、「二本松」のバス停(当時は未 だ広い下鴨本通りはなく、狭いこの通りにボンネットバスが走っていた)を東に入ってすぐのところ、北 側の家で、以前は下宿屋を営んでいたらく、玄関先にイチジュクの木が一本だけあり、玄関が建物の の東西に二つ有った。東の玄関が家族用で、西の玄関は入るとすぐ二階に上る階段があり、下宿 者 用か。便所は階段のそばからも、奥座敷からも入れる共用のつくり。 向かい側には、道幅の狭い道路を隔てて、土塀をぐるりと廻らせた大きなお屋敷で、第何代目かの 立命館大学総長織田萬氏の屋敷だと聞いたが、人の出入りは少なく、総長本人はともかく家族の姿も 見たことは無い。新しい家の二階から眺めても、鬱蒼と茂った樹々に遮られ、平屋づくりの屋根の一部 が見えるだけだった。
東隣は高い板塀を廻らせた医者の本宅。西隣は狭い畑でスイカや野菜を作っていた農家だった。
こうして、米英を相手に第二次世界大戦が勃発した年の春に、私は徳島中学校時代の上下黒ずく
めの制服、黒い学帽を脱ぎ捨ててカーキ色の二中の制服に着替え、私の京二中生活が始まったので
ある。
お陰で、詩人・大森忠行、光琳、乾山の末裔 陶芸家・尾形力(のち、代々の陶器づくりの家業を継
いで、家名「周平」を継いだ)、詩人・木島始(本名 小島昭三、元法政大学教授)、宮嶋八蔵(元、溝
口謙二監督について修行していた助監督)・・・など、田中角栄ばりに言えば刎頚の友を得られた。
あの時、間違って京都一中に受かっていたら、別の人生が展開していただろうが、と思うと面白い。
いかなる星の下に・・・(高見順の小説を思い出すねえ)、いかなる生涯を辿っていただろう。 しかし私
としては京二中で青春時代を過ごせて本当に良かったと思っている。
『学校生活について』
府立京二中に通っていたとき、何をしていたか、については途切れ途切れ、おぼろげな記 憶しかない。 と言うのも、この頃から、思想、生活全般に統制の圧力が加わってきて、国家 総動員の嵐が吹き荒れてきたのに、私はと言えば軟弱な文学趣味に嵌まり込みかけていたか ら、勉強はそっちのけ、府立図書館に毎日のように通いつめては、世界文学全集、フランス 古典戯曲集などを読み漁っていたから、だんだん学校の空気、世間との動向から乖離して 行く一方だったから。
趣味の殻に閉じこもり、あまり勉強もせず、みるみる成績が急降下していったのも当然。
一方、学年が進むにつれ、勤労奉仕や配属将校の威張り散らすスパルタ式軍事教練の時間が
増え、まともな勉学が出来ない状態になってきていた。
配属将校の中で、最年長のコーチンと言う綽名の叩き上げ准尉は、我が世の春とばかりに
張り切っていたが、ついに三年生だったか、四年生になってからか、3学期の教練を完全に
サボったものだから、爾後、睨みににらまれて「進学の内申書を書いてやらないから、覚え
とけ!」と捨て台詞の啖呵を切られた。
私は、後日詩人として活躍した大森忠行君や陶芸家となった尾形力君、映画制作の道に進
んだ宮嶋八蔵君などと一緒に同人誌の発行に参加、今では恥ずかしくて顔から火が出そうな
詩を書いていたものである。
それで教室の中で何をしていたかはサッパリ記憶に無いありさま。それでも誘われて剣道
部に在籍していたこと。全校行事の途中峠での植林、1万メートルのマラソン、饗庭野での
完全軍装、戦闘体制での過酷な行軍と軍事教練、真夜中に学校を発して大阪府の水無瀬まで
の夜間行軍などは、忘れようにも忘れられない記憶となって脳裏に強く焼きついている。こ
の中で、真夜中の水無瀬までの行軍は、同級生の小島昭三君(のち詩人、木島始)の小説、
『春の犠牲』に詳しく描写されている。…それでは、学校生活の中で忘れがたい出来事につ
いて、もう少し詳しく述べてみよう。
■ 剣道部のこと ■
私は、ひょんなことから剣道部にはいってしまった。当時、剣道・柔道は正課として採り入れられていたと記憶している。ある日、勝ち抜き戦で何人かを抜いてしまったのが間違いのもと。ひょっとしたら天分が有るのかしらん、と勘違いして誘われるまま入ってしまったようなもの。
5段か6段だったか、内田という恰幅の良い練士がしごいてくれたが、毎日へとへとになるまでの素振りから始まって、撃ち込みの稽古、掛かり稽古とつづく。京二中の正門前に姫路という靴屋さんがあり、そこの息子が一学年下に入学してきた。背が低くて頼りなげに見えたのだが、めっぽう動作が素早く、はしっこかったことを覚えている。背が低いため、相手の竹刀で後頭部を打たれないよう、面の防具をおおアミダにかぶっていた。背の低いことを逆手にとって、相手が面を狙って撃ち込んでくると、素早く右に駆け抜けざま抜き胴で1本取るのが得意技。
内田練士は太くて短い竹刀を正眼にゆったりと構え、私たちが一生懸命撃ち込んでも、僅
か竹刀を左右に払うだけの動作で、いっこうに竹刀が相手に届かないばかりか、撃ち込んだ
態勢の瞬間の崩れの隙に、軽く面を取られしまうのである。段違いの腕の相違は如何ともし
難いものだった。
対外試合にもでた。五人チームの中ほどで勝ち抜き戦に出場した。二、三人には勝った覚
えがある。初段の試験は左京区の岡崎にあった武徳殿だったと思う。刃引きした真剣で二人
が向き合い、剣道の形を試験されたあと、竹刀をとっての試合がある。少なくとも初段を相
手に戦って二人には勝たねばならない。
当時は太平洋戦争の真っ只中とあって、実践本位の競技方法が採られていた。遠く離れた
位置に相対し、「始めっ!」の合図と共に、中央めがけて障害物として置かれている跳び箱
を飛び越えて駆け寄りざま、一気に勝負をつけめのである。幸い初段の免状が届いたので、
多分、一人二人には勝てたのだろう。
辛かったのは、稽古が始まるまでの板敷きの道場での長い正座、練習試合で出番を待つま
での正座。また寒稽古には、毎朝五時に起床し下鴨の自宅から学校まで、まだ薄暗く夜の気
配が残っている街の中を自転車をすっ飛ばして、時間に遅れないようにすることだった。
あの頃は、食糧が日を追って逼迫する一方。ろくな食べ物しか口に入らず、その量も腹八分目はおろか、六分目にもならない毎日でよく体力が続いたものだなあと、今更感心する。
剣道部の教師(内田練士)がいないときには、のんびりしたもので、暇をもてあまし、隣の柔道部に遊びに行ってさんざん投げられて、受身も習っていないので相当のダメージを喰った。お返しに柔道部の面々を剣道部に招待して、防具をつけさせ、嵩張る慣れない防具で動きの鈍い柔道部の部員をさんざん撃ちすえ、防具の隙の脇の下やら小手の上などを狙って痛がらせたりしたものだ。
■1万メートル マラソン■
何月ごろだったか覚えていない。だが、走ってもそう汗まみれになった記憶もないので、春ごろか秋の気候の良いときだったのだろう。毎年、全校生徒による1万メートル・マラソンが行われた。どんなルートだったかを、今地図をいくら睨んでみても思い浮かんでこない。おぼろげな記憶では、校門を出ると九条通りを西に向いて走り出し、桂川に沿って南下し、久世橋通り(?)を東に向かい、国道1号線を北上し九条通りに出会うと左折して校門に駆け込む…といったコースだったろうと思う。(が、窮めて曖昧な記憶)
陸上部の選手たちは30分くらいでコースを廻ってきたが、私は桂川あたりまでは一気に走れても、その辺で息切れしガクンとスピードが落ちてしまう。あとはのんびり走ったり歩いたり。1時間半ちかくかかって校門に辿りつく有様だった。しかし、上には上がいたように下には下がたくさんいたようで、私がゴールしてなお30分以上たった頃、ゆっくり辿りつく猛者もいたのである。
ここ20年ほど前から、健康のためにジョギングする人口が増え、京都御所周辺や二条城を周回するランナーも多く見かけられるが、いや、健康のためにはジョギングより歩くほうがよい、などとも言われたりしているが。が、ものぐさが身についた私には、到底まねられない。学校時代サボった報いだろうが。
■途中峠の植林■
途中峠の植林が何時ごろから始まったのか知らない。かなり昔から行われていたようである。勿論、植林して得た利益は学校運営の経費として使われていたのだろうが、二中魂を生徒に叩き込む目的もあったのだろうと推察している。この行事も全校生徒が参加するものである。上級生と下級生とでは作業内容も違っていたことには相違ないが、肝心な作業は林業の専門家に委託していたことだろう。
私たち生徒は、下草刈りなどの雑役、間伐材の運び出しなど。往きは加茂川と高野川の合流点の出町柳に集合し、高野川に沿った国道367号線(最近のテレビた旅番組によく登場する若狭・小浜から鯖を消費地の京都に運んだ街道)を手ぶらで三千院、寂光院など有名な観光地のある大原を経由し、てくてくと途中峠の手前の山林まで歩いた。だらだらの上り下りの坂道で、今では到底息切れはげしく無理だろうが、当時十代後半の若さ。まるで遠足気分。ワイワイ言いながら、八瀬、大原を通り越し二時間くらいかかって峠に着いた。
問題は帰り道。生徒一組二人で1本の径20cmほど、長さ5mほどの小枝を払った間伐材を肩に担いで帰るのである。下りが多い坂道を歩いているうちに、いつの間にか対抗意識が芽生えてきて、他のペアを追い抜き、追い抜かれしているうちに小走りになり、しまいはムキになって走り出すことになる。解散地になる高野川べりの鐘紡の長い塀のところに帰り着くとさすがヘトヘト。
家に帰ると、いくら若い体でも節々が痛くなっていた。
■美術準備室・化学実験室■
どうも、まともに勉強した記憶がなくて、悪戯めいた出来事ばかり思い浮かんでくる。困ったものだ。それでも、比較的まじめだったのは美術クラブに入っていたときのこと。美術部(?)は今で言う課外のクラブ活動の一つであるが、他の美術クラブの部員たちり目的はは、スケッチブックを小脇に抱え、絵具箱の吊紐を肩にかけて、町にサボりに出ることらしい。しかし、どうした風の吹きまわしか、私は一年間、きっちりと美術準備室に閉じこもって、石膏の面取り像から始めて、デッサンに打ち込んでいたのである。お陰で、美術の教師の覚えめでたく、通知表にはいつも百点をもらっていた。
それに引きかえ、化学実験室のほうは私のひそやかな「いたずら」のたのしみにつながっている。「いたずら」は漢字で「悪戯」と書く。わるふざけである。ということは、誰かに恨みがあったり、傷つけようとしたりするものではないが、結果として相手(私の場合は、不特定多数の人々)を驚かせたり、不愉快な目にあわせたりすることとなった。
栴檀は双葉より芳ばしというか、小学校時分から真夜中にカンシャク玉を、寝静まった近所の家の二階の雨戸めがけてパチンコで射ち、家人の眠りを破って喜ぶ悪趣味があったが、二中時代の「いたずら」もその系譜をひいていた。つまり硝煙の臭いフンプン。
放課後の誰もいない化学実験室に忍び込み、炭の微粉末、硫黄、硝石、過マンガン酸カリなどを乳鉢で注意深く調合して火薬をつくる。それを、予めポケットに入れて用意してきた家庭用の傷薬ペルメルやメンソレータム(なんという懐かしい名前だろう)の薄い容器に詰めて蓋をする。これで一丁上り。
こうして製造したペルメル爆弾をそっとポケットに収め、何食わぬ顔をし、廊下に人影のないことを確かめて化学実験室を出る。
さて、この爆弾魔、草加次郎の大先輩は、どこで爆弾の威力を実験したと思いますか?
当時、私の家は京都市左京区下鴨芝本町にあった。その頃は、今の下鴨本通りには未だ市電が開通していないばかりか、だんだん太平洋戦争も転げ落ちるように末期に向かっていたので、食糧事情もかなり深刻で市電を通す予定はあったにしろ、資材不足で手もつけられなかったのだろう。広い道路は変じて一面に白い可憐な花が咲きさかる蕎麦は畑に変わっていた。ちょいと話が逸れてしまったので、元に戻すとして。…
市電が走っていた北大路通りも、北側には今に残っている高級住宅が建ち並んでいたが、二筋、三筋北に上ると、もう一面の畑地が広がっていた。北大路通りでさえ、自動車の影も人影もまばらな、市街地と郊外との境目のような風景。
その北大路の電車停留所を走る電車のレールの窪みに、このペルメル爆弾を仕掛けたのである。まず、ペルメルの薄い缶に目立たないよう黒い糸を捲きつけて結び、電車の影をみると、ペルメルの缶を地面に置いて、糸の端を持ちカラカラと引きずって歩く。缶が軌道の窪みに落ちると、コトンと手ごたえがあり、糸を放す。私は何食わぬ顔をして歩道をゆっくり
歩きながら市電の近づいてくるのを待つ。
ゴトンゴトンかすかに車体を揺らしながら市電の来るのを待つ時間のスリリングなこと。まず、手前の農林学校前の停留所にとまって何人かの客が乗降する。やがて、チンチン足踏みのベルを鳴らしながら、発車。そろそろだぞと固唾を呑んで見守るうち、突然、バーンという音響がはじけて、黒煙が車体の前半部を覆う。同時に手動ブレーキをせい一杯かける金属音がして、きーっと車輪を軋ませて急停車。運転席からは運転者が、後部からは車掌が転げ落ちるように飛び降りてきて、車体の下を覗き込む。窓からは「何事か」と突き出した乗客の頭が鈴なり…と言う経過をたどるのである。
初めは。おっかなびっくり、北大路通りでゆっていたが、おなじ場所で何回も重ねると怪しまれるのでヤバイ。それと何回か成功すると、だんだん図々しくなって、もっと人通りの多い繁華街で実験したいとエスカレート。その上、単に外から傍観しているばかりでなく、ペルメル爆弾をしかけた市電に乗って、ジカに感じ、乗客たちの反応を見てみたいという誘惑にかられ、ペルメル爆弾も薄型から中型(直径4cm、厚さ2cmぐらいか)にエスカレートさせ、4条河原町にくり出したのである。
手順はいつもの通り。ただ缶を引きずる糸を長めにしてカラカラ引いて交差点を渡り、コトンと軌道の溝にペルメル缶が落ち込む感触で手の糸を放す。そして、なに食わぬ顔をしてその市電に乗りこむのだ。もう流石に昔、堀川通りをゴトンゴトン走っているようなチンチン電車は少なくなり、重な路線はボギー車と呼ばれる大型の電車になっていた。
吊り皮にぶら下がり、動き出した市電が加速する。ペルメル缶を落とした所までの距離を頭の中で計り、いま来るゾ、今来るゾと緊張する。一瞬、ドカン、ギーッと急停車。あわてて飛び降りる運転手と車掌、窓から顔を突き出す乗客たち。黒煙に包まれる電車。
もう、第二次大戦もたけなわとなり、だんだん社会的緊張度も高まってきた日々だった が、この私のイタズラは、たまたま(不幸にして)乗り合わせた人々と通りかかった人々を驚かせただけで、新聞種にもならなかった。まだまだのんびりした時代だったのだろうか。
もし現代、同じようなことをやったなら、スワ過激派のしわざか、草加次郎のような爆弾魔か、ヤ印の抗争か喧嘩かと、警察が血眼になって走り回り、事件記者が嗅ぎまわり、大騒動となったに違いない。クワバラ、クワバラ、桑原!
■軍事教練、のさばっていた軍人の古手たち■
私たちの青春時代、旧制中学校を灰色に染め上げていたものに、軍事教練があり、校長よりも威張っていた配属将校という軍人の古手の存在があった。
二中名物の三チンという存在を、徳島中学校から二年に編入したときに知らされていたが、私が接したのは、体育のハマチン(浜田先生)と、予備役の古手叩上げの准尉の配属将校のコーチン(秋吉准尉)のみ。
このコーチン氏、頬のこけた痩せぎす小柄なカラダをそっくり返らせて、我が世の春とばかりに構内を闊歩し、背が低くても向こう意気がメッポウ強く、背のはるかに高いニキビ面の学生を飛び上がりざまビンタを張るのだった。のち新たに配属されてきた西田という中尉の配属将校はガラが大きく態度もでかけれや、乱暴者。生徒を校庭に並ばせて、工事の足場に使うような丸太ん棒を抱えて一人一人の頭をごつんごつんと叩いたりする。
いまどきのひ弱な息子を溺愛し、過保護なママたちがこうした体罰を目撃したら、吃驚仰天、その場に泡を吹いてブッ倒れるに違いない。
この軍事教練を私が四年生の三学期をまるまるサボったので、ある日コーチンに教職員室に呼びつけられた。
「なぜサボった!受験に必要な貴様の内申書を書いてやらないぞ! 」と凄まれたものだ。高校、専門学校、大学を受けようにも、試験より内申書が幅を利かせていた時代。それも校長の出す学業成績より、配属将校の軍事教練の点数がものを言う戦争末期。
どうしてこうなったか、どんなにしてサボったのか?
京都府立二中は、正門を入った突き当りが本館で、教員室や事務室、講堂などがある。その東側に二列に教室のある校舎が並んでいた。校舎の東に武器庫があり、三八銃、それより古い村田銃が整然と木製の銃架に格納されていた。銃を使う教練が終わると、銃を分解掃除して、油の染みた布で丁寧に磨かされる。(ここはまた、硬派をきどる生徒たちが、こっそりタバコをふかす隠れ家にもなっていたようだ。)
私がどんな風にして厳しい教練をサボったか?
ここで一人の人物が登場する。それは生徒が授業中に急に具合が悪くなったときの静養室の看護婦さんである。私は教練の時間が近づくと、この静養室に駆け込み、白いシーツのかかったベッドに潜り込み、1時間をやり過ごしていた。初めは本当にカラダの具合が悪いのかと真剣に心配してくれていた看護婦さんも、度重なるに連れ、教練の授業をサボるための仮病だと、事情を察するようになった。しかし、色白。うりざね顔の親切な看護婦さんは実に良く私をかばってくれた。
そのせいか、どうかは丹波・綾部市出身の親切な看護婦さんは、間もなく学校を去っていった。本当に私をかばってまずい立場になったのかどうか、遂に聞く機会はなかったが、退職して田舎に帰ってしまったのである。
半年ほどして一通の手紙が、私のところに配達されてきた。見慣れない墨の筆跡で宛名が書かれた封書をひっくり返し封書の裏を見ると、山鹿という綾部郊外の地名と看護婦さんの名前がしたためてあり、内容は私の前途を励ますやさしい言葉ばかりで、一言も私のサボタージュについても、退職した理由にも、一切触れられていなかった。
私のせいで…と言うのは思いあがりだったかも知れなかった。あるいは結婚の話がまとまっての寿退職だったかも。戦時下の暗い中学校生活に点ったオレンジ色の灯火として、私は心の底深くしまい込んだのだある。
■夜間行軍■
詩人として世に知られている木島始君(小島昭三)の若いときの処女小説『春の犠牲』の書き出しも「某年某月某日」と書いてあるが、私も強い印象が残った京二中での夜間行軍は何時のことだったか、きれいさっぱり記憶から抜け落ちている。
某年某月某日、深夜に行われた行軍演習が九条通りに面した学校正門を出発するところから、国道1号線を夜っぴて完全軍装で行進させられた情景が、昼間の行軍に置き換えられて描写されていたが、その雰囲気がいきいきと活写されているので、私がまずい筆で重複の愚を犯すこともあるまい…と。同窓会誌には書いているが、ここでは記憶に残っていることを断片的にしか書けないが、綴ってみようと思う。
校門を「歩調をとれ!」という隊長の一声で、三八銃を担いで出発。午前0時を廻っていた。九条通りを東に、すぐ右折して国道1号線を南下。現在と違ってクルマ通りも少ない。
街灯や住宅、ビルから漏れる明かりも乏しく、暗い大阪に通じている1号線を南に向かってひたすら歩く。砂袋を入れて実戦並みの重量にした背嚢に帯剣、三八銃を担いでの行進は、1キロ、2キロくらいまでは、日頃腹ペコで体力は低下しているだろうが、若い十六歳のカラダには、さして苦になるほどでもない。しかし城南宮を過ぎるころには、機械的に左右の足を交互にだしてるだけの単調さに加えて、背嚢は肩に食い込み、銃を支える手もだるさを増してくる。隊列も徐々に崩れがち、銃を支える手もいい加減になって水平どころか後ろの方が下がってくる有様。ここにきて、ろくなものを食べていないお腹は空腹を通り越す。
初めのうちは、小隊長も姿勢について、ひそひそ話に注意していたが、だんだん規律もなにも、崩れてくる一方。
夜がしらじらと明け初めたのは、土の辺からだったろうか。淀川右岸の国道171号線の方に曲がったのは、大手筋あたりからか横大路からか、分からない。靴擦れの痛みと足先から大腿にかけての筋肉疲労で、突っ張ったような鈍い痛み、痺れるような眠気でもうろうとして機械的に足を運んでいたので覚えていない。加えて当時の道路の模様と現在とでは、相当に違っていたことも歩いたコースを特定できないと言うこともある。
土手の上の171号線から淀川の水明かりを見たような、見なかったような。とにかく水無瀬に到着する手前で、東の空があかるみ始めたとおぼろげに覚えている。水無瀬神宮で聞く気もない訓示のあと、ようやく解散。どうようにして京都に帰り着いたのか、さっぱり覚えていないのだ。
■饗庭野の演習■
饗庭野は琵琶湖西岸の北部、今津町の南西に広がる台地で、南側を安曇川が流れている。ここで、3年生のときだったか、4年生になってからだったか、完全軍装で演習が行われた。水無瀬までの夜間行軍のときは単に歩く距離が長かったのと、眠かったほかは、ひたすら歩きに歩けばよかったが、饗庭野の陸軍演習場での演習は、歩くだけでは済まされない。琵琶湖畔から出発し、まず台地の坂を背嚢を背負い、帯剣をつけ、三八銃を担いで、やっこ らやっこら登ってゆくのである。
やっと平坦な台地につくと、ほっとする間もなく、敵と遭遇したとの想定で、「伏せ」「匍匐全身!」{構え筒!」「撃てっ! 」「着剣」「突撃!」と矢継早の号令がかけられる。小休止、また草地の中を行軍、再び「伏せっ」の繰り返し。
台地の上は雑木林と荒れ果てた起伏のある草地。やや広いところに爆撃演習のための標的小屋がぽつんと建っていた。
午後三時を廻った頃だろうか(時計など持っていないので、時間の経過など腹時計で計るしかない)ようやく帰途についた。こんどは登り道ではなく降りなの歩くのは少し楽になったが、「伏せ」「突撃」などで始まる演習と行軍などの繰り返しで体力をかなり消耗していて、だらだら機械的に足を交互にだしているのみ。その上、左右の足指に靴擦れか豆が出来ているらしくひりひり痛みを覚える。緩みかがったゲートルを捲いた脚はスジが入ったように重く、カラダ全体が古綿のようによれよれ。よく辛抱できたものだ。
それでも台地の外れまできて下り坂にかかり、幾曲がりかしているうちに、青く澄んだ琵琶湖の水面が目路に現れてきたとき、心底ホッとすると共に安心感と疲労感がドッと噴出してくる。しかし、どのあたりを歩いているのか見当もつかず上り下りしている時と比べると、まさに蘇生の思いだった。
この原稿を書くにあたり地図で確かめてみると、饗庭野は今でも自衛隊の基地、演習地となっているようだ。東富士の演習場のようにアメリカ占領軍が我が物顔に、実弾をドンドコ撃ちこんで、自然破壊の凶行をしないよに、地元の人々も強く願っている。
■通学経路■
今のように学区制がなかった京二中在学当時、生徒はいろんな方向から二中を目指して通学路を辿ってきていました。東の方からは九条通りを大石橋までは電車に乗り、そこからは徒歩で、西から来る生徒は西大路七条までで、あとは徒歩、北から大宮通りを市電に乗ってくる者は七条大宮下車。どの方角から来る者も二停留所ほどは歩かねばにらない決まりになっている。私の家は下鴨にあったので、七条大宮組。電車を降りてからもゆっくり歩いてはいられない。たいてい時間ギリギリにしか登校しないので、余裕のあるときで早足、いつもは電車を降りるや否や、肩からかけたズックの鞄を小脇に抱えこんで、脱兎の如く走り出す。まず、市電の軌道が東海道線を跨いでいる「たかばし」のしたをの通路に走りこむ。次は電車道を斜めに横切って東寺の正面の東門へ飛び込み、境内を斜めに南門へ一目散。こんどは九条通りを横断して一散に校門に駆け込むのである。
正門の中では、上級生の週番が生徒指導の先生と一緒に眼を光らせている。もし、授業開始のべルでも鳴り出していたら、さあ大変。あとでコッテリ絞られること間違いなし。沁みついてしまっている日常生活のリズムはなかなか変えられないもので、いつもギリギリの時間の市電に乗り合わせる顔ぶれは決まっていた。
電車が七条大宮に停車すると、ドアが開かれるのももどかしく、わらわらと飛び降りる面々。お互いに言葉を交わす暇もなく、ただちに全力疾走に移るのであった。
■ポケット検査■
タバコ。この一旦とりつかれたら、なかなか止められない習慣に染まるのは、今でも中学・高校生あたりの年齢に多いのではなかろうか。いくらタバコの包装紙に「健康のため吸いすぎには注意しましょう」と書かれていても、タバコ依存症に落ちいってしまえば、麻薬、飲酒といっしょでなかなか抜け出せない。
最近になって、少し風向きが変わってきて、禁煙する人々が増え、タバコ消費量も頭打ちから下降線をたどっているらしい。ヘビースモーカーにとっては生きにくい環境となってきている。まず、電車、汽車、航空機が禁煙となり、駅の構内、空港施設の中と煙締め出し領域が広がり、今では社内、学校どころかビル全体が禁煙というのもアタリマエの状態。
しかし、昔と違う面は女性の喫煙が年を追って増えてきているらしい。将来の母性機能に悪影響が出ないかちょいと心配。男のやみつきのように、所かまわず、歩行中でも銜えタバコと言うわけにも行かないので、もっぱら喫茶店でのひとやすみが彼女たちの喫煙タイムとして、使われているようだ。
私も五十一歳のとき、多忙を極めストレスから胃・十二指腸潰瘍で幽門閉塞を起こして胃切除術を受けたとき、術後1週間ほどはタバコを手にしなかったが、まあ1本ぐらいなら良かろう、と思って喫いはじめたのが運のつき。1本が3本、10本となり折角の禁煙のチャンスを逃して見事に元の木阿弥。以来、意思薄弱な私はすっかり禁煙を諦めてしまった。爾来、半世紀。七十六歳になった現在も、肺癌マーカー検査でも異常なし、なにタバコ、酒をやらない人でも若死しているではないか…なんてホザイテいる始末。
私にこの悪習むを齎したのが、羽場澄雄という同級生。ある日、「宝塚少女歌劇を見に行かへんか」と彼に誘われた。二年生のときか、三年生になってからか、はっきり覚えていないが、土曜日から日曜日にかけて尼崎の羽場君の親類の家に泊りがけで行くことになった。そのとき羽場君がポケットからタバコを取り出して「喫うてみやへんか」と勧められたのがきっかけ。
その頃はまだ学校でおおっぴらに吸う同級生はいなかったから、やはり二年生のときだったのだろう。好奇心はあったし、いっばし背伸びし大人ぶってみたい見栄も有った。羽場君がポケットから取り出したタバコをもらい火をつけた。とたん、むせると同時に頭がくらくらっとして、まるで脳貧血の発作のようになった.その時、悔やんで止めていればいいものを、格好つけてとうとうニコチン依存症に陥ってしまった次第。
三年生に進むと喫煙者も増えてくる。地下のロッカー室からタバコの臭いがしたり、便所の小窓から煙がたなびいたりする。
教師が気がつかない筈はない。そこである日、ある朝突然、全校生徒が校庭に整列させられた。片手を挙げて行列の間隔を取り、前後の距離もとらされる。
そこで、やおら教師のひとりが、
「ポケットの中のものを全部出せ」
と号令するや否や、担任教師が受け持ちの学級の列に走り、配属将校たちも加わって一斉に持ち物検査が始まる。タバコを持っていなくても、教師には見せられないものを持っている生徒もいる。むろんタバコやけしからん物は、その場で没収。あとからみっちり蛸を釣られる(絞られる)ことになる。さいわい私は引っ掛からなかったが、あまり気持ちの良い思い出ではない。
第二部 学校生活と交友について
徳島から京都に移り住んで、京都府立京都第二中学校に編入し、始めて今までとがらっと変わった環境の中に入ったとき、たいていは猫をかぶってしばらく様子を見るもの。私も自分で言うのも変だが、(最初のうちは)まずは真面目なほうだった。
だが今まで異なったカリキュラムのもとで学んできた私が、新しい環境、システムの中で学習することに馴染むのはたいへんなこと、かなりエネルギーの要ることだった。小学校は六年生まで全優で卒業し、徳島中学校でもそこそこの成績で一学年を終えたのだが、二中に入ってからはダダ下がり。クラスでは中位ぐらいになっていた。
成績下降のもう一つの原因は、その頃からいっぱしの文学青年気取りで、日本、世界の現代文学集からとっかかりに、フランス古典戯曲集、明治大正文学全集と濫読に明け暮れ。おやじに「軟派文学ばかり読んでいないで、ちっとは勉強せいッ!」と怒鳴りつけられた。でも懲りずに、「勉強してくる」と言っては岡崎公園の府立図書館に通っていた。
」 となると、毎日の積み重ねが大切な理数系統の代数、幾何や物理、化学のほうではついてゆけなくなる。国語、英語、地理、歴史など丸暗記のきく学科との落差が絶望的に広がる一方。テストの成績は、校庭の北側に校舎を背にして大きな掲示板に張り出される。学期末の試験の総合成績は学年ごとに、トップは東端から成績順。あまり成績が良くないと自覚しているので真ん中辺から順次下位に向かって自分の名前を探してゆく。
各科目ごとの成績発表は、歴史・地理のときはトップの方に、理数科のときはビリの方に向かって走ったものだった。
■ 太平洋戦争の開幕 ■
京都府立京都第二中学校に転入したのが、昭和16年4月、その年皇紀二千六百年のお祭り騒ぎがあり、巷には「見よ東海の空明けて…」の歌声と歓声が氾濫(私たちの年代は小学校時代から皇民教育、軍事教育に馴らされ、誰が四年後の敗戦を予想しただろうか)。華やぐ一面、先行した日中戦争の泥沼化に陥っていく経過と共に、じわりと生活の窮乏化の兆しも濃くなってきていた。食糧・衣類の配給制、切符制が取り入れられ、かすかに暗雲の近づく気配が漂いかけてきていた。
戦争が激化する中で、一人勢いづいてきたのが、軍人の古手…予備役の配属将校たち。人々を戦場に駆り立てる軍人の狂気が異常に増殖して生み出された風潮が全国に蔓延。先生よりも校長よりも権柄づくとなり、そっくり返り、威張り散らしていたのである。
予備役の叩き上げの准尉、秋吉公鎮(名は「キミシズ」と読むのだが、音読みにしたコーチンが綽名として通っていた。栄養失調の名古屋コーチンのように痩せて小柄な風貌にまさにびったり)が俄然張り切りだし、小さな痩せっぽちが天を仰いで校内を闊歩していた。加えて軍事訓練充実のために増員され、新たに赴任してきた現役の山本中尉などは、柄が大きいだけあって、教練(軍事訓練)をサボったり、何か気にいらないことがあると、丸太ん棒を持ち出して小脇に抱え、生徒を一列に並ばせておいて、頭をゴツンゴンとどついて廻る横暴ぶり。
コーチンも負けずに、刃引きして切れないサーベルを抜いて、飾りのサーベルがひん曲がるまで生徒を叩きのめす有様だった。今のご時世なら、たちまち父兄が人権蹂躙だと騒ぎ出し、教育委員会が泡を食って学校に飛んでくるのは必定。
私が二中に転入学し、ようやく学校になじんだ頃、この年の暮れ十二月八日に、朝目ざめた時から何やらラジオががなり立てていた。軍艦マーチが繰り返しバックに流れ、「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。本八日未明、わが軍は西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり…。」
登校をしたらしたで、朝礼のときも、開戦しょっぱなの赫々たる戦果を報じる臨時ニュースに沸いていた。皇国史観で固められてしまった教科書で学び、戦時色一色の教育を受けてきた私たちも、配属将校に反感を抱きながら、ウラのカラクリなど分かる筈がない。開戦のニュースに背中がゾクッとし、景気のよい軍艦マーチの伴奏で次々と伝えられる戦果に興奮しきっていたものである。
私の京二中生活の始まりは、以前からの自由主義的な、いささか自分本位の嗜好、伝統の世界の終焉と、坂道を転げ落ちる勢いで破滅への道、戦時色がすべてを覆ってゆく時代の幕開けとの境目に当たっていたのである。
■文学・音楽・同人誌■
そんな戦時色に学校生活を飲み込まれて行くときに、私は技術屋の父の教えに逆らって「軟弱な」文学に走ってゆくことになった。今から考えると、思い出しても顔から火が出るように恥ずかしいほど未熟な、生っちよろい文学青年気取りだった。
文学書の濫読については既に書いたとおりだが、大森君、尾形君、宮嶋君などとガリ版刷りの同人誌を作り出したときのペンネームが「孤城落雁」ときては、なまっちょろいのを通り越して、アナクロ、幼稚さがむき出しで、今でもいたたまれない!ああ、恥ずかしい! 何かに書いた記憶があるが、私の精神構造の根底にあるのは、上田敏博士の名訳になる「海潮音」という訳詩集である.七五調に訳出されたヨーロッパの詩人達が描き出す雰囲気は、泰西文化の香気に満ちており、巻頭のガブリエル・ダヌンチオの「燕の歌」
「彌生ついたち、はつ燕、
海のあなたの静けき国の
便もてきぬ、うれしき文を、
春のはつ花、においを尋むる
あゝ、よろこびのつばくらめ。
白と黒との染分縞は
春の心の舞い姿」
から延々と続く七五調の詩は、私に強いショックを与えるものであり、頭に焼き付いてしのっている。シャルル・ホードレール、ルコント・ドウ・リイル、ポール・ヴェルレーヌ、ハインリッヒ・ハイネ、「山のあなたの空遠く」のカアル・ブッセ、オイゲン・クロアサン、テオドル・シュトルム、ロバアト・ブラウニング」…青春の日々そのものの懐かしさである。
同人誌といっても、せいぜい12ページほどの薄っぺらいのガリ版刷りのものだったが、「海潮音」にのめり込んでいた私は、七五調の歯の浮くような詩を書いては、とくとくと発表していた。(その頃は、模範生だった小島昭三君は詩作などに無縁のように見えたが、今は詩誌「列島」に参加、その後オペラ、合唱曲などの作詞、童話など幅広い活動を続けてきており、私の畏敬する文学者となっている。大森忠行君も一流の詩人として活躍されていたが、惜しむらくは昭和57年8月3日房総の海水浴中水死された。一人私のみが未だに七五調の尻尾をひきずり、上田敏の世界を抜け出せないでいる)
同人誌には、岡崎公園の東側の通り、現在は立派な書家の居宅になっている所に有った二中の先輩の妹さん(確か同志社高女に通っていると言うことだった)が、表紙デザインをしてくれていた記憶がある。
勉強はさておき、次に記憶に残るのが音楽について。私の育った環境はクラシックに全く無縁の環境だったが、京都二中に転入してからは、大森君、尾形君などから洋楽に親しむことを色々教えてもらった。後年、陶芸家となって父親の跡を継いで京焼き、また遠い先祖に尾形光琳、乾山の血を引く尾形力(江戸期依頼の芸名「周平」を継ぐ)君は、タンゴに魅せられており、彼の家でラ・クンパルシータ、夜のタンゴ、私の青空、奥様お手をどうぞ、碧空…などを聞かされた。
私がクラシックに徐々に近づいていったきっかけは、まだ徳島で暮らしていたとき、小学校六年生の頃親しかった竹中君という友だちの家に招かれ、蓄音機で「谷間の灯火」をかけてくれたのが始まり。意味も分からないまま「ゼアズ・ア・ランプ・シャイニン・ブライト・イン・ザ・ヴァーリー」ト口真似したもの。日本の歌謡とは違ったあじわいにとらえられた。第二番目の愛唱歌になったのが、リューランスの「ミネトンカの湖畔にて」で、これは京都に引っ越してきてからだったと思う。
もう一人の親しい友人、大森君は一歳年上のせいか、私たちより幾分大人びていたところがあり、私が女学生愛唱歌レベルの歌に凝っていたのをみると、彼の家では、シューベルトの歌曲「菩提樹」「セレナーデ」あたりにまで辿りついていた私に、「そろそろサイダーは止めて、ビールにしたら」と、シンフォニーを聴くように勧めてくれた。つまり大甘の女学生じみた歌から、やや辛口のシューベルトの「冬の旅」を勧められ、なかでも「菩提樹」が気に入り、「アム・ブルンネン・フォルデントーレ」とやっていた。彼は段階的に私をクラシックの世界に導きいれるため、同じシューベルトでも「未完成交響曲」を聞かせてくれた。
次に、こんな世界もあるぞと、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」を皮切りにさまざまな作曲家のシンフォニーを聞かされて、次第にクラシック音楽にも親しんでいった。戦争が激化し、敵性音楽が厳しく指弾されるあの頃に、ボリュームを落とし耳を蓄音機に近づけながら、今までとは異なった世界に入り込んでいったのであった。
忘れもしない。河原町通り五条から少し上った西側に彼が暮らしていた、大森君の兄さんの家があった。一階は兄さんの羽根箒を商う店舗、二階が兄さんたちの居宅、三階に大森君が住んでいて、私たち二中の仲間は真っ直ぐ三階に上ったもの。
三階には、私たちの家庭とは百八十度違った自由な雰囲気があり、私たちグルーブの梁山泊であり、戦時色に塗り込められて息の詰まりそうな灰色の世間から隔離された、ささやかな、しかし思い出の中に「これこそ私の青春だった」といえる、いつまでもキラキラ輝いている青春の巣窟だった。
戦争と関係のない空気を呼吸し、文学を論じ、同人誌の相談をし、レコードを聴くため竹の針を一生懸命に削りながら耳を傾け、主に先達ー大森君の話に聞き入っていた。「未完成」は大森君がシンフォニー入門のつもりで聞かせてくれ、「未完成」から「第五・運命」へ、私の眼の前には音楽についても、新しい世界が開けてきた。
まあ、太平洋戦争に突入し、「欲しがりません、勝つまでは」とか「一億一心火の玉だ」などという時代に、生っちょろい詩を書き、軟弱な敵性音楽にウツツを抜かしている生徒など、どう見ても、今の言葉でいえば「おちこぼれ」以外の何者でもない。勉強もおろそかと来ては「落ちこぼれ」の2乗。世を挙げて戦争態勢にのめり込んでゆくなかで、私を含めたグループは、月よ花よ、詩よ、音楽よなどとやっていたので、当時の社会風潮からはひどくずれていたことになる。
余談だが、その頃「敵性」と言う言葉がよく使われていた。私が大森君や尾形君などの友人たちに手を引かれて、ポピュラー音楽からクラシックへの"とば口"に差し掛かったいた頃には、戦時色が濃くなると共に、ド・レ・ミ・ファ…が、味気ないハ・ニ・ホ・ヘ・ト・イ・ロ・ハと訳の分からない音名に変えられ、軍歌が世間にはびこるようになる。
「露営の歌」 (勝ってくるぞと勇ましく…)
「婦人従軍歌」(火砲の響き遠ざかる…)
「土と兵隊」 (徐州、徐州と人馬は進む…)
と当時、人口に膾炙した軍歌のいくつかを挙げてみると、短調の物悲しいようなメロディラインを持った歌がすぐ頭の中に浮かんでくる。世を挙げて戦意昂揚の時代にどうしたことだろう。無論、「隼戦闘隊」のように、いかにも勇ましいテンポの速い曲もたくさんあるが、衣料は配給切符、食糧は当初の一人1日コメ二合三勺のはずが、だんだんコメが減り、雑穀はおろか芋の茎、アブラを搾ったあとの豆粕などが混じるようになり、みるみる窮乏の度を加え、腹を空かせてピイピイいっている世間に合うのか、それとも日本人に深く沁みついている演歌(当時はこんな言葉はなく単に流行歌と言っていたように思うが…)好みの気質に合うのだろか。
となると、横文字の音楽などは、十把ひとからげで「敵性音楽」となってしまった。ドイツはイタリアと共に「日独伊防共協定」を結んだ枢軸国、いわば味方ではないか。そのドイツの音楽が何故いけないんだ!と唸ってみても、取り締まる権力側にも、付和雷同する輩たちにも、クラシック音楽なんて金輪際わかりっこない。そんな、上等な趣味をに縁のない連中が、上は結果、国を滅ぼすような無茶をやる軍部独裁者たちにも、下は権力を嵩に来てオイコラと威張っている派出所の巡査にも、いっぱいいたのだろう。
家の中でこっそり竹の針を鋏に似たカッターで削っては、外に音が漏れないか気を遣いながら78回転のSPレコードの上に、慎重にピックフップをおろし、じっと聴き入っているだけだったのだ。
第三部 あるリベラルな心優しい
教師の肖像
勉強が苦手だったせいか、戦争のためまともな学生説活が遅れなかったせいか、私の教師についての印象は極めて曖昧である。もちろん、授業中でもすぐ手がズボンの前あたりをさまようので「インキン」という仇名を奉られた担任の佐々木先生(戦後は社会党に入られて市会議員として活躍されようとは、つゆ思わなかった)は強く印象に残っているが。まああの時代の中では、威張らず、生徒に対しても優しかったと記憶している。私が京二中を卒業して満州に旅立ったのは、戦況の逼迫で、進学を志したとしても、文系どころか理系までが徴兵猶予を廃止されて、兵隊にとられるか、さんざん辛苦をなめた軍需工場への学徒動員で学生生活を楽しむどころか…と見切りをつけたからであるが、結果はすぐ敗戦を迎え、中国共産党軍(はじめは八路軍、のちに中国人民解放軍)に徴用され、八年間も中国の東北各地を流離う羽目になり、戦後、長く続いた日本の混乱期と比べても、どちらが良かったか判らない。帰国してみるとインキンこと佐々木先生は社会党の闘志といてがんばっていられるようだった。先生の心の中にどんな回転があったのか。想像もつかない変身振りに思えたものだ。
思いもつかない変身と言えば、あのそっくり返っていたコーチンこと秋吉准尉。昭和28年に中国から帰国して間もなく、京都市役所近くの寺町通りの路上で、ばったりコーチンに出会ったときには驚いた。私の顔を見るなり、ポケットから名刺を取り出して、
「こんなことをやっているんだ。何かいい仕事がありませんか」
とのたまう。もらった名刺を見れば、小さな印刷所に勤め外交をやっているらしい。あのコーチンが人に頭を下げられるのかねえと、つくづく痩せて小さく皺の深くなった顔を眺めるばかりであった。帰国したら一番にぶん殴ってやろうと考えていた配属将校の、さすが、尾は打ち枯らした姿を眼にしては、哀れさが先にたって「まぁお元気に」と、心にもない言葉をはいて別れるしかなかった。
教師の中で、一番印象に残っている先生がいた。どうしても名前が思い出せない。配属将校が校長より威張りくさっていた太平洋戦争の時代、その教師は「異端」と言っていいほど、姿、容貌も優形で、あの時代には相応しくない雰囲気をもっていた。大正ロマン的な、文学的雰囲気を持った英語の教師だった。私は何故かこの文学的優形教師に魅せられ、教師の下宿先にしばしば遊びに行ったものだ。
心優しい優男ゆえに、教室では悪がきどものふざけの対象にされがちで、満足に授業が進まないのに、「先生、歌うたってくれ」と声を合わせてせびられることがママあった。生徒達の悪ふざけに大きな声も出せない先生は、戦時色の濃い時代の中では落ちこぼれるほかは道がない。私が危惧していたとおり、かの先生は突然二中を辞められることになった。
景気の良い軍艦マーチつきの大本営発表にもかかわらず、緒戦の快進撃のニュースは影をひそめ、進軍は止まり、敗退を「転戦」とか「転進」とごまかし、明らかに太平洋上の島嶼から次々と撤退を始めていた。軍艦マーチの代わりに無駄死にさせた戦士達の犠牲を痛むように「海ゆかば」がニュースのバックに流れるようになってた。人々の間では、ひそひそと南の島々での日本軍の苦戦が囁かれ、敗戦の予感のようなかすかな気配も生まれていた。
私が好きだった英語の教師の辞任(乃至は転任)の挨拶はなかったように記憶している。突如、姿を消してしまわれた先生は、某私立の女学校に移られた…という風聞も囁かれたが、確かではない。突如ーと言ったのは、転任理由(推測)からくる印象に過ぎないが、先生の身になってみれば、戦時色に強く塗り込められた当時の中学校は、針の筵にひとしい座に置かれた思いの毎日だったのに違いない。私は先生が転任と同時に居を移されると人づてに聞いたので、手伝いに押しかけた。先生はちょうど蔵書の整理と梱包にかかっていられた。ふと見ると、先生の専門図書以外の本の多いことに気がついた。その中にカール・マルクスの著書やマルクス経済学の書籍が混じっていた。先生は何も言わないし、私も黙々と本を一からげにして紐で縛っていた。もちろんその頃の私はマルクスの何たるかを知らないけれど、経済学にてんで感心がなかったものの、心の中で「今、私が眼にしていることは、決して他人に洩らしてはいけない」と堅く信じていたのである。
今にして思えば、あの事実がちょっとでも外に洩れれば、即刻、特高の襲撃を受け、拷問にかられること必定だろうと思う。その夜は、あまり先生と言葉を交わしていない。かなり夜も更けてから家に帰った。
これは余談になるが、太平洋戦争が勃発して以来、他の中等学ことに女学校では英語は敵性語だということで、教科としての英語の時間を減らしたり、まったく廃したりした所が多かったようにように思うが、京都二中では「勝つためには敵の言葉を知らなければならない」と言う理由で、英語副読本の時間が増えたように記憶している。
コーチンもインキンこと担任の佐々木先生ももうこの世にはいない。卒業後半世紀が過ぎた。時代は大きく変わったが、近頃は何かきな臭いものが漂いはじめている。もう私の青春を覆い尽くした戦中の苦い体験は二度とごめんである。
明け暮れた日々 ・・・勤労奉仕
私たちが四学年に進級した頃は、どんな時代だったか。
昭和十八年には、開戦当初けたたましく大本営発表が、かっての赫々たる戦果のボロが剥がれかけ、西太平洋では陣形をたて直した米英連合軍が反攻に転じ、戦局は大きな転換点に差し掛かっていた。伸びすぎた補給線は優勢な機動部隊を投じてきた米英の空海軍に寸断され、東部ニューギニアでブナ守備部隊が全滅。ガダルカナルでは戦死者、餓死者二万五千人を出して奪われ、北洋ではアッツ、マキン、タラワの守備隊が玉砕した。
欧州戦線でも、昭和二十年四月三十日にベルリン陥落のときに、ヒットラーが服毒自殺を遂げて、ナチス・ドイツは崩壊した。前の年の九月、日・独・伊三国同盟の一員イタリアのパドリア政権は連合軍に無条件降伏。三国同盟の一角はすでに崩壊していた。
南太平洋での敗退により、アメリカ空軍による本土空襲が危惧されるようになり、隣組ではバケツと縄の火叩きによる防空演習が日常化し、隣組み単位でしばしば訓練が行われるようになり、爺さんの退役軍人がしゃしゃり出てきて指揮をとったりしていた。
■強制疎開の家屋撤去■
本土空襲が現実味を帯びてきて、京都でも防火帯を設けるため、強制疎開…有無を言わせず現に住んでいる住民を追い出して、幅の広い道路をつくり出し防火帯にしようと言うもの。京都は道幅の狭い昔ながらの道ばかりなので、延焼しやすい故…とのことだが、私たち二中生の四年生もその作業に狩り出された。
私たちが受け持ったのは、北大路橋の南の鴨川堤防下から堀川通りに至る地区。現在は
紫明通りとなっている地帯である。
今のようにパワーショベルや大きな鉄球で、機械による手早い破壊ではなく、屋根の下の柱に太いロープを結わいつけ、何十人がロープにつ取り付いて「エンヤーコラ」と力まかせに引っ張り倒す方式。掛け声もろともわれわれが引っ張る度にギシギシと家が揺れ、段々揺れが大きくなり、限界を超えると物凄い土煙を立てて倒壊する。頭からつま先まで土砂と埃を浴びて真っ白となる。口の中までジャリジャリになってしまう。一軒また一軒とこのロープでの引き倒しを繰り返してゆく。
今では、道路一つつけるにしろ、住民をはじめ関係者に説明会を開き、同意を取り付け、莫大な日数と費用、手間暇がかかるが、当時は命令一つで問答無用、個人の土地に対する愛着やもろもろの個人的な事情など一顧だにされなかったものである。現在、こうして拡幅された紫明通りをはじめ、堀川通り、五条通りなどは、ただ交通に便利な大通りとしか認識されていないが、強制疎開のため慣れ親しんだ土地を奪われた人々に思いをはせる人はいるまい。今、もし土地を追われた人々が今残っていられたら、どんな感慨をもっていられるのだろうか。
■大原野へ稲の刈り入れの手伝い■
当時、戦況が悪化するにつれ物資の窮乏が加速度的に進み、一日二合三勺の米穀の配給も満足にされなかった。何を配給されたかと言うと、肥料用でしかなかった豆粕、アルコールを絞ったあとの芋粕、芋の蔓など味も素っ気もないものが増えてゆく一方。
聞いた話では、ご近所のある家庭では、週に一度だけ銀シャリのご飯を炊いて食べ、あとの六日間は米ぬきの野菜くず雑炊で過ごしていたとか。
また、ある時、下鴨の二本松バス停でバスを待っていた時のこと。傍らのバスを待っていた人品卑しからぬ、社長と言ってもおかしくない紳士が、やおらポケットからなにやら取り出して、口にいれ始めた。良く良く見ると、新聞紙にくるんだ豆粕を炒ったもののようだった。指で一つまみずつ口に運んでいる。
その一方で、近くの巡査派出所の巡査が、食糧管理法(当時は米穀管理規則 昭和十五年十一月配給制実施)違反で押収した米穀やその他の闇物資が派出所の奥の部屋にうなっている、と言う噂話がささやかれていた。
そんな時代、育ち盛り、食い盛りの私たちはしょっちゅう腹をすかせ飢えていた。
昭和十八年、中学三年生のとき私たちは農家への勤労奉仕に度々狩り出されていた。京都市近郊の出征兵士の留守家族の農作業の手伝いで、何ヶ所かに行った覚えがあるが、忘れられなかったのが、西山の麓の大原野神社近くの農家にいったときのこと。当時は見渡すかぎりの田圃で、家は遠く離れてちらほら見えるのみ。戦争で男手どころか壮年層の夫も召集されたので、稲の刈り入れを手伝うのである。
田圃の畦道をわずかに広げただけの砂利道をトコトコ歩いて農家まで行った。一軒の農家に生徒二人ずつ廻された。この時は、まだまだ飢えるほど逼迫はしていなかったとは言え、まだまだのんびりしていた。夕方明るいうちに作業を終え、夕食をよばれることとなった。主婦が抱えてきた大きなお櫃には、たっぷり銀シャリが入っている。さすがにおかずは味噌汁と漬物ぐらいのもの。しかし慢性飢餓状態の私たちにとっては、眩いばかりに白く湯気の立っている炊きたての銀シャリほどのご馳走はない。二人は「お櫃の底まで食ってやろう」と、いじましくも決心.食ったわ食ったわ、僅かではあるがお櫃の底が本当に見えてきた。
相棒が七杯、私が無理して八杯。帰り道には、とにかく頭を水平より僅かに下げるだけで、喉元から食べたご飯が出てきそうなほど。大原野神社の鳥居を背にして、舗装されていない砂利道を戻るときも、天を仰いだ格好でそろそろと歩き、折角食べたものの逆流を防いでいた。
■祝園弾薬庫での泊りがけ勤労奉仕■
今は、近鉄という私鉄(かっては奈良電鉄が走っていて「奈良電」と呼ばれていた)の沿線の木津駅からやや北に位置する祝園駅から、西に2、3キロ入った所に祝園弾薬庫があった。(今でも自衛隊の弾薬庫として使われており、危険な弾薬庫が一般道沿いにあること、京都駅から祝園弾薬庫まで陸送されているので、反対運動が起きていた)
あのあたりは、当時、八幡ー木津間の道路沿いに、家並みが途切れ途切れに点在するほかは、すこし主要道路から外れると、小さな丘の起伏するところは田畑と茶畑しかなかった。今ではただっ広い京阪奈文化学術都市となり、近くには先端研究の洒落た建物が風景を変えてしまっている。
閑話休題。
戦争が一段と厳しい局面になってくると、多くの働き手が赤紙一枚で戦場に送られ、労働者の不足が私たちまで狩り出されるようになってきた。じりじりと彼我の物量戦力の差が、私たちにまで手を伸ばしてくる。中学生に課せられた勤労奉仕も、今までは農家の手伝い程度にとどまっていたが、いよいよ戦争に近い仕事にまて振り向けられることになったのだ。
太平洋戦争のムチャナな拡大で、銃後(これも死後)の生産現場で働き手に不足し、工場には女の人は女子挺身隊として、学生は勤労動員という形で放り込まれた。
私たちは三年までは、まともに時間割どおり勉強できたが、四年生になると授業だけは規定どおり受けられたが、三年送れて二人に入学した下級生達は、教室から机と椅子を取っ払い、工作機械が運び込まれる状況となった。まだ童顔の生徒が未熟練工として働かされたという。オシャカ製造工場ではなかったか。
ということで、四年生の勤労奉仕は祝園弾薬庫に泊りがけの使役となったのである。弾薬庫ということから、どんなに肉体的に酷使されるか分からなかったが、どうした加減か私は現場労働でなく、炊事当番が割り振られたのだ。現場に行ったものの話を聞くと、高射砲弾の運搬などをさされていたらしい。もちろん、弾薬、信管などを装填した完成品でなく、炸薬などを装填するため、空の砲弾を運ぶため安全な作業だと説明されたとのこと。しかし、ひがな一日、肩に重い砲弾を担いで運ぶのは重労働である。
それに引き換え、私は専門の炊事員が作ったご飯とおかずを、バケツのような容器に入れてもらい、二中の生徒が食事をする食堂に運んで、各自のアルミ製の食器に盛り付けるだけ、いわゆる飯上げである。皆、重労働でへとへと、腹はペコペコになって帰って来る。同級生たちは、おかずはさて置き、長い机の上にずらりと並べられたアルミ椀のうち、ご飯の盛の良い方に争って先に座ろうとする。まさか、炊事当番の自分たちが先に盛のよいところに座るわけにはゆかない。たちどころに袋叩きにあうのは必定。それで、眼で見た分量を少なく見えるために、ご飯をぎゅうぎゅぅ押さえつけて、その上にふんわりと薄くご飯をかぶせて、量目が少なそうに見えるものを作っておいた。作戦は図に当たり、炊事当番はたらふく食べられたのである。
今、こんな事をバラせば、仕返しにあうかもしれない。なにしろ食い物の恨みは怖いから。炊事当番にはもう一つひそかな楽しみがあった。というのは、長机の上の片付けはさおき、食器を洗ってしまえば、あとは暇なもの。ぶらぶら炊事場を徘徊し、こっそり白砂糖のあり場所を発見し、くすねてこっそり舐めたりしていた。(その頃、砂糖の配給など途絶えて久しく、貴重品)
また、炊事場をはさんで、その両側に勤労動員の学徒たちの宿舎があった。その日か、次の日だったか、反対側の棟に女学校の勤労奉仕隊がやってきた。当然、向こうにも炊事当番がいて、女の先生に付き添われて彼女たちも同じ時間に飯上げに来る。当時は兄弟姉妹でも一緒には出歩けないほど、男女は厳しく隔離されていたもの。今の若者たちのように、女子学生でも深夜の盛り場をウロウロしたり、すぐ気軽に口をきいたり、手をつないで歩くような真似は考えも及ばなかった時代である。(今では、もっと進んでいると言うか、乱れていると言うか)
私は先ず、引率の年配の先生に近づいた。退屈しきっている先生は、まばらな無精ひげが産毛もどきに生え始めたニキビ面の中学生などには、まったくの子ども扱いで警戒しない。そんな時の他愛もない会話を何度か繰り返しているうちに、先生についてきた女学生とも先生を挟む形で言葉を交わすようになる。弾丸運びで同級生たちが塵と汗にまみれながら働いているとき、こちとらはのんびりと炊事場で炊事場で楽しんでいたわけ。
祝園弾薬庫での勤労奉仕を終えて学校生活に戻り、一週間とたたないころ、上級生から呼び出しをくらった。校舎の屋上にこい、という命令である。こっそりタバコをふかしている現場を押さえられた心当たりもなく、理由もわからぬまま屋上にあがった。東寺の国宝五重の塔が間近によく見える。五、六人の上級生が私を待ち構えていた。一人が「祝園で妹にちょっかいかけただろう」と言うなり問答無用。まず、数発殴られたあと理由を聞かれた。更に、炊事場で顔見知りになった一人が、その妹だと言う。どんな風に告げられたか知らないが、これでは言い訳は効かない。あとは、かわるがわる上級生から鉄拳の制裁を受け、いっぺんにネフローゼになったお岩さんのように唇が切れ、顔が腫れ上がってしまった。楽あれば苦あり、好事魔多しとはこのこと。
5年生に進むと、日本軍の旗色はますます悪くなってきていた。昭和19年。この年の四月以降の出来事を私流に拾ってみると、…
昭和19年
6月 6日 連合軍ノルマンディに上陸、第2戦線形成。
6月16日 中国大陸の成都を発したB29が北九州に初空襲。
6月19日 マリアナ沖海戦で連合艦隊、空母、戦闘機の大半を失う。
6月23日 北海道洞爺湖畔で大噴火、昭和新山誕生。
7月 4日 ビルマ方面軍にインパール作戦中止を下命。10万人の作戦参加者中、死
者3万人、戦病者4万2000人。
7月 7日 サイパン島守備隊3万人玉砕。
7月18日 東条英機内閣総辞職。
8月 3日 テニヤン島守備隊8000人玉砕。
8月 4日 学童集団疎開第一陣出発。
8月10日 グアム島守備隊1万8000人玉砕。
10月18日 陸軍省、兵役法施行規則公布。満十七歳、十八歳の青年も召集されること
になる。ますます末期的症状を露呈。
10月20日 海軍、神風特攻隊を編成。
11月11日 B29、北九州大村地区を空襲。
11月24日 B29、東京を初空襲。
昭和20年
1月 3日 B29、大阪、名古屋を初空襲。
1月19日 B29、80機、阪神地区を空襲。
2月 4日 ルーズベルト、チャーチル、スターリンクリミヤ半島でヤルタ会談。対独
戦後処理、ソ連の対日参戦などを決定。
3月 3日 アメリカ軍、フィリッピンを完全占拠。
と、急坂を転げ落ちるように戦局は悪化していった。
国民の食うものも、ますます酷くなり、慢性飢餓から栄養失調にまで達していた。いくら軍部がわめこうが、天皇の威を笠に来て「非国民」と脅そうが、正直「腹が減っては、戦が出来ない」状態になっていたのである。
こんな環境の中では、ろくに授業が受けられないのも当然。五年生になってすぐか、6月頃になってからか忘れたが、いよいよ中学校からまったく離れ、兵庫県の武庫川沿いにある川西航空機宝塚工場に勤労動員されることになった。
仁 川
京都の四条大宮から阪急電車に乗り、十三で神戸線に乗り換え、更に西宮北口で今津ー宝塚線に。今の地図では西宮を出ると「門戸厄神」、「甲東園」次が「仁川」という順。
仁川は無人駅であった。降りると、小さな川に沿って台塀、門構えの大きなお屋敷の続く道を東に行く。武庫川に沿った広大な敷地に航空機工場があった。
ここで「薩摩守」のことを思い出した。というのは、良く言って「籠の鳥」、実感は「蛸部屋のように工場に閉じ込められて一年近く仁川の工場で暮らしたが、時々は京都へ帰宅を許される土曜日の夕方、京阪電車に乗ってわが家を目指し、日曜日の夜、工場に出てくる(と言うよりは工場に帰ってくる)1泊だけの帰宅。ある時、電車の最後尾の窓から後ろに流れて行く景色をぼんやりと眺めていたが、無意識のうちに手に持った乗車券をくるくると丸めたり伸ばしたりしていたが、丸めた切符を指で弾いて飛ばしてしまった。すぐ気づいたが後の祭り。出札口で「キップを飛ばしてしまいました」などと申告しても、めったに信用してくれまいし。……しかし、ふと仁川が無人駅であることを思い出し、何食わぬ顔をして西宮北口で乗り換え、仁川で下車した。無事通過。
これがヒントになって、四条大宮で乗るときは次の西院駅までの乗車券を買い求め、夜になって到着すると無人駅で改札はない。ラッシュ時間には検札にこないし、夜遅くにも検札には来ない。「薩摩守」今の言葉では「キセル」を何回繰り返したことだろう。
この原稿を書き始めて、改めて今は阪神競馬場になっている現在の地図を眺めてみると、やはり武庫川の右岸に沿ったあたりに川西航空機があったに相違ないと思われる。当時、高いコンクリート塀に囲まれ、軍需工場、それも航空機の工場なので唯一の門には常時歩哨が見張りしていた。
中央に広い通りが貫通し、その両側に体育館なみのデカイ工場が並んでいる。旋盤工場、フライス盤工場、鍛造工場、鋳造工場、焼入れ工場などである。
私たち勤労動員に与えられた宿舎は、正門のちかくにあり、玄関を入ると、まっすぐ廊下があり、すぐ左手の入口傍に、生徒の監督の業務にたずさわる教師たちの部屋が二室。中央の廊下の右側に二階建ての棟が廊下と直角に三棟、平行して建てられていた。教師たちの部屋は生徒たちの動静を監督がつかみ易いよう場所を占めていて、夜勤明けにこっそり抜け出そうにも、ちょっと具合が悪い。
早速私たちは、旋盤、フライス盤、鍛造、鋳造、などの仕事に振り分けられた。さて、どんな生産戦士になるのだろうか。
焼入れ工場
私が配属された焼入れ工場は、体育館並みの建物の中央通路の両脇にずらりと鉄材の焼入れをする大きなガス窯、小ぶりな電気窯が並んでいて、広い通路の所々に水を張ったプールと油を湛えたブールがある。おおかたは棒状の鉄材を窯で熱し、加熱が終わると窯の扉を開き、その使用目的にしたがって水に投げ込んで冷やしたり、油槽に投げ込んで冷やしたりするのが仕事である。焼入れの温度で堅く焼きいれたり、温度を下げて焼戻したりする。焼戻しの場合は水槽や油槽には入れず、空気中にさらして徐々に冷やす。硬度と弾力性の兼ね合いなのだ。
鉄材は直径1cmくらいの細い棒から、1.5cm〜2.0cmくらいまで。窯の温度は扉の小さな穴から炎と鉄材の色を見たり、窯に差し入れられた鉄棒状の温度計を読み取る。温度と焼成時間の管理はもちろ本雇いの熟練工の事。
われわれは、もっぱら窯の扉の開くのを待つ。扉が開くと急いで「ヤットコ」の親分のような工具で、真っ赤に焼けた鉄棒を何本か束ねて挟み出し、水槽あるいは油槽に投げ込んだり、あいた場所に積み上げたりする。真冬でもランニングシャツ1枚にならないと辛抱できないほど暑い。汗がたらたらしたたり落ち、鉄粉と塵と汗とで全身汚れ放題。
しかし、真冬の時間待ちのときは、窯の上(カマボコ型の屋根)に筵を持って上がり、その上に横になると、まるでオンドルか床暖房のようなもの。私はやらなかったが、窯の上は下から発見されにくく、タバコをふかす場所にしていた同級生もいた。
他の工場の様子は直に見たことはなかったので知らない。しかし、精密加工する旋盤、フライス盤工場では盛大にオシャカを製造していたらしい。おまけに日に日に材料の供給が悪くなってゆく一方、時間待ちで手ぶら状態が増えてきたと同級生たちの話し。
とにかく、航空機の組み立て工場でなく、部品製造工場で働いてきたわけだが、ただでさえ食べ盛りの中学生が、慢性腹ペコ、体力減少症のまま、かなり体力を消耗する現場の仕事でこき使われていたのである。ときには注意が散漫になり、思わぬ怪我をしてしまう。ある日、細身の鉄材が入った窯が開けられた。無造作に十本ほど束ねてヤットコの親分でつかみ出したところ、つかみ方が悪かったのか、まとまらずバラバラになってしまった。その1本が左の前腕に触った。とたんジューッと音と肉の焼ける匂い。瞬間には痛みも熱さも感じなかった。シマッターッと腕を見ると、焼き鏝を押し付けられたように前腕の肘に近い外側が、細く深く斜めにえぐれていた。水ぶくれどころか、焼けて変色した筋肉が露出していた。火傷の第3度どころか第4度(?)に感じられる。痛みは暫くしてやってきた。普通の火傷のひりひりではない。頭のてっぺんまで響くようなズキンズキンと脈動する痛み。時間が経つにつれ、火傷の周辺まで腫れてくる。
医務室で手当てはしてもらったが、アカチンを塗って包帯を捲いて、また仕事。何日かして包帯交換をしてもらったとき見ると、傷口の上に厚いカサブタが出来、なかなか急には治らないもの。カサブタの周囲がなにかに引っ掛かって取れると、また、ジュクジュク血と膿が混じった液が滲みでてくる。テラテラ光る薄皮が張るまで二ヶ月以上かかったのではないか。
腹ペコものがたり
この回想を綴っていると腹ペコのことばかり思い浮かんでくる。勤労動員で川西航空機に来る前もひどかった。米の配給のことや、近所の派出所の巡査の裏話…田舎に買出しに出た腹をすかせた普通の人々が闇米の摘発に遭い、没収されたものを派出所の巡査たちが自分たちで分け合い、たらふく銀シャリを食べていた話は前にも書いたが、その頃の腹ペコの実態は、戦争を知らない世代、殊に、我侭に育った若者には想像できないものだろう。あの悲惨な飢餓一歩手前の体験が風化してしまい、またぞろ歪なナショナリズムに毒された連中が「いつか来た道」を辿りそうな今の世情を憂い、戦争体験を語り継ぐため、全国各地で『戦争展』が開催されて、若い参加者に「スイトン」を食べさせているが、効果はどうだろう。
ホイ、つい熱くなって饒舌が過ぎるが、しかしあの頃の実態はあんな生やさしいものではない。まだ太平洋戦争が始まったばかりのときは、食糧が統制されていたとは言え、まだメリケン粉が手に入り、代用食としてとされていたのは良い方。次第に町の食堂という食堂は、外食券を持っていなくてはロクなものにありつけなくなった。
雑炊でも箸を立ててみて倒れなかったら上等。水気ばかり多くて、入っているものは「重湯」なみの汁に野菜の切れ端が浮いているくらいのもの。京都で一番の繁華街、河原町通り三条を北に上った所にあった朝日会館(その頃は前壁の一面に、東郷清児画伯の原画による洒落た絵が描かれていた。その頃は朝日新聞社の京都支局も二階に有った。その後、朝日新聞社の京都支局は御池通りに移り、元の朝日会館も二度ほどは建替えられたのではないか)の地下の食堂で、一杯の雑炊にありつくために、行列が三条通りから木屋町あたりまで続いていたことを思い出す。そんな光景も珍しくなかった。
川西航空機の食事は、町の人々と比べると、まだマシな方だったろう。雑穀の混ぜ物こそ多かったが、固いご飯だったから。しかし盛り方は悪い。杓文字でアルミ椀にさっとこすりつけたご飯は上が凹み、下は空洞。分量とすれば半分にも満たない軽業師的な盛り付け技術である。
そこで、二つの苦い思い出にぶつかる。
一つは、あまりの腹ペコに耐えかねて、ある日、夜明けにこっそり工場を抜け出した。近くには商店街などないので、遠出となる。やっと辿りついた商店街でも、口に入るようなものを
売っている訳はない。さんざん歩き疲れたあげく、一軒の薬屋さんでビオフェルミンの500錠入りの瓶を買い込んだ。見たところかなりのボリューム。少し薬臭いだけで癖はない。飢えている身には味もまあまあ。一時的には腹のムシを抑え、なだめられそうだった。
工場の塀を乗り越えて寄宿舎に戻り、一口に二十錠ずつ放り込んで何とか飢えをしのいだ。しかし、問題は明くる日を待たず、その夜にやってきた。なにしろ整腸剤を思いっきりたくさん平らげたものだから、腹の調子は上々どころか、前にも増して猛烈な空腹が襲ってきた。まるで七転八倒。空腹の辛さが身に沁みたのか、半世紀を過ぎた今でも、出された食事は猫が跨ぐほど平らげる癖がつき、慢性肥満症に悩みコレステロールと中性脂肪に悩ませられている。
もう一つは、出来れば思い出したくもないことである。空腹に追い詰められて…という言い訳はこの際通用しない。ただの意志薄弱に過ぎないことであるが。寄宿舎は先に述べたように二階建てが三列平行して建てられ、廊下でつながれている。中央の廊下と反対側の奥にトイレがある。十二畳ほどの部屋に六人ずつ詰め込まれている様子は、今でも修学旅行のときの部屋を想像してもらえばいい。片側に押入れがあり、主に布団が収納されている。二段になった押入れの上には天袋があり、各自が私物を置いていた。
もう川西航空機に来てか数ヶ月になり、秋を迎える頃だったと思う。1ヶ月に一度は土曜日から日曜にかけて帰宅させてくれるが、帰宅のたびに家から親が食糧を持たせてくれる生徒がいる。たいした物ではない。煎餅を茶筒にいれてくるくらい。しかし、味はともかく煎餅の香ばしい匂いは、整腸剤のビオフェルミンでも腹の足しにしようかという食い盛りの餓鬼にとっては拷問同様。また、ものが有り余っている現在とは違い、人に分けるほどの分量もない。そこで、食糧持参の生徒は隠れてこっそり食べることになる。
ある日、どうした加減か部屋に私ただ一人っきりと言う状態になったとき、フラフラと横目で食糧の隠し場所を見ていた私は、こっそり同室の友人のボストンバックを開き、着替えなどの下に隠してあった缶を発見。炒り米を夢中で口にしていたのである。いわばコソ泥行為。
二度目くらいに不審に思って引き返してきた友人に見つかり、監督に来ていた担任の先生に報告され、呼ばれて事情を聞かれることになった。しかし、その場でひどく叱責された覚えがないのである。生徒の飢餓状態は先生もとっくに知っていられたので、今から考えると処置に困られたものと思う。 しかし、息子の不始末については、すぐに父親の方に報告がいったらしい。ある日、おやじが面会にやって来た。かって無いことである。昭和初年からNHKに勤め、仕事一途で家庭を顧みることなど無かった父がやってきた。この件に関しては一言も無く、携えてきた袋から、真っ白い味付けパンを取りだして食えという。終戦直前のこの時代のことを知っている人なら、白いパンなど貴重品と言うより奇跡に近いものだったと言うことを理解してくれるだろう。 流石の私も、一言の文句も言わず説教も垂れず、パンを食えという父には参った。パンの上にしたたった涙で、甘く口当たりのいいパンに微かに塩味がしたものである。
反乱事件始末記
自分は額にあせすることもなく、ただ。強圧的に生徒を監督するばかりの教師たち、とくに予備役あがりの配属将校(…という職業軍人の成れの果て)に対する反感が徐々に高まってきていた。今の言葉ではストレスが鬱積してきていたのである。
現代でも、青年期の家庭内暴力、校内暴力が教育上だけでなく社会的な問題になっている
が、配属将校の暴力沙汰はそれどころではない。丸太やサーベルなどで叩きまくっていた。当然、生徒たちの恨みツラミがつのっている。しかも、今まで過ごしてきた学校内とは環境が違っている。恨みに対する報復が起きても何等不思議ではない。
我々が住み込んでいる寮は、かなり大きな建物で構造、間取りについては前述したとおり。玄関から入るとすぐ靴脱ぎ、下駄箱があり真っ直ぐに廊下が奥に伸び、左手すぐに教師、配属将校たちの部屋、右側に二階建て三列の寮となっている。と言うことは非番のときにも生徒たちが抜け出そうにも、先生たちの部屋の前を通らねばならない、いわゆる関所のようなもの。
動員が長期化し、慣れない毎日の労働にうんざりしていた或る夜。誰が言い出したのか、首謀者が誰だか分からないまま、一つのクーデターが進行した。
ある深夜、学生たちの宿舎の廊下のあちこちにバケツがひそかに置かれた。それには水が入っているもの、小便がなみなみと入っているもの。午後10時消。しばらくは森閑と静まっていたいたが、突然、誰かが教員の寝ている部屋の廊下に面した窓を開け、フトンを被って寝ていた教師たちの上に、バケツの水を何杯かブチまけた。と同時に廊下の一番奥の二階でワーッという喚声が上り、バケツが烈しく打ち鳴らされた。寝ぼけマナコの配属将校が、寝巻きのまま音のした方の階段を駆け上がる。宿舎の廊下には真っ暗け。誰かに電源を切られていた。と騒ぎはみごとなほど、ぴたりと静まり、今度は別棟の一階でワーッ。
配属将校と遅れて駆けつけてきた教師が一階に廻り、廊下を進むと、真っ暗闇の廊下に置かれた水や小便の入ったバケツに足を取られてズッテンドウ。再び他のところで上る喚声とバケツの連打。メイン・スイッチが切られているので、思わぬ夜襲に血迷った教師・配属将校はいくら焦っても手も足も出ない。あちらでワーッ、そちらでガンガン。教師たちは二度ね三度と小便入りのバケツを蹴飛ばしたり、足を取られたりして転倒する。
翌朝、起きるや否や動員学徒全員が、玄関の土間に整列させられたことは言うまでもない。寝不足が加重された怒り心頭の教師・配属将校たちが、生徒一人一人に問い詰める…のだが、誰一人として名乗り出てくる者はいない。弁明するものもいない。級長、副級長たちも貝殻のように口を閉ざしていた。結局、連帯責任と言うことで、全員が往復ビンタを喰らってチョン。
『痛かったが、スカーッとしたぜ』と言いたげな晴れ晴れとした顔で頷きあい、それぞれの職場に向かっていった。
この事件はよほどインパクトが強かったのか、京都新聞社が戦時中の前線、銃後のエピソー
ドをまとめた2693回にわたる長期連載記事「防人の詩」の中に登場した同期生たちも、「腹ペコ」とこの事件について触れている。しかし、各自の受け取り方、事件の進行については百人百様なのが面白いので、T君の記事を紹介する。
I君 悪ふざけといえば夜間、寮の中はいろんな悪ふざけがひろがってきた。(中略)こんな悪ふざけは、
その後もやむどころか一層ひどくなってきた。そして、生徒監視の先生の中で特に小言ばかりいう
先生への腹立ちから、一計を案じられた。それは、教師の部屋には大広間が使われていたので、こ
の部屋に人影のないときを狙って、バケツにためておいた小便を流し込んだのだった。いつも小便
のことで小言ばかりしわれている仕返しをした。というわけでもないが、直ちに犯人探しが始めら
れた。だが、誰も口を閉ざしたままであった。このため寮内の全員が、またもや廊下に並ばせられ
長い時間にわたって直立不動むの姿勢をくずすことのできない罰を受けねばならなかった。
今も本当の首謀者は判らずじまい。
掃き溜めに鶴のタカラジェンヌ
川西航空機のある仁川は少女歌劇のある宝塚らはほど近い。軍に接収されて軍需工場となった宝塚大歌劇場に、舞台どころではなくなった宝塚音楽学校の生徒たちや、卒業生のタカラジェンヌたちは、私たちと同じ仁川の中島航空機宝塚工場に駆りだされて来ていた。しかし、ニキビ面のわれわれ中学生と同様に現場で肉体労働に従事するわけではなかった。生産現場ではなくて、管理事務所などで働いていたのであろう。
そういった方面に情報通のものが、同期生たちにもいたらしく、当時、雪組の春日野八千代さんを始め、乙羽信子さん,新珠美千代さんらも仁川の工場にいられたそうである。
宝塚の看板タカラジェンヌでも、工場では華やかな舞台衣装とは違ったが、たまに擦れ違っうことがあっても、背筋をびんと伸ばした姿勢や挙止の雰囲気には華があった。
しかし、どのような仕事についているのか、休憩時間に構内を歩くときでも、片手に本をもって歩きながら眼を通している所など、われわれとは違う世界に生きているんだなあ、と感じるものが有った。
汗とアブラと鉄の粉塵にまみれた腹ペコの悪ガキどもは、
「何をしゃなりしゃなり、しやがって」と反感を抱いてホザく者もいた。
グラマンに追っかけられて
昭和十九年十一月、マリアナ群島を発したB29の一機が東京上空に偵察のため飛来。無敵と豪語していたわが軍の連合艦隊が殆ど壊滅し、制空権を失った軍部が考え出したのが風船爆弾で、同年三月に完成。大きな風船に爆弾を吊るして、ふわりふわり偏西風に乗せて米国本土を空襲しようというのである。今から考えるとマンガでしかない。同じく十一月にはB29に九州大村地区と東京が初空襲を受けた。
明けて昭和二十年には日本中のいたるところが頻繁に空襲されるようになっていた。空を飛んでいるのは全部敵機。噂に聞くとB29がやってくると、日本の数少ない軍用機はいち早く飛び立って逃げるそうな。
こんなことが有った。
京都は(二度ばかり東山の馬町地区…東海道線の東山トンネルに近い、上京区の一部などが爆撃された)幸いにして大掛かりな爆撃には遭っていないが、B29が関西方面に侵入してくるときは、いつも狙われるのは阪神地区。いつも大阪湾に侵入し、爆撃を終えると尾鷲付近から洋上に出て帰って行く。米機のお決まりコースのようだった。ある朝、比叡山の遥か上空を美しい飛行機雲を曳きながらB29の三機編隊が東の方に飛んでいた。その時、B29の飛行機雲に向かって針のように細い飛行機雲が、下の方から接近して行った。あ、日本軍の戦闘機だなと思い、固唾を呑んで眺めていると、細い飛行機雲はB29の機影に達することなく、あっけなく消滅してしまった。日本の新鋭機でも、1万メートルの高々度に到達する能力がなかったようである。
ところで、二十年の一月二十九日を皮切りに、阪神地区にB29が度々飛来するようになった。一月のことだったか、二月に入ってからか。或る日の夜、B29の編隊が大阪に続いて神戸市にも絨毯爆撃を加えた。ラジオは、「敵、B29り編隊が瀬戸内海から阪神地区に侵入しつつあり」と言う管区司令部の情報を流すや否や、寸時もおかず仁川から六甲・摩耶の山並みのむこうの空が真っ赤に照り映え出した。断続的に爆発音が聞こえてくる。数機ずつの編隊が何度も次々と来襲しているようである。そのとき、生まれて初めてモロトフのパン籠を見た。
一筋の光が夜空からスーッと降りてきて,上空500メートルくらいでパッと割れ、七、八条になって落ちるさまは、花火にもまがう美しさ。大きな容器に格納されていたたくさんの小焼夷弾が、あたり一面にばら撒かれ、降り注ぐのである。遠めに見た花火のような美しさと、下の世界の阿鼻叫喚との凄まじい落差。
翌日、ちょうど工場が休みだったので、西宮まで出てみると、市街地は惨憺たる有様。焦
げ崩れたビルの残骸。路上に放置されたままの黒焦げ死体の群れ。まだ、昨夜焼夷弾で焼かれたアスファルト舗装の電車道が熱気でむんむんし、靴底を通して熱さが我慢できないほど。
仁川から海側に川崎航空機の工場があり、飛行艇を製造していた。川崎航空機は一月の空襲で真っ先にやられたようであるが、われわれの働いている仁川の工場は、不思議に目こぼしされていたのか、この時はまだ爆撃を免れていた。(われわれが卒業のため、川西航空機を離れた後に、徹底的に爆撃を蒙ったようだった)
京都府立京都第二中学校44回生の同窓会誌「鳥羽原頭に草萌えて」第1巻の編集を請け負った私は、「それでも青春の日々だった」と言う一文を草して載せた。1988年(昭和63年)の刊行から20年が経過している。
その間、同期生たちの身辺にも少なからぬ変化があり、2008年の現在、ここに採録する場合、20年前以前と異なった新しい記述は「茶色」のフォントと記し、みなさんに併記してご覧に入れ歳月のもつ重たさを感じ取って頂きたいと思う。黒いフォントで記されている部分は20年前のものである。
▽同窓会名簿を見て△
私の前に四四回同窓会の幹事をやってくれた小林敏明君は経営経理のコンサルタントだけあって、実にこまめ、几帳面な事務処理をしてくれていたが、昭和五十九年九月九日現在の同窓会名簿も作ってくれた。昭和五十九年秋、河原町三条上る京都ロイヤル・ホテルの地下にある「アゼ・ル・リド」での同窓会が終わって、家に帰ってから懐かしさ]杯で、名簿のぺージを繰ってみた。われわれ四四回生は、昭和十五年四月に入学(私は徳島中学校から翌十六年四月に二学年に編入されたので、生え抜きではない)、終戦の年、昭和二十年三月卒業。このとき、一年下の四五回生も一年繰り上げて四学年終了で卒業となり、同時に卒業式が行われた。
【昭和61年〔1986年〕現在】 【平成20年〔2008年〕現在】
四四回生の総数は259名。うち、
物故会員 33名 物故会員 104名
連絡のある会員140名 連絡のある会員 90名
消息不明会員 68名 消息不明会員 66名
(昭和六十一年末現在、二年前から比べると、転居先不明などで消息不明が七名も増えている)連絡のある会員とは住所が判明していて、同窓会の通知が届き、返信もくる者。この消息不明とは、卒業後生活の本拠を他府県に移して、双方(同窓会の幹事と本人側)とも連絡の方法が分からない者で、決して新聞種になるような「消息不明」ではなかろうが、なかには、きっと物故された方も相当数いると思われる。そろそろ満年齢で六十歳の大台(?)に乗る年頃。お互いに体に気をつけなければならない年なのだ。昨年(昭和六十一年)の同窓会を開くについて、案内状に同封した出欠の返信の来ない何人かに電話をかけたところ、仕事からリタイアして、病身を養っている級友もいたし、定年後の生活設計がうまくいっていないらしい人もいた。
■1975年と2008年の同期生の現在数は上記の通り、連絡のあるか言いか数は 50名減少し、物故会員は71名増加している。
昭和一桁もアタマのほうのわれわれ、かんじんの青春時代を慢性飢餓状態で過ごし、青春の日々を戦争のただ中に埋もれさせ、戦後は混乱と物資不足のなかで日本経済の復興のため、寝食を忘れて馬車馬のように働き、かけずり回って今日に至っている。十年ほど前からか、週刊誌が「大正末期・昭和一桁」とひとまとめにして、その年代の心臓・血管系のひ弱さを特集していた。たえず「俺だけは、大丈夫」と呪文のように唱えながらも、心中穏や
かでなかったのは私だけだろうか。
もう少し書かせてもらう。
この同窓会名簿の中には、卒業までに転校したり、三年生のときに少年飛行兵に志願して紅顔のまま戦死してしまった者は含まれていないのではないか。少年飛行兵としてクラス第一号の戦死者となったクラスメイトの名前がどうしても浮かんでこない。とすると、そうした者たちまで含めたわれわれの年代の死亡率はかなり高いだろう。最新版を手にしていないので、資料はかなり古くなるが、全校の卒業生名簿では、われわれよりも大正末期生れの二、三年上級の卒業生の戦死者が桁違いに多いのが目につく。各卒業年次ごとに卒業生の氏名・住所の欄の前に物故者の名前が黒枠で囲んで記載されているが、年次をさかのぼるにつれ、黒枠の幅が大きくなるのは当然としても、大正二桁のみが突出して大きいのは、戦争のキズあととして胸が痛む。更に、同窓会といえば、南区大宮通八条で歯科医院を開業している東勇君のことも、ここで記して日ごろの世話役の御苦労も感謝しておきたい。東君は四四回生の同窓会のための連絡の中心であるばかりでなく、全学の同窓会の役員もしてくれていて、積極的に動いてくれている。
ただ、全学の同窓会にタマに顔を出してみると、先輩たちの中心人物もだんだん老齢化し、世話役として動いているのは、四四回生以降の若手(?)たち。集まっているのは喜寿を越えていそうな人々の年一回の息抜きサロン的な集会となっている。そんなことで四四回生たちの顔を見ることは少ない。ますます東君の肩にかかる負担は重くなる一方だろう。同窓会名簿を見ていて、もう]つ感じることがある。職業の変化である。いかに世間の風潮として、定年年齢が伸びても、還暦イコール定年は常識、まだまだ六十歳未満の定年も多く、第二の人生設計をするため定年以前に転身する人もあり、古い卒業生名簿と五十九年度の同窓会名簿とを比べてみると、職業欄の変化が 目にく。総合商社、新聞社などの肩がきが、かわった勤め先になっている。
さて、同窓会名簿のページを繰りながらの感想はこれまでにして、同窓生たちを思い出してみよう。
▽仲間たち△
大森忠行君私にとって青春そのものだった時間をつくれたのは、大森君と尾形君という二人との交友だった。二人とも、というよりは私も含めての三人は、学校当局の眼から見れば必ずしも模範生ではなかった、というより問題児のほうだったろう。大森君、尾形君まで巻き込んでは気の毒だが、ガリ勉の優等生とは対極的な位置にあったに違いない。勉強よりも他に意義を感じ、他に生きがいを模索していた、といったらグウタラの言い訳めいてくる気もするが。しかし、忘れ難い出来事の二つで、他の級友たちとは違った特別の思いのある二人なのだ。そのことを先に書きたい。何度も繰り返すようだが、私たちの中学時代は無謀な太平洋戦争に突入するのと同時に始まり、学校生活ばかりか、すべてが戦争態勢のために縛られ、敗色が濃くなってゆくのと比例して、軍当局、二中では配属将校という虎の威を借りた狐がのさばる状態で、四年、五年と上級学校への進学が難しくなってきていた。まず、文科系の大学生に早々と徴兵猶予が取り消されて、学徒出陣がニュース映画の画面を賑わすこととなり、高校・専門学校入試が目睡の問に迫るころは、理科系の徴兵猶予さえ取り消されてしまった。
日本にいては勉強できない、というのは格好をつけた言い訳で、私は軍人・上官が絶対権力を持って一つしかない生命を平気で死地にほうり込む軍隊に招集されるのはかなわん、と、スタコラ満洲を目指したのである。
卒業直前に、満州電業の試験を受けたらあっさり通ったので、終戦の年、昭和二十年五月十五日、「葵祭り」の日に京都駅から旅立った。日本が謀略をつかって手に入れた生命線「満洲」の特殊会社だったから、なんとか切符も手に入ったのである。その時、京都駅の六番ホームから、まず渡満の新入社員の集結地、門司を目指した。その頃、鉄道は軍事優先で、軍事機密保持を口実として、見送りの人々は一切ホームに入れなかった。今もある京都駅西口からの陸橋(跨線橋)の階段をホームまで降りたところに縄を張り、一般の見送り客はシャット・アウトしていた。もう、汽車に乗り込もうというときになって、仕切りの縄を飛び越えてきた二人の影が見えた。大森忠行君と尾形力君である。駅員の制止を振り切るようにして駆け付けてくれた。友人二人に見送られて私は西を目指し、門司に一泊のすえ、対馬海峡を渡ったのである。(渡満後、新京について満州電業の養成所で速成の訓練を受け、新京発電所に配属された途端に最後の徴兵に引っ掛かり、以来、八年間日本に帰ることもできなかった事情は別の機会にまとめてみたい。)
八年間の月日を異郷の地に過ごし、私は昭和二十八年に再開された「引き上げ」の第二陣として中国・天津の外港「塘沽」から「高砂丸」に乗って一日半の穏やかな玄海灘航海のすえ、広漠とした平,野ばかり見慣れた目には、チマチマとして箱庭のような感じに眼にうつる舞鶴港に入港、故国の土を踏んだ。引揚者収容所での手続きを終えて、列車に乗り、八年前出発した京都駅に着いた。
その時、大勢の出迎えの人々の波を掻き分けて、私の眼前に現れたのが、あの懐かしい大森君と尾形君ではないか。知らせてもいなかったが、新聞紙上の引き揚げの記事から私の名前を捜しだし、飛んで来てくれたのだ。私の胸にジンと涌いてきた熱いもの。本当の友情。貴重な、大
事なもの。言葉には尽くせない感激であった。
大森忠行君
その一人である大森君について、一番に触れざるを得ない。前に、同人誌のこと、音楽のことと二度大森君の名前が登場する通り、私の友人の中でも、飛び抜けて影響の大きかった友である。あのような気違いじみた戦時色の中にあって、心にロマンを一杯ふくらませ、まばゆいまでの「夢」を持つ大森君は、私の精神を今のように方向.、つけたうえで決定的な力があった。学校での校友よりは、河原町通を五条から少しあがった西側に、大森君の兄さんの店があった。鳥の羽根を使った手ぼうきを商っていた。大森君の部屋は三階にあって、私、尾形君、宮嶋君などが集まり、文学を論じ……というより、魅力的な大森君の話に聞きほれていたというのが実状。私達グループの楽しい梁山泊だった。同人雑誌の企画も編集も、自分たちの夢の語らいも、文学論議も、ときにはレコード鑑賞もここで行われていたのである。病気のため留年し、]つ年上だった大森君は、頼り甲斐のある兄貴のようであったし、夢の多いロマンチストだったが、ただの青白い夢想家ではなく、夢に向かって躊躇なく身を投じられる行動派でもあった。中学校を]年間休学し、そのあいだ上海航路に水夫として乗り込んだり、四年生のときは満洲に飛び出し、ハルビンから異国情緒満点の詩や、ハルビン市街のようすを書き綴って送ってくれたりした。
「かささぎは
一声啼きて飛び立ちたれど
草原は霜枯れに白し…」
という詩は今でも忘れられない。私が前に記したように府立二中を卒業すると同時に満洲に渡ったのも、兵役忌避の気持ちと同時に、大森君の描いてくれた異国情緒にあふれた北満の風景が頭にあったからだ。しかし、肝腎の大森君は私の渡満する以前に満洲から帰ってきていて、予科練に志願。七ツの金ボタンの制服を身にまとって航空隊に行ってしまっていた。私は大森君のいない満洲、彼の姿のないエキゾチック・ハルビンを目指す羽目になった。事実、終戦直前の満洲電業で新京発電所に配属されて間もなく、人事の係に「ハルビン」に転勤させて欲しい、などと頼みこみに行ったほどの大森君への傾倒ぶりだったのである。その時は一笑に付されただけだったが、終戦後の混乱の中でひょんなことからハルビンの地を踏むことになった。国共内戦(蒋介石の国民党軍と毛沢東の中国人民解放軍との内戦)に巻き込まれて、東北人民解放軍の前線病院に徴用された日に、住んでいた新京に優勢な国民党軍が攻め入り、否応なく病院関係者とともにせきたてら れ、貨車に積み込まれて慌ただしく北を目指した。有蓋貨車も二、三両あったが、おおかたは無蓋の吹きっさらし。三十六計、尻に帆をあげて逃げるときなので、見ると複線のどちらも一方通行のように北を向いて、競うように走っている。着いたところがハルビン。どんなに慌ただしかろうが、自分の大切な荷物一切を新京のアパートの三階にある自分の部屋に置き去りにしてこようと、そんなことはいささかも念頭になかった。ただ、一途にあこがれていたハルビンの街が眼の前にあった。駅前の広場から欧風の匂いのする街並がひろがり、玉葱のようなドームをのっけたロシア 正教の寺院。広場からゆるやかな傾斜で石畳の大通りが下がってゆく眺め。戦時の移動のあいだのつかの間の滞在だったが、暇を惜しんでスンガリー(松花江)の畔に件み、キタイスカヤの通りを歩いた。それほど大森君に傾倒していたのだ。大森君はまた在学中から語学の天才だった(と私の目に映っていた)。ジッス・イズ・・ア・ペン式の英語でもなかなかついて行けない私にとっては、らくらく英語をこなした上で、ドイツ語まで喋っていた彼は、まるで違った人種のようにさえ思えたものだ。満洲から帰ってくるとロシア語まで披露してくれる始末。その大森君は、学生のころの詩人の魂を失うことなく立派に育て上げ、詩人として活躍する一方、美学の講師として多摩美大に勤めたり、編集者としてゴルフ雑誌の編集長をしたり、友人のイラストレーター河原淳氏と組んでイラストの本を出したり、八面六辟目の活躍ぶり。雑文ばかり書いている私に、大森君はよく「いい加減、雑文書きは止めて、まとまったものを書けよ。」と忠告してくれていた。だが、まだ果たしていない。惜しいことに、大森君は夏の日に房総の海岸で心臓発作を起こし、水死してしまった。あれからもう五年の歳月が流れている。
尾形 力〔周平〕君
尾形力君の宅は京都市電(市民の残してくれという願いも空しく撤去されて十年以上になる)「泉涌寺道」で下車、泉涌寺のほうに向かい、二筋目を南に下がった突き当たりの石段を上がったところに尾形君の家があった。江戸時代からの陶工で、尾形乾山の縁戚の末商だと聞いたことがある。いかにも陶工らしい寡黙なお父さんが亡くなって、彼が代々受け継いできた「周平」を名乗っている。大森君のときにも述べたように、彼も→番の親友の→人。
むしろ遊び友達としては大森君より一緒に行動していた時間が長いのではないか。
尾形君の家の門を入った狭い前庭には、いつ行っても窯にいれる陶製の「はかま」が積み上げられており、前庭の右手に沓脱ぎの石、表の四畳半には木の棚があり陶器の作品が並べられ、まだ包装されていない桐箱入りの商品が積みあげられてあったりした。表の問に続いて右側に二階に上がる階段、左手は茶の間に続していた。ここは家族が食事をしたり、くつろいだりする所。ここで、おいしい鯛茶を御馳走になったことも青春の日の忘れ難い一駒。
尾形君の部屋は二階にあり、訪問したとき茶の間のご両親にちょっと挨拶してから、すぐ二階に上がったものだ。尾形君のお父さんは、一見職人肌の無口な人、お母さんは小柄な、古風な感じの痩せぎすなかた。妹さんが一人いて、茶の湯、書道をやっていられた。私が八年間、満洲を放浪し、大森君、尾形君の暖かい出迎えを受けて帰国したあと、久し振りに尾形君の家を訪問したとき、両親ともめっきり老け込んでいられたが、学校時代からの友人の私の帰国を、心から喜んでもらえた。(もうご両親とも亡くなられている。)尾形君の学生時代は私と同様、あまりガリ勉のほうではなかったと(勝手に)思っている。むしろ、他人の眼から公平に見ると、どっちもどっちの遊び熱心の悪友同志だったのではないか。よく二人で河原町三条を一筋下がった所にあったアイス・スケート場に入り浸っていたものだ。登校日数とスケート場に通った日数とでは、どちらが多かったか分からない。私はフィギュアの靴を履き、尾形君は丈の高いホッケーの靴が好みだったと記憶している。当時、戦時下とあって町中の映画館でも父兄同伴でもご法度。まして中学生の分際で喫茶店やスケート場に出入りすることはもってのほかだった。学校補導連盟の腕章をつけた教師が盛り場を目を光らせて巡回している。最初のスケート場での危険な遭遇は、尾形君といい気分で滑っているとき、リンクの入り口に補導員の姿が見えた途端、二人してスケート靴を履いたまま、左奥の通路から一目散に細い道路を東のほうに逃げ出した。木屋町通に面したスケート場の裏側は映画館になっていたのだ。無事、横手の従業員用入口から客席に潜り込み、頭を低く息をひそめて何とか難を逃れたが、二度目には尾形君ともども捕まってしまった。
「学校はどこだ。父兄の名前は?ここに住所を書きなさい。」
とやられて、さすが青菜に塩。初犯ということで学校、父兄への通報だけは免れたものの、まったく肝を冷やす思いだった。(しかし、懲りずにまたせっせとかよっていたものである)。
校外での生活は、尾形君と二人、または大森君などを加えて三、四人で行動することが多かった。スケート場では尾形君と二人つれだったが、他の級友が加わると、河原町三条界隈の喫茶店が根城となる。スケート場の→筋南を東に入ったところに在った「夜の窓」その向かいの「シャンクレール」などが懐かしい。「夜の窓」は船の操舵輪が入り口正面に飾ってあり、灰暗い店はロマンチックな情緒を掻き立てる雰囲気だったし、「シャンクレール」はまた一味違った酒落た気分にさせてくれた。「夜の窓」は私が帰国したころは同じ所で再開していたが、建物も雰囲気もがらっと変わり、もはや、青春の残影を求めるすべもない。「シャンクレール」も場所を河原町荒神口の角に変えて、雰囲気のまったく違ったジャズ喫茶になっている。最近の尾形君の風貌も(頭髪が真っ白になった以外は)学生時代と少しも変わっていない。私は昭和二十八年大森君と尾形君に出迎えられて帰国した年まで、今、私の周辺にいる人々が信じられないくらいスマートだったが、戦時中の慢性飢餓、戦後の中国解放軍での厳しい労働で太る間がなかったからである。しかし、その反動で帰国後は肉体労働もせず、あさましく腹]杯に食べまくったので、腹は中年太りにせり出してくるは、頭のてっぺんはどうしようもなく薄くなってくるわで、見られたザマではない。
しかし尾形君は頭の白さ(髪はふさふさしている)を除けば、頬のこけた逆三角形の顔、痩せぎすながら筋肉質な体と変わらない。一見、強靱そうだが学生時代から何度も入院・手術をしているという。私も五十歳代の始めにムチャが崇って胃潰瘍を悪化させて幽門閉塞を起こし、右京区の太秦病院で切腹する破目になったので、ここ数年、毎年一回七月中旬に尾形君夫妻と仲良く京都第一日赤病院で「人間ドック」を受けている。
尾形君は終戦後、美校(現・京都市立芸術大学)に入り、七年間かかって卒業。といっても彼の名誉のために言っておくが、彼 が怠けて、あるいは成績が悪くて七年間かかったのではない。学校に在籍していたほうが何かにつけて便利なのだ。国立京都博物館、京都市美術館にタダで入れるし、教授に自作を見せてアドバイスを受けることが出来る。というわけで、わざと単位不足で卒業しなかったらしい。(らしいとは無責任ないいかただが、確か、本人の口から聞いた覚えがある。)美大は工芸のほうだとばかり思っていたら、日本画科だという。陶芸は造形と絵付けの総合芸術で、造形のほうは達人の父親から習うことが出来る。それで絵付けのために日本画科を選んだのだろう。或る日、彼の部屋にあがると、朱色で下塗りした上に、線描きした制作途中の裸婦像が置いてあった。それきり、その裸婦像が完成したものも見ていないし、他の日本画の作品も見たことがない。(一度、見せてもらいたいと思いながら、三十年近くたってしまった。)
尾形君の作る陶器は「茶陶」と呼ばれるもので、仁清写し、乾山写しなど華やかなものから、渋い井戸、志野、織部などまでバラエティに富んでいる。こちらは専門家でも、評論家でもないので、作品の善し悪しについて、本当のところ分からないし、論評できる立場にないが、立派な陶工であるし、勉強家、努力家であることは間違いない。蒋介石が大陸から逃げ出したとき、北京の故宮からこっそり持ち出した雁大な数の中国古来の美術品を見に、たびたび台北に行き、滞在期間中は、故宮博物館に朝、開館と同時に入場し、閉館で追い出されるまでねばって、展示品を見て廻る熱心さなのである。
尾形君の初めての個展は、私が中国から昭和二十八年に引き揚けてきた間もなくの頃だったと思う。その後、先代からの得意先からの注文(料理屋が使用する器)は別として、陶芸作品の発表は、すべて個展で行っている。東京日本橋の三越百貨店、銀座の松屋百貨店、白木屋百貨店、大阪の阪急百貨店、京都では石段下の祇園ホテル(茶道具専門のギャラリーがある。しかし、何か気に入らないことがあったか、二、三度開いただけで止めてしまった)などのどこかで、毎年個展を行っている。一昨々年は南禅寺の野村美術館での彼の作品展を見に行った。
一度、尾形君に、
「君はなぜ日展工芸に作品を出さないんだ。」
と聞いたことがある。尾形君が私に公募展に出品しない理由を次のように説明してくれた。つまり、公募展は日展に限らず、どこでも審査が作品本位にだけ、公平には行われていない。流派や所属団体の力量の差、師弟関係、流派団体の問の見にくい人選、入賞などの取り引き、情実がからんだりする。実力が公平に認められない世界はイヤだ、というのだ。現在、尾形君と私は年一回、一緒に第一日赤健診センターでおしきせの白衣を着せられて、センターで過ごす半日以外、出会うことはあまりない。センターでも、とりとめもない話しばかりしている。それでいて、一番の親友だと実感しているのだ。こんな仲が、まだまだ続きそうである。(暇さえあれば、なるべく彼の個展をのぞきに行くし、彼も私の写真個展を見にきてくれる。)
宮嶋 八蔵君
宮嶋八蔵君は京都二中を卒業したあと、といっても私が中国の残留生活から帰国してのちのことだが、一番頻繁に出会っている同級生が彼である。というのも、昭和六十二年七月まで、私が勤めていた京都芸術家国民健康保険組合の事務所(府庁前)がごく彼の家に近いから。彼が大映の助監督のときから、暇があるときはふらりと現れ、しばらくタベッて行くのが習わしのようになっていた。しばらく姿が見えないと、組合の女子職員まで、「どうしたんでしょうね。」と話題にするほどなのである。彼は府立二中時代から、ドラマ的な表現が得意で、手の指をいろいろに曲げては、人の感情を表現してみせたり、ドラマ仕立ての指パントマイム(そんな言葉あったかな)を披露していた。のち、大映に入り溝口健二監督についていたが、不幸なことに溝口監督が早く亡くなってしまったので、彼の描いていた人生の構図が狂ってしまったようだ。と同時に、これから自分の映画制作をめざそうというときになって、テレビの普及が、あれほど長く娯楽の王座を占めていた映画を駆遂する結果となり、ドラマ制作が極端に落ち、出番がなくなってきていた。
昭和四十三年、京都府開庁百年記念行事の一つとして、蜷川虎三京都府知事が中村錦之助(現・萬屋錦之助)が主催する日本映画復興協会が持ち込んだ映画「祇園祭」の制作企画を取り上げ、「日本映画の復興は京都から」を合言葉に、府も各界の有志を集めて「制作・上映実行委員会」を組織してバックアップすることになった。私も実行委員会の常任理事としてかかわることになったが、宮嶋君も傾きかけた大映を飛び出して、「祇園祭」の助監督につくことになった(と後で知った)。この映画制作については、いい加減なプロデューサーに振り回されたりしたが、ここでは割愛する。問題は、制作が終わったあとのこと。彼は神戸市や大阪市に事務所がある広告宣伝・イベントの企画会社に在籍したり、地方自治体や団体、会社のPR映画を作ったりしていたが、この分野は電通などの巨大企業が独占する業界で、希望するものが廻ってこず、脾肉の歎をかこっていたようである。途中、宣伝の仕事をさせてもらえるつもりで菓子屋に勤めたこともあったが、一度、映画の水を飲んだ者は、他の分野の仕事にはなじみにくいようだ。ドキュメンタリーの仕事がたまにあるくらいでは食べて行けない。
宮嶋君は、かって大森君や尾形君などと同じ仲間だったが、大森君と同様、規則づくめのうえに、配属将校ののさばる学校生活にシックリ来ず、ある事件をきっかけに二中を飛び出す格好で、予科練に入ってしまった。予科練での彼がどう過ごしたのか、あまり知らないが、七つボタンの制服姿は、眉の濃い、眼の鋭い二枚目の彼にぴったりだったことを覚えている。
宅間英夫君
彼との二中在学当時のつき合いは、「友達の友達は皆友達だ」という関係の付き合いで、前述の宮嶋君とは付き合いが深かったようだ。しかし、私が昭和二十八年に中国から帰国してから私事でも勤めでもいろいろあって、「京都芸術家国民健康保険組合」に落ち着いてから何年かして、或る日、宮嶋君が彼を引っ張ってきて再会した。八木町に住み、下京区に宅間紙工という会社を経営する社長さんになっていたが、見たところ在学
当時の彼とちっとも変わっていない。宮嶋君が見せてくれた三年生じぶんの写真に、宅間君を始め、私も写っているし、大森、尾形、宮嶋、山田の諸君も顔を並べている。その宅間君は右肩をいからせている姿が、いかにも彼らしい。さて、再会したときの彼の姿が全然「社長さん」のイメージに合わず、どこかの職工さん。そのザックバランな気取りのない構えで、随分、交友範囲をひろげたのだろう。地元の革新的な運動にもかかわり、参加してきたと聞いた。のち、同級生の松井直君のやっている児童図書出版の福音館書店の京都における販売代理店をやるようになっていた。初めて、私の職場にやってきてから、子持ちの女子職員を相手に出版物の売り込みをやり、彼の部下がちょくちょく姿を見せるようになった。
だが、彼自身、四、五回現れただけで、忙しいのかしばらく無音となり、次に「からだを悪くしているらしい。」という消息を聞いて間もなく、彼の計報が届いた。昭和五十四年四月二十六日ガンが彼の命を奪い、葬儀が船井郡八木町の自宅で行われた。大森忠行、田邊貞雄君たちが東京から駆けつけ、宮嶋八蔵、尾形周平、小島洋一、佐々木三郎君たちも顔を揃えた。余談だが、五十歳の大台に乗った途端、胃潰瘍で胃を切除した私は、それから妙に新聞の死亡記事欄が気にかかるようになり、同世代の死亡記事を発見しては、死亡年齢、亡原因に目を走らせている。宅間君の逝去は、ポッカリ心に大穴をあけたようだ。
▽同級生たち△
始めにもいったように、私のアダ名は「徳中」。転校生だった。しかし、特に歓迎された記憶も無いかわりに、特にいじめられたり、仲間はずれにされた記憶も無い。二年に編入して、三年生から卒業までほとんど同じ級友とともに進級したので、五組あった他のクラスについては、あまりなじみがない。クラスでは青山哲爾君が勉強の良くできるトップ・クラスで目立っていた。色じろで眼のすずやかに大きな小島昭三君も温和な人柄で成績も優秀。たしか、烏丸三条の停留所で電車を降り、西のほうに帰って行ったと覚えている。繊維関係の家だったようだ(ウロ覚えだが)。品の良い童顔で、いつもニコニコしていた印象しか残っていないので、彼が法政大学教授になっていたことは、学校時分の成績からして当然だが、いつの間にか、髭面の詩人に変身しているとは意外の感がした。予想外のことである。学校時代は勉強一途で、詩や小説など関係ない、という顔をしていたように思う。私が中国から八年ぶりに帰ってみると、彼は詩人としても名を揚げ、「春の犠牲」という二中時代の学生生活のことを小説にしていた。(宮嶋君が持っていて、貸してもらった。宮嶋君が「君が主人公だぜ」という。;覗してみると、徳島菊夫という名前も、情況の設定も、細部はフィクションで描かれているものの、私をモデルにしたのに間違いないと感じられる。「春の犠牲]は二中が舞台になっているので、この同窓生の記録の巻末に一部再録させてもらった。)
あの戦時色に塗り込められた時代に、リベラルなある教師(学校をいびり出された格好で、私立の女学校に去って行った)との交友関係など心当たりが有り過ぎるのである。
「春の犠牲」
(木島始・著一九六三年⊥ハ月一〇日第一刷刊行、発行所・
株式会社未来社、定価三五〇円、ハード・カバー函入り、二三九頁)
その他、卒業後で医者になった名和祐郎君。彼ほど不思議な同級生を見たことはない。背の高い優男で、しかも、肩掛けカバンの紐を長くし、制帽の芯の針金を抜いて、まるで外見は軟派。おまけに家が祇園の八坂神社の南にあったので、色めいた雰囲気の中で育った(マルデ独断だが)彼に、艶聞の噂も聞いたことがある。また、夜に友人から呼び出されると、気軽に応じていたとも聞いた。それでいて、勉強が出来るのだから、私にとっては理解の外だ。後、大和大路四条を下がったところに産婦人科の医院を開業し、大きくして病院をつくり、京都府保険医協会の理事として、杜会保険医療の改善に取り組み、これからという時に、彼もガンで倒れている。昭和四十年前後、ボウリングが盛んに行われていた時代、彼もボウリングに凝っていて(私も凝っていた)、ボウリング場で顔を合わせることもあったが、もう居ない。
中学校の近くに住んでいた河合俊治君、今は家業を継いで丸太町智恵光院でオカキを製造販売している西村泰輔君、行方は同窓会名簿でも分からないが、二中時代、下鴨の我が家の近所にいた井上君(名前のほうは忘れてしまっている。明治維新のときの井上聞多から、聞多をひっくりかえして「タブン」というアダ名だったと記憶している)など、おとなしい連中と、親しかったものである。(といっても、私がおとなしい良い学生だったと強弁するわけではない)
顔を見て、初めて想いだす同級生も多かった。私が、帰国後、一時期京都府医師会、ついで京都府保険医協会に勤めていたころ、医師会に同級生の顔をみつけた。藤田盛治君だ。彼は確か三高から京大へという秀才コースをたどった級友だと記憶している。学校時代からごくおとなしい生徒の→人だったが、軽く吃る癖があった。医師会に入ってからも、吃音癖がコンプレックスになっていたのだろう、とかく、酒に溺れる生活が続いていたようだ。同期の採用者がどんどん役付きになってゆくのに、彼は課長どまり。コンプレックスから逃避するためのアルコール依存が昂じて体を壊し、とうとう昭和五十八年十月十八日に他界してしまった。
和田祐一君も付き合いは深くないが、おとなしい優等生の一人として覚えている。彼は大学で比較言語学をやっていたと記憶しているが、一度、満洲がえりの私に、中国の方言(北京官話、東北地方、山東方言、四川地方の方言、江蘇省近辺の言葉、広東方言、雲南方言など)について聞かれたことがある。私は中国に滞在していた頃は、終戦後の国共内戦のさなかで、私の属していた部隊(病院)に中国各地から転戦してきた人々が入り交じっており、長いあいだの慣れで、どうにか中国各地の方言を聞き分け出来るようになっていたからである。また、ロシア語もかじっていたので、ロシア、ウクライナなどの言葉と、他のスラブ語属との違いについても聞かれたりした。その和田君も同窓会名簿では、「物故会員」の中に入ってしまっている。
漆葉龍彦君は、在学当時からオルガンの名手で、教会のオルガニストだったと覚えている。昨年(昭和六十一年)の同窓会で、実に四十一年ぶりの対面を果たしたが、変わっていないように思えた。現在は京都市立社会教育会館にいるとのこと。
松岡美男君は、NHK大阪中央放送局の放送劇団に在籍している。名前の音はそのままで、字を与志雄と変えている。在学中は、演劇に興味を持っているというそぶりも見せなかったのに、それぞれの人生の辿りかたは面白いもの。二年に一回ぐらいはNHKのドラマで、(アタマさえ見なければ)昔そっくりの顔を見ることが出来る。生活感を出す、うまいバイプレイヤーだと感心している。
佐々木三郎君。忘れもしない。私が昭和二十年五月に満洲電業に入社して渡満したとき、彼と岡本君と同行三人だったのだ。岡本君(名前をどうしても思い出せない。四四回同窓会の名簿では、岡本和彦君と岡本国夫君という二人の名前があり、どちらも住所欄が空白となっている)は、終戦間際に私より三、四日前にねこそぎの臨時招集の赤紙をもらって入隊し、熱河省承徳街へ行ったことまでは分かっている。そこから沖縄に移送される途中の船で、撃沈されたという噂を聞いたが、真相はどんなものか。空白の欄が気にかかるのである。佐々木君は私が岡本君から三、四日遅れで赤紙で引っ張られるまで、招集は来なかったようだ。私が八月十一日に入隊し、満洲国主席の官邸の前の庭で仮泊し、翌々日は新京西郊の緑園というところにある陸軍官舎で終戦の詔勅をラジオで聞いた。大荒れの職業軍人が日本刀を振りまわす、とばっちりを避けていたその夜、ソビエトの大型戦車がゴウゴウと地響きを立てて何台も通り過ぎた。「このまま、ここにいたら捕虜としてシベリア送りだぞLという危倶から脱走を企てたが、その夜は豪雨。十七日になって、幸い自主的に武装解除し、脱走するまでもなく帰らされたが、新京市の南郊、大同広場近くの電業宿舎に帰って見ると部屋は藻抜けのカラ。同室の佐々木君の姿がない。粗末な机の上に置き手紙があった。「高橋君、私はなんとかして日本に帰る。(軍隊に入ってしまった)君は、もう帰ってこないと思うので、君の荷物を貰ってゆく…」という意味の伝言が書かれていた。帰ってこない者に伝言もあるものか、と猛烈に腹が立ったが、どうしようもない。《無事、帰国できたら思いっきりぶん殴ってやりたい》と憤慨したが、八年経って帰国。更に二十何年かたって同窓会で久し振りに顔を合わせたが、怒りを三十年も持続できるわけがない。ニコニコして懐かしそうに対面してしまった。彼は、終戦直後の引揚げに間にあったのだろう。私がウダツが上がらないままなのに、彼は総合商社「蝶理」のエライサンになっていた。
『同窓会グラフィティ』
京都府立京都第二中学校と、戦後の学制改革でいったん廃校となり。のちに「二中」の後継校として同じ場所に設立された「府立鳥羽高校」と合同の京二中・鳥羽高校同窓会が毎年六月三日前後に開かれていた。
私の二中生活の最後が川西航空機への勤労動員だったので、その記述で終わりにする筈だった。しかし、蛇足となるだろうが、満洲を八年間彷径し、昭和二十八年三月再開された第二次の帰国船「高砂丸」で天津の外港塘沽から箱庭のような舞鶴港に帰って
きた私は、出遅れた分だけ過去のことなど思い出す暇もなく働きづめで、いつしか四十年という歳月が流れ去っていた。ようやく気持ちにゆとりが出来てきた五十年代になって、何度か全校の同窓会に顔を出すようになった。あの頃の友人たちと巡り逢えるだろうと楽しみにしていたのに、集まってくるのは大先輩ばかり。大正、昭和初期に卒業という、現役から離れて十年、二十年という大先輩にはあまりなじみがない。四四回生といえば、同窓会の世話を熱心にやいてくれる歯科医師の東勇君、同じ歯科医師の安藤美明君、仏教大学教授の上田千秋君、設計建築事務所をやっている井藤照君などをよく見掛けるが、他は顔がかなり入れ代わる。多いときで六人くらいか。それで次の十一月三日の同窓会はついサボッてしまうことになる。
京都府立京都第二中学校創立85周年記念同窓会
タワー・ホテルで開催された通常の全体の同窓会は、昭和一桁生まれの参加者が、「まるで老人会やなあ」と嘆くほどのものだったが、昭和五十九年十一月十一日の日曜日に行われた同窓会は、京都府立京都第二中学校創立八五周年記念並びに鳥羽高校の開校記念式典が合わせ行われたので、いつもになく盛会だった、という以上に熱気に溢れていた。京都府立第二中学校は、戦後の学制改革のとき、他のナンバi・スクールがそれぞれ新制の高等学校に衣替えしたのに、どういう訳か二中だけが取り残されて新制の京都市立洛南中学校になってしまった。名称は同じ中学校でも中身は大違いで、栄光の歴史を遺す道が途切れ、二中同窓生は根城となる母校を喪失してしまったのである。
ところが、卒業生たちの母校復興にかける熱意の結果、昭和五十九年四月から、この市立洛南中学校が府立高校として生まれ変わり、名称も《鳥羽高校》と決まった。輝かしい《京都二中》という名称の復活までは成らなかったものの、『鳥羽』という名称は京都二中と切っても切れない因縁を卒業生たちは感じている。二中の校歌、応援歌に『鳥羽』が欠かせないのだ。「鳥羽の健児の節かたく…」と歌い継いできた思いがこもっているのである。新設の鳥羽高校には京二中のコーナーが図書室の一隅に設けられ、京二中関係の資料、卒業生たちの著書などが集められることになった。
午前十一時から、鳥羽高校講堂(旧二中講堂)で記念式典が行われ、校長の挨拶にも二中の伝統がここに受け継がれることが述べられた。式典の前には、校舎と二中の資料が収集・保存される図書室などを見学して廻った。もう、われわれの時代の卒業記念写真を始め、旧二中の校旗、卒業生の著書などが相当数集められていた。校舎のたたずまいは、ほとんど昔のまま。南北に二つの校舎が平行し、その間の中庭に停んで東の方角を向くと、今にも突き当たりの武器庫からカーキ色の制服に身を包み、ゲートルを巻いたニキビ面が、背嚢を背負い、帯剣を吊り、三八銃を担いで駆け足で飛び出してきそうな幻覚を生じるほどである。ただ、校舎の窓枠が木製から今様のアルミ・サッシに変わっていた。午後二時から会場を京都タワi・ホテル九階に移し、ワン・フロァーを借り切って祝賀同窓会が開かれたのである。
いささか、日本人の平均寿命に近い先輩たちの姿が多い。若くても五十の坂をだいぶ登りきった面々である。しかし、母校復活の喜びにあふれて大いに若返り、全員で校歌を高唱し、グループで壇上に上がり、応援歌に声を張り上げる。熟年たちが一時蘇った青春に酔い痴れていたのである。
◇昭和六十一年度の同窓会
昭和六十一年度の全体同窓会は、昭和六十一年十一月十一日の日曜日に、やはりタワー・ホテル九階で開催された。あまり四四回卒業生が出ないので、ためらったが、ちょうど四四回生同窓会の幹事をしていたので、様子を伺いに出席した。同窓会の模様は例によって例のごとくであったが、場違いな六人ぐらいの若者の参加が目をひいた。というのは、昭和六十二年度に鳥羽高校の第一回卒業生が出るので、現役の先生方と二中卒業生代表が話し合った結果、鳥羽高校の同窓会と京都府立二中の同窓会が合同して、『京二中鳥羽高校同窓会』となり、今日出席した若者たちは来春(昭和六十二年)卒業する生徒の代表だという。もちろん鳥羽高校は男女共学なので、今後は女性の同窓会会員を加えることになる…。手回し良く、『京二中鳥羽高校同窓会規約』が配られ、若者たちによって鳥羽高校の校歌も披露されたのである。
▽四四回生の同期会▽
四四回生の同窓会に初めて出たのは、経営監理事務所をやっている小林敏明君の世話で、河原町三条上るロイヤル・ホテル地下 に四十年振りの再会となった懐かしい顔があった。東寺近く八条内田町に住んでいる河合俊二君で、今は宇治市の教育委員会に勤めているそうである。河合君は私の周辺にいた文学グループでなく、ごく普通の教室内だけの付き合いだったが、一目で見分けられたほど変わっていない。東京からは田邊貞雄君が駆けつけ、東京鳥羽会の模様も聞かせてもらった。しかし、人間四十年たつとこれほどまでに個人差が出るものかと思われる。頭髪一つとっても、まだ、みずみずしい曲豆かな里…髪をふさふささせているケシカラン奴、白髪、後退性のハゲ、うすハゲ、てっぺんハゲ、全面的に光り輝いている見事な頭、(私も上が目立って薄くなってきている)。四十歳とみまがう者から、私たちより十年以上先輩に見える者。ほんとうに個人差というものは不公平で、残酷なものだ。こで私は、小林敏明君と増井昭二君から同窓会幹事を引き継ぐことになってしまった。
▽二度目の四四回生同窓会▽
小林敏明君と増井昭二君から同窓会幹事を引き継いで二年目、昭和六十一年十一月に八光自動車の蔦田和夫君と私が幹事で同窓会を高野川沿いの「下鴨茶寮」で開いた。前回の「アゼリア・リド」での同窓会のとき、次にはゆっくり座ってやりたいという希望がかなり有ったので、和食に適当なところを罵田君に探してくれと依頼し、八光自動車の社長の紹介で下鴨茶寮に決めた。今度は、久し振りでクラスのズバ抜けた秀才、かっての級長だった青山哲爾君がアメリカの本社にいつ呼び出されるか分からないという忙しい時期に「都合がついたから」といって東京から来てくれた。たちまち「よう青哲、めずらしいなあ」という声が、少し早めに参集して茶室でくつろいでいた連中から起こった。ぼつぼつ集まってくる顔触れがかなり揃ってくると、時間が逆行しはじめ、かって机を並べていたときの雰囲気が出てくる。控室に使われた茶室も人が増えるに従ってだんだん狭くなってくる。
ここで、四四回卒業生の記録を本にしようということになった。同窓会の幹事は高田長三郎君と宮嶋八蔵君に引き継ぐこととなったが、同窓会の記録(東勇君の提案で、本の仮称は「鳥羽原頭」、原稿と基金を昭和六十二年三月末までに募り、原稿が集まった段階で京都在住の何人かの同窓生に集まってもらい、どのような本とするのか、何部作るか、編集をどうするか、などについて相談することになった。
【以上で、私の学校時代の回顧録プラス・ワンを終わる。書いていると、実に様々な風景が頭の中に蘇ってくる。惜しむらくは、人の名前を忘れさっていることが多い。私は今、京都芸術家国民健康保険組合を定年退職し(組合参与という非常勤役員として、あとしばらくは任期はある)、いよいよ第二の人生の設計に取り掛からねばならない。
**************** 発表した発表したは 以上まで、些少の訂正はあるものの同窓会誌に発表した内容である。以下の十三年間についてボチボチ拾い書きして、自分史の補足としたい。 ****************
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