
この一文は、「ろまねすくの自分史のページ」として発表した同窓会誌「鳥羽原頭に草萌えて」を底本としてまとめたものへの追記に当たるもの。終戦後、「卒業後半世紀」を期に作成した第2巻に発表した原稿です。個人的にも、もう先の見えてきた時点で、己の辿ってきた軌跡を今一度振り返っておきたいと言う衝動から生まれたもとしても不思議ではない。先に発表したものと重複する部分もあろうかと思われるが、何卒おゆるしを願いたい。
この原稿は主に京都府立京都第二中学校同窓会誌「鳥羽原頭に草萌えて」第2巻の「卒業後半世紀・終戦後半世紀」(1995年6月3日刊行)に寄稿した「過ぎし刻への鎮魂譜面」をリライトしたものですが、十数年経た今、かなり書き加えたところがあります。
幼少時代から居跡府立京都第二中学校を卒業するまでのことは、京都芸術家国民健康保険組合の機関紙月刊「京都芸術家」に何回かに掲載したが、原稿を綴っているうちに次から次へと芋蔓式に湧き上がってくる思い出の細部があり、一つのことばがキーワードとなって、又、別の思い出の事象につながる…広がって行くことになる。
敗戦の年に一年近く籠の鳥常態で勤労動員の檻…川西航空機に繋がれていた身分から解放されても、たとえ高専・大学に入っても徴兵猶予はなく、ただちに工場か徴兵かという二つの道しか残されてはいない、ということに絶望し闇雲に日本を飛び出して旧満州へ行ってしまった。やがて敗戦、中国の国共〔国民党と共産党〕内戦に巻き込まれ、終戦後の8年間は抑留されて、大部分の時間を中国共産党軍の後方病院に移動とともに…また戦況の進展に応じて昭和二十八年まで旧満州各地を転々と放浪する羽目になった。
その間の記録はすべて失われ、日時、場所、移動の経緯などすべてを書きつづる方策がなく、自分史は卒業の時点で頓挫してしまう。日本に帰国してからの出来事については、関係者の多くがまだ生存していられうちは,書き辛いこと夥しい。その上、年代が近づくにつれて、だんだん書きにくくなって行くのは何故だろう。
仕方がない。
卒業後、半世紀のことで、ふと頭に浮かんだイメージを書きとめて、自分史の追補としたい。
第1章 旧満州への旅
◇ 1945年5月15日
青空だっ。今日の京都は葵祭りの日。東京は大空襲で壊滅的な打撃を受け、誰の目にも日本の配色は濃だった。私たちの行くては戦場か動員工場でのタコ部屋生活しか選択の余地はない日本に絶望して、私は満州に旅立とうとしている。逃亡者のような気分。関釜連絡船が関門海峡でもう何隻もアメリカの潜水艦によって撃沈されたという噂も聞いていた。
ますます旅行の制限も厳しくなって、私の乗車する下り博多行きの長距離列車が入る4番線ホームは、切符を持っている乗客以外がホームに立ち入らないよう通路の降り口にロープを張って制限していた。ところが発車間際になって、同窓生の大森忠行君と緒方力〔周平〕君がロープを飛び越えて入ってきてくれた。親友二人が見送りに来てくれたことが、涙が出るほど嬉しかった。
◆ 下関の旅館
満州電業株式会社に就職する新卒の何名かが、この旅籠のような旅館で落ち合うこととなっている。私の他は九州天草からやってきた中学卒業生が二人。灯火管制の暗い光の中で、天草の二人のしゃべっている言葉が強い天草の方言で、まるで外国語のように聞き取れない。
◇ 5月17日
博多港発釜山行き連絡船は深夜になってから出航する。この二、三日だけでももう二、三隻がアメリカの潜水艦に撃沈されている…という噂がひそひそと囁かれていた。暗い岸壁には見送りの人影もあまりない。わが国の巡洋艦や駆逐艦が私たちの乗る連絡船を護衛してくれると聞いていたが、闇の中にそれらしい影は見えない。
◇ 5月18日
随分緊張していたが、いつしかぐっすりと眠り込んでいた。白々と夜が明けると、深い霧の彼方に駆逐艦らしい艦影が左右の彼方に遠く見えていた。玄界灘は幸いにあまり荒れていなかったようだ。
早朝、釜山に入港。新京行きの特急列車を待つ間、港付近を散策。倉庫の蔭にドブロク売りが何人か商売しているようだった。非合法の商売なのか、彼たちは緊張している様子で時々あちこちに目配りしている。一人のドブロク売りのおばさんが鋭い叫び声を上げると、皆、いっせいに商売道具の荷物をたたみ、蜘蛛の仔を散らすように逃げ出した。
◇ 釜山発、新京雪の特別急行列車に乗り込む。二等車は私たちの他には日本人らしい姿は見掛けられない。
ほぼギッシリと朝鮮の人、中国人らしい乗客で満席。流れて行く車窓外には丸みを帯びた低い禿山ばかりが際限なく続いていた。大邱、大田、京城、平城…特急列車ま停まる駅では構内ばかりで、生まれて初めての異国の市街の様子はまるで見られなかった。
深夜に新義州から鴨緑江を渡って満州に入る。四人掛けの向かいの席に、中国服を纏った三十前後の上品な美女が座ったので、暫く見とれていた。ところが何かもぞもぞ動くものがあるので、髪の毛あたりに眼を凝らしてみると、毛虱がぞろぞろ這いまわっているではないか。ゾッとする。
奉天、四平街を経て正午頃、新京駅に到着。駅を出ると流石は首都。大きなビルが広場を囲んで立ち並んでいる。左手には大和ホテル。駅前にはたくさんの馬車が客待ちをしていた。…という経過で満州に入り首都・新京に降り立った。が、これから私が就職する特殊会社「満州電業株式会社」からの出迎えの社員の姿やいずことキョロキョロしていると、目ざとく私たちの姿を発見してくれ、電業の東洋一巨大な宿舎満州電業「都南寮」に案内された。
なんと物凄い大きさ。男子ばかりの独身寮で、収容人員2000名、地下には室内プールがあり、裏にはサッカー・コート、野球のグラウンド、テニスコート8面があり、電業病院もある…東洋一の社員寮だと誇っていた。
ここでの仕事と勤務については詳細を省く。最初に新京発電所で何日か発電の概要を学び、最初に配置された職場は興国安大路の営業所。
都南寮に入った数日後に私ともう一人の新入居者が、先輩の部屋に呼び出された。6畳ほどの部屋に5、6人の先輩らしい男達がいて、「ここでの暮らし方を教えてやる」と言って、「足を開け、歯を噛みしめろ」というなり革靴のそこ、ベルトなどで理不尽な暴力的な制裁を浴びせられた。後で聞いたところによると、彼等はいわゆる大陸浪人と自称するゴロツキだとか。
10日ほど経って、大同広場で制裁の首謀者と出逢ったので、私たち二人でとっ捕まえ、さんざんお返しをしたあと、深い排水溝に叩きこんだ。その後は私たちに報復を仕掛けてくるかと用心していたが、風呂場で出会うとコソコソ逃げるように姿を消してしまった。
私たちが電業に入ったのは5月18日。碌々仕事も覚えないうちに終戦の日がせまり、にわかに身辺が騒々しくなってきた。
臨時召集を受けた日から終戦の日まで
太平洋戦争の戦局の悪化は蔭でひそひそ囁かれていたが、6月のある日、とうとう徴兵検査に出頭するようにという通知がやってきた。親からも離れた異国の地。同時に入社した京都府立二中の同窓生から、二中の先輩社員がいるので相談すればどうかと聞かされ、何から何まで先輩夫婦の世話で、持参品の調達から心得などを聞き、指定された場所で徴兵検査を受けた。
半分以上戦争忌避で満州くんだりまでやってきて、内地と全く違った豊富な食料にうつつを抜かしていたが、ここに来て一気に戦争が身辺に迫ってきたような気分になってきた。
7月下旬に内地から子供を二人連れた夫婦が、ハルピン郊外の満蒙開拓団にはいるつもりでやってきた。今日泊まるところがないというその家族を入れた。汽車の切符が取れたので、といってその家族は北に向かって旅立ったいった。
【後日談】私が、8月5日頃、ついに「臨時召集令状」と称する赤紙が来てしまったあと、終戦後の8月18日頃に召集解除となり吉野町のアパートに帰って暫くして、ハルピン郊外の満蒙開拓団から家族皆ボロボロになって徒歩避難、南下してきた話に繋がります。
臨時召集
私が召集を受けた場所に出頭すると、新京守備隊へ。これがまあ、よくこれだけの雑多な者ばかり寄せ集めたものだ、と感嘆するくらいの部隊だった。満州中央銀行の役員だったと言う五十年配の老兵から、やっと満十九歳になるかならぬかの私のような青二才まで。いかに戦闘人材に払底していたかが露骨に表れていた。最初の日に、一応は軍服は着せられたものの、帯剣だけのもの、旧式の村田銃を渡されたもの、靴も「靴に足を合せろ」とばかりの古靴…、とにかくいろいろ。
その晩、布団地雷を一個ずつ渡されて、
「お前らは、いざとなったら、これを抱いて敵の戦車に飛び込むんだ」
という無茶な訓示を受けて国務院前の広場まで行進。石畳の上で支給された銃を抱いて野営。あくる日は、新京西郊の緑園まで行進。陸軍の佐官級の宿舎に入れられた。空き家になった一戸建ての宿舎は、間もなくソ連軍が攻めて来るという情報により、陸軍が秘密裏に臨時に仕立てた列車で、在住日本人を置き去りにして軍幹部を家族ごといち早く朝鮮方面に逃亡していた抜け殻だった。
その証拠に、夕食の最中に出発命令が出たためか、卓袱台の上には鋤焼きを食い散らしていた茶碗やお皿がそのまま乱雑に放置されて、いかに慌しく出て行ったかが歴然。火は消されていたが、ご飯茶碗には食べ残し。鍋には鋤焼きの残りがこびりついたまま。
台所のシンクの下には、日本車酒の1升瓶が5本、ブリキの米櫃には七文目通り艶やかな光沢の白米、裏庭のケージの中には鶏が4羽。内地の植えた人々にとっては、腹立たしいほどの贅沢な食べ物。これなんかはわれわれでゆっくり頂こうではないか。…
翌日には朝食後、裏の広い畑に集められて、重機銃座の構築を命ぜられ、畑に1メートルばかりの穴を掘り、周りに土を盛り上げた。
1920年8月15日。朝から「今日の正午に何か重大放送があるので、遅れないように部隊隊長宿舎の裏庭に集合すること、という達しがあった。ラジオが縁側近くに据えられ、全員集合。
晴れ上がった空、じりじり照りつける太陽。暑い日だった。
玉音放送があるので、皆、居ずまいを正して聞くようにという注意があり。ピーピーガーガー雑音の多いスピーカーから、天皇の肉声らしいものが始まったので、みな緊張して耳を澄ます。9日にソ連が日ソの条約を破って満州に振興してきたというニユースを伝え聞いていたまで、きっと国民に対して士気を鼓舞するための放送ではないか、と思い込んでいたが、どうやら違うらしい。聞き難い切れ切れの言葉をつなぎ合わせて判断すると、日本は連合国の要求を受諾した…つまり敗戦を認め降伏した、と受け止められる。一瞬の沈黙の後、将校たちの一部が突然狂ったように、訳のわからない咆哮と共に軍刀を抜き、鴨居、柱などにめったやたらに切りつけていた。
その夜。われわれの隊は、トラックを2台都合してきて、何人かの隊員がどこかに向かっていった。軍隊の食糧や雑貨の倉庫を襲って、他の部隊に荒らされる前に略奪しようという話らしい。
翌16日、部隊の解散の命令が伝達されていたのか、後始末の担当をくじ引きで決め召集解除する、と言われ籤引きに弱い私も残留兵の中に入ってしまった。その夜、私たちの宿舎の仲間があつまり、「このままソ連軍が進駐してきたら、捕虜としてシベリアに連れてゆすれるのでは、今晩出そうしよう」との話し合いになったが、その夜半、地軸を揺るがさんばかりの豪雨になった。あれこれ逡巡していたところへ、たくさんの重戦車が囂々とキャタピラーの重低音を響かせながら、次から次へと新京めざして通過してゆく音が聞こえてきた。早くもソ連軍がやってきたらしいのである。
17日、昨日の籤引きがどうなったのか、私も招集解除の中にいれられて、徒歩で、新京のアパートに帰ってきた。ところがなんとしたことか、同室の京都二中の同窓生S君の姿が消えていた。机の上に私宛の書置きがあり、「君も恐らく帰ってこられないと思うので、君の荷物は貰ってゆく。南満の方へいってみる」。
同じ同窓の岡本君は私より3日早く招集され、熱河省承徳のほうに行き、沖縄に移送中、東支那海航行中アメリカの潜水艦の攻撃を受けて沈没した、と後々伝え聞いた。
終戦後の新京にて
長い間、日本人に差別され続けてきた朝鮮人、中国人の反感が一時に噴出してきた満州では、日本人に対する略奪、暴行事件が頻発していて、治安は最悪だった。それも無理はない、終戦前の街角では日本人が馬車から降りると、料金を支払うどころか、馬車夫を殴りつけるところにる度々遭遇している。職を失った日本人の家庭では、一途に帰国の日を待ちわびるばかりで、収入が途絶え衣類をはじめめぼしい物の売り食い状態だった。
またハルピン、チチハルなど北満から、押し寄せるソ連軍にせき立てられるように、西は白城仔方面から、一様にボロボロの衣服をまとった開拓団の人々や在住していた日本人が次から次へと新京を目指して避難してくる。中には中国人に身ぐるみ剥ぎ取られて、高粱をいれる麻袋―まーたいーの底を頭がはいるだけ切り取ったもの1枚だけの婦人という悲惨な難民の姿も珍しくなかった。7月の二十日過ぎに内地から開拓団に行く前、数日我が家に伯めた一家も食うや食わずで新京まで逃れてきていた。私の部屋を出て、8月6日に開拓団に着いた3日後には、一切を投げ捨てて命からがら着の身着のまま逃げ出して新京を目指したと言う。内地の家を畳んでハルピン近郊の開拓団宛に送った鉄道荷物はついに着かなかったと言う。なんもかも失い尽くしたのだ。何のために満州に来たのか分からない。
話を聞くと、新京まで辿り着けた人々はまだマシなほうで、脱出途中で子供を路傍に捨てたり、餓えで斃れたりした人々も多く生き地獄だったという。
◇ 私が満州電々の都南寮が終戦と同時に接収されたので、やむを得ず繁華街の吉野町のアパー
トビルの一室に引っ越した。私は終戦直後に部隊が解散して、幸運にもソ連軍の捕虜となってのシベリア行きは免れたが、町は日本人の支配から脱した中国人・朝鮮人の暴動の噂は絶えなかったが、日本人の武器隠匿騒動に巻き込まれ、首謀者とみなされ中国兵に調べられ。銃身の長いモーゼル銃を突きつけられ、危うく銃殺されそうになったことがあった。中国兵は私の交友範囲をかなり調べていたがバレずにすんだ。その頃、拳銃を隠し持っていた日本人はかなりいたし、もとバレルと危険だったので、日本人の所持していた拳銃を集めて油紙に包み深い井戸の底に隠していた。間一髪で嫌疑を逃れ得たのは悪運の強さだったろうか。
◇ その後も危ない目には何度か遭った。ソ連軍で初めて新京に入ったのは、間に合わせで刑所
に入っていた服役中の囚人を兵士に仕立てた部隊もあったので、ものすごくワルが多かった。日本人の家に押し入ってきて、若い娘はもちろんかなり年配の婦人まで強姦したり、街で行きずりの日本人から腕時計を強奪したり、少し後に正規軍が入ってきて、そうした行為を取り締まるまでは皆戦々恐々の有様。
私は新京日本人会に頼まれて、ソ連軍との折衝を任されていた。ある時、親指を切ったので医者に就けていってくれとたのまれ、一人の下級兵士を医院まで連れて行ったことがあったが、単なる切り傷なのに大きな図体をして、「痛い、痛い」と大げさに泣き叫ぶこと。治療を終えて元の場所に連れ帰るとき、「1軒の住宅の前で、ここに立ち寄るので待っていてくれ」といわれ、とことこと玄関を入ってゆく。暫くしてここに住んでいるらしいソ連軍の仕官が帰ってきた。兵士はもちろん傍らにいた私も厳しく問責された。咄嗟のことで私も依頼された経緯を、冷や汗をかきながら説明したが、とんだとばっちりだった。
◇その頃、中国人の商売人のあいだで、ロシア語の学習熱が盛り上がっていた。それで懇意の朝鮮人の牧師と、日本人のところを廻って露和辞典、和露辞典を日本人の家庭から安い値段で仕入れ、街頭で売りさばこうかという話となり、私が買い集めることになり、公園の路傍で俄か古本屋を開業した。その頃の日本人は帰国のことしか頭になかったので、案外ロシアごの辞典があっまり結構商売になった。
そんな或る日の夕方。大八車に売り物の本を入れた木箱を積んで、牧師の家の前まで帰ってきたとき、
「その箱の中に何が入っているんだ?」
と黒いマントと黒い帽子をかぶった男に呼び止められた。こちらは何も怪しい物は入っていない、と言うつもりで軽く「メイユーショマ」と答えたところ、くだんの男がつかつかと近寄ってきて、売り物の古本を入れた箱の蓋を開けて「嘘をつれな!」と言って、私の腕を掴もうとしたので、その気配に危険なものを感じ、牧師の家の引き戸を開けて逃げ込み、追ってきた特務らしいものが中国服のすそから拳銃を取り出したので、思いっきり引き戸をピシャっ閉めると、男の手首を挟んだらしく、拳銃をガチャっと落としたので、牧師の家に逃げ込み「追われている!」というなり、靴を手に提げて裏口から逃げ出しました。
幸い牧師がどうとりなしてくれたのか、追いつかれずアパートに逃げ帰りましたが、度々夕ご飯をご馳走になった牧師の家族にはひどい迷惑をかけたものです。私も8年間の抑留流浪生活のうちでは、何度か拳銃で撃たれそうになったことがありますが、中々悪運が強くて、八十一歳のいままでどうにか生き延びてきました。
終戦後の新京で1年近くすごしている間に、いろいろなことに出遭いました。国民党と八路軍とは一進一退でドンハチやっていました。最初に入ってきた国民党軍は日本人会を通じて使役の割り当てがあり、私は広大な軍馬の厩舎の清掃をやらされましたが、何日間か朝から晩までこき使われたが、一円の報酬もくれなかったが、八路軍が入ってきたとき、同じように使役が割り当てられましたが、ちゃんとその日の日当は支払ってくれました。
国民党軍は或る日、つかつかと私の住んでいるアパートに入ってきて私を屋上まで連れて行き、
西北の隅で「八路軍の動向を見張れ」と言い残して去りました。コンクリートの側壁から、出来るだけ低い姿勢で覗いていたら、遠くから八路軍の赤い旗が次々と建物の屋上に広がり、こちらの法に近づいてくる様子がわかります。下の道路では早くも両軍による銃撃戦が始まっていて、流れ弾が激しく飛び交っています。私が監視を続けていたところにも、遠い弾がひゅるひゅると、近い弾はブツブツと後ろの壁に刺さっています。身の危険を感じ階下に降りてみると、とうに国民党軍の姿はありません。逃げ去った様子。
ここ三日ばかり危険で外出できなかったので、お腹はぺこぺこ。昨夜は高黍の冷やご飯にお湯をぶっかけ唐辛子の粉をかけて無理に食べたので、朝から酷い下痢に悩まされていた。ようやく銃声が熄んで暫くすると、自転車にパンを積んで売り歩く商売人がきました。平常の3倍ほどの値段でしたが半飢餓状態の私は躊躇なく買い込んでなんとか空腹を癒しました。
八路軍の第7後方病院と共に新京を脱出
二度目の八路軍の使役で第七後方病院で働いていたとき、国民党軍の総攻撃が始まり、国民党軍のアメリカ製双胴の戦闘爆撃機P38に追われるように新京を脱出することになった。新京の空を乱舞するP38。アパートへ荷物を取りに帰る暇もなく急遽、移動する病院と運命を共にすることになり、新京駅から無蓋貨車に積み込まれて、ハルビン方面に出発した。往復二本の線路は、すべて北に向かう列車が併走する様子。
このとき、私は初めて満洲の暖野の果てしない広がりを実感した。視界の限り続く山影の全くない平原。その上を点々と移動するちぎれ雲の影。
「私は身軽な独り者だから、代わってあげましょうか」と、カッコイイ。変な義侠心を出して、代わってあげたのが運の尽き(お陰で第一次む笙次帰国にも、第二次にも入りそびれ・とうとう八年間も終満州(中国東北部)で過ごすことになってしまった。
【以下は私の「終戦後の八年間旧満州残留放浪記」に続きます】
第2章 消し去ることの出来ない旧満州の印象
@終戦後に辿った放浪の軌跡
新京からハルピン、北安、克山。佳木斯、綏浜、富錦(ここはもうソ連との国境の近く)、佳木斯、ハルピン、チチハル,泰来、白城子、洮南、開通、延吉、奉天(瀋陽)、天津…私が終戦後の八年間さまよい歩いた経路。昭和二十八年になってやっと夢にまで故国日本に帰りついた喜びは如何ばかりだったか。最後に働いていたのは、労働組合立の東北地方の基幹病院…東北工人病院の保険課で、病院統計のあらゆる様式を整えたり、ロシア語の医学書を中国語に翻訳したり、病院を代表して東北病院統計会議にでたりしていた時でした。
東北工人病院は瀋陽市街の南郊の南湖の近くにあり、全体の形が「日」の字の形をしていて、中央の横線にあたるところは、各種の検査室と物療室があり、外郭には4ヶ所の玄関があり、東の正面玄関を入ったところが事務棟、北口からは産婦人科、南口からは小児科の専用入り口と、院内感染の防止を考えた構造になっていました。今となってはウロ覚えですが、確か入院病床は800床くらいだったと思います。
その前は延吉の旧日本軍の病院後に出来ていた軍の後方病院にいましたが、八路軍あらため中国解放軍の基幹病院の一つでしたが、中国解放軍の構成に国民党軍が退却につぐ退却で、終に蒋介石が台湾に逃げ出し、新しい中国…中華人民共和国が既に建国されていました。
中国の解放戦争の終盤に差し掛かった頃、延吉の病院では大々的な人事異動が行われ、日本人従業員は医師も看護婦も、次々と移動命令が出て、いくつかのグループに分かれて、全国的に散らばって行きました。後々に聞いたところによると、大部分の人達は山海関を超えて関内にはいり、華北の石家荘のあたりへ、遠くははるばると長江(揚子江)を越えて湖南省まで移動した仲間もいたようです。
私は当時同じ医務課に勤めていた現在の妻と結婚の許可を申請していたので、最後まで延吉に残留し、家内は一足先に瀋陽に出て、日本人居留者の集まり、日本人招待所に落ち着き、私は最後近くの移動になって一人だけ瀋陽で下車。東北工人病院に辿り着きました。
A克山での厳冬体験
新京(長春)を無蓋貨車で脱出して以来。ハルピンに2、3日、北安に数週間、さして克山という町に半年と、病院を開く間もなく内戦の戦況のままに只移動ばかりだった。克山には厳寒の頃に着いたが、ここは満州でも五指に数えられほどの極寒の盆地で、新京の冬はせいぜい零下25度ほどだったが、克山では体感温度て言えば、優に零下50度ぐらいだろうか。分厚い防寒着を通して寒気が針のように肌を刺す。毛皮のついた防寒帽子にマスクと言った格好で外出すると、息の湯気で眉もすっかり白く凍りつき、睫毛が瞬きするたびにぴたりと張り付き、いちいち手でこすらねば眼を開けられない。傑作なのは息を吸うたびに鼻の穴がぴしゃりと凍り付いて、息を少し強い目に吐くと解凍されて呼気を吐き出すことが出来る。新京。ハルピンでは感じられなかった現象。ああ厳冬とはこんなものだったか、と納得。
Bソ満国境近くの町「富錦」へ
ソ連との国境に程近い富錦の町は、松花江に沿った街道のまちで、移動してきた我々はそこに第七後方病院を立ち上げたが、新しく病院の建物を建設したのではなく、6ヶ所ほどの建物を接収してここは医務課、ここは内科、ここは外科などと分散した急ごしらえのもの。早速前線から搬送されてきた兵士を収容し病院業務を始めたが、翌年には国共内戦で戦況が変わり八路軍(中国解放軍)が優勢になり、退却を続ける国民党軍が敗走にうつったため、実質1年足らずの滞在だけで、私たちも第七後方病院の移動と共に東北各地をあちこち移動して廻った。一冬を過ごしただけの土地だったが、新京、ハルピンといった大都市とは違ったディープな土地の風物は強烈な印象を受けた。
◇その間、私の脳裏に鮮烈な印象をとどめたイメージは。富錦という町は、松花江(スンガリー)の下流が、あと十キロくらいでソ満国境を流れて来た黒竜江(アムール川)と合流し、ハバロフスクに向かって流れて行くという地点にあり、街道に沿った町である。そこには、昭和二十一年に一年足らず過ごした。
この町で忘れ得ぬ風景は、なんといっても生まれて初めて経験した松花江という大河の全面結氷。向こう岸が霞んで見えないほどに広い川、一面に白々とした景色の中で、中洲の島に逆光に黒々と影を見せていた墓標の十字架。ソ連軍の戦死者の墓標だろうか。寒々とした景色で、大森忠行君がハルビンから書き送って来た詩の一節、
「かささぎは一声暗きて飛び立ちたれど、
平原は冬枯れに白し」
という望郷の思いを詠った大物君の心情を想い起こさせる情景を私も見た。
結氷した松花江の中島に係留された定期船まで陸地から電柱を氷に立てて引かれていた電線。
ある夜、鷺々と音を立てて氷が解けはじめ、解氷。六畳ほどもある氷のかたまりがぶつかり合い、のし上がり、砕け、岸に乗り上げる様は、息を呑む自然の猛々しい景色だった。
又、はるか彼方の対岸までの距離はどれほどだったか。1000メートルはあったと思うが、夜間に長距離の大型トラックが何台も続いて氷上に出来た道を渡ってゆくのも生まれて初めて見る光景だ。恐ら結氷の厚さは1メートルはあったろうと思われる。
C連絡船でレントゲン機材受け取りに二泊三日の船旅
◇私はこの臨時に設置された病院で、レントゲン室の設営を行った。何もない、ないないづくしの環境だったから、すべての機材は佳木斯にある衛生部まで受領に行かねばならない。船で佳木斯まで川上り二泊三日、下り一日。悠然と、満々と水をたたえる川の流れは穏やかに見えて、実は底を渦巻いて流れている(夏に停泊していた船の上から飛び込んでびっくり、余りの急流で一キロも下流まで流され、ほうほうの態で、岸にはい上がったことがあった)。
ハルピンまでの医療機器受領のための船旅はのんびりして楽しかった。日本人の第一次帰国をハルビンで聞き、第二次帰国を佳木斯で聞き、落ち込んでいたのも忘れるくらい、つかの間の旅。私たちの乗った客船には、沿岸で鯉や草魚を採っていた小さな漁船が漕ぎ寄せてきて、魚を売り付ける。十人ほどで金を出し合い、草魚を一匹買うと、三十人前くらいの刺身ができる。大きな板の上で船員が器用にさばいてくれ、刺身を盛った上に、胡瓜の千切りをふりまき、醤油をざっとかけてまぜると出来上がり。大皿の周りを囲んで豪快な宴会が始まる。
佳木斯で一番初めに受領し、持ち帰ったのは、島津製のレントゲン器械だったが、これがとんでもないシロモノ。島津製作所でも最も古いような、博物館行きの器械で、まず高圧の配線が裸電
線で、湿気の多いときには蛍光を発する有り様。第二次電圧の測定装置が、火花間隙電圧測定装置といって、両極の鉄の棒を近付け、火花の飛ぶ距離で電圧を測ろうというもの。エボナイトの取
っ手に触れると、肩までピーンと感電の衝撃。さすが鉛の入った防護服を着ていたが、二次放射線をだいぶ浴びてしまった。
D第七後方病院での忘れ難き人々
もう一つ、富錦で忘れられないのは、ハルビンから恩師の身代わりで徴用されてきたという若い医師。彼はまだハルビン医科大学を卒業していなかったので、歩く際も「内科診療の実際」や「井上小内科学」という本を読みながら歩いていて目立った。頭髪が髭に続き、喉毛、胸毛から膀の下へ、更に濃い毛が黒々と足元まで続いているという多毛。しかし、眼は象のように小さく穏やかだったので、ゴツイという印象はなかった。
その彼が、日赤看護婦にほれてしまい、当時、政治委員として八路軍から派遣されてきていた男(日本人)と、恋の鞘当てを演じ、まだ医師免許を持っていないニセ医師として糾弾されたことが重なってストレスがたまり、後日、西満の白城子で手榴弾自殺を遂げてしまったという。冬の頃で、営舎の中庭は彼の血潮と飛び散った肉片で降り積もった雪が赤く染まり、壮絶な現場だったと、後から聞いた。
E富錦からチチハル、そして・・・・
富錦から佳木斯を経てハルビンに移動する列車が突然、平原の中で立ち往生した。謝文東の率いる匪賊が出るという情報だった。一面、鬼百合の咲き乱れる膿野だった。とにかく、こらえていた尿意を解放するため、我勝ちに列車から飛び降り、皆、思い思いの方向に走って行く。男どもは近場で並んで放出しているが、女性たちは四、五人ずつ固まって、かなり遠くまで行って、見張
りを立てて百合の咲き乱れる中にしゃがんでいた。
汽車に乗ったままハルビン駅構内で一夜を過ごし、明け方早く気付いて見ると、客車の連結ミスで後半分の客車をハルビン駅に置き忘れてきたというハプニングが生じた。お陰で、別の機関車に曳かれた客車が追い付くまで、何もない暖野の真っ只中で待つ羽目になった。が行く先も、ただチチハルとしか聞いていない私たちはのんびりしたものだった。
チチハルでは、二週間も過ごしただろうか。ここでは病院を開設する予定もないらしくて、八路軍幹部や政治委員の講演を聞いたり、エンゲルスの「猿から人間へ」をテキストに人類社会の発展過程について勉強したりの日々。しかし、もう厳冬期にかかっていたチチハルでは、町のそばを流れる川も凍りつき、結氷した川を渡って餌を求める狼が市内にまで入って来ていた。その遠吠
えは、私も夜半に何度も聞いたことがある。共同トイレが宿舎の外に設置されているため、玄関を出てトイレまでの、ものの三十メートルほどの距離が、暗い夜半には、俳徊する狼の姿を脳裏に蘇らせて恐ろしくなる。と、どういう現象が起きるか、玄関のすぐ脇の壁面に「黄色い氷」が出来て、だんだん厚みを増して来る。いざというときすぐ逃げ込めるように、玄関脇が臨時トイレと化し、男の連中ばかりでなく、看護婦など女性たちにも愛用されるようになったのである。
◇前線に病院が移動すると、現在の日本の医師には考えられない状況が展開する。陸続と傷病兵たちが担架で運ばれてくる。破傷風専門の病棟ができるほどとなる。感染してから時間が経っているので、症状が進み、ちょっとした音の刺激でも、あるいは光の刺激でも後弓反張といって、後頭部と足の踵で反り返る痙攣を起こすので、病室には暗幕を張り、絶え間ない痙攣のため、まずクロロホルムの吸入麻酔、次に鎮痙剤の注射、効き目が切れる頃に抱水クロラールの注腸麻酔。また牙関緊急といって噛筋の痙攣で口が開かなくなり、内服薬ものめなくなる。とにかく痙攣を抑
えなければ、何の手当もできないほど。だんだん痙攣の間隔が短くなり、筋の緊張性麻痺が昂じて衰弱死亡する。
また嫌気性菌の瓦斯壊疽菌感染でガス壊疽を起こした戦病兵は、大腿がパンパンに膨張し、大腿の皮膚を押すとプチプチと音がする。そんな病人も、一度に何十人と運ばれて来る。毎日毎日手術室では大腿が切断される。手が足りなくて手術室に入り、大腿切断を手伝い、脚を持たされたことも度々。切断された足の重いこと。
地方病性の克山病、カシンベック氏病……日本では見られない症例ばかり。あるいは末期梅毒患者、ペスト、赤痢、コレラ、天然痘、回帰熱、マラリアなど日本では稀になっている病気も日常茶飯事。それらの混合感染者も担ぎこまれる。あるときは、私の隣に寝ていた同僚が真性コレラで隔離されたり、天然痘と診断されたり。よく私が感染しなかったものだと思った。
Fアルカリ地帯
大興安嶺の東に広がる西満一帯はアルカリ地帯であった。それを実感したのは、日本軍の残した三八銃を借りて、野外にノウサギを撃ちにいったときのこと、汗まみれになった仲間数人と近
くにあったかなり広い湖で、ひと泳ぎして汗を流そうと入ったところ、岸から五十メートル入っても、百メートル水の中を歩いても、水位がいっこうに深くならない。足の騰がようよう隠れる程度にしかならなかった。泳げない。それでも汗くらいは流そうと、腰を下ろすと、水がなんだかぬるぬるしている。石鹸水のような肌ざわり。試しにはいていたパンツを脱いで洗ってみると、汚れが落ちてだんだん白くなっていく。しかし、弱った。濯ぐ水がないのだ。濡れたままのパンツをはいて岸にもどり、しばらく歩いて見付けたのが、爆破された給水塔。覗くと下には満々と水がた
たえられている。幸いに、下に降りる鉄はしごがあったので、十メートルほど降りて、飛び込んだ。だが、心臓発作を起こしかねないほど冷たい水だった。アルカリ地帯というのは、本当だった。このあたりから、石鹸の原料が生産されていたと後に聞いた。
G戦況の展開と共に移動の季節
昭和二十三年頃から(だったと思う)蒋介石の率いる国民党と毛沢東の率いる八路軍……改め「中国人民解放軍」との内戦は、解放軍の圧倒的な優勢に転じ、戦線は中国の南の方に急速に移動
しているようだった。それに伴い、西満洲にいた私たちの病院も、華北の前線に移動する班と、完全に後方基地として建設される方に移動する者とに別れた。
前線に従って移動した日本人医師・看護婦の仲間は、黄河を渡り、揚子江を越え、長駆、湖南省から桂林まで行った者までいる。
私は、他の日本人医師・看護婦仲間と満洲を鉄道で横断し、内蒙古から朝鮮との国境に近い延吉まで行って、もと日本の陸軍病院跡に開設されていた延吉後方病院に着いた。その頃は、もう満洲
の情勢も平穏となったが、後遺症として回帰熱や発疹チフスなどのシラミや蚊の媒介する伝染病、長い期間にわたる苛酷な労働や栄養状態の悪い状態が続いたための結核患者が大勢入院している
ようになった。日本人看護婦や雑役労働者の中からも、多数の病死者を出し、郊外に掘られた墓穴に埋葬されたのを何度も見ている。
また嫌気性菌の瓦斯壊疽菌感染でガス壊疽を起こした戦病兵は、大腿がパンパンに膨張し、大腿の皮膚を押すとプチプチと音がする。そんな病人も、一度に何十人と運ばれて来る。毎日毎日手術室では大腿が切断される。手が足りなくて手術室に入り、大腿切断を手伝い、脚を持たされたことも度々。切断された足の重いこと。
地方病性の克山病、カシンベック氏病……日本では見られない症例ばかり。あるいは末期梅毒患者、ペスト、赤痢、コレラ、天然痘、回帰熱、マラリアなど日本では稀になっている病気も日常茶飯事。それらの混合感染者も担ぎこまれる。あるときは、私の隣に寝ていた同僚が真性コレラで隔離されたり、天然痘と診断されたり。よく私が感染しなかったものだと思った。
大興安嶺の東に広がる西満一帯はアルカリ地帯であった。それを実感したのは、日本軍の残した三八銃を借りて、野外にノウサギを撃ちにいったときのこと、汗まみれになった仲間数人と近くにあったかなり広い湖で、ひと泳ぎして汗を流そうと入ったところ、岸から五十メートル入っても、百メートル水の中を歩いても、水位がいっこうに深くならない。足の蠕がようよう隠れる程
度にしかならなかった。泳げない。それでも汗くらいは流そうと、腰を下ろすと、水がなんだかぬるぬるしている。石鹸水のような肌ざわり。試しにはいていたパンツを脱いで洗ってみると、汚れ
が落ちてだんだん白くなっていく。しかし、弱った。濯ぐ水がないのだ。濡れたままのパンツをはいて岸にもどり、しばらく歩いて見付けたのが、爆破された給水塔。覗くと下には満々と水がたたえられている。幸いに、下に降りる鉄はしごがあったので、10メートルほど降りて、飛び込んだ。 だが、心臓発作を起こしかねないほど冷たい水だった。
アルカリ地帯というのは、本当だった。このあたりから、石鹸の原料が生産されていたと後に聞いた。
昭和二十三年頃から(だったと思う)蒋介石の率いる国民党と毛沢東の率いる八路軍……改め「中国人民解放軍」との内戦は、解放軍の圧倒的な優勢に転じ、戦線は中国の南の方に急速に移動しているようだった。それに伴い、西満洲にいた私たちの病院も、華北の前線に移動する班と、完全に後方基地として建設される方に移動する者とに別れた。前線に従って移動した日本人医師・看護婦の仲間は、黄河を渡り、揚子江を越え、長駆、湖南省から桂林まで行った者までいる。
私は、他の日本人医師・看護婦仲間と満洲を鉄道で横断し、内蒙古から朝鮮との国境に近い延吉まで行って、もと日本の陸軍病院跡に開設されていた延吉後方病院に着いた。その頃は、もう満洲
の情勢も平穏となったが、後遺症として回帰熱や発疹チフスなどのシラミや蚊の媒介する伝染病、長い期間にわたる苛酷な労働や栄養状態の悪い状態が続いたための結核患者が大勢入院していようになった。日本人看護婦や雑役労働者の中からも、多数の病死者を出し、郊外に掘られた墓穴に埋葬されたのを何度も見ている。
瀋陽での暮らし・別れの季節
延吉から再び前線に行く診療班が結成されて出て行き、私たちもそれを追うように、藩陽(奉天)に出て、中国総工会(日本の総評のような労働組合の全国的組織)の東北地区(旧満洲)に
於ける基幹病院である東北工人病院に配属された。初めて中国人民解放軍という軍隊から解放されて、民間病院に移籍することになったのである。ここでの私の仕事は、統計室を開設し、統計制
度を作り、中国人の若者に統計技術を教えることだった。二年目からは統計の実務は室員の中国人に任せ、ソ連で発行された「レントゲン診断学」の中国語への翻訳にかかった。上下二巻を翻訳し、中国人の医師(日本の医科大学を出ている)に校閲を頼み、完成したところで、昭和二十八年、ようやく在留日本人の帰国が再開され、臨時収容所(招待所といった)に入り、藩陽から汽車で山海関を越えて天津に着き、天津の外港の塘沽から高砂丸に乗船し故国に向かった。
高砂丸に乗って帰国する際は、本当に感無量だった。山東半島の先端に別れを告げたとき、私は肺炎後の乳児と船に弱い妻を抱えていたが、引揚船が舞鶴港に入って行くにつれて展開する風景は、ああ、日本は何とちまちましているのだろう、と暖野の景色に慣れた目に、まるで箱庭のように映った。
【あれから四十有余年。…と1995年6月3日刊行の同窓会誌の第2号には書いたが。その時より更に今年は既に13年が経過している。そのとき、…
もう日本人もこんな悲惨な戦争体験をすることもないだろう、戦争体験とは異常な状況、異常な体験の連続で、人間と人間が殺しあっていいはずはない。…と書いたが、しかし、現在、未だに世界のあちこちで、紛争、戦火の種は尽きることがない。呆れるのは、人類の信仰を司る宗教同士、宗派までが殺し合いに明け暮れている。】
第3章 人生の転機について (生死の境)
@ 地獄でのうたた寝…切腹始末紀 胃・幽門潰瘍
(『京都芸術家』昭和五十三年十月十五日発行第二〇七号〜
昭和五十四年一月十五日発行・第二一〇号四回連載)
誰でも長い一生のうちには、何度も大きな転機を迎えることになる:・:・だろうと思っている。大病、転職、結婚、出産、子供の教育などに関して、差し迫った決断を強いられることがあり、う
まく切り抜けられるか、蹉跣を味わうか、は神のみぞ知るところだろう。私の場合は終戦後に満洲に取り残されたのが大きな転機であり、帰国後の職探しがその一つだったが、まあまあ強運の方だったと思う。
しかし、自分の健康を過信して、胃潰瘍、幽門部潰瘍、潰瘍性幽門閉塞で、最後には水一滴も胃から十二指腸にいかなくなったときも、私の懇意にしている病院の院長で外科専門のO医師に、「すぐ入院しなさい、でないと生命にかかわりますよ」と強い語調で言われ、
「仕事の始末や引き継ぎがありますから、二、三日余裕を貰えませんか」
と私は仕事のことを頭に浮かべて院長に懇願した。しかし、言下に、「生命と仕事ではどっちが大事か」と激しい口調で説得された。そのときの入院、手術について、一文を草したことがあるので、私の大きな転機として同窓生の皆さんにも読んでいただきたいと思っている。
地獄でのうたた寝
廊下をストレッチャーの近づいてくる音がする。病室の扉が勢いよくひきあけられ、三人の看護婦がストレッチャーを押して入って来た。さあ、観念するときだ。抱きかかえられて、寝台からストレッチャーへ。眼をつむる。周囲の音と、背中から伝わって来る震動で、移動して行く様子が手にとるように分かる。廊下をしばらく行った所で、ぐいと方向が変えられ、エレベーターの中にゴトゴトと入って行く。降下感。とまる。
再び廊下へ出たところで、そっと眼をあける。「手術室」と標識のある部屋の扉が開かれ、中へ。無影灯の下に黒いレザi張りの手術台がある。医師の姿を眼で探したが、まだ見えない。二、三人の看護婦さんが忙しく働いている。
ストレッチャーから手術台の上に移される。背中にゾクッとする冷んやりした感触。なんて狭い台なんだろう。通俗な表現でいえば《姐板の上の鯉》、ぼんやり無影灯を見上げる。やがて右腕が支持台の上に乗せられて輸血、輸液の針が刺される。左腕も支持台の上で、血圧測定の器械につながれる。
そこへ麻酔担当の医師が入って来て、
「近頃の全麻はいいよ。醒めてからでも傷が痛まないんだよ。さあ、安心して」
と言いながら、笑気ガスのマスクを顔の上に近づけてくる。頭の中で、僕は酒が飲めないたちだから、きっと麻酔は良く効くだろうな、とぼんやり考える。案の定、数を、一つ、二つ、三つ:…・
と数えたところで、急速に意識を喪失してしまった。
◇◇
昭和五十二年三月頃から、上腹部に時々痛み。同年六月頃からは、背中の方にも鈍い痛み。
他人には、しきりに定期検診、人間ドックの必要性を説くくせに、自分のこととなると、なかなかその時間が見付けられない。いや、多忙にこと寄せて現実から逃げ回っていることを、心の奥
底のどこかで感じている。その頃だったか、その前の年だったか、京都府庁近くの路上で、府を退職し、外郭団体に奉職していられたY氏にばったり会った。会って驚いた。顔色がひどく悪いのである。
「ここしばらく胃の具合が悪くて……」
「そりゃいけませんよ。医者に診てもらいましたか」
「それがねえ、何となくいやで。もし悪い病気でも宣告されると、怖いんでねえ」
というようなやり取りがあって別れたが、もし胃癌でも宣告されたら、という恐怖をありありと顔色に出していられた。
僕にもある。もし、あからさまに癌と宣告されなくても(たとえ胃潰瘍といわれても)自分に腹を切る勇気があるだろうか。腹を裂かれるほうがいいか。ずるずる先延ばしにして、癌の末期症状にのたうち廻って死ぬ道を選ぶか。……どうする? まだ答えを出していない。ぎりぎり追い詰められるまで、答えを出すどころか、仮定することすら避けようとするだろう。
僕はここ二十年、病気らしい病気をしたことがなかった。四、五年前、過労がたたって腎孟膀胱炎にかかり、四〇度近く発熱したときも臥床二日で、三日目には仕事に出た。自分の体のことは、自分が一番良く知っているという、誰もがよく口にする言葉が、極めて危険な自己欺購であることを承知していながら、自分には恕そうとする。
ずるずる日を過ごしているうちに、家内が申し込んでいた胃癌の市民検診を受けることになり、七月に「要精密検査」の通知をもらった。
五十二年八月、近所の病院でレントゲン検査を受けて「幽門部潰瘍」との診断。九月から毎日ソルコセリルの注射に通う。一クール四十本打ち終わったところで中休み。しかしニクール目をさ
ぼって、その後、再び症状が悪化するまで内服薬だけにしてしまった。
五十三年四月の終わりから、胃の中で異常発酵が起こり、しきりにゲップが出るようになる。
六月に入ると、食欲が目立って落ちてくる。食べたものが胃につかえ、臭いゲップが出る。月の終わりになると、ひと口食べたものが蠕動を止めてしまった胃袋の中を真っすぐ胃底に落ちて行くのが分かるようになる。嘔吐もひどくなる。
同年七月十一日、病院で一般検査。翌十二日、精密検査。以前のように壁土のようなものではなく、芳香も添加されていたが、それでも飲みにくい硫酸バリウムを無理して胃に流し込み、いろいろ体位を返す。
検査を終えて暫く待つうちに、レントゲン写真の入った大きなハトロン紙の封筒を抱えた内科医長のM医師がセカセカした足取りで、僕の目の前を通り過ぎて院長室に消えた。廊下の長椅子に腰を下ろしたまま、ぼんやりしていると、院長とM医師が連れ立って現れ、内科診療室に入る。
院長が開口】番、
「切るんだな」
M医師は、僕にレントゲン写真を見せて、
「ほら、このとおり、幽門部の潰瘍が癒着して、幽門が閉鎖してしまっている。切るんですなあ」
僕の頬からスッと血の気が引いた。
◇
宣告を受ける……ということにろくな事はない、死刑、懲役、不治の病。……思い当たることがあり、うすうす予期していたとはいえ、いざ《手術》となると、いくら平静をよそおっていても、
頭の中でザッと音を立てて血の気が引くのが分かる。
「先生、七月二十二日に大切な会議があるんで、それが済んでから切るわけにはいきませんか」
「馬鹿言うな」と院長。「幽門の他にも、ここに大きな潰瘍があるだろう。放っておくと出血の恐れがある。吐血すると手術も面倒になるしな。よし、次の火曜日に切ろう」……と否応なし。
一日置いて、七月十四日入院。即刻、術前の諸検査と点滴が始まる。果糖液に止血剤などが混ぜられている。
院長の好意で一人部屋をとってくれたが、少し汚れの見える何の装飾らしいものもない白い壁と天井、蛍光灯をぼんやり眺めながら、「思ったより平静だぞ。まあ仕方ないさ。今死ぬより腹を
切った方がマシだろうさ」と頭の中でつぶやく。病室の窓外には僅かの薄雲を浮かべた青空が広がっている。七月に入ってずっと雨が降っていない。カラカラ天気。外は暑いだろうナ。
今から思うと、まさか自分の躯にメスが入れられる事態などはない、と思っていた頃の方が、かえって手術に対する恐怖感が強かったようだ。腹を断ち割られるくらいなら、死んだ方がマシだ。
たとえ癌と言われようと、手術はまっぴらご免。……
府庁の近くで出会ったY氏にも同じような思いがあったのだろう。「手術」への恐怖はどこかで「死」のイメージに通じているところがある。まして胃潰瘍。医師は極めて例外的にしか本人に
「ガン」の疑いを告げたりしない。そのとき屡々使われる病名が胃潰瘍ではないか。「ガン」イコール「死」ではなくて、イコール「病み衰え、苦痛にのたうち廻っての死」というイメージが強い。
また全身麻酔、長時間の手術に自分の心臓がもつだろうか、一度、意識を喪失してしまえば、覚めないのではないか。いろいろの体験記、手記、随筆、生い立ちの記などを読むと、誰でも思春
期の入り口あたりで「死」について考え、囚われる時期を経験しているらしい。確かに僕にも、幾度か、幾日か「死」を見詰めて眠られぬ夜をすごした記憶がある。死……死後の世界……霊魂……。自分がこの世から消え失せて、痕跡をとどめなくなっても、この世の自然は毫も変わらず、人々は美酒美食に酔い、花は咲き、鳥は歌い、健康で溌渕とした少女たちは、青春がつかの間のものとも知らず、幸福に頬を輝かせて飛びはねる。私がこの世に存在しなくなっても、この地上では何ひとつ変わらない。……という事が極めて不条理に思える。息苦しくなるほどに。
◇
太い針が腕に固定され、プラスチック製のチューブでスタンドに吊り下げられた輸液の瓶につながっている。僅かに黄色味を帯びた液だ。
小さな蜘蛛が一匹、天井の剥き出しの蛍光灯と室内に張り渡された「本のロープを足掛かりに、網作りを始めようとしていた。まだ一本の糸を渡しただけで、尻から吐き出した糸にぶら下がりながら、しきりに次の足掛かりを模索している。
もう一度、自分の心を覗きこむ。これから腹を断ち切られ、開かれ、内臓を無影灯の下にさらけ出され、いじられ、切断される。今のところ、諸検査の結果、胃の他はどこも悪い所はないとのこ
とだが、平常、少し速脈の気がある。果たして全身麻酔から無事、目が覚めるだろうか。
しかし、}度手術を受ける決心をしてしまうと、かえってサバサバした心境に……といえば立派だが、今さらこれ以上思い煩っても仕方がない、といったところ。割合に平静。……ただ、日常
生活から切り離されて、未決囚のような状態に置かれてみると、一日が長いんだか、短いんだか。
◇
七月十七日(月)手術の前日、夕方から家に帰って入浴。明日切られる腹のあたりを撫でてみる。夜は不思議によく寝られた。
七月十八日(火)朝から手術するその周辺の剃毛、涜腸、注射と処置が続く。昼食の出ない「お昼」は手持ち無沙汰の限り。刑の執行を待つ囚人ほどではないにしても、十二時を過ぎ、一時となり、手術予定時間にあと三十分と迫って来た頃は、心の平静もやや怪しくなってくる。緊張した感じと言っても分かってもらえるだろうか。午後一時三十分をやや過ぎた頃、廊下に人の声がして、僕手
術室に運ぶストレッチャーの音が近づいて来た。
◇
頬っぺたをぴたぴたと叩かれる。
「手術すみましたよ。分かりますか。高橋さん。眼を開けてごらんなさい。高橋さん……」
何度も繰り返し呼ばれる。暗い。まるで深海の底でたゆたっているような、重く、全身を緊縛されて身動きのとれぬ感じ。ぼんやり光が眼に入る。だが次の瞬間、再び意識は混迷の昏い渕に沈んで行く。
再び、頬っぺたをぴたぴたと叩かれ、しきりに呼びかけられ、僕も重い瞼を開こうと努力する。しばらくは焦点が定まらない。やがて、瞼の裏を暗いオレンジ色に染めていた光が、無影灯の姿
になって眼に入ってくる。何人かの頭のシルエット。後頭部がコンクリート漬けにされたように重い。ああ重い。また昏迷の中に。
◇
夢うつつ……と言っても、春眠暁を覚えず式の、気持ちの良い瀬惰な状態とは違って、どこか重苦しい。
「病室に帰って来ましたよ。分かりますか。手術はうまくいきましたよ。眼を開けてごらん」
頬っぺたをまたまた繰り返し叩かれる。暗い。霊安室のように冷たく素っ気ない白い部屋に、夜気が充満していた。夢とうつつの問を意識がふらふら往復していて、無理やりあの世から引きずり戻されたように眼を開く。まるで地獄で目を覚ましたよう。胸苦しい。息が足りない。鼻と口の上にビニールの酸素マスクがあてがわれているのだが、満足に息が吸えない。手術創の痛みはないが、猛烈な息苦しさから私の術後生活が始まったようだった。顔の上には酸素マスク鼻孔には胃カテーテルのゴム管伸ばした右腕に輸血・輸液の太い針股間……哀れにしなびたオチンチンから細いネラトン・カテーテルの管がのびてベッド脇の下の袋につながっている、左胸には脈拍監視用の発信機
左腕には血圧測定のための発信…機受難のキリストの方がもうちょっとスッキリしているではないか。少しでも身動きしようものなら、鼻に通された胃カテーテルの太い管が咽頭を刺激していがらっぽく、ウッと吐きそうになる。
お腹を切られたせいか、腹式呼吸ができないので、胸の上半分だけの胸式呼吸になり、思ったより空気を吸い込めない。極端に浅い呼吸となり息苦しい。肩で息をするとはこのことだと悟った。
参った。参った。
近代的医療器具の十字架に縛りつけられたままの「地獄でのうたた寝」の始まり〜始まり〜。
どういう訳か、酸素マスクをしていると、汗がべっとりと噴き出してくる。
◇
手術開始が午後一時三十分。病室に帰って来たのが五時三十分頃。その夜半すぎ、猛烈な震えがきた。
「ブイブリノーゲンの反応だな」
という医師の声が聞こえる。暫くすると全身がカッカ、カッカと火照ってきた。その頃から、咽喉に柔らかい疾がからみだした。それまで手術創の痛みは覚えなかったのに、疾を吐き出そうと軽
い咳をすると、ズンと腹全体にひびくようになった。
◇
七月十九日
悪夢のような一夜が明けると、少しは落ち着いたが、息苦しさはせつないほど。昨夜、明け方までに鎮痛剤二回注射。まる一日、輸血と輸液の繰り返し。まるで身動きできないので、腰がだるい。咳をするたびに傷口にひびくが、苦痛はむしろ腰の痛みの方に変わった。病院から手配してくれたベテランの付き添いの人が良く心得ていて、自分の手を腰の下に深くさし入れ、柔らかく揉んでくれる。寝返りもうてず、水平に寝続けることが、これほど苦痛なものとは思ってもみなかった。
背中と腰が痛い。息苦しい。
七月二十日
輸血一本、輸液四本。鎮痛剤三本。
背中と腰の痛みに加えて、手術創も痛みだした。鎮痛剤3本・
七月二十一日
輸液点滴四本。朝九時から夕方六時までかかる。夜の点滴がなくなったので、大分楽になる。少し身動きしてみる。胃カテーテルがノドに触って気持ちが悪い。早くこのカテーテルを抜いてほしい。
七月二十二日
術後四日目。腰の痛みも少しは柔らいできたようだ。点滴四本。病院の理事長さんが毎日、夕方顔を見せにきてくれる。
「もう、ここまで来たら一日一日楽になるんやから。ひにち薬やからねえ」
今日、院長回診のとき、腹腔の左右に差し込まれていたドレーンを二本とも抜去してくれた。相変わらず疾がよく出て、咳をすると腹にひびいて辛い。
七月二十三日
術後五日目。点滴四本。三日目からは酸素マスクを外してくれたが、唇の皮がめくれ上がり、ささくれだって気持ちが悪い。無理にめくると痛い。今日初めて体を起こしてもらって座る。院長が、
「番茶ぐらい少し飲んでもいいよ」
と言ってくれたので、術後初めての番茶をノドに流し込む。うまい。夜、西瓜の小片を食べる。恐るおそる床にも降りてみる。大腿の無残な痩せようはどうだ。付け根のところで両手の指が回りそうなほど。ふくらはぎの筋肉も落ちて、皮膚がたぶんたぶんしていた。まるで筋肉がついていないようだった。足が震える。
七月二十四日
術後六日目。今日から点滴が一本減って三本となる。夕食から流動食。重湯と味の薄いスープ。今日で付き添いさんには帰ってもらった。。
七月二十五日
術後七日目。今日から見舞いが解禁になったようで、いろいろな人が、やって来た。胃の手術というので見舞いの品々は、メロンとカステラが圧倒的に多い。なかには膀曲がりな友人がいて、漫画の『さざえさん』をどっさりと持って来る。うっかり笑うと傷口にひびくのが狙いだと笑う。点滴三本。
七月二十六日
術後八日目。点滴が二本となりずいぶん楽になった。全部抜糸。ひと頃七十四キロもあった体重が五十三キロ弱になっていた。これじゃあ洋服は全部作り直しだなと思う。抜糸されたトタン、なんだか腹部が頼りない感じで、うっかり咳をすると傷口が開いてしまうのではないか、という気になる。入院した日に見た例の小さな蜘蛛は、天井と蛍光灯と紐を頼りに、立派な巣を張りめぐらせ、中央にデンとおさまっていた。
七月二十七日
術後九日目。今になって手術後に一番辛かったのは何だろうか、と考えてみた。
呼吸困難
咳をするときの腹にひびく痛み
背中から腰にかけてのカッタルイ痛み
鼻孔から通されたカテーテルの不愉快さ
その胃カテーテルも抜去され、トイレにも行けるようになって、ぶざまな留置カテーテルもない。点滴の数もぐんと少なくなってベッドに縛りつけられる時間も減った。病院理事長や付き添いさんが言っていたように「ひにち薬」の効果も見えてきた。すべての苦痛が薄皮をはぐの讐えのように、どんどん軽減されてくる。確かに腹を切り開くということは、おおごとであるし、誰しも切らずに済むなら、済ませたいと思うのが人情。考えようによっては、開腹は耐え難いほどの恐怖感がとめどなくわいてくる。
しかし、自分で内科的治療のチャンスも、経過検診もサボって、手術の他に助かる道はない……というところまで追い込まれてしまうと「決心」はできるものである。また自分で実際に手術を経
験してみると、苦痛は生易しいものではなかったが、時間的にみればたいしたことはない。耐えて耐えられぬものではない。
ふと、私の奉職している国民健康保険組合の創立メンバーで常務理事をしていられた浄瑠璃の豊沢新弥先生のことを思い出していた。常務理事メンバーの懇親会の席上で、痩せてスマートだっ
た豊沢先生を見て、誰かが、
「先生、顔色がよくおへんな。まさか癌と違いますやろな」と冗談を飛ばしたことがあった。が、後日、常務理事同士の冗談から駒が飛び出し、豊沢先生が本当に胃癌らしいと判ったとき、豊
沢先生はずいぶん手術をためらわれていた。
気の優しい人で、病気も末期となり、ご自分では何も口にできなくなっていたのに、組合の職員を先斗町の自宅に招かれ、スキヤキを御馳走され、自ら鍋奉行を買って出られた。ニコニコしながら鍋の具合を世話されている情景が、青白くむくんだお顔が、二十年近く経った今でも目に浮かぶ。
その先生の手術へのためらいが、命取りになったかどうかは知らないが、昭和三十五年八月二日にとうとう亡くなられた。ためらいの揚げ句、手術されたが、もうどうにも手の施しようもない
ほど転移していたと聞く。四日の葬儀の日は私の記憶している限り、「番暑い夏の日だった。
やはり、手術しか助かる方法がない、と結論が出たときには、
ためらわず(時期を失せず)手術を受けた方がいい。今日から七分粥。組合から役員が連れ立って二度目の見舞いにきてくれた。
七月二十九日
体重測定……五三・五キロ。最盛期(?)七十四キロもあったのに、何とスリムになったこと。全部抜糸されてからというものは、咳込んだとたん傷口がパックリ開きそうな気がして、あわててお腹を押さえにかかる。回診に来た若い外科医から、急に腹に力を入れると、傷口が少し拡がることがあるよ、と冗談に言われたことが、頭の中のどこかに引っ掛かっているのかも知れない。
もう十日以上も頭を洗っていないので、何だか痒い。点滴が一日二本となり、一本となってくると、午前中で終わってしまい、午後は退屈が新しい苦痛になってきた。こんな機会でもなければ、まとまった読書の時間が取れないので、読書にとりかかる。
著者からの贈呈本で、まだ読めないでいた
・守屋正著『フィリッピン戦線の人間群像』(勤草書房・刊)
・八尋不二著『京おんなの足あと』(自川書院・刊)
その他
・ジョン・K・ガルブレイス著『不確実性の時代』(TBS・ブリタニカ・刊)
・西ロ克巳著『一輪の梅』(東邦出版社・刊)
・ 西口克巳著『道成寺』(東邦出版社・刊)
など。
入月四日
術後十七日目。体重測定五二・三キロ。食べているのにまだ体重が減り気味。といっても一日五食くらい雀の涙ほどの満腹感では、まだ体重のバランスはマイナス方向だろう。七月の末から毎日見舞いの方々が千客万来。接待する妻はずいぶん気苦労だろう。昼間、点滴のときにうつらうつらしていると、夜バッチリと眼が冴えてしまう。入院するまで夜更かしの朝寝坊だったのが、入院
以来、夜十時消灯、朝五時には目覚めてしまう生活になってしまった。それにしても夕食の時間が四時半とは早いにも程がある。したがって夜が長い。長すぎる。で眠れないで眼を開けていても、
親愛なる小蜘蛛君しかいないし、浅い眠りに落ちても、さまざまな夢ばかり見るようになった。幼少時は別としてもう四十年以上夢とは無縁だったのに。
満洲時代の出来事が全く脈絡なしのこんがらがった様相で現れる。戦後八年間も満洲(現在の中国東北部)にいたので、引き揚げに関した夢が多い。ようやく八年ぶりに日本に帰国できた、と喜んでいると、また、日本から満洲に舞い戻っていたり……する。水で薄めた昔の悪夢のようなもの。幼少時に見た気味の悪い夢の焼き直し。
八月二十一日
もう術後三十四日目。病床生活も1ヶ月を過ぎている。術後初めてのレントゲン検査。ひと口、ふたロバリウムを飲んでは皺像を探り。吻合部分状況を確かめた外科部長。
「うまいこと、くっついているぞ」
あとから聞いた話だが、胃壁に大きな潰瘍が幾つもあり、幽門部潰瘍、十二指腸潰瘍と病巣が広く、胃切除の範囲も普通の場合より大きかったらしい。また、手術後の当直の看護婦さんたちが
「高橋さん今夜もつだろうか」と心配していたという。胃からの出血で貧血もひどかったらしく、体力がずいぶん落ちていたこともあった。
◇
この病院の院長、理事長とは古い付き合いで遠慮がない。毎日のようにベッドサイドにやってきて、しばらくあれこれ雑談して行く。特に流動食になってからは、
「自分で言うのも変だが、この病院の給食ときたらまずいもんなあ」
と、平野屋の鮎茶屋から鮎の塩焼きをとってくれたり、市内の料亭から弁当を取ってくれたりした。
切腹した傷口は鳩尾から、膀をくるりとよけて下腹部まで切り下げられていた。その縫合の跡がまるで魚の骨のようだった。いつかは薄れていくだろうが。
八月二十四日
回診にきた院長が、
「どうだ、もうそろそろ家に帰りたいか」と、突然に聞く。「もちろん」と答えると、
「何時でもいいよ。今日帰るか」とのことなので、「では明日に」と答えて、私の入院生活にも終止符を打つことになった。
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《終り》
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〔「京都府立京都第二中学校44期同窓会誌 第2巻 「卒業後半世紀 終戦後半世紀」 1995年
6月3日刊行に書いた言葉〕
どうして私が思い立って「手術記」などをここに載せたか、というと、馬車馬のように仕事一途に頑張ってきた結果、死ぬか生きるかの瀬戸際に追い詰められ、初めて、自分の生き甲斐は何だ
ったのだろうか、と半生を問い直すきっかけになったから、いわば、自分の生き方の転機を迎えた事を自覚したからだった。
で半年余りの術後の養生を終えて事務所に顔を出したとき、
「よし!これからは遊ぶぞ」
と職員たちに宣言し、手初めに休職期間中に取った自動車の運転免許を手がかりに、暇を見付けては長距離ドライブに精を出し、また仕事のやり繰りをしては海外旅行に出かけることになった。
少々無理はしても、いざ臨終を迎えたとき、あれもしたかった、これもやっておけば良かった……などと悔いを残さないためである。
人生の終末をいかに迎えるか。そのとき、良い人生だった、と言えるかどうか。自分に残された時間がどのくらいあるか分からないが、精一杯、したい事をしてやろうと決心したからである。
〔そうして又、13年が経過し私も満八十一歳を過ぎた。しかし今更付け加える言葉もない。胃十二指腸の手術をするまでは、自信過剰で仕事一途に過ごした。斃れたおかげで自動車運転免許証を取得することが出来、一人で、妻と二人で本州の府県と北海道から九州の鹿児島まで、主なハイウエイも走りめぐった。また手術が一つの機会になって海外旅行にも行くようになった。〕
A 脳卒中で緊急入院
…というタイトルをつけると、波乱万丈、疾風怒濤、といった言葉が出てくるが、昨2003年年12月2日の朝は、ごく爽やかな穏やかな目覚めで始まった。 だが、フトンを撥ね退け半身を起こして、いざ起き上がろうとした時、何故か分からないが立ち上がれずに、ゴロンと左に転がってしまった。二度、三度試してみても、起きられずにゴロンと転がるばかり。そこで初めて何か異変が起きているらしい、と気づいて、まず腹ばいになり箪笥のところまでいざりより、どうにか掴まり立ち出来たが、左下腿が全然いうことを利かないのだ。まるで人形の足か、大根をぶらされたように動かない。痛みも痺れもない。フト脳裏に脳梗塞かなという思いが過ぎったが、左手は動くし異常なし。言語障害もない。どうにか苦心して階下に降り、洗面、食事を済ませて、とりあえずかかりつけの病院に行かねば。 救急車を呼ぼうかとも考えたが、左下腿が動かないだけである。外から見れば至極元気そうに見える。で、考えたオートマチックのマイカーならアクセルもブレーキも右足だけでOK、両手も使えるので、家内は不安そうだったが,クルマの運転席に滑り込んで助手席にいつものように家内を乗せ、病院に向かった。
【脳卒中患者がマイカーで病院に行った…ことは、主治医にも呆れられたり、誰もが「よー、無茶やるわ」となじられたりした】
《 病院で緊急に診てもらうと、すぐ入院するよう言われ、ヘリカルCTの検査を受けたあと、ベッドに上がるとすぐ血栓を溶解する薬剤と血小板を押さえる薬の点滴がおこなわれた。軽い脳梗塞の発作だと言う。》
それから十日間。検査以外の時間は完全に点滴のためベッドに縛り付けられることになった。二日目に島津製作
所のメディカル・センターの中にある診療所でMRIの検査を受けた。頭部ばかりでなく、胸部、腰腹部も検査さた。
病院に帰ってくると、主治医がシャゥカステンに架けた写真を示して、後頭部に近い位置をさして、「そら、ここに微小梗塞が5,6箇所あるだろう。その一つが下腿の運動神経に関係しているので、左の下腿のみに障害をおこしているのだ」と説明してくれた。主治医は脳梗塞に詳しく、パソコンを立ち上げて、脳の部位と小さな梗塞の起きた場所により、どこの運動が阻害されるかの詳細な系統図で説明しくれた。 左下腿の不如意はすぐよくなったが、いつ再発するか解らないので、十日間は点滴を浮け続けた。まあ、その間ベッドに釘ずけ。11日目に主治医から「もう帰ってもいいよ」と言われたが、十日間の寝たきり状態がたたって、運動機能がなかなかもとに戻らず、少し平衡感覚もおかしくなった模様。大したことはないものの、よろめいたり、あちこちにぶつかったりする。気力の低下も著しい。ホームページの更新やインターネットでの検索などは、前どおり出来るのでデスクの前に、私が開設している七つのホームページに新しいコンテンツを作ってアップロードし、半日座りづくめの日を送っている。
〔終り〕
《第四章》残された貴重な時間のために
私が現在〔2008年〕自分史をまとめている時点から13年昔、当時68歳の私がこれからの余生についてどんなことを考えていたか…、81歳になって感じたことと比較してみるのも一興と、同時にここ13年間をいかに過ごしてきたかを先ず、ご覧頂きたい。
現在の楽しみと日常の日々 〔1995年に書いたもの〕
あと二年すれば七十歳。もう残された歳月は(いくら楽天的に考えても)そうは多くない。だが、十分に生きただろうかは些か疑問。しかし今更考えても、どう仕様もない。他の人々に迷惑をかけない程度に、これからは自分のしたいことをする、行きたいところに行く。死に際になって、ああすれば良かった、あそこに行きたかった、と後悔するのはまっぴら。
と言ったところで、現在〔1995年〕の私。
◇ボランティアめいた仕事
京都府立文化芸術会館友の会世話人
京都府立文化芸術会館室内楽の会世話人
京二中鳥羽高校同窓会幹事
などを自分で希望した覚えもないままにやらされている。が、リタイアして付き合いが減るどころか、むしろ増える一方。年賀状を交換する相手も百五十名以上多くなっている。まあ、私に期待してくれるのも有り難いこと、と仕事が増え、忙しくなっても苦情は言わないことにしている。
◇海外旅行ヨーロッパ、カナダ方面十三回、これから行ってみたいコースニ十ほど(年に二回出かけるとしてざっと 十年、どうしよう?)
そうそう、こんなこともあった。一九九一年十月二日、カナダ東部の旅行を終えてニューヨークに三日間滞在したときのこと、朝からメトロポリタン美術館に行って、午前中いっぱいギャラリi各室を見て回った後、昼食をとりにビュッフェに行く途中、表ロビーのところで、
「おい高橋君、高橋君じゃあないか」
と呼びかけられた。振り返ってみるとブルゾン姿のラフな恰好をした京都府立京都第二中学校卒業の同期生・西京区で歯科医院をやっている安藤美明君が立っていた。安藤君は同じ歯科医師の立派な跡継ぎ息子がいる、いいご身分なので、ふらっとよく単身で海外をウロツイテいるとは聞いていたが、こんな所でバッタリ出会うとは。最近は、年間一千万人以上の日本人が海外に出かけている、というが、広い世界で知人に出会う確率はあまり多くないだろう。しかし、偶然とはあるもんだねえ、と感嘆しきり。しばらく立ち話をしたのち、約束があるのでという安藤君と別れた。
また、海外旅行を私的な楽しみだけに留めず、スライドを使って、また講演会や、写真展への出品、雑誌への寄稿など些細ながら社会に還元できているのも、生きがいになっている。
◇定期的に行っていること
☆写真展への出品
京都写真サロン展 京都市美術館年一回六、七月頃
京都自由写壇写真展 京都府立文化芸術会館七、八月頃
「新美」展覧会 京都市美術館年一回八、九月頃
洛迷会写真展 丸太町画廊年一回十一月
全日本写真連盟京都府本部会員
京都芸術家協会会員
京都自由写壇会員
☆写真スライドを使った講演会
年一回京都府立文化芸術会館
第一回一九八六年七月二十四日 『フォンテンブローの森と宮殿』
第二回一九八七年二月二十七日 『ローマとヴァチカン』
第三回一九八九年二月二十二日 『モンサンミッシェル』
第四回一九九〇年三月二十七日 『イタリア・ルネサンスの旅より』
第五回一九九一年三月二十七日 『アルザス・ワイン街道の旅』
第六回一九九二年四月二十三日
ボケないように
ただ今のところ、私の体調はまあまあというところ。意志が弱くてタバコがなかなか止められないので、海外旅行でもJR、私鉄の駅でもタバコを吸うことの出来る場所がだんだん制限され、「タバコは癌や心臓病の大敵」と威され、肩身の狭いこと。コレステロール、中性脂肪が多いので一日二回の服薬は守っているが、明日は何事が起きるのか分からない状態。血圧は、
日取古同血圧一一〇〜一二〇r/認
最低血圧⊥ハ○〜七〇r/44
だから、まず脳出血、脳梗塞はないだろうと思っているが、心臓血管の方はかなり危険を内包していると自覚している。そのうえに怖いのがボケ。毎日二十五万個の細胞が死滅していると聞いては穏やかではない。それで、三年前からパソコンで頭の体操に取り組んでいる。
パソコン通信のことは書いたが、マニュアル本だけで五、六十冊、関連の解説書を並べると、本棚の二段は占領されている状態。私は何ゆえか、一番ポピュラーな機材に縁がなくて、カメラはニコンではなくてミノルタを愛用し、パソコンも日本で一番シェアーの高いNECの98シリーズでも、最近増えて来たマッキントッシュでもなくて、富士通のFM-TOWNS。現在のラインアップは、
パソコン本体
ハードデスク
ブリンター
通信モデム
イメージスキャナー
といったところ。分厚いマニュアルのページを繰り、能を確かめるのは、本当に頭の体操になる。また、
ワープロソフト一
富士通「オアシス」
ジャトスシステムの
=太郎forWindoWs(バージョン6)
マイクロソフト社の
「MS-WORD(バージョン6)」
と三本も使っている。
他のソフトでは、総合ソフトのMS-OFFICEや、立体画像システムなど多数。本当に退屈している暇はない。
FM-TOWNSMX370
ハードデスク 内蔵370メガ・バイト
ハードデスク 外付640メガ・バイト
プリンター CITYRITER(PRIB400>
プリンター CANON BJC1400J
通信モデム FM1414(FAXIMODEM)
通信モデム 富士通F2400H
イメージスキャナー 富士通FMSC-6111G
と言ったところ。分厚いマニュアルのページを繰り、一つ一つ機能を確かめるのは、本当にアタマの体操になる。またソフトも多い。
ワープロ一つとっても
富士通「オアシス」
ジャストシステムの「一太郎 for Windows」バージョン〔6〕
マイクロソフト社の 「MS-WORD」バージョン〔6〕
と3本使っている。
《そして13年後の現在 2008年のシステム》
パソコン本体 Gateway707JP
| 2005年8月26日に買い換えたばかりのGateway707JPです。 OS WINDOWS Vista Home Premium 【2006年2月17日 インストール】 CPU Intel Pentium D 2.8GH チップセット Inter 945G 二次キャッシュ 2×1MB メインメモリ DDRU 1GB ビデオメモリ 128MB ハードデスク・ドライブ 250GB デスクドライブ DVDスーパーマルチドライブ (DVD+R 二層記録対応) DVD+R/−R 書込 : 最大 16倍速 DVD+RW 書込 : 最大 8倍速 DVD−RW 書込 : 最大 6倍速 DVD+/DL 書込 : 最大 4倍速 DVD−RAM 書込 : 最大 5倍速 CD−R 書込 : 最大 40倍速 CD−RW 書込 : 最大24倍速 DVD−ROM 読出 : 最大16倍速 CD−ROM 読出 : 最大40倍速 インターフェィス USB2.0ポート ×7 メディア・リーダー(SDメモリーカード、スマートメディア、コンパクトフラッシュ、 メモリースティック、メモリースティックPro、マイクロドライブ マルチメディアカード) ※他は省略 モニター Gateway TFT液晶モニター FPD1975WJ プリンター
もう一台のパソコン
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それでも怖い終末のとき
「死」についてどう考え、受け止めているか。私たちの年代にとって、もう身近な問題になっていることは、誰しも否定できないのではないか。
同期生の仲間の計報を、多い年で二、三人、少ない年で一人は聞く。かつて(だいぶ昔の話だが)、南禅寺だったか、さる高僧と衆目の認める老師が癌にかかり、終末のとき「死にたくない」と泣き叫び、醜態を演じた、と聞いたことがあった。高齢で行いすましたこの人がまさか、という論調だったが、人間の本音だと思うと笑う気にもなれない。
私が「死」の恐怖に取りつかれたのは、まだ中学一年生の頃だったかと思う。その頃、天文学に興味をもっていたが、宇宙創成の話や、何億光年という人知では計り知れない距離を考えるとき、また、もう五十億年もすると太陽の終末期の膨張に地球も飲み込まれてしまうという推測。……それが、突然、自分自身の生命のことに思い及び、自分の「死」により、自分が存在しなくなるという恐怖が胸を強く締め付けたのだった。
六十歳を過ぎて、何年かに一度、その思いが突発的に蘇ってくるのである。「一切空」……といっても、私の死後も森羅万象は存在し、まだ未来に時間をいっぱい残している若者は、生を謳歌し続けるだろうということ。
『なんという不条理。私の死後も、さんさんと太陽は輝き続け次から次へと若者たちが育ち、海浜に穏やかな波が寄せ、アルプスの峰々に歓声が餌する。
オーストリアのペルチャッハのシュロス・ホテルでは、髪の黒い目のバッチリしたウエイトレスが忙しげに立ち働き、ブダペストのカタリーンさんは、霞がかったような青い目をしばたかせながら、日本人を相手に熱心にしゃべり続けていろだろう。世の中は何も変わらないように、日々の時間が流れて行く。ただ、私だけが存在していない。そんな不条理に耐えられるだろうか。
絶えず配属将校の高圧的な叱声を浴びていても、京二中時代の私は、青春の真っ只中にいた。過ぎ去ってしまったあの暗い日々でも、私にとってはかけがえのない、時間だった……と、今になって悔恨の念とともに回想している。だが、私に残された時間は余りにも少ない。そんな不条理に耐えられるだろうか』いつ頃からか、新聞が配達されて来ると、社会面の死亡記事に目がいくようになった。死亡年齢、死亡原因……それらを自分と重ね合わせて読むようになってしまった。なるべく現世のことばかりに目を向け、時間の許す限り、未だ見ぬ国々をより多く経めぐりたい。新しいものに挑戦したい……と、あがいている有り様。それが、表面元気な私の裏側なのである。
13年前の私に比べて、その後の私はどういう軌跡を辿って来たか。これからは2008年の現代に帰り、前記の続きを振り返ってみることにする。正直なところ還暦を迎えた頃は、まあなんとか70歳までは生きられるだろう。という心算で、心の中では先ず10年計画を立て、出来る限り妻と二人で世界を見て歩きたい。私なりの「クオリティ・ライフ」というか、充実した余生にしたい、と強く思っていた。
だが七十歳代には二つの大きな出来事があった。
一つは、長男が若い頃に感染したウイルスがが、40歳代になってB型肝炎の感染が発症し、症状が現れるたびに京都大学病院で入院治療を受けるようになり、だんだん肝硬変、肝臓癌に移行数え50歳でなくなってしまった事。私が74歳の折に脳梗塞で入院してしまった事。
私の海外旅行への夢は、長男の死意向は断ち切られてしまった。それ以降のことを述べる前に、「卒業後半世紀・終戦後半世紀」に記した以後の海外旅行の記録と、パソコン通信とパソコンのこと自体について書いておきたい。
《私の海外旅行の記録》
★第1回
1982年7月27日〜8月8目〔12日間〕オランダ、スイス、フランス
『花と平和を訪ねて・ヨーロッパの旅』 富士国際旅行社添乗員 滝本 正史
★第2回
1985年8月24β〜9月4日〔12日間〕ドイツ、オーストリア、スイスフランス
『メルヘン街道とオーストリア、スイス、フランスの旅』 東急観光株式会社添乗員 木下 洋子
★第3回
1986年8月20日〜9月i日〔13日間〕
イタリア、ドイツ、オーストリア、スイス、フランス、イギリス
『熟年ヨーロッパ漫遊』 近畿日本ツーリスト添乗員 木村 宗温
★ 第4回
1988年7月4日〜7月17目〔14日間〕フランス
『ボンジュール、フランスー周の旅』 トラベル世界株式会社添乗員 高田 善人
★第5回
1988年12.月i4日〜12月18日〔5目問〕シンガポール、マレーシア スカイ・ツァー株式会社現地ガイド
★ 第6回
1989年6月20日〜7月2日〔12日間〕オーストリア
『オーストリアの魅力を訪ねて』 JTBワールド添乗員 岩本 茂子
★ 第7回
1989年10月11日〜10月25日〔12日間〕 イタリア
『イタリア・ルネッサンスの旅』 ワールド航空サービス添乗員 中屋 雅之
★ 第8回
1990年4月18日〜5月2日〔14日問〕
ドイツ、ルクセンブルグ、ベルギー、オランダ
『オランダ花のパレード』 朝日サン・ツァーズ添乗員 片山 明美
★ 第9回
1990年10月1日〜10月12目〔12日間〕フランス、ドイツ
『アルザス・ワイン街道と南ドイツの旅』 ワールド航空サービス添乗員 広田 一茂
★ 第10回
1991年9月22日〜10月4日〔13日間〕アメリカ、カナダ
『東カナダ・シャトーホテルとナイヤガラの滝』 ワールド航空サービス添乗員 伴野 恭子
★ 第11回
1992年5月29日〜6月10日〔13日間〕イギリス
『スコットランドとイングランドの旅』 ワールド航空サービス添乗員 嶋田 信郎
★ 第12回
1993年3月8日〜3月20日〔13日間〕スペイン
『アンダルシアの白い村とパラドールの旅』 ワールド航空サービス添乗員 吉尾 正人
★ 第13回
1994年9月18日〜9月30目〔13日間〕ハンガリー、スロヴァキア、チェコ
『チェコ、ハンガリー古都の旅』 ワールド航空サービス添乗員 伊藤 昌美
★ 第14回
1995年8月19日〜8月30目〔12日間〕
フィンランド、スゥエーデン、ノールウエイ、デンマーク
『北欧4力国とフィヨルドの旅』 ワールド航空サービス添乗員 木村 朗子
★ 第15回
1996年6月22日〜7月4日〔13日間〕
フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド
『バルト三国とポーランドの旅』 ワールド航空サービス添乗員 国本 龍樹
★第16回
1997年6月17日〜30目t13日間」
ドイツ、オーストリア、スイス、フランス
『美しきアルプス湖畔の街とアヌシーの旅』 ワールド航空サービス添乗員 森田 孝徳
★第17回
1998年3月23日〜4月4日〔13日間〕
『トルコー周とカッパドキアの旅』トルコ ワールド航空サービス添乗員 嶋田 透子
★ 第18回
1999年4月10日 〔11日間〕
『旅情の運河・江南古都めぐり』 トラベル世界サービス添乗員 岩東 礼奈
《京都府立文化芸術会館友の会・室内楽の会》
同窓会誌の第2巻「卒業後半世紀・終戦後半世紀にも書いたように、京都府が府立文化芸術会館の設立を企画したときから、私は京都府から依頼を受けて、府立医科大学病院の真向かい河原町通りの西側に建設する新しい文化施設に、文化芸術団体に説明に回り、平面図を見せて意見を聴く役割を手伝うことになった。主に演劇、音楽団体の有識者を廻ったのである。それが機縁で、開館式を済ませてから、府民参加の組織が二つ誕生した。
京都府立文化芸術会館友の会と室内楽の会が作られたが、私は自分から手を上げたこともないのに、両方の事業の自主的な運営に参加する世話人会の一人に指名された。友の会は年に何回か行われる見学会、文芸ラウンジ、舞台稽古見学会、工房見学、版画教室、折り紙教室、陶芸教室、年に1回は大阪芸大の藤波晃氏と私が海外で撮影してきた「スライドとお話」会など多彩な会員参加行事の企画のために世話人会を開いたり、室内楽の会では初めは年12回の演奏会を海外の著名なカルテットや演奏家を招聘したり、地元の有望な演奏家などによるユニークな例会を企画するために、年に数回は世話人会を招集して事業を展開していた。
スメタナ・トリオ アンドラーフ・シフ〔ピアノ〕 コダーイ弦楽四重奏団 ウイーン・ムジーク・フェライン弦楽四重奏団 バルトーク弦楽四重奏団 カール・ズスケ・ヴァイオリン・リサイタル クリーブランド弦楽四重奏団 ヤナーチェク弦楽四重奏団など海外からの著名演奏家、団体の演奏が低料金で聴けるメリットがあった。世話人会では良い演奏会を開きたいという皆の熱意で、次年度の室内楽の会の構成で何度も世話人会を開いては協議していた。
何時ごろからか、府からの財政支援がだんだん削られるようになり、数年前に室内楽の会がなくなり、友の会も会員行事への府の財政支援が年々削られて、この2年間には出来なくなって名ばかりの下出来なくなっている。

こうした自分史は、時々ふっと思い出すことがあり、何時まで経っても完成することはありません。
幼少時の思い出、中国から帰国してからの仕事のこと。これからは思い出した時々に「落穂拾い」のように書き込んでゆきたいと思います。脳細胞が刻々と死滅してゆくのを感じながらも、果て知らぬ自分史の続きのつもりで。