
旅感覚 私のロマネスク
【欧羅巴印象記】
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この旅行記は1982年に私が海外旅行なるものを初体験したときの、驚き、
感激、とまどい、失敗について書いています。
前回(6月15日)にアップした「パリのペールラシェーズ墓地」からの
続きです。スイスに出かけていたり、差し迫った写真展のことなどにかまけ
て1ヶ月以上のブランクになりましたが、なにとぞご容赦下さい。
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◇◇◇ 旅感覚・・・・私のロマネスク ◇◇◇ 〔31〕 (長文)
【欧羅巴印象記】 by ろまねすく
★ パリ駆け足観光 ★ (4)
[お上りさんのパリ見物 1.
ノートルターム・ド・パリ]
話はまたまた飛びますが、ヨーロッパ・ツァーの最終日。ホテル・アンバサダー・コンコルドの玄関で、空港行きのバ
スを待つ間、パリ観光についてめいめいの感想を交わしていましたが、みんなの一致したことは、
「たった2泊ぐらいでは、十分どころか、ほとんどと言っていいほど見ていない」という意見でした。もちろん、モンマルト
ルの丘のサクレクール寺院、エッフェル塔、ノートルダム寺院などは廻りましたが、京都に来て観光バス
で三十三間堂、清水寺、平安神宮、金閣寺などのポピュラー・コースを周っただけで、「京都を観た」といえるのでしょ
うか。
東京のハトバスに一回乗ったぐらいで東京を見たつもりになれるでしょうか。
また、帰国便に乗ってからの同行者たちは、早くも次のヨーロッパ旅行を目指して、
「明日から、ちょっと食費をケチって来年の費用を貯めようっと。」
「やはり言葉ね。ECCに通うわ」
「すぐ次にはどこにしょうかと、考えるのが楽しみね。」
と、おおかたの同行者は夢見ていました。みんな今回が初体験でしたが、どうやらほぼ全員が海外旅行にはまってし
まったようでした。
閑話休題。
ペール・ラシェーズ墓地を出た私たちは、ラルシュベシェ橋を渡ってシテ島に入り、ノートルダム寺院を後ろから眺め
る所でバスを降りました。フライイング・バットレス建物を支えている眺めはいいものです。ぶらぶら歩いて正面に廻
ります。
生まれて初めて私が、足跡…モトイ!単なるあしあとをしるしたこの地が物の本によればパリ誕生の地だとか。紀
元前六十年頃は、ただ葦のみが生い茂る小島であったこの地に、パリシーと呼ばれる水上民族が住み着き、水
運、漁業、さらにはセーヌ川の両岸で農耕や狩猟をして暮らしていたらしい、といいます。この水上民族のパリシー
から「パリ」の名が生まれたとのことです。
背後から眺めたノートルダム寺院の第一印象は、あまりに度々本の挿し絵や写真で馴染みになり過ぎているので、
新鮮なショックはありませんでした。
近ずくにつれ、側壁を支えているつっかい棒…フライイング・バットレスと壁面の装飾、怪獣の形をした雨水の吐き出
し口などが、ゴシック建築の圧迫を感じさせます。
正面に出ると、思わず後じさりして全容を視界に入れようとしてしまいます。二段になったバラ窓。エントランスすぐ
上のバラ窓の大きさ。さすがゴシック建築の最高傑作であり、世界の建築史上でも抜きんでた偉容です。
十二世紀初頭に僧院としてその基礎が開かれ、千百六十年にモーリス・ド・シュリイ僧正によって大伽藍の構想が
まとめられ、三年後に着工。二百年余りの歳月をかけて完成、献堂されたと案内書には書かれていました。
正面に立ってファサードを眺めます。南北に四角い塔があり、ほぼ中央に大きなバラ窓があります。扉口は三つ。
向かって右側が聖アンヌの扉口。真ん中が最後の審判、左側が聖マリアの扉口。
見事なバラ窓ですが、ブリタニカ国際百科事典によりますと、
『バラ窓はいち名「車輪窓」とも呼ばれ、ロマネスクおよびゴシック様式の聖堂建築において、西または南北のファサ
ード上部中央に、中心より放射状に広がる格子によって、一種のバラの花状または車輪状のパターンをなす円形
窓。』
と解説しています。ノートルダム寺院のバラ窓も、アプシスのある後陣を除く三方にあります。
内部に入れば差し込む外光が色鮮やかな模様を浮かび上がらせるステンドグラスも、外から眺めるとガラス面はた
だ灰色のジミなもの。
バラ窓に初めてお目にかかったのは、ローザンヌの大聖堂(皆さん覚えておいででしょうか、ツァー責任者の私が迷
子になり、みんなの心配をよそに、ヒッチハイクをしたり、タクシー、列車、登山電車を乗り継いでツェルマットまで一
人旅をしてしまったトコロ)でした。ローザンヌの大聖堂のバラ窓は、バラの花の形をしていなくて、四角と円を組み
合わせた幾何学的な模様で、その大きさにもかかわらず、地味なものでした。
さすが、ノートルダム・ド・パリ。内部に入って見上げたバラ窓は、華や
かな色彩に溢れすっかり魅了されました。
添乗員の滝本さんに促されて、ノートルダム寺院の内部に足を踏み入れました。曇り空にもかかわらず、入ったと
たんは暗さに眼が馴れるまでかなり時間がかかりました。高いところにある窓からの外光と、わずかなローソク
の光では、中は中世以来の暗闇が私たちを包み込んでいる気分。
真ん中の身廊と両脇の側廊。天井をふり仰ぐと、飾りのない交差肋骨窮窿。身廊には小学校の講堂に置かれてい
るような木のベンチ状の信徒席。広い堂内のあちこちに、いろいろの国からやって来た観光団のグループが、そぞ
れの言葉でガイドから説明を受けています。
ガイドブックによりますと、この大聖堂は、
奥行き 130メートル
幅 48メートル
高さ 35メートル
内陣は暗くて静か。大きな声ははばかられる雰囲気です。ガイドの説明もグループの会話もこころなしかひそひそと
声が抑えられていました。
バラ窓だけが、差し込む外光に青、赤、白を華やかに浮かび上がらせています。35メートルある天井は、煉瓦を積み上げてつくられたものですが、
太い柱の列と、外からはフライイング・バットレスに支えられているので、幾何学的、力学的な力強さを感じます。
何かで読んだ記憶がありますが、この構造では、中央の一枚の煉瓦をはずしただけで、全体がガラガラと崩れ落ち
るほどの絶妙なバランスだというこ
とです。
正面のバラ窓は、直径が9・6メートル、十三世紀のもので、二人の天使に見守られている聖母子像がテーマのよう
でした。
堂内を移動するにも足下が暗く、つい擦り足気味。祭壇近くには、塀のような障壁で囲まれた一画があり、中にしら
じらと彫像がかいま見られていたが、ミサなど礼拝や行事が執り行われる舞台だろうと思いますが、なにしろ暗くて
良く見えませんでした。
再び外光のもとに出ました。セーヌ川に面したコンクリートの護岸壁には、幹の直径が5cmにもなっている蔦が、7
〜80cmはあろうと思われる護岸壁を乗り越え、川にたれ下がる勢いで葉を茂らせていました。
シテ島にはフランス革命のおり、かのマリー・アントワネットも断頭台に上がる前に最後の夜を過ごした革命裁判所
の拘置所となったコンシェルジュリーや、ステンドグラスの美しいサント・シャペルなどがあり、また、サン・ルイ島にも
足を伸ばしたかったのですが。
何しろ、二泊するとはいえ、実質駆け足半日観光。スゴスゴとバスに戻ってエッフェル塔のビューポイントの一つ、シ
ャイヨー宮の方に向かいました。
第31回おわり
◇◇◇ 旅感覚・・・・私のロマネスク ◇◇◇ 〔32〕
【欧羅巴印象記】 by ろまねすく
●FWORLDA MES20 #4138 「旅感覚…私のロマネスク」(32)からの続きです。
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この旅行記は1982年に私が海外旅行なるものを初体験したときの、
驚き、感激、とまどい、失敗について書いています。パリの市内観光の
続きです。パリ初日の午後は、近くのオペラ座界隈の探索です。
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★ パリ駆け足観光 ★ (6)
[オペラ座界隈の探索…… 1.]
さて、初めてたどり着いたパリ。見たいところは山ほどありますが、いかんせん遠出するほどの時間はなし、また遠
出してジタバタ走り回るよりも、せっかくオペラ座の近くに宿をとったのだから、散策がてらオペラ座見学もいいだろうと
考えて、午後3時ごろカメラ片手にホテルの玄関まで出たのですが。……
どこへ行こうか、と、とつおいつ考えあぐねていたらしい同行のご婦人連中に、
「どこへいらっしゃるのですか」
と声をかけられ、
「ぶらぶらオペラ座まで」
と答えると、いっしょに連れていって欲しい、と。
結局、元お嬢さんの三人連れと一緒に、オスマン大道をオペラ座の方角にぶらぶら歩き出しました。幅の広い舗
道」の端には緑の濃い並木、両側
には見事なほど高さのそっろた建物が空を一直線に切りとっています。
どの建物も石造りのどっしりした年代物で、ああパリに来たんだ…という感慨がひとしお。
通りすがりにハンドバッグの専門店などをのぞき見ながら、ラファイエット百貨店の角から左折、オペラ座のうしろか
らの姿を見ながら正面に廻りました。
オペラ座のファサードの前は、広場を中心に7本の通りが交錯しています。大通りだけでも、カプシーヌ大通り、9月
8日大通り、オペラ通りとあり、東西南北に碁盤の目のような京都、通りの名を基準に「あがる」「さがる」「東入る」「
西入る」で解りやすい京都に、体の髄まで慣れ親しんでいる私には、ちょっとびびりそうな都会です。
横道にそれて、うっかり角ひとつ曲がりそこなえば、とんでもない方角に行ってしまいそうです。大通りいっぱいにク
ルマが溢れ、観光客もゾロゾロ。一名「日本人通り」といわれているオペラ通りの角には、パリ三越が見えていま
た。
気の利いたパリジャン、パリジェンヌ達はとっくにバカンスに出かけているでしょうから、オペラ座の前にたむろして
いる若者達も、うろうろ往き来している人々も、大部分は私たちの同類でしょうね。
もちろん、夏真っ盛りの今頃はオフシーズン。なにも演っていないでしょうが、オペラ座内部の見学は出来そうです
ので、土産話の種にもと入場券を買い中に入りました。
この世界的にも有名なパリオペラ座(この時点ではまだフランス大革命を記念する7月の円柱が立っているバスティ
ーユ広場の新オペラ座は出来ていません)は、1860年に設計のコンペが行われ、171人の応募者の中から選ばれ
た、シャルル・ガルニエという弱冠35歳の建築家によって設計されたものです。ナポレオン三世の命により礎石が置
かれたのが二年後の1862年。完成したのは1875年(明治八年)といいますから、ざっと百年以上になります。
座席数は2,200と、最近たくさん出来た日本の大きな劇場と比べ、そうびっくりするような規模ではありませんが、こ
れが百二〇年前のものだということを念頭にすると、やはり大したものですね。
第32回おわり
00108/00108 HAC01341 ろまねすく 「旅感覚・・・私のロマネスク」(33)
(20) 97/08/09 10:34
◇◇◇ 旅感覚・・・・私のロマネスク
◇◇◇〔33〕
【欧羅巴印象記】 by ろまねすく
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この旅行記は1982年に私が海外旅行なるものを初体験したときの、驚き、
感激、とまどい、失敗について書いています。パリの市内観光の続きです。
パリ初日の午後は、近くのオペラ博物館に入って、存外楽しめました。
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★ パリ駆け足観光 ★ (7)
[オペラ座界隈の探索…… 2.]
正面アーケード右側にある有名なカルボーの群像彫像「ラ・ダンス」を眺めてから入り口へ。オペラ座の
正面脇の通用口から入り、入館料6フラン(1982年当時、今は幾らくらいになっているのでしか。1991
年刊行の日本語版グリーンガイドには20フランと出ていました)を払って、エントランスのロビーに出とた
ん、まばゆいばかりの照明にきらめく総大理石の正面階段、太い円柱に支えられた高い吹き抜けの天井、階
段一面の装飾に、度肝を抜かれました。
階段を上がったところは一階を見下ろす回廊になっていて、その外側にも列柱で区切られた広い回廊があ
ります。
そっと重々しい扉を開けて、中に入ります。余りにも1964年に有名なシャガールが制作したの天井画「愛
の花束」を見上げ、半円形に舞台に対したボックス席、幕の下りた舞台の方を眺め回しました。
残念ながら一回の平土間席は、七、八月のシーズンオフでの改装のため椅子は全部取り払われていまた。
しかし、どうもデジャー・ヴに悩まされます。初めてなのにその気がしないのです。写真や映画の一場面
で何度も見たせいでしょうか。
二階の豪勢なロビーを見て回ることにしました。建物正面側のロビーは、まるで宮殿のように華やかで
す。豪華絢爛の金ピカピカ。シーズン中のオペラ上演時には、正装した貴顕紳士淑女に溢れ、幕間にはエス
プリにとんだ会話が弾んでいたことでしょう。また、もう少し時代を遡りパリが世界の文化の中心に位置し
ていた古き良き時代には、腰をコルセットで強く締め鯨の骨で作った輪を膨らませた淑女が、このロビーを
一段と華やかに飾ったことでしょうね。
二階ロビーの曲がり角の小部屋には、トルコ石のようなブルーの大きな陶器の壺が飾ってあります。反対
側の角にも同じように陶製の壺が
置かれています。
ひとしきり言葉もなく感嘆した後、オペラ通りに面したテラスへの扉が開いていたので、テラス越しに外
をのぞいてみました。石の手すりには鳩が二羽翼を休めています。威風堂々としか表現のしようがないほ
ど、高さの揃った石造りの建物が、遠近法とはこんなもんだ、と云う
風に見えています。その谷間が広いオペラ通り。右側の角にパリ三越。
オペラ座内部の金ピカに幻惑された目で眺めると、少し靄っている為か灰色にくすんだような街景です。
しかし、なにかしらパリにはこうした陰鬱な気分が似合うようにも思えます。
西側のガルニエ通りに面した回廊にある「オペラ博物館」の方に廻りました。ここにはオペラ座の公演記
録や、いかにも時代がかった古い楽譜、オペラ座の装置模型、マーゴ・フォンテェーンを始め、世界的に有
名なバレエのプリマドンナが身につけたバレエ衣裳、舞台装置のミニチュア、舞台で活躍したかって名優、
バレリーナたちの遺品などが展示されていました。
この装置模型を見ただけで、パリ・オペラ座の舞台が広いかが分かりました。
館内にどれほどの時間を過ごしたのでしょうか。ようやく同行者たちの顔色にもいささかの疲れがにじん
できた様子なので、外に出ました。オペラ座の前の広場には、相変わらず何をするでもなく、閑を持て余し
ているような若者たちが、べったりと地面に腰を下ろしておしゃべりに余念がないように見えます。所在な
げにウロウロしている人々。
パリのクルマ・ラッシュも凄い。オペラ通りとグランブールバールはクルマの波がとぎれない。それ以上
に凄いのが辺り構わぬ二重、三重の駐車。犬の落とし物。
[オペラ座界隈]
パリの通りは一体全体どうなってんの?と云いたいほど分かり難い。日本では交差点の大半が四つ角だ
が、地図を見てもパリは主要な円形の広場から放射状にほぼ6方向に道が延びていて、まるで蜘蛛の巣状
態。うっかり当てずっぽうに歩けば、方向を見失ってしまう。
京都に住み慣れている私にとって、東京、大阪さえ無秩序な煩わしいところと感じているのに、まあパリ
ときては。
オペラ座前のオペラ通と直角に交わっている大通りも、オペラ座に向かって右がイタリアン大通り、左が
マドレーヌ大通り、この大通りもグラン・ブールバールと呼ばれる全長5キロのメインストリートの一部
で、区域により呼び名が変わって行くようです。
たとえば、マドレーヌ大通りから始まって、キャピュシーヌ、イタリアン、モンマルトル、ポワソニェー
ル、ボンヌ・ヌーベル、サンマルタンと続き、更にレピュブリック広場を越えてデュ・タンブル、ボーマル
シェの各大通りを経てバスティーユ広場まで続いています。
パリの通りは、ガラスに石を落として出来たひび割れに似ていませんか?
閑話休題(この古風な言葉が好きなんです)
さて、オペラ座を出た後、いかにもお上りさんよろしくぶらぶらキョロキョロしながら、元通ってきた道
をオペラ座の裏側に出ました。
ここにもオスマン大通りがほぼ東西に延びていますが、オペラ座の裏あたりを起点として、北東の方にラフ
ァイエット通りが北駅を越えてずっと続いています。そのオスマン大通りに面してラファイエット通の分岐
から西に、ギャルリ・ラファイエットとオ・プランタンと言う二つのデパートが軒を並べていました。
私たちはウインドウ・ショッピングのつもりで、その一つギャルリ・ラファイエットに入ってみました。
売場の模様は京都の高島屋ぐらいのゆったりとした売場配置。買い物の心づもりもないので、最上階まであ
がり、テラスに出て見ると、思いがけぬ素晴らしい眺めに出逢いました。
びっしり敷き詰めたような屋根の波。それぞれの建物の部屋数だけあるのでしょうか、無数の煙突。その彼
方にモンマルトルの丘がわずかに盛り上がり、白亜のサクレクール寺院が優美なドーム屋根をいただいて眺
められました。
こうして眺め渡してみると、パリの街は青灰色のくすんだように地味な感じです。これが石造りの建物の
風景でしょうか。俯瞰すればこそ見られる無数の煙突も、今は暖房も石炭を燃やす時代ではないので、殆ど
使われていないでしょう。しかし、パリの街景色として欠かせないもの。ここに立ちつくして、初めて慌だ
しい旅の時間から解放され、パリの空気を吸っているんだ……と言う感慨がわき起こって来ました。
97/08/09(土) 10:01 ろまねすく(HAC01341)
第33回おわり
≪第34回は抜け落ちていて欠番となっています≫
00141/00142 HAC01341 ろまねすく 「旅感覚・・・私のロマネスク」(35)
(20) 97/08/13 17:57
◇◇◇ 旅感覚・・・・私のロマネスク ◇◇◇〔35〕
【欧羅巴印象記】 by ろまねすく
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この旅行記は1982年に私が海外旅行なるものを初体験したときの、驚き、
感激、とまどい、失敗について書いています。パリの市内観光の続きです。
夕方から、添乗員の滝本さんの手配でマイクロバスに乗って、免税店に案
内されました。そうです。帰国日も迫っているので'お土産'の物色のため。
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★ パリ駆け足観光 ★ (8)
[免税店にて]
午後5時(1982.8.4)にロビーに集まり、滝本さんの手配した免税店から迎えに来たマイクロバスに乗り込
み、オペラ座近くのエレン・デールと言うギフト・ショップに案内されました。
下手なカタコト英語でも通用するのはホテルかインフォーメイションだけ。一歩、街に踏み出せばフラン
ス語を操れる人以外は全くのお手上げ。ただボディ・ランゲージあるのみ…といったパリでは、エレン・デ
ールに入ったとたん「いらっしゃいませ」の言葉にホッとする。
殆どの店員が日本女性。満面に笑みを浮かべて「いらっしゃいませ」。
(最近のヨーロッパでは、こんな所まで…と言うような小さな街のい
ろんな店にも日本語の表示が見られるようになってきています。わ
んさと押し掛ける日本人の大群を迎え撃つのに「"いらっしゃいま
せ"でお迎えするパリ大丸」とか「日本人の店員がお買い物のお手
伝いをします…パリ・プリンス」あるいは「日本語のメニューをご
用意しています」と表に張り出しているレストラン、Etc…。)
言葉の障害で絶えず不安を抱いている同胞たちは、もともと財布の紐を緩めっ放しの日本人ツァー客。優
しい言葉にはますます舞い上がってしまうよです。
恥ずかしながら、私もこれまでにお土産などはろくに買っていませんでしたので、ここエレン・デールで
買いととのえることにしました。
(ナニシロ生まれて初めての海外旅行。同僚たちから、友人たち、息
子から「お餞別」なるものを貰っていたので……。「いやー忘れて
た」とか「閑がなかったもんで」と言う訳には行きません。おまけ
に息子とその嫁からは、「グッチのバッグが欲しい」「エルメスのス
カーフもお願い」「僕はベルトでいいよ」なんて気安く言ってくれ
ます。留守を頼んだ向こう三軒両隣…もありますし。一応、一覧表
にして来たのですが、まだまだ揃っていませんでした。
一九八二年。円高の現在では考えられませんが、1ドルは260
円を越えていましたし、海外のブランド製品などまだ高嶺の花だっ
たころです。もちろん年間の渡航者数が1600万人を越える現在と
ではとても違った雰囲気でした。)
私の同行者たちも例外に漏れず、店員に肩を抱きかかえられんばかりに奥の方に誘導されて行きます。二
階に上がると、まず「お茶でもどうぞ」と日本茶のサービス。冷房の利いた部屋での久しぶりの日本茶はホ
ッとします。
店内は女性の喜びそうなブランドもの商品がいっぱい。男の私にはあまり関心のない毛皮、ハンドバッグ
<香水、アクセサリー、化粧品、装飾品、衣服・小物類が美しくディスプレイされていました。もちろんご
婦人連はみな褒め上手の店員につかまっては、あれこれ勧められ、目の色を変えて見て歩き、自分に似合う
か吟味し、かなりの買い物にうつつを抜かしていたようです。
私もメモを見ながら、財布と相談しながら、自分のてこにあいそうな土産物を買いそろえていきました。
ここは15%の免税プラス5%のオフだということ。恥ずかしながら、私の買い物をバラしちゃいましう。
ボストン・バッグ(ランパン) 785FF
紳士用ベルト(セリーヌ) 270FF
の2点だけ。アンカレッジで一応ウィスキーなどはキープしていますので、足りない分は、もっと安い所を
見つけましょう。
ひとしきり買い物が一段落したところで、店の送迎用マイクロバスに乗りパレ・ロワイヤル広場にほど近
い日本料理店「大阪屋」まで送って貰いました。
今日の午後はモトモト自由時間になっていて、夕食はついていません。添乗員の滝本さんからの「久しぶ
りに日本食はいかがですか」と言う提案で、ここにやってきたわけです。
中に入ってみると、まずまずの入り。日本人づれのフランス人は、招待されてきたのか、商談の場にここ
を選んだのでしょうが、中にはフランス人ばかりのグループもいて、ぎごちなく箸を操っていました。
私はカラー写真のついた「おしながき」を眺めて、無難なところで「天麩羅定食」を注文。他の人たちは
「ちらし寿司」「にぎり定食」「刺身定食」などをとっていました。
味はまぁまぁ、ドライブインかファミリー・レストラン程度。私のとった天麩羅定食は70フラン20サ
ンチーム。(当時のレートで)日本円に換算して2800円だから、少々高め。
夕食後は地下鉄のパレ・ロワイヤル駅からオペラ座まで。ここで滝本さんから切符の買い方、乗り方、乗
り換えの時の心得などを教わりました。おなじみになったオペラ座からは、ぶらぶら散策気分でホテルへ。
[夜の散策]
さすが、夜汽車の長旅の末たどりついたパリでの駆け足観光とお買い物。やはり疲れが出てきたのか、こ
の上、夜の街へ出かけようと言う人は少ないらしい。どうやら大方の人は、部屋に閉じこもってしまった様
子。
一番元気なNさんだけが、なにがなんでもパリまできたからには「ムーラン・ルージュ」を見たいと、滝
本さんの案内で出かけていっただけでした。
私も、体にいっぱい鉛の重石をつけられているような疲れを感じていましたが、もう帰国の日が近いこと
に背を押された格好で、夜の巷に迷いだしました。すりやひったくりに逢わないよう、Tシャツに半ズボ
ン、少々の紙幣を靴下の中に入れ、小銭だけポケットへ。
ホテル・アンバサダー・コンコルドの東側の路地を北上。ラファイエト大通りを越えて、ノートルダム・
ド・ロレット教会のある小さな広場で
左折。サント・トリニテ教会の前を過ぎてサン・ラザール駅までやって来ました。
街は薄暗く、たまにしか人に出会いません。何とも薄気味の悪い夜の散歩。日本人が街を歩いていてひっ
たくりに逢ったという話は良く聞いています。
盗られるものは何もない…と思っていても、前方から人影が近寄ってくると自然に緊張気味になります。
ただ一度、背の高いアルジェリア人らしい男が街角でうっそりと立っているのに気づき、ちょっとドキッと
しました。
午後10時。サン・ラザール駅でUターン。サント・トリニテ教会まで戻ってきたところで、別な方向に
それ、ピガール広場からクリシー大通りを西に歩き、ムーラン・ルージュの前までたどり着きました。今
頃、Nさんは華麗なショーで盛り上がっているのでしょうか。
途中、怪しげなスリーXのポルノ映画館が何軒かあり、ジーパン姿のチョット崩れた風体の若者が2、3
人たむろしていたり。私の冒険もこれまで、少々足が痛くなってきていました。
ホテルの自分のベッドに体を投げ出すと、緊張のほぐれたのと足の痛さでしばらくは何をする気にもなれ
ませんでした。
97/08/13(水) 17:11 ろまねすく(HAC01341)
第35回おわり
00242/00257 HAC01341 ろまねすく 「旅感覚・・・私のロマネスク」(36)
(20) 97/08/20 21:28
◇◇◇ 旅感覚・・・・私のロマネスク ◇◇◇〔36〕
【欧羅巴印象記】 by ろまねすく
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この旅行記は1982年に私が海外旅行なるものを初体験したときの、驚き、
感激、とまどい、失敗について書いています。パリの市内観光の続きです。
パリ二日目、今日の予定はシャルトルの大聖堂とヴェルサイユの宮殿を一
日がかりで見学することになっています。まずはシャルトルを目指して。
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★イル・ド・フランス ★
[シャルトルを目指して]
1982年8月5日。明日はいよいよ旅の終わり…、帰国の途につくので、今日が実質的にヨーロッパ最後の
日。スケジュールの上では終日フリータイムになっていますが、グループの全員があらかじめ示されていた
オプショナル・ ツァーに参加する事になっていました。一つは「シャルトルの大聖堂とヴェルサイユ宮殿へ
の小旅行」もう一つは「夜のディナーつきバトー・ムッシユでのセーヌ川遊覧」。
シャルトルとヴェルサイユへの小旅行もディナー付きのセーヌ川遊覧もも全くのオプショナル・ツァー
で、
●シャルトルとヴェルサイユ 日本円で 13000円
●ディナー付きバトー・ムッシュ 日本円で 14000円
費用は前日の夕食の際、参加申し込みと同時に徴収されていました。
当日のモーニングコールは朝7時ニ設定されていましたが、やはり6時には自然に目が覚めてしまいま
す。散らかしたままの荷物を整理し、午前8時にいつもの通り朝食。
午前9時、ホテルの前から専用バスに乗り込み出発。コンコルド広場を通ってヴェルサイユ通りからパリ
南西の郊外に向かう高速道路に入りました。街を出はずれると、もう見渡す限り、目路の限り、ごく緩やか
な起伏の続く田園地帯です。高速道路のみが、時折、緩やかなカーブを描いて何処までも伸びています。
[イル・ド・フランス]
イル・ド・フランス。
何とはなしに旅情をかきたてるこの言葉は、ものの本によると、
『フランス、パリ盆地中央部の、パリを含む旧地方名。北はオアーズ川、エーヌ川、南はセーヌ川との間
に挟まれ、東をコート・ド・リル・ド・フンスのケスタに限られた地方。(ウーン、どうしても地図を広げ
なくっちゃ、良くわからん)
現在のパリ首都圏北東部、オアーズ県南東部およびエーヌ県ノ大部分を含む地域に相当する。地形的には
平野、森林丘陵地、河谷に刻まれた台地などからなり、台地上は豊かな小麦、テンサイの畑ガ続く。
河谷は野菜、果樹栽培と谷底の牧草地からなり、集落も集中し、工業も発達している。
「フランスの島」を意味する地方名にふさわしく、フランス国家統一をなし遂げたカペ王朝ノ発祥の地、し
かも王領の中心地であった。したがって、ヴェルサイユ、フォヌテヌブローなど王家の城をはじめ、シャン
ティ、ポー・ル・ ビコントなど王家に近い領主あるいは宰相の城などが数多く現存する。』
(ブリタニカ国際大百科事典)
幸いにして(モシカシタラ 厚かましく?)バスの最前列の席、バス・ドライバーの斜め後ろに陣取ったので、
広々としたフロント・ウインドウを通して、なだらかな耕地と森の交錯する景色…その中を何処までも伸び
ている高速道路の風景を、鮮明なワイド・スクリーンを見るように眺められました。
高速道路を眺めていると、絶えず道は枝のように分岐し、合流しています。まず、パリ市街を離れると、
すぐオルリー空港への分岐、又すぐ真っ直ぐ南に伸びる高速があり、リヨンを経てマルセイユ迄延々と続い
ている高速A6号線が分かれていきます。
大きな分岐点、インターチェンジも、付近の村に降りる出口も、高速道路をまたぐ格好で、大きな案内表
示があり、居眠り運転でもしない限り見落とすことはないでしょう。
バスの前方のフロントガラス越しに見ていると、マルセイユ、ランブイエ、リヨン、シャルトル、オルレ
アン、ル・マンなど、日本を出たことのない時から馴染みの地名が次々と現れ、アァ、フランスに来ている
んだという実感が湧いてきます。
黄緑色の絨毯のような小麦畑、緑の濃い針葉樹林帯、それらが刻々とうつろう日差しに、微妙に色彩を変
化させ、姿形を変えながら流れていきます。
パリヲ出て小一時間も経った頃でしょうか、本線からそれて、初めて日本のハイウエイの料金所のような
ところでストップしました。今まで、欧州各国の高速道路はすべて無料だと思いこんでいました。で、ここ
は特定の有料区間なのかなぁと思いましたが、よくわかりません。
とにかくドライバーは、日本でよくやっているように窓から片手を伸ばしてカードを受け取り、再び出発。
このあたりから、ますます豊かな農村風景の情趣になってきます。緩やかなカーブを幾曲がりしたころ、
遙か彼方に街らしい遠景が現れ、シャルトルの大聖堂の尖塔らしい姿も小さく認められるようになってきま
した。
料金所から30分足らずで、尖塔は見る見る姿を大きくして来ます。バスはこじんまりした静かなシャル
トルの街に入ってきました。
97/08/20(水) 21:23 ろまねすく(HAC01341)
第36回おわり
00278/00291 HAC01341 ろまねすく 「旅感覚・・・私のロマネスク」(37)
(20) 97/08/23 16:06
◇◇◇ 旅感覚・・・・私のロマネスク (37)
【欧羅巴印象記】 by ろまねすく
********************************************************************
この旅行記は1982年に私が海外旅行なるものを初体験したときの、驚き、
感激、とまどい、失敗について書いています。パリの市内観光の続きです。
パリ観光も今日一日。まずはシャルトルの大聖堂、カテドラル・ノートル
ダムの見学から。
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★シャルトルのカテドラル・ノートルダム★
ここシャルトルは、ガイドブックに依って「パリ南西88キロ」とあったり、パリ西96キロ」と書いて
あったりさまざま。表示がどうしてこんなに違うのでしょう。
麦の穀倉地帯ボース地方の中心地。第一印象はこぎれいな、ちんまりとした田舎町。大聖堂の建っている
小高い丘の周りに、建物が寄り集まっていて、街のいずこからも大聖堂が望まれます。
バスは静かに町中に入って、レジスタンス大通りで私たちを降ろしました。午前10時40分。ここからは徒
歩でシャトレ広場から中学校の前を通って大聖堂に向かいます。
このシャルトルの大聖堂は、ゴシック建築の傑作の一つとして有名で、特にシャルトル・ブルーと称せら
れている美しい青色を基調としたステンドグラスで知られています。
ファサードの前の広場はさして広くはありませんが、観光客の姿の少ないせいか落ち着いた雰囲気になっ
ています。聖堂と対面する位置に中学校があり、向かって左手は商工会議所だそうです。……が、まるで修
道院の施設の一部と思われるくらい優美な建物。石造りの門柱には紋章をあしらった鉄製の扉があり、その
前に台を置いて修道尼風の女性が二人レースで編んだテーブルセンターを何枚も重ねて広げていました。
白いレース模様のコック長がかぶるような長い帽子、紺色の上下の襟元にはレースの大きな襟を重ねてい
る姿は、どう見ても尼さんの内職のようでした。
ノートルダム・ド・パリのモデルともなったと言われる大聖堂。この聖堂の起源は、ローマ時代の四世紀
には既に小さな教会が建っていたとのことです。何度も火災に逢い、その都度建て直されていましたが、1
194年の大火のあと、王、貴族、市民達の協力により、大火の明くる日から広く浄財を集め、1225年ま でか
かってゴシック建築の粋を尽くして再建されたといいます。
現在の聖堂は六代目。正面に立ってファサードを見上げると、左側にゴシック様式の新塔、右はロマネス
ク様式の旧塔。新塔は1506年の火災で木造の先端部分が焼け落ち、石造りのゴシック様式で復元されました
が、焼け残った基壇部分は旧塔より古いものだと、現地ガイドの女性が言っていました。二つの塔のあいだ
には、大きなバラ窓がファサードの中心に際立って見えています。
さて、内部に入ります。さきほど外から眺めたバラ窓は、灰色がかった色彩でしたが、一歩、中に踏み込
んで振り返ると、外光を透かして鮮やかな色彩に輝いていました。このとき、何とこのすばらしさを表現し
たらいいのか、言葉の無力さを実感します。《美しい、素晴らしい、見事な、感動的な……》抽象的な美辞
麗句を幾つ連ねてみても、実際に受けた感動の万分の一も伝えられません。せめて大きく全紙大に引き延ば
したカラー写真の画像でも示さなければ、この色の鮮やかさを伝えられないでしょう。
第二次世界大戦の折り、雪崩をうって侵入してきたナチス兵の手から、この世界的遺産を守り通すため、
市民、レジスタンスたちは、ステンドグラスを外して厳重に梱包し、密かに隠し、戦後再びもと通りに窓枠
にはめ込んだといいます。
正面のバラ窓をはじめ、ゴシック様式の高い窓を埋めるステンドグラスの大部分は十二・三世紀に造られ
たもので、そのうち四十五枚は同業者組合の寄進によるものです。それ故、大聖堂再建のため寄進したいろ
いろな職業を表す絵が描かれています。農夫…鍛冶屋…商人ありで、その時代の生活の様子が偲ばれます。
これらのステンドグラスに登場する人物は五千人と言われ、他の多くの聖堂のステンドグラスに描かれる
「キリスト一代記」「マリア一代記」をはじめ聖人の業績を讃えるものとは、ひと味もふた味も違ったもの
です。
人物、建物などの道具立てが、背景となる輝かしいブルーに、黄、赤、橙などの華やかな色彩を交えて、
外からの光を荘厳な色彩に変えて堂内を満たしていました。
1954年に十字交差部の南袖廊にあるアメリカの建築家たちが寄進したステンドグラス、北袖廊の1971年に
ドイツのシャルトル愛好家達が寄進したステンドグラスなど、近代になって加えられたステンドグラスも良
く全体の雰囲気に調和しています。
近年、シャルトル・ブルーと呼ばれるこのステンドグラスの基調色について、何とか近代の技術をもって
作り出せないか、色々と研究が重ねられましたが、今もって成功していない(1982年現在)ということす。
ガラスの色は、普通の珪酸塩ガラスに不純物として加わった銅、コバルト、鉄などの金属により発色してい
ますが、どんな割合に各種金属元素を加えても、未だにあの輝かしい透明なブルーは出ないと言うのです。
出口の売店で、カラー・スライドやB5判大のフイルム・シートを購入しましたが、いまいち。
外に出ると、建物沿いに南のボルタイユを眺めながら、裏手に廻りました。裏は木立のある広場になって
いて、木立の間には所々ベンチが置かれていました。憩いのひとときをゆっくり過ごせるようになっていま
す。半円形の後陣回廊から突き出した形で、サン=ピア礼拝堂が建っています。14世紀に建てられたも の
で、現在は宝物殿。
広場の端に立つと、ここがかなりの高台になっていることが判ります。樹々の濃い緑に包まれる格好で家
々が散在しています。まるで時を失ったような静かなたたずまいで。柳の木が多いようです。ここは二十世
紀の喧噪とは無縁の美しさ。屋根の甍は焦げ茶、臙脂がかった朱色が二階建て、三階立ての白壁に映えてい
ます。
広場の隅から脇に廻ると、かなり低い位置に石畳の路地が聖堂の石壁に沿って町の方へ続いていました。
巡礼道だそうです。曲がり角には古風なランタンがあります。
夜にたどり着いた巡礼たちは、ランタンの僅かな、ほの暗い光をたよりに聖堂まで登ってきたのでしょう
か。
このシャルトルの町は、紀元前五千年時代にはゴール人が住み着いたのが始まりで、人々はカテドラル・
ノートルダムを心の拠り所として、生活して来たのでしょう。この町には、他にも教会がありますが、もし
誰が死んでもこの町の住民である限り、葬儀は大聖堂で行われる、と言うほどの結びつきだとのことです。
見学後、聖堂前に集まった今回のメンバー全員の記念写真を大聖堂のファサードをバックに撮り、町中の
レストラン「RICARD AMISETTEで昼食。
卵とトマトのオードブル
若鶏の白ワイン煮
ロゼのワイン
デザート
アルコールに弱い私は、いささかほろ酔い加減。再びバスに戻って、次の目的地ヴェルサイユを目指しま
した。
97/08/23(土) 16:03 ろまねすく(HAC01341)
第37回おわり
00312/00312 HAC01341 ろまねすく 「旅感覚」(38)
(20) 97/08/29 09:45
◇◇ 旅感覚・・・・私のロマネスク ◇◇ 〔38〕
【欧羅巴印象記】 by ろまねすく
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この旅行記は1982年に私が海外旅行なるものを初体験したときの、驚き、
感激、とまどい、失敗について書いています。パリの市内観光の続きです。
今回は、シャルトルの大聖堂の見学の後、昼食も終わって、いよいよヴェ
ルサイユ宮殿に向かうところから、始まります。
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★ヴェルサイユ宮殿にて(1)★
シャルトルへは左右に広がるイル・ド・フランスの沃野風景を眺めながら、高速道路を走ってきました
が、シャルトルからヴェルサイユへの道は緑の多い住宅地を抜け、ランブイエを経てヴェルサイユに向かう
国道10号線をひた走っています。
滞欧9日間の疲れがどっと出たのか、同行21名の殆どの人が、心地よい睡魔に捉えられて、コックリ、
コックリ船を漕いでいました。折角の美しいイル・ド・フランスの風景も台無しです。モッタイナイ。
ヴェルサイユは、パリ西南29キロ(別の案内書に依れば、パリの西20キロ…一体どうなっているの)
、人口9万人のベッドタウン。1997年の現時点ではいささか旧聞ということになるでしょうが、ヴェルサイ
ユといえば反射的に池田理代子さんのマンガ、あるいはそれを脚色した「ベルサイユの薔薇」宝塚少女歌劇
の舞台が、あるいは評判が頭に浮かんでくるのが、平均的な私たちではないでしょうか。
ですが、背景となったフランス革命について、どれほどの知識があるかというと、オスカルとかマリー・
アントワネットとかルイ十六世とか虚実取り混ぜたマンガ的な、ミーハー的なものを一歩も出ていません。
アア ハズカシ
ここでは、バスがヴェルサイユに到着するまでに旅行案内書から取り込んだごく概略的な事柄だけ復習し
ておきます。
十七世紀初頭のヴェルサイユは、ルイ十三世の狩猟趣味を満たすため、小さな館があるに過ぎない辺鄙な
ところだったようです。本格的な宮殿造営に着手したのは太陽王ルイ十四世の治下となった1668年。ブルボ
ン王朝の強大な権力の象徴としてルイ・ルボーが宮殿を、ル・ノートルが庭園の設計を担当し、1678年マン
サールによる大拡張工事が行われて現在の形となっとのことです。1682年にルイ十四世はルーブル宮殿か
ら、ヴェルサイユに移ったと書いてあります。
宮殿と庭園の造営費用は、記録によりますと当時の貨幣で6,565ルーブル。現在の貨幣価値に換算す
ると二十億フラン。七百億円に相当すると言いますが、そんなものではないでしょう。何千億あるいはもう
一桁上かも知れませんね。
ルイ14世は1715年ヴェルサイユにて死去。
後をついだルイ15世も1774に死去したことにより、政治的に無能でお人好しのルイ16世とマリー・ア
ントワネット妃がヴェルサイユのあるじとなりました。(ここからは正にヴェルサイユのバラの世界でね)
豪華絢爛たる後期バロックの装飾美術の粋を集め、特に王の間や王妃の間、四百の鏡を使った「鏡の間」
は華美を尽くして、他の国の王宮建築に「鏡の間」を真似られたものです。第一次世界大戦の集結のための
ヴェルサイユ条約も「鏡の間」で締結されたとか。
遙るか彼方にヴェルサイユの町が見えてきた頃、女性の現地ガイドさんが気持ちよく舟を漕いでいる私た
ちを起こし、ヴェルサイユ宮殿および庭園に関するガイドを始めました。「1083室もある広大なヴェルサイ
ユ宮殿に、浴室もトイレもなかったという俗説」について、妙に力を入れて解説されます。
昔のフランスの貴婦人たちは、立ち小便していた、という風俗について、
「さぞかしご婦人方のスカートの内側は汚れていたでしょうね」
などと。
バスは市内に入り、パリ大通りを真っ直ぐ宮殿の正門に向かって走り、美しい軍隊広場の鉄柵のところで
右折してバス・プールへ。北翼棟のオペラ劇場や王室礼拝堂の前を通ってルイ十四世の騎馬像のところに出
ました。太陽王と呼ばれた全盛期の十四世はいささか太り気味ですが、さすが威風堂々。だが、頭の片隅に
浮かんだのは「何と、宮城前の大楠公の銅像に似ているナァ」。
像に向かって左手は閣僚の中庭と呼ばれる広場で、正面から入ってきた観光客たちが、ゆったりとした足
取りでこちらに進んで来ます。さっきバスの窓からちらっと見た正門は,赤坂の迎賓館に良く似たもので、
それを数倍豪壮にした感じでしょうか。
初めてのヨーロッパでも、生まれて、初めてキンキラキンの建築装飾に驚いたのは、以前に書いたパリ・
オペラ座に入って大階段を見上げたときですが、今、目の前にあるヴェルサイユ宮殿も、オペラ座に輪を掛
けたきらびやかさだろうとの予感と期待がいっぱい。 さて、とりあえず中に入らねば!!!
宮殿は、両翼棟のある宇治の平等院風…と言えば言えるでしょうが、目に映るのは翼棟の屋根に上に並ん
で置かれているたくさんの彫像といい、翼棟に囲まれた王の広場といい、まったく初めて見る光景。
[こらっ、イタ公!!割り込むなよ]
北翼棟に一般観光客の受付・入り口があり、そこには入場の順番待ちの人々がもう4、50名も列をつく
っていました。私たちも後尾に並びました。……ところが、後からやってきた15人程の若者のグループ
が、順番を無視して列の先頭近くに割り込もうとしています。木の枝に止まった尺取り虫のような格好で。
男女ともジーパンスタイルばかりで、大声で笑い、しゃべり散らし、まるで傍若無人。聞くとどうもイタア
語のようす。
「こらっ、イタ公、割り込むな」
こちらはイタリア語は出来ないので、思わず日本語で怒鳴っても馬耳東風。連中は涼しい顔。思わず海外旅
行が一般化した頃に先陣を切って、マナーの悪さで有名になったノーキョーさんソックリ。
入館手続きに行っていた現地ガイドの女性が帰ってきて、私たちはゾロゾロガイドさんについて中に入り
ます。
「館内では、写真はご自由ですけれど、くれぐれもフラッシュは焚かないように。一度焚いて注意されても
聞かない場合はつまみ出されますよ」とのこと。しかし、横の方を見るとさっきのイタリア・ノーキョー青
年たちは、バシャバシャとフラッシュを焚いては写真を撮っています。係員が飛んできて注意していまが、
彼らは「フランス語は判らんよ」とでもいう風に、いっこうに応えた風もなく、シャーシャーとしてフラシ
ッュを焚いていました。
97/08/27(水) 18:08 ろまねすく(HAC01341)
第38回おわり
00362/00367 HAC01341 ろまねすく 「旅感覚・・・私のろまねすく」(39)
(20) 97/09/13 15:10
◇◇◇ 旅感覚・・・・私のロマネスク ◇◇ 〔39〕
【欧羅巴印象記】 by ろまねすく
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この旅行記は1982年に私が海外旅行なるものを初体験したときの、驚き、
感激、とまどい、失敗について書いています。パリの市内観光の続きです。
サア、ヴェルサイユ宮殿に着きました。いくら写真集で見ていても、実物
を眼にすると、感動の質は違ったものがあります。まばゆいばかりの輝き。
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★ヴェルサイユ宮殿にて(2)★
もし私がヨーロッパの歴史に詳しい専門家だったら、美術史家だったら、あいいは長くフランスに済んで
いる現地ガイドだったら、これからの数ページで要領よくヴェルサイユ宮殿の一部屋、一部屋ごとに、由
緒、見どころを皆さんにお伝えできるだろうと思います。が、ざんねんながらヨーロッパは初めて、おまけ
に知識も乏しいずぶのシロウト。
残念ながら、才覚も知識も教養もない私が、ヴェルサイユがどんなに素晴らしく美しかったか、皆さんに
伝えることは至難の業です。
それでも、うろ覚えの印象をかき集めて、印象記を書き進めましょう。
【印象・1】
まず、どの部屋にも精緻な天井画にびっくり。天井は僅かなふくらみのある穹窿をなしていて、コーナー
の微妙なカーブを生かして、人物が平面的にではなく立体的な生々しさで描かれています。
特に豊穣の間の天井には、中央に王室の「豪勢」さを顕示したルネ・アントワーヌ・ウーアスの作です。
雲のあいまにたくさんの天女が配置されていますが、それよりも周辺に描かれた金銀細工を並べている人物
……若い男女が圧巻でした。
バックの色彩の中に浮かび上がる群像は、たいしたものです。今の画家と自負する人々のうちで、何人が
このような構図を考え出し、色彩豊かに描き出せるでしょう。
次から次へと巡って歩いた各部屋の天井画には飛天のように軽やかに舞う天使のような女人たち。ルイ
14世の姿が中世の絵の中の人物のように描かれたもの。
日本にも天井画はありますが、寺院の天井に描かれた龍や、四季の花卉が描かれた格天井など、あまり華
やかなものを見たことはありません。
【印象・2】
また、どうして西洋の教会建築や宮殿建築に、過剰とも思えるほどの装飾が施されているのでしょう。外
壁にも、内部の随所にも人物の彫像、レリーフが飾られていたり、唐草模様、紋章などが、壁面をくまなく
埋めつくさんばかりに配置されています。
ここヴゥルサイユでは、当然ながらルイ王家の紋章がたくさん見られますが、一時皇帝の位についたナポ
レオンの<N>のマークも有りました。つ いでながら、戴冠式の間にはダヴィッドの「ナポレオン1世の戴
冠式」と言う巨大な絵が飾られています。ルーブル美術館にも同じテーマの絵が見られますが、ルーブルの
ものは先に描かれてヴゥルサイユに有ったものを、1889年に開催されたパリ万国博に展示するためルーブル
に移したもので、今ヴェルサイユに有るものは、ブリュッセルに追放されたダヴィツドが自作を模写し
たものだそうです。
装飾に戻りますが、白地に金で描かれた唐草模様などの装飾のすっきりしていること。部屋を埋め尽くす
絵画の多さ、大理石のテーブルや鯨の骨の輪で大きく膨らんだスカートをはいている王妃や女官たちが座れ
るように、背もたれのない椅子、各部屋とも天井からつり下げられた大きなシャンデリア。日本では見られ
ない豪奢な装飾には圧倒されます。
【印象・3】
ついに出ました「鏡の回廊」。ヴェルサイユ条約が調印されたことでも有名な大広間です。この回廊の位
置は建物の両翼の中央にある館の真ん中にあり、地平線まで広がるように見える広大な庭園に面していす。
17あるアーチ窓に対応した位置に、大きな鏡が配置されています。窓と窓とのあいだには燭台を捧げた
幼児の金色の像が立ち、壁面には壁龕の中に彫像が置かれているように見える騙し絵が描かれています。
なにものより「見物」は、ずらりと並んだシャンデリアでしょう。
このような大広間で、紳士・淑女、貴顕たちが夜会、舞踏会を催し、コルセットで胴をきりきり締め上
げ、鯨の骨でスカートを思いっきり膨らませた淑女たちが、ダチョウの羽で作った大きな扇子を広げ、群れ
集ったのでしょうか。
天井に描かれた絵を仰ぎ、鏡と窓の対比をみながら歩く。異文化とはこうしたものばかりではありません
が、とにかく度肝を抜かれます。
【印象・4】
こんな豪奢なきらびやかな寝室で寝られるのでしょうか。王妃の寝室…部屋の真ん中の奥に、天蓋付きの
装飾いっぱいのベッドがぽつんと置かれています。ベッド両脇の壁面にはタピスリー、ベッドには幅一杯の
丸い枕、両脇に椅子。ここまでは良いのですが。……
ベッド部分を仕切るように、低く装飾に飾られた柵に囲われています。その外側には背もたれのない女官
用の椅子四脚。この仕切は、観光客がむやみに入ってこないよう、後に作られたものなんでしょうか。
また、私たち観光客は窓辺に近い扉を幾つも抜けて、沢山の部屋を巡回しています。昔は、通路と部屋を
仕切る壁はなかったのだろうか、と不思議に感じ始めました。この一画に入ってくる人物は夫以外にはいな
かったのでしょうか。あられもない寝姿なんて。ウーム、マサカー?!
当時の宮殿には現在の建物のような廊下はなかったのでしょうか。
少数の王族、貴族、有力者たちだけが、農民の膏血を絞り尽くした財で贅を尽くして遊興におぼれたこと
が、すぐ後にフランス大革命を招来したことを考えると、人間というものは……という感慨にとらわれす。
今の政治・社会情勢を見ると、人間はあまり進歩していないなぁ、ということも。
ルイ14世の彫像、マリー・アントワネットと子供たちの幸せそうな大きな油絵、眼にした美術品、装飾
の数々はまだまだ多いのですが、だが、これらをどう文章で表現したら伝わるのか、いくら言葉で飾っても
と無力感を覚えます。
[再びパリへ]
ルイ王朝の絢爛豪華な世界から解き放たれて、外に出ました。目地いっぱいに緑の濃いフランス式庭園が
広がっています。ラトナの泉水の遙かな彼方まで大運河が続いています。泉水苑の周りを巡ってみました。
いろいろな彫像が配置されていますが、中でもデュビ作の「ローヌ河」を擬人化したものやマニエ作の「水
の精とアムール」が一番気に入りました。
真夏ですが、8月の陽光も日本ほど強くは感じられません。もっともっとゆっくり庭園を巡りたい所です
が、時間がありません。再訪の日を心に近いながらバスに戻りました。
帰路はベルサイユの森を通り、シャルトルへのルートとは違った一般道路を走り、パリ市内に入り、午後
五時三十分、ホテル・アンバサダー・コンコルドに帰着しました。
97/09/13(土) 15:08 ろまねすく(HAC01341)
第39回おわり
00404/00405 HAC01341 ろまねすく 「旅感覚・・・私のろまねすく」(40)
(20) 97/09/27 16:10
◇◇◇ 旅感覚・・・・私のロマネスク ◇◇ 〔40〕
【欧羅巴印象記】 by ろまねすく
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この旅行記は1982年に私が海外旅行なるものを初体験したときの、驚き、
感激、とまどい、失敗について書いています。パリの市内観光の続きです。
さあ、もうヨーロッパでの私に残された時間はごく僅か。いよいよ終楽章
に入ったようです。旅は終わりに近づくほど、驚くほど速さを増してきます。
アッチェルランド。
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★ バトームッシュでセーヌ河遊覧……(1)★
今日(1982年8月5日)はとても忙しい日です。朝からバスで郊外のシャルトルで大聖堂を見学した後、ヴ
ェルサイユ宮殿で18世紀フランスの宮廷文化の粋と贅を尽くした絢爛豪華に眼を奪われ、ホテルに帰着し
て部屋でゆっくり寛ろぐ暇も有ればこそ。
ロビーに再集合して、晩餐つきのセーヌ河遊覧に向かいます。
明日はもう帰国の途に。しごく平凡な感想ですが、初めてのヨーロッパの日々は、つかの間の夢に似てい
ます。邯鄲一睡の間に過ぎ去ってしまったようなものです。
午後7時30分。ホテル・アンバサダー・コンコルドのロビーに集まってきたご婦人方は、最後の晩餐と
言うことで精一杯のおめかしぶり。男にも添乗員の滝本さんから「今日は背広にネクタイでお願いします」
と申し渡されていました。それまでラフな格好ばかりだった私も、なんだか、突然に改まった感じになって
います。
迎えのバスは、夕暮れにはまだほど遠い明るさを残しているパリ市街の、少し馴染んできた市街を走り、
コンコルド広場を抜け、アンバリッド橋をセーヌ河左岸に渡って、バトームッシュ社の乗船場に着きまた。
両方の舷側の上に、両岸を照らし出す強力な投光器(白色・赤・青色のカクテル光線を投射する)をずら
っと並べた観光船が3隻ほど出航を待ってい
ます。どの船に乗るんだろう。もう各国からの観光客たちが三々五々集まってきていました。
祭りに似た浮き浮きとしたものが、胸の底からシャボン玉のように湧き上がってきて、まるで子供に返っ
たような気分。
バトウ・ムッシュには単なる観光遊覧と、動くレストランと言った晩餐をしたためながら遊覧を満喫する
という、いわば食事専用観光船とが有るようです。
ガラス張りの大型船はセーヌ遊覧のシンボルのようなものですが、中でも食事つきの観光船は他に類を見
ない豪華な雰囲気を持っています。
観光のみのバトー・ムッシュは毎日午前10時から午後10時半まで、30分おきに出ています。料金は
(1982年当時)、
午前 10フラン。
午後 15フラン
昼食つきは 150フラン 午後1時出航
晩餐・音楽つき 300フラン 午後8時30分出航
さあ、時間になっていよいよ乗り込みます。路上の自動車の二重駐車のように二艘が並んで舫われている
ので、岸に近い船を通り抜けて奥の観光船へ。言葉の不自由な私たちの軍団は、日頃のおしゃべりも忘れて
黙々とぞろぞろと先頭の添乗員滝本氏のあとについて行く。
もっぱら昼間にセーヌ河を往来している中型の観光船は、大方の観光客は屋根の上の見晴らしのいいオー
プンデッキに陣取って、橋をぐるとき、岸辺に人影を見かけたとき、無邪気に手を振ってごきげんの模様。
この擦れ違うときに「手を振り合う」という所作は、京都の亀岡から保津峡下りの舟の客も、アムステル
ダムの運河遊覧の客も、おそらく古今東西のこうした客たちも変わらない習性とみえます。
また、パリでは22人乗りのラ・パタッシュと言う小型の観光船が、チュイルリー公園の対岸のアナトー
ル・フランス河岸から出ていて、サンマルタン運河に入り、バスティーユ広場の地下運河を抜けて、ヴィレ
ット・ドックまで4.5キロを航行しています。
片道3時間半のこのコースは、下町情緒たっぷりとのことなので、パリ再訪の折りには是非乗ってみたい
と思います。
閑話休題。(こんな古臭い言葉が好きで、使ってみたいのです)
私たちが案内された席は舟の中程。このスマートな大型船は、船尾の中程と船首に区切られたレストラン
が有り、ちゃんとサービスのためのブースがもうけられ、出航時間が迫っているので、準備のため制服のム
ッシュ達が忙しげに往き来きしていました。
レストランのテーブル配置は、中央通路を挟んで左右に、3人ずつ向かい合った6人掛けが2テーブル有
ります。中央通路の左右に12名の席。何列なのか数えられませんでしたが、多分、200名くらいが同時
に晩餐となり、ムッシュ達の慌ただしさも偲ばれると言うものです。
まだ、船も動き出さないうちに、もうワイン・クーラーがテーブルの上に配置され、オードブルの皿が配
られます。ワインは赤と白。それをボーイが各自の前に置かれた3つのグラスの一つに、両方の手に持った
赤と白の瓶からいっぺんに注ぎ込み、「ロゼ」の出来上がり。別のグラスに注がれたシャンパンでまずは乾
杯!
先天性アセト・アルデヒド分解酵素欠乏症で、端的に言えば「下戸」。極端にアルコールに弱い私も、ム
ード満点の上に明日は帰国という状況なので、「なるようになれ」と、シャンパンにもロゼにも恐る恐る口
をつけました。
午後8時30分。いよいよ船が動き始めるころには、もうメインディッシュが運ばれてきました。
97/09/27(土) 15:12 ろまねすく(HAC01341)
第40回おわり
00460/00460 HAC01341 ろまねすく 「旅感覚・・・私のろまねすく」(41)
(20) 97/10/04 11:55
◇◇◇ 旅感覚・・・・私のロマネスク ◇◇ 〔41〕
【欧羅巴印象記】 by ろまねすく
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この旅行記は1982年に私が海外旅行なるものを初体験したときの、驚き、
感激、とまどい、失敗について書いています。パリの市内観光の続きです。
バトウ・ムッシュの項なのに、なかなか動き出しませんね。今回は、すぐ
動き出しますよ。
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★ バトームッシュでセーヌ河遊覧……(2)★
乗船するときバトウ・ムッシュのパンフレットを貰いましたが、なんと日本語版でした。欧米旅行が一部
の人に限られていた時代では、考えられもしなかったことでしょう。
旅行が自由化されたとき、先ず押し掛けたノーキヨーさんたちが、行く先々で、寝間着姿で飛行機の中や
ホテルの廊下を闊歩するなど、いろいろな武勇伝を披露し、顰蹙を買いながら、団体の圧力や札びらの偉力
で露払いして。
見ると英語版ではちゃんとした活字印刷になっていますが、日本語版は手書き文字をそのまま製版したも
のでした。
説明の内容は、船が航行するにつれ次々と現れる橋を中心に、セーヌ両岸に見られる有名な建物などを解
説したもの。英語版と日本語版とを比べてみますと、英語版の文字の所を切り抜いて、ペン書きの日本文字
で埋めた体裁です。
ここで、横着と言うか、もの知らずと言うか、なにしろ海外は処女体験の私は、ひとつ、このパンフレッ
トを底本にして、私の素朴な感想を付け加えて書いてみようと思い立ちました。
この、生まれて初めてという異国体験に出る前、何度も書店に通ってガイドブックを仕入れましたが、海
外旅行ブームに乗って雨後のタケノコのように出版されたものは、携帯しやすくするためのページ数の制限
もあってか、広く浅く触れているものが大部分で、もうひとつ喰い足りません。
文学散歩、美術館巡り等、少し専門分野がかった本を買い足しましたが、それなりに詳しい解説は見られ
るものの、まだまだ満足のゆくものではありません。
そこで、このバトウ・ムッシュのパンフレットパンフレットがちょっと毛色の変わった「ガイドブック」
になると思い、引用しながらこの旅行記を書き進めて行きます。
パンフレットには、バトウ・ムッシュの乗船場を出発して、進行方向に次々と現れる橋が、ブルーの色で
カット風に描かれ、その合間合間に橋と付近の紹介が書かれています。上の方がセーヌの右岸、上弦風にカ
ーブしたセーヌの下方が左岸です。
下流を目指してセーヌ川の左岸、ソルフェリノ橋とコンコルド橋の間にある乗船場を出航した私たちの乗
った船の、進行方向左セーヌ左岸一帯は、十六世紀後半、パリ市とカトリック同盟の代表とが、アンリー四
世の代理との間に結ばれたシュレーフの和議に因んで「ケェ・ド・ラ・コンフェランス」即ち「和議の河
岸」と呼ばれています。
当時の国王アンリー四世は、ラング・ドッグの兵士を引き連れパリを包囲していましたが、和議ののち改
宗し、パリを手に入れて宗教戦争に終止符を打ったという事です。
今でも、バトー・ムッシュの乗船場にはラング・ドッグの旗が翻っています。
右手、アンヴァリッド橋付近のセーヌ右岸は、ルイ十五世時代、当時のパリ市長ブウシュ・ドルセが最初
に右岸の建設を始めたところから、ケェ・ドルセと呼ばれています。ローマの支配時代からフランス革命ま
で、セーヌと共に生きてきた商人の代表がパリ市長を務めてきたことから、パリ市長は、「商人の監督官」
と呼ばれ、今はここに外務省が有ります。
ゆっくりメーンディッシュに手を着けているあいだに、パンフレットと周辺の景色を眺めていましたが、
東の空は少し紫がかった程度で、夏の空はなかなか暮れそうにもありません。河岸の一段低くなったところ
には、犬を連れた婦人の姿や、寄り添って坐ってる恋人たちの姿がちらほら。 社会党が大統領になろうと
保守派が巻き返そうと、この光景は変わらないでしょうね。
右岸、アレクサンドルV世橋に続く凱旋の道の向こう側には、グラン・パレ、プチ・パレが有り、これら
の建造物は1900年のパリ万博のために造られたもので、ベル・エポック(古きよき時代)の典型的な遺
産だと言われています。
アレクサンドルV世はロシアの皇帝で、フランスと友好同盟を結び、ドイツ、イタリア、オーストリアの
三国同盟の転覆を謀っていました。1896年10月、アレクサンドルV世の息子でロシア最後の皇帝となったニ
コライU世はパリを訪れて、フランスを巻き込んでドイツに復讐しようと、沸きたつパ市民の熱狂の中で、
最初の石を据え友好のしるしとして造られたのが、このアレクサンドルV世橋だとか。
バスでの移動の時と異なり、バトウ・ムッシュが橋の下をゆっくりくぐりますので、橋脚に造られた彫像
がはっきりと眺められます。
ここから近くの右岸にあるグラン・パレには、プラネタリュウムで有名な「発見の宮殿」と呼ばれる博物
館があり、プチ・パレは新しい宗教とでも言えます美術の殿堂では、文化に関心の深い人々を魅了する種々
の美術展覧会が開催されるそうです。
97/10/04(土) 11:53 ろまねすく(HAC01341)
第41回おわり
00482/00483 HAC01341 ろまねすく 「旅感覚・・・私のろまねすく」(42)
(20) 97/10/10 17:23
◇◇◇ 旅感覚・・・・私のロマネスク ◇◇ 〔42〕
【欧羅巴印象記】 by ろまねすく
********************************************************************
この旅行記は1982年に私が海外旅行なるものを初体験したときの、驚き、
感激、とまどい、失敗について書いています。パリの市内観光の続きです。
バトウ・ムッシュの遊覧船は、夕色の少しずつ濃くなって行くセーヌの川面
を、ゆっくりと静かに下流に向かっています。シャンソンにも酔いしれなが
ら。
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★ バトームッシュでセーヌ河遊覧……(4)★
フランスでは食事時のお喋りは消化を助けるとかで、イギリス人の紳士風の黙って上品にという堅苦しさ
とは無縁のよう。中央の調理場ではギャルソンたちが配膳の支度でてんてこ舞いの様子です。
おそらくバカンス時のこの船に乗っているパリジャン、パリジェンヌは一人も乗っていないかも知れませ
ん。京都市内観光のバスの中で、京都市民を探すようなものでしょうね。
陽気に声をあげて騒いでいるのは、陽気でちょつぴり行儀の悪いアメリカの若者か、負けず劣らず騒々し
いイタリア人か、それに加えて日本人のツァー客かも。外国にやってきた日本人は、一人では借りてきた猫
のごとくおとなしいものですが、同じ仲間どうしだと、羽目をはずした騒ぎをします。
右手の方向に、セーヌを見下ろすようにチュイルリー公園がルーブル美術館の続きにあります。パリ市の
数少ない大庭園の一つで、十六世紀にはメディチ家の女王カトリーヌの支配下にあり、フィリベール・ドロ
ルムがここに建てた館も、1871年のパリ・コンミューンの際に焼け落ち、長い圧制に怒り狂ったパリ市
民の前に、この庭園から逃れたのはルイ十六世、ルイ・フィリップと女帝ユージニィたちだったと言いす。
晩餐の片づけを終わったこの頃から、ハンチングをかぶり、アコーディオンを抱えた楽士が登場。テーブ
ルを賑やかに回り始めました。
私たち以外にも数組の日本人の団体が乗っていたようです。かなり気前よくチップを弾んでいるらしく、
日本の歌を交えていろいろリクエストしている様子が聞こえてきます。日本人は上得意のようです。
私たちのグループのところに楽士がくると、早速「すみれの花咲くころ」をやりだします。敵さん、日本
人の…とくに熟年女性の泣き所をよくご存じのようで、たちまち古き良き日のシャンソンを次から次へと繰
り出してきます。
昔の娘さんに返ったご婦人がたは、すぐさま乗ってしまい、顔は輝き、容姿さえ若返ったようで声を揃
え、「すみれの花 咲くうーころ……」と歌い出します。
脳裏に昔、宝塚に通った日々に見た華やかなステージが蘇っているに違いありません。長いあいだ憧れ続
けてきたフランスへの思いとが交錯して、うっとりとした表情。
えらく第三者的に、冷静に観察しているようですが、告白すると、私もまったく同じ状態に陥っていまし
た。この楽士は恰幅のいい中年の小太りの男で、以前は船員ででもあったような雰囲気を感じました。
気前よくチップをはずむ私たちの所に居座って、次々とリクエストを求めますが、こっちは全員フランス
語なんて、てんで駄目。楽士の方でみつくろって「パリの屋根の下」「パリ祭」「枯れ葉」などを弾いてく
れます。
ご婦人方の合唱も、もう傍若無人。
チップも相当ポケットに入れたようです。
私たちの乗ったバトー・ムッシュは、午後九時の太陽が街並みの上に輝いています。東の方から暮色がだ
んだん濃くなって行くセーヌを下流に向かっていますが、左岸の建物の上あたりに残光が紫紅色で雲の縁を
染めています。しかし両岸を強いビームの投光器が明々と照らし出しています。
何故か、印象派の命名の由来となったクロード・モネの「印象・日の出」がふと頭に浮かんできました。
あの絵は明るい色彩で描かれていますが、目の前のセーヌは重厚な色合いの暮色に染められてきています。
今回の旅で印象に残る「私の・・・印象夕暮れ」になりそうな気分。
楽士は、さすがここばかりには入り浸っているわけにも行かないと見えて「またすぐ戻ってくるから」と
言う風なゼスチュアを残して、次のテーブルに廻って行きました。
私は生まれつきアルコールには弱いのですが、すっかりシャンソンの雰囲気に酔ってしまった勢いでワイ
ンのグラスを傾け、気分が良くなる前に心臓がドキドキ打ち出し、ダウン寸前。
一渡りテーブルを廻ってきた楽士が私たちのテーブルに戻ってきたので、またまた盛り上がること。ご婦
人方からも歓声が上がります。もう、昔懐かしいシャンソンの総まくりから映画音楽まで、何処で覚えたの
か日本の流行歌まで(この言い方って古いなぁ)。
(つづく)
97/10/10(金) 17:21 ろまねすく(HAC01341)
第42回おわり
00537/00554 HAC01341 ろまねすく 「旅感覚・・・私のろまねすく」(43)
(20) 97/10/23 22:05
◇◇◇ 旅感覚・・・・私のロマネスク ◇◇ 〔43〕
【欧羅巴印象記】 by ろまねすく
********************************************************************
この旅行記は1982年に私が海外旅行なるものを初体験したときの、驚き、
感激、とまどい、失敗について書いています。パリの市内観光の続きです。
バトウ・ムッシュの遊覧船の印象記が、まだ続いています。
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★ バトームッシュでセーヌ河遊覧……(5)★
バトウ・ムッシュの遊覧船は、エッフェル塔を左に見ながらアルマ橋の下をくぐり、ドビリ橋、シャイヨ
ー宮とエッフェル塔のあいだに架かったイエナ橋、高架になってセーヌを渡っているビラケム橋…と次々く
ぐり抜けて、自由の女神像のあるグルネル橋まできました。
ヘェーッ。こんな所に自由の女神があるの!
アメリカ独立百年記念祭を記念して、かつアメリカとフランス両国の友好を記念し、1886年にフランスか
ら寄贈された巨大な自由の女神像。それよりかなり小さな女神さんがひっそりと立っていらっしゃるとは。
ここでは大して目立つてはいない。
このあたりで遊覧船はUターン。セーヌ川上りに。再び同じ景色を眺めながらですが、今度はセーヌ右岸
を見ながらの船旅に。アール橋をくぐったところで、シテ島の右手の流れをボンヌフ橋、サン・ミッシェル
橋、プチ・ポン、ドゥブル橋、アルシュヴェシェ橋とくぐったところで、左手にサン・ルイ島にさしかかり
ます。
サン・ルイ島にさしかかる手前のシテ島に花市の河岸。その昔、ここにはアラベールとエロイーズの家が
あり、当時フランス北部地方は少々野蛮だとされていましたが、アラベールとエロイーズの愛の深さは、南
部地方の吟遊詩人が女性に捧げて謳ったという騎士道精神を、初めて北部に開花させた崇高な愛情物語とし
て有名です。
トウネル橋に差し掛かります。この橋の上には、サント・ジュヌヴェーヴの像があります。暗黒時代の中
世にフン族がパリを襲撃してきたとき、パリ市民を鼓舞した彼女は爾来パリの守護女神とあがめられるよう
になりました。セーヌ左岸のパンテオンの立っている丘も彼女の名が冠せられ、サント・ジュヌヴェーヴの
丘と呼ばれているそうです。
シュリー橋をくぐったところで遊覧船は、サン・ルイ島の先端を回り込んで、右岸に沿いながらセーヌを
下ります。国王アンリー4世の同志であり、良き友人であったシュリー公マキシミリアン・ド・ベチューヌ
に捧げられた名付けられた橋。
左手になったサン・ルイ島には優美なオテル(館)がたくさん見えています。その中でもランベールの館
は、フランスの王女たちやポーランドの亡命貴族、あるいは艶名をはせたサラ・ベルナールを初め、美貌で
多くの人々を魅了した女優たちの隠れ家であったりした家々もあり、また金色の装飾の施されているローザ
ンの館は、パリ市の迎賓館であったりする。
今回の旅では、立ち寄り、散策する時間的余裕がなかったが、何時の日か足の向くままゆっくりと歩いて
みたいサン・ルイ島です。
マリ橋、ルイ・フィリップ橋とくぐって遊覧船は、パリ市庁舎の横手を過ぎ、タルコル橋にかかります。
この辺り一帯は、セーヌに向かって緩やかに傾斜した砂浜があり、今はプラス・ド・ラ・グレーヴ…「砂の
広場」と呼ばれています。
かって、この広場に仕事を求めて失業者たちが集まり、気勢を上げたところから、ストライキのことを
「グレーヴ」と呼ぶようになったとか。今は砂浜なんぞはなく、高速道路が走っています。
タルコル橋とは、1830年の七月革命の首謀者としてギロチンにかけられたアルコルの名を取って付けられ
たもの。
ノートルダム橋に差し掛かります。ほんの一瞬ゴシック・フランボワイヤン様式のサン・ジャックの塔が
見えます。
ポン・トオ・シャンシュ…「両替橋」を越えた辺りは16世紀の彫刻家ジェルマン・ピロンの手で修復さ
れた大時計に因んでケェ・ド・ロルロージュ…「大時計の河岸」と呼ばれる所には、シーザーの塔、銀の塔
(ツール・ ダルジヤン)、ボルベックの塔と三つの塔が現存しています。ここはかってカペエ王朝を起こし
たユーグ・カペエの王宮の庭だったところ。現在、ここには最高裁判所とコンシェルジェリーになっていま
す。
……と言えば、皆さんの頭の中に反射的に一つの名前が浮かんだのではないでしょうか。マリー・アントワ
ネット。ギロチン台への控え室として使われた囚われ人が幽閉されていた所。
役者は彼女ひとりではありません。マレー、ダントン、ロベスピェール、アンドレ・シェーニェ他、2278
名もの人々がここで恐怖の一瞬を待っていたのです。
ボン・ヌフを抜けてシテ島を過ぎると、すぐ右手にルーブル宮(美術館)が見えてきます。アール橋、カ
ルーゼル橋、ロワイヤル橋をくぐると、午後11時出30分、ようやく出発点のバトー・ムッシュに乗船し
た河岸に帰着。夢の余韻に浸りながら下船。
距離にすれば何ほどでもない距離ですが、パンフレットを眺めて通り過ぎる橋の名を確認し、添乗員の滝
本氏の説明を聞き、強いカクテル光線に、次々と照らし出される建造物を眺めていると、地上での観光とは
またひと味違った感慨があります。
セーヌは歴史の中を流れているのだと。
再び、出迎えのバスに乗って,黄色いヘッドランプと赤いテールランプの華やかに流れる中を走り、途
中、クルマのランプの洪水の中に孤立しているような凱旋門を眺め、コンコルド広場のオベリスクと噴水を
眺めながらバスの振動に身を委ねていました。
ホテル・アンバサダー・コンコルドに帰り着いたら、もう12時を過ぎていました。
夜も更けていましたが、明日の帰国に備え荷物を整理。ノートに今日の印象を書き記して入浴。
「お休み、パリ」
97/10/23(木) 22:04 ろまねすく(HAC01341)
第43回おわり
00679/00684 HAC01341 ろまねすく 「旅感覚・・・私のろまねすく」(44)
(20) 97/11/01 17:19 コメント数:1
◇◇◇ 旅感覚・・・・私のロマネスク ◇◇◇ 〔44〕
【欧羅巴印象記】 by ろまねすく
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この旅行記は1982年に私が海外旅行なるものを初体験したときの、驚き、
感激、とまどい、失敗について書いています。パリの市内観光の続きです。
昨夜の夢のような私の「セーヌ慕情」ディナー付きのバトームッシュです
べての観光予定を消化しきりました。
「帰りなむ、いざ」
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★ 初めてのヨーロッパに別れを告げて……(1)★
1982年8月6日。
午前7時30分(金)午前7時30分のモーニングコールで、滞欧最後の朝が明けました。いつもならモ
ーニングコールの少なくとも1時間前には、ごそごそベッドから這い降りていましたが、今朝は気の緩みと
いうか、披露の蓄積の限度か、不覚にも電話のベルに飛び起きました。
洗面を済ませて頭の中に澱のようによどんでいる、11日間の旅の疲れを洗い落とし、いつもより念入り
にサムソナイトの鞄の詰め替え整理。お上りさんよろしく買い込んだ土産物が、なかなか上手く鞄の中に収
まってくれない。
撮影の終わったフイルムを確認しながらX線防護袋に詰め込みます。36枚撮り21本。
午前8時30分から、いつものところ……吹き抜けの豪華なきらびやかな天井が美しいロビーを抜けて奥
のレストラン……で朝食。いつもの、と思わず書き込んでしまいましたが、たった2泊3日ではこのレスト
ランに入るのも2回目(^^)
ジャム、マーマレード、コーヒー用のシュガーなどをトレイの上に載せ、コーヒー、紅茶などの飲み物は
係りに淹れてもらいます。
揃ったところで、さて、どこに坐ろうかと眺めわたす。同行者たちはどこ
にいるのだろうか。20数人が1テーブルには収まり切れません。グループごとにテーブルを囲んでいました。
私たちのグループが旅行社に注文をつけながら企画したツァーなので、懐具合と相談しながら練ったもの
なので、朝食は簡単なコンチネンタル・スタイルなので、朝の肉・卵料理などは別勘定となっていました。
米英式にしても、朝食のビュッフェでは料理の種類も限られているようです。むしろ、日本の旅館の朝食
あるいはホテルの朝のビュッフェの方が、ずっと豪華ではないでしょうか。 私は家にいるときも卵だけは
朝食に欠かせない物なので、スクランブル・エッグだけは注文。
添乗員の滝本さんの指示どうり、飛行機に積み込むサムソナイトのスーツケースは朝食前に、部屋の前の
廊下に出しておきました。バスへのバゲージの積み込みはホテルの方でやってくれるので、出発までに残さ
れた僅かな時間、少しでも多くパリの印象を拾っておこうと、ホテルの前のオスマン大通りを歩き回りまし
た。
最後に残ったフラン紙幣退治に、近くの鞄専門店で
ハンドバッグ 275FF
小銭入れ 6FF
紙幣をうまく使い切るのは、買い物の組み合わせに一苦労。
10時45分、バスに乗り込み出発、いざ帰国の途へ。口に出せば五十男にはいささか気障なので、口の
中で「オールヴァワール・パリ」と何度もつぶやきながら。
[シャルル・ドゴール空港]
バスが市街地を抜け、午前11時20分、ドゴール空港に滑り込みました。今回の旅は行きも帰りもエー
ル・フランスなので、搭乗は第2ターミナルから。バゲージをカウンターに預け、機内持ち込みのバッグだ
けを肩に、かなり広々とした通路をえんえん…といった感じで歩いて行きます。建物の一番奥が搭乗口ロビ
ー。
通貨両替の窓口があり、免税店が並んでいます。ただし私の良く知っている大阪国際空港とは違って、シ
ャネル、ピエール・カルダン、サンローラン、クリスチャン・ディオール、ランパン、エルメス、セリーヌ
などの店々が、広々とした空間にゆったりとかまえ、瀟洒にして上品。
ご婦人方の目が輝いていました。
出発まで嫌になるほどの待ち時間。ロビーの椅子に座っているだけでは、苦痛になるくらい退屈。荷物を
お互いに交替で見張り、うろうろウインドウ・ショッピングするか、トイレに通うか。
シャトルバスにのって、エール・フランス機に横付け、バスは油圧の力で搭乗口の高さまで持ち上がって
ウオークイン。
午後2時45分。出発が遅れていたエール・フランス274便はエンジンの回転を上げ、ドゴール空港の
離陸滑走路を次第にスピードを加えながら走り出し、ゴトゴト体に響いていた振動がフッと止むと、機体は
ふわりと浮き上がり、とうとう離陸。眼下はすぐべっとりとした雲。僅かな雲の切れ間から平坦な農村風景
が見えました。次第に雲量が増え何も見えない白い世界に。
水平飛行に移ってすぐ、京都言葉で「むしやしない」程度の軽食がでました。ヨーロッパ大陸を後にし
て、1万メートルの上空に翔け上がると、上は真っ青な空に太陽がギラギラした光芒を輝かせています。
退屈かつ窮屈な時間が始まります。
背もたれを軽くたおし眼をつむると、つい先刻まで身を置いていたヨーロッパの様々な場面、印象が甦り
ます。
10年に1度開催されると言うフロリアードを見たアムステルダム
ローザンヌで皆とはぐれ、ツェルマットまでの気ままなひとり旅
8月1日、ツェルマットで遭遇したスイス独立記念日に、いろいろな国々
の人々と肩を組んで行進した夜
バトー・ムッシュでのセーヌ遊覧・・・・・・
午後5時、イヤホーンが配られ「未知との遭遇」を見る。
午後8時、機内食が配られる。
午後10時、7時間半ほど飛び続けて、AF274機はようやくアラスカの上空にさしかかっています。
そして私のベッドから降りてからの時間は、とっくに20時間を超えていました。
眼下遙かに雪に埋もれた山々が広がっていました。日本の中部山岳地帯の
上空から見た眺めとは異質な風景が。尖った山頂だけを雪原からのぞかせています。これは1万メートル上
空からの印象で、近寄れば、峨々とした山巓が連なっているのかもしれません。
やがて、山岳地帯を抜けたのか、山々は次第に低くなり、縺れた編み目のような大河が現れました。アラ
スカ中央部を西流する全長3166キロメートルに及ぶユーコン川でしょう。
傾きかけた夕陽に金色に染まって見えるユーコン川は、カナダ北西部のユーコン州とブリティッシュ・コ
ロンビア州との間にある湖沼群に源流を発し、アラスカのほぼ中央を激しく蛇行し、ほぐした生糸の束のよ
うにもつれながら西に流れ、ノートン湾の南岸でベーリング海に注いでいます。
ユーコン川が見え始める頃からAF機は徐々に高度を下げ、もつれ合ったユーコンの姿がだんだん近く、
大きくなってきます。フェアバンクスでしょうか、かなり大きな街らしいものが視界に現れてきました。
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済みません。M(_ _)m この1回で終わるつもりでしたが、まだ成田空に
到着しません。もう1回だけ、お付き合い願います。
97/11/01(土) 17:16 ろまねすく(HAC01341)
第44回おわり
00866/00876 HAC01341 ろまねすく 「旅感覚」(45)
(20) 97/11/13 17:45 コメント数:2
◇◇◇ 旅感覚・・・・私のロマネスク ◇◇ 〔45〕
【欧羅巴印象記】 by ろまねすく 最終回
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この旅行記は1982年に私が海外旅行なるものを初体験したときの、驚き、
感激、とまどい、失敗について書いています。
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★ 初めてのヨーロッパに別れを告げて……(2)★
まだ…1982年8月6日?
前回で、シャルル・ド・ゴール空港から一気に成田国際空港着陸まで書いてしまうつもりだったのですが
…まだアラスカのアンカレッジ空港にも着いていません(^^;
****************************************************
午後10時52分、AF機は湾を一周するあいだに高度をくせんぐん下げようやくアンカレッジ空港に着
陸。約1時間のトランジットタイム。出口でプラスチックの大きなカードをもらい、トランジットルームに
はそのカードを示す。
ここアンカレッジのターミナルはどうなっているんだか、一歩も外に出られないので判りません。往きに
も立ち寄ったのですが、1階はかなり広い場所にブランド物の紳士・淑女の洋品雑貨店が、まるでデパート
のように並び、2階には洋酒・タバコのカウンターがありました。
「世界で最も信頼されている公認免税店」というキャッチフレーズで、ガイドブックにも大きな広告を載
せている「デューティフリー・ショッパーズ」。(しかし、ヨーロッパへのルートがロシア上空を飛ぶ直行
便が当たり前になった今、多くが店をたたみ、信じられないくらい寂れていると聞いていますが、どんな状
況でしょうか)
出発のとき、たくさんの土産物を抱えての旅は大変だから、と、定番の洋酒や洋モク類は、ここで購入す
るものを決め、代金も支払い済みだったので、受け取るために大切にしまったいたプリオーダーのときに貰
った伝票を片手に、急いで2階に駆け上がりました。
当時、日本では安易には手に出来なかったカミュ・ナポレオン2本を伝票と引き替えにもらいましたが、
結構、持ち重りするものです。
次に、これもかねてから聞いていた「うどん屋」が2階にあると聞いていたので、話の種に、と別の階段
を2階に上がります。1階の華やかさに比べて、倉庫の一隅のようにがらんとしたところに、屋台の風情の
うどん屋がありましたが、かんじんの味はさっぱりいけません。淡泊な関西うどんから、出汁のうまみと風
味を抜いたようなしろもの。
再び1階に降りると、残ったコイン退治にアラスカらしいトナカイ革の小銭入れをひとつ。
あとは椅子に腰掛けて、残りの時間をぼんやり過ごします。
FR274便の搭乗案内が流れ、ほっとしてプラスティック・カードを係員に渡し機内へ。
【以下、私のメモ通りに】
12時12分(ここから暫くはアンカレッジの現地時間に変更) AF機は滑走路に向かって動き始める。
12時20分 エンジンの回転数が急に高くなり、テイクオフ。雲量3。離陸後10分で雲表にでる。
これから2時間ほどで日付変更線を越えて、8月7日となる。太陽は中天に鋭い光芒を放っている。
1時10分 先ず飲み物が配られ、しばらくして食事が運ばれてくる。現地時間から言えば昼食。だが私
の昨日から続いている時間的な感覚では深夜食。
小さな窓から下を見下ろすと、分厚く敷き詰めた雪の所々から、鋭い峰先がのぞいているが、アラスカ
部・中央部の山岳に比べて低い。
すぐ山岳地帯を抜け、一面に湖沼が無数に散在している低地の上空となった。この光景をどう表現したら
いいのか。壊れたガラス片を撒き散らしたように、べったりと広がった水玉模様。
1時15分 機はアラスカ半島を横断し終わったAF機は、ベーリン
グ海に出る。
2時35分 雲のあいだに青い海面が開けている。もうそろそろ日付変更線を越える頃ではないかと思うが、べつに海上に線が引かれている訳
でもなし、確認できない(^^)
4時30分 うとうとしていたら、AF機は乱気流の中に入ったらしい。機体の激しい揺れで目を覚ま
すと、FASTN SEETBELTのサインが出ていた。往路、復路とも今までは1万メートルの高々度飛行で、畳の
上のような静穏さで過ごしてきたので、突然の激しい揺れは意外。これほどの高度なら、下界のちょっとし
た気象の変化などには影響されないだろうと、勝手に多寡をくくっていたので、びっくり。
6時18分→ここからは日本時間で18時18分 「ただ今より1時間後に、成田国際空港に到着いた
します。これより朝食のサービスをさせていただきます」というアナウンス。窓の外は抜けるような青空。
そして眼下には鰯雲。
食後、配られた入管手続きのための書類の記載に没頭する。
▼セリーヌのベルト 2本 15,040円
▼ゲランの香水「ミツコ」1/4オンス 10,800円
▼カミユ・ナポレオン 2本 14,400円
▼海泡石のパイプ 9,800円
▼セーター(スイス製) 17,690円
▼ランバンのボストンバッグ 25,120円
▼ベルト 2本 8,640円
▼ハンドバッグ 11,000円
<合 計 112,490円>
他にも細々とした単価の安い土産物は省略。
19時05分 小窓から覗くと、雲というものが地上からはほぼ平面的に見えていたものが、飛行機から
見ると、高層雲から最下層の乱雲まで、三重、四重の構造になっていることが良く判るのはジャンボ機が、
だんだん高度を下げて行くからだろう。
19時20分 無事、成田国際空港にランディング。日の暮れぬまま、私にとっての「今日」は実に34
時間。私は飛行機を乗り継いで大阪まで帰るので、トランジットルームでの待ち時間が始まる。
東京から参加された「おりん口伝」など炭坑就労婦の生い立ちや生活を描いた小説を何冊も上梓されてい
る作家の松田解子さんとは、ここでお別れ。
20時00分 大阪国際空港に向かうため再び搭乗。最後のフライト。
20時25分 成田をテイクオフ。
21時35分 大阪国際空港着。いつものことながら、着陸寸前の大阪市街上空からの眺めは、何度見ても飽きることはない。光の洪水。 大阪国際空港に到着すると、イミグレイションを無事通過、税関の検査
も簡単にくぐり抜け、ロビーに出ると、深夜になっているにも拘わらず、友人二人がクルマで迎えに来てい
てくれた。もう空港バスもなく、助かった!!! \(^◇^)/
(完)
PS:だらだら旅行記に長々とお付き合い下さいまして、本当にありがと
うございました。
97/11/13(木) 17:42 ろまねすく(HAC01341)
第45回おわり
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