ビートたけしが司会をする番組を見ると、何か居心地の悪さを感じる。
誤解を恐れずにはっきりと言ってしまえば、白ける。
漫才ブームの全盛期ならまだしも、今のビートたけしの何が面白いのかが分からない。
映画監督「北野武」の市場価値と比べると、
コメディアン「ビートたけし」の市場価値は目減りする一方なのではないか。
「ビートたけし」の軽さやバカは、
実は「北野武」によって「装われた」・「計算された」軽さやバカであることに、
うすうす日本中が気付いていると思う。
それが下らなければ下らないほど、そのコントラストは一層強まる。
見ていて痛々しいほどに。
その辺りは、片岡鶴太郎にも通ずるものがある。
片岡鶴太郎が画家・芸術家として振舞うとき、それは「装われた」重さや真剣さのように見える。
鶴太郎の絵がいくらで売れるのかとか、本人がどれほど本気なのかとか、
知らないし興味もなく、別に悪意もないが、あくまで俺にはそう見えるのだから仕方がない。
片岡鶴太郎が「鶴ちゃん」というキャラクターを封印したように、
北野武も「ビートたけし」というキャラクターを封印するべき時が来ているのだと思う。
以前は、「北野武」と「ビートたけし」はバロメーターの両極だった。
そして、視聴者もそれを認識していた。
しかし、最近「北野武」と「ビートたけし」の間の針の振れ幅が小さくなってきている。
「北野武」と「ビートたけし」が近似値となり、
本人にも使い分けができなくなっているような気がする。
「ビートたけし」の知名度は高い。
その点で、市場価値があるのは認める。
しかし、それ以外の要素を俺は見つけることができない。
このまま緩やかに値崩れしていくような、そんな気がする。
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おまけ。
昨日は岐阜羽島でヘルプ。
リリースでバタバタしているというからどれほどのものかと思ったが、
そんな緊迫感は全くなく、てんで肩透かし。
3時の休憩時間だと言って、休憩室でお菓子を広げられた瞬間、
近距離パワー型のスタンドを発動しそうになった。