作品って普通の写真と違うの?
写真を始めると写真のことを作品と呼ぶ方達に出会いました。
最初はとにかく自分の為だけに写真を撮っていたので自分には関係ない世界と思っていましたが、
写真について色々と勉強していく内に自分の写真は作品と呼べるのかと考えるようになりました。
で、そこで行き当たったのが「作品て何よ!?」という疑問。
僕以外にも同じような疑問を抱いている人も少なからずいると思います。
長い文章になってしまいましたが、自分なりの考えをここにまとめてみました。
これから作品作りを始めようという方も、また既に作品作りをされている方も、
できればここは読んで欲しいところだと思っています。
ご意見・ご感想、大歓迎でーす!(^-^)/
写真を誰にどうみせようかと考えたとき、作品作りが始まる
「写真を誰にどうみせたいか」と意識した時点で作品作りが始まっていると思います。
それは撮る前でも良いですし、撮ってる最中や撮り終わって出来上がった写真を観てる時に思っても良いです。
なので、何も考えずに何も考えずに撮った写真でも、そのような思いが込められたら作品になる可能性があります。
「どうみせたいか」というのは色彩の調整や大きくプリントする、また、額や黒台紙で飾るなど色々あると思います。
メールで電子データで送ってすます場合も有れば、プリントしてアルバムやブックにして送ったりってのも有りますね。
中には自分のために撮った写真というのもありだと思います。
ただ、本当に自分のためだけにという写真はどうしても基準が甘くなりがちというのは自分の経験談です(^^;
これらの誰かにみせるための努力や工夫が、つまり、作品作りだと思うのです。
自分がOKだと思ったときに作品が完成する
とは言っても、世の中に沢山素晴らしい写真があるのに、自分のこんな写真を作品と呼んで良いの?
と思う人はいると思います。
でも、周りの評価は関係なくあなたの作品はあなたが決めればそれで良いと思います。
例えば彼女に「自分が旅行でみた空が綺麗だったからそれをみせてあげたかった。」という目的の写真ならば、
彼女にその空の綺麗さと自分の思いが伝わるように努力します。
パソコンで空の色を自分の記憶に近づけるように調整して、いつもより高級なプリンター用紙を使用して、
普段は使わない高画質モードで大きめにプリントするとか、そういう想いが込められたものが作品なんだと思います。
あなたから彼女へと送った作品。
それはとても狭い範囲でしか通用しないものかもしれませんが、それはそれで立派な作品と呼べると思います。
世の中には世界的視野で作品作りをしている方もいます。これは広い範囲での作品作りと呼べます。
メッセージを伝えたい相手が世界中の人々となれば、並大抵の努力と工夫では作品として完結しないと思います。
それだけ志が高い人はなかなか自分の写真にOKを出さないでしょうから。。。
というわけで、一言に作品といってもその作者が対象としている範囲は大きく異なってくると思うのですが、
もしあなたが作品作りをしようと思ったら、まずは「誰に何を伝えたいのか」というところから出発すると良いと思います。
そうすれば少なくとも自分の写真を見て「これって作品て呼べるのかな?」と悩むことはなくなると思います。
これでは相手に想いが伝わらないと思えばそれは未完成ですし、これで良しと思えればあなたの作品の完成です!
まぁ本当に相手に自分の思いが伝わるかどうかは、出たとこ勝負なんですけどね(^^;
若干補足すると、その狭い範囲を対象とした写真ではもの足らずに、
より多くの人にみてもらいたい、認めてもらいたいと思うようになったら、
その範囲と同じように努力や工夫する点が増えていくと思っています。
だから狭い範囲では素晴らしい写真だったとしても、より広い範囲ではダメ出しをもらうことは多々あると思います。
ここら辺の切り分けが出来ていないと色々と混乱する要因になると思います。
「愛情」は料理にも写真にも最高の隠し味!?
うちの奥さんは料理が上手で、料理のコツというものを聞いたことがあります。
そしたら「特別な隠し味」を使ってるというのです。
興味津々にそれは何かと聞いてみると「それは愛情〜。」と言いました。
うーーん、臭いけど憎いこと言うねぇ〜と思ったのですが、奥さんは真顔でこう続けました。
「でも本当に料理は愛情だと思うよ。」
どうも冗談で言っているわけではなさそうなのでもう少し話を聞いてみると、
「愛情がなければこんなに手間をかけないって。
愛情があるから一つ一つを丁寧にできて、だから美味しくできるんだと思う。」
なるほどー。
下味を付けたり、水切りをしたり、野菜の大きさを均一に切ったり、二度揚げしたり、蒸らしたり…と
料理には手を抜こうと思えば抜かせたり、雑にできる工程は沢山あります。
でもその一つ一つを手を抜かず、又、味を引き立てる工程を加えることによって確実に味が向上していくのです。
そして、これって写真の作品作りにも同じ事がいえると思います。
具体的な工程は料理のそれとは違うものの、作品作りのために手を抜かず
愛情を持って作品を作っていけば必ず作品の質は向上していくものだと思います。
記録から表現、そして創造へ
ここまで書いたモノの、これから写真を始めようと思ってる人はこれだけではピンと来ないと思います。
ここまではこれから作品作りをしようとする方の為の「心構え」だと思ってください。
もう少し具体的な「写真表現とは」というところを書いておきます。
僕は昔、「記録」と「表現」の違いが分からずに悩んでいました。
自分にとっては良い写真だと思うのに、第3者からは親バカ写真と言われてしまうような感じです。
「記録」とは写真の重要な特性の一つで、一般の人が写真を撮るのは「記録」が目的だと思います。
家族でディズニーランドに行きました。じゃぁシンデレラ城の前で記念写真を撮りましょう〜、って感じです。
これはこれで家族の重要な営みだと思いますが、
全く見ず知らずの家族のそういった写真を見せられても、正直、返答に困ってしまいます。
まぁ、みんながニコニコしていれば「幸せそうな家族だねー。」くらいは言えますが…。
同じく、親バカ写真も「記録」の範疇です。
自分の子供だから意味があるだけの写真は、他人にとってはなんの意味がない写真、つまり、親バカ写真ってことだと思います。
「表現」を考えるとき、撮影の対象が自分の子供である必然性が無くなります。
写真を観る側にすれば、その被写体の子が、カメラマンの子供かそうでないかってのは大した問題ではなく、
その写真から何を感じられるかが問題なんだと思います。
また、別に子供を撮っているから「子供らしい」というのを表現する必要もなく、もっと別の感動をクリエイティブしても良いと思います。
自分の子供をとるときはどうしても記録的になりやすく、親バカ写真になってしまいます。
ただ、取り違えて欲しくないのが、「記録」が全くダメだと言っているわけではないです。
親バカ写真だって、第3者には全く意味が無くても、
子供が育ってその写真を観て自分がどれだけ愛されていたかを知ることだってあるかもしれません。
家族にだけしか通用しない極めて狭い範囲の中では、それはそれで作品になりうると思います。
(でも第3者に見せて親バカ写真だねーと言われても怒らないようにしましょう(^^;)
写真表現をこれから始めようという方は、まず「記録」という呪縛(?)から解き放たれるよう考えてみてください。
そうすることで何らかの表現が始まると思います。
そして次に始まるのが「創造」です。上に書いた「感動をクリエイティブする」という事です。
「記録」と「創造」は全く逆の行為の様ですが、写真表現とは「創造」という行為なんだと思います。
まだここら辺は答えを探している最中でまとまっていませんが、
この「創造」という行為が、今後の自分のキーワードとなる予感がします。
これから写真表現を始める皆さんは、まず「記録」から卒業してください。
そこから「表現」が始まります。そして「創造」を一緒に求めていきませんか?
でも写真は「出会いと発見と記録」
でも最近、写真の本質は「出会いと発見と記録」なんじゃないかと思うようになりました。
なんだか話がループしちゃってますね(^^;
でも、写真の可能性を過大評価しないためにも絶対必要な認識だと思うのです。
写真は写真、それ以上でもそれ以下でも無いということがいいたいのです。
歌は曲と歌詞によって一つの表現となります。曲だけでもダメだし歌詞だけでもダメです。
ミュージカルは曲と歌詞と踊りと演技と台詞と…とにかく色々なものが混ざって一つの表現になるわけです。
勿論、曲だけの表現だってありますし、歌詞(詩、言葉)だけの表現もあります。
結局、どれが上か下かという話ではなくて、それぞれがそれぞれの表現力を持っています。
だから写真も写真なりの表現力というのがあって、
その本質は「出会いと発見と記録」に有るのではないかと考えているわけです。
では、その「記録」である写真に何ができるのかという話になってきます。
上では「感動をクリエイティブする」と大層なことを書きましたが、
実際のところそれは結果で、撮影者がそこまで鑑賞者に働きかけることは出来ないと思います。
自分の感動と同じものを鑑賞者に求めてはいけないわけです。
自分がどんなに素晴らしく感動的だと思うものを切り取っても、鑑賞者がどう思うかは全く分かりません。
養鶏場の鶏を可哀想だなーと思って撮っても、
その写真を見て「不健康そう」とか「まずそう」と思う人もいると思います。
詩なら「押し込められた鶏、羽ばたくことを忘れた翼、その瞳だけが遠い大地を夢見て…」
なーんて書くと、作者の想いがストレートに伝わる分けですが
写真で鶏の瞳を撮っても「かわいそう」と思う人もいれば「力強い」と思う人もいるわけです。
写真とはそれくらい受動的で、そしてそこに写真の面白さが有るのではないかと思うようになりました。
「養鶏場の中の鶏はこんな瞳だった」という事を「記録」するのです。
そしてそれは鑑賞者の経験や感性に基づいて一つの力を得るのだと思います。
撮影者が「かわいそう」と思って撮っていても、その感想は一鑑賞者の立場でしかないんだとおもいます。
如何に鑑賞者の力を引き出すか。それが写真の本質であり、力なんじゃないでしょうか?
僕の周りには出会いと発見が沢山ありました。だからそれを記録したくてカメラを持ちました。
その後、写真が上手くなりたいと思うようになり、そして次第に「作品」というものを意識するようになりました。
作品とは作者の意図を反映したもので、鑑賞者に感動を与えるものと考え、「記録」と「作品」の違いに悩みました。
でも、写真は記録なんですよ。
で、写真は鑑賞者と一緒に感動を生み出すもので、撮影者はその素材を提供するものなんですよ。
格好良くいうと「感動の卵」を提供して、鑑賞者にふ化して育ててもらうものなんだと思います。
こう考える事によって、自分の中で写真というものが何者なのかスッキリとしました。
そしてこれを踏まえて、写真の可能性を考えて自分なりの作品を生み出していこうと思っています。
もしかしたら大反論があるかもしれませんが、今の自分の正直な見解です。
作品を作りましょー!
なんだか難しい話になっちゃいましたね。
ここは本当は、これから写真を始めようという人のために書いていたのですが、
いつの間にか写真で作品作りをしている方への問いかけみたいになってしまいました(^^;
でもどうでしょう?
これから作品作りを始めようという方には
まずは「作品」はあくまでも自分の基準で決まってくる気楽なものだと思って欲しいのです。
うちの子供が保育園で作ってきたものだって我が家では立派な作品です。
皆さんも、せっかく撮った写真は作品としてかわいがってあげた方が良いと思います。
そういった意味で良いカメラやレンズを持っていなくても作品は作れますし、撮影技術がヘタッピーでも作品は作れます。
写真で伝えきれない想いが有れば言葉を添えて相手に送るのも一つの作品の形だと思います。
まずは自分のための作品作りから、次に自分の身近な人への作品作りから初めてみては如何でしょうか?
2004/07/29 「記録から表現、そして創造へ」を加筆。及びその周辺を修正。
2004/08/18 「出会いと発見と記録」を加筆。及びその周辺を修正。
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