旅好堂

モロッコ風まかせの旅3

シャルバーグ八千代

 1954年東京生まれ。都立鷺宮高校卒。田中千代服飾学院修了。アテネ・フランセ英語科修了。大日本印刷企画部にてアシスタント。編集プロダクション勤務。その後フリーになり、主にPR誌の編集執筆をし、30代より海外旅行専門に絞り、地球の歩き方タヒチ、ギリシャ、ニューカレドニアを初版から編集、執筆。講談社の女性誌のトラベルページを担当。トラベルジャーナル社のワールドカルチャーガイド、ギリシャ、ハワイ、ニュージーランドを編集。タヒチ編は編集および執筆。41歳で結婚し、フレンチ・ポリネシア(タヒチ)のライアテア島で5年暮らし、2000年4月よりフランスのブルターニュ地方に越す。91年に編集プロダクションを設立し、現在は東京渋谷にあり、そこの役員として仕事を継続。

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家族3人、モロッコ風まかせの旅(第3部)

砂漠を目指して

 海を後にし、6日目にしていよいよ砂漠を目指すことにした。

 モロッコの砂漠はアルジェリアとの国境地帯に広がっているが、西のモーリタニアに近い地域は政治的な問題があり一般的な観光は進んでいない。一方南部方面はマラケシュから考えて、北東にある1917年にフランス軍の駐屯基地として建設された町エルフードErfoudと、南に下ったワルザザードOuarzazate、その先のザゴラZagoraを基点にしてラクダあるいは徒歩で砂漠を巡ったり、四輪駆動車で広範囲に動くといった様々なツアーが組まれ賑わっていた。特にワルザザードは1920年にフランス軍によりサハラ砂漠の最前線基地として建設された町だが、今は国際空港も造られ、砂漠観光の重要な前線基地となっている。いずれも5年前に訪れていたが、私たちはそのどこへも行かなかった。まずアンチ・アトラス山中の標高1200mにあるタフロウトTafrouteの町へ行くことにしたのだ。道は山の裾野を縫うように、アーモンドの白い花が咲く小さな村村を結んで続いた。

 夕方近くに着いたタフロウトは、夕日に照らされローズ色に輝いていた。モロッコの伝統的な家はその土地の土を練って作られる。この一帯はピンク色の花崗岩地質なので家々はみなその色になった。それが赤い夕日に照らされ一層赤味を増すというわけだ。私たちは丘の上にある大きなピンクの箱(塗られたものだったが)といった風の、この町で一番場所も値段も高いホテルに泊まることにした。小さいホテルの狭さに少し疲れを覚えていたせいもある。1週間振りにゆっくり湯につかり、ルームサービスでアペリティフを楽しみ、ゆったりしたダイニング・レストランでワインを飲みながら食事をし、フカフカのベッドで眠った。息子も大好きなお風呂を満喫し、スパゲティ・ボロネーズに喜び、ちゃんとしたベッドで寝た。というのもマラケシュのホテルではなんの間違いかベビーベッドしかなく、海辺のビラでもベッドで寝ることがなかったからだ。

 7日目。やっと「砂漠の入口」と言えそうなオアシスの町タタTataへ向かった。タフロウトを三角形の底辺の出発点とすると、頂点にあたる要塞の町イゲルムIghermを経由してもう一方の底辺の角にあたるタタへ下らなければならなかった。全行程約220q。山肌の地層がカシミヤ模様のようにうねうねとした中を延々と走った。

 オアシスの町タタに入ったのも夕方だった。モロッコ軍のベースキャンプがあり、アンチ・アトラスの交通の基点ともなるところだったが、観光的に名が知られたタフロウト(日本の「地球の歩き方・モロッコ編」にも紹介がある)に比べると「地の果て」だった。みやげ屋が1軒、ホテルは2軒しかなかった。ガイドブックの解説と私たち自身の経験も合わせ、町中の安いほうのホテルを選んだ。

 日が暮れかかる頃、次から次へと砂を被った四輪駆動車が賑やかに到着した。みんなこのホテルのお客さんだった。モロッコ人運転手に、お決まりの青い服とターバンを巻いたガイド氏。藍で染めたターバンや衣服は砂漠の民の象徴なのだ。そして砂まみれのフランス人やイタリア人のグループが下りてきた。タタに来る観光客はたいていがワルザザードやザゴラからの小人数の砂漠ツアー客(バスツアーではない)で、私たちのようなコースを取る人はほとんどいないことが分かった。まったく反対の行程を取っているようだった。とにかく先に思う通りの「砂漠」があることを期待させる光景だった。

幻の湖、イリキ湖

 翌朝(8日目)、タタでこの先では買えない飲料水や食料を調達し、最後のガソリンスタンドがある国道の終着点フーム・ズギッドFoum Zguidに向かった。この一帯を結ぶ重要な幹線道路で状態も良かったが、住む人も少ない荒地の中、行き交う車はほとんどいなかった。150qという距離にもかかわらず1時間半ほどで着いてしまった。タタよりさらにひなびた静かなオアシスの町で、観光客に関心を示す人はいなかった。ここには不釣合いの現代的なスタンドでガソリンを入れ車の点検をした後、今は水が枯れて幻となった湖、イリキ湖Lac d'Irikiを目指した。

 車がやっと1台通れる小石だらけのピストが、遠く広がる岩漠の中に続いていた。しかしこれは人工的に作られた「道」ではなかった。アラビア語で『ウエドoued』といって、雨が降ると水が流れる川筋なのだ。地図には青い点線で印されている。モロッコでのオフロードはこうしたウエドの道筋が多い。しばらくは小石を敷き詰めたようだったのに、だんだん石ころになり、次第にごろごろした小岩の塊となって一筋の線ができていた。不用意にスピードを出すとタイヤが傷んでしまう。オリビエは車を歩くほうが早いと思われる速度でのろのろと進めた。周囲は地平線まで青い空と強い太陽の日差しの中に砂を被った潅木が散らばる荒地が続くだけ。聞こえるのは頼もしい車のエンジン音と時折交わす私たちの話し声しかなかったが、不思議と寂しさや不安はなかった。

 ピストを40qほど入った辺りで、急に景色が一変した。岩だらけの大地がほとんど砂一面の広がりに変わったのだ。遠くにラクダの姿を見ることもあった。放牧のラクダだろうが、とても人間が住んでいるとは思えない砂と石ころの世界だった。突然、前方にイスラム教の聖人の廟、丸屋根のマラブに似た建物が現れた。実際はモロッコ軍のパスポートコントロールの建物だった。アルジェリアとの国境に近いからだろうか。20代と思われる若い係官が一人、笑顔で私たちの車を止めパスポートの提示を求めた。

 オリビエは車を止め、3人分のパスポートを彼に渡すと同時に、マルボローを勧めた。監視官はうれしそうに差し出された煙草の箱から数本抜き取った。同じくオリビエが差し出した簡易ライターで1本に火をつけ、満足そうに煙を吐いた。彼はこんな荒地の真ん中で訪れる人もなく退屈していたのだろう。私たちがどこから来たのか聞いたり、かつて水が潤っていた頃のイリキ湖のことから町にいる彼の家族の話などをした後、解放してくれた。しばらく進んでからオリビエがフーッと大きなため息をついた。

「どうかした?」と問う私。

「いや、緊張したからさ。アフリカのあーしたパスポート・コントロールではトラブルがおきやすいんだよ。といってもお金で解決する問題だけどね」と彼。

 イリキ湖はそこからまもなくの所だった。といっても湖の痕跡は何一つない。ただただ湖底だったろうと思わせるように平らに気持ち良く砂が広がっていた。かつて水が満ちていた頃は70センチ近い大魚が釣れ、周辺の村村は漁業で潤っていたという。よほど想像力を働かせてもそんな光景は浮かばなかった。まさに「幻の湖」だった。オリビエがそれまでののろのろ運転の鬱憤を晴らすように砂の中を縦横にスピードを上げて走ると、後ろの座席で息子は「パパー、アレー(行け)!アレー(行け)!」と歓声を上げた。

 イリキ湖を抜けると、またそこには以前と同じ岩だらけのピストが延々と続いていた。いつまでたっても変わらない風景の中をどのくらい走ったろうか。「砂漠」はあるのだろうか。実際には岩漠と土漠の不毛の砂漠にいるのだが、私たちがイメージしていた「砂漠」は石ころも潅木もない、ただ砂だけの世界だったのだ。

 前方に大きな岩の台地が見えてきた頃から、進行方向右手に遠く砂山の連なりらしきものが見え隠れしている事に気が付いた。時刻はすでに16時を回っていた。このまま岩の台地の麓に続くピストを進んでも、どこかで野宿をするしかなかった。私たちは思い切って砂山の連なりを目指してみようと話し合った。と、突然ピストの脇に石積みが現れた。これは砂漠地帯の道しるべだった。説明書きはないからどこへ行くか分からなかったが、印が分岐点を示していることだけは間違いなかった。いちかばちで道なき道に車を乗り入れた。

夢が実現した砂漠の一夜

 私たちはついに砂丘が連なる世界に到達した。日差しがかなり傾いていたので最初の砂丘の谷間で車を止めた。エンジンを切ると、そこにはすべての音が砂の中に吸い込まれて行くような静寂があった。が、それは一瞬にして息子のおしゃべりに破られた。

「パパ、マモン、ここで寝るの?夕食はどうするの?火を起こすんでしょう。外に出ていい?」と、矢継ぎ早に問いかける。

旅といっても車に乗って移動している時間のほうが長く、大人は周りに展開する自然のパノラマを楽しんだが、7歳の男の子には退屈だった。そんな彼が夢中で取り組んだことがある。野外料理だった。マラケシュで買い揃えたいろいろな調理道具は使う機会もないままかと危ぶんだが、タフロウトを出た日から昼食はそれらを使って自分たちで作っていた。久は最初だけ父親に少し助けてもらいながら自分でかまど用の石を拾い、枯れた草や枝を集めて火を起こした。ここでも最初に大喜びで取りかかったのがその作業だった。

 湯が沸くまで、3人で砂丘に登った。裸足に、日中の日差しで温められた砂が熱かった。息子は主人と砂丘のてっぺんから走り下り、また次ぎのてっぺんに駆け上ったり、砂まみれになってはしゃいでいた。それから暗くなる前に、タタのベルベル人の市場で買ったトマトと玉ねぎをスライスしてレモン汁をかけたサラダと、スパゲティを茹で、バターと缶詰のトマトソースをまぶして食べた。なんの変哲もない夕食だったが、オリビエは今でも旅行中の一番美味しい食事だったという。

 砂漠の旅は一般的に12月から3月が適していると言われる。この時期でも日中は25度前後になるが、それ意外の時期は40度を越える灼熱の世界になるからだ。それでいて日が沈むと気温は急激に下がり、夜は零下になる。暗くなるとすぐに小さな焚き火一つを残して川の字に置いた寝袋の中にそれぞれ潜りこんだ。私たちがフランスから用意してきた寝袋は一応0度でも対応可能なものだったが、それでも少し寒かった。しかも寝袋の下の砂があまりに堅いのに驚いた。まるでパンパンの板の上に寝ているようだった。寝袋を買ったときに、オリビエが下に敷くクッションをどうするか迷っていたのを思い出した。3人ともまた起き出し、彼に教えられて腰のあたりの砂をかきだし窪みをつけたら少し落ちついた。

 砂漠の一夜は幼い頃母がよく連れて行ってくれた渋谷のプラネタリウムを思い出させた。自分と空をさえぎる屋根もテントも何もない。寝袋の中で目を開けば、そこには一面の星空があるだけだった。

「なんとかここまで来られて良かったね」と彼。

「ウイ」と答えたが、今回の砂漠のことを言っているのか、家族としてのおよそ7年余りの時を振り返って言ったことなのか良くわからなかった。彼はそれ以上言葉を続けなかった。多分どちらでも良かったのだろう。何もない砂漠の中、星空を見上げて3人でいられることがひどく幸せだった。ここまで来られたこと、またここから3人で進んで行けること。いずれ息子は親から離れ、残るのは2人だが、私たちは一様に他のどこにも誰にも感じることのないであろう強い絆を実感していた。それを確かめたくて、人工的な条件が何もない裸の自然の中に来たかったのかもしれない。

 寝袋に入ってしばらくして、息子と私は同時に流れ星を見た。見そこなった主人がひどく悔しがったのは言うまでもない。それから星座をよく知っている彼に教わって、南十字星と北斗七星を同じ夜空の中に見た。

10日間、2500キロの旅

 本当の事を言うと、砂漠の一夜はまったくの3人きりではなかったのだ。暗くならないうちにと急いで夕食の用意をしている最中、どこからともなくラクダの鳴き声や人のざわめきが聞こえてきた。21世紀初頭に国境を越えて行くラクダの隊商など存在しない。私たちはとても驚いた。砂丘二山ほど先、砂漠を徒歩で行くツアーの一隊だった。オリビエも私もここが正しいルート上だったことにホッとしたと同時に、3人きりの秘密の場所ではなかった事に少なからずがっかりした。

 翌日はずっと砂の中を走り(途中何台かの四輪駆動車と行き会った)、後ろ髪を惹かれながらも再び文明社会へと戻ることにした。最初の賑やかな村に出たとき、オリビエはそこをマーミドMhamidだといったが、私にはどうしても信じられなかった。5年前砂塵の中に2軒の安ホテルと5本の指で間に合う数の家が侘しく立っていたに過ぎなかったのに、目の前には大勢の人が行き交い、ツアーを催す案内看板、みやげ屋、カフェ、ホテルとすっかりさま変わりしていたのだ。私は歩いている人に場所を確かめずにはいられなかった。本当にマーミドだった。

 その後ザゴラでいつもながらのモロッコ料理の昼食を取り、ワルザザードで1泊し、マラケシュを通りすぎて海辺のエッサウィラまで行って「風まかせの旅」の最後の夜を過ごした。前回もまったく同じ旅程を取っていた。エッサウィラではその時と同じホテルに泊まった。中心から1qほど離れていたが、海に面した中級でローカルな雰囲気が気に入っていたからだ。息子は小さかったからほとんど覚えていないようだったが、私たちはひどく懐かしかった。オリビエだけの30年前ではなく、私たち家族3人の思い出を噛み締めながら1日を過ごした。

 マーミドからエッサウィラは650キロ近い距離だったが、ここは今や有名な観光道路なので一気に駆け抜けた。5年前、その道中にある標高2260メートルのティジン・ティシュカTizin Tichkaの細い綴れ折りの山道に息を呑み、野性的で雄大な山々の景観に感動し、途中のドラア谷Vallee du Draaでのどかなオアシスの農耕風景を垣間見たりしたが、今回はほとんど記憶にない。全体に観光化が進んだ印象を受けたのみだった。道は広く良くなり、全体に車も増えていた。マーミドの変貌といい、あちこちに大きなホテルも出現していた。急いで走り過ぎたせいかもしれないが、5年前ののどかさは感じなかった。モロッコの外貨は80%が観光収入によるものだ。ここに住む人たちにとって良い変化であることを祈った。

 こうしてパリを飛び立って11日目、エッサウィラからゆっくりとマラケシュに戻り車を返した。この旅で約2500キロの距離を走った。

 ちなみにマラケシュに着いてから、駐車場前で客待ちをしている小さなリヤカーでメディナの中へ荷物を運ぶ仕事をしている人の中から、オリビエは牛乳ビンの底のように厚くてまん丸レンズの手製に近い眼鏡をかけたおじさんを呼んで来て、ホテルまでの荷物運びと同時に余分な調理道具やバケツなど何から何まで残り物をプレゼントした。おじさんはレンズの中の小さな目を大きく見開き、興奮と驚き、半ば呆れたような表情で私たちを見た。
 こうして旅から1年あまりが過ぎた今も、しばしば家族の間で話題になる。凍えた山頂の一夜。子犬との別れ。そして野宿をした砂漠など、など。またいつか3人でこんな旅がしたいと話し合っている。それも私の国であり、半分は息子の国である日本を歩いてみたいと。

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