20世紀の歴史
日本海海戦 −世界を驚かせた完全勝利 −
日本海軍の歩み 〜日清戦争まで〜
日本海軍の歴史は、1853年、ペリー率いるアメリカ艦隊の来航とともにはじまったといえる。蒸気で航行し、強力な大砲を備えた4隻の「黒船」に人々は衝撃を受け、欧米諸国の脅威を感じることになる。
開国後の1855年、幕府はさっそく長崎に海軍伝習所をつくり、幕府や諸藩から練習生を集め、オランダから献上された蒸気船で訓練した。
その中には、勝海舟もいた。彼が艦長をつとめ、幕府使節を乗せて1860年にアメリカへ赴いた咸臨丸も、もともとは伝習所の練習艦だった。その後も幕府は海軍力の強化に努め、開陽丸など大型の軍艦も製造している。
1868年に江戸幕府が倒れると、榎本武揚率いる幕府艦隊は蝦夷地(北海道)へ脱走、箱館に「蝦夷共和国政府」を設立した。1869年3月25日には、幕府艦隊が新政府の新型艦「甲鉄」を奪おうとした宮古湾海戦が行われている。結局この作戦は失敗し、5月に箱館は陥落した。
この年の9月、築地に海軍繰練所(のちの海軍兵学校)が、1872(明治5)年には海軍省が設立された。日本海軍の誕生である。その実態は旧幕府や藩の艦艇を寄せ集めたもので、戦闘艦はわずか14隻、海洋国日本をまもるには心もとない戦力であった。しかし、厳しい財政の中でも海軍力の強化は少しずつ進められた。
日本の当面の仮想敵国は、中国の清だった。おもな対立点は次の2つだった。
@琉球問題…江戸時代、琉球王国は鹿児島の島津氏に服属していたが、清にも朝貢していた。明治になり、国境を画定する段階で、琉球が日本と清のどちらに属するかが問題となった。
A朝鮮問題…中国の歴代の王朝は朝鮮を属国とみなしており、19世紀後半になると影響力をさらに強化する動きを見せていた。これに対し、日本は朝鮮を完全な独立国として国交を持ち、貿易等による利益をあげようと考えていた。
19世紀後半の極東
日本・清の間で問題となった琉球の帰属問題は、台湾出兵で大きな動きを見せた。これは、1871年台湾に漂着した琉球の漁民54名が現地人に殺害された事件を発端としている。日本は、琉球が自国に属するとの立場から清に賠償などを求めたが、清は台湾住民を「化外の民」であるとして応じなかった。そこで、1874年に西郷従道率いる3000の兵を台湾に派遣し制圧した。その後、大久保利通が清との交渉にあたり、賠償金を引き出すことに成功したため撤兵した。これによって琉球の日本帰属が国際的に確定したため、日本は琉球王国を廃し、沖縄県を設置した(琉球処分:1879〜80)。琉球については、台湾出兵(1874)とその後の交渉の結果、事実上日本領と認められた。この出兵の際、台湾に兵員を輸送した任務が、海軍にとって初の海外出兵であった。
朝鮮問題のほうは決着がつかず、1894年の東学党の乱をきっかけに、日清戦争が勃発した。
この時、清艦隊は「定遠」「鎮遠」という2隻の巨大戦艦を筆頭に、82隻・8万5000トンの戦力を持っていた。それに対し、日本は巡洋艦が主力で、31隻・5万5000トンにすぎなかった。しかし、黄海海戦(1894年7月25日)では大砲の発射速度で圧倒し、清艦隊を撃破した。日本海軍は、初の大規模な戦争を勝利で飾ったのだった。
日露開戦へ
下関条約(1895年4月)により、日本は清に対し、@朝鮮の独立 A遼東半島の割譲 B台湾の割譲 C賠償金2億両などを認めさせた。
しかし、極東で南下をねらうロシアがドイツとフランスとともに、遼東半島を清に返還するよう日本に圧力をかけてきた。日本はやむをえず、代償金3000万両とひきかえに返還せざるを得なかった。これが、三国干渉である。国力のなさを痛感した日本は以後、国家予算の3〜5割を投入し、軍備を整えていく。海軍も、イギリスから多くの軍艦を購入することで急速に拡大した。
遼東半島 ロシアは1898年、日本が返還した遼東半島の旅順と大連を25年間租借することを清に認めさせ、旅順に海軍基地を築いた。この動きは、日本の国民を大いに憤慨させた。
1900年、中国に義和団事件が起きると、日本・ロシア・イギリス・フランス・アメリカなどが派兵し、これを鎮圧した。しかし、乱の後もロシアは大軍を満州に駐屯し、占領を続けた。ロシア軍の満州駐屯に対し、その南下を危惧する日本やイギリスが抗議したが、ロシアは応じようとしなかった。
日本政府では、イギリスと結んでロシアを阻止しようとする山県有朋、小村寿太郎らと、ロシアに満州の権益を認め協調しようとする伊藤博文、井上馨らという二つの路線があった。結局、伊藤がロシアとの間で妥協点を見つけることができなかったため、1902年1月30日、日英同盟が締結された。
日英同盟の圧力により、ロシアは1年半かけて3段階で満州から兵を退く協約を清との間に結び、第1回の撤退を1902年10月に行った。ところが、ロシアの宮廷で強硬派が主導権を握ったため、その後の撤退の約束が守られることはなかった。
日本は、満州に対するロシアの利益と、韓国に対する日本の利益を相互に承認するという条件で交渉を続けたが、ロシアはあくまで韓国に介入する余地を残そうとして譲らなかった。1904年2月、日本はロシアとの交渉を打ち切り、日露戦争がはじまった。
日本・ロシアの国力比較と戦略
面積 人口 歳入 常備兵力 軍艦排水量 日本 41万km2 4600万 2.5億 20万 26万トン ロシア 2300万km2(56倍) 1億3000万(2.8倍) 20億(8倍) 300万(15倍) 51万トン(2倍) 表を見て分かるように、日本とロシアの国力には圧倒的な差があった。戦争直前の1903年、対ロシア戦の作戦を練っていた田村参謀次長は過労死している。伊藤博文は「ロシアが九州海岸へ来襲すれば自分も武器をとって戦う覚悟だ」と、悲壮な胸の内を語っている。一方、ロシア満州軍司令官のクロパトキンは「日本との戦争は軍事的散歩のようなものだ」と述べている。
ただし、ロシア軍のほとんどはヨーロッパに配備されていた。満州に駐屯する軍は10数万であり、日本軍よりも少なかった。また、ロシア軍の満州への兵員輸送と補給はシベリア鉄道1本に頼っており、未開通の部分もあった。
そこで、日本軍の戦略は次のようなものとなった。
@シベリア鉄道が全面開通する前に開戦する
A短期決戦で大戦果をあげる
B国力の差があらわれる前に第三国の調停ですみやかに講和するそれに対し、ロシア軍の基本方針は決戦を避けつつ日本軍を満州の奥地に引きずり込み、圧倒的な兵力がそろった時点で攻撃に転じて日本軍を撃破する、というものであった。
両軍の海軍とその戦略
当時の海軍は、次のような艦種で構成されていた。
※アイコン&お絵描き工房さんより頂きました。
戦艦
三笠最大の火力と防護力を持つ海戦の主力。
排水量は12,000〜15,000t
30cm砲4門、15cm砲10〜14門が一般的。装甲巡洋艦
浅間装甲を強化した大型の巡洋艦。準主力艦。
排水量は8,000〜10,000t
20cm砲4門、魚雷発射管4〜5門が一般的。巡洋艦
笠置速力に優れ、索敵や警戒などに活躍。 駆逐艦
東雲水雷艇を撃退する他、魚雷を用いて攻撃も行う。 水雷艇
隼魚雷を装備した小型艇。 中心となるのは戦艦と装甲巡洋艦であり、この二種をどれだけ保有しているかで戦力をはかることができた。
両国海軍の兵力は次の通り。
日露両海軍の配置
ロシアは総兵力で日本を圧倒していたが、3海域に戦力を分散せざるを得なかった。このうち、黒海艦隊は旧型艦が大部分だった上、トルコ領のボスポラス・ダーダネルス海峡を抜けることはできなかった。バルチック艦隊は回航可能だったが、未完成艦が多かった。太平洋艦隊は主力艦では日本軍に匹敵する戦力を持ち、艦・兵員とも最良だったが、小型艦の数や後方支援体制では大きく劣っていた。
なお、日本は第1・第2艦隊をあわせて連合艦隊を編成、運用している。日本海軍は日清戦争の後大幅に増強されていた。しかし、ロシアは英仏に次ぐ世界3位の海軍国で、その戦力は日本の3倍にのぼった。
ただし、ロシアは太平洋、バルト海、黒海の3つに戦力を分散していた。黒海艦隊はオスマン帝国に出口をおさえられているため使えず、バルト海艦隊(通称バルチック艦隊)は遠く離れていた。したがって、日本艦隊の当面の敵は太平洋艦隊で、戦力はほぼ互角といえた。
日本は海を越えて大陸に兵と補給を送らなくてはならなかったから、その安全を確保することが最大の任務であった。そのため、旅順に主力をおくロシア太平洋艦隊を撃破し、海上交通を確保することが絶対条件となった。その後、ヨーロッパからやってくるであろうバルチック艦隊を迎え撃つ方針を立てた。
ロシア側は、太平洋艦隊だけでは日本海軍に対抗できないと考えており、戦前からバルチック艦隊を増援として派遣することを検討していた。したがって、バルチック艦隊がやってくるまで太平洋艦隊が持ちこたえられるかが、戦争の行く末を左右することになる。
旅順港を封鎖せよ
日本海軍の最初の任務は、韓国の仁川に上陸する陸軍の先発隊を護衛することであった。海軍第4戦隊(巡洋艦4隻)は2月8日に韓国派遣隊を上陸させ、翌日ロシア巡洋艦ワリヤーグと砲艦コレーツを自沈に追い込んだ。この日ロシアが、翌10日に日本が宣戦を布告した。
東郷平八郎中将率いる日本連合艦隊の主力も、開戦と同時に行動を開始していた。2月8〜9日、連合艦隊はロシア太平洋艦隊を撃破すべく、その主力が停泊する旅順を襲撃した。しかし、戦艦2隻と巡洋艦1隻に損傷を与えたにとどまった。ロシア艦隊は陸上砲台の援護のもと、港内にひきこもってしまった。
開戦直後の日本軍の動き
旅順奇襲は十分な成果をあげられなかったが、韓国上陸作戦は成功裏に終わった。その後、第1軍は満州めざして北上し、最初の大規模な戦闘である鴨緑江会戦(4.26〜5.1)に勝利した。ロシアの戦略は、艦隊を温存し、その存在によって日本軍の海上輸送路を脅かすことにあった。日本軍は、時々出撃しようとするロシア艦隊を港外に逃さないようにする必要があった。そこで、旅順港の入り口に船をならべて沈め、ロシア艦隊を閉じこめる閉塞作戦を行ったが、3回(2/24、3/27、5/3)の作戦は失敗に終わった。依然として港は出入り可能な状態であった。
同時に、日本は機雷の敷設もはじめた。これは4月、ロシア戦艦ペトロパウロフスクとそれに乗った名将マカロフ提督を葬るという戦果をあげたが、完全な封鎖にはほど遠かった。
しかたなく、日本は旅順港の近くに艦隊をはりつけ、ロシア艦隊を見張るという骨の折れる策をとらざるを得なくなった。ところが5月10日、今度は日本の戦艦初瀬と八島が機雷に触れて沈み、戦艦の3分の1を一挙に失ってしまった。
この頃、ロシアはヨーロッパのバルチック艦隊を派遣する決定を下している。日本は、これが到着する前に太平洋艦隊を撃破しなければならないが、決め手がないまま時が流れていった。
さらに、ウラジヴォストークに本拠を置くロシア太平洋艦隊の支隊(ウラジオ艦隊:装甲巡洋艦3隻など)は日本近海を暴れ回り、多くの輸送船を沈めていた。6月には、陸上部隊を輸送していた常陸丸が1000名の兵とともに沈められ、国民の非難が高まった。
連合艦隊 VS 太平洋艦隊
陸上では、大きな動きがあった。5月、遼東半島南部に上陸した日本第2軍は南山の戦い(5月25〜26日)に勝利し、旅順を孤立させることに成功したのである。さらに、旅順を攻略するために第3軍(司令官:乃木希典中将)が編成され、7月末に包囲を完了した。
旅順要塞攻囲
遼東半島に上陸した第2軍はまず、半島のもっとも狭い部分にある南山を攻略することで旅順を孤立させようとした。しかし、ロシア軍陣地は機関銃で厳重に防備されており、4387名もの死傷者を出した末ようやく陥落させた。その後、第2軍は満州の主戦場へ向かい、旅順攻略は新たに編成された第3軍があたることとなった。危機感を抱いたロシア皇帝ニコライ2世は、旅順の太平洋艦隊(戦艦6、巡洋艦4など)をウラジヴォストークに脱出させることにした。ようやくやってきたチャンスに、連合艦隊は戦艦4、装甲巡洋艦2をもって決戦を挑んだ。
ロシア側は戦いではなく脱出をねらっており、日本側は作戦ミスからこれを危うく取り逃がすところだったが、たまたま一発の砲弾がロシアの旗艦チェザレウィッチの司令塔を直撃し、司令官らを戦死させた。混乱したロシア艦隊はふたたび旅順港に逃げ込んだ。これが、黄海海戦(8月10日)である。
この時、旅順艦隊に合流するためウラジオ艦隊が対馬海峡まで出撃していた。日本の第二艦隊(巡洋艦4)はこれを発見、蔚山沖(8月14日)で撃破した。海上輸送路は比較的安全になったが、太平洋艦隊主力が生き残っているため、第3軍による陸上からの旅順攻略が不可欠だった。
8月の情勢
日本海軍は黄海・蔚山沖の両海戦に勝利し、ひとまず海上交通路の安全を確保した。陸上では遼陽の会戦が行われ、日本軍は大損害を出したがロシア軍の撤退により辛勝した。
死闘!旅順攻防戦
8月19日、第3軍は旅順に第1回総攻撃を行った。しかし、コンクリートと機関銃に守られた要塞の前に、1万5000もの死傷者を出して敗退した。その後、28cm砲を取り寄せて第2回総攻撃(9月19日〜)を行ったが、要塞はびくともしなかった。
この頃、海軍は要塞の北西にある203高地に注目していた。ここを占領すれば港を見下ろすことができ、陸上からの砲撃でロシア艦隊を沈めることができたからである。
11月26日の第3回総攻撃では、203高地に対して集中攻撃が行われた。総参謀長児玉源太郎は自ら現地に赴き、作戦指導に当たった。激戦の末203高地は陥落(12月6日)、ここを観測点とした28cm砲の砲撃により、ロシア太平洋艦隊は全滅した。
1905年1月1日、旅順要塞は降伏した。極東におけるロシアの海軍力は一掃され、日本連合艦隊はやってくるバルチック艦隊を迎え撃つことに専念することができるようになった。
バルチック艦隊、苦難の大航海
前述のように、ロシアはバルチック艦隊を極東に派遣する構想を持っていた。開戦から3ヶ月近くたった4月30日、バルチック艦隊の遠征が正式に決定した。地球半周にあたる3万kmもの距離を超えて数十隻の艦船を送りこむという空前の計画であった。司令官には、ロジェストウェンスキー少将が任命された。
しかし、戦力がそろえば戦艦12隻にのぼる恐るべき艦隊だったものの、実態はお粗末だった。戦艦3隻・海防戦艦(沿岸防衛用)3隻は改装や修理のため動けず、新型のボロジノ級戦艦5隻は未完成で、乗員は経験が浅い上に数が足りなかった。結局、出港は10月15日までのびた。旅順要塞が2度の総攻撃を受けた後だった。
経験不足の艦隊は出港直後からいるはずもない日本軍におびえていた。10月21日にはドッガーバンクでイギリスの漁船2隻を日本の水雷艇と勘違いして撃沈するという大失態を犯し、イギリスの猛抗議を受けた。艦隊はスペインで4日間の足止めを食った後、謝罪と賠償の約束をして再び出発した。
新型戦艦は浅いスエズ運河を通れないため、アフリカ南端の喜望峰を回らなくてはならなかった。スエズを通過した分遣隊とマダガスカルで合流したときには1905年1月16日だった。この時には太平洋艦隊は全滅し、旅順は陥落していたのだった。この悲報は、バルチック艦隊に大きなショックを与えた。
1月22日にはロシアの首都ペテルブルクで血の日曜日事件が発生、革命騒ぎに発展している。ロシアの戦争継続は困難となりつつあった。
ロシア本国は、あえてバルト海に残してきた旧型艦を中心とするネボガトフ艦隊を増援として送ることを決め、バルチック艦隊にマダガスカルで待つよう要求した。速力が劣る旧型艦は足手まといだったから、ロジェストウェンスキーにとってはまさにありがた迷惑だった。結局、バルチック艦隊は合流を待たずに3月16日にマダガスカルを出港した。
満州では、ロシア陸軍が奉天で日本軍の総攻撃を受け、敗退していた。しかしロシアは3月12日の御前会議で戦争継続を決定した。バルチック艦隊に最後の望みを託した形であった。
バルチック艦隊は4月、フランス領のヴェトナムに到着し、ここでネボガトフ支隊と合流した。5月14日に艦隊は出港、一路ウラジヴォストークをめざした。
バルチック艦隊の航路
道中に自軍の根拠地がない状態で、地球を半周して40以上もの艦船を遠征させるというのは前例のない壮挙だったが、当然さまざまな困難がともなった。日本の同盟国イギリスの港湾は利用できず、ロシアの同盟国フランスも中立を保っていたためあからさまな協力はできなかった。そのため、艦船の修理やメンテナンス、2週間に1度の石炭積載などにきわめて大きな負担がかかった。弾薬の補給もないため、訓練も十分ではなかった。また、長旅、慣れない熱帯の気候、野菜不足から来る壊血病の蔓延により、兵士の士気と健康状態は最悪だった。万全の整備・訓練を行えた日本軍とは、この時点で大きな差がついていたのである。
待ち受ける日本艦隊
12月に旅順のロシア太平洋艦隊が全滅したことで、日本艦隊はバルチック艦隊を迎え撃つ準備にとりかかることができた。最終的な目的は、ウラジヴォストークにたどり着く前にバルチック艦隊を全滅させることにあった。もし数隻でも生き残れば、ふたたび海上交通路はおびやかされ、困難な封鎖作戦を強いられるからである。また、ロシアを講和会議の席に引きずり出すには、誰の目から見ても明らかな勝利が必要だった。
そのための作戦立案を担ったのは、連合艦隊の参謀秋山真之中佐であった。彼は、いわゆる「七段構え」の備えを考案した。それは次のようなものだといわれている。
1.1日目夜:駆逐艦・水雷艇による魚雷攻撃
2.2日目昼:主力艦による砲戦
3.2日目夜:再び、駆逐艦・水雷艇による魚雷攻撃
4.3日目昼:バルチック艦隊を追撃
5.3日目夜:再び、駆逐艦・水雷艇による魚雷攻撃
6.4日目:バルチック艦隊を追撃
7.4日目:ウラジヴォストーク前面に敷設した機雷原に追い込む当初予想していた1月よりもバルチック艦隊の来襲が大幅に遅れたため、日本側には時間的な余裕ができた。バルチック艦隊が対馬海峡を通過するとみた連合艦隊は朝鮮半島の鎮海湾に集結し、訓練に明け暮れた。それは、訓練用の弾薬1年分を10日で使い果たすほどの激しいものだった。また、イギリス海軍が考案した一斉射撃法も取り入れた。これらの結果として、砲撃の命中率は8月の黄海海戦のときより3倍に向上したという。
さらに、北は千島から南は台湾まで116カ所の見張り台をつくり、偵察用に25隻の船を配置することでバルチック艦隊を監視する体制を整えた。ウラジヴォストークの前面には750個の機雷が敷設された。こうして、運命の5月27日を迎えるのである。
バルチック艦隊の予想進路
旅順を失ったことで、極東のロシア艦隊基地はウラジヴォストークのみとなっていた。日本にとっての問題は、バルチック艦隊がどのルートをとるかであった。Bの宗谷海峡経由は可能性は低かったが、Aの津軽海峡経由の可能性はあった。しかし、@の対馬海峡経由が最短であることから、疲労したバルチック艦隊が通過する可能性が最も高いと考えられた。
バルチック艦隊発見
1905年5月27日午前4時45分、五島列島沖で警戒にあたっていた連合艦隊の特務艦信濃丸は大艦隊を発見し、「敵艦らしき煤煙見ゆ」と無電を発信した。すぐに巡洋艦和泉が駆けつけ、刻々とその位置を報告した。
予想通りバルチック艦隊が対馬海峡に向かっていることを確認した連合艦隊は、5時5分鎮海湾を出撃した。大本営に対しては、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との電文が打電された。日本海海戦の幕はここに切って落とされた。
午前10時、旧式艦からなる第3戦隊と第4駆逐隊がバルチック艦隊と接触し、砲戦が行われた。正午、第4駆逐隊がバルチック艦隊の前を横切ると、機雷を散布されたと思ったロジェストウェンスキーは隊形を変換した。しかし、経験が不足しているバルチック艦隊は混乱し、不利な2列の隊形となってしまった。そこへ、戦艦4・装甲巡洋艦8を主力とする連合艦隊があらわれたのだった。午後1時39分のことであった。
1時55分、連合艦隊旗艦三笠に、Z旗がひるがえった。「皇国の興廃この一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」との信号旗である。
日本海海戦開始(5月27日5:00〜13:55)
敵前大回頭、そして完勝
両軍はすれ違うような形で接近していた。午後2時5分、距離が8000mになった時点で、東郷司令官は突如取り舵(左折)一杯を命じた。のちに東郷ターンとして知られる「敵前大回頭」である。
これはきわめて危険な賭けであった。ターンの最中は砲撃が行えないため、一方的に撃ち込まれる恐れがあった。しかし、これはバルチック艦隊と並進する形に持ち込み、できるだけ長い間戦闘を続けるための動きだったのである。
バルチック艦隊にはこの絶好のチャンスを生かすにだけの技術がなく、しかも2列になっていたため味方がじゃまになり全力で砲撃ができなかった。
日本海海戦(13:55〜14:24)
東郷提督が行った敵前回頭は、今日まで論争の種となっている。古典的な解釈では、これは「T字戦法」をとるための動きだったとされる。すなわち、旗艦を先頭に一列になって進む(単縦陣)当時の戦術において理想とされた、敵艦隊の進路をふさぐ(ちょうどTの横棒に位置する)ことを狙ったというのである。この場合、相手が前の2門しか主砲を使えないのに対し、自軍は前後の計4門で砲撃でき、断然優位に立てる。しかし現在では、東郷はバルチック艦隊と並行して進みながら戦う(同航戦)ことを狙ったとする見方が有力である。黄海海戦では理想的なT字を実現したにもかかわらず、戦列の後ろをすり抜けられて逃走されかけたため、今回は絶対に逃げられない形をとったのである。13分後、回頭を完了した連合艦隊は一斉砲撃を開始した。バルチック艦隊の先頭を走っていた戦艦スワロフとオスラビアはたちまち火炎に包まれ、戦線から離脱した。
猛訓練を積んだ日本軍の砲撃の発射速度と命中率はロシア軍の3倍にのぼっており、晴天で見晴らしがよかったこともあって次々に命中弾を得た。砲弾には燃焼力が高い下瀬火薬が用いられており、ロシア艦の上部を焼きつくした。
一方、バルチック艦隊は7ヶ月以上の航海で疲労し、満足な訓練もできていなかった。しかも、新型のボロジノ級戦艦は転覆しやすい構造の上石炭を積みすぎており、高波で浸水をおこしてしまう。夕方までに戦艦4隻が沈み、勝敗はほぼ決した。
夜になると日本側は駆逐艦と水雷艇による襲撃を行った。その結果、バルチック艦隊はさらに戦艦2隻を失い、バラバラになってしまった。
翌日、日本軍は追撃戦を行った。重傷を負い、駆逐艦に移っていたロジェストウェンスキーはこの時捕虜となった。比較的損害の少なかったネボガトフ支隊(戦艦2・海防戦艦2など)も包囲され、降伏した。
ここに、バルチック艦隊は文字通り全滅した。ウラジヴォストークまでたどり着いたのは巡洋艦1隻、駆逐艦2隻だけだった。日本の損害は水雷艇3隻のみであり、世界史上に残る完全勝利であった。
日本軍 ロシア軍 戦力 損失 戦力 損失 戦艦 4 0 8 8 海防戦艦 0 0 3 3 装甲巡洋艦 8 0 3 3 巡洋艦 12 0 6 2 海防艦・砲艦 4 0 0 0 駆逐艦 21 0 9 6 水雷艇 39 3 0 0
その後
日本海軍の完璧な勝利によって戦争終結への気運が一挙に高まり、米大統領セオドア・ローズヴェルト仲介のもと、9月5日ポーツマス条約が結ばれた。賠償金を獲得できなかったことで国民には大きな不満を残したが、ともかくも国の命運をかけた戦争に勝利をおさめたのである。
1905年12月20日、戦時編成だった連合艦隊は解散した。その際、秋山真之が作成し、東郷提督が読み上げた「連合艦隊解散の辞」は、次の言葉で締めくくられている。「…神明はただ平素の鍛錬につとめ戦はずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者よりただちにこれをうばふ。古人日く、勝って兜の緒を締めよ、と。」 これに感動した米大統領セオドア=ローズヴェルトは全文を翻訳して陸海軍に配布している。36年後、日本海軍が今度はアメリカと戦い、敗れ去ったのは歴史の皮肉だろうか。
連合艦隊の旗艦だった三笠は、戦勝後まもない9月11日に佐世保で爆発事故をおこして沈んだものの、引きあげられて1923年まで軍務をつとめた。その後記念艦となり、現在も横須賀にその雄姿をとどめている。