20世紀の歴史

大戦争(グレート・ウォー)への道
−第一次世界大戦前夜 −


ビスマルク外交

 1815年のウィーン会議以来、ヨーロッパは、イギリス、フランス、オーストリア、プロイセン、ロシアという5大国が主導する状態が続いていた。その中でもっとも弱小とされていたプロイセンが、普墺戦争(1866)でオーストリアを、普仏戦争(1870)でフランスを撃破し、ドイツ帝国を建設したことは、全ヨーロッパに衝撃を与え、その政治地図を大きく塗り替えることになった。統一ドイツは人口と地上兵力ではロシアに次ぐ第2位となり、工業生産でもやがてフランスを抜き首位のイギリスに迫るとみられていたからである。

1870年代のヨーロッパ5大国
イギリス…世界一の工業生産力と海軍力、インド・カナダ・オーストラリアなど広大な海外領を有する覇権国家。保守党・自由党の二大政党による議会政治が機能し、政治的にも安定していた。
フランス…ナポレオン3世時代積極的な拡大政策をとったが、普仏戦争にやぶれ帝政が崩壊、アルザス・ロレーヌを奪われた。第三共和政はしばらく不安定な状態が続いた
ドイツ…プロイセンの強力な軍事力で統一された。産業革命が進展し工業生産が伸びていた。立憲政体をとるが議会の力は限定的で、軍部は保守的なユンカー(地主貴族)が牛耳っていた。
オーストリア・ハンガリー…名門ハプスブルク家が統治するが、支配民族のドイツ人よりもはるかに多くの被支配民族を抱える。普墺戦争に敗れてドイツ統一から締め出され、ハンガリー人との連合帝国という政体を選択した。
ロシア…世界一の国土面積、欧州一の人口と陸上兵力を持つ。しかし、皇帝専制と農奴制という後進的な体制が災いし、クリミア戦争で英仏軍に敗れた。その後、農奴解放令をはじめとする近代化に乗り出していた。

 しかし、ドイツ統一の立役者である帝国宰相ビスマルクは、拡大政策にはきわめて慎重な姿勢をとった。ドイツはヨーロッパの中央部に位置しており、外交を誤れば袋だたきにあう可能性があったからである。

 最大の懸念は、フランスとの関係が修復不能となっていたことであった。普仏戦争の際、ビスマルクの反対にもかかわらず国境のアルザス・ロレーヌ地方を併合したことでフランスの恨みを買い、その復讐を招く恐れがあったのである。

 そこでビスマルクは、他のヨーロッパ諸国と友好関係を築き、フランスを孤立させる政策をとった。これを、ビスマルク外交とよぶ。

 ビスマルクがとくに重視したのが、東の隣国ロシアとの関係であった。仮にフランスとロシアが手を結べば、ドイツは挟み撃ちになる可能性があったからである。そこでドイツは、1873年、オーストリア、ロシアとの間に三帝同盟を結んだ。これは革命運動を防止するとともに、いずれかの国が第4国(フランスかイギリス)に攻撃された場合中立を保つ、というものだった。

 しかし、オーストリアとロシアは、オスマン帝国領であったバルカン半島をめぐって対立していた。これを調停するためにビスマルクが開いたベルリン会議(1878)でロシアは勢力圏を削られ、ドイツに不信感を抱いたために同盟は事実上崩壊した。ドイツはロシアの脅威に対抗することを迫られ、オーストリアとの間に独墺同盟を結んだ(1879)。これに、チュニジアをめぐってフランスと対立していたイタリアを加えて1882年に成立したのが、三国同盟である。

 ただし、ビスマルクはロシアとの協調に執念を燃やしており、1881年に三帝同盟を復活させている。1887年に同盟の期限が切れると、今度は独−露間で再保障条約を結んだ。ビスマルクは、ロシアがフランスに接近するのをあくまで阻止しようと考えていたのである。


孤立するドイツ

 1888年、ヴィルヘルム2世が独皇帝として即位した。29歳の若き皇帝はビスマルクとそりが合わず、1890年に彼を解任した。その数ヶ月後、ロシアとの再保障条約の期限が切れると、ロシアが更新を望んでいたにもかかわらずこれを拒否してしまう。その後、ロシアは急速にフランスに接近し、1892年露仏同盟の成立をみた。ビスマルクが怖れていたことが現実となったのである。

 ヴィルヘルム2世はビスマルクとはうってかわって、「新航路」「世界政策」と称する積極的な拡大政策をとった。「大国」ドイツにふさわしい国際的地位をめざしたこの政策は多くの国民の支持を得た。しかし、すでに各地に植民地を獲得していた他の列強との衝突を招くことになった。

 19世紀末、ドイツの新たなパートナーとなりうる相手としては、イギリスがあった。イギリスはアフリカ植民地をめぐってフランスと、中東・極東をめぐってロシアと対立していたからである。ところが、ドイツは1900年、巨大海軍をつくるという海軍大臣ティルピッツのプランを採用してイギリスを警戒させ、実現寸前までいった同盟は流れてしまった。結局イギリスはフランスとの関係を修復し、1904年英露協商を結んだ。

 1905年、ヴィルヘルム2世はフランスが植民地化を進めるモロッコのタンジールにヨットで立ち寄り、機会均等・門戸開放を唱えて国際会議の開催を主張した。これが第1次モロッコ事件である。しかし、翌年スペインで開かれたアルヘシラス会議では、イギリスなどがフランスを支持し、ドイツの立場を支持したのはオーストリアだけであった。

 この会議であらわになったドイツの国際的孤立は、1907年にイギリスとロシアが英露協商を結ぶにいたって決定的となった。


シュリーフェン計画

 フランスとロシアが同盟を結んだときから、ドイツ参謀本部はこれを相手にするための戦争計画を立て始めた。この計画は、参謀総長の名前をとってシュリーフェン計画とよばれている。

 この計画は、将来おこるかもしれない戦争ではドイツは東西両面作戦を強いられ、仏露のどちらかを先に打倒しなければ勝利はない、という前提のもとに立てられていた。そのためには、国土の広大なロシアが動員に手間取っている間に、全力を挙げてフランスを倒し、その後ロシアにあたるべきだとされた。

 ただし、この計画にはいくつかの問題点があった。

1.何よりもスピードが重視されたため、フランス、ロシアが先に動員を開始した場合、ドイツも即座に動員をはじめなければ手遅れになること。

2.動員と同時に国境を突破するとされ、一度計画が発動されたら自動的に戦争に突入するものとされたこと。

3.フランスを速やかに打倒するために、主力軍は国境の要塞地帯を攻撃するのではなく、中立国ベルギーを通過するとされたこと。これは、対岸のイギリスの参戦を招く可能性が大であった。

 このような欠陥にもかかわらず、ドイツはこれ以外の戦争計画を持たずに、1914年を迎えることになる。

シュリーフェン計画
 当時の欧州の大国はイギリスを除き、戦時に予備役(徴兵期間を終えた軍人)をすべて動員する戦争計画を持っていた。中でも、ドイツの参謀総長シュリーフェンが考案した計画はきわめて異色・大胆なものだった。これは仏露両国と同時に戦うことを前提とするものの、動員速度が2ヶ月ほど遅れるとみられたロシアを放置したままほぼ全軍をもってフランスを攻めるというものであった。その際には、独仏国境も無防備にし敵軍を国内に誘導、その間主力軍は中立国ベルギーを通過してパリの西側を旋回し、全フランス軍を包囲することになっていた。
 史実ではこの計画は失敗に終わったのだが、それはシュリーフェンの後任の小モルトケが主力軍の規模と旋回半径を縮小したからであって、シュリーフェンの計画通りなら成功していたであろうという見方がある。しかし、鉄道で逃げるであろう敵を800kmもの距離を徒歩で(!)走破して罠にかけるという計画そのものに無理があるのではなかろうか。はるかに小規模な奉天会戦(日露戦争)ですら、鉄道で敗走する敵を捕捉できなかったのである。第二次大戦ではドイツ軍は数十万の英仏軍を包囲することに成功したが、そのときには戦車と自動車で移動する装甲師団を10個もそろえており、しかも包囲の方向はずっと短距離の英仏海峡方面に向けられていた。

ヨーロッパの火薬庫

 19世紀末〜20世紀初頭のヨーロッパにおいて、もっとも不安定な地域はバルカン半島であった。この地は複雑な民族構成に加え、列強の利害が交錯していたことから、「ヨーロッパの火薬庫」とよばれた。そして、この地がのちに第一次世界大戦の直接の引き金をひくことになる。

 バルカン半島は、14・15世紀以来ずっと、オスマン帝国の支配下に置かれていた。スラブ系(セルビア人、クロアチア人、ブルガリア人など)・非スラブ系(ルーマニア人、ギリシア人、ハンガリー人、アルバニア人など)の諸民族が入り交じるきわめて複雑な地であったが、オスマン帝国は比較的寛容な姿勢で異民族統治にのぞんだため、18世紀までは大きな問題がおこることはなかった。

 しかし、18世紀末頃からフランス革命の影響でバルカン半島諸民族の間に民族的自覚が高まると、オスマン帝国への反抗・独立運動が表面化してきた。そこへロシアがスラブ系住民や東方正教徒を保護することを口実に介入をはかり、19世紀の大きな国際問題と化した。これを、東方問題という。

東方問題の経緯(19世紀中頃まで)
ギリシア独立戦争
(1821〜29)
ギリシア人が蜂起し、これに英・仏・露が干渉した結果、独立を達成した。また、ロシアはオスマン軍を破ってイスタンブルに迫り、ワラキア・モルダヴィアを実質的に保護国とした他、セルビアの自治を認めさせた。
第1次エジプト事件
(1831〜33)
エジプト総督ムハンマド=アリーとオスマン帝国の戦争。ロシアがオスマン帝国を支援し、その見返りにダーダネルス・ボスポラス海峡の航行権を得た(ウンキャル=スケレッシ条約)。しかし、英・仏・墺が干渉して戦争を終結させた。
第2次エジプト事件
(1839〜40)
フランスの支援を得たエジプトが独立をめざしてオスマン帝国と戦い、大勝。しかし、英・露・墺等の干渉でシリアを放棄させられた。ロンドン4国条約(1840:英・露・墺・普)によってウンキャル=スケレッシ条約は破棄され、外国軍艦の海峡通過は禁じられため、ロシアの南下政策は挫折した。
ダーダネルス・ボスポラス海峡
 建国以来のロシアの悲願は、海外進出のため外洋への出口を持つことであった。白海やバルト海の港湾は冬に凍結するという問題があった。18世紀後半に黒海沿岸への進出を果たしたことでようやく不凍港を得たが、そこから地中海に出るにはオスマン帝国領のボスポラス・ダーダネルス両海峡を通過する必要があった。そのため、両海峡への進出は20世紀初頭に至るまで重要な国家戦略と位置づけられたが、行動をおこすたびに英仏の反発をよび挫折した。なお、第一次世界大戦では立場が逆転、英仏がロシアを支えてオスマン帝国と戦うこととなり、地中海方面から海峡を突破するために英軍のガリポリ上陸作戦が行われた。しかし、のちにトルコ大統領となるケマル=パシャの奮闘により失敗に終わっている。
クリミア戦争
(1853〜56)
ロシアがオスマン帝国内のギリシア正教徒を保護することを要求、拒否されるとモルダヴィア・ワラキアを占領した。英・仏などがオスマン帝国を支援し、クリミア半島のセヴァストポリ要塞を占領、ロシアの南下はまたも阻止された。セルビア・ワラキア・モルダヴィアは国際管理のもとにおかれた。
クリミア戦争後のバルカン半島

 1875〜76年、バルカン半島の諸民族が次々とオスマン帝国に対し反乱をおこし、ロシアがこれを支援すると称して宣戦した。これが、露土戦争である。苦戦の末勝利したロシアはサン=ステファノ条約(1878)により、ルーマニア、セルビア、モンテネグロを独立させ、ブルガリアを事実上支配下においた。しかし、ロシアの南下を脅威とみた英・墺が反発、ビスマルクが仲介したベルリン会議ではブルガリアの領土は大幅に縮小されロシアの南下は三たび阻止された。また、ボスニア・ヘルツェゴヴィナはオーストリアの行政管理下におかれた。

 バルカン半島に誕生した小国は独立を達成した後も満足せず、国外の「同胞」(とみなす人々)が居住する地域を統合して領土を拡大しようとするナショナリズムがはびこった。そこにまた大国の利害が絡み合うのは必然であった。

1880年代中頃のバルカン半島
 ベルリン会議(1878)の結果、バルカン半島には多くの独立国が生まれたが、それはまた新たな問題の発端でもあった。新興国が数百年も前(場合によっては千年以上前)の自民族の全盛期を再現することをめざして「大セルビア主義」「大ギリシア主義」「大ルーマニア主義」「大ブルガリア主義」などをかかげたからである。このような観点でみれば、会議で与えられたどの国の領土も満足のいくものではなかった。
 とくに大きな問題となったのが、マケドニアの帰属であった。この地はサン・ステファノ条約で一旦ブルガリアに与えられながら、会議の結果オスマン帝国に返還された。それ以後、ブルガリア・セルビア・ギリシアが領有を狙い続けた。
 もうひとつの問題は、オーストリアが「漁夫の利」的にボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権を得たことである。このことは、「大セルビア主義」をかかげこの地の併合をめざしていたセルビアの民族主義者を刺激することになった。
 また、ベルリン会議がロシアに挫折感を味あわせ、独・露関係を悪化させたことは、のちの国際関係に大きな影響をおよぼした。

ボスニア危機〜バルカン戦争

 衰退を続けてきたオスマン帝国では、19世紀末、専制打倒と近代的改革をめざす「青年トルコ」が軍人を中心に結成され、1908年に革命を起こした。この混乱に乗じ、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナを正式に併合することを宣言した。これに対し、自民族が(過半数ではないが)居住するこの地域を狙っていたセルビアは猛反発した。11月セルビアが、翌09年1月オーストリアが総動員を命じ、戦争の危機が高まった。

 セルビアは、友好国ロシアに支援を求めた。ところが、ロシアはどさくさにまぎれてオスマン帝国にダーダネルス・ボスポラス海峡の通行権を要求していたことからイギリス・フランスの反発を招いていた。オーストリアとその同盟国ドイツに単独で対抗することは不可能だったため、ロシアはセルビアに引き下がるよう求めざるを得なかった。

 結局、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナを得た。しかし、ロシアの恨みを買い、バルカン半島のスラブ系民族にはオーストリアへの恐怖を植えつける結果となった。とくにセルビアは憤慨し、1911年にはオーストリアを標的とするテロ組織「黒手組」が結成されるに至る。

 ロシアはバルカン諸国を結びつけて自国の影響力を伸ばし、オーストリアを抑えようとした。その結果、セルビア、ブルガリア、モンテネグロ、ギリシアの間にバルカン同盟が結ばれた(1912.10)。同盟は領土拡大のためにオスマン帝国に宣戦し、第1次バルカン戦争がはじまった。その結果、オスマン帝国はバルカン半島の領土をほとんど失った。

 その後、獲得した領土をめぐって同盟国同士で争う第2次バルカン戦争(1913.6〜8)がおこった。この戦いでは、集中攻撃を受けたブルガリアが領土を減らし、セルビア、ギリシア、ルーマニアが領土を拡大した。

 二つの戦争により、セルビアは領土を倍近くに増やした。オーストリアはこれを危険視し、緊張が増した状態で運命の1914年を迎えることになる。

1914年のバルカン半島
2度のバルカン戦争は、その後の国際情勢を大きく左右した。オーストリアは戦争への干渉に失敗し、セルビアの領土拡大をゆるす形となった。そのことが、サラエヴォ事件における強硬姿勢の一因となっている。また、衰退が決定的となったオスマン帝国と、係争地マケドニアをセルビアに奪われたブルガリアは第一次大戦において独墺側に立つことになる。


サラエヴォ事件

 1914年6月28日、オーストリアの皇太子フランツ=フェルディナンドは、妻とともに銃撃され、殺された。6年前に併合したボスニアの首都サラエヴォを訪れ、市内をオープンカーで走っていたときの出来事であった。犯人グループは7人のセルビア人で、実行犯のプリンチプは20歳の学生であった。彼らはセルビアの対オーストリアテロ組織黒手組の支援を受けていた。

 オーストリアは、当初からこの事件をセルビア政府が関与した国家テロだとみなし、対応を協議した。外相ベルヒトルト、参謀総長コンラート=ヘッツェンドルフらは強硬派で、戦争によってセルビアを屈服させることで帝国の体面を保ち、同時に国内のスラブ人の運動を抑え込めると考えた。

 オーストリアは同盟国ドイツの意向を確認するため、使者をベルリンに送った。7月5日、独皇帝ヴィルヘルム2世はセルビアに強硬策をとるよう主張、首相ベートマン=ホルヴェークも、無条件でオーストリアを支持することを確約した。しかも、ロシアがセルビアを支持した場合でもドイツが援護するとまで言った。ドイツ首脳部は、1908年のボスニア危機の際にロシアが圧力に屈して引き下がったことから、今度もその手が有効だと考えていたのだった。セルビアのみとの局地戦ならばオーストリアの勝利は確実で、かえって同盟は安定する。翌日、ヴィルヘルム2世はノルウェー沖へのクルージングに出かけた。つまり、この時点でドイツは自らが参戦することも大戦に発展することも想定していない。

 その後、オーストリアではベルヒトルトが中心となってセルビアへの最後通牒が作成され、7月23日、48時間の猶予をつけてセルビアに手渡された。その内容は非常に厳しいもので、オーストリアがドイツに説明したところによれば「どうあっても受け入れられない条件を入れてある」というものだった。

 セルビアは、この最後通牒をほとんど受け入れた。唯一、事件の捜査にオーストリア当局が関与するよう求めた条項については、主権に関わるとして拒絶した。これをもって、オーストリアは7月25日に国交を断絶し、28日宣戦を布告した。欧州で5大国が関わる戦争としては36年ぶりであり、衝撃が走った。


世界大戦へ

 オーストリアの対セルビア最後通牒を受け、ロシア皇帝ニコライ2世は対抗策を考えていた。ボスニア危機の際に外交的な敗北を喫したため、今度はなにか行動を起こす必要に迫られたのである。ニコライ2世は示威のために軍隊の一部を動員しようとしたが、軍部が全面動員しなければドイツに対し無防備となることを説いたため、結局総動員令が発せられた。ただし戦争に介入するつもりはなく、いとこにあたるヴィルヘルム2世に「こちらから攻撃することはない」と打電している。

 そのころドイツは、オーストリアがセルビアに開戦したことを知ると、これを2国間の戦争に限定しようと動いていた。そこへ30日、ロシアの総動員を知らされた。ドイツが持っていた唯一の戦争計画はシュリーフェン計画であり、これによればロシアの戦争準備が整う前にフランスを打倒しなくてはならないから、軍部にとってはもはや一刻の猶予もない事態だと受け止められた。ドイツは外交をただちに打ち切り、ロシアに動員をやめるよう最後通牒を出した。それが拒絶されると、8月1日宣戦を布告、同時に総動員を下令した。そして2日後、シュリーフェン計画に従い理由もないままフランスに宣戦を布告した。

 イギリスはフランス、ロシアと協商を結んでいたものの、参戦の義務はなかった。外相グレイは独仏戦の際にはフランス側にたつと決めていたが、多くの閣僚や国民はそうは考えなかった。ところが8月4日、ドイツがシュリーフェン計画に基づいて中立国ベルギーに侵入すると状況は一変、イギリスは翌日ドイツに対して宣戦布告を行った。こうして、5大国すべてが「世界大戦」へとなだれこんでいったのだった。

第一次世界大戦の参戦国
第一次大戦において、英仏露側を連合国(赤色)、独墺側を同盟国(青色)とよぶ。
ここでは、本文で触れなかったおもな参戦国について説明しておく。
日本…連合国(1914.8)。日英同盟にもとづく。
オスマン帝国…同盟国(1914.10)。ドイツ地中海艦隊の脱出を受け入れたのを契機に参戦。
イタリア…連合国(1915.5)。三国同盟に属していたものの、オーストリア領土を与えるとの誘いに乗って英仏側に立つ。
ブルガリア…同盟国(1915.10)。セルビアが領有したマケドニアをねらって参戦。
ルーマニア…連合国(1916.8)。オーストリア支配下のトランシルヴァニア領有をめざして参戦。
アメリカ…連合国(1917.4)。ドイツの無制限潜水艦戦と、メキシコに対する策動を口実に参戦。

結論

 しばしば、「サラエヴォの銃弾が大戦をひきおこした」といわれる。しかし、そこに至るにはさまざまな事情が積み重なっていたし、またサラエヴォ事件が「世界大戦」に直結する必然性を持っていたわけではない。大戦はなぜ起こったのだろうか。主要な原因をまとめておく。

<大戦の原因>

(1) 異民族支配から独立し、さらには自民族が住む地域をすべて統合した国家をつくろうというナショナリズムが、バルカン半島の新興国を支配していた。こうした動きは、19世紀のイタリア統一運動で苦杯をなめた経験を持ち、かつ領内に多数の南スラブ系民族を抱えていたオーストリアを警戒させるに十分であった。とくに、領土拡大を続けていたセルビアに対しては必要以上の恐怖心を抱き、その機先を制そうとする動きをうながした。「大国」オーストリアのこうした姿勢が今度はセルビアをおびえさせ、テロに走らせる結果をもたらした。

(2) 大国が、外交上の目的を達するため、あるいは自国の体面を保つために、武力を背景とする瀬戸際外交を有効だと考えていたが、その危険性に鈍感だった。独・墺は、1908年と同様、今度もロシアが退くと考えた。ロシアは、前回失敗したことから今回は退いてはならないと考えた。双方の誤算から、破局がおとずれた。

(3) 大国が立てていた戦争計画が鉄道の時刻表に拘束され、まったく柔軟性がなかった。とくに、ドイツのシュリーフェン計画はスピードを重視するあまり、動員が即戦争につながるという危険なものだった。しかも、ドイツはこれ以外の計画を一切持っていなかった。素早い動員と先制攻撃こそが勝利をもたらすという、普墺・普仏戦争の「教訓」を過信した結果だった。

(4) 将来起こる戦争は経済に多大な負担をかけるだろうから長期戦はありえないという見通しを、ほとんどの政治家・軍人が抱いていた。戦争が短期に、損害が少なく終わるとするなら、戦争で問題を一挙に解決するというオプションも可だ、となる。結果としてこの予測は完全な誤りであり、4年以上にわたる果てしない消耗戦が繰り広げられ、900万もの犠牲者を出すことになるのである。


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