シャルル・ダンジューと13世紀後半のヨーロッパ(7)
おわりに
これまで、シャルル・ダンジューがヨーロッパのさまざまな地域、国家、権力といかに関わり、これに影響を与えてきたのか、そしてなぜ没落していったのかを見てきた。ここであらためて全体的な視点から、シャルルと13世紀後半のヨーロッパの関係について考えてみたい。
シャルルという人物の生涯を考える際の最大の関心事は、「なぜシャルルは当時のヨーロッパ第一の勢力にまでのしあがることができたのか」という点であり、これは彼がなぜ没落したのかという問いよりも重要である。
ここで、当時のヨーロッパの実態を考えてみたい。フリードリヒ2世が死んで、理念的には世俗世界の指導者であり、実質的にもヨーロッパの圧倒的な巨大勢力であった皇帝権が消滅したとき、一時的にヨーロッパには大きな権力の空白が生じたのである。
ドイツはいわゆる「大空位」の混乱に突入した。皇帝と闘ってきた教皇も勝利を手にすることができず、イタリアでも混乱状態が続いたままであった。12世紀における大勢力であったイングランドは大陸領土をほとんど喪失してかつての力を失っており、国内ではまさにシチリア問題が引き金となってシモン・ド・モンフォールの乱が勃発している。カスティリャ王アルフォンソ10世はドイツの二重国王としてヨーロッパ政局へ影響力を及ぼすチャンスがあったが、実際は本国のレコンキスタに忙殺され、それによって国力は疲弊していた。アラゴンはレコンキスタをほぼ完了していたものの、南仏をめぐるフランスとの抗争に敗れ、北方への進出を阻止されている。
つまり、新たにヨーロッパの指導的地位につくだけの実力と名声を有していたのはフランスだけであった。しかし、ルイ9世は自らが覇権を握るような野心を持っておらず、その関心はもっぱら国内問題と異教徒への十字軍に向けられていたのである。そしてその代わりに、フランスの勢威を背景にしたシャルルが登場したのだった。
このような構造的要因に、偶然的要因(フランスとアラゴンの勢力争いから思いがけずプロヴァンスを獲得し、イタリア進出の足掛かりを得ていた)と、人為的要因(ウルバヌス4世、クレメンス4世といったフランス人教皇がフランス王の弟であるシャルルを同盟相手として選択し、これを道具としてシュタウフェンを打倒しようとした)が重なって、ヨーロッパの政治的空白を埋める役割を果たすことになったのだった。
さらに当時、東方ラテン人国家は危機に立たされていたため、西方からの支援を切望していたという別の構造的要因もあった。シャルルは、この潮流に乗った形で東地中海に君臨したのであった。しかも同様の試みをしていたマンフレディと決定的に異なるところは、シャルルが教皇の支持を受けていたことであり、正統性という点でまったく申し分なかった。こうして、シャルルは東地中海においても大勢力となったのである。
最後に、このようにして台頭し、やがて没落していったシャルルという人物が、歴史的にどのような評価を与えられるべきなのか考えてみたい。一言でいえば、彼は過渡期の人物であった。シャルルは一方では封建勢力を打倒して中央集権をめざす、いわば13世紀の新しい面を持ち合わせた君主であった。しかしそれに対し、一方では教皇権や十字軍といいた汎ヨーロッパ的な権威に寄生し、それを自己の権力のよりどころにするという面も備えていたのであった。
シャルル自身は、どうやら後者(汎ヨーロッパ的権力)により強く依存し、それゆえに自信を持っていたようである。実際には、ヨーロッパは地方的な利害に関心を持つ多数の領域国家に分解しており、これらの汎ヨーロッパ的権威は過去のものになろうとしていたのであった。教皇権と十字軍を背景にするシャルルルを打倒したのが、それによって国益を脅かされた諸勢力の合従連衡であったことは非常に象徴的である。
シャルルの死後、十字軍が終わりを告げ、教皇権が没落していったのと対照的に、これら個々の領域国家が以後のヨーロッパの主役となっていく。第二のシャルルはもはや現れなかった。
その意味で、たしかに「シチリアの晩鐘」は「近代的政治史の幕開け」となったのである。