地球人の歴史 6.海を越えて
4000年前の遠洋航海
アッカド王朝がメソポタミアを統一した前2300年頃から、「ディルムン」「マガン」「メルッハ」という国の名前がさまざまな文書に登場するようになる。
たとえば、初代サルゴン王の碑文には「メルッハの船、マガンの船、ディルムンの船をアッカドの波止場に停泊させた」とある。「ディルムンの舟をその土地まで動かした、マガンの舟に天高く荷を積んだ」「メルッハから金、銀、銅、紅玉髄、黒檀などがもたらされた」などと記した文献もある。
3つの国のうち、ディルムンは、「下の海」とよばれたペルシア湾に浮かぶバーレーン島とされている。当時は真珠の産地として知られていた。マガンはさらに東、現在のアラブ首長国連邦やオマーンにあった諸都市である。ここでは銅を産出していた。メソポタミアからの距離は、ディルムンは700km、マガンまでは1300kmある。
そしてメルッハ国は、ペルシア湾を出てさらに東、インダス川流域やアラビア海沿岸の都市だとみられている。メソポタミアからは実に3000kmも離れている。
はたして、当時の船や航海術で、これほどの遠距離航行が行えたのだろうか。
1977年、興味深い実験が行われた。ノルウェーの人類学者ヘイエルダールが、円筒図像をもとに当時の船を再現し、航海に出たのである。メソポタミアの湿地帯に生えている葦(あし)でつくった全長18mの帆船だった。この船は、ティグリス・ユーフラテス川の合流点からペルシア湾を経てインダス河口に到達、その後アラビア海を横断して紅海の入り口までたどり着いた。全行程6800km、所要日数は143日だった。
4000年以上前の商人たちも、このような航海を行っていたことが想像される。
ディルムン、マガン、メルッハ
アッカド時代の文書に登場するディルムン、マガンはペルシア湾岸にあった諸都市とされる。メルッハは、当時通交があったことが証明されているインダス流域の都市とする説が有力であるが、エチオピアであるとの説もある。
交易が生んだ都市群
一般に、陸路より海路のほうが大量・迅速・安全・安価に輸送できる。家畜の飼料を運んだり、宿所で荷物を積みおろしたり、関所のたびに税をとられることもない。長大な交通路を整備・管理する必要がなく、港湾など「点」を掌握すればことたりるので、支配者にとっても好都合である。
前3000〜2000年頃の船は大きくても全長20m、大海原に出ることはできず、つねに陸地を見ながら航行するしかなかった。それでも、ロバに頼るしかなかった陸上輸送に比べれば、船便のメリットははるかに大きかった。
穀物以外のすべてが不足しているメソポタミアの諸国は、はるか中央アジアからもスズなどをとりよせていたが、前2500年頃からこれらの物資はインダス川〜アラビア海〜ペルシア湾という航路によって運ばれるようになったらしい。以来、イラン高原経由の陸路は衰退し、ペルシア湾岸のディルムンやマガンがにぎわったのだという。
インダス地方でも、ほぼ同時期にハラッパー、モヘンジョ・ダロ、ドーラビーラー、ロータルなどの大都市がつくられている。長い年月をかけて形成され雑然としているシュメール諸都市に対して、インダスの都市は短期間で計画的につくられたという特徴がある。西方への海路が開けるとともに、商人集団のイニシアチブのもと、一挙に都市化したのだろうか。
前1800頃、インダス諸都市は不明な原因によって衰退してしまったが、それ以後も3500年にわたって、インド洋は無数の船が行き交う最重要の交易ルートであり続ける。
海上王国
メソポタミアの人々が「上の海」とよんだ地中海は、冬こそひどく荒れるものの、夏は高気圧におおわれ晴天が続くため、航海に適した海である。前3000年頃にはすでに、シリアから木材を、エジプトから麻やパピルス(葦から作る紙の一種)を運ぶ船が往復していた。
同じ頃、無数の島々が散らばるエーゲ海でも、人々はそれぞれの島の物産を交換して暮らしていた。その中から、クレタ島が前2000年頃から急速に発展してきた。都とされるクノッソスは最盛期には7〜8万もの人口をかかえる世界最大級の都市に成長し、1000以上もの部屋が入り組む巨大な王宮が建てられた。
エーゲ海諸島よりも大きいとはいえ、山がちな島国にすぎないクレタにこれほどの繁栄をもたらしたのは、ギリシア・エジプト・小アジア・シリアの中央に位置するという地の利だった。クレタの商人は、オリーブ油、ワイン、羊毛、木材などの特産品を売りさばいたほか、キプロスの銅と西アジアのスズからつくった青銅器を輸出する「加工貿易」や、シリア産の杉をエジプトに運ぶ「中継貿易」も手がけていた。クレタこそ、史上初の海上王国といえるだろう。
海賊たちの海
陸路より安全ではあるが、海路にも悪天候などの危険は当然つきまとう。なかでも、最大の脅威は「海賊」であった。
海賊の起源は、船や交易と同じくらい古い。「戦争と交易と海賊は三位一体で分けられない」といってもよい。交易は駆け引きであり、力関係がものをいう。軍事力で優位にあれば、タダで貢がせることもできる。また、力ずくで奪い取る場合もでてくる。これを、私貿易では「海賊」、国と国との間では「戦争」とよぶ。すなわち、海はつねに、大小さまざまの集団が財力・武力・政治力を駆使する闘いの空間だったのである。
伝承によれば、クレタのミノス王は海軍を組織して海賊を一掃したとある。ただ、クレタ人は概して平和的な交易で勢力を拡げたようである。そのことは、宮殿に城壁がないことなどからもうかがえる。
それに対し、ミケーネを中心に台頭してきたギリシア人はきわめて戦闘的で、軍事力のもつ意味をよく理解していた。彼らはおそらく、海洋国クレタに挑戦する手段として海賊行為を採用していたと思われる。複雑な海岸線と小島嶼からなるエーゲ海は、待ち伏せに最適な「海賊の天国」だったのである。前1400年頃、執拗な攻撃を受けたクレタはついにギリシア人の軍門に降った。新興国が海上覇権国に対し通商破壊戦で挑むという図式のはしりといえるだろうか。
ところが、覇権を奪ったギリシア人諸王国もまた、前1200年頃にあらわれた未曾有の海賊集団に襲われてことごとく崩壊してしまうのである。
この破壊者は「海の民」とよばれているが、どのような集団かはっきりしない。おそらく、気候の悪化によって南下してきた人々や、それによって玉突き式に海へと押し出された難民だろう。
その後、「海の民」は、小アジアに大勢力を誇っていたヒッタイト王国をも滅ぼした。エジプトはかろうじて撃退に成功したが、国力をすり減らし没落してしまう。
「海の民」は各地に散らばって住みつき、大動乱は終わったが、繁栄を極めた地中海沿岸はすっかり荒れ果ててしまった。
クレタ、ミケーネ諸都市と海の民
前1400年頃、クレタ島はミケーネを中心に台頭してきたギリシア人によって占領される。ギリシア人諸国はクレタの通商圏を越える活発な交易によって繁栄したものの、前1200年頃突然崩壊する。なんらかの天変地異によるという説もあるが、当時地中海一帯で暴れ回った「海の民」に原因を求める説が整合性があると思われる。「海の民」は地中海中部・東部の諸族で、エジプトやヒッタイトに傭兵として仕えていた者もいたという。彼らは混乱期にあったヒッタイトを崩壊させ、エジプトにも大きな打撃を与えた。
鉄の時代
「海の民」による前1200年のカタストロフを境に、技術史の上で大きな変化が生じた。世界にさきがけて、地中海沿岸が「鉄の時代」をむかえたのである。
鉄の製造には高温が必要だが、資源そのものは広く分布しているので、銅より先に使っていた地方も多い。利用の歴史も古く、前3000年頃には鉄鉱石から鉄を取り出していたといわれる。ただし、そのままだと軟らかい鉄しかつくれない。
じつは「海の民」も、鉄製武器を装備していたという。質は最悪だったにちがいないが、量産向きというメリットを生かして数をそろえ、精巧だが数が少ない青銅製武器の敵軍を圧倒したのだろう。
しかし、鉄への転換をもたらした直接的な要因は、動乱がひきおこした青銅の原料不足であった。銅の産地はキプロス、アナトリア、シナイなどに限定され、スズともなれば中央アジアから運ばれる貴重品である。青銅はまさに交易のたまものであった。しかし、「海の民」の動乱で諸都市が崩壊すると、交易ルートが寸断されて原料の供給が止まってしまった。金属を必要とする人々はやむをえず、手近な鉄を用いるようになった。
そこへ、製鉄技術の向上が重なった。木炭を燃やして炭素を十分に混ぜると、鉄は青銅より硬く強い鋼(はがね)になる。熱して急激に冷やす「焼き入れ」を行うとさらに硬くなる。これらの技術を開発・独占していたヒッタイトが滅亡したことで、地中海一帯に製鋼技術が広まったのだといわれている。
いったん鉄の有用性が見いだされると、安価で豊富という最大の利点によって一般庶民にも普及していった。農具が鉄で作られるようになってはじめて、森を切りひらいて耕地を拡げることが可能となったのである。
ただし、それは森林破壊が加速することも意味した。鉄そのものをつくるのにも、膨大な木炭が必要である。木々が生い茂っていた地中海地方が今日のような石灰岩のはげ山に変貌したことは、鉄が生んだ負の遺産といえるだろうか。
商業を発明した民
多くの大国や大都市が滅びた一方、鉄の普及によって、それまで辺境とされていた地域で鉱山開発や金属工芸、農業の発展などがみられるようになった。新しい国や都市が生まれ、交易ルートも再編成された。こうした動きの中心となり、前12世紀から数百年間、地中海の主役として君臨したのがフェニキア人である。
フェニキア人とは、レバノン沿岸にビブロス、テュロス、シドンなどの都市をつくって住んでいた人々である。おそらく、この地の先住民に「海の民」が合流してできた集団だろう。レバノン山脈によって内陸への発展は阻まれていたが、ここでとれる最高級の杉で船を造り、海に乗り出していった。
フェニキア人の船にはさまざまな新技術が盛り込まれていた。輸送用の帆船は、帆の向きを変えることができ、順風でなくても航行できた。軍船は上下2段に数十人のこぎ手を配したガレー船で、快速かつ運動性にすぐれ、するどい船首で敵に体当たりした。強大な輸送力と海軍力が、フェニキアの最大の武器であった。
驚くべきは、彼らの活動範囲である。東は南インド・セイロン島、西はイベリア半島、北はブリテン島・バルト海、南はアフリカのギニア湾沿岸にまで達しているのである。
前613〜前611年、エジプト王の依頼を受け、ナイル川から運河を経由して紅海に出、時計回りにアフリカを一周したという話もある。秋になると陸で穀物を育てて刈り入れ、ふたたび出発するという方法で、3年かかって周回したという。
このようなすさまじい行動力は、いったいどこに由来するのだろうか。
リスクもコストも大きい遠隔地交易では、権力者がスポンサーとなり、贅沢品をやりとりするのが通常の形態である。フェニキア商人もその例にもれないが、自国の王だけでなく、西アジア、ヨーロッパ、北アフリカにおよぶ地域のあらゆる権力者たちを顧客としたことがきわめて特異だった。また、フェニキア特産の紫色の布、ガラス製品、レバノン杉をはじめとして、イベリアの銀、ブリテン島のスズ、ギリシアのワイン、エジプトのパピルス、イエメンの乳香・没薬、アフリカの象牙など、取り扱った品も多種多様である。
すなわち、フェニキア人の原動力とは、ある地域で仕入れた品物を別の場所へ運び、高く売ることで得られる利潤であった。「フェニキア人は商業を発明した」というプリニウス(ローマの学者)の言は的を射ているといえよう。
フェニキア社会の詳細は明らかでないが、商人たちはかなり自由に、自らの利益のため活動していたと思われる。富を蓄えた大商人は貴族となり、国政に大きな発言権を振るっていた。その他、輸出用工芸品をつくる職人や、船大工、水夫など、住民の大部分はなんらかの形で交易に関わっていただろう。
わずか22の子音字で構成されるフェニキア人の文字は、彼らが商業に特化していたことを間接的に示している。書記の独占物だった楔形文字やヒエログリフに対し、フェニキア文字がより多くの人々が使えるように進化してきたことは明らかである。商売には簿記が欠かせないから、必要に応じてこのような文字が生まれたともいえるし、簡便な文字が商業を促進したともいえる。
フェニキア文字は、ギリシアをはじめとするヨーロッパ〜西アジアの多くの地域に伝わり、形を変えながら取り入れられた。これが、アルファベット文字体系である。
フェニキア人の活動範囲
フェニキア人は、ジブラルタル海峡を越え、北はバルト海、南はカメルーン付近のギニア湾沿岸まで達している。また、当時はエジプト王が建設したナイル川と紅海を結ぶ運河があったので、ここを通ってインド洋方面にまで出向いている。ヘロドトス(前5世紀ギリシアの歴史家)が『歴史』で取り上げているフェニキア人のアフリカ一周については、「彼らは右手上に太陽を見たと語った」との一文が注目される。ヘロドトス自身が「信じがたいことだが」と但し書きするこの記事が、フェニキア人が赤道を越えたことをはからずも示唆しているのである。航海術の観点からみても、アフリカ周回は少なくとも不可能ではないとされている。ブラジル沿岸では、漂着したフェニキア人が残したとされる碑文が発見されている。この碑の真偽については議論があり、本当に大西洋を越えたのかは不明である。
新天地を求めて
フェニキア人の航海におけるリスク管理は徹底しており、夜には必ず上陸して安全を確保した。そのため、1日の航行距離とされる50〜60kmごとに沿岸の岬や小島が寄港地として整えられていた。
商業上重要な拠点は都市に発展した。とくに、銀やスズなどの鉱脈に恵まれたイベリア半島には、カディスをはじめとする多くの植民市が築かれた。また、現在のチュニジアにつくられたカルタゴは、のちに西地中海の中心都市に成長している。
やがて、フェニキア人の後を追うようにギリシア人が地中海各地に進出してきた。ただ、その事情はやや異なる。
前8世紀頃になると、ミケーネ諸都市の壊滅からギリシアもようやく復興し、アテネ、スパルタ、コリントなど1000もの町ができた。しかし、山がちな土地のためすぐに人口過剰になった。そこで行われたのが、農地を求めての植民活動だったのである。
植民は市民の話し合いで決議され、有力者の中からリーダーが選ばれたあと、神のお告げを得て行われる。移民は1回につき200〜300人程度で、希望者から募られたが、抽選で強制的に選ぶこともあった。新天地につくと、神域が定められた後に入植者に土地が分配された。こうしてできた植民市は、母市とは交易や祭りを通じてつながりを保ったが、政治的に完全に独立していた。
ギリシア人は、エジプトなどの大勢力や、フェニキア人が先行している場所を避け、辺境の海岸に植民した。その範囲は、「大ギリシア」とよばれた南イタリアを中心に、黒海北岸のクリミア半島から、フランス南海岸におよんだ。その中には、イスタンブール、ナポリ、シラクサ、マルセイユなど今日まで続いている都市も多い。
フェニキア人やギリシア人によって都市化が進められ、海を通じて結びつけられた地中海沿岸は、やがて世界でもっとも人口稠密で、活気に満ちた地域のひとつとなっていく。
フェニキア人とギリシア人の植民市
フェニキア人の植民市は航海の中継基地、原料の積出港、現地人との取引の拠点としての性格が強い。重視されたのは、もっとも本国から遠いものの、鉱物資源が豊富なイベリア半島南岸であった。ギリシア人の場合、本土の土地不足や政治上の対立などを主な要因として植民が行われた。本土に近い南イタリアやシチリアに、とくに多くの都市が建設された。
コイン
交易が活発になるにつれ、取引の方法もいろいろと工夫されてきた。
交易の基本は物々交換である。しかし、交換の場に相手が望むものを用意しなくては取引が成立しない。そのため、互いが共通の価値をみとめたものを支払いに用いることが多くなった。これが貨幣である。
互いが了解していれば石や貝殻でも貨幣になるが、穀物・家畜・布などの日用品を用いるケースが多かった。サラリー(給料)の語源がラテン語のサラリウム(塩の支給)であることからわかるように、塩も貨幣として重用されていた。
やがて、金、銀、銅などの金属が貨幣として定着するようになった。希少性や見た目の美しさもさることながら、かさばらず、長持ちし、分割・結合・変形も自在なことなどが要因だろう。前3000年頃のメソポタミアですでに銀が流通していた記録がある。当時の金属貨幣は、塊や粒状のまま用いられ、取り引きの際に計量していた。
同じ大きさと形にそろえた金属片、つまりコインが登場するのはかなり遅く、前7世紀のことである。小アジアに位置するリディア王国でつくられた金7対銀3の合金コインが最初だった。まもなく、フェニキアやギリシアの諸都市も金・銀・銅のコインを製造するようになった。
コインは、便利だからという理由で自然発生したわけではなく、公権力が貨幣流通を支配するために生み出したものである。コインの表面にはライオン(リディア)、アテナ女神(アテネ)、馬(カルタゴ)、王の顔(ペルシア)などの図像が打刻されているが、これらは貨幣価値が権力によって保障されていることを示している。
じっさい、コインの製造はひじょうにうまみのある国営事業だった。貴金属に不純物を混ぜ、素材そのものの価値を落とすことで、差額分をもうけることができるからである。貨幣の発行はやがて公権力に独占され、私鋳業者や偽造人との間で熾烈な闘いがくり広げられることになる。
コインが登場して以来、貴金属の調達は権力者にとっての至上命題となった。交易や鉱山開発はもちろん、戦争による略奪、住民からの徴収、ときには墓の盗掘まで行うこともあった。20世紀前半にいたるまでの長い間、金銀の行方が多くの都市や国の興亡を左右することになったのである。