地球人の歴史  7.馬に乗る人々


家畜となった馬

 前5000年から前3000年の間、地球はこの1万年間でもっとも温暖だったといわれている。現在と比べ、サハラでは1〜2℃、スカンジナビア半島は2〜5℃、チベットでは4〜6℃も気温が高かった。海面は今より2mほど高く、関東平野の大部分は海の下にあった。この時期、世界各地で人口が増加し、農耕・牧畜を中心とする生活が北へ拡大した。

 その中で注目されるのが、ドナウ川下流や黒海北岸の地域である。ここに住む人々は小アジア方面から伝わったムギやヒツジ・ヤギを取り入れると同時に、馬を飼育しはじめたのである。

 馬は、かつて世界各地の草原に分布していたものの、この頃にはほとんど姿を消していたらしい。原因は、人間による狩猟である。氷河期が終わるとまもなくアメリカ大陸では絶滅し、ヨーロッパでも乱獲と森林の拡大によって生息域が縮小した。黒海沿岸の人々はそのわずかな生き残りを家畜化し、結果的に馬を救ったのだった。

 さて、前2000年頃になると地球の気候は大きく変化した。気温が下がりはじめ、北に広がっていた農耕地帯の多くが危機におちいった。

 黒海北岸や中央アジアでも、気温の低下と降水量の減少によって生活が維持できなくなり、人々は馬を連れて四方に移動していった。西へ向かったギリシア人やイタリア人、ケルト人などをはじめ、インドに侵入したアーリヤ人や、イラン高原に定着したイラン人(ペルシア人)などがそれにあたる。

 人間によって絶滅寸前まで追い込まれた馬は、皮肉なことに人間の家畜となってユーラシア各地に生存圏を拡げたことになる。

前2000年紀の人口移動

ヨーロッパやイラン、北インドで話される言語はインド・ヨーロッパ語族と分類され、共通の祖語から枝分かれしたとされている。印欧祖語の故郷は、確証はないものの、ドナウ下流や黒海北岸と思われる。ここには最古の馬飼育の跡(前4000年頃)があり、最初に馬が家畜化された場所でもある。
ここで、印欧語のひとつヒッタイト語の問題がでてくる。ヒッタイト人は前2000年頃コーカサスから小アジアに移住してきたとされることが多いが、根拠はない。遺物の関連から、ドナウ方面の出身ともいわれる。しかし、ヒッタイト語は前2000年よりはるか前に分岐したことが確実であり、その時期に小アジアからドナウへ農耕が伝わっていることから、次のように考えた方が自然ではないだろうか。すなわち、印欧祖語はもともと小アジアで話されていた。前4000年以前の温暖な時期、その話者の一部がムギやヒツジを持ってドナウやウクライナに移住し、馬と出会ってこれを家畜化した後、前2000年以後の寒冷化で各地に散らばっていった。ヒッタイトは、小アジアに残った集団がつくった国である。ヒッタイト人がもともと馬を知らなかったことから考えても整合的な気がする。(注:これらはあくまで仮説である)

戦車軍団

 馬は力が強く、足がひじょうに速い。また、切歯と臼歯のすきまに銜(はみ)をかませ、手綱で操ることもできる。こうした特長から、馬は早くから車の牽引に用いられてきた。黒海北岸からユーラシア各地へ散らばった人々も、馬に荷車をひかせながら新天地に移り住んでいったのだろう。

 ただし、馬はデリケートで手がかかる動物である。大きな体のためにえさの量は多く、反すうのしくみがないので食いだめもできない。乳や皮、肉を得るならヒツジやヤギのほうが、農作業や荷役が目的なら牛やロバのほうが安上がりといえる。

 そのため、前1800年頃にようやく飼育がはじまった西アジアやエジプトでは、馬は庶民には普及せず、もっぱら王が所有する牧場で育てられた。飼育の目的は軍用、すなわち戦車(チャリオット)の牽引である。

 前2500年頃の「ウルのスタンダード」(第4章参照)には、4頭のロバに引かれ、板をつなぎ合わせた車輪を4つ備えた戦車が登場する。敵兵を押しつぶしているように描かれているが、実戦に耐えうるようには思えない。おそらくパレード用だろう。

 しかし、輪とスポークからなる車輪を持った2輪車があらわれ、牽引役が馬に代わると、戦車は野戦における絶対者として君臨するようになった。

 戦車は2〜4頭の馬に引かれ、御者と弓を使う兵士が乗り込んだ。戦場を猛スピードで駆け回りつつ矢を射かける戦車に、歩兵部隊はなすすべもなく包囲され、次々と捕虜になっていった。

 ただし、馬の飼育、車の製造、兵の訓練など、戦車隊をそろえるには金がかかる。経済力のある国だけが戦車の圧倒的な武力を手に入れ、大国へと成長していくことができた。そして、エジプト・ヒッタイト両軍あわせて数千台の戦車が激突したカデシュの戦い(前1285年)のように、戦争の規模もかつてないほどに拡大した。

 戦車は、人々の意識や社会の構造にも影響を与えた。砂煙をあげて疾走する戦車を、人々は脅威と畏怖の念をもって仰ぎ見たことだろう。そして、それに搭乗する精鋭たちは強烈なエリート意識を抱いたに違いない。彼らはやがて、「貴族」という特権階級を形成していくことになる。


砂漠の船

 同じ頃、西アジアや中央アジアでラクダが家畜化されている。ある意味、戦車をひく馬の出現以上に重要な出来事であった。

 ヒトコブラクダはアラビア半島原産の動物であり、この地方の遊牧民が飼い始めたと考えられる。乳の量は多く栄養豊富で、肉や毛の質も良いなど、家畜としてひじょうに優れた性質を持っている。

 最大の特長は、砂漠という過酷な環境に適応しているということにある。砂の熱さに耐える足、砂塵を防ぐ長いまつげや開閉可能な鼻腔を持ち、他の家畜が食べられないサボテンなどの植物を好む。ロバが1日以上水なしでいられないのに対し、ラクダは背中のこぶに脂肪をためており、1週間飲まず食わずでも耐えられる。

 ラクダを荷役や乗用に用いることで、人間の活動域は内陸部へと大きく広がった。北アフリカ、アラビア半島、イラン高原から中央アジアへと連なる大乾燥地帯を行き来できるようになったのである。

 伝説によれば、前10世紀頃にサバ王国(イエメン)の女王が、黄金や香料を積んだ数多くのラクダを連れてアラビア半島を縦断し、2000km離れたヘブライ王国(パレスティナ)のソロモン王を訪問したとある。実際、サバ王国は乳香・没薬の輸出で富強を誇り、パレスティナまでの陸路沿いに多くの拠点を建設している。

 激しい寒暖差、わずかな降水、険しい山々など、過酷な環境の中央アジアでも、前10〜前6世紀頃城壁を備えた都市がいくつもできた。この地方では山麓や川筋のオアシスで細々と作物がつくられていたにすぎなかったが、フタコブラクダの使用によって交易路が開け、人口が増加したのである。

 中央アジアの都市に住み、商業の民として名をはせたのがソグド人である。彼らが用いた文字は、はるか西のシリアで活躍した国際商業の先輩、アラム人が用いたアルファベットを取り入れたものだった。ラクダに支えられた交易により、乾燥地帯に隔てられた諸地域が接触しはじめたことがうかがえる。


遊牧騎馬の民

 商人たちがラクダの背に乗って中央アジアの砂漠を行き来するようになった頃、その北、黒海北岸からアルタイ山脈にかけて広がる草原では、馬に乗った遊牧民の姿がみられるようになった。

 前述のように、寒冷化と乾燥化によってこの地方からは多くの人々が去っていったが、農耕から牧畜へ比重を移しながら新たな環境に適応した人々もいた。その中から、馬にまたがりこれを自由に操る「騎乗」という新技術が生みだされたのである。

 馬は背が高いうえ、蹴り上げたり、立ち上がったり、走り出したりするから、乗りこなすのは至難の業だった。それが一般化するのは、銜・手綱・鞍(くら)やズボン・ブーツなどの発明や、騎手の訓練や馬の調教などノウハウの蓄積が十分になされた前1000年前後のことだった。

 いったん騎乗が普及すると、草原の民の生活は劇的に変化した。行動範囲が広がり、季節ごとに条件のよい土地を往復できるようになった。夏は家族ごとに散らばって放牧できる広々とした草原、冬は北風を防げる南の山麓や谷間といった具合である。

 作業効率も上がり、一人が扱える家畜の数は100倍に増えた。遊牧民の生活は豊かになり、数万頭の家畜を持つ者まであらわれた。

 騎乗によって、「遊牧」という生活様式が完成したといってもよい。

前10世紀頃のユーラシア

ユーラシア大陸の中央部は草原と砂漠からなる巨大な乾燥地帯であり、遊牧民の生活空間である(全盛期のモンゴル帝国の領域とほぼ一致することに注意)。とくに、ハンガリーから中国北部までつらなる草原地帯は絶好の牧地であり、騎馬技術もここで生まれた。農耕地帯(図の赤線で囲まれた部分)は、乾燥地帯の縁辺に点在しているにすぎず、ラクダによる隊商と海沿いの交易によって相互に接触しはじめた。


草原から吹く暴風

 数百〜数千におよぶ家畜の管理や、頻繁におこなわれるテントの積みおろし、年2000kmに達することもある移動など、遊牧は楽ではない。そこへ、春の出産・搾乳、夏の去勢・毛刈り、秋の交尾・保存食づくりなど季節ごとの作業が加わる。生産物が貯蔵できる農耕とちがい、干ばつや厳冬で家畜が全滅すればおしまい、という弱さもある。

 なかでも最大の問題点は、生活必需品が完全には自給できないことにある。たいていのものは家畜の乳・肉・脂・毛・皮からつくれるが、農作物やある種の工芸品は農耕民から入手するしかない。そこで、オアシス都市などの定住民と交易を行う必要性がでてくる。

 遊牧民はふだん、数家族単位に分かれて移動生活を送っている。特定の場所に集中すると草が食い尽くされてしまうからである。ただし、血縁をつてに他の集団とのつながりは保っている。騎馬の民であるから、いざというときは早馬で連絡をまわし、あっという間に軍勢を集結することが可能である。こうした軍事面での優位によって、遊牧民は定住民との交易をよい条件でおこなうことができた。

 もちろん、定住民の側に強大な武力を持つ国があらわれれば立場は逆転する。遊牧民の品物は安く買いたたかれ、生活に必要な物資が手に入らなくなってしまう。

 そのような懸念は、アッシリアという超大国が出現したときに現実のものとなった。

 前2000年頃メソポタミア北部に成立したアッシリアは、数えきれないほどの戦争に鍛えられ、前12世紀頃には西アジア有数の強国に成長した。そして、前7世紀前半には全メソポタミアと、シリア、エジプトを統一した。もっともはやく農耕と都市を生んだ人口密集地帯を、すべて支配下におさめたのである。

 こうなっては、遊牧民の側も強力なリーダーをかつぎ、一致団結して立ちむかわねばならない。「スキタイ」とよばれる史上初の遊牧帝国は、こうして黒海北岸に姿をあらわした。「王族スキタイ」とよばれる中央アジアからやってきたグループと、これに従属する遊牧民集団によって構成された連合体であった。

 遊牧民の王は、農耕地帯の物資を手に入れて分配することを期待されている。それに応えるためにもっともてっとり早いのは、人々を略奪めあての戦争につれて行くことである。前7世紀中頃、スキタイ軍はコーカサス山脈を越えて南に向かった。

 迎え撃つアッシリア軍はまさに戦争マシーンであった。自慢の3人乗り戦車隊を中心として、鉄の武器・防具で固められた重装歩兵隊、破城ハンマーや攻城塔・投石機を備えた工兵隊、ラクダとロバからなる補給部隊に、最先端の騎馬部隊まで編成に加えられていた。ただし、2騎1組になって行動し、どちらかが矢を射るときにはもう片方が手綱を握っていたらしい。

 スキタイ軍は、兵力ではアッシリアの数分の一だったと思われる。しかし、全軍が軽装の騎兵で、「風のように現れ去る」と形容されるように神出鬼没だった。彼らは幼い頃から馬とともに育った騎馬の達人であり、疾駆しながら矢を放つ「騎射」を身につけていた。

 両軍の間にどのような戦いが繰り広げられたのかは定かではない。たしかなのは、スキタイのたび重なる攻撃が、アッシリアを崩壊へと導いたということである。スキタイ騎兵はアッシリア領内を思うままに踏みにじり、長駆エジプト国境まで攻め込んでいる。前612年には、他の反アッシリア勢力とともに首都ニネヴェを攻略した。

 空前の大帝国はあっけなく歴史上から消え去った。それは同時に、騎馬の民の力を知らしめた決定的瞬間でもあった。

スキタイの侵攻とアッシリアの崩壊

遊牧民にとって定住民の物資は不可欠である。スキタイも、黒海北岸のギリシア植民市に課税している他、コーカサスをこえてイラン高原に入り、もっとも豊かな農耕地帯を支配していたアッシリアに侵攻した。前630年以後はとくに激しさを増し、首都ニネヴェを包囲したほか、エジプト国境まで進撃している。バビロニア南部の総督ナボポラッサル率いるカルデアと、スキタイから独立したメディアが攻撃に加わるとアッシリアは総崩れとなり、前607年滅亡した。

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