地球人の歴史 11.騎馬軍団、大陸を制す
中原を駆ける騎馬民
中国北部、黄河中・下流域に広がる大平原は、かつて「中原」とよばれていた。7000年も前にアワ・キビの栽培がはじまった穀倉地帯にして人口密集地域であり、古来、この地を制した者が中国全土を制するとされた要衝である。
ところが、2世紀になると気候の寒冷化と乾燥化が進み、農耕を中心になり立っていた中原の社会は大混乱におちいった。飢餓や疫病によって大量の流民が発生、184年には「黄巾の乱」とよばれる未曾有の農民反乱がおこっている。中国を支配していた後漢(ごかん)王朝の統治機構は分解し、地方長官や豪族が自立して争う乱世となった。この過程で、戸籍上の人口は5600万人から400万人(!)にまで激減したといわれている。
いっぽう、気候変動はモンゴル高原やチベット高原も直撃したため、困窮した遊牧民がより温暖湿潤な中原に移住してきた。3世紀末までに、その数は200万に達したらしい。
農村人口が激減して兵力不足に悩まされた地方政権が、このような遊牧民集団と同盟したり、雇い入れたりして自軍に組み込むのは自然の流れだった。たとえば、3世紀初めに華北を制した曹操(そうそう)は、匈奴(匈奴)や烏丸(うがん)などの騎馬軍団を切り札として重用している。
280年、中国は晋(しん)王朝によって統一されたが、わずか20年でふたたび内戦状態となった。この時には、実力を十分に高めていた遊牧民はもはや漢人に利用されるだけの存在に甘んじるつもりはなかった。独立を宣言した匈奴軍団はまたたく間に華北を蹂躙し、晋を滅ぼしてしまう。
これ以後、中原は遊牧民の天下となった。騎馬軍団を擁する首長たちが次々と政権をうち立てる中で、5世紀初めに鮮卑(せんぴ)族が台頭して華北を制圧、6世紀末には中国全土を統一するにいたる。
鮮卑王朝
鮮卑は、もともと中国東北部にいた遊牧民集団である。2世紀中頃、一時的にモンゴル高原を統一したが、すぐに分裂した。
晋滅亡前後の混乱期には他の遊牧民と同様に中国に入り、多くの政権をたてた。その中のひとつである北魏(ほくぎ)は5世紀初めに華北を統一し、江南を拠点とする漢人王朝と抗争をくり返した。
その後、北魏は東西に分裂するが、西の政権からおこった隋(ずい)は589年に中国全土を統一した。隋にとってかわった唐も、鮮卑系王朝である。
鮮卑王朝の変革と挫折
匈奴や鮮卑などの遊牧民が中国を席巻した背景には、この時代に騎馬の道具や技術が大きく進歩したという事情もある。とくに重要なのは、騎手が足を乗せる「鐙(あぶみ)」の発明である。騎乗が容易になっただけでなく、安定した姿勢で騎射を行ったり、槍や剣を自由に振るったりできるようになって、戦闘力が格段に向上したのである。また、馬のひずめを守る「蹄鉄(ていてつ)」も用いられるようになり、はるかに長距離の移動が可能となった。
このような高い戦闘力を持った遊牧民にとって、ある程度の領土を平定して政権を立てるのは比較的容易なことだった。しかし、それを維持するにはさまざまな困難がともなった。というのも、遊牧王朝の首長にとって、配下の騎馬軍はきわめて扱いが難しい集団だったからである。
遊牧民は血縁をもとにした「部族」を基本にまとまっており、戦時には部族を構成する男子がみな兵士となる。遊牧民の王朝は、こうした諸部族の「連合体」にほかならなかった。君主が自由に動かせるのは自分の部族の兵だけで、他の部族は場合によっては反旗をひるがえす危険な存在でもある。
そこで、鮮卑諸王朝の君主は自らの命令によってのみ動く軍隊をつくることに力を注ぐようになった。すなわち、流民に土地を与えて農村を復興させるとともに、農民を徴兵・訓練して部隊を編成したのである。その過程で部族兵は重要性を失い、6世紀後半には消滅した。
618年に成立した最後の鮮卑王朝である唐(とう)のとき、定住民に軸足をおく中国王朝への転換はほぼ完了した。唐の総兵力は100万に達し、周辺諸国の弱体化に乗じて一時はバイカル湖やアラル海までにおよぶ勢力圏を築きあげることに成功した。
しかし、この制度には漢の時代から解決されていない欠陥があった。税や強制労働にくわえて兵役まで課されるのは、農民にとってあきらかに過重な負担だったのである。やがて、国の管理を逃れようと地主のもとに逃げる者が続出し、税収が減るとともに徴兵も困難になってきた。また、周辺の遊牧民が勢力をもりかえしてくると、農民をかき集めた軍では太刀打ちできないことが明らかになった。
そこで存在感を増してきたのが、金で雇った職業軍人である。傭兵は唐の成立時から多数存在していたのだが、辺境防備の必要にかられて随時拡充されてきた。そして、8世紀前半に徴兵制が廃止されるにいたり、国防を全面的に担うことになったのである。北方の遊牧民から募集した騎馬兵が、その中核となった。
練度の高い騎馬軍を国境におくことで、防衛力はたしかに強化された。しかし、唐はこれらをコントロールすることには完全に失敗した。司令官たちは駐屯地で集めた税を政府に送らず、その金を給料として支払うことで兵を私物化し、地方官僚も勝手に任命するようになった。このような軍閥は、8世紀末には全国で50にものぼった。
名ばかりの存在となった唐王朝はしばらく命脈を保つものの、907年には最終的に滅亡した。傭兵隊長はそのまま各地で自立し、自前の王朝を開いた。
傭兵たちの天下
唐が繁栄を極めていた時期、ユーラシア大陸の西半分では、アラブ人の「イスラーム共同体」が巨大な版図を築いていた(第10章参照)。
しかし、大征服をなしとげたアラブ人も実態は諸部族の連合体であり、戦闘力は高いが扱いにくい集団だった。部族間の内紛はあとを絶たなかったし、カリフの命令を無視したり、公然と反抗することもあったのである。カリフもまた、鮮卑王朝と同様の悩みを抱えていたことになる。
8世紀中頃に成立したアッバース朝はアラブ人の特権的軍事集団を解体したが、そのかわりとなる軍を新たに見いださなくてはならなかった。当初は、最大の支持基盤であるホラーサーン(北東イラン)で集めた数万の兵を「王朝の子」として重用したものの、反乱や外敵の侵入に対応できず、練度の低さと兵力不足を露呈してしまった。
そこで、唐と同様の解決法がとられることとなった。中央アジアに住むトルコ系の遊牧民を招いたり、あるいは奴隷として購入したりして、傭兵隊を編成したのである。新軍団はたちまち各地の反徒を粉砕し、その威力を示した。
ところが、軍の規模が拡大したうえに、傭兵たちが高給を要求したために財政はたちまち逼迫した。兵は暴動や税の奪い合い、はてはカリフ位のすげ替えまで行うようになって、政局は混乱の極となった。州の総督となった指揮官たちは税収を部下への給料支払いにあてるようになり、アッバース朝はいくつもの地方政権に分解していった。
唐とアッバース朝で並行するようにおこった崩壊現象は、軍事の「専門化」が生んだ必然的帰結といえる。歩兵に対する騎兵の優位が確定したことで、「騎馬戦闘」という特殊技能を有する職業軍人への依存度が高まり、ついには彼らを束ねる傭兵隊長が権力機構そのものを分け取りにしてしまったのである。
アッバース朝の解体(10世紀前半)
ウマイヤ朝時代まで、「イスラーム共同体」は少数のアラブ人による支配者共同体としての性格を持っていた。これに対し、アッバース朝は非アラブのムスリムが激増したためにアラブ人の支持を必要としなくなり、専制を強化することができた。その柱となったのが、トルコ人を中心とする傭兵軍団であった。ただし、そのことは傭兵の動向に政権が左右されることを意味し、9世紀後半より極度の政情不安がつづいた。その間、地方の統治は土豪や傭兵隊長に委任され、地方政権の乱立をまねいた。また、アッバース朝の正統性を認めない「シーア派」とよばれる反体制派の運動も活発になっている。946年には、シーア派のブワイフ朝がバグダードに入城、カリフを傀儡化したことで、アッバース朝体制は事実上崩壊した。
君主と軍の関係
現場で軍を率いる者こそが権力を握る、という事実が白日のもとにさらされた結果、おとずれたのは絶え間ない混乱であった。ある傭兵隊長が王朝をうち立てたとしても、もとの同僚や部下に足もとをすくわれる危険はつねに存在した。したがって、10世紀以降の中国やイスラーム世界の君主たちにとって、軍とどのような関係を結ぶかということがもっとも重要な課題となった。
960年に華北におこり、20年後に中国を統一した宋(そう)がめざしたのは、皇帝の手足となる官僚機構を再建し、軍をその管理下におくことであった。
改革は慎重に、長い年月をかけて行われた。軍司令官が自分の裁量で官僚を登用することはできなくなり、その採用は3年に一度行われる学科試験(科挙:かきょ)に一本化された。完全実力主義の試験によって世襲の特権的官僚は消滅し、かわりに新興地主層から皇帝の忠実な下僕が生み出された。さらに、軍閥の兵力を徐々にそいで親衛軍を増やし、軍政・統帥・運用を分けて文官に担わせた。宋は、「文民統制」の徹底によって「傭兵の天下」に幕を引いたのである。
ただし、それはみずから軍を弱体化することを意味した。低く位置づけられた軍には優れた人材が集まらず、やくざ、浮浪者、罪人といったならず者の巣窟と化した。素人の文官が高級指揮官とされ、しかも頻繁に入れ替えられたことで、将と兵の信頼関係も失われた。戦闘力の低下を数で補うためにやみくもな軍拡が行われ、兵数は120万に達したが、質はますます劣化した。おまけに、領内に馬の産地がなかったためほとんどが時代遅れの歩兵であった。結果、わずか17名の騎馬兵に2000の宋軍が敗走させられる(!)という珍事までおこるほどだった。
そこで宋は、国境を脅かすキタイやタングートなどの遊牧民と事をかまえるのを避け、銀や絹を貢ぐことで友好を保つことにした。これはある意味、賢明な選択だった。カネで買われた100年の平和の間、中国は江南を中心にかつてないほどの経済発展をなしとげ、人口ははじめて1億を突破したのである。もっとも、数万の官僚と100万の軍隊にくわえ、外国への経済援助まで行うというのは政府にとってとてつもない負担であり、慢性的な財政危機に悩まされることになる。
宋とキタイ
唐滅亡後の混乱期に急成長したのが、中国東北部の遊牧帝国キタイである。979年に中国を統一した宋も軍事力でキタイに対抗することはできず、1004年毎年銀や絹を贈与する条件で和を結んだ。宋はその後、西北辺境にタングート族がつくった西夏(せいか)とも同様の和議を締結している。いっぽう、イスラーム世界の諸王朝では、「文民統制」が試みられることはなかった。西アジアや北アフリカなど乾燥地帯での戦闘は騎兵の独壇場であり、その力をそぐことは不可能だったのである。そこで、君主は配下の兵をなだめ、良い関係を保つことに腐心することになった。
政府と軍の間でおこるトラブルの最たるものは、給与の支払いが滞ることだった。そこで、多くの王朝では確実な支払いを約束するために現金支給をやめ、かわりに一定地域から税金を徴収する権利を与えるようになった。軍人は管轄地から集めた税を自分のものとすることができたが、その収入で馬や装備を維持し従軍することが義務づけられた。このように割り当てられた土地を、「イクター」という。
これは苦肉の策ではあったが、うまい解決策のように思われた。政府にとっては、徴税のための官僚組織にかかる費用を節約するとともに、給料にまつわる軍人の不満をやわらげることができたからである。
ただし、実際にはさまざまな問題が生じた。外人傭兵は、縁もゆかりもない農村をたんなる収奪の対象ととらえ、しばしば定められた額以上の税をしぼり取った。彼らが灌漑設備の維持管理をおこたったことで、農地が荒れはて牧場化してしまった地域も多かった。
戦士の時代
イクター制の普及により、イスラーム諸王朝では農村からの税収がほとんど外人傭兵のふところに流れこむようになった。しかし、そのような状況でも王朝の統治機構は機能しつづけた。その理由は、地中海沿岸や西アジアが高度に都市化していたことにあると思われる。都市の行政にはアラビア語やペルシア語に通じた文官やイスラーム法を修めた学者は不可欠であり、政府は彼らを掌握することで一定の力を保つことができたのである。また、財政は都市民や商品流通への課税によってまかなうことができた。軍人も豊かな暮しを好んで都会に住み、農村には代理人を送ったにすぎなかったから、政府から離れてアウトロー化することはなかった。
ところが、中国やイスラーム世界以外の国々では中央政府の力が極端に弱まり、「戦争のプロ」たる世襲の騎馬戦士たちが農村に割拠するという事態がおこっていた。
そのような状態に至るにはさまざまなパターンがみられた。まず、北インドのように、侵入してきた遊牧民によって統治体制が粉砕されるというケースである。4世紀に似たような状況におちいった中国ではやがて強力な政府が復活したのだが、インドでは6世紀からじつに600年にわたり、遊牧民や山岳民を出自とする武装集団が乱立する状態が続いた。12世紀に西から侵入して北インドを征服したイスラーム王朝も彼らを全滅させることは不可能で、その対応に頭を抱えることになる。
11世紀のビザンツ帝国は、農民の窮乏化で徴兵が機能しなくなり、外人部隊もイスラーム勢力によって壊滅させられたことから、体制の転換を余儀なくされたケースといえる。皇帝政府は、没落農民の土地を買い集めていた地主たちに地方支配をゆだね、かわりに重装騎兵として従軍させることにした。すなわち、「軍事貴族」の連合体となることで生きながらえる道を選んだのである。
9世紀頃西ヨーロッパにあいついで成立したフランス、ドイツ、イングランドなどのゲルマン系諸王朝では、ビザンツよりはるかに深刻な無秩序がもたらされた。もともと統治機構が未成熟だったところに、海賊や遊牧民による攻撃が9〜11世紀の間に絶えずくり返されたからである。この危機に対し、馬と武装を持つ者は「騎士」、騎士を従え城塞を構える大土地所有者は「領主」となって自衛にあたり、やがて地方の徴税権や裁判権を掌握して自立した。こうした領主たちが勝手に争ったり結びついたりする中で、国王の権力は有名無実となり、「契約」を通じて彼らを動員する権限を持つにすぎなくなった。
日本の場合、島国のため外からの攻撃はまぬがれることができた。しかし、天皇を頂点とする政府の力がきわめて弱く、武装した地方役人や、反乱鎮圧のために下向した軍事貴族が治安維持を肩代わりする形となった。こうした「武士」とよばれる領主たちはみずからのリーダーをいただき、12世紀末には「幕府」なる連合体を東国につくって中央政府を圧倒するにいたる。
こうして多くの地域では武人が乱立する混沌とした情勢となったが、そのことは意外な効果をもたらした。中央への富の流出が止まったことで、地方が豊かになったのである。
とくに西ヨーロッパや日本などの森林におおわれた辺境では、まさにこの時期に、領主たちのイニシアチブによって開墾が急速に進められた。もともと降水量に恵まれているため大規模な灌漑は必要なく、農村ごとに自立した経営は十分可能だった。領主にとって所領は世襲の財産だったから、新技術や新品種も積極的に導入された。
農業生産が高まったことで人口は増大した。日本では、600万という10世紀の人口が13世紀には1000万、14・15世紀には2000万になっている。西欧も10世紀から14世紀のあいだで、イングランドでは170万から370万、ドイツでは400万から900万、フランスでは600万から2100万と、2〜3倍の増加をみている。14世紀前半の西ヨーロッパの人口は、軍人による収奪で疲弊していた北アフリカと西アジアのそれを逆転していたと考えられる。
「戦士の時代」はまた、のちの飛躍を準備する時代だったともいえる。
遊牧帝国への道
ユーラシアの北に目を向けると、北緯50度付近、東は大興安嶺山脈から西は黒海北岸まで、7000kmにわたって帯状の草原が広がっている。この地は騎馬発祥の地であり、遊牧民にとっての「聖域」といえた。2世紀以来の寒冷化・乾燥化にともなう人口流出によって一時的に空白に近い状態となったが、7世紀頃から気候が温暖になり、ふたたび遊牧民の活動がさかんになってきた。彼らの一部が傭兵として定住民の社会に入りこみ、政治を動かす重要なファクターとなったことは前述した。
また、第7章でみたように、彼ら自身も定住民に対抗して草原に国をつくる。人口はせいぜい数十万ほどだったと思われるが、ほとんどの男子が乗馬に熟練した戦士であるから、定住民を圧倒できるほどの武力を持っている。
ただし、これらの国は「部族連合」にすぎず、構造的にもろいという弱点がある。君主の力が弱まれば簡単に分解してしまうのである。定住民が、諸刃の剣ともいえる騎馬戦力をいかにして体制の中へ組み込むかに苦慮したのに対し、遊牧民の場合、元来備えている軍事力をフルに発揮するための堅固な組織をつくりあげることが課題だったといえる。
そのためには経済力を高め、富の分配を通じて君主への求心力を高めることが肝要だった。7〜8世紀に成立した黒海北岸のハザールやモンゴル高原のウイグルは草原の真ん中に都市を築き、周辺から商人を招いて、積極的に交易を営んでいる。
遊牧民の台頭(8世紀中頃)
7世紀頃からはじまる温暖化は、草原地帯における遊牧民の活性化をもたらした(地図中の青線)。
黒海・カスピ海北岸を支配したハザールは、ビザンツと同盟してアラブ人と抗争を続けた。交通の要地にあったため周辺諸国から商人が集まり、交易から得られる関税収入で富強を誇った。
東方では、アルタイ山脈からおこったトルコ系の突厥(とっけつ)が6世紀後半に大版図を築いたが、内紛で弱体化し、唐の軍門に降った。8世紀中頃にモンゴル高原を支配したウイグルは、唐と友好を保ちつつ交易することで富を蓄えた。政権の中枢には中央アジアのオアシス商業民であるソグド人が深く関与し、ソグド文字の影響を受けたウイグル文字もつくられている。
また、ハザールはユダヤ教、ウイグルはマニ教といった具合に、世界的な宗教に帰依していることは興味深い。ただし、遊牧民が都市特有の豊かな物質生活に慣れ親しんだ場合、素朴で厳しい生活の中で育まれる戦闘力が弱まってしまうおそれも生じる。実際、9世紀後半にモンゴル高原から天山山脈の北麓に移ったウイグル人は都市や農村に定着し、交易に特化することで繁栄を謳歌したものの、周辺の強国への従属を余儀なくされている。
この問題に対してひとつの解決法を見いだしたのは、10世紀初め、シラ・ムレン河畔の遊牧民連合からおこったキタイ帝国であった。この国は建国後まもなく渤海(ぼっかい)や燕雲十六州(現在の北京周辺)を占領したために多数の定住民を抱えることになったが、鮮卑王朝やウイグルと異なり、あくまで諸部族の持つ騎馬戦力を維持しつづけた。皇帝が季節ごとに移動するテント暮らしをつづけていたことも、キタイが本質的に遊牧民の国であったことを示している。その一方で、定住民の統治は皇帝直属の官僚機構に担当させた。つまり、都市や農民から得られる税を皇帝のもとに集積し、圧倒的な経済力をバックに諸部族を従わせたのである。
こうしてキタイは、軍事力、経済力、組織力という相反する要素を兼ね備えるという難事業をある程度達成し、200年以上の長きにわたり東アジア随一の強国として君臨した。その経験は、のちのモンゴルに受け継がれることとなる。
最強軍団モンゴル
1206年、テムジンというリーダーがモンゴル高原の諸部族を統一して大ハーン(遊牧民の君主)となり、「チンギス・ハーン」と称したとき、モンゴル帝国が成立したとされる。この国の注目すべき点は、純粋な遊牧帝国としてスタートしたにもかかわらず、きわめて統制のとれた組織体として出現したことにある。
チンギスはもともと強力な部族を後ろ盾に持たず、自らに忠誠を誓う戦士たちを集めることでのし上がってきた経歴を持つ。それゆえに、「部族制」そのものにメスを入れる作業に取りかかることができたのだった。
チンギスは、全遊牧民を95の「千戸隊」にわけた。これは、平時には行政、戦時には部隊の単位となるものである。このような組織は匈奴以来しばしばみられるが、部族ごとに編成するのがふつうの形であった。しかし、チンギスは創業以来の忠臣をほとんどの千戸隊の長にすえ、氏族や部族の掟にかわる「大ヤサ」なる軍律を定めることで、各隊を手足のように動かすことを可能とした。各千戸から兵を抽出して新たな隊をつくるなど、部族の枠をこえる試みも行っている。
また、各隊から素性のよい者の子弟をハーンのもとに集め、1万人の親衛隊を編成している。これは、有力者から「人質」をとるという目的のほかに、ハーンに忠実な人材を生みだしていく機能も持っていた。
もともと高い戦闘力を持っていた遊牧戦士たちは、チンギス・ハーンのもとで、機能的なトップダウン型の組織を持つにいたったわけである。彼はこの屈強な軍団を率いて周辺諸国の攻撃に乗り出すのだが、こうした軍事行動も国づくりの上で重要な意味を持っていた。
じつのところ、遊牧民は特別に好戦的なわけではない。戦争は社会に大きな負荷をかけるものだから、別の手段で目的が達成できるならばそのほうがいいにきまっている。実際、ウイグルやキタイは唐や宋との間に「平和」を保ちつつ、軍事力の優位を利用して有利に交易したり貢納させたりするという政策をとっている。
ところが、チンギス・ハーンは逆に、あえて戦争を繰り返すことで権力を強化する道を選んだ。
遊牧民の国では元来、平時には部族間の合議が重んじられるものの、戦時には君主の命令が絶対視される。統制の乱れは全軍の命取りになりかねないからである。チンギスは、このしくみを最大限に利用した。すなわち、国をたえず「戦時下」におくことで、独裁権を行使し続けたのである。彼はみずからに「世界征服」の天命が下ったと宣言することで、イデオロギーの面からも戦争を正当化した。
もっとも、戦いに敗れるようなことがあればハーンの権威は地に落ちる。そのため、敵対部族の残党狩りからはじまり、比較的弱体な西夏への略奪行、その後に中国北部侵攻へと、軍団に戦闘経験を積ませながら慎重に軍事行動をエスカレートさせている。これらに勝利し多くの戦利品を得たことで、部下のハーンへの信頼と忠誠心はますます強固になった。
チンギスはまた、服属させた勢力を次々に取り込む柔軟性をもっていた。その際にも、組織づくりの妙は発揮された。新参の遊牧民は千戸隊に編成され、統制のとれた軍団に生まれかわった。都市や農耕地帯を統治するにあたっては、キタイと同様に多くの現地人をハーン直属の官僚として用い、莫大な富を手元に集めている。
こうして、チンギス・ハーンはおそらく史上前例がないほどの強力な権力者として、遊牧民と定住民の上に君臨したのである。
世界征服戦争
1206年の建国からしばらくすると、まったく無名だったモンゴル帝国は世界の人々にとってとてつもない意味を持つ存在であることが明らかになってきた。独自の組織と軍事力を育んできたユーラシアのあらゆる国々が、「世界征服」という強烈な意志を持った新興遊牧帝国に挑戦されることになったからである。
1219年、チンギス・ハーンは、ほぼ全軍にあたる15万の兵を率いて「大西征」を開始した。その矢面に立たされたのは、中央アジアのオアシス都市を支配し繁栄をきわめていたイスラーム王朝、ホラズムである。
ホラズム朝はトルコ系騎馬民の傭兵を中核に40万もの兵を擁しており、これらをブハラ、サマルカンド、ウルゲンチなど堅固な城塞都市に配置して迎撃にあたった。ところが、中国遠征を通じて城攻めの経験を積んでいたモンゴル軍の猛攻の前に、諸都市は次々に陥落してしまう。頼みの傭兵たちにいたっては、まっさきに投降、逃亡する体たらくであった。イスラーム世界の最強国は、わずか1年あまりで事実上壊滅した。
モンゴル帝国(1206年、1227年)
チンギス・ハーンは二十年以上の治世をほとんど外征に費やした。その結果、中央ユーラシアに巨大な帝国を築きあげた。チンギスの死後大ハーンとなった第三子オゴタイは、甥のバトゥに軍を与え、カスピ海と黒海の北岸からヨーロッパまで達する大遠征を行わせた。この戦役で最大の会戦は、1241年、ハンガリー北部のサヨ河畔で生起した。
ハンガリー軍の主力は、他のヨーロッパ諸国と同様、召集に応じてはせ参じた騎士たちである。これらは重武装で馬の体格も大きかったものの、集団戦闘の訓練など行われなかったから、個人の武勇に頼った突撃が唯一の戦術だった。モンゴル騎兵は弓の連射と7機の投石機によってハンガリー軍の突進を止め、巧みな機動でこれを包囲・殲滅した。ヨーロッパの諸国はふるえ上がったが、オゴタイの死を知ったバトゥがひきかえしたために救われた。
意外な難敵は中国の宋王朝だった。宋は12世紀以来華北を失っており、兵の質も劣悪だったが、長江という天然の防壁とそこに浮かぶ水軍、密度の高い都市群、北方民が苦手とする高温多湿な気候や風土病によって守られていたのである。作戦は困難を極めたが、5代目フビライ・ハーンのときに水軍を充実することで制圧に成功した。
フビライはさらに「海」にも目を向け、2度にわたり日本遠征を行わせている。もっとも、本腰を入れた作戦ではなかったようである。投入されたのは中国や朝鮮で徴募された弱兵であり、武士団の奮闘と暴風雨にあってあえなく撤退している。また、ジャワやヴェトナムにも兵を送ったが、やはり支配するにはいたっていない。
13世紀末、「世界征服戦」の最終的な結果があきらかになった。それは、ヨーロッパ、インド、インドシナ半島をのぞいた全ユーラシアを包み込む超大国の出現であった。
大ハーン家は帝国の東半分を直接統治し、国号を「大元」と称した。その権力基盤は、あくまでモンゴルの騎馬民であった。フビライは首都として築いた「大都」(現在の北京)に冬しか滞在せず、狩猟を楽しみながら移動生活を続けた。要地には王族が率いる遊牧民集団が駐屯し、治安維持にあたった。1億近くの定住民がいる中国といえども「大ハーン直属の植民地」として扱われ、高級官僚はすべてモンゴル人か、中央アジア出身者から選ばれた。
80年におよぶ征服戦の過程で、チンギスをはじめとする歴代の大ハーンは配下の千戸隊を兄弟や息子に分けあたえ、牧地をわりあてたり征服におもむかせたりしていた。帝国の西半分は、こうした大小の「分家」が支配する領域であった。これらは独立した権力体であったが、基本的には大ハーンを「本家」と認めていたので帝国の枠組みは維持された。
モンゴル帝国(14世紀はじめ)
モンゴルは、チンギスの子孫が率いる遊牧民集団(「ウルス」とよぶ)の複合体である。これは、帝国成立時にチンギス・ハーンが3人の弟(カサル、カチウン、オッチギン)と3人の息子(ジョチ、チャガタイ、オゴタイ)にそれぞれ千戸集団を分けあたえ、弟たちを大興安嶺方面に、息子たちをアルタイ方面に配したことを起源とする。
チンギスの死後、大ハーン位はオゴタイが継承した。一方、ジョチのウルスはバトゥ(ジョチの二男)が引き継ぎ、西方遠征を通じてキプチャク草原からルーシにいたる広大な領域を手に入れた。
4代目の大ハーン位はチンギスの四男トゥルイの息子モンケにわたり、その弟フビライとフラグがそれぞれ中国と西アジアの経略を担当した。モンケの死後はフビライが大ハーン位を継いで「大元ウルス」を開き、フラグはイランにとどまって自らのウルスを形成した。
トゥルイ家の治世に弱体化したオゴタイ家だが、1260年代後半からオゴタイの孫ハイドゥが中央アジアを支配下におき、大元に反抗を続けた。ただしこの乱もハイドゥの死(1301)とともに終結、そのウルスはハイドゥの配下にいたチャガタイ家のドゥアに乗っ取られた。
このように、モンゴル帝国は各ウルスの発展とともに拡大したのであって、ある時期に統一が崩れて分裂したのではない。地図では代表的なウルスを記したが、これらの内部にも中小のウルスが存在する。たとえば、ジョチ・ウルスはバトゥ系、オルダ(バトゥの兄)系、ノガイ(ジョチ家別流)系に分かれるし、大元の中にもチンギスの諸弟ウルス(東方三王家)が繁栄を続けていた。また、ウルスは領地ではなく牧民集団だから、本来は国境を引いて区分すべき性格のものでもない。しかし14世紀中頃になると、さしもの大帝国もほころびを見せはじめる。民と牧地を王族に分けあたえる相続方法は無数の権力集団を生み出し、それらを結びつける「同族意識」も時とともに希薄になっていくから、内紛が年中行事となってしまったのである。
世界的な気候悪化による飢饉や疫病、それにともなう暴動も頻発した。大人口を有する中国の秩序崩壊はとりわけ深刻であり、その収拾に失敗した大元は14世紀後半にモンゴル高原へと引きあげた。
ただしそれ以外の地域では、以後2〜3世紀にわたって、遊牧民を中核とする諸政権が興亡し続けた。そのほとんどはモンゴルの王族か、その末裔(自称も含む)を首長にいただく国々であった。
その意味で、モンゴルは歴史をただ疾風のように通り過ぎたのではなく、ユーラシアの地図を完全に塗り替えたのである。その支配をまぬがれた国々も、モンゴルにどのように対抗し、接触していくかという共通の課題に直面した。モンゴル帝国を画期として、「地球人の歴史」は新たな段階をむかえたといえる。