地球人の歴史  14.海と経済の覇権(前編)


天子の艦隊

 史上著名な旅行家のひとりに、モロッコ出身のイブン・バットゥータがいる。14世紀、西はアフリカのマリから東は中国の大都まで、30年かけてアジア・アフリカ・ヨーロッパ全12万kmを旅した人物である。鉄道や汽船がない時代としては驚異的といえよう。

 イブン・バットゥータは1343年に南インドを訪れた際、カリカットという港町に立ち寄っている。コショウや綿織物の積出地として、また乳香などアラビアの産品の集積地として知られていた都市である。彼はそのにぎわいに感銘を受け、「シナ、ジャワ、セイロン、モルディブ、イエメン、ペルシアの人々がやって来るし、各地の商人が集まっている。その港は世界一流のものである」と評している。

 それから63年後、1406年のカリカットは、国際貿易港として名高いこの町でもかつて見たことのない大艦隊の来訪に騒然としていた。

 その艦隊は、数百名乗りの大型船62隻からなっていた。最大の船は全長100mをゆうに越え、随員は総勢2万7800名を数えるという驚くべきものだった。艦隊を率いるのは鄭和(ていわ)というイスラム教徒の宦官で、これを派遣したのはカリカットから東へ1万kmの彼方に位置する大帝国、中国の明(みん)王朝であった。

 ただし、これほどの偉容ではありながら、この艦隊は軍事征服を目的とはしていなかった。いうなれば、「通商団」兼「外交使節団」といった性格のものだった。

 明は、建国当初から民間の貿易を禁じていた。外の世界と結びついた沿海地方が力をつけることをおそれての措置であった。これにより、宋・元の時代にインドの間をさかんに行き来していた中国船は(密貿易を除けば)姿を消してしまった(第12章参照)。ただし、臣下の礼をとる外国が船をよこすことは許した。そこで、周辺諸国が皇帝に「貢ぎ物」をさしだし、皇帝が「贈り物」を下すという形で、政治色の強い交易が行われるようになった。

 1402年に即位した3代皇帝の永楽帝(えいらくてい)はこの方針を受け継ぎつつも、より積極的な政策をとった。すなわち、四方に使節団を送り、帝国の威信を津々浦々にとどろかせることで、周辺諸国に入貢をうながしたのである。インド洋遠征はその政策の一環であった。

 カリカットについた鄭和は、この地の王に皇帝の書簡と銀印を与えて「臣下」とし、航海を記念する石碑をたてた。その後、カリカットをはじめスマトラ、マラッカなどの使者をともない、中国へ帰っていった。

 以来、鄭和艦隊は連年インド洋を往復し、そのたびにカリカットに寄港した。4回目の航海からはペルシア湾まで足をのばし、分遣隊は遠くアフリカ東海岸までおもむいている。明帝国の武威を見せつけられた東南アジアからアラビア海に至る沿岸諸国はきそって使節を送り、南京の宮廷にはキリン、ライオン、ダチョウなどの珍獣や南方の珍品がもたらされた。

 ところが、1433年を最後に、「天子の艦隊」がインド洋にあらわれることはなくなった。

 その理由は、明がモンゴルやオイラトとの戦いに忙殺されていたことにある。1421年には都も北京に移され、帝国の関心は北辺の防衛へと移っていた。もはや、南海へのデモンストレーションをくり返す余裕はなくなった。巨船は朽ちるにまかされ、海外遠征を忌み嫌う保守派官僚によって鄭和の航海記録はすべて焼き払われてしまった。

鄭和の南海遠征

鄭和の遠征(地図の赤、オレンジ線)は全7回、その範囲はインド洋交易路の全域におよんだ。特筆されるべきは艦船と編成の大きさである。文献、またこの時代の船のものとみられる舵のサイズから、最大の船は全長150mに達したとの推計がある(これについては異論もある)。しかし、インド洋交易路は千数百年、それへの中国人参入は400年の歴史を持っており、この航海が「既知の海」を舞台としたものであることを念頭におく必要がある。また、民間交易ではなく、政治的なデモンストレーションであるため、政府の対外政策転換とともに打ち切られ、その影響は一時的なものにととどまった。
この頃、ポルトガルの大西洋進出が開始されている。鄭和の第7回航海のときにはまだモロッコ沿岸に達しただけで、規模もはるかに小さい。しかし、「未知の海」をひらくこの探検は、のちに大きな意味を持つことになる。

西からの侵入者

 60年以上の歳月が流れ、鄭和艦隊の偉容が昔話となりつつあったカリカットに、1498年、四角帆を張った見慣れない小型船4隻があらわれた。今度は、ユーラシア大陸の西端ポルトガルから、2万kmの波濤を乗り越えてやってきた船団であった。

 ポルトガルは、イベリア半島に位置する人口100万ほどの小国である。土地は貧しく、めぼしい産業もない。ただ、当時のヨーロッパでも羅針盤の普及、外洋船の建造などがみられていたから、これを利用して漁業や海上交易に活路を開こうとしていた。15世紀初頭からは王室の事業として、黄金を手に入れるためにアフリカ西岸の探検航海が進められた。1470年代にはギニア湾に基地を設け、金、奴隷、象牙などを得ることに成功した。

 1488年には、探検はアフリカ南端の喜望峰にまで達した。その後、「アフリカの南を周回することでインドへたどり着くことができる」という情報がもたらされ、ヴァスコ・ダ・ガマを長とする船団が送り出されたのだった。目的は、ヨーロッパで貴重品とされていたコショウなどの香辛料を入手することにあった。

 船団は喜望峰をまわり、アフリカ東岸に出た。ここは既存のアラビア海交易路の一端だったから、水先案内人を雇うことで容易にインドへたどり着くことができた。これまでエジプトなどを介さなくてはアジアの物品を手に入れられなかったヨーロッパにとって、インド洋という国際交易の大動脈に接続できたことは画期的な出来事であった。

 しかし、カリカットに着いたガマ一行を待っていたのは、鄭和の時とは正反対の冷遇であった。彼らがみすぼらしい小船団だったことに加え、地元の商人たちが新参者に商秩序を乱されることを嫌ったのである。ガマはわずかな香辛料を買い入れただけで帰らざるをえなくなった。

 ともかく、平和裏に取り引きできないとなれば、「交易・海賊・戦争は三位一体」という原則を適用するまでだった。その点、ポルトガル船は堅牢で、最新兵器「大砲」を積んでいることで優位にたてた。ムスリム商船への襲撃・拿捕からはじまり、アフリカ東岸・インド西岸での要塞建設、南インドの小国に対する「砲艦外交」、既存の交易路(紅海・ペルシア湾経由)の封鎖などが次々と実行された。

 インドのヨーロッパ向け香辛料をおさえることに成功すると、ポルトガル船団は香辛料のもうひとつの宝庫である東南アジアへ向かった。1512年には、クローブ、ナツメグの唯一の産地モルッカ諸島に姿を現している。

 さらには、インド洋交易路そのものの乗っ取りが企てられた。港に出入りする船から税を取ったり、地域間の物資輸送を担うことで利益を得ようとしたのである。マレー半島の大貿易港マラッカを奪ったのはその一例である。

平和的に発展してきたインド洋の交易システムは野心に満ちた侵入者により一挙に流動化し、諸勢力がしのぎをけずる物騒な時代へと突入した。

ポルトガルのインド洋進出

ヴァスコ・ダ・ガマのカリカット到達(1498)以来、ポルトガルは武力を用いてインド洋交易路への割り込みを進めた。その目的はヨーロッパ向け香辛料(コショウなど)の独占にあり、拠点と航路の確保、および紅海・ペルシア湾経由の香辛料交易の切断に向けられた。16世紀前半には、モルッカ諸島のクローブ、ナツメグの確保がめざされた。
また、1500年にはカブラルがインドへ向かう途中南米大陸の東端に漂着し、その領有を宣言している。これがブラジルである。

征服者たち

 ポルトガルの後を追って海にのり出した隣国スペインは大西洋を横断し、16世紀前半にはカリブ海の島々、そして南北アメリカ大陸に地歩を固めつつあった(第13章参照)。ただし、その様相はポルトガルのそれと大きく異なる。

 ポルトガルはアジア諸国との「交易」を目的とし、港湾という「点」を海軍力で結ぶという方法を採用していた。対してスペインはアステカ、インカという大帝国を瞬時に崩壊させてしまったことで、本国の数倍におよぶ土地と人口を統治しなければならなかったのである。

 当初、スペインのアメリカ大陸経営は「放任」といってよかった。征服そのものも、一攫千金を求める冒険野郎たちが勝手に企画し、自費で行ったものだったのである。

 征服者たちは金銀財宝の略奪をほしいままにしたが、これから先も富を得つづけるには何らかの「からくり」をつくりあげる必要があった。そこで利用されたのが、「エンコミエンダ」というシステムである。植民者が一定数の住民を保護しキリスト教化する義務を負うかわりに、これを使役することができる、という制度であった。多くの植民者はこれを悪用して農園、牧場、鉱山で先住民をこきつかい、王侯のようにふるまった。

 スペイン政府は、大洋の彼方の征服者たちが力をつけて反逆することをおそれ、1540年代になって遅ればせながら統制にのりだした。エンコミエンダの世襲を許さず、所有者が死んだら王室が接収するというのがその趣旨だった。

 当然、この政策は植民者たちの猛反発をよび、各地で反乱が頻発した。スペイン政府はこれらをねばり強く鎮圧した。その結果、1570年ごろまでには植民地全土が王室に服するようになった。もっとも、先住民がおかれたきびしい状態はさほどかわらなかった。


銀の道

 コルテス率いる一握りの軍勢がアステカ帝国と死闘を繰りひろげていた(第13章参照)1519〜20年、南米大陸の大西洋岸では、マゼラン率いる5隻のスペイン船が大陸の西側に抜ける「海峡」を発見しようと、苦難の航海を行っていた。

 彼らの目的は、西回りでアジアへ到達することにあった。1494年に結ばれた協定によって、大西洋上の子午線(現在の西経45度線付近)を境に、西がスペイン、東がポルトガルの勢力圏とされていた。しかし、スペインは裏口からアジアの香料貿易に割りこもうと企て、ポルトガル人マゼランを雇ってモルッカ諸島へ向かう西回りの航路を見つけさせようとしたのだった。

 出発から1年後、マゼランは南米大陸の南端に「海峡」を発見、これを突破して太平洋に出た。そして、100日以上かかって太平洋を横断した。モルッカ諸島で念願の香辛料を積み込んだときにはマゼランはすでに亡く、船も2隻に減っていた。結局、そのうちの1隻・18名だけが1522年インド洋経由でスペインへ帰ることができた。これが初の世界一周航海であり、理論上は2000年前から知られていた「大地が球である」という事実を証明するものであった。

 こうして、東回りでポルトガル、西回りでスペインが進む形で、地球を一周する交易路が姿を現した。モンゴル帝国とともに解体した世界経済が、海路によってさらに大がかりに結びつけられたのである。陸上交通がラクダと馬の登場以来3000年もたいした変化がない一方で、海上交通がこの時期にコスト・輸送量・距離・安全性で長足の進歩をとげていたことを考えると、その意義は大きかった。

 おりしも、世界経済にとってもうひとつの重要な出来事が、スペインの中南米植民地でおこっていた。メキシコとペルーで、とてつもない規模の銀山が発見されたのである。その生産量は1600年までは年平均250〜300トンに達し、全世界の産出量の4〜5割を占めていたと考えられる。

 スペイン政府は植民地の貿易を厳重に管理し、他国の船が寄港することを許さなかった。そのため、銀の大部分は「ガレオン」とよばれる大型輸送船によって大西洋を渡り、スペインに運ばれた。ただし、その後交易を通じて他の国々へも銀があふれだしたから、ヨーロッパ全体がその影響を受けることになった。

 当時、ヨーロッパはペストによる14世紀の破局(第12章参照)から立ち直り、成長のきざしをみせていた。所領経営に行きづまった領主たちが農民を隷属させることをやめ、「地主」になったことで、土地・生産物・労働力が貨幣を介して動き出していたのである。農村では土地を借りて市場向けに生産する農業企業家があらわれ、賃金労働者が集まった都市では毛織物などの手工業がおこってきた。にもかかわらず、肝心の貨幣量が経済の拡大に追いついていなかった。そこへ到来したアメリカ銀は、この足かせを一挙にとりはらい、経済を飛躍させる起爆剤となったのである。

 通貨量の激増は金融業をさかんにし、利子率を下げ、投資の拡大をよんだ。商工業の規模は格段に大きくなり、穀物、羊毛、衣類、木材など種々の必需品が全ヨーロッパ的な規模で動くようになった。その中心となったのが、スペイン領のネーデルラントであった。水陸交通のかなめであるこの地には、ヨーロッパ中の商品に加えてアジアの香辛料とアメリカの銀も集まってきた。1531年には、アントウェルペンに史上初の「商品取引所」がつくられている。

 国際交易路の出現と銀ブームは、アジア経済にもおよんだ。インド・東南アジアは、ポルトガルが香辛料の代価としてもたらす銀によっておおいにうるおった。好況の波はさらに、国際交易から遠ざかっていた中国を中心とする東アジアをも巻き込んでいった。

 当時、中国の明王朝は対モンゴル戦の軍事費がかさみ、国内に流通する貨幣量が不足をきたしていた。生糸(カイコの繭からつくる糸)と絹織物、陶磁器といった特産物を輸出して銀を得るべきところだが、政府はあいかわらず民間の貿易を禁止し続けていた。

 この状況を突き崩す動きは、まず東からやってきた。16世紀前半、日本が新技術を導入し、銀の一大産地となったのである。その生産量は全世界の20〜30%に達し、アメリカ大陸につぐ規模だったといわれている。日本が突如として購買力旺盛な大市場に成長したことで、東シナ海にはたちまち日本人と中国人の海賊団がはびこり、密貿易のメッカとなった。明はこれを取り締まりきれず、1567年ついに民間貿易を認めるはめになった。ただし、日本への直接渡航は依然として禁じられた。

 そこへ登場したのが、ポルトガル人であった。彼らは中国のマカオ、日本の長崎に居住を許され、中国の生糸と日本の銀の交換を中継ぎして巨利を得た。スペイン船も太平洋を横断してフィリピンにあらわれ、アメリカ産の銀によって中国商人から生糸を買いつけた。中国は日本とアメリカ双方の銀を引きよせ、その経済は未曾有の活況を呈したのだった。

マゼラン一行の航海(1519〜22)と16世紀後半の銀の流れ

マゼランはポルトガル人であり、インド洋経由のルートでモルッカ諸島への遠征に参加した経験を持つ。その後、西回りでモルッカへ向かう案を国王に示したが支持を得られなかったため、スペイン王カルロス1世(カール5世)に仕官し計画を実行することになった。1519年9月に出発したマゼランはアメリカ大陸のどこかにあると考えられていた「海峡」を翌年10月に発見、太平洋を横断して1521年3月フィリピンに到達した。しかし、ここでマゼランは現地人の抗争に関与して戦死したため、その部下が世界周航を実現することになった。
ただし、マゼランによって開かれた太平洋横断航路は、アジアからアメリカへ向かうことが風と海流の関係で困難だという問題があった。この航路が実用化されたのは、1565年、フィリピンへ向かった遠征隊が北太平洋経由でメキシコに帰還してからのことである。1571年には拠点としてマニラが築かれ、メキシコとフィリピンを往復する「ガレオン貿易」が軌道に乗った。
スペイン支配下のメキシコ(サカテカスなど)とペルー(ポトシなど)で巨大な銀山が発見されたのは1540年代である。図には年平均の銀輸送量を示したが、その大部分はヨーロッパにもたらされたことがわかる。アジア諸国に比べて経済的に後進地域だったヨーロッパが急成長した主原因は、この膨大な銀にあったとされている。その一部はポルトガルによるアジア産品の買い付けに用いられたが、どの程度の量かは不明である。また、スペインによるガレオン貿易によってアジア(おもに中国)にもたらされた量は、年によっては相当の量に達した。
一方、日本では灰吹法の導入(16世紀前半)に爆発的な銀の増産があり、その多くが中国との貿易に用いられた。その量については、ここであげた推計の他、年間150〜190トンとするものまである。なお、日本は銅の生産でも世界一だったとされている。

農作物と病原菌の交換

 第12章でみたように、長期的にみて交易のもたらすもっとも重要な変化は、農作物の伝播である。その意味で、地球を一周する交易路がもたらした変化はかつてないほど劇的だった。ユーラシア・アフリカとアメリカ大陸という、まったく接触がないまま独自の農耕文化を育んできた二つの世界を結びつけたからである。

 アメリカ大陸からユーラシア・アフリカへは、多くの重要な作物が伝わった。単位面積あたりの収量がコムギの2倍に達するトウモロコシ、やせた土地や山地でも栽培できるジャガイモやサツマイモは、ユーラシア大陸の人々の食糧事情を大きく改善し、人口を増加させるのに貢献した。キャッサバはアフリカの人々にとって重要な栄養源となったし、トマト、カボチャ、トウガラシ、タバコなどの副食・嗜好品類も、多くの地域の食生活に欠かせないものとなった。

 いっぽう、ユーラシアからアメリカへは、コムギなどの穀物、牛・馬・羊などの家畜がもたらされた。ただし、これらはすぐにアメリカ大陸の人々の食生活を向上させたわけではなかった。というのも、これらの穀物や家畜はもっぱらヨーロッパ人の入植者向けに持ちこまれたものだからである。そして、これらを生産する農園や牧場では、奴隷的に先住民が使役されるのがつねであった。

 ふたつの世界の接触はまた、交易がもたらす負の影響、すなわち疫病の伝播もひきおこした。

 はやくもコロンブスの第1回航海の際、船員がアメリカ大陸の風土病だった梅毒を持ち帰り、短期間でヨーロッパ中に広まった。最初の伝染からわずか20年後の1512年には、地球の反対側の日本にも上陸した。

 しかし、ヨーロッパ人がもたらした天然痘、はしか、マラリアなどによってアメリカ大陸の住民が受けた影響ははるかに甚大だった。ユーラシアの人々が長年馬や船による交流を重ねて免疫力をある程度高めていたのに対し、アメリカ大陸の人々はずっと狭い世界に住んでいたからである。

 コルテスによる征服の直前、メキシコ中央部の人口は2500万だった。しかし、50年後には265万まで減ってしまった。ペルーでも、80〜95%の人口が失われたといわれている。14世紀のペスト(第12章参照)を死亡率ではるかに上回る、史上空前の大災厄といえる。

 アメリカ先住民が、わずかなスペイン人による支配をはねかえすことができなかったのは、この人口減によって社会が致命的な打撃を受けたことに最大の原因がある。


転落

 アメリカ先住民の苦難をよそに、16世紀後半の世界経済は沸騰を続けていた。しかしこの時、パイオニアであるはずのポルトガルとスペインの地位は、皮肉にも低下の一途をたどっていた。

 最初につまづいたのはポルトガルだった。ろくな資源も産業もないこの国にとって、3万kmにおよぶ長大な通商路を支配し続けるのは荷が重すぎたのである。しかも、貿易を王室が独占し、国民に利益を還元するしくみをつくらなかったために、政府組織が汚職の巣窟となってしまった。交易路から得られる収益はその維持費と、役人の不正によって食いつぶされた。

 こうなると、身軽な現地勢力の挑戦に抗するすべはなかった。1534年にはオスマン帝国がアデン(アラビア半島南端)を占領したことでポルトガルの封鎖は突破され、紅海〜地中海経由の香料貿易が復活した。東南アジアでは、重税が課せられたポルトガル領のマラッカをムスリム商船が避けるようになり、アチェ(スマトラ島)やバンテン(ジャワ島)、ジョホール(マレー半島)などの港市国がにぎわった。中国と日本の商人や移民も、この地域での新たなライバルとしてあらわれた。

 ポルトガルの人口は海難、戦争、海外移住により激減し、16世紀末には半減(!)という惨状となった。実力不相応な事業に手を広げて破綻した典型だった。ポルトガルは1580年、隣国スペインのフェリペ2世に王位を乗っ取られ、独立を失った。

東南アジアの情勢(16世紀後半)

国際交易の中継地、香辛料などの産地として栄えてきた東南アジアは、16世紀にはヨーロッパ人・日本人の新規参入により空前の活況をみせた。ポルトガルはマラッカを占領するなど香辛料貿易の独占をねらったが失敗し、逆に現地人の港市国が勃興した。マラッカの王族はマレー半島の南端にのがれてジョホール王国を築き、以前をしのぐほどの繁栄をみせた。また、マラッカをさけて通るスマトラ島西岸のルートもさかんになり、アチェやバンテンが成長した。これらの港市は、艦隊やヨーロッパ人から伝わった火器を活用して勢力拡大につとめた。

 いっぽう、ポルトガルを併合したハプスブルク=スペインはまぎれもない大国だった。経済先進地域のネーデルラントとイタリア、膨大な銀を産するアメリカ大陸を領有し、そこへアジアのポルトガル領も加わった。スペイン本国でも、繊維・金属・造船などの工業が植民地での需要に応じて急成長していた。軍事力は強力そのもので、陸海軍とも全欧州の恐怖の的であった。

 ところが、スペインの問題はまさに、「大国である」ことだといえた。覇権をめざしてオスマン帝国を含む周辺諸国をみな敵にまわしたために、金がいくらあっても足りなくなったのである。

 カール5世は国際的な金融業者(南ドイツのフッガー家など)からの借り入れで資金を調達していたが、すぐに返済は不可能となった。1556年に王位を継いだフェリペ2世はまっさきに破産を宣言するはめになった。

 戦費をまかなうため、とくにスペイン本国ではあらゆる手段で増税がはかられた。そのため工業製品の価格は高騰、人口の三分の一を養うほどだった毛織物業は他国産製品との競争にやぶれ、1570年を境に輸入超過に転じた。中南米植民地からもたらされた銀もスペインを素通りするだけになり、産業の衰退とともに税収も減った。

 そうなると、銀が最後に行き着く場所、すなわちヨーロッパ経済の心臓部をおさえるほかなかった。さいわい、ネーデルラントとイタリアという2大中心地がスペインの手中にあったから、ここで課税すればいいように思われた。実際、ミラノの入市税はメキシコ産の銀より多くの収入をもたらしたといわれる。

 しかし、重税をかければこれらの地域も衰えるから、同じことだった。帝国ビジネスの犠牲にされることに耐えられなくなったネーデルラントでは反乱が勃発、その鎮圧に手こずって財政はさらに悪化した。おまけに、反乱を支援するイングランドを征服するためにくり出した艦隊が敗北し、海洋の支配まで揺らいでしまう。結局、南ネーデルラントはどうにか確保したものの、北部はオランダとして事実上独立してしまった(第13章参照)。

 2度目の破産宣言の2年後、1598年にフェリペ2世が世を去ると、政府はようやく財政再建に本腰を入れる。しかし、道半ばにしてオーストリアのハプスブルク家が起こした全欧州的な戦乱に巻き込まれた。ついにスペイン本国で反乱がおき、1640年にはポルトガルが独立した。「欧州帝国」への道は絶たれ、破綻した経済だけが残された。

ヨーロッパにおけるスペインの勢力(16世紀後半)

カール5世の巨大な領域のうち、ドイツの所領は弟のフェルディナントが、スペインなどそれ以外の領土は子のフェリペが受けついだ。最大のライバルであるフランスは内乱(ユグノー戦争:1562〜98)にみまわれており、スペインは圧倒的に有利な立場にあったが、ネーデルラント反乱の泥沼に足をすくわれたかたちとなった。
この反乱は、イングランドのエリザベス1世が支援を行っていた。フェリペはこれを征服するため、1588年に大艦隊を派遣した。計画では、ネーデルラント派遣軍を船に乗せてイングランドに上陸する手はずだったが、合流できないままカレーでイングランド艦隊の夜襲にあい、敗退した。

停滞の時代

 17世紀になると、繁栄を謳歌してきた世界経済は一転、停滞の時代をむかえることになる。

 その原因のひとつは気候の悪化にある。14〜15世紀頃からみられた気温低下は17世紀に入ると顕著になり、多くの地域で過去2000年間の最低を記録した。これにともない、人口・農業・商工業の停滞にみまわれたのである。

 もうひとつの原因は、銀の供給減少であった。

 前世紀は世界に銀があふれ、経済が活気づいた時代だったが、これは「銀の供給過剰=価値低下」という状態でもある。いっぽう、銀の鉱山では掘り進むにつれコストが上昇する。採算がとれなくなり、生産が減少するのは当然だった。

 スペイン領アメリカでは、銀産出量そのものの減少にくわえ、スペイン本国への輸送路もおびやかされていた。1639年にスペイン艦隊がオランダに撃破されて以来、オランダやイングランドの海賊がカリブ海に巣くい、港や船団を襲うようになったのである。植民地当局はじつに銀の三分の一を防衛費にまわさねばならなかった。

 アメリカ植民地にとって、銀輸出の衰退はたしかに痛手だった。ただ、長い目で見れば、鉱山業に依存していた植民地経済が健全化する契機になったともいえる。たとえば、スペイン本国から輸入していた衣料などの工業製品が、17世紀中頃から植民地の各地で生産されるようになった。先住民が激減したかわりに、現地生まれの白人や混血の人口は順調に増え、植民地内の市場も育ってきた。

 もうひとつの銀産地である日本は、17世紀初頭に統一をなしとげた徳川政権のもと、中国や東南アジア、ヨーロッパ諸国と活発に交易を行っていた。しかし、銀の生産が落ち込むと幕府は厳重な管理貿易に移行し、通貨流出を阻止した。同時に、綿花・綿織物、生糸・絹織物など、それまでの輸入品が国産化されるようになった。金・銀・銅とも国内用には十分な量があり、輸入の必要はなかった。以後、日本は海外交易に依存せずに、200年にわたって持続的成長をとげる。

 銀の供給源であった中南米と日本とが自立しはじめたことで、世界経済は通貨の減少と交易の収縮にみまわれることになった。ただし、その影響のあらわれかたは地域によって異なる。

 オスマン帝国やムガル帝国では、事態はそれほど深刻ではなく、むしろ成長すらみられた。広大な「帝国」自体がひとつの経済圏をなしていたからである。農産物や工業製品はもともと国内の市場向けに生産されており、対外貿易はおいしいビジネスではあるが、二義的なものにすぎなかった。

 ただし「帝国」のうちでも、人口過剰で、輸入銀に依存していた中国は例外だった。気候変動と不況の直撃を受け、農民反乱の中で明が倒れたのである。しかし、女真族の清王朝が中国とモンゴルをあわせて「帝国」をより大規模に再建すると、北方の脅威が消滅したこともあって外からの銀供給はさほど必要なくなり、17世紀末からは安定期をむかえた。

 いっぽう、単一の経済圏をなす「帝国」が形成されなかった地域では、その中の諸勢力が不況のもとで小さくなったパイを奪いあうかたちとなった。

 小国が分立する東南アジアでは、いずれの国もその繁栄を「国際交易の中継地」という条件に負っていたから、日本人の撤退や中国の動乱による影響は大きかった。香辛料など市場の狭い贅沢品はたちまち供給過剰におちいり、その輸出にたよっていた港市国の多くが没落した。大陸部で芽が出かけていた生糸産業も、豊富な労働力に支えられた中国・インドとの競争にやぶれた。ヴェトナム、ミャンマーは自給的な農業国へ転落している。


経済覇権国

 ハプスブルク=スペインの覇業が挫折し、分裂が確定したヨーロッパも、打撃を受けた地域のひとつだった。穀物や羊毛などの一次産品にせよ、毛織物・麻織物などの工業製品にせよ、ヨーロッパの産物はアジアでは売れず、その市場はヨーロッパ内の人口増加とアメリカ銀の流入によって支えられていた。人口停滞と銀の減少が不況をまねくのは必然だった。

 ポーランドなどの東欧諸国は、西欧に輸出していた穀物の価格が暴落したことで力を失った。疫病と経済崩壊にみまわれたスペインでは3分の1、30年にわたる戦争の舞台となったドイツではじつに3分の2の人口が失われた。アントウェルペンはスペイン軍に破壊されたまま立ち直れず、イタリアでは都市の産業がみる影もなく衰微した。牧羊、毛織物業、造船業などが成長しつつあったフランスやイングランドですら、不況に立ち向かう体制がしばらく整わず、凄惨な内乱にみまわれている。

 ところが、苦しむ他国をしり目に、「ひとり勝ち」の様相を呈している国があった。ネーデルラントの北部が独立してできた人口200万の小国、オランダであった。

 その秘密は、オランダが「もっともビジネスがしやすい」国だったことにあった。まず、スペイン支配の重圧から解き放たれたことで、もともと最先端の水準にあった経済力を自国のために使えるようになった。「共和制」のもと、財界の有力者が政治をしきっていたことも大きな意味を持った。他国の政府が「いかに宮廷費と軍事費を調達するか」に汲々としていた中、オランダだけは「いかに経済人の利益を保護し増大させるか」という観点で政治が行われていたのである。

 このような環境は、ヨーロッパ中から多くの企業家、技術者、熟練工、船員、賃金労働者をよびよせ、その技術とノウハウは産業の効率をさらにひきあげた。漁業における北海のニシン漁、農業における工業用作物と酪農、毛織物業における仕上げと染色といった付加価値の高い(もうけの多い)部門では、他国の追随をまったく許さなくなった。

 造船業の優位はとりわけ圧倒的で、オランダの持つ船舶は全ヨーロッパの半分を占めたといわれている(オランダ製の船となればもっと多い)。ヨーロッパの海運が独占されるまでにそれほど時間はかからなかった。種々の物品がオランダを経由して流れるようになり、需給の調節や価格の操作を通じてもうけることも可能になった。

 通貨不足に悩むヨーロッパの中にあって、オランダだけに莫大な資金が集まったことは、その貨幣と金融業に大きな信用を与えることになった。オランダの銀貨(ライヒスターラー)はどの貨幣よりも高く評価され、貿易における最大の武器となった。1609年に設立されたアムステルダム銀行は、あらゆる貨幣を預金として受け入れ、金に換算した「銀行貨幣」で帳簿に記し、客の希望する貨幣で払い戻した。その利便性からヨーロッパ中の商人がこの銀行の口座をとおして決済を行うようになり、ますます資金が集中した。

 こうした資金は、高い信用を背景に破格の低利(2.5〜4%)で貸し出されたから、さらにビジネスがしやすい環境がつくられた。資本は国外にも投資され、ドイツの繊維業、北欧の鉱業・林業、東欧の穀物輸出はオランダ商人に牛耳られた。資金繰りに悩む他国の政府へも融資が行われ、その財政をも左右した。


「帝国」の黄昏

 同業者組合と種々の規制が幅をきかせていた他国とは異なり、オランダでは自由競争が原則で、それが経済の活力と競争力を高めていた。ただし、必要ならば政府が介入することもあった。たとえば、もうけの大きい対アジア貿易に14社が乱立し、共倒れの懸念が生じると、1602年それらが統合されて「連合東インド会社」ができた。これは独占企業であるかわりに、幅ひろく出資を募り、配当を出すことで国民に利益を還元していた。史上初の「株式会社」である。

 東インド会社の活躍はめざましかった。一企業でありながら貨幣鋳造・条約締結などの権利を与えられ、アジアにおける政府の代理として機能した。さらには兵1万と戦艦40隻を用いて、アジアにおけるポルトガルの拠点を次々と奪っていった。バタヴィア(ジャワ島)をはじめセイロン、マラッカなどの要地をおさえた会社は17世紀前半にはヨーロッパ向け香辛料を独占し、株主に毎年20〜50%もの配当を出すほどになった。

 もっとも、アジア全体からみればオランダが与えた影響は微々たるものだった(オランダ経済に占めるアジア貿易の割合も同様だった)。オスマン帝国やムガル帝国、明・清が軍事力を背景に広大な領域を「経済圏」として抱え込み、対外貿易を管理している以上、オランダがその内部に食いこんでいくことは不可能だった。アジアで売れるヨーロッパ産の商品がないという状況にも変わりがなかった。結局オランダは、香辛料などアジアの贅沢品をヨーロッパに運んで売るというポルトガルの役回りをひきついだにすぎなかった。

 したがって、オランダの「覇権」はヨーロッパ内に限られたものであり、6〜7つの大帝国が世界を支配しているという構図に依然として変化はなかった。むしろ、これらの帝国は火器の登場(第13章参照)によって、過去の諸帝国以上に巨大・強力になっているようにみえた。

 しかし、小国オランダが諸帝国に匹敵するほどの富を蓄えたという事実は、2000年間続いてきた「帝国の時代」が終わりに近づいていることを予告するものであった。

 「帝国」とは、一種の集団安全保障体制である。広い地域に「平和」がもたらされるので、その経済の発展にはたしかに有益ではある。ただ、実際には「帝国」はかなり効率の悪いシステムなのである。

 「帝国」の特徴は、経済に占める政府部門の大きさにある。威信の象徴たる宮廷、広大な領域の治安・防衛をになう軍隊に莫大な費用を必要とし、それを調達するための官僚機構にも金がかかる。したがって、政策は第一に、「帝国を維持するための支出をどうやってまかなうか」という視点から立案される。対外貿易も管理され、もうけの多くは政府に転がりこむようになっている。

 しかし、宮廷・軍隊・官僚制とも、新たに富を生み出す性質のものではない。この壮大な「浪費」のために、商人や企業家は重税を課せられたり、活動を規制されるばかりか、わけもなしに資産を没収されることすらある。「帝国」というしくみそのものが、ある時点から経済の足をひっぱってしまうのである。

 これに対してオランダは、政府組織と軍事力は一小国のそれにすぎない。しかし、この国の真の主役は、利潤への飽くなき欲求を抱いた「民間の企業家」たちであった。彼らは、製品の競争力、物流と価格、貨幣と金融、投資と債権を武器に、「全ヨーロッパ」という、帝国に匹敵するほどの広範囲から富を集めるシステムをつくりあげた。得られた富の一部は事業の拡大・強化にまわされてさらなる富を生み出し、やがて独占的な地位に達したのだった。すなわち、「軍と官僚制」ではなく、「市場」を通じての覇権である。

 以後の歴史は、「どの国の政府が巨大な帝国をつくりあげるか」ということではなく、「どの国に基盤をおいた企業家たちが世界市場を制するか」を軸に展開することになろう。そして、いずれは「大帝国」も、「経済大国」の風下におかれることになるだろう。

17世紀の世界とオランダの拠点および交易路

17世紀、アジアではオスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国、明・清の4大帝国が強盛をほこっていた。その他、「最後の遊牧帝国」ジュンガルや、シベリアを征服したロシア、アメリカ大陸の主要部を制するスペインを含め、この世紀は火器によって強化された大帝国の時代だといってもよく、地球の全人口の半分がこれらの領域に住んでいたとみられている。一方、オランダはヨーロッパ経済を支配し、世界の海に通商網を張りめぐらしていた。それはまだ諸帝国を揺るがすものではなかったが、世界に起きつつある変化の予兆だといえた。

ホーム  「地球人の歴史」目次へ  前へ  次へ