ANECDOTA  皇帝専制と官僚制


 中国政治史の最大の特徴は、「皇帝専制」とされる。「完備された官僚制を手足に、皇帝が全中国を中央集権的に支配した」というものである。その体制は官吏登用制と官制の変遷をつうじて時代とともに強化され、明清期に完成した、とするのが教科書や概説書での一般的な説明である。

 ただ、歴史というのは難しいもので、ある時代なり地域なりを理解する上で便利なモデルが、かえって実態を見えづらくすることもある。たとえば「皇帝専制」というと、君主が人民をすみずみまで管理し搾取するような体制をイメージしがちである。しかし実際には、中国の王朝は大ざっぱな形でしか人々を支配できなかったし、時代をへるごとに(独裁が強化されるごとに)その傾向が顕著になっているのである。

 事実、人民を把握する力は王朝ごとに弱まっていて、唐の後半には兵役が、明の後半には労役が、清の中頃には戸籍にもとづく徴税そのものが放棄されてしまう。足立啓二氏の『専制国家史論』によれば、前漢期には社会的剰余の60%を国家が吸い上げていたのに、その割合はどんどん低下していったのだという。皇帝独裁の頂点とされる明・清の統治能力は、地方分権の典型である同時代の日本の幕藩体制より相当劣っていたことはまちがいない。

 理由としてまず考えられるのは、統治の末端の問題である。田植えや稲刈りなどの共同作業、道路・用水路・入会地などの管理、掟の制定と違反者の制裁、年貢の割りあてと納入など、日本の農村は多様な機能を備える権力体だった。こうした自己管理能力を持つ農村の上に、幕府や藩がのっかっていたのである。同様のことは、座や仲間が機能していた商工業にもいえる。

 ところが中国の場合、前漢の頃には存在していた農村の自治機能は失われ、やがて個々の農民がただ集まって暮らしているだけの場になってしまった。商工業でも、座やギルドのような、そこに所属し規範に従うことが営業の前提となるような団体は中国史にはない(行:こうは同業者組合ではなく、有志による慈善団体としての性格を持つ)。

 私見なのだが、こうした現象は、中国が世界史上でもまれな激しい人口の増減と移動を経験してきたことと無縁ではないように思う。

 人口過剰な中国が飢饉、疫病、内乱などにみまわれると、大量の犠牲者とともに、数十万〜数百万単位の流民がしばしば発生する。黄巣の乱のように、流民集団が掠奪と破壊の限りをつくしながら中国全土を往復することもある。長城外にいる遊牧民がなだれこんできた場合も、避難民の奔流が生じる。ある地域の住民が入れかわってしまうこともある(「中国四千年の虚実」参照)。そのうち、流民の頭目か、それを鎮圧した将軍か、遊牧民の族長が新たな王朝を建てるが、荒廃した国土と崩壊した秩序の上にゼロから支配体制をつくりあげる作業を強いられる。

 その際にみられるのが、住民の強制移住である。これは、流民に土地を与えて定着させる、(魏のように)激減した人口を一カ所にかき集める、無人となった地帯に入植させる、逆に(南宋のように)国境に無人地帯をつくる、といったさまざまな目的で行われる。明の初期にも大がかりな強制移住が実施され、華北の村落のほとんどはこの頃を起源として記憶しているのだという。

 こうして人為的につくられた社会では連帯感や規範意識は薄く、自己管理は期待できない。となると、租税を集めたり治安を維持したり行政サービスを提供したりといった仕事は国家がやらなくてはならない。ある意味、「専制」は当然の帰結だったのである。「口分田を与えて租庸調を課す(唐)」「10戸を1甲とし110戸で1里とする(明)」といった中国特有の画一的な人民編成は、(逆説的だが)アナーキーな社会の産物である。

 ただし、こうした体制がきちんと機能するかは、実務を担う官僚制度の能力にかかってくる。結論からいえば、中国の官僚制はそのような力量を持っていなかった。

 新たな王朝ができると、とりあえず百官が任命され、前王朝をまねた官僚制がつくられる。中国を支配するしくみが他にないからである。しかし、(今日の日本をみてもわかるが)官僚制は往々にして内輪の論理で動くものであり、必ずしも君主の言いなりになるわけではない。前漢の頃、官僚を実際に率いていたのは丞相(じょうしょう)であった。各省の長官が自分の裁量で部下を任命したり、郡・国の長官が独自の法令を制定することもできた。

 これに対し、皇帝は権力を握るため、側近をあつめた組織をつくる。しかし、これも制度化するとともに官僚化はまぬがれない。すると皇帝はまた別の直轄機関をつくる。三省→中書省→内閣→軍機処という具合に、王朝を経るごとに上部組織が改廃・追加されるのはそのためである。地方でも同様で、長官を監督する役人を送り、さらにそれを監督する役人を送るというくり返しになる。清の時代には、州県の上に府・道・布政使司・巡撫・総督が積み重ねられていた。

 決定権はこうして皇帝に集中する。明の洪武帝は、8日間に3391件(!)の上奏を決裁したという。同時に、官僚機構は自らの力でなにも決められなくなる。「皇帝独裁の完成」とはつまり、官僚制が骨抜きにされることなのである。

 さらに、中国王朝の統治能力をはかる上で重要なことは、官僚そのものの生態である。

 隋唐以後の王朝を支えていた科挙官僚は、現代日本の国家公務員などとずいぶん違う。彼らは超難関試験を突破したスーパーエリートではあるが、行政のプロではない。科挙で要求されるのは儒教経典の丸暗記や規則に従って詩文をつくる能力であり、法令や行政や経済の知識ではないからである(この点は宋の王安石が改革しようとしたが、うまくいかなかった)。彼らは実務も地方の実情も知らないまま派遣されてきて、数年でまた転勤となる。

 では、実務を担当したのは誰なのか。それが、「胥吏(しょり)」とよばれる土着の下級役人(行政請負人?)である。彼らには採用試験がなく、地位は世襲によって受けつがれ、任期は終身である。国家から支給される給料はゼロで、行政手続きの際に庶民から手数料をとったり、賄賂をもらったり、租税をピンハネしたりして暮らしている。「皇帝専制」を末端で担っていたのはこうした人々なのである。

 ちなみに、科挙官僚もきわめて薄給で、地方官クラスでは一家が食っていくのでやっとだった。そこで、彼らも胥吏と同様の「副業」にいそしむことになる。彼らは権力を握っているから、税を余分に取ったり、官船をつかって商売したり、外国と密貿易することもできた。豊かな任地をまわって一財産築けば、土地を買い地主になって一生裕福にすごすことができた。これらは当たり前のこととみなされ、よほどひどい場合以外は問題にならなかった。宋の真宗の「勉強すればすべてが手に入る」という歌はつまり、「国から給料がたくさんもらえる」のではなく、「地位と職権を利用して稼げる」ことを意味しているわけである。

 専制、アナーキーな社会、制度化された汚職。これらは(意図するとしないとにかかわらず)歴代の王朝に受けつがれ、現代にいたっている。最近、中国政府は汚職追放のキャンペーンを大々的に行っているが、ことが社会の根幹に関係するだけに、前途は暗いといわざるをえない。


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