ANECDOTA 科挙合格への道
受験勉強
・8歳以前は、『性理字訓』を読み、文字をおぼえる。
・8歳から『論語』『孟子(もうし)』など儒教の経典を読む。15歳頃までに計57万字を徹底暗記。
・その後、経典の注釈、歴史書、文章、詩、政治制度を、20〜22歳頃までに勉強する。
・引き続き、科挙の文書作成法を学ぶ。経典・注釈・史書の復習も行う。22〜25歳で課程を修了し、いよいよ受験にのぞむ。
解試
・まず受験生は、3年に1回地方で行われる解試を受ける。
・受験生は独房にひとりずつ入れられる。文房具のほか、ふとん、なべ、食料も持参。厳重な身体検査が行われるが、それでもカンニングはあった。
・試験場にカギがかけられ、受験開始。3日間、独房に閉じこめられたまま試験を行う。発狂するものも出た。
・採点は、不正がないよう厳正に行われた。受験生の名前は糊付けされ、さらに筆跡が分からないようにするため答案を書写し、それを採点するという念の入れよう。
・合格発表。合格率は1/100という狭き門だった。
省試
・解試に合格した者(約1万名)は、翌年、都で行われる省試を受験した。
・解試と同様、独房に入れられ、厳密な採点が行われる。合格者は330人ほどだった。
・旧法派のリーダーで、著名な詩人でもある蘇軾(そしょく)の答案が残っているので紹介しよう。
<問題> 恩賞・刑罰と仁愛の道について 以下、論ずる。堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)…ら古代の天子の御代には、なんと深く民を愛し、ねんごろに民を憐れみそして、君子、長者の道にのっとり、天下を治めたことであろう…
堯の時代、皋陶(こうよう)が司法官となり、罪人を死刑にしようとした。皋陶は、三たび処刑せよと言った。ところが、それに対して堯は、三たびゆるしてやれと言った。だから世の中は、皋陶の法律を執行するきびしさをおそれ、堯の刑罰を適用する寛大さに安心したのである…
恩賞を与えてもよいし与えなくてもよいときに、恩賞を与えるのは過度に仁である。刑罰を加えてもよいし加えなくてもよいときに、刑罰を加えるのは過度に義に固執することになる。過度に仁であっても、君子たることにはそむかないが、過度に義に固執すれば、やがては残忍な人間になってしまうであろう…
『春秋』の精神は、法を定めるにあたっては厳しさを貴び、人々を処罰するにあたっては寛容さを貴び、ほめたりけなしたりの批判の精神にのっとって、賞罰を定めようとするものであった。これもまた、この上ない真心のある思いやりである。以上、謹んで論ずる。
殿試
・省試の合格者は、皇帝みずからが立ち会う殿試にのぞんだ。
・1057年から不合格者は出さず、もっぱら順位を決めるための試験となった。
・殿試では、時事問題が出題された。たとえば、北方民族に対抗して国家を復興させる方法などが問われたりした。
エリート誕生
・数千倍以上といわれる超高倍率をめでたく突破したものには、「進士(しんし)」の称号が与えられ、エリート官僚への道が開けた。
・宋の第3代皇帝真宗は、次のように述べている。「勉強すれば、おのずから富も、豪邸も、身分も、美女もすべて手にはいる。立身出世の志をいだくものはひたすら経書の勉強をしなさい」
・また、清代の小説『儒林外史』には次のような話がある。范進は54歳になるまで20回以上も受験に失敗を続け、日々の食事にも困る貧乏生活だった。しかし、いったん地方試験(郷試)に合格すると、地元の有力者が大金を持ってお祝いに駆けつけ、家や田畑、店を寄進するもの、夫婦そろって下僕となるものがあらわれるなど、生活が一変するのであった。
浪人生活…
・科挙は超難関の試験だったから、1回で合格することはきわめて難しい。宋の時代の記録によると、合格者の平均年齢は36歳であった。
・宋代の科挙浪人生、李邦人の日記を見てみよう。
官僚になろうと都、開封にのぼってずいぶんになるがいまだ科挙に合格する気配はない。なにしろ課される問題が半端じゃなく難しいので、こっちも覚えたりするのが大変だ。おまけに一回失敗すると最初の試験からやり直しで、これじゃ合格者が少ないのもしかたあるまい。 試験は三年に一度きり。このあいだ落ちてしまったから当分は受験すらできない。かといって郷里に帰るわけにもいかず、今日も開封の街中をぶらぶらとした。いきつけの飯屋に行く途中、学生たちの集団に出くわした。また学生運動でも起こす算段でもしていたのだろうか。宰相の王安石さまのお触れで市中に学校ができて、そのおかげで開封にこういう学生の数が増えたようだ。
とにかく科挙に受かって官僚になるのが第一目標だ。開封は勉強するにも都合が良いが、余計なものも多すぎて身を持ち崩す輩もいる。自分もそうならないように明日からまた勉強、勉強。