ビザンツ亡命政権のイデオロギー(1)
はじめに
歴史上、「亡命政権」が自己の正統性とレゾン・デタをどこに見いだしてきたかという問題は、政治的イデオロギーの研究において重要である。なかでも、第四回十字軍に追われて成立したビザンツ亡命政権のケースは、様々な点で興味深い問題を提供している。ここでは、支配階級や知識人の書簡や演説、宮廷儀式などから、ニカイア帝国のイデオロギー的特徴を明らかにしたい。
1.コンスタンティノープル陥落に対するビザンツ人の反応
1204年4月、十字軍はコンスタンティノープルを占領し、略奪を行った。首都民にとって、聖母の庇護のもとにある帝都の陥落はありうべからざる空前の災厄であった。(→史料1)
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しかし、すでに統治能力を喪失していた帝国政府に不信感を抱いていた地方民は、帝国の崩壊を当然の帰結と考えており、その反応は次のような形であらわれた。(→史料2)
史料2 コンスタンティノープルからの逃亡(ニケタス・コニアテス『歴史』)災難を前にして、我々は逃亡した。我々の避難路上では、不作法な田舎者や下層民が我々を嘲弄した。彼らは我々の惨めさと、無一文なのをあざ笑い、無文別な人々が我々の惨めな状態は彼らと比べられるようなものだと言うために、平等の名を口にした。彼らの同胞の財産をただのような値段で買って豊かになったので、神を称える人さえいた。
亡命した支配層も、「神は我々の罪を罰し」(ミカエル・アウトリアノス)たと諦観した。(→史料3)
それゆえ、十字軍がラテン人皇帝と総主教を選出し、帝国領の占領を開始した際も、ビザンツ人はおおむね無気力にラテン人支配を受け入れる傾向にあった。
しかし、ラテン人の傲慢や、東方正教に対する無理解によって、一般のビザンツ人も外国人支配の過酷さを実感し、首都喪失を民族的悲劇ととらえるようになった。やがて、地方の有力貴族を中心として、ラテン人に対する抵抗がはじまった。小アジア西北では、皇帝アレクシオス三世の娘婿テオドロス・ラスカリスが亡命者を受け入れ、抵抗運動の中心となった。トレビゾンド(※1)やエピロス(※2)にも亡命政権が成立した。(→地図1)
※1 トレビゾンド・・・1204年4月、コンスタンティノープル陥落の少し前に成立。建国者アレクシオス・コムネノスは、コムネノス朝最後の皇帝アンドロニコスTの孫。父がマヌエルが殺された後、グルジアに亡命。やがてグルジアの支援を得てトレビゾンドを占領、大コムネノス家と称して皇帝を宣言した。
※2 エピロス・・・アンゲロス家のミカエル・ドゥカスが建国。彼は、一時はラテン帝国に臣従したが、エピロスに逃亡、地元民に擁されて亡命政権を建設した。弟のテオドロスが1224年、テッサロニケを占領して皇帝を称する。
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2.正統性の主張
未曾有の混乱の中で成立したそれぞれの亡命政権にとって、コンスタンティノープルのラテン人皇帝や他のビザンツ人政権ではなく、自らが帝国の正統な後継者であることを示すことが不可欠であった。
ビザンツには継承法が存在しなかったため、その長い歴史を通じて誰が帝位を継ぐかが明確にされることはなかった。ただし、血統が正統性のひとつの有力な根拠とされており、ふつうは、父皇帝の在命中に息子の戴冠式を行って皇帝称号を名乗らせていた。適当な後継者がいない場合、デスポテス(※1)の爵位をもつ娘婿に継承権が渡ることがあった。
デスポテスの爵位を持っていたテオドロス・ラスカリスがニカイアに亡命政権を築き、小アジアの地方領主を支配下におく際、理論的に依拠したのはこの点であった。
テオドロスはおそらく1206年に皇帝を称し、緋色のローブや赤いサンダルといった皇帝のシンボルを用いるようになる。また、1207年7月の文書を嚆矢として、赤インクで皇帝の称号「神キリストに忠実なるローマ人の皇帝、アウトクラトール」を署名するようになった。
また、正式に皇帝と認められるには、貴族、軍隊、市民による歓呼のほか、コンスタンティノープル総主教による戴冠が不可欠とされていた。テオドロスはトラキアに逃亡していた総主教ヨハネス・カマテロスを招こうとしたが、拒否された。
総主教ヨハネスが1206年に死去した後、1208年3月にテオドロスはすべての主教をニカイアに招いた(※2)。その結果、ニカイア教会の代表ミカエル・アウトリアノスが総主教に選出され、テオドロスの戴冠が実現した。
※1 デスポテス・・・12世紀後半に設けられた爵位で、宮廷内では皇帝に次ぐ高位。
※2 ニカイアの主教会議・・・総主教は、主教会議の推薦する3人の候補者から皇帝が選出する。ニカイアでの会議では、ハギア・ソフィアの聖職者とコンスタンティノープルの修道院長達が加わっている点で異例であった。この時の総主教選出には手続き上問題があるとされ、トレビゾンド帝国などはミカエルの総主教任命を認めていない。