ANECDOTA テンプル騎士団の仁義なき戦い
「騎士」ときいて、どんな人物像を思い浮かべるだろうか。ファンタジーや歴史物語が好きな方なら、「主君のために命を投げ出す忠節無比の勇者」「弱きを助け強きをくじく正義の戦士」といった答えを返すだろう。そして歴史をひもとき、神に一生を捧げる「修道士」をも兼ねた騎士たちがいたことを知れば、きっと胸が高鳴るに違いない。今回は、そのような騎士の一団、「テンプル(神殿)騎士団」の数奇な運命についての話である。
第1回十字軍がイスラーム勢力から聖地エルサレムを奪い、王国を建ててから約20年後のこと。聖地をめざす巡礼者は増えたが、山賊・追いはぎが出没するその道のりは危険きわまりなかった。そんな中、齢60近いにもかかわらずまったくのボランティアで巡礼路をパトロールする剛の者がいた。その名をユーグ・ド・パイヤンという。
噂は聖俗の大物の耳にとどいた。エルサレム王はユーグとその同志に、エルサレムのソロモン神殿(テンプル)跡を宿舎として与えた。シトー会大修道院長のベルナルドゥスは彼らを聖俗一致の理想像と讃え、修道会としての公認を働きかけた。1128年、教皇臨席のトロワ教会会議において、「キリストの貧しき騎士にして、エルサレムなるテンプル騎士修道会」が正式に発足した。9名で細々と活動していた騎士団には加入者が殺到し、権力者からは土地金品の寄進があいついだ。
ちなみに、テンプル騎士団のライバルとなる「聖ヨハネ騎士団」は、十字軍以前の11世紀後半、エルサレムにできた修道士運営の病院が起源とされる。1113年に独立の修道会として認められた後、テンプル騎士団に刺激されて軍事組織化したと考えられる。
さて、固い団結と高い精神性を備えたテンプル騎士団は聖地国家の最精鋭として数々の武勲に輝くことになる。ただ、信仰(狂信?)のゆえか、時としてその戦いが「蛮勇」にはしってしまったことも事実である。アスカロン攻城戦(1153年)の際には、先駆けの功を独占しようと城内につっこんだ総長以下40数名が全員討ち死にしている。1187年には、7000のサラディン軍を発見するや150名ほどで突撃し、3名しか生きて帰らなかった。そのうちの一人(逃げたともいわれる)総長リドフォールは、サラディン軍を待ち受けるべしとした諸侯の軍議決定を、エルサレム国王に讒言(ざんげん)することでひっくりかえしてしまう。出撃した王国軍を待っていたのは、ハッティンにおける歴史的大敗だった。
勢いに乗るサラディンはエルサレムを包囲した。城将バリアン・ディブラン(映画「キングダム・オブ・ヘブン」の主人公)による必死の防戦のかいあり、市民は助命され開城という形で和議がなったが、ここでもテンプル騎士団はミソをつけた。莫大な富を有していたにもかかわらずカネを出し渋り、身代金を払えなかった2万近い市民が投獄されてしまったのである。
実のところ、テンプル騎士団はたんなる聖地の用心棒にとどまらず、欧州随一の「多国籍企業」のごとき存在となっていた。西欧から中東まで「所領9000ヶ所」を有し、そのネットワークを生かした手形・両替・預金・貸付などの金融業で利殖にいそしんでいたのである。フランス王にいたっては金勘定に長けた騎士団員に王国の財務官を兼任させ、国庫のカギを預けていたほどだった。もっとも、こうした活動が、高利貸を嫌う当時の風潮、そして「清貧・貞潔・服従」という修道士のあり方にそぐわないことはいうまでもない。
肝心の軍事力では、エルサレム失陥以後はもはやイスラーム勢力に対抗するすべはなかった。かつての仇敵との「共存」をめざしたことは当然の選択といえるが、非道のテログループ「アサシン(暗殺)教団」とも手を組んでいるのはいかがなものだろう。その一方で味方の聖ヨハネ騎士団との反目は深まり、1254年には王国の首都アッコンで市街戦をくりひろげる有様だった。それから40年足らずで聖地国家は滅び、両騎士団とも海にたたき落とされた。
聖地守護の使命を終えたにもかかわらず財産だけはやたらに大きく、どの王権にも服さないテンプル騎士団は浮いた存在になりつつあった。親分である教皇はフランス王フィリップ4世の挑戦の前に青息吐息、騎士団の周辺もにわかにきな臭くなってきた。
1307年10月13日、フランス全土のテンプル騎士団領に、国王の命を受けた武装警吏が一斉に踏みこんだ。不意を打たれた騎士たちはたちまち逮捕され、苛烈な拷問を加えられた。「入会の儀式においてキリストを冒涜し、男色をなし、偶像を崇拝している」というのが容疑だったが、国王のねらいが国家統一にじゃまな騎士団の壊滅と財産の接収にあることは明白だった。
数年にわたるフランス王と教皇庁との激しい綱引きの末、1312年にヴィエンヌ公会議において処遇が決定した。騎士たちは無罪放免されたが、テンプル騎士団は解散、その財産は聖ヨハネ騎士団に移管された。総長ジャック・ド・モレーと幹部数名は事件の責任を負わされる形で、2年後パリのシテ島にて火刑に処せられた。「騎士の鑑」とうたわれたテンプル騎士団は汚辱の中に幕を閉じた。まるで十字軍の毀誉褒貶(きよほうへん)を象徴するかのようである。
ところで、聖ヨハネ騎士団のほうはその後も生きのびた。小アジア沖のロードス島に本拠をおき、馬から船にのりかえて、海の上でイスラーム勢力と戦い続けたのである。オスマン帝国にロードス島を奪われると(1522年)、今度はマルタ島に移り、ナポレオンに降伏する1798年までここを守った。そして興味深いことに、領土を失った現在でも「マルタ騎士団」の名で約1万の会員を擁し、元来の業務である医療活動をおこなうNGOとして存続している。世界の93ヶ国と外交関係を持ち、国連にオブザーバー加盟もしているという。
−ここで我々は、さらに驚くべき情報を入手した。消滅したはずのテンプル騎士団が、種々の秘密結社に姿を変え、世界の歴史を陰から動かしてきたというのである!彼らの世界制覇の野望は今や成就目前だともいわれている。詳しくは、ウンベルト・エーコ著『フーコーの振り子』を…おっと、身に危険が及ぶおそれがあるので、このへんで(笑)。