世界史講座 18.英雄ナポレオン
ナポレオン伝説
1984年5月、スイスの小さな村に、ナポレオンの通過と村人の協力を記した銅板が、フランスのミッテラン大統領から送られたことが大きく報道されました。ことの起こりは、ナポレオンが有名なアルプス越えの際にこの村で徴発した鍋などの借用書にサインしたことで、これが現在に至るまで有効と見なされ、膨大な利子をつけて約20億円(!)の返済がフランス政府に要求されていたのでした。このことはあらためて、ささいなことでもナポレオンに関することだったらビッグニュースになる、ということを示しました。
実際、古今東西の人物でナポレオンほど栄光と神話に彩られている人物は数少ないでしょう。士官学校では劣等生(58名中42番)、しかし雪合戦の指揮では天才的ぶりを発揮。フランス革命に心酔し、トゥーロン攻略で華々しくデビュー。ボロをまとった兵士を率いてイタリアに進軍、数に倍するオーストリア軍に連戦連勝。エジプトから祖国の危機を聞いて帰還し、30歳の若さでフランス国民の期待を担う執政に就任…。以後、ナポレオンの後ろにはさらに多くの英雄伝説がついてまわることになりますが、実際に彼はなにを成し遂げ、なにを残したのでしょうか。
ナポレオン1世誕生
1799年、ブリュメールのクーデターによって第1執政となったナポレオンですが、さっそく内外に難問を抱えることになります。外には革命を敵視し、これをつぶそうとする第2回対仏大同盟の国々(イギリス・オーストリアなど)がありました。内においては、革命の動乱によって混乱した政治・経済を立て直し、分裂した国民をまとめあげなくてはなりません。
1800年、ナポレオンはアルプスを越え、マレンゴの地でオーストリア軍を撃破、1802年イギリスとのアミアンの和約によって平和を勝ち取りました。その間、ナポレオンは国内の再建に着手します。教皇と政教協約を結ぶことによって国内の宗教対立を鎮め、官僚制度を整備して中央集権を確立、またフランス銀行を設立して財政を再建するなど、めざましい手腕をみせます。
その集大成が、「ナポレオン法典」として知られる民法典でした。ローマ法を継承しつつ革命の成果を結実させたこの法典は、フランスに安定と統一をもたらしただけでなく、ヨーロッパ各国の法律に今日に至るまでの絶大な影響を残すことになります。
革命はじまって以来、誰もなしえなかった実績によって反対派を封じ込めたナポレオンは、ついにみずからがフランスの君主、皇帝になるという野望を実行に移すことになりました。国民投票によって圧倒的支持を受けた結果、1804年12月2日、教皇を招いた盛大な戴冠式によってナポレオンは帝位に上ったのでした。
アウステルリッツの太陽
「ナポレオン、皇帝となる」の報は、交響曲第3番を捧げようとしていたベートーヴェンを激怒させただけではありませんでした。すでに宣戦を布告していたイギリスは、オーストリア、スウェーデン、ロシアなどを語らって第3回対仏大同盟を作り上げました。ヨーロッパにふたたび戦雲がたちこめます。
ナポレオンは当初、イギリス上陸を計画して英仏海峡に大軍を集結させましたが、これが困難と知るとすぐさま計画を変更、大陸の敵を打倒することを決断しました。大陸軍は海峡から一路オーストリアに侵攻し、またたく間にウィーンを占領しました。しかしオーストリア軍はロシア軍を援軍に迎え、徹底抗戦の構えです。
1805年12月2日、奇しくも皇帝戴冠1周年の日。アウステルリッツの地に、フランス皇帝ナポレオン、神聖ローマ皇帝フランツ2世、ロシア皇帝アレクサンデル1世という3人の皇帝が相まみえ、世にいう「三帝会戦」の幕が切って落とされました。連合軍8万8000に対し、フランス軍は6万6000と劣勢でした。緒戦、連合軍は手薄なフランス軍右翼に殺到しましたが、これはナポレオンの巧妙な罠でした。機をみるやフランス軍は中央突破を敢行、連合軍は3万の損害を出して壊滅しました。まさに、ナポレオン戦術の最高傑作というにふさわしい完勝です。
全ヨーロッパに衝撃が走りました。オーストリアはフランスの軍門に降り、イギリス首相ピットはショックで倒れ、まもなく死にました。
大陸封鎖
1806年、ナポレオンはプロイセン、オーストリアをのぞくドイツ全域を、ライン同盟としてフランスの衛星国としました。これにより千年近く続いた神聖ローマ帝国は消滅し、フランツ2世はオーストリアのみの皇帝に転落しました。
この事態に憤慨したプロイセンは、イギリス、ロシアと第4回対仏大同盟を結んでナポレオンに挑戦します。常勝ナポレオンと、フリードリヒ大王以来精強の誉れ高いプロイセン軍の対決です。結果は、イエナ・アウエルシュタットでのナポレオンの大勝でした。ベルリンは陥落、救援に来たロシア軍も翌年夏にかけての戦役で崩壊し、1807年7月ティルジットの和約が結ばれました。プロイセンはじつに国土の半分を奪われ、ロシアはフランスの同盟国となりました。
こうして、権力掌握後わずか8年で、ナポレオンは全ヨーロッパを制覇したのでした。イタリアやドイツにたてられた属国にはナポレオンの親族や将軍がすえられ、「革命の輸出」、つまり封建制の廃止などの改革が次々と行われました。
残るは不倶戴天の敵、イギリスだけでした。1805年11月、トラファルガーにおいて、ネルソン提督によってフランス海軍が撃破されて以来、イギリス上陸は事実上不可能となっていました。したがって、ナポレオンは大陸諸国とイギリスの通商を建つことによって、経済的にこれを屈服させようとしました。これが大陸封鎖です。こうして、ヨーロッパ諸国とイギリスの貿易は厳禁されることになりました。
ヨーロッパ支配のほころび
しかし、大陸封鎖はヨーロッパ諸国には歓迎されませんでした。イギリス製品は各国にとってなくてはならないものだったのに、フランスの産業はそれに取って代われるほど成長していなかったのです。当然、密貿易がはびこり、封鎖は思うような効果をあげることができません。ナポレオンは取り締まりのため支配体制を強化しますが、ますます人々の反発を買うだけでした。
また、ナポレオンは「自由と平等」を旗印とした革命の化身としてヨーロッパに君臨しましたが、これは諸刃の剣でした。ナポレオンの手によって旧来の支配体制が覆され、改革が行われて国民意識が芽生えるにつれ、人々は自分たちがナポレオンという専制君主によって支配されている現実に気づくようになったのです。
]とくに、亡国の危機に立ったプロイセンでは、哲学者フィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」という講演で民族の覚醒を促し、シュタインらによってフランス革命にならった上からの改革がはじまりました。また、フランスの支配下におかれたスペインでは、1808年から全土で大規模な抵抗運動が巻き起こり、数十万のフランス軍が泥沼のようなゲリラ戦に巻き込まれていました。
1809年、三たびナポレオンにたちむかったオーストリアはヴァグラムの戦いで粉砕され、多くの領土とともに王女マリー・ルイーズをナポレオンに差し出すこととなりました。ジョゼフィーヌと離婚したかい(?)もあり、マリーとの間に待望の世継ぎが誕生しました。思えば、これがナポレオンにとって最後の栄光の日々でした。
ナポレオン敗れたり
1812年6月、大陸封鎖に従わずイギリスとの貿易を再開したロシアを屈服させるため、ナポレオンは全欧州から集めた60万という空前の大軍を率いて国境を越えました。敵主力を撃破し、講和にもちこもうという意図とは裏腹に、ロシア軍は村や畑を焼き払いながらひたすら退却していきました。フランス軍は消耗しつつ、ずるずると奥地へ引きずりこまれていきます。
『戦争と平和』で有名なボロジノでの死闘にかろうじて勝利したナポレオンは、9月ついにモスクワに入城しました。しかし、町はもぬけのからで、しかも翌日から大火が発生しました。講和を期待して無駄に1ヶ月以上滞在したあげく、ついにフランス軍は退却をはじめました。
そこへ、ロシアの「冬将軍」が襲いかかりました。極寒に次々と兵は倒れ、さらにコサック騎兵が追い打ちをかけます。ようやく帰還したとき、あの大軍はすでに消え去り、わずか数千になっていたといわれます。遠征は大失敗に終わりました。
1813年、ついにプロイセンとオーストリアが立ち上がり、諸国民戦争とよばれる解放闘争がはじまりました。連合軍はナポレオンとの直接対決をなるべく避け、部下をたたく戦法に出たため、ナポレオンがいくら奮闘しても戦局全般は急速に悪化していきました。そして10月、ライプチヒの決戦で、18万のナポレオン軍はロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍35万の集中攻撃を受け、3日間の死闘の末、ついに敗走しました。不敗神話はここに崩れたのです。
翌年、戦場がフランス本土に移った時には、もはやナポレオン一人の力ではどうにもなりませんでした。3月にパリが陥落、かつては忠実だった将軍たちの要求によりナポレオンは退位し、地中海の小島エルバ島に流されました。フランスにはブルボン王朝が復活、ルイ18世が国王となりました。
百日天下
しかし、ナポレオンはまだあきらめていませんでした。王政復古が国民に不人気で、ヨーロッパ列強の戦後処理がいっこうにはかどらないのをみた彼は、1815年2月、わずか数百の兵をつれて南フランスに上陸しました。
国王は次々と討伐軍を送りますが、ナポレオンの姿を見るやことごとく「皇帝万歳」を叫んで合流する始末。1ヶ月後、ナポレオンは歓呼の声に迎えられ、ふたたびパリに戻ってきました。ナポレオンは運命に挑戦し、これをねじ伏せたかに見えました。
仰天したヨーロッパ諸国は、ただちに第7回対仏大同盟を結んで四方からフランスへ迫りました。ナポレオンは、まずはベルギー方面のイギリス軍とプロイセン軍を倒すため、北へ向かいました。
6月18日、ユーゴー、スタンダールといった文豪によって世界史上でもっとも有名な戦いとなったワーテルローの戦いが始まりました。名将ウェリントン率いるイギリス軍は堅陣をしき、フランス軍の猛攻をはねかえします。それでも激闘数時間、勝機ありと見たナポレオンは切り札の親衛隊を投入しますが、伏兵にあって撃退されました。まさにこのとき、フランス軍の右翼に、前日に破ったはずのプロイセン軍が襲いかかったのです。運命は最後にナポレオンを見放しました。
2度目の退位をしたナポレオンは、今度は絶対戻ってこれない大西洋の孤島、セントヘレナに流されました。以後は側近に回想を語りつつ過ごし、1821年に死去しました。ナポレオンの亡骸がパリに戻るのは1840年のことです。
ナポレオンの残したもの
15年以上にわたるナポレオン戦争は、ヨーロッパがかつて経験したことのない大戦乱となりました。それまでの戦争は、傭兵によって行われる一地方の争奪にすぎず、一般民衆にはほとんど無関係なものでした。しかし、フランス革命以後の戦争は、愛国心に燃える数十万の「国民軍」が激突し、相手を完全に屈服させるまで続くものとなったのです。したがって、戦争の規模も被害も桁違いとなりました。とくに、ナポレオンによって絶えまない動員と戦闘を要求されたフランスは、のちの人口構成にゆがみを残すほどの人的被害を出したといわれます。
それほどの犠牲をはらった結果はどうだったのでしょう。1814〜15年、戦後処理のためウィーン会議が開かれました。オーストリア外相のメッテルニヒが中心となり、革命以前の状態を正常とする正統主義と、覇権国家の出現を許さない勢力均衡の原則で会議を主導しました。その結果、強国の都合のいいように国境線が引かれ、各地にめばえた自由主義と国民主義の思想は厳しく取り締まられることとなったのです。フランスの国境は革命前とほとんど変わらず、ブルボン朝が復活し亡命貴族が続々と帰還しました。
しかし復古王朝も、ナポレオンが整備した行政・経済制度や法体系の有用性を悟らざるをえず、これらは今日に至るまでのフランス国家の基礎となっています。そして、ナポレオンが全ヨーロッパにまいた革命の思想とナショナリズムの灯もまた、消えることはありませんでした。抑圧にも関わらず、以後数十年間、反抗運動は欧州全土に燃え上がってついにはウィーン体制をうち破り、国民国家を生み出す原動力となったのです。よきにつけ悪しきにつけ、ヨーロッパの歴史にナポレオンが残したものはきわめて大きかった、ということは間違いありません。