呪われた事実
ルクレッツィア。
科学に狂わされた男に汚された女。
科学の解明のそれだけに孕まされた女。
しかし、まだ事は起こってはいない。
恐ろしい事実はまだそこにはないのだ・・。
「ふう・・・。」
化学薬品を慎重にあと片づけすると、ルクレッツィアは疲れたように首を回
した。後ろから気配を感じて、ゆっくり振り返ると、タークスの一員である、ヴ
ィンセントが静かに立っていた。
「あら、ヴィンセント。今日も博士の護衛なんでしょ?」
「ええ、いつも通り・・」
ルクレッツィアがくすっと笑う。
「つまらないお仕事よね。何にも起こらない人に護衛をつけるなんて、うちの
会社って何を考えてるのかよく分からないわ。」
「万が一です。万が一を見越しているのです・・」
ルクレッツィアが解ってるわとでもいうように、おざなりに腕を振ると、思
い立ったように紙切れをヴィンセントに手渡した。
「?」
「博士の所にどうせ行くんでしょ?これ、実験結果だから渡しておいてくれる
??」
「貴方が渡された方が・・?」
気遣うようにヴィンセントがそういったが、ルクレッツィアは笑ってこう言
った。
「いつものつまらないお仕事に味をつけてあげてるの。ホラ、早く行ってらっ
しゃい。」
ルクレッツィアはそう言うと再び実験台に向き直って、新しい実験のセッテ
ィングを始めてしまう。ヴィンセントは少し肩をすくめたが、薄く笑うとルクレ
ッツィアから離れた。
奥の実験室をノックして、ヴィンセントが入る。
ノックなど気休めだ。どうせ宝条には聞こえてはいない。ヴィンセントはい
つもそうしてこの部屋に入る。ノックするのは、いきり立った彼に「ノックはし
たのか?」と言われても応戦できるように、だ。まあ、いきりたった彼を応戦し
ても、火に油を注ぐようなものだが・・。
「宝条博士。助手のルクレッツィアがこの用紙を届けるようにと。」
宝条はうっとうしそうな表情で彼を見上げた。実験中で機嫌が悪いことなど
いつものことだ。思った結果が得られずに、癇癪を起こす様はまるで子供のよう
だった。
「そこに置いておけ・・いや、もって来るんだ。目を通そう・・。」
不機嫌にそう言うと、ヴィンセントがその机に置こうとした紙切れを宝条は
持ってくるように人差し指をくいっと曲げた。
ヴィンセントは言われるままに、宝条に手渡すと、宝条は紙切れを恐ろしい
速さで目を通す。すぐに、むっと顔を歪ませた。が、疲れたように眼鏡を外すと
、一緒に紙切れを机に置く。今日は癇癪を起こすほど機嫌が悪いのではないよう
だった。
「ヴィンセント君・・君はいつからルクレッツィアの助手になったのかな?」
振り返った宝条が皮肉に歪ませた顔で、ヴィンセントにそう聞いた。ヴィン
セントは一瞬うろたえたように目を彷徨わせたが、宝条が楽しそうにその様子を
見ているのに気付いて、挑むようににらみ返す。
「何か誤解をされているようですが?ルクレッツィアに頼まれたものをお渡し
しただけです。」
「そうかね・・どうも護衛というか・・私とあれを近づけないように監視して
いるように感じるのだが・・」
ヴィンセントは理解しかねて、黙って聞いていた。宝条は皮肉にまた笑うと
、ま、いいと言った。
「・・・実験室を変えよう・・ルクレッツィアの部屋でする。」
宝条は誰にともなくそう呟くと、足早に部屋を抜けるためにヴィンセントの
前を通り過ぎた。ヴィンセントは焦ったように宝条を追おうとしたが、宝条はそ
の体におおよそ似合わない力でヴィンセントは振り払う。タークスともあろうヴ
ィンセントの体が突き飛ばされ、したたかに体を壁に打ち付けた。
「君の顔を見ていると、腹が立つ・・・。不思議なほどにね・・何とも説明の
つけがたい感情が私の腹で煮え立つのだよ・・・。」
そういうと、一瞬脳しんとうを起こしかけたヴィンセントに、宝条は素早く
机から注射器を取り出し、腕に何かを注射した。
「う・・・?」
ヴィンセントの体から力が抜けていく。意識が朦朧としてしまい、体は既に
言うことを聞かない・・。
「ルクレッツィアが自分のものになると思っていたのか?愚鈍な生き物め・・
あれは誰にもやらん・・あれは私の「もの」だ・・!」
狂ったように笑う宝条の声が、ヴィンセントの耳に木霊した。しかし、意識
が遠くてなにか耳障りなものが響いているとしか感じられない・・。一体自分は
何を打たれたのか・・。一体何を宝条は考えているのか・・・。
ヴィンセントが目を覚ました時には、もう辺りは暗く闇にとざされていた。
昼間打ち付けた体をさすりながら、体を起こす。注射を打たれたせいか、まだ頭
が朦朧としているが、先程よりは思考が戻っている。
不意に人の気配がして身構えた。慌てて冷たい銃に手をかけたが、引き抜く
前にその正体が分かってほっと胸をなで下ろす。ルクレッツィアだ。
「ルクレッツィア・・・博士はおかしくなかったか?」
ルクレッツィアは答えず、ただ呆然と立ちすくんだままだった。ヴィンセン
トが訝しげにルクレッツィアに近寄って、肩に手を置くと、彼女は過剰なまでに
体を震わせてその手を振り払った。
「・・?ルクレッツィア?」
ヴィンセントは怪訝な表情でルクレッツィアを見つめ返していたが、ルクレ
ッツィアがすぐにその場を走り去った。ヴィンセントはどうしようもなく途方に
暮れた表情で、ルクレッツィアが走り去ったドアを見つめるしかなかった。
ルクレッツィアはヴィンセントの無事な姿を見て、安堵と憎悪に心が入り乱
れていた。ついさっきまで宝条とのおぞましい時間を強いられていたのに、この
心の恋人は呑気にも眠りこけていたようだった。
「助けてって・・助けてって言ったのに・・!!」
自分の部屋に入ると乱暴にドアを閉めて鍵をかけた。ベッドに突っ伏して、
ただ泣くだけ泣いた。
「ヴィンセント君の命はいま私の手の中だ・・・彼が大事かね?彼を助けたい
かね・・?」
宝条の狂ったような目がどこまでもルクレッツィアの体を追い求める。今で
もその舐めるような視線がどこかにあるような気がして、ルクレッツィアは悪寒
に体を震わせた。
「どうして・・?どうしてこんな目に・・」
ルクレッツィアはふがいない恋人と呪われた運命にある種の嫌悪感を感じな
がら、一晩中嗚咽と共に涙を流し続けた。
それから、その呪われた運命は流れ始めたのだ。ルクレッツィアだけではな く、その子供にも・・・。
fin.
Copyright 1998 BY SAE