【鋼の錬金術師】

■大空の先へ[15]

掲載日[2007/03/29]








 地下室に入ってから3日、エドとアルはそれぞれ調査と解析を行っていた。地中空間に施された錬成陣の解析をアルが、爆弾の高エネルギー抽出作業をエドが担当することになった。錬成陣の中でおそらく高エネルギー物質を有機化する変換処理があるのだろうと考え、その変換処理の部分に連動するように爆弾をセットしなければならないからだ。それに、錬成陣は安易に発動できないようにトラップが仕掛けてあった。それを外すことも含めてアルが担当したのである。
 そもそも、アルもエドとは負けず劣らずの錬金術師である。国家錬金術師ではないとはいえ、その実力はほぼ兄と同等で、人体錬成のときに真理―万物の知を知らしめる莫大の情報量―を何故か見た覚えが無いというので、手を合わせて体に錬成陣を内包することができないのでその分発動の瞬発性がエドより劣るくらいだ。(アニメ設定)
 一方、エドは2年分こちらにいた分を考慮して物理化学の知識が必要な爆弾の方を担当をすることにしたのだった。ロケット工学を学ぶ過程上で得た知識を総動員して、爆弾の構造と鍵の関連を調べる必要があったからだ。
 幸いにして、父親のホーエンハイムがここを拠点としていた時期もあったこともあって、奥には錬金術の研究結果をレポートにしたものや、参考になる書物が多少残っていた。しかし、物理や化学に関する書物はなかったので、エドはラング邸で読んだものや、ここ2年間で得た知識を思い起こして作業するしかない。
 食事はエステルが持ってきてくれるので、二人は完全に作業に没頭することができた。エステルは何の文句も言わず、2人をサポートし続けた。今日はサンドイッチとサラダを2人が休んでいる部屋に置いて、作業の邪魔にならないように黙って出て行った。
 二人は常に頭をフル回転しているせいかずっとお腹を空かせていたので、すぐにその食事にありつく。
「僕らってどこの世界に行ってもウィンリィに頭が上がらないね」
 エステルが持ってきてくれた食事を摂りながらアルがそう言ったのに対し、エドは黙っていた。アルが不思議そうにエドの顔を覗き込むと、エドはおもむろに顔を上げてアルに一言言う。
「あいつはウィンリィじゃないぞ」
「判ってるよ。でも、この世界で一番ウィンリィに近い人ってことは間違いないでしょ?」
 アルは必要以上に強情になっているエドを見て、内心肩をそびやかせたい気分だったがなんとか堪えた。
「どんなに近くても、同じじゃない。全く別の人間だ」
 早々に食事を済ませてしまうと、エドはすばやく皿を避けて自分の理論を筆記した紙を取り出す。羽根ペンをインクにつけて早速さらさらと思いついたことを紙に記し始めている。そんなエドの様子を眺めながら、アルは食事を終えた食器を重ねておく。エステルが後で食器を取りに来てくれるので、少しでも手間が減るようにしているのだ。
 そうしてから、アルは自分の作業場である錬成陣の部屋に向かおうとし、足を止めた。
「兄さん」
「なんだよ?」
「戻ったら、ウィンリィにちゃんと言ってね」
 マグカップのコーヒーを口に入れようとしていたエドは、アルの意味深な言葉に喉を詰まらせた。
「げほっげほげほっ・・・な、なにを?」
 座っているエドがアルを見上げるように顔を上げると、エドの顔はもう真っ赤だった。聞き返したものの、何を言うべきかということを悟っているからこそのその表情だ。アルはそんなエドの表情を挑戦的な目をして振り返ると、にこりと微笑んでみせる。
「はっきり言って欲しいの?」
 ぎくりと肩を震わせて、エドは黙って首を振るしかなかった。ぶるぶると頭を振るその姿に兄の威厳の欠片もなく、ただそうすることだけだけが精一杯という風情だ。
「約束だよ、兄さん」
 アルはやはりにっこりと微笑んだまま、錬成陣の部屋の方に行ってしまった。エドは何も言葉を返すこともできずに、ただ背中に流れる汗の冷たさに背筋を震わせるしかない。
 そんなところに、エステルが降りてきた。階段から直結している錬成陣の部屋にいたアルに声をかける。
「食事は終わりました?」
「あ、食器ですよね。ちょっと待っててください」
 アルは優しい声がそう言って、また未だ身じろぎしたまま固まっているエドの部屋に入ってくる。アルはそんなエドを見つけてから重ねた食器を手にすると、エドにもう一度釘挿した。
「兄さん、急に怖気づいて調査放棄とか言うのは無しだからね」
「わ、わかってるっ!」
 自分の怒号でようやく我に返ったエドは猛然と紙に思いつくままの構想を書き出し始めたのだった。
 アルは食器を持って部屋を出ると、はい、とエステルに食器を渡した。エステルは食器を受け取ってから、エドの怒鳴り声が聞こえたのを気にしてそっとアルに聞いてきた。
「お兄さんと喧嘩?」
 アルは言われて笑う。手のひらをちょいちょいと振りながら、やんわりと否定した。
「いえ、ちょっと喝を入れてみたんです」
「喝を?」
 エステルは首を傾げてから、そんな風には聞こえなかったけれど、と独り言ちた。その後、思いついたようにアルに顔を上げる。
「・・・そういえば、ウィンリィさん、私の意識に気づいたみたいですよ」
「本当ですか。わぁ、よかった!」
 アルはひとしきり喜んでから、でも、とエステルの声をかけた。
「でも、そのことはしばらく兄さんには内緒にしててください。喝を入れたのが逆効果になりかねないので」
「逆効果に?」
 エステルはますます首を傾げたくなったが、アルにはなにか考えがあるのだろうと思い、これ以上詮索するのを止めた。
「それじゃ、当面この件に関してはアルフォンスさんに報告すればいいんですね?」
 エステルは食器を持って階段を上る前に、アルにそう確認する。アルは優しく微笑んでから頷いてみせた。
「ええ、お願いします」
 アルに言われてエステルは頷き、階段を一人登っていく。かつんかつんという乾いた石の音がしばらく響いていたが、それも次第に小さくなっていった。
 アルはエステルがいってしまうのを見届けてから、床に書かれた錬成陣の解読を始めたのだった。
 階段を上がるエステルはふと立ち止まってアルのいた『神の間』を振り返った。もうそこの入口付近しか見ることはできない。アルの姿などはとっくに影になってしまっていた。
「牽制されているみたいね」
 頭の回転の早いアルは、ウィンリィと同じ色の魂がエドに近づくのをできるだけ避けたいようだった。それは、万が一にもエドがエステルに、もしくはエステルがエドに靡くのではないかという怖れのためだった。エステルはアルのそんな気持ちをすばやく嗅ぎ取っていた。エステルとウィンリィとの魂のつながりができたのなら尚更、その可能性は色濃くなると思ったのだろう。
「冗談じゃない。あんなつまらない男に私が惹かれるものですか。神を、ホーエンハイム様を殺した奴なんかっ・・・」
 ぶるぶると食器を持つ手が震えて、食器がカタカタと鳴り響く。音が大きくなる前にエステルはなんとか自分を取り戻すと、足早に階段を上がっていく。
 エステルはエドたちが到着してから寝る前にある手紙を読み上げていた。それは違う世界の、もう一人の自分へ宛てるという奇妙な手紙だった。その手紙には、エドとアルが今元の世界の戻ろうと奮闘していること、そして同じ魂であるエステル自身が2人に協力していること、最終的に戻る為にはウィンリィの協力が必要なこと、を簡潔にまとめた手紙だった。
 記憶のどこがウィンリィに渡っていくのかが判らない以上、話をまとめた記憶が必要になるとエステルは考えた。その話をまとめる方法に『手紙を読むこと』が状況を簡潔に示すことができると考えたのだった。ウィンリィに伝わる記憶がこの部分の記憶だけでも認識できれば、ウィンリィは状況を知ることができると思ったのだ。そして、昨日の夜、ウィンリィから返事がきた。ウィンリィからの返事もまた、『手紙の返事』だった。
『エステルさん、ウィンリィです。私も自分の手紙を読んでいます。これやって通じてるのでしょうか?とにかく、状況はわかりました。また動きがあったらこうやって連絡してください。他の断片も少しずつあたしの中に流れてきています。あいつらが元気そうで嬉しい。きっとエドが不躾で失礼なことを言ったりしてると思うけれど、アルはきっと大袈裟なくらい他人行儀だろうけど、あいつらのことお願いします』
 ウィンリィが初めてエステルに話しかけてきた瞬間だった。ずっと記憶の断片で彼女のことを知っていたが、返事をしてきたのは初めてだったのでエステルは一人興奮した。すぐにでも二人のところに報告に行きたいくらいだったが、夜は遅く二人はここのところ調査に没頭していて邪魔になるだろう。いや、しかしあの二人ならばウィンリィの話を聞けば嬉しそうに問い掛けるに違いない。けれどそれはそれで、エステルはちくりと胸が痛むようだった。自分のことではなく、ウィンリィのことだから二人は駆け寄ってくるのだ。それを考えると癪になってエステルは布団にもぐりこんだのだった。
 そんな昨日の自分を思い出してエステルは首を振った。
「私があの子達に協力するのはホーエンハイム様に導かれたからよ。それだけなんだから」

 『始めの人』の伝説が残るこの山の噂を聞きつけてホーエンハイムがやってきたのは1年前だった。この修道院を含めても『始めの人』を崇める宗教的規模はそれほど大きくなく、信者の数としては弱小の教団だった。しかし、『始めの人』、即ち神が存在したことを示す書物や遺物は今でも目にすることができるとあって、熱狂的な信者は多くいた。信者達にとっては、せっかくの現人神に子孫がいないことだけが酷く悔やまれる事実だった。
 そんな修道院に一人の旅人、ホーエンハイムが来訪した。地下の陣を見せて欲しいと言ってきたホーエンハイムを、信者は慌てて追い返そうとした。そもそも滅多に部外者が来ることになれていない教団であったため、ホーエンハイムの説得は困難を極めた。人当たりの良いホーエンハイムに教団はようやく付き人をつけて陣を見ることを許した。そのときに教団がつけた付き人が、何の因果かエステルだったのだ。
 ホーエンハイムはエステルの案内で陣を見ることができた。さすがに雨風を防げるとはいえ、陣を記した曲線はかなり色が変色していた。すぐさま陣の文様を紙に写し取って、その文様が意味するものを解読した。どうやらいくつかの本を持参してきていたらしく、調べると言うよりは確認するといった風情でホーエンハイムはその意味を読み解いたようだった。
「あなたに何がわかるんですか」
 訝しげな表情でホーエンハイムの作業を横から見ていたエステルが、たまりかねたようにそう言った。しかしホーエンハイムは娘の棘の言葉に少しも介した風もなく言葉を返した。
「わかりますよ。私はこれでも錬金術師なんです」
―錬金術?何をバカな。
 いいそうになった口を慌てて閉ざしたエステルである。この世界ではその根拠のないあやしげな奇術は18世紀始めに廃れたものだった。しかし、その陣は一般に言う魔法陣というものではなく、錬成陣だと言ったのはこの男が初めてだったので、エステルは半信半疑に男の作業を監視していたのだった。
 やがて、2時間と経たないうちに男はこの陣で起きたことを分析した。発動はしたものの、この陣は扉を超えることは無理だったのだろう、という結果をホーエンハイムはエステルに報告した。
 陣の解析が終わると、ホーエンハイムは『始めの人』がどうして叡智を与えられたか、どうして『始めの人』がここに現れることになったのかという経緯を信者達に説明した。そしてこの教団の解散を薦めた。これはもちろん、後に来るはずのエドたちのためでもあったが、『扉を超えた人間』の記録が残ることをホーエンハイムは怖れたのだった。後々、それが神と崇めるにとどまらず、向こうの世界の存在を見つけて侵略する人間が現れないとも限らなかったからだ。
「『始めの人』は神ではない。ただ『扉を越える』という禁忌を起こした愚者である」
 ホーエンハイムは『始めの人』をそう説いた。人々はその声を聞き、愕然としてこの修道院を後にした。そうして、信者が徐々に減っていき、1ヶ月と経たない間に修道院は蛻けの殻となった。
 しかし、ホーエンハイムの隣には一人の少女が残っていた。エステルである。
「あなたは、山を降りないので?」
 ホーエンハイムが優しく問い掛けると、エステルはホーエンハイムを見上げベールを被せたままの顔を上げた。ホーエンハイムの表情を見ているのだろう、しばらくそのまま黙していたがやがて言う。
「あなたの信念のお手伝いができるのではないかと」
 ホーエンハイムは顔の見えない少女を見つめて、ふっと笑った。
「助かります。今日ばかりはあなたの神に感謝しますよ」
 それから、ホーエンハイムは修道院の地下室にある陣の調整をし、これから先起こりうる出来事をエステルに話した。
 自分はこれからミュンヘンに戻り、トゥーレという団体に捕まるだろう。そして、ここよりも不完全な陣で扉が開き、私の体はその犠牲に晒されるだろう、と。
「死にに・・・行くのですか。死ぬと判っていてトゥーレに捕まるのですか」
 エステルは信じられない、と言わんばかりに声を震わせてそう言った。エステルの震えを感じながらも、ホーエンハイムはうっすらと微笑みすら浮かべながら答える。
「ええ。私がそうすることで私の願いが叶うようですからね」
 まるで聖母のような微笑みを湛えたホーエンハイムは、きっぱりとそう言う。エステルは切れそうになるほど唇を噛んで自分の意見を言うのを堪えなければならなかった。死して叶う願いに意味はあるのか、と問うことも出来なかった。ホーエンハイムの願いは、おそらく命の有無に係わるような卑小な願いではないのだと、そう思い込もうとした。しかし、真実は違った。
「バカな息子のためにはね、仕方がないのだよ」
 この人の命がその子に食われるというのだ。エステルは一層歯を食いしばって文句を言うのを堪えた。エステルにとって、もはやホーエンハイムは神とも同等の存在になっていた。その神に代わる存在に口答えなどできるはずもなかったのだ。
「私は、あなたの遺産にあなたの子供たちを導けばいいのですね」
 血の味に滲む唇を震わせながら、エステルはそう言った。幸い血に濡れた唇を見られる心配はなかった。エステルはホーエンハイムの前とはいえ、一度もそのベールを外したことは無かった。長い生活の中で習慣として身についてしまったので、今更ベールを外して生活などできないのだった。
 そして、ホーエンハイムは静かに頷くと始めにした表情のまま微笑んでみせた。
「頼むよエステル。私のバカな息子はきっと失礼もするだろう。すまないね」
「いえ。あなたの信念のお手伝いをすると決めていましたから」
 エステルはそう言って頭を垂れた。ホーエンハイムは、エステルの様子に困ったように肩をすくませた。いつもエステルはホーエンハイムを神同然に扱うので、ホーエンハイムはそのたびによしなさい、と声かけていた。そして今日のこの日も例外ではなかった。
「エステル、私は神ではないよ。よしなさい」
 いつもならばエステルは何も言わずに下がっていくのに、全ての指令を聞いたこの日のエステルは顔を上げると震える声で言い放った。
「私にとって真実を教えてくださったあなたは『始めの人』と等しい存在です!せっかく得たあなたを私は失わなければならない試練まで与えられたのです。それならば、せめてあなたが居る間は、お世話ができる間は、あなたを神として崇めさせてくださいませ・・・!」
 必至に涙声で言い募るエステルの心情をホーエンハイムが理解することは難しかった。ホーエンハイムは神などを信じたことも無いし、神に祈ったことなどないのだ。そういう非科学的文化を受け入れることは、錬金術師という体質には些か無理な話だったのである。しかし、目の前のエステルもまた、信仰という名のもとにしか生きる術を知らなかった娘に違いない。文化の違いをお互いに押し付けようとしても平行線を辿るだけである。年長者らしくホーエンハイムはそこで頷くに留めた。
 それからホーエンハイムは山を降りた。そして、修道院に一人残されたエステルは神の子達が到着するのを静かに待ち続けた。
 彼らの到着がすなわち、彼女にとっての『神』の死を知ることになることを十分理解した上で、ただひたすらに日々を過ごしたのである。









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