【鋼の錬金術師】

■大空の先へ[16]

掲載日[2007/03/29]








 それぞれの解析作業をはじめて5日が経過していた。二人がお互いに行き詰まりを感じ、その日の朝食は長めの時間を取って休憩していた。食事はいつも通りエステルが用意してくれたもので、二人はありがたくその食事を平らげたところだった。
「アル。そっちはどんな調子だ〜?」
 エドは目の下に隈を作った状態で間延びした声を上げた。アルも隈こそはできてないものの髪の毛が少し乱れていて顔は青白い。これではちょっとしたマッドサイエンティストである。
「父さんのつけたトラップは外し終えたよ。とりあえず今は変換処理を解析中。兄さんは?」
「あー…やっと使う公式がわかったところだよ。近年ノーベル賞とったっつー有名な公式かと思ったら使えねぇし…なんでこっちかなー…。やっぱこいつ胡散臭くて嫌いだな」
 とんとんっと苛立たしげにペンを紙につくと、その先には公式を発表したらしき人物の名前がある。
「アルベルト・アインシュタイン…この人の公式が図案化したものだったんだね」
 アルが紙を覗き込むとそう言った。エドもうん、と疲れ果てたようにがっくりと首を折る。
「でも、これ使うのって多分発想の転換いるんだよな」
「だって、それこそが科学ってモンでしょ」
 アルは事も無げにそう言う。エドが一瞬鼻を鳴らして不平を漏らした。アルはチンピラみたいだ、と兄の素行の悪さにげんなりする。しかし、顔には出さない。今はつまらない兄弟喧嘩をするほどのエネルギーを持ち合わせてはいないからだ。
「とにかく、僕は物理学については兄さん任せるしかないんだ。頑張ってよ」
「わかってるよ。でも俺も2年勉強しただけだからなぁ…」
 軽くため息をつくエドに、アルは元気付けるように肩を叩く。
「頑張ろうよ。一緒に帰るって約束したでしょ?兄さん」
「…ん、そうだな」
 眠ってないわけではないがちゃんと睡眠が取れないらしいエドは、んーっと両手をのばして背中を伸ばす。首を回し、腕を回すとやるか、と一声上げる。
「僕も作業続けまーす」
 疲れ果ててきてアルもいつもの言葉が崩れて始めている。そろそろお互い目処を立てないと体が壊れるな、とエドは思った。
 ヘラの先にある公式の文様を見る。最初はどこかに嵌める場所があるのかと、おそるおそる爆弾のいろんな場所にヘラを当ててみたが、うまく嵌るような場所は見当たらなかった。ヘラをそのまま鍵のように突っ込んで使うものではなさそうだと思ったエドは、次にヘラについていた文様を調べ始めた。思いつく限りの公式を並べ立てて図案にあわせてみる。ラングが言っていたヒントも、本があればもっと効率よく調べられたのだろうが、今の状況では役に立ちそうも無かった。
 そうやってようやく目当ての公式らしきものを見つけられたのが5日目の今日だというわけだ。
「しっかし、この相対性理論ってあんまり覚えてないんだよな…どうすっかな」
 エドはすっかり行き詰まってインクをつけたままのペンを目的なく紙に滑らせた。インクが意味なく紙に引かれ、みみずのようにのたくたと進む。しかしそんなことをしていても簡単にはいい案は浮かぶものではない。
「あーわからん…」
 エドは気分転換がてら立ち上がってアルの進み具合を見てみることにした。ヘラを手に弄びながらアルが解析中の陣の部屋に入る。
 アルは真剣な表情で陣を書き換えていた。ホーエンハイムの誤動作防止トラップは外せたらしいので、残りは発動したときに有機化変換に爆弾が乗るように爆弾の乗せ場所を決めなければならない。そのために変換処理を一度解析しなければならないのだった。
 ざっと全体を眺め人体錬成の部分とそうでない部分をエドは見つけた。アルもそのことには気づいていて、今アルが丹念に陣を読んでいる場所はエドでも狙うであろうという場所だった。
 そこから目を離して、逆側にはぽっかりと何も描いていない場所があるのを見つける。そちら側に移動してその周りの部分を確かめると、やはり人体錬成処理の中に何も描いていない空間が空いている。人体錬成自体はそこに何も無くても問題ないが、どうもバランスが悪い。
「アル、ちょっと悪ぃ。この穴、何?」
 アルはエドが居たことに今更気づいたようだった。顔を上げて、エドの立つ方向を見ると、ああと額の汗を腕で拭きながら答える。
「それね、ちょっと不自然だよね。後でバランスを取り直そうかと思ってるんだけど、父さんがどうもわざとそこをあけてる節があってさ。まだ触ってないんだ」
「親父が?」
 エドはじぃっと穴の空いたその場所を見つめていると、アルも立ち上がってエドの隣に立つ。
「やっぱり、何か気になる?」
「親父の奴も十分胡散臭い奴だからな」
 相変わらずエドはそんなことを言う。しかし、昔ほど言葉の棘はないようだ、とアルは気づいていた。エドはその空白の場所を見ながら、手にもっていたヘラをくるくると弄んでいる。
「わざと空けてるっていう理由は、その無の空間が必要か、何か書き足す必要があるか、か」
 弄んでいたヘラをぐっと握ってから、エドはそのヘラを自分の目の前に持ってくる。見えるのは、先ほどまでにらめっこしていた図案だ。
「こういうことか…?」
 エドはアルからチョークを借りて、陣を書き足す。エドの手元にあるヘラに記した図案を、錬成陣に書き足していく。しばらくエドが記すためのカッカッという擦れる音が響いていたが、それもたいした時間もなく終わった。
 空間だった場所にヘラにかかれていた図案がぴったりと嵌っていた。
「ハスキソンも同じことを…?」
 アルが驚愕した顔でエドの顔を見る。エドも自分でしたことが信じられないかのように目を見開いていたが、やがてふっと鼻で笑った。
「アル、ハスキソンはこちらに来て失ったものは?」
「え?えーと皮膚?」
 アルは慌てて返事をする。エドは頷いた。自分たちが欲しがっていたものとハスキソンが欲しがっていたものが結局のところ同じだったことに気づいたのだ。
「そうだ。それはいわゆる有機的な何かだよな?ハスキソンは自分の手にある唯一のものでなんとか自分を取り戻したいと考えていたんだろうな。あいつは物理学者だったから相対性理論における何らかの力に可能性があると見た。親父は多分、物理学者じゃなかったからそこが突き止められなかったんだ」
「じゃあ、これで完成?」
 アルは震えるようにいう。エドは感極まったようにぐっとガッツポーズしてみせた。
「そうだ、変換処理と人体錬成をこの陣が担ってくれる。あとは発動させるだけだ…!」
「やったね兄さん!」
 エドとアルがようやく陣を前にしてお互いの手を打ち鳴らした。ぱぁん!と小気味よい音が響き、その音が何度も追いかけてくるように空間に響いた。地下の密閉空間では音が反響してしまうのだった。
「何事ですか?」
 音に驚いたのか、階段からエステルの声が響く。階段からゆったりと降りてきたエステルに、アルがさっそく報告した。
「エステルさん、ようやく陣が完成したんです。それで…」
 エステルはアルに意気込むように言われて、一瞬気後れしたように身を引いたが事情を理解すると静かに頷いた。
「連絡ですね。判りました。すぐにやります。あちらにはなんと伝えればいいんですか?」
 エステルはすぐに奥の部屋から紙とペンを持ってくると、アルの前に持ってきた。しかし、アルはペンをエドに渡す。
「ほら、兄さん。大佐に伝えなきゃいけないこと、書いて!」
「え?あ、ああ…とにかくそっちの錬成陣をもう一度復活してくれ、と」
 エドはわけがわからずアルに急かされるまま伝えなければならないことを紙に記した。アルが横から疑問に思ったことを兄に確認する。
「むこうの陣が完成したときにまた連絡はいるかな?」
「いや、多分連結反応を起こしてこちら側の陣もなんらかの反応を示すはずだから…」
 それを聞いたアルは興奮気味にその紙をエステルに渡す。
「エステルさん、すぐにこれ、お願い!」
「あ?え?あれ?待て、ウィンリィとの連絡は」
 エドは焦ったようにエステルとアルの顔を見比べる。そんなエドを見て、アルが嬉しそうににっこりと笑ってこう言った。
「とっくについてるよ!兄さん言うと作業が鈍ると思って言わなかったんだ!」
「に、鈍るってなんで!っていうか何これ。じゃあこれってすぐにでも発動できんの?」
 アルは先ほどまで悪かった顔色を忘れたかのような血色のいい表情で頷いた。
「大佐に連絡がつき次第にね!きっとすぐだよ!」
 エステルからウィンリィへはうまくいけば瞬時、長く見積もってもおそらく半日だろう。そして、ウィンリィから大佐への連絡手段は電話で取れるはずだ。大佐が錬成陣を復活させれば確かにすぐだろう。
 発動までまだ間があると思っていたエドは完全に動揺した顔をしていた。アルはふふふ、とエドの肩に手をやりながら不敵な笑顔をわざとらしくみせてやった。
「観念しなよ、兄さん。年貢の納め時っていうじゃない」
「アル、てめっ…仕組んだな!」
 わぁわぁと騒ぎながらエドがアルを追いかけようとするが、エドは足元が大事な錬成陣ということを思い出して何とか思いとどまった。ようやくここにいたって、エドが大人らしくなってきた一端を見ることができたと言える。
 エステルはそんな普段通りの二人を見てから息をついた。二人はそんなエステルに気づいてエステルの方に体を向ける。
「どうやらホーエンハイム様の陣ですら、完全でなかったみたいですね。お疲れ様でした。ところで、本当に伝言はこれだけですか?彼女自身へは…」
 エステルがそう尋ねるのも最後まで聞かず、エドが遮るように一言言った。
「自分の口で言う」
 きっぱりとそう言ったエドの横顔が少し照れているのをアルは見逃さなかった。アルはいつもならここで兄を冷やかしてやるのだが、エステルの手前であるし止めておいた。それに、きっぱりと言った兄が頼もしくまた誇らしかった。
「そう言うと思いました」
 こくん、と頷いてエステルはそう言った。エステルは相変わらずベールを被ったままだったが、今もし表情がみられたら一緒に笑ってくれているに違いない、とエドもアルもそう思った。
「あ、そうだ」
 エドはあることを思い出してエステルに声をかける。
「悪いけど、俺たちが発動していなくなったあと、この陣は…」
 エステルはエドが全てを言う前に頷いた。
「ホーエンハイム様よりその件含めてお預かりしています。陣を消す方法も、この建物自体を無くす方法も」
 エドはそれを聞いて息を飲んだ。エステルはその後どうするのだろう、と思ったが、自分たちがどうこうできる問題ではない、と思い、エドは黙って頷いた。
「じゃ、私はすぐにこの手紙を読んできますね。自室の方が落ち着くので私は戻ります」
 エステルはゆっくり踵を返すと、いつもと変わらぬ落ち着いた様子で階段の方に向かっていく。階段に足を上げる直前、一言だけエステルは言った。
「…二人とも、元気で」
 静かで厳かなその声に、兄弟は思わず背筋を伸ばす。タイミングによっては、もうエステルとはこれが最後だと兄弟は気づいたのだった。アルとエドは顔を見合わせてから、エステルに別れの言葉を返した。
「エステルさんも元気で」
「世話になったな」
 アルとエドがそれぞれエステルにそう言うと、エステルは頷き階段を上っていった。エステルの足音がやけに大きく階段を、二人はしばらく見つめていた。
「…いよいよだね、兄さん」
「ああ」
 エステルの足音が聞こえなくなると、エドとアルはとりあえず陣の部屋の隅に備え付けられた椅子に座った。
「兄さんの手と足も取り戻せると良かったんだけど」
 アルがエドの腕と足を見て残念そうにそう言ったが、エドはそんなアルを見てぽんと頭に手をやった。
「俺のは問題のうちにもならないから、アルは気にしなくていいんだよ」
 アルは置かれた光沢のある腕を握り締めながら、うんと頷くが、やはり悔しそうな表情だった。
「でも、僕は…全部一緒に取り戻したかったんだ」
 アルは柔らかな手のひらで兄の手を掴むと、エドの腕を自分の胸の前に降ろした。いくつものつなぎ目がある指をしばらく見つめてから、アルはぐっとその手を握り締める。それに気づいて、エドもアルの手を握り締める。エドの顔には優しい笑顔が浮かんでいる。その顔には、自分の腕のことを気にしてくれるアルに感謝しているような表情だった。
「俺はお前と一緒に帰れることの方が嬉しいよ」
 そういわれて、アルはやっと顔を上げた。エドの表情からは、少しの後悔も読み取れない。すべてやるべきことをやったから、後悔は無い、という毅然とした表情があるだけだった。アルはそんな兄の表情をまた、誇りに思う。
「うん、そうだね」
 アルはやっと納得して、頷いたのだった。









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