【封神演義】

しるべなき世界






 ぷっ。
 太公望は桃の種を吐き出した。ころんと草の間に転がっていく桃の種。その上には枝の上で器用に寝そべった太公望がいた。太公望は次の桃の実を枝からもぎ取ると、その実をおいしそうにほおばった。
 風が鳴る。ざわざわとそよぐ気持ちのよい風が桃の木の間を通り抜けていく。農場の実を無断で取るのは犯罪だが、先日この農家の人には桃の実によく効く薬を与えてやった。農家の人は喜んで、好きなだけ桃の実を食べてくれと言ってくれたので、遠慮なく太公望はいただいているところなのだった。
 ここの農場は日当たりもよく肥沃な土地もあいまって甘い桃の実ばかりだった。太公望は二つ目の種をぷっと吐き出した。みずみずしい桃の甘みが口中を満たして、太公望は満足そうに枝に体を預けなおした。今度は午睡を取るようだ。

 太公望の体が元に戻ってから一週間が経っていた。太公望はまず蘇った自分が仙人界にばれないように大極図を施した。自分の周りに大極図の膜を張り、外界から自分へ宝貝の力が及ばぬようにした。これで元始天尊の千里眼から免れることができるし、普賢のレーダーにも引っかかりはしないだろう。ただし、宝貝が効かないだけで体は可視状態なので、肉眼で見つけられたら終わりである。それくらいのスリルは残してもいいと太公望は思った。ただ、あっさり仙人界に見つかって再びこきつかわれるのはまっぴらだと思っていたのでそれくらいの抵抗をしておきたかったのだ。だいたいからして、今までさんざこき使われたのでいい加減自由の身になりたかったし、また。
 一時でも、平和に満たされた世界を見ていたかった。今のこの世界が長い間太公望がやり遂げた封神計画の成果なのだから。
 しかし、今ある平穏は多分一時しのぎに過ぎないこともまた、太公望は知っていた。人間は他の動物たちが持ち得なかった未来を予測する力も持つ癖に、その力を有効利用しようとはしない。いや、そもそも人というものは争いが好きなのかもしれない。そんなことさえ考えてしまうくらい、太上老君から見せてもらった未来はさんさんたる有様だった。繰り返される歴史はきっと誰も止められない。そもそも、太公望が起こしたことも結局は戦争だったのだから、未来の人々を責める権利はない。
 ただ、標から外れたかったのだ。生かされている、という事実を根こそぎなくしたかったのだ。
 自分たちが自分たちの意思で生きていける世界にしたかったのだ。
 多分、これから起こる戦争も、誰かが引いた標から外れるべく戦う者たちの反乱から始まるのだろう。独裁者というのは時代や場所を問わず常に現れるものだ。

 さわさわとやさしく風が木々を揺らし、子守唄を歌うように太公望を守っていた。気候がいいのでこの当たりの桃の木は青々とした葉が生い茂っていた。その茂みに守られて、太公望は安心して体を休めた。

「ふ・・ふああっ」
 目覚めた太公望が目をこすりながら起き上がる。見上げると満天の星空である。太公望はもう一度欠伸をすると、掛け声を上げて枝から地面に降りた。
「トォっ」
 足に心地よいくらいの衝撃を受けながら、太公望は大地を踏みしめた。変なところで眠ってしまった所為でこわばってしまった体をほぐすようにぐいーっと背伸びをした。肩を鳴らしながらふと近くの幹の付け根に目をやると、白い塊が闇に浮かび上がった。
「むぅ?」
 目を凝らしてみると、そこにはお盆の上に肉まんが4つ並べてあった。どうやら農家の人が太公望の夕食代わりに置いていってくれたものらしい。
「おおっ、丼村屋の肉まんあんまんではないか!」
 太公望はさっそくあんまんを口に放り込んだ。気の利いたことにお盆の隣には瓢箪ひょうたんに入った水まで用意されていた。太公望は肉まんあんまんを食べてしまうと、瓢箪の水をぐびぐびとあおった。満腹になって満足げに息をつくと、丘の向こうに朝歌の灯りが遠く見えた。さすがに大都市ともなると少しくらい離れていてもその繁栄のしるしは隠し切れないのだろう。あの灯りが人々の新たな標になるのだ、と太公望は感慨深くその灯りに目を細めた。
 朝歌の灯りを見ていると、一人、一人とその町に住む人々の顔が浮かんできた。周が制圧してからは長くいることもなく、すぐに蓬莱島への戦いに身を投じた所為か、太公望の中でずいぶんと朝歌が懐かしく感じられた。
「そうだな・・姫発たちに会うのも楽しそうだのう」
 霊獣四不象はいないが、最初の人―伏義―の力を使えば造作もない。見えるところまでならひとっ飛びで着いてしまうだろう。しかし考えながら、太公望ははっとした。
「今周公旦と邑姜がタッグを組んでおるからな・・気をつけていかねばならん」
 太公望はそんなことをぶつぶつと言いながらも、口には笑みを湛えていた。太公望は全身の力を抜くと、ふよっと体を宙に浮かせる。
「1週間ほど世話になるとしようかのーう?」
 言ったが最後、太公望は風に乗って朝歌の灯りを目指して飛び立った。

 桃の木々たちがまるでいってらっしゃいをするように風に揺られていた。



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