平和な日々が続いていた。
アルテナは厳しい冬に入っていたが、凍てつくほどの冷気はヴァルダとアン
ジェラが指揮して張られた魔法陣の結界によって守られていた。人々は寒さに凍えることなく過ごすことは出来たが、蓄えておいた食料と家畜で春まで待たなければならなかった。しかし、それでもアルテナを捨てなかった人々は、今でも女王ヴァルダを崇めマナの復興を待ち望んで過ごしていた。 城内の人々は毎日魔法陣の調査と補修で忙しく立ち回っていた。ヴァルダもその報告を聞いて、現場をまわったり力を貸したりとやはり休みなく動いていた。
こんなに忙しい毎日を送ってはいたが、アルテナに不満をこぼす声はほとん
ど聞かれなかった。アルテナは常にこの寒さと共にあった。そして、これからもそうであろう。そんなことが当たり前になっていた。前にヴァルダが操られていた頃、暖かで豊かな土地を目指すために動こうとしたことがあったが、人々にはもうとうそんな願望はなかった。
アルテナは厳しい寒さと共にある。人々にはそれが当然あるべき姿だったの
だ。
一方アンジェラは、その日調理場で手伝いをしていた。膨らんだお腹は重く
、辛いものがあったが、それを口実に休んではいけないと、アンジェラの乳母レーラが教えてくれた。
デュランがアルテナを出てもう一週間になる。フォルセナの遣いが、デュラ
ンを一度フォルセナに戻るように言ってきたのだ。英雄王の手紙によると、ローレルとの騒ぎもフォルセナの中ではかなり落ち着いてきたと言うことだった。デュランは少し困った顔をしていたが、アンジェラがデュランに戻るように促した。
「英雄王様、多分デュランに謝りたいんじゃない?ほら、あの騒ぎって英雄王
様の親切心が仇をなしたって感じだったから。それに、ウェンディのこととか気
になること沢山あるんでしょ?フォルセナには。いって来たら?」
アンジェラがそう言ってやると、デュランはほっとした表情でアンジェラに
ありがとうというと、「すぐ、帰ってくるから。」と言い残し、アルテナを出ていったのだ。
「子供みたい、不安そうな顔しちゃってさ。」
「デュランかい?」
調理婦のオルフェがおかしそうにそう言った。アンジェラがしまった、と顔
をしかめた。
「つい、声が出ちゃったわ。」
「いいじゃないですか、ここにはこのオルフェしかいませんよ。」
大釜の中に香辛料を加えながら、オルフェは笑いながら言った。アンジェラ
もそうね、と笑う。
「アンジェラ様、油断は禁物ですよ。いつデュランが別の女にとられるか分か
りませんからね。女はいつだって綺麗でか弱く、毅然としてないといけないんです。」
「矛盾してるわ、オルフェ。」
笑いながらアンジェラは抗議した。しかし、オルフェはアンジェラに人差し
指を立ててそっと教えた。
「矛盾こそ、女の武器ですわ。女の矛盾は魅力と神秘に変わります。」
「すごいわ。オルフェ。若い頃はその武器を振りかぶって、何人の男の人を手
に入れたの?」
「王女様、人にとって多くの異性を手に入れるのは最大の夢ではありますが、
その実理想的な夢ではないのです。本当の愛を知るには、真実の恋人がいなければね。」
アンジェラは不思議そうな顔をした。青野菜を切りながら、
「意味が分からないわ。」
とオルフェに言う。オルフェは、最後にちょっと笑うとすぐに分かるようにな
ります、と言った。
調理場の手伝いが終わると、アンジェラはくたくたになって自分の部屋に戻
った。ベッドに少し横になってから、お茶を飲むことにしたその時、ドアがノックされた。
「アンジェラ様、ヴィクターです。よろしいですか?」
「いいわよ。どうぞ。」
ヴィクターがドアを開けてアンジェラの部屋に入ってくる。少し焦ったよう
な顔をしてアンジェラを見るので、アンジェラが少し驚いて聞いてみる。
「なによ?何があったの?」
「いえ、大したことはないかも知れません。アンジェラ様に会いたいという来
客がいらしてるんで、それで。」
「誰・・?名前は聞いてる?」
ヴィクターが少しためらって、それからアンジェラにこう告げた。
「名は伏せて欲しいと言われまして、ただ、・・・月桂樹の女神と伝えろと」
「月桂樹の女神・・・?」
アンジェラはふと不思議そうな顔をしたがすぐに、目を見開いてヴィクター
から目をそらした。
「ローレル・・・!」
「・・・は?」
「ヴィクター、その人の所に案内して。早く。」
アンジェラは薄いローブを肩に掛けると、ヴィクターよりも先に部屋を出る
なりそう言った。ヴィクターは慌ててアンジェラを追うと、こちらです、と案内を始めた。
アンジェラはヴィクターについて行きながら、神妙な面持ちで歩いていた。
ヴィクターはアンジェラに何か聞きたそうに顔色をうかがっていたが、やがてアンジェラの不安そうな顔を見て、聞くべきでないと思ったのだろう、まっすぐ前を見てアンジェラをローレルの所に案内した。
「ここです。ここに、その方をお待たせてあります。」
「ありがとう、ヴィクター。私が全ておもてなしをするから、ヴィクターを始
め全ての召使いをここに入れることを禁じます。いい?」
「はい。分かりました。」
ヴィクターは一礼するとすぐにアンジェラのそばから離れた。アンジェラは
深呼吸をして、ドアをノックしてその部屋に入っていった。
部屋では美しい黄金色の髪を垂らして娘が、ソファーに座って待っていた。
アンジェラが部屋に入っても、何も気付かない様子でじっとしていた。仕方なく、アンジェラはその娘に声をかけた。
「こんにちは、月桂樹の女神様。初めまして。」
その娘はその声でアンジェラが来たのにやっと気付いたようだった。慌てて
立ち上がり、アンジェラに会釈した。
「唐突に申し訳ありません。アルテナのアンジェラ王女。あなたにどうしても
お話ししたいことがありましたので。」
「いいのよ、座って。あなたのこと、私はよく知らないの。お国はどこ?」
アンジェラはお茶の用意をしながら娘に聞いた。娘は座り込むと、再び黙り
込んでじっとしている。アンジェラが目の前に座るのを待っているようだった。
仕方なくアンジェラはポットを火にかけてすぐに娘の前に腰を下ろした。
「お国は?」
「私は草原の王国フォルセナより参りました、ピテア卿三女ローレル・デル・
ピテア。先刻まで黄金の騎士デュランの婚約者でした。」
アンジェラはぎくっとしたようにローレルを見ると、すぐに不思議そうな顔
をして尋ねた。
「先刻まで?」
「ええ、デュラン殿がフォルセナの式典に参加しまして、式典の中で改めてフ
ォルセナ国民に発表しました。そして、英雄王様もピテア卿との婚約は破棄すると申されました。」
アンジェラはなんと言って良いのか分からず、黙ってローレルの話を聞いて
いた。
「私は自分でもほとんど気付かない内にアルテナ行きの定期船に乗り込んでい
ました。私がここに来ると言うことを、誰も知りません。・・・デュラン殿なら分かったかも知れませんが。」
アンジェラは黙って立ち上がると、沸いてきたお湯を確かめに行った。ティ
ーポットにお茶の葉を準備して湯を注ぎ、カップを二つ持ってローレルの前で注ぐ。
「どうして私に会おうと思ったの?私と・・・何を話そうと思ったの?」
素っ気なくアンジェラがそう言うと、ローレルは急にしおらしくなって首を
振った。
「分かりません。でも、あなたの赤ちゃんを見ようと思ったんです。」
ローレルの真意が分かりかねてアンジェラは露骨にいぶかしげな顔をした。
しかし、アンジェラのお腹を見つめるローレルには、その表情にも気付いていないようだった。
「大きな、赤ん坊」
「ええ。本当、重くてかなわなくて。」
アンジェラがふっと息をついて、お腹を撫でながらそう言った。その時。
「本当にデュランとの子供?」
不意に冷たい声がアンジェラの心をとらえた。一瞬何が起こったのか分から
なかった。それほどまでに冷たい、人を見下げたような声がアンジェラの耳を突いた。
「・・そうよ。」
「デュランの子供だって証拠があるの?」
「・・必要ないわ。私たち二人が知っていれば十分よ?」
気丈に切り返したつもりだったが、アンジェラ自身ローレルの言葉は直接心
に響いていた。アンジェラの頭の中で警鐘ががんがん鳴り響く。
(・・・何が言いたいのだろう?この娘は?)
アンジェラが不審な顔でローレルの顔を覗いているのをよそに、落ち着いた
物腰でその娘はカップを口に寄せ一口飲むとテーブルに戻す。その後、ローレルは唐突に狂気じみた笑いをとばした。
アンジェラは吃驚してローレルの様子を見守っていた。そのアンジェラの様
子を見て、ローレルは意地悪そうに笑うと、こういった。
「・・そうよ。アンジェラ。女が子を孕むのに、証拠なんていらないのよねぇ
。ふふふっ。」
いったんローレルはその狂気じみた笑いを抑えると、アンジェラの方に身を
乗り出し秘密事を打ち明けるような小声で話す。
「私も子供を孕んでやろうかしら?」
「デュランはそんな不誠実な事しないわ!」
慌ててアンジェラがそう言い返したが、ローレルはまたもそう言ったアンジ
ェラを笑い飛ばした。
「あら!別にデュランでなくてもいいのよ!子供を作る行為が好きな男なんて
世の中に腐るほどいるんですもの!それをデュランの子という事にしてしまえばいいのよ」
「いやっ!やめて、やめてローレル!」
アンジェラはローレルの話にぞっとして耳をふさいだ。せっかく癒えかけて
いた死の記憶に関する傷が再び広がるようだった。
「デュランは否定するでしょうけど、私のお腹には一夜の情事で出来た既成事
実が宿ってるわ。それをフォルセナの裁判に持ち込んで、陪審員を買収しておけば私の勝ち。先王の后の家系を汚したデュランはその責任をとるべく私の夫となるわ。どう?アンジェラ。あなたはどうする?夫をとられて、あなたは一人。アルテナでは王女かも知れないけど、フォルセナではそんな血族なんて知った事じゃない。だって結局大事なのは自分の国なんだもの。」
勝ち誇ったようにローレルは一気にそうまくし立てると、アンジェラの顔色
をうかがった。アンジェラはそれを肩を震わせながら聞いていた。ローレルならその力も財力もあるだろう。そして、ここまでアンジェラに会いに来たりする程、デュランを好きなローレルならやりかねない作戦だった。
アンジェラは思わず気が触れそうなほどの衝撃を受けていたが、一方でこれ
ほど痛めつけられている精神で魔力の暴走が始まらないのに心底ほっとしていた
。アンジェラは改めてそんな自分に気付くと、王女らしい落ち着きを取り戻してローレルに言い放った。
「ローレル、あなたはそんな酷いことを言うためにここに来たの?」
一瞬、ローレルの肩がびくっと震えた。
「私を苦しめようとしてるの?それともデュランを?」
アンジェラはそこまで言ってローレルを見返した。すると、ローレルは肩を
震わせると、すぐに泣き崩れた。
「私は私はあんな人嫌いだった。デュランなんて野蛮な人と婚約なんて話を聞
いたのは、とても急だった。だから、余計腹が立ってデュランなんて人自分から破談にしてやろうと思っていた。でもあの人の瞳の奥に優しい光が宿っていて、それは決して私に向けられることはなかったけど、それでもあの瞳を向かせたかった。私を見て欲しかった。」
ローレルは嗚咽を洩らしながら、誰にともなく話し始めた。アンジェラはロ
ーレルが話すのを黙って、しかし真剣に聞き入っていた。
「デュランは・・・あなたのことを本当に想っていたわ。私が辛くなるほどに
ね。・・・でも、あの優しい瞳はあなたのおかげで生まれたものだったんでしょうね」
「ローレル。」
「私は本当にデュランを好きになっていた。あなたの所になんか戻らせるつも
りはなかった。でも、デュランはあなたを案じてアルテナにこもってしまった。計算外よ。国を出てしまえば私の家の力なんてたかが知れてる。」
泣きやんで、もとの落ち着いた調子を取り戻すと、ローレルは冷めかけたお
茶を口に含んだ。
「もうあなたからデュランを取り上げる方法なんてないわ。さっきの話だって
私が他の男を受け入れなくちゃ成り立たない話だもの。私は好きな人以外の男と寝るなんて、自分の自尊心が許さないわ。だからね」
ローレルが少し身をかがめて、スカートの中から光るものを素早く取り出し
た。アンジェラはそれが何なのか分からず、ただ全身に走った悪寒だけを頼りに身を引いたが、それだけではこの危険を回避するのには足らなかった。ローレルは握った短剣切っ先をアンジェラの腹にあてがったのだ!
「デュランとあなたの子供なんて私は絶対に許さない。許さないわ!」
アンジェラはローレルが狂ったような瞳でそう言ったのに、驚愕した。
「・・やめて・・やめてお願いローレル・・・!」
アンジェラが思わず身を引こうとして、ローレルが鋭く制した。
「動かないで!刺しどころが悪かったらあなたまで死ぬわ!!私はあなたの命まで取ろうとは思ってないんだから。デュランが・・・デュランが悲しむから」
「この子がいなくなってもデュランは悲しむわ!お願いよローレル、短剣を下
ろして!」
「だめよ!この子だけには死んで貰うのよ!だってアンジェラ!あなたの子だ
もの!」
なんて、恐ろしい憎悪。アンジェラはローレルが必死に紡ぐ言葉を聞いては
いられなかった。全てがデュランを愛するが故、アンジェラを妬むが故。二人に対する裏切りの憎悪が故。言葉を通してローレルの本心がアンジェラの心に直に流れ込んでくる。
分からなくはない、いや、知っているはずの嫉妬と憎悪。アンジェラ自身が
、ローレルから送られた結婚式の招待状を送られてきたときに燃え上がらせたもの、それと同等のものだ。
人の気持ちを理解してしまうと、人は弱くなる。その人から抵抗する力を失
わせてしまう。今のアンジェラがまさにその状態にあった。精神が保てなくなる。魔力の暴走が・・始まる!
「逃げて!・・逃げてローレル!」
アンジェラが急に身体から不思議な光を輝かせ始めたことで、我に返ったロ
ーレルは既に吃驚して床に座り込んでいた。アンジェラは魔力に支配されていく精神を何とか保ってローレルに言い続けた。
「私の身体が魔力の暴発を抑えきれている間に早く逃げて!私はこれを止める
ことは出来ないの。」
「・・アンジェラ?」
「何もかもあなたの思い通りになるわ。私はこれで終わり。だから、デュラン
をどうか・・お願い」
ローレルは足がすくんで動けないのだった。それもそのはず、目の前のアン
ジェラが刻一刻と姿を変えていくのに、ローレルはただ驚くばかりだった。体中から七色の光を発し、髪の毛が天井に届かんばかりに逆立っていく。アンジェラの着ていたドレスも自分が発する熱によってみるみる融けていく。
ごめんね。私の赤ちゃん。ふがいない母親で、本当にごめんね。もし今あな
たを産んであげられるのなら、その為なら私は何だってするのに・・!
アンジェラは魔力の暴発に身を任せながら、一心にわが子を思っていた。そ
して、この窮地を唯一救うことが出来るであろう存在をアンジェラは思い出した
。
ああ!フェアリー!どうか、どうかこの子だけは救ってあげて・・!
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