【聖剣伝説3】

■天使の住む城

作成日[2002/11/17]







 ヴァルダ女王を主とするアルテナ城は、ウィンテッド大陸の北西に聳え立つ。いくつもの細い塔が天に向かって伸びているその城の美しさは、世界の名だたる建築家に言わせると『この世に唯一許された天界の建造物』なのだそうだ。
 実際、城を一度でも見たことがある者ならば、その表現が著しく誇張しているものでないことはよく分かる。
 この国唯一の港町エルランドからアルテナ城を目指して歩く途中、城のいくつかの尖塔が見えるが、その尖塔のシルエットだけでも美しいものである。それが、アルテナ城の目の前まで近づくとどうだろう。遠くから見えた繊細なデザインが幻だったかのように、どっしりと地に根を下ろしたアルテナ城は威圧感さえ感じるほどの荘厳さが感じられる。しかし、その優雅で高貴な印象はまだそこに確かにあるのだ。
 このような建築物を天界のものと言わずしてなんと言おう。
 そして、その天界の建造物には確かにその城に住むのに相応しい天使が住んでいたのだ。

 時は、マナの戦乱の後。アンジェラがアルテナに帰還してそれから、半年も経ったある日のこと。
「アンジェラ様!アンジェラ様!」
 アルテナ城敷地内の庭園で、騒々しく声を張り上げているのは宮廷使用人のヴィクターだった。
 彼は王女アンジェラ専属の世話係でもある。そんなヴィクターに、城内の警備に就いている女魔導師が声をかけた。
「どうしたのヴィクター。まさか・・また、なの?」
 女魔導師はヴィクターに声をかけつつも、彼の事情については大よその予測がついているようだった。
 庭園に咲き乱れる花が、ゆったりと風に揺れている。
「ああ、エリーヌ。姫様を見なかったかい?困ったものだよ。魔法の勉強の時間になると、すぐこれだ」
 ヴィクターは極寒の地であるにもかかわらず、額に浮き出た汗をハンカチで拭きつつそう言った。
 城壁の縁には白い雪が分厚く覆われている。さながら、ケーキのデコレーションのように。魔法王国アルテナの地は年中雪に覆われているのだ。
 しかし、このアルテナ城とその城下町、そして港町エルランドにはその冷気を防ぐよう、包囲の魔法陣が施かれている。おかげで冷気は人々の暮らしにそれほど影響を及ぼしてはいなかった。
 慌てふためくヴィクターを女魔導師のエリーヌは腕を組むと呆れたように見つめた。いや、その瞳には少しの同情も含まれている。エリーヌはそんなに意地悪な人間ではないようだ。
「ここでは見てないわよ。だいたい、こんなに見通しのいいところに姫様がおられるとは思えないわよ。すぐ見つかっちゃうもの」
 エリーヌにそう言われて、ヴィクターは確かにと首を引っ込めた。
「そ、そうだよね・・じゃあ別をあたってみるよ。ありがとう、エリーヌ」
 エリーヌはヴィクターの仕草に笑いつつも、どういたしまして、と返事をした。見つかるといいわね、とエリーヌが声をかけ、ヴィクターはありがとう、と笑った。
 そして、それからヴィクターはもう一度アンジェラの部屋に戻り、アンジェラが戻っていないかを確認したが、やはり部屋には戻ってはいない。そうこうしているうちに、ホセの魔法授業の時間になってしまい、ヴィクターは観念してホセにとぼとぼと報告に行くことにしたのだった。

 さて、当のアンジェラはというと、彼女がよく隠れ家として使っている調理場にいたのだった。
「おいしそう・・ねえ、ちょっと味見させてよ、オルフェ」
 アンジェラは大鍋にぐつぐつと煮詰められているシチューを見つめながら、そう言った。オルフェは三十半ばのベテランの調理婦で、オルフェの夫がこの城の料理長なのである。
 そんなオルフェは優しくだめですよ、とアンジェラを窘めた。
「まだ、これは下ごしらえです。まだまだ香味や薬草が入ってないからたいした味はしやしませんよ」
 オルフェはその横で素晴らしい包丁捌きで、その香草や薬草などを刻んでいる。
 アンジェラはそれが面白そうに見えたのか、オルフェの包丁捌きに見入っていると、オルフェがやってみますか?と唐突にそう言った。
 それを聞いていた同僚のリミアが目を丸くして止めた。
「何を言うのオルフェ!姫様にそんなことさせたら私たちが大目玉を食らうわよ!」
 オルフェは後輩のリミアを見つめ、それからアンジェラを見つめると、飄々とこう言った。
「姫様なら今日ここにはこなかったことになっているのよ?誰がどうやって大目玉を食らわせると言うの?」
 そう、アンジェラは毎度ながらこの調理場を隠れ家として利用していた。アンジェラは調理婦たちに頼みこんで、いつも匿らせてもらっているのだ。もちろん、調理婦たちにはその事を秘密にしてもらうのだ。
 その口の固さは、今のオルフェの言葉からも十分窺える。アンジェラはオルフェの言葉に嬉しそうに微笑みながらも、オルフェの提案には自信なさそうにこう言った。
「無理無理。どうやったってそんな包丁捌き、私には出来ないわよ」
 アンジェラがそう言うのも聞かずに、オルフェは包丁をまな板の上に置くと、エプロンを脱ぎ始める。
「アンジェラ様。最初は誰だってできゃしませんよ。無理かどうかは、まずやって見てから決めることです」
 そう言って、オルフェは脱いでしまったエプロンを手際よくアンジェラに着せてしまった。
 アンジェラはその電光石火の早業に抵抗する術もなく、まな板の真正面に立たされてしまった。
「お・・オルフェ・・」
 リミアもアンジェラも、不安そうにオルフェを見やったが、オルフェは腕を組んでにっこりと微笑むだけでアンジェラを開放してくれそうにはない。
「ゆ、指でも切ってしまわれたら・・」
 まだ調理婦としては若いリミアはおどおどとそうオルフェに言ったが、オルフェは一向に構わないという調子でこう言った。
「指を切りたくないと思うなら、普通は切らないもんよ。リミア」
「でも私は今までに何度か切って・・大変でした」
 リミアはどうしても、姫様に怪我をさせたくないと思いそう言った。アンジェラはそんなリミアを見つめてから、オルフェの答えを聞いた。
 オルフェは大鍋をかき混ぜながらこう言う。
「それは意識の問題でしょ。切りたくないって思う意識が足らなかったのよ。その日は疲れてたり、体調が優れなかったりしなかった?もっとも、私たち調理婦はそれだけ包丁を握る回数が多いわけだから切る回数も多くて当然でしょう?」
 そういうと、オルフェは安心させるようにアンジェラにこう言った。
「アンジェラ様は今回初めてですし、それなら尚更注意深くなるはずです。指を切るなんてことはまずないですよ」
―そうかしら。
 アンジェラは少しオルフェを睨みながらも、おそるおそる包丁を握ってみる。人一倍好奇心旺盛なアンジェラだから、やってみたくなかったわけではない。
 黒々とした鉄包丁はずしりとアンジェラの腕に負担をかけた。
(意外と・・重い)
 アンジェラはオルフェがものすごい速さで野菜を切り刻んでいくのを幾度となく見ている。あんなにも早い包丁捌きをするからには、この獲物はずいぶんと軽いのだろうと思っていたのだ。
「・・重いのね、意外と」
 アンジェラが素朴にそう声に出すと、オルフェは目を丸くした。
「そうですか?そう思ったことは私は一度もありませんが?」
 それはそうだろう。毎日これを握って、野菜を刻んだり、魚を捌いたりしているわけだから、いちいち重いだの思っていては仕事にもならない。
「じゃあ、まずは包丁を洗ってごらんなさい。刃を立てさえしなければ怪我は絶対にしません。刃に向かってなでる。それだけで十分です」
 オルフェはてきぱきとそう指示した。アンジェラは黙って頷くと、地下水をくみ上げている水槽から桶で水を必要なだけ掬いあげ、その桶で静かに包丁を洗った。水は冷たいが、それ以上に刃の温度は冷たく感じる。その気になれば人を傷つけることもできる威力を温度として感じたのかもしれなかった。
 そうして、アンジェラは無事オルフェの言う通りに包丁を洗い終えた。
「どうです。包丁の重さに腕が慣れたでしょう。まだ、重いですか?」
 アンジェラはそういえば、と包丁を握りなおす。
「最初よりはずいぶんと。握り方はこうでいいの?」
 無邪気にも刃をオルフェに向けてそういうので、オルフェが眉をしかめ、リミアが驚いたようにアンジェラから一歩後ずさった。
「アンジェラ様、刃物は人に向けるものではありませんよ」
「あ、あら・・ごめんなさい」
 アンジェラはただ握り方を聞こうとしただけだったのだ。しかし、刃物を持っているという意識が薄れていた。アンジェラは改めて、これは危ないことだ、と認識した。
 おとなしくまな板に向かい、構えてみる。オルフェがいつもやっているように、肘を腰に当て、手首から力を抜いて包丁を握る。なかなか様になっている。
「いい構えですわ。姫様。どうぞ切ってみてください」
 オルフェは頷くとそう言う。
(この方はやる気になればその飲み込みは早いのだ。ただ――――『魔法を覚える』ということになると・・)
 オルフェは残念そうにアンジェラを見つめる。あるいは、哀れむように。
(王家として・・『使えて当たり前』という外界の余計な意識がこの方の能力を萎えさせているのだ・・)
 一方、アンジェラは真剣な眼差しで薬草を一束寄せると、一瞬考える。オルフェやリミアの速度で包丁を切ることには無理がある。しかし、構えまでは『見たものを再現しただけ』なのだ。
 下手に早く切ろうとする腕を、アンジェラは思い止めた。
(私は。今は刃物を持っている。人を怪我す事もできる刃物を持っている。もちろん、自分を傷つける事だって・・たやすい。無駄な傷を与えないようにするためには・・)
『慎重さを忘れてはなりません。』
 ふっと浮かぶ、誰かの言葉。浮かびはしたが、その時点でアンジェラは誰の言葉だか思い浮かばないまま、包丁を一度下ろした。
 あっさりと、包丁が薬草を小さな細切れを作り出す。
 そして、二度目からは少しずつ少しずつ早く包丁が、踊りだす。一束を刻み終えるまでには、アンジェラは包丁を使うこと覚えていた。
「ふぅっ」
 一束を刻み終えると、緊張していた肩から思わず力が抜けた。アンジェラはオルフェに見て、と得意そうに笑う。
「オルフェ、どう?」
 オルフェが傍に寄り、アンジェラの刻んだ薬草を見つめる。リミアが、ほうっと安心して息をついているのを見ると、アンジェラはリミアがずいぶんと心配していたことに気付いて茶目っ気たっぷりにウインクしてみせた。
「初めてにしては上出来です。切れ残しや幅の違いもほとんどありませんから。今度は根菜の皮でも剥きますか?」
 オルフェがそういうと、アンジェラは冗談!とも言いたげに顔を歪めた。
「もう初めて触ったものを操るだけで精一杯よ!もう部屋に戻るからね!」
 半ば逃げるようにアンジェラは調理室を出て行く。その後ろ姿を見て、リミアとオルフェが可笑しそうに笑っていた。

『慎重さを忘れてはなりません』
 誰の言葉かと思えば。
「ホセじゃないの。魔法の授業で何度も聞いてるから耳に残っちゃってるんだわ」
 うんざりとした口調ではあったが、いつものアンジェラよりは少し何かが填まったような顔をしていた。
 合点がいった、というような。
『魔法とは内なる刃。人を怪我すことも、そしてご自分を殺めることすらできてしまいます。そのためには、姫様が慎重さを常に忘れぬことです』
 ホセの言葉を思い浮かべながら、明日はちゃんと授業、聞こうかな、と思ったときに、アンジェラはふと今どこにいるかと立ち止まる。
 考え事をしていたので、自分の部屋とは逆側を歩いてしまっているようだ。
「やだ、ここは・・西塔に向かう渡り廊下だわ」
 西塔に出入りをする人はほとんどいない。もともとは中央塔の西に位置する調理場すら、人の出入りはその調理婦たちと料理長くらいのものだ。だからアンジェラはそこに身を隠すことが得策と考え、その場所を隠れ家として選んだのであり。
 そして、アンジェラ自身、西塔に足を運ぶのは記憶にある限り今日が初めてだ。
 アンジェラの胸に好奇心が、湧く。
「そういえば、別に入ってはいけないと釘刺されたこともないし、立ち入り禁止と札がかかれているわけでもないし」
 きょろきょろと、アンジェラはあたりを見回す。人気はない。
 したがって、アンジェラを咎めたり、止めたりするものはいない。
 たっ、と足が前に出てしまうとあとは早かった。アンジェラは西塔に走って行ってしまったのだ。

――状況を言ってしまえば、この西塔。遠き日の現女王ヴァルダの部屋があったのだ。成人してからヴァルダは中央塔の最上階を自分の床としていたので、アンジェラはそのことを知らなかったのだ。
 ヴァルダにとって忌まわしいとも、最上の喜びとも付かぬ出来事があったため、その事件を知る人々はヴァルダを慮り、また事態を知らなかった人も聞いてはならぬこととして初めに西塔には近づかぬよう教育されていたのだった。
 そして、アンジェラは幸か不幸か、その事を知ることがなかったのだ――。

 しかし、アンジェラには分かってしまった。
 西塔の突き当りの部屋には大きな扉があり、その扉にはアルテナ王家の紋章があしらわれている。美しい女神のような女性が杖を両手で支えている、アルテナ家の紋章。そこは王家しか進むことの出来ない扉。ここが女王の間でない以上、そこは王家のプライベートルームを意味するのだ。
「お母様の・・部屋?」
 扉に手をつけると、ぎぃと音を立てて扉が開く。施錠もされていないのか、とアンジェラは驚いた。いや、扉には王家の紋章と、何かの封印がされているのを見つけ出した。
(王家以外は・・立ち入ることが許されない封印のしるし・・)
 アンジェラは封印のしるしの意味を読み取る。扉にこのしるしが記されている場合は、そこに封印の魔力がかけられていること意味する。実際、アンジェラの部屋にもある程度の封印が仕掛けられている。
 中に入ってしまうと、確かにそこはヴァルダの部屋だった。確信がもてたのは、その部屋にヴァルダの香りを感じたからだ。
「ここは・・一体・・」
 アンジェラは部屋を見回すと、今のアンジェラと同じようなほとんど高さのないベッドに、机とクローゼット、化粧台がある。今のアンジェラの部屋とほとんど変わらない。ただし、その家具たちはやはりアンジェラのものよりも古いことが見て取れる。アンジェラの持っているものよりもデザインが少し古いのだ。
 しかし、その癖。
 この部屋は埃にまみれていない。西塔を来る人はほとんどいないし、扉には封印のしるしがあったのにも関わらず。まるで今の今も使われているかのような雰囲気すらする。
 この部屋は、矛盾している。
 アンジェラはそう思うと、もう一度、あたりを見回す。用心深く、神経を研ぎ澄ませていると、ようやくだが・・なんの証拠もないがアンジェラの中に唐突に答えが湧き出た。
「この部屋は・・時間が止まっているんだわ」
 証拠がなくとも、アンジェラには分かってしまったのだ。
 神経を研ぎ澄ませているとこの部屋が泣いていることに気付かずにいられない。寂しさと、切なさに溢れている。そのあまりの辛さに、時が、前に進まなくなってしまったのだ。この部屋だけ。
 何故・・何故?
 アンジェラはその元を探そうとした。それは好奇心と言うような低次元なものではなく、ただ、この部屋の悲しみを排除したい、母の苦しみを開放してあげたい、という気持ちに変わっていた。
 アンジェラが机やクローゼットを開いていくが手がかりらしきものはない。というよりも、何も入っていないのだ。ここには誰も住んでいませんよ、とでもいうように。
 しかし、それは悲しみの元を分かりやすくするための演出だったのだ。最後に化粧台を最後に開いてみると、小さな短剣とその傍にある手紙を見つけた。たったそれだけが、あったのだ。
(短剣・・?魔法王国であるこのアルテナに・・短剣??)
 アンジェラはそっとその短剣と手紙を取り出したときに、間違いない、と思った。
 悲しみが手を伝わり、体中を駆け巡る。あまりの強烈な思念に、アンジェラは思わずその剣と手紙を手放したくなったほどだ。
「一体・・何があったの・・」
 おそるおそる、アンジェラは手紙を開いた。そこには男らしくでありながらも繊細な文字が綴られていた。

『変わらぬ私の女神へ

元気にしているだろうか。

遠い私の国にも貴女の出産したことは飛び交っている。

そして貴女がその子の父親を強固に隠しているということも。

すまない。私の曖昧な心が貴女をこんなにも不幸にするとは

思いもしなかったのだ。

ただ、今は

私になす術もない私をできれば呪ってくれ

呪いながら、憎みながらでも、どうか生きてくれ

貴女の天使のために、どうか、どうか。

娘に会う事もできない愚かな私のためにも、どうか、どうか。



おこがましいとは思うが、その短剣は我が天使へのプレゼントだ。

どうか受け取って欲しい。』


 アンジェラは・・目を見開いたまま硬直していた。
 目の前に見えるその文章と言葉は、見るまで想像し得なかったものだったのだ。
「ま・・まさか・・そんな」
 ひやりと背筋に冷たいものが走った。
 アンジェラの意識が段々としっかりしてくると、その手紙はがさがさと音を立て始めていた。
 いや、アンジェラの腕が震えているのだ。そんなことにも気付くのに時間がかかってしまっていた。
「お・・とう・・さまの・・手紙・・私の・・」
 慌ててアンジェラは取り出した封筒の表裏を確認したが、差出人の名前は何もない。ただ、その封筒は特殊な封筒で透かし絵が入っている上品なものだった。こんな紙の技術はアルテナにはない。そして、実際にあるのは草木が豊富にある・・草原の国フォルセナのものだ。
 がくりと、膝が折れる。
「短剣に・・透かし絵の紙・・間違いない・・フォルセナの人、だ・・」
 まさか、他国の者の血が流れているとは夢にも思わず、アンジェラはショックのあまり立てなくなった。
(剣士の血も・・流れていたなんて)
 そういえば、と思う。
 旅の途中にホークアイに言われたことがあった。
「アンジェラはスタッフ(杖)使いなのに、いやに切り込むような形で使うんだね」
 杖はもともと殴りつける道具であって切りつける道具はできない。もちろん刃物でないためだが、アンジェラはその杖を横様に振り回すように使っていたのだ。まるで剣を扱うように。
 その時は、そっちの方が敵が早く倒れてくれるでしょ、と適当に答えたが、それでは。
【どうして、その方が効率がいいことを知っていた?】
 血だ。体の中の剣士の血が・・知っていたのだ。
 ぶるっ。
 体が震える。恐ろしさに。この体は一体何を知っていたのだろう。そして私は、一体どうして気付かなかったんだろう。
 しばらくアンジェラは呆然としていたが、やがて、もう一度手紙を読み直した。
『我が天使への・・』
 そして・・確かに私の名前はアンジェラ。天使の名だ。
(これは偶然の一致ではないわ。お母様は、この人にわかるようにアンジェラと名づけ・・そして・・。
 辛さも苦しみもこの部屋に閉じ込めたんだ・・。)
『呪うことも憎むこともできない・・ただ、愛したかっただけなのに』
 声が、部屋の悲鳴が、アンジェラに流れ込む。これが・・この部屋の時を止めた元凶。
 そしてもうひとつが・・この短剣。
 こんな剣を娘に託すことなどできない。草原の国フォルセナとはこんな密約を取り交わしたりするほど密な国交をしているわけではないのだ。それなのに、娘に短剣が送られるとはどういう事態なのかを疑われることが目に見えている。他でもないアンジェラが訝る。しかし・・捨てることもできない。
 その混濁したどうすることもできない思いが、この部屋を取り巻き、そして結果。
 時が、止まるのだ。
「もうそれは・・私が引き受けるわ。お母様」
 意を決して、アンジェラはそう言った。ぎゅっと短剣を握り締め、すっくと立ち上がる。
「だから、もう苦しまないで。いつか・・きっと話してね。お父様のことを」
 アンジェラがそう言うと、部屋が瞬時に歪んだ。ぐにゃりと、変形していく部屋を見つめ、アンジェラは微笑んだ。
(元に戻るんだね。この部屋があるべき姿に)
 アンジェラはそう思って、ようやく歩き出した。部屋を出たときに振り返ると、そこには先ほどまで美しく掃除されていたその部屋は蜘蛛の巣がかかり、埃にまみれたその部屋に変わっていた。異常に清潔感に溢れたその部屋は、あるべき姿ではなかったのだ。
「よし、誰かに掃除を頼まないとね」
 アンジェラはそう言うと、短剣と手紙を持ったまま走り去っていった。

―アルテナ城には天使が住んでいた。
―運命に翻弄されつつも、強く生きる美しい天使が。



■Fin.


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